ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。
このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。
現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。
私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。
オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています
横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。
手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。
これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。
これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。
以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。
昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)
一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃
(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜
(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破
第263海軍航空隊未帰還者名はこちら
お久しぶりです。ガドブス島の貴重な写真等、興味深く拝見いたしました。
元263空搭乗員の笠井智一さんに以前お話を伺った際、ペリリューから歩いてガドブスに渡ったときに水が澄んでいて下が良く見え、海蛇が何匹も見えたと仰っていました。
投稿: 零戦の会 井上 | 2014年1月15日 (水) 13:05
私の父・安東栄は玉砕の島ガドブスの生き残りの兵士でした。1998年79歳で天に召されました。死の一月前に孫たちのために戦争体験記を記してくれました。現在のNTTの通信士であった父は終戦一年半前の昭和19年5月16日に召集され、6月2日に下関を18隻の輸送船、2隻の駆逐艦と共に台湾キールン港に向けて出港、既に制海権を失っていた東シナ海で無事に台湾の港に着いたのは2隻だけでした。他の16隻の輸送船は兵員もろともに海の藻屑となりました。駆逐艦で更に南進し、7月2日パラオ諸島コロールに上陸した。所属した前原中隊は最前線のガドブス島空軍基地に配属された。
既に、戦闘機は破壊され、連日戦闘機による機銃掃射と島を取り巻く戦艦からの艦砲射撃に晒された。武器・弾薬も食料も尽きた配属兵たちは米軍の上陸に一命を捨てる覚悟でいた。父はこの時、激しいマラリヤに侵され、付き添いの衛生兵と共にコロール島の野戦病院に移動させられ死線をさまよった。この時、米海軍の総攻撃が決行され、ガドブス守備隊には玉砕が命じられた。ガドブス島で生き残ったのは父と衛生兵の前田伍長の二人だけであった。それは、島伝いに逃れた僅かな生存兵は、玉砕命令に反した戦線逃亡兵とみなされ、手榴弾を手にガドブスに送り帰されたため、と手記に記している。戦争の悲惨さ、悲しみを味わった父は死の直前まで、あえて思い出を記そうとはしなかった。「玉砕で 散りし命の 幾千を 身の負い歩み 父、今安らう」 2011年5月
投稿: 安東 優 | 2017年2月 4日 (土) 11:12