2013年6月28日 (金)

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
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昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年6月20日 (木)

浜松広報館の零戦と尾崎伸也大尉

Dsc02567
 

航空自衛隊浜松広報館に零戦五二型(43-188号機)が展示されている。

この機体の歴史をさかのぼると、昭和38年、グアム島で発見され
日本へ返還輸送、復元されたものだ。
 
誰が乗っていたのだろうか?
展示機の説明書きにはこれといった記載が無い。
ただ書物によると、尾崎伸也(大尉)の搭乗機と推測される。
尾崎大尉は水上戦闘機出身の零戦搭乗員で
 
昭和19年5月25日、343空は、ビアク作戦発動とともにパラオ(ペリリュー基地)へ進出、
6月6日にはアイライ基地(現在のパラオ国際空港)へ拠点を移した。
 
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、敵戦闘機2機と交戦となり
1機を撃墜、もう一機に追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させたが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
それがこの機体だ。多くの観光客が訪れるが、かつて太平洋の空を席巻し
護国に命を奉げた尾崎大尉をはじめ、大空のサムライに思いを馳せる者は少ない。
 
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▲復元前、グアム島で発見された尾崎機 
 
この際なので
航空自衛隊浜松広報館(エアパーク)について触れておく。浜松は航空自衛隊発足の地で
航空自衛隊浜松広報館は、航空自衛隊に理解を深めてもらうための施設であり
巨大な格納庫には、歴代の多くの機体が展示されている。
飛行機好きにはよだれもののパークだ。
 
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老若男女、入場無料だ。
 
※民主党による2010年度の予算編成で、目の敵にされ、約一年間
入場料をとっていたが、ふたたび無料化が実現した。現在は無料である。
 
エントランス前には、退役した初代ブルーインパルスF-86Fが迎える。
 
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国産ステルス戦闘機の「心神」と政府専用機の椅子。
あまり知られていないが、政府専用機は航空自衛隊直轄の機体である。
 
この写真を友人に見せたところ 
「ふ~ん、なんかあほらしい」とコメントしていた。
でも、訪れる観光客は総理大臣の椅子に座って、みな満足そうな様子である。
確かに座り心地は良い。 
 
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三菱F-2戦闘機のプロトタイプであるXF-2。
 
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三菱F-1戦闘機。
 
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建物の隣は航空自衛隊浜松基地で、広大な滑走路を望む。
戦闘機の離着陸が見られる。なお、3階にある図書膣の資料は膨大で時間を忘れる。
 
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なんといってもここの特徴は、実際の戦闘機のコクピットに座れるという点。
操縦桿を動かしたり、ラダーペダルを踏んだりできる。
F-1やブルーインパルスのT-2などにも搭乗できる。
 
本物の戦闘機に座れるのは日本ではここだけ!
おみやげショップも完備し、飛行機好きなら絶対に損はさせない
すばらしい施設である。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年6月13日 (木)

桜花カタパルト ロケット特攻機という悲しい歴史

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千葉県南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」の
カタパルト跡があります。
 
「カタパルト」というのは打ち上げ発射台のことです。
ロケット特攻機「桜花」はその名の通り、パイロットが搭乗し、
打ち上げられた機体は、
燃料尽きるまで飛び、敵艦に突っ込み、
二度と帰ってきません。
 
画面奥に向けて発射される造りで、完成間際で終戦を迎えた為
実際に使われることはありませんでしたが、本気でこのような
計画があったことがうかがい知れます。
 
発射台から射出された桜花は、ジェット推進により、200kmの
航続距離があり、
房総半島沖の敵機動部隊に肉弾となって
突入、自爆します。

 

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▲桜花の模型を合成し再現してみました。
戦時中は画面奥の木は伐採され、
開けていたのでしょう。
見据える先は太平洋です。
  

当時を記憶する地元の神職の女性(77)にお話を聞くことができました。
終戦間際(8月)突然、大勢の人たちがやってきて工事が始まりました。
カタパルトの直下に神社があり、立ち退きを命じられたということです。
「神様に立ち退きを命じるなんて、もうこの戦争はダメだね」
と当時を回想されていました。

 

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▲カタパルト直下にある神社は立ち退き、現在は小さな祠(ほこら)として
地元の方が綺麗に守っています。
 
カタパルト建設と並行して進められたのが壕を用いた格納庫の建設で、
掘削、発破作業とか
危険な仕事は朝鮮労働者が従事しました。
無理な工事がたたり事故も多く、現場からむしろがかかったご遺体が
運び出されるのを
何度か見てしまったとも仰っていました。
 
土地や財産は全て軍に接収され、土地の境界線に関しては
戦後の混乱もあり
現在でも所有権が有耶無耶のままだそうです。
畑の真ん中に作られたカタパルトもそのままです。

 

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▲コンクリートの土台のみ残っています。
ここにレールが敷設される予定でした。

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▲少し離れた山中にレールも残っています。

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▲横から撮影しました。画面中央、緑の土手の上にカタパルトが
敷設されています。

 

Photo

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▲桜花一一型の模型です。ゼロ戦と同じスケールです。

靖国神社の遊就館の売店で購入できます。


「桜花」四三型とは
このカタパルトで運用される予定だった
「桜花」四三型、乙について記す。
同機は桜花の初期型である一一型(一式陸攻に吊り下げて
敵艦隊の近くまで接近し、発進させるタイプ。実際に使用)
の改良型で、重量は1.15トン。一一型のおよそ二倍。しかし爆薬は
三分の二しか積めず、800キロだった。主翼の面積を
広げてグライダー的要素を強くした。
 
機体は名古屋市の愛知航空機および九州、大分の第十二航空技術廠で
生産され、エンジンは「橘花」と同じ20型ターボジェットを採用した。
 
カタパルトは巡洋艦用「呉式二号」の5倍の長さがあって
ここ南房総のほか、比叡山にも設ける予定があった。
なお、横須賀の武山では発射テストに成功している。
 
第725海軍航空隊は、昭和20年7月に開隊された
桜花部隊である。搭乗員を浦戸、三保空の甲飛14期生で
編成し、5機を1グループとして長野県の野辺山農場にて
まずグライダー訓練を行い、その後、練習機で操縦技術を
養ったが、実戦に至る前に終戦を迎えた。
 
※桜花四三型の出典
『別冊「丸」 太平洋戦争証言シリーズ15 終戦への道程』446頁

 「桜花」パイロット生き残りの証言

当時、桜花のパイロットで、出撃直前に終戦を迎えたため

生き残った鈴木英男さんのお話しはこちらに掲載しました。

2013年5月 2日 (木)

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島
 
先日の硫黄島派遣で19歳の大学生と一緒になりました。
彼が記した硫黄島訪問の回想記に心打たれたので、本人の許可をもらい
ここに掲載させてもらいました。
 
純粋の一言に尽きます。硫黄島から戻り、すぐに記したこともあり
一切の飾り気を排して、素直な気持ちが表れており
さらに付け加えるならば、彼ら戦争を知らない世代はもちろんのこと
各々世代に対し、反戦の大切さ、それは単純なものでない故、
議論の余地を与えてくれている、素晴らしいメッセージだと感じました。
紹介します。次の通りです。 
 
 
『 硫黄島遺骨収集記 19歳大学生の回想 』
 
 
昨日、正確にいえば一昨日は硫黄島で日米合同の追悼式がありましたね。
丁度一ヶ月程前。 2月5〜14日に硫黄島遺骨帰還事業に参加させていただきました
そんな折、遺族の方々が合同追悼式について、なんで親を殺した奴らと笑って
追悼式しなきゃいけないんだって言っていたことを思い出しました。
何年たっても人の気持ちは難しいですよね。 向こうも必死でこっちも必死で生きるために
はたまた愛する家族を守るために殺し合ってたんですよね... 俺には難しいです。
今の平和ボケでは考えられない。

硫黄島には戦争で亡くなられた英霊たちがまだまだたくさんのいらっしゃいます。
彼らは望まずしてこの地に連れてこられ、辛いおもいをし、家族や愛する人に
会いたいという気持ちを胸に亡くなられた。 硫黄島では、今回の隊では壕の中を堀り
そんな英霊たちのご遺骨を探しだして、本土に帰還させるという作業をしました。
壕の中は風の通らないような場所では灼熱で60度以上にもなるところがあったり、
縄梯子で降りないといけない場所があったり、すごい劣悪な環境。こんな中で
少ない水で硬い地盤を堀り壕を作っていたのかと想像すると、考えられないほど
辛かったんだろうと、硫黄島では戦の前に亡くなられた方々が多かったといいますからね。
硫黄島には限られないのですが。

そんな中で作業して、何柱かご遺骨を見つけて持ち帰ることができて、本当によかったです。

今回の隊は特別な隊で、この一年で探し出したご遺骨を本土に持ち帰り、千鳥ヶ淵にて
引き渡し式を行うという役割も含まれていました。 ご遺骨を抱えて輸送機に乗り
入間基地に戻り、そこからバスで移動。 基地の中ではバスの通り道にご遺骨に向けて敬礼する
列ができていました。それを見た時のえもいわれぬ身体のかっーと熱くなる感覚、涙も溢れだして。
その時、彼らの死は無駄ではなかったんだと、意味があったのだと、確信しました。
彼らが死を望んだわけでもありませんが 、いま私たちが平和に暮らしているのは
直接的ではないかもしれないけど彼らのおかげなんだと、自分のたちは彼らの屍の上を
歩いているのだと。 しっかり一歩一歩踏みしめて歩かなければいけないなと。感じました。

遺骨の引き渡し式では、自分も殆どの学生は号泣。
現地の追悼式でははずかしながらないていたのは私くらいでしたが

この時に、戦争を知らない自分達の世代でもこんな気持ちになるんだなって、
戦争は絶対してはならないと言うことを受け継いでいかねばとつよく、つよく感じました。
戦時中硫黄島は米国にとって国民を戦争に向かわせるためのプロパガンダとして利用されました。
これからは硫黄島は反戦へのプロパガンダになって欲しい。して行きたい。

遺族の方々には自分達みたいな学生がきて俺は頑張ったつもりだけれど、煙たがれたかもしれません。
戦争で親族をなくしたわけではない自分達ですからね。
でも英霊のために働けて本当によかった。 考え方がまたかわる10日間でした。

硫黄島に行かせてくださってありがとうございました!

いまでも各地でご遺骨の帰還事業が行われていることを
みなさんにも周知しておいていただきたいです。

最後に、自分は相変わらずダメダメでした。 そんな自分にもよくしてくださって、
硫黄島では楽しくもすごさせていただきました。 いい人ばかりで、、、

硫黄島で出会えたみなさんに本当に感謝してます。

またどこかでお会いしたいです!

本当にありがとうございました! あ、つたない文書ですみませんでした!

2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。

2013年3月11日 (月)

石巻の桜

津波の1ヶ月半後、石巻と東松島へ復興支援の為、赴きました。
ここは石巻市内の小学校です。この場所も津波で冠水しましたが
それでも桜は開花し、綺麗だったので写真を撮りました。
奥に写っているのは陸上自衛隊の軽装甲機動車です。
 
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2013年3月 1日 (金)

硫黄島/蒼穹の旭日旗

硫黄島 硫黄島
硫黄島 硫黄島
 
窓から見えるのはエンジンカウルにマーキングされた

ステンシルくらいで景色は望めない。むき出しの配線や機器類。
私たちは吊り床のような輸送機の席に横並びで座っている。
フラップ作動による油圧音が鳴ると身体 が浮き上がる感覚を覚えた。
高度を下げているのだろう。

吹雪の入間基地を離陸してニ時間四十分、衝撃も感じないままに
輸送機は着陸したようだった。機体が停止するとリヤゲートが縦に開き
差し込 んだ光に目が眩む。

二月の硫黄島は内地の初夏を思わせる風と太陽が実に心地よく
蒼穹に掲げられた旭日旗が映える。輸送機から降りた私たちはエプロンを歩く。
陽炎立ち上る滑走路からの照り返しが眩しく、肌を差す。
半袖の制服を着た航空、海上各自衛隊員の出迎えを受けた。

飛行場からマイクロバスに乗り換えて島内道路を行くと遠くに摺鉢山を 望む。
当初、もっと殺風景なところだと想像していたが、その違いに驚いた。
火山島で半砂漠といえども、背は低いが木々が生い茂り
緑の美しい島という印象だった。

それにしても決して穏やかな雰囲気は無く、隆起し荒々しく切り立った
崖の先は、深々とした群青の海原が広がり、それは生まれて初めて見る
海の色だった。遮るものがない絶海の孤島は見渡す限りの水平線で
遥かに北硫黄島、南硫黄島を望む。

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

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さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

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到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

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ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

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006 - コピー_1
私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

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オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

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横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

マングローブの森_1
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

モクマオウ_1
101 - コピー_1
これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

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133_1
これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

145 - コピー_1
クレーター_1
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 8日 (土)

パラオ国際空港

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パラオ国際空港
パラオ唯一の玄関口であるパラオ国際空港は

かつて日本海軍の飛行基地であった。
 
戦中、パラオには日本海軍の飛行基地が三か所存在し
昭和14年から既に運用中のペリリュー島、ガドブス島の各飛行場と併せて
昭和19年に完成したのがここアイライ飛行場である。
 
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。
 
アイライ飛行場の建設
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊(※1)し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と
海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。

建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間であったが
主に戦闘機の基地として運用された。
 
戦後、アイライ飛行場はアスファルトで舗装され、パラオ国際空港となった。
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
戦死した二名の中学生
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。
 
作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が喜び飛び出していくと
それは米軍機だった。彼らは米軍機の機銃掃射を受け死んだ。

 
気象条件が立地上極めて良好
この飛行場ははパラオ諸島の中でも気象条件が立地上
極めて良好なことから
航空機の発着に適している。
 

※1捕捉 

昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
パラオ、コロール泊地に投錨した。 海軍にとってパラオはトラックに次ぐ
南洋の最重要拠点であり トラック基地を空襲によって無力化された
連合艦隊司令部が ここパラオに後退したのであった。
連合艦隊司令部はコロールの陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の
海軍司令部に置かれた。
 
内地からの輸送船は敵潜水艦の雷撃でことごとく撃沈された為
物資と兵員の輸送を武蔵が担っていたのである。
横須賀からの 航海は大時化に見舞われ、これに伴った駆逐艦は破損。
随行の困難を極めた。 武蔵は嵐にびくともせず、スクリュー四軸のうち一軸
のみを回転させ 駆逐艦の速度に合わせ、最微速力運転を行った。
 
武蔵には甲板上まで物資が搭載されていたため、それらの大半が海へ
流出して しまった。前甲板には爆弾を積んでおり、兵士は嵐の中、危険を
おかして 全て海へ投げ捨てた。それにしても、かつて経験したことのない
波濤にも 動揺せず、速度も落とさず突き進む戦艦武蔵を、不沈艦として
の不動の信頼と 神秘的魅力を与える航海となった。
 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため、
パラオは一時 大騒ぎとなった。
パラオの環礁は浅く狭かった。 外洋に出るには最少幅110メートル、
8.5キロに及ぶ西水道を通らねば ならない。さらには口付近で直角に折れ、
複雑かつ急速な潮流により通行を 困難なものにした。
(武蔵は全長263メートル、幅38.9メートル) 満潮時の他は絶対に
不可能である。その為環礁内に係留したまま訓練も 行われず一ヶ月が過ぎた。
この間、武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船し
飛行場の整備に汗を流したのだった。
  
--------
資料 アイライ飛行場に展開したのは航空兵力は以下の通り。
 
第343海軍航空隊(隼)
第263海軍航空隊(豹)
第723海軍航空隊
第761海軍航空隊(竜)
 
なお、アイライ飛行場近くに湿地帯に撃墜された米軍機の翼が現在でも
突き刺ささったまま残っており、昭和19年の日付で落書きがされている。
「隼ハ強イ~撃墜セシ、憎キ敵ノグラマン」 この「隼」は陸軍の一式戦闘機
ではなく(パラオに陸軍航空機は無かった) 343空初代(通称隼)であると
推測される。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との情報が入る。
福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると大慌てで武蔵以下艦隊を
直ちにパラオ港外へ待避させりことを指示した。
この時点で満潮までは二時間 猶予なく、事態は逼迫を極めていた。
古賀峯一大将指揮する連合艦隊司令部をパラオ島陸上に一旦移し、
武蔵は港外に 待避。空襲が去った後、ふたたび入港し司令部を艦内に戻す
計画であった。 水道からの脱出は細心の注意が払われた。
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで1分40秒かかる。
これが全速航行時ならば 1.4キロも走ってしまう計算になる。
武蔵は港外へと無事待避したが、その日の空襲はなく、待ち受けていた
敵潜水艦の雷撃を受け船首を小破。損傷は軽微で艦の航行に支障をきたす
ものではなかったが、呉に回航して修理する運びとなった。
この三日後の3月30日、31にパラオ大空襲があり
同日夜の海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)が重なる。

2012年8月31日 (金)

敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

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◆敷島隊の五機を整備
 
昭和十九年 十月十八日 フィリピン、ルソン島クラーク飛行場
暁闇の中、中野はたったひとり、五機並んだ零式戦闘機の暖機運転に
取り掛かっていた。彼は零戦のプロペラに手をかけるとゆっくりと回してゆく。
十数回も回せば次第に滑らかになりエナーシャ(スターター)を鳴らして
操縦席に飛び乗ると 右足にエナー車の引き手を繋いだまま、さらに回し
続けながら操縦桿を引いた。
 
「コンタクト!」
 
始動の合図を呼称しスイッチを入れるとエンジンが轟きプロペラが回転した。
これを微速にして油圧の安定を確認すると、隣の飛行機に移る。
次は谷一飛曹の機体である。
 
谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹はサイパンで初めて顔を合わせて以来、
寝起きを共にした搭乗員だ。下級の整備兵だった中野にも親しく接してくれる
優しい人だった。彼の操縦する零戦の後席に乗せてもらった思い出もある。
ここフィリピン戦線でも愛機の整備は中野が担っていた。
 
中野が初めて空襲を経験したのはサイパンに派遣された折でその頃は
恐怖のあまり蛸壺の中で念仏を唱えていたが、それも数を重ねると随分
大胆不敵となった。パラオのペリリュー、フィリピンと転戦し、この頃は
空襲警報が鳴ると「ああ、また敵さんが来たか」といった具合で慣れたもの。
 
「まわせー!」
  
空襲警報が発令されるとエンジンを急ぎ回し、搭乗員へ引き渡すと
蛸壺に飛び込んだ。 「操縦員から地上を見たとき、動くものが目立って特に
狙われる 空襲に遭ったら無闇に逃げてはダメだ。その場で寝てろ。じっとして
いるんだ」 谷の話を思い起こせば、常に冷静に努めることができた。
 
搭乗員達は空中待避ならびに邀撃態勢を取るが、敵の奇襲となれば
飛び上がる 順番など入り乱れて我先に離陸して、殊に経験の浅い搭乗員は
慌てて舞い 上がったところを敵機に撃たれた。一方、老練の兵は滑走路端まで
移動してから離陸しジャングルをかすめてしばらく低空で飛んだ後に
勢いを付けて敵機に襲い掛かる。 度重なる空襲でひどくやられた。
 
今ここクラークに健在なのは虎の子の零戦二十一型、五機であった。
 
「コンタクト!」
 
中野が五機目のエンジンが回すと、東の空が白み始めていた。
レイテの決戦が迫っている。
 
◆突然の帰国命令、谷との別れ

「中野は明朝内地から来る一式陸攻に乗って帰国せよ」
突然の異動命令だった。一切の口外無用、 整備兵として極めて重要な任務が
内地で待っているとだけ告げられた。
 
「明朝、内地から陸攻が迎えに来る。給油を済ませたらすぐに離陸するから
今夜中に帰国の準備をしておくように」
 
突然の別れにあわただしく荷物をまとめていると 谷を含む四人がやってきて
餞別とホマレ(煙草)を差し出した。 命令といえども、ここで戦友と共に最後まで
戦うと、潔く腹をくくったものだが、 まさか死に損ない、一人内地へ引き揚げねば
ならぬ後ろめたさといったら、 悔しさが込み上げた。 翌19日の朝、内地へ戻る
中野を皆が笑顔で見送った。
 
「谷さん、さようなら。ご武運を」
 
陸攻は飛び立った。
日を同じくして、201航空隊本部へ交互するように現れた将官こそ
大西瀧治郎海軍中将であり、この夜、後年の歴史に残る異例の航空作戦が
立案されることとなる。
 
◆三菱で試験機の開発に携わる
 
内地へ戻った中野は明治航空隊の監督官に任命され
日々、三菱から納入される航空機の試験に立ち会った。
 
「谷さんは今頃レイテで敵を撃ち落としているだろうか」
 
11月末にはペリリュー島守備隊が玉砕し、翌3月末には硫黄島が陥落した。
硫黄島を占領した米軍は瞬く間に飛行場を整備し、B-29が護衛のP-51と共に
飛来し本土の無差別爆撃を繰り返すようになった。 日本の戦局は悪化の一途を
辿っていたが それでも中野は三菱から次々納入される機体の試験立ち会う
とともに 新型機の開発に携わっていた。
作業に追われ開戦から四度目の夏が訪れた。
 
◆秋水の整備と飛行試験に立ち会う
 
昭和二十年七月七日
海軍横須賀航空隊追浜飛行場
 
初夏の青い空が滑走路の果てるまで広がっていた。
中野は新型機を木製の台坐とともに格納庫から押し出し滑走路へと移動させた。
褐色の機体が初めて日の光を浴びた瞬間だった。
ロケット戦闘機「秋水」の初飛行試験である。
 
秋水は三菱が独自に開発した日本史上初のロケット戦闘機だった。
実戦配備が成されれば、離陸後3分半で高度1万メートルに達し
B-29に 一撃を加え、燃料の尽きたところで重滑空機となって帰投コースに入る。
 
当初、14時に予定されていた発進はエンジンがかからず再整備のため
遅れていた。 テストパイロットは海軍大尉犬塚豊彦で 滑空機「秋草」での
滑空試験を重ね、それが概ね成功したので いよいよこの日、ロケット
エンジンを搭載しての初飛行となった。 準備された飛行服は
超高高度飛行を考慮し 冬用飛行服の内側や襟に銀狐の毛皮を縫いつけた
特別なもので 犬塚はそれを身にまとったまま整備完了をじっと待っていた。
 
初夏の地上での暑さは想像を絶するものであったが、犬塚から整備の遅れを
責める言葉は一切なかった。周りの者は飛行の翌日延期を進言したが、
かれは これを断り整備完了を待ち続けた。 16時、整備が完了し、
犬塚が全面褐色の秋水戦闘機に乗り込むと 発火を防ぐための放水が
行われ、エンジン始動の準備があわただしく行われた。
 
持田勇吉設計課長が彼の誠意ある対応に感謝し 握手を求めると、
かれは少し微笑みながらその手を握った。
 
「大尉殿、少しでもおかしく感じたら、まっすぐ海へ向かって不時着水して
下さい。沖に待機している船の艇指揮は七十期と七十一期だから心配は
要りません!この機が沈んでも次が用意してありますから大丈夫です」
 
同期の絆は兄弟以上に強い。どんなに無理をしてでも救助してくれるはずだ。
 
◆中野の手から離れ飛び立つ秋水
 
エンジンが始動すると虎の尾と呼ばれる縞模様の排気炎が現れ、
陽炎となって 背景を歪めてゆく。
 
16時55分、機体は滑走を開始した。廣瀬大尉が左翼を、
中野が右翼を支えた、その手からは振動が伝わってくる。
10メートルほど 走ったところで機体は中野の手から離れて行った。
機体はしばらく滑走路を這ったが、220メートルで遂に地面を離れ
車輪が切り離されると、機体は澄み渡った青い空へ吸い込まれていった。
その急上昇の勢いたるや、天地をひっくり返して空へ落下するの勢いであった。
地上で見守っていた者達から一斉に歓声が上がった。
 
試験飛行成功かと思われた瞬間、高度350メートル程のところで
パンパンという異音を発して黒煙を排出するとともにエンジンが停止して
しまった。余力で、なおも150メートル上昇を続けた後、犬塚はエンジンの
再始動を試みたが失敗に終わった。 「少しでもおかしく感じたら、まっすぐ
不時着水して下さい」 離陸前の言葉が思い出されたが、犬塚は海へ
向かわず操縦桿を傾け滑走路への 着陸を試みた。虎の子の機体を
無傷で持ち帰ろうと考えたのである。 燃料の投棄が開始されたが、
これがなかなか進まず高度は徐々に 下がっていった。
 
犬塚は、爆発を懸念し大勢の見学者が居る滑走路への 着陸を避け、
再度旋回、隣接した埋立地への不時着を目指したが、倉庫を 飛び越そうと
機首を上げた瞬間失速し倉庫に接触、鷹取川の水面を反跳
飛行場西端で大破して止まった。
 
◆犬塚大尉の死
 
意識のあった犬塚は救助され、ただちに防空壕内の病室へ運ばれたが
頭蓋低骨折の為、その深夜に息を引き取った。 試験飛行の失敗原因は
本来満載すべき燃料を過小積載した為 急速上昇した際にタンク内の燃料が
傾きエンジンへ供給されず停止したものと 結論付けられた。
 
◆身を隠した戦後
 
秋水の開発は事故後も続けられたが、試験飛行が行われたのは
これ一度きりであった。この他に陸軍仕様のキ-200が千葉県柏飛行場で
試験飛行に備えていたが、飛び立つ機会を待たず終戦となり
残っていた試験機は進駐軍の鹵獲を恐れて直ちに解体された。
 
「中野整曹、貴様は秋水に関わったからじきに進駐軍がやってきて
逮捕される恐れがある。行方不明扱いにしておくから今すぐ逃げろ」
 
中野は先ず部下を故郷へ帰し、自らも行方を暗ませた。
それから空白の50年間を過ごすことになる。
 
◆敷島隊五人との再会
 
戦友会が中野の身元を辿って連絡してきたのは平成となってからのこと。
いま空白の50年間を少しずつではあるが取り戻しつつある。

中野、姓を改め河辺は戦友の誘いで戦地を巡る慰霊の旅をはじめた。
平成17年にフィリピンを訪ねた折である。ダニエル・H・ディソン氏の尽力で
マバラカット飛行場の脇に建てられた折「敷島隊五人の勇士」の碑の
除幕式に立ち会うこととなった。その名に見覚えがあった。
 
「関行男大尉、中野磐雄一飛曹、谷暢夫(のんぷ)一飛曹、 永峰肇飛長、
大黒繁男上飛、初めてカミカゼが飛び立った飛行場」
 
「・・・この零戦五機はわしが整備しとったやつじゃ」
 
このとき河辺は初めてその事実を知った。あの零戦が爆弾を抱えて
母艦に体当たりする運命を秘めていたとは当時、思いもしなかった。
 
10月18日に河辺が整備した機体は直後、マバラカットに派遣された。 19日夜、
大西が立案したとされる特攻作戦は、20日に関大尉を 指揮官とする
神風特別攻撃隊「敷島隊」として結成され、爆装し マバラカットを離陸した。
索敵のミスから会敵せず、またトラブルで 出撃帰還を繰り返したが、
25日に至っては敷島隊の五機、全員が母艦に 突入、散華した。
谷一飛曹はこの敷島隊三番機であった。
 
以下は谷の遺書である。

「何一つ親孝行できなかった私も最初で最後の親孝行をします。
ご両親の長命を切に祈ります」
 
谷 暢夫 享年20。
 
-------------------
ここまで話をしてくれたのは愛知県に在住の
河辺勇さん93歳。(旧姓中野)秋水離陸の際、その右翼を支え見送った
中野上整曹、その人である。今でも谷一飛曹や犬塚大尉など、
パイロットの顔が 忘れられないと言う。私は敷島隊について続けて尋ねた。
 
「戦闘機として整備したのですか」
 
「内地へ帰ってから映画館でニュースを見たんじゃが、間違いなく
あのゼロ戦はわしが整備しとった。関大尉や谷さんがレイテに出撃した
ということだけは知っとったんじゃが、まさか爆弾を抱えとることまでは・・・
それは戦後知ったんじゃ」
 
河辺氏は玄関まで見送ってくれた。一番よく目立つところに敷島隊の五人と
三菱重工により復元された秋水の写真がかけてある。
 
「こう、零戦で谷さんの後ろに座っとってな・・・わたしは空を見とった」
 
私は丁重に礼を述べてその場を辞した。 玄関を出た住宅街の路地では
子供たちが元気に駆け回っている。 見上げると関大尉や谷さん、
犬塚大尉が飛んでいたあの日と同じ どこまでも続く青い夏の空だった。
 
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2011年8月19日 (金)

牛久大仏 高さは自由の女神のおよそ3倍

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牛久の大仏様です。高さはなんと、自由の女神のおよそ3倍です。

意外とご存知の方が少ないので、紹介します。

 

中東や中国、アメリカの超高層建築と決定的に違うのは

地震が多発するわが日本でこれだけの高層建築を建てるには

比類なき高度技術が要るという点に尽きます。これは素晴らしいことです。

 

大仏様の胸の辺りは展望室になっています。

 

仏具やお土産ショップもあります。

 

その他、うんちくは詳しくは公式サイトなどに掲載されていますので、割愛しますが

茨城が世界に誇る、素晴らしい大仏様です。

 

画像ではいまいち迫力が伝わらないので、ぜひ実物を拝んでください。

驚きます。

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

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干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

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シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年3月18日 (金)

計り知れない悲しみ-遺族との交流を経て

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先日の講演会では私が撮影した戦跡やジャングルの写真をスクリーンで 
ご覧いただいたのですが、終わりますと、ご遺族の方が駆け寄ってきて

「父が玉砕しているんです。そのシャングルの写真を一枚くださいませんか」

と涙を流していました。わたしももらい泣きしそうになるのを堪えました。
しかし肉親を亡くされた方の悲しみは計り知れません。
ガダルカナルに次いで、パラオでも4800人もの兵隊さんが戦わずして
餓死しています。 その事実も講演の中で伝えましたら、ショックだった
のでしょう。

「わたしの父はそんな苦しい思いをしていたのか?勇敢に戦って死んだと
聞かされていたのに」 とも尋ねられました。

資料を探りましたら、確かにその方の場合、戦死でしたが
これからそういった事例は数多く出てくると思います。
こればかりは事実を伝えねばなりませんし、辛いところです。

そのほかに、フィリピンで従軍看護婦をしていた方から
捕虜となる前に青酸カリを配ったというお話を聞きました。

2011年2月18日 (金)

大戦末期、ドイツから日本を目指した潜水艦~カエサル作戦

この調査により、現場の海域で基準値を大きく上回る水銀汚染が確認され
深刻な問題となっている。付近の海域は漁が禁止され、現在でも解決に至っていない。

1944年 12月5日

一隻の潜水艦がキール軍港を隠密裏に出航した。
ナチスドイツの潜水艦、Uボート「U-864」である。

これはカエサル作戦と称され、ドイツが開発した最新鋭の
ジェットエンジン(メッサーシュミット)と
それらを学んだ日独双方の科学者、技師を
日本へ送り届ける任務であったと一般にい云われている。

アメリカによる連日の戦略爆撃に苦しむ日本にとって、ジェットエンジンを搭載した
新型の迎撃戦闘機の開発が急務であった。

しかしこの頃、ドイツは戦況悪化を重ね、ソ連軍はベルリン目前に迫っていた。
群狼戦術で恐れられたUボートも多くが沈められ勢いを失っていた。ドイツ海軍にとって
最後に残されたのが北海を抜けるルートであった。

グレートブリテン島(イギリス)北端をまわり、
その後南下、アフリカ大陸の最南端、喜望峰沖を経て、日本統治下のペナン(現在のマレーシア)
を目指す計画で、用いられたUボート「U-864」は全長90メートル、速力20ノット
乗員72名の命を預かる艦長はラルフ=ライマー・ボルフラム少佐だった。

日中は深く潜航し、しばらくは順調な航行を続けた。

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艦体は大きな衝撃に見舞われる。座礁によるものであった。
幸いにも、復帰したU-864であったが、この一件により予定外の修理を迫られ
ノルウェーのベルゲン(Bergen)基地に寄港。同基地はドイツ海軍最後の要衝
であり、鉄筋コンクリートで囲まれた防空ドック「ブンカー」を備えていた。

これに身を寄せたU-864に対し、僅か数時間後、上空に英軍機が襲来。
爆撃を受ける。ブンカーの恩恵より甚大な被害こそ間逃れたものの、足止めを
一層長引かせた。しかしこの間、乗員は上陸を許され休息を得ることができた。
多くの者は、家族や恋人に充てて手紙を書き記したが、これが生きて地を踏む最後の機会となった。

全て筒抜けだったのだ。早々に暗号解読に成功したイギリスは
積荷の内容から目的地、乗り込んだ日独の科学者の氏名、カエサルという
作戦名までも掌握していた。

その情報をフェイエ島(Fedje Is)付近を哨戒中の「ヴェンチャラー」に転送する。

ヴェンチャラーはシェトランド諸島(Shetland s)ラーウィック(Lerwick)基地所属の
イギリス海軍潜水艦で、北海、北大西洋で13隻撃沈のスコアを誇り
25歳の艦長、ジミー・ラウンダーズ大尉が指揮していた。

2/6
ベルゲンを出港したU-864は、ヴェンチャラーの敷いた哨戒網の中へ突入する。
しかし、広大な海原で、潜水艦を探索することは相当に困難であり、
U-864はこれを突破。無事外洋へ出ると、喜望峰へ向け進路を取った。

2/8
U-864を深刻なトラブルが襲った。右舷機関(エンジン)の故障である。
これによりボルフラムはベルゲンへ引き返すことを決断する。

2/9
哨戒網の中に戻るU-864。先に気付いたのは待ち構えていたヴェンチャラーであった。
U-864の放つ僅かなスクリュー音を聴音員は見逃さなかった。ソナーを打てば確実に敵の位置を
知ることが可能だが、それは自らを曝け出す愚考でもあった。

12時12分
ラウンダーズは敵がジグザグに航行していることを知り、進路を予測、
4本すべての魚雷発射管を開くと、雷撃を命じた。
当時、潜航中の潜水艦同士で水雷戦を行った例は皆無であり、一線を画した
未来の戦法であったと言える。

接近してくる魚雷にようやく気付くいたU-864は
必死の回避を試みた。急速潜航し面舵切ったが、等間隔で放射状に放たれた魚雷が接近する。

ヴェンチャラーは4本の雷撃を終えると同時に、それらを見届けることなく深く潜航した。
今度は自らが攻撃される側となるからである。同艦の魚雷発射管は4本。
それに対しUボートは6本で一度回避されると一気に形勢が逆転する。

12時14分30秒、ヴェンチャラーの聴音員がヘッドフォンを通して水中での破壊音を確認した。
それはマッチ箱を握り潰したような音で、4本目の魚雷が命中したものと推定される。

2007年
ノルウェーの無人海底調査船により沈没したU-864の艦体が確認された。
艦体の近辺海底には水銀が入った容器が散乱しており、その数は1857個、合計60トンに及んだ。
いずれも腐食が進み、水銀が漏れ出している。水銀は、当時の産業、すなわち兵器製造に欠かせない
原料であったことから潜水艦に積載されたものと推定される。

はるか極東を目指した潜水艦U-864は、現代にも及んで重責を残しつつ海底に眠り続けている。

北海

2009年2月 5日 (木)

東京オートサロン2014

東京オートサロン コンパニオン1

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東京オートサロン アウディコンパニオン

東京オートサロン アウディキャンギャル

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東京オートサロン コンパニオン4

東京オートサロン コンパニオン5

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▲アウディ / AUDI JAPAN

東京オートサロン コンパニオン6

▲エイベックス/avex
  

東京オートサロン コンパニオン11

東京オートサロン コンパニオン10

東京オートサロン コンパニオン8

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▲ATR
   

東京オートサロン コンパニオン12

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Photo_6

東京オートサロン コンパニオン13

東京オートサロン

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東京オートサロン コンパニオン17

東京オートサロン コンパニオン18

東京オートサロン コンパニオン19

▲カロッツェリア / Carrozzeria
 

東京オートサロン コンパニオン20

東京オートサロン コンパニオン

東京オートサロン コンパニオン22 データーシステム 
▲データーシステム / Data system
  

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▲デンソー / DENSO ▲ファルケン / FALKEN
  

東京オートサロン コンパニオン アームズ

▲アームズ / Arms
  

東京オートサロン コンパニオン フレックス

東京オートサロン コンパニオン フレックス
▲フレックス / FLEX
 

東京オートサロン コンパニオン HIFLY 
▲HIFLY
 

東京オートサロン EXEDYのコンパニオン

東京オートサロン EXEDYのコンパニオン

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東京オートサロン EXEDYのコンパニオン

東京オートサロン EXEDYのコンパニオン

東京オートサロン EXEDYのコンパニオン

東京オートサロン EXEDYのコンパニオン 
▲EXEDY
 

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▲HASEPRO.INC ▲スズキ / SUZUKI
 

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▲innovative
 

東京オートサロン 水着露出のコンパニオン

東京オートサロン 水着露出のコンパニオン

東京オートサロン 水着露出のコンパニオン 
▲VLENE x JETSTROKE

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▲kanatechs
  

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▲kumho
 

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▲Liverty walk
 

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東京オートサロン ロータスのコンパニオン 
▲ロータス / Lotus Japan
 

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東京オートサロン 三菱のコンパニオン

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▲三菱 / MITSUBISHI
  

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▲プロジェクトミュー / project-μ
 

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Photo_19 
▲エムズスピード / M'z SPEED
  

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▲レイブリック / RAYBRIG
 

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▲ROWEN
  

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▲S.P.F.WRAPPING
 

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▲SUW
  

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▲トップシークレット / TOPSECRET ▲トヨタ / TOYOTA
 

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▲Valentix
 

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東京オートサロン 水着露出のコンパニオン

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▲VLENE x JETSTROKE
 

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▲YOKOMO
  

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▲ZEETEX
  

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▲ゼロスポーツ / ZERO SPORTS
  

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▲ガレージ伊藤 / GARAGE ITO
  

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▲はろーすぺしゃる / HELLO SPECIAL
  

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▲(有)エンドレス / ENDLESS
  

東京オートサロン2015でした。ポートレートって難しいのですが
楽しいです。会場は青やら赤やら様々な照明が乱反射して
カメラの設定が難しいです。肌の色やコスチュームの魅力を綺麗に
撮影するのは至難の業です。でも、一番大変なのが
長時間ポーズしていなけらばならないコンパニオンやキャンギャルの
皆様です。プロ根性です。本当にお疲れ様です。
 
出展料は一番小さい規模で40万だったでしょうか。
今年もお疲れ様でした!
 

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2008年4月 9日 (水)

女子高生の彼女

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20代でM社製のスポーツセダン乗りの友人が居るのですが
三ヶ月前から17歳の女子高生と付き合ってます。
どうやって知り合ったの?と尋ねたら
ミクシイだか将棋ゲームだかのSNSだそうです。
 
 
そんな話を共通の知人である女性(20代元女子高生)に話したら
「あ~、そういう子、当時私の周りにもいましたよ」
だそうで、よくある話らしい。なんでもクルマ持ちの大人の彼氏がいて
下校時に校門の辺りで待っててもらうのが
 
ステイタスなんですって。
 
彼女たちにうけるクルマは派手すぎず、かといってダサ過ぎず
チョイスが難しく
もちろんオタクの乗り物スポーツカーはダメだし(ノーマルも不可)
オヤジっぽいセダンもダメ、コンパクトはダサすぎるし
じゃあ、なにがいいのかって言うと
ノーマル風で、ちょっとお洒落な、やや高級クラスのスポーツセダン辺りが
一番良いそうです。ボディカラーも然り。
 
 
確かに!彼の車は丁度良いスポーツセダンで
見た目も悪くないし、助手席の乗り心地は快適。
 
彼女がかなり年下なので、わがまま連発で
ずいぶん手を焼いているようですが
(さらに車にダメだしされまくりで)でも、まあ
win-winの関係という訳で、よかったんじゃないでしょうか。
あ、恋人なんだから当然か。
 
 
でもデートする場所がかなり限られるらしい。

2000年5月15日 (月)

コンセプトRAとランエボ最終型

ランエボ最終型

ディーラーからこんな葉書が来た!
ランエボもついに生産終了か!面白い車がどんどん姿を消してゆく!
 
採算の取れない遊び車を廃止して売れ筋だけを手堅く生産するのだろうか。
しかし、待てよ・・・三菱で販売好調な車種とはなんだろう。
 

コンセプトRA 
そういえばコンセプトRAはどうなった!
エクリプスorGTOの後継車と期待していたのだが!
 
エクリプス最終型
 
日本で売ってくれなかったエクリプス最終型も北米ではバンバン走っていて
当時はフラッグシップ!いい車だった!
 
頑張れ三菱!
 

Dikiiy / Shutterstock.com

1999年5月30日 (日)

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1999年1月10日 (日)

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