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2014年2月14日 (金)

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コメント

実家が床屋でして、お歳を召したお客様がよく来て頂いてました。
東シナ海を哨戒飛行して、30キロ爆弾をよく落としたんや。
そんな話をよくして頂きました。

前から、篠原さんのブログ拝見したいと思っていました!ステキなページですね。パラオについて、以前聞かせていただいた内容しか知識がありませんが、またこちらをよく拝見させて頂きたいと思いました。いつもありがとうございます。

永遠の0をきっかけに、尊い命を捧げ散って逝かれた方々の思いを知りたくて。あちこちのサイトを訪問して、こちらにたどり着いたのは数か月前。それ以来、時々記事を拝見致しております。
どこにもコメントを残してはおりませんが、どの記事も泪なくして読むことあたわず。
戦争を体験した方が年々天に召されて少なくなってきていることを、本当に心配しています。
英霊の親族も老いて、または亡くなられ、かつて国に殉じた大叔父などがいたことを残されたものは忘れようとしています。胸が切なくなります。
私たちの先輩がどんな思いで戦い逝ったのか、こちらのブログではたくさんの映像や資料とともに戦争を知らない私たちに教えてくれます。
本当に感謝、感謝です。

アガタ様
コメントありがとうございます。
映画『永遠の0』は若い世代に訴えかけるきっかけとして良い映画でした。
残念なことに戦争は遠い過去のものとなり、忘れ去られようとしています。
コンビニやファストフードで好きなとき腹いっぱい食える時代となりました。
豊かになったことは良いのですが、亡くなった兵隊さんへの感謝の気持ちを
忘れてはならないと思い、このブログを書きはじめました。
もっともっと若い世代に伝えなければと考えています。

数回コメントをさせていただきましたが、篠原さんの活動には頭が下がる思いです。
亡くなった祖父が、中国戦線に出征していて、上海上陸作戦の後被弾して内地に帰されて命拾いをしたという話を何度か聞かされたこともあり、子供の頃から大東亜戦争、第二次世界大戦に興味がありました。
関連する書物も多数読んでいますが、最近になって、今まで「常識」とされていた事が、少しづつ覆ってきているように思えます。
自虐的教育を受けさせられてきた今の日本人に、当時を知る人たちが最後のメッセージを残しつつあるからではないかと思います。

独身の頃グアムに3回行きましたが、戦跡は一つも訪れていませんでした。
その頃に、「ここで戦争があった」くらいの知識しか無かったのが悔やまれます。
現在は嫁にも大東亜戦争の解釈について説明し、母親の目線で戦争がどんなものだったのか少しずつ理解しようとしています。

戦史資料館などには「子育てが終わったら是非行きたい」と言っております。

思いつきで書いたのでまとまりのない文章になりましたが、その時が来るまでにもっと勉強しておきたいと思います。

このサイトも大いに参考に致しますので、更新を楽しみにしています。

フランカー様

私などまだまだ勉強中ですが
嬉しいお言葉ありがとうございます。

ぜひパラオへおいでください。これからも日本の誇りを大切にしつつも
良いこと悪いこと事実を選んで
慎重に記事を書いていきたいと思います。

はじめまして。
戦時中の祖父のことを調べていて、こちらのホームページに
たどり着きました。

私の祖父は、パラオで終戦を迎えました。
すでに他界をしているので、軍歴証明を手にコツコツと調べています。
篠原さまの本やホームページを参考にさせて頂こうと思います。
まだ、調べはじめたばかりですが…

祖父はきっと天国で、こちらのホームページや篠原さんの活動を
喜んでいると思います。ありがとうございます。

はじめまして、ちょくちょく覗かせていただいております。歳が近い方が精力的に活躍されている御様子に尊敬の念を禁じえません。

大学生まで日本の過去に全く興味なく過ごした後、興味本位で陸上自衛隊に入隊し四年ほどいたのですが、配属された先が離島防衛の最前線に位置する離島対処の部隊で、それがキッカケとなり過去に関する書籍を読みふけるようになりました。

 戦争とは、戦うということは、国を守るということは、どういう事なのか。死とは・・・そういった個人的なメンタルの部分から始まり、在職中に一部民間人やマスコミがイラク派遣に絡み、派遣の決まった我が駐屯地や部隊、その家族への不快極まりない取材や抗議活動を直接目にし、戦前・戦後の社会や政治に強く興味を持つに至りました。

 今現在は志願制である国防ではありますが戦前は明確な国民の義務であり、全体で見れば職業軍人は一部で、ほとんどがその義務のもと、動員された兵士であったのは紛れも無い事実だと思います。

 戦争の責任が日本国民にあるのであれば義務に殉じ、斃れた方々へ対して国家・国民は何かしら報いる義務が当然あって然るべきだと私は考えます。当時、名があった幾百万もの兵士たちは今では無名戦士として埋もれ消えいく悲しい現実。その中にあっての篠原さんの活動には本当に頭が下がる思いです。陰ながら応援しております。

初めてコメントさせて頂きます。
私は篠原様と親子ほど歳が離れた主婦です。
父も海軍におり、長崎で被爆しました。
戦記というか歴史に関は関心はありましたが、子育てや何やらで本格的に歴史(史実)を勉強しだしたのは60を過ぎてからです。
史実を学ぶうちに今の日本そして世界が見えて来ました。
言いたいことは山ほどあるのですが、今は祖国日本をかけがえのない命に代え護ってくださった英霊の皆様にただただ感謝です。

戦記、どの記事を拝見しても涙を禁じ得ません。
篠原様のお写真を通してその場所で過酷な戦いをされ散華された将兵の皆様の無念さが胸に迫り、コメントを書いている今も涙です。

英霊の皆様は日本人としての誇り、気概を持って日本国を護る、その一念で戦われました。
そういう意味において英霊の皆様は悔いはないと思っておいででしょう。
しかし、その護ってきた今の日本の現状を見た時、英霊の皆様の無念さ、察して余りあるものがあります。
そういう意味で無念という言葉を使わせていただきました。

そんな中、篠原様のようなお若い方が純粋に英霊の皆様の御供養の旅をされておられるのには本当に頭が下がります。
英霊の皆様も、きっと心から感謝されていることでしょう。

また、先の記事「2013年6月30日、後藤丑雄少佐、アンガウル島のラストコマンダー」に記されているある言葉に胸打たれました。
>私はたったひとり、静かなアンガウル島のジャングルの小道を歩くとき、
風の音と共に、彼らの最後の突撃の絶叫か、英霊の声が耳にこだまする錯覚を幾度も経験した>
とあります。
それを読んだ時、私は篠原様は錯覚ではなく本当に英霊の皆様のお声をお聞きになったのだと思いました。
それは英霊の皆様の感謝のお声だったと思っております。

お写真と記事楽しみにしております。
有り難う御座いました。

 


山崎様

拙い記事をご覧くださり誠に
ありがとうございます。
勿体くも有難いお言葉です。

資料として、また、これを偶然ご覧になった方が
歴史を知るきっかけになればと思い
少しずつ書いています。記事に荒削りな部分はあります上、
私も、思うことは多くあるのですが、
なるべく客観的な事柄だけを書くようにしています。
それでもたまに熱が入ってしまいますけれど。

アンガウルは現在の人口百数十人の小さな島です。
誰もいないジャングルの小路を歩けば、涼しく心地よく
木々の間からは青い海が見えます。美しい海です。
遠くで波の音が聞こえます。木の上からは鳥の声と
風で木々が擦れる音が聞こえます。

激戦が嘘のようにに穏やかです。

「ここ、兵隊の幽霊が出るらしいんですよ」と居合わせた
ダイバー客に言われたことがありますが
私は兵隊の幽霊を見たことはありませんし、
そもそも恐怖の対象ではありませんでした。

「守ってくれてありがとう、私は
英霊の方々がたいへんな思いをしてくださったお蔭で
とても幸せです。日本は豊かな国になりました」そう思って歩いていますので
心境としてはアンガウルの海や森のように穏やかでした。

難しいことはできませんが、唯一できるのは
故国日本の為に散った兵隊さんを忘れないことだと
思いました。

お返事頂き有り難うございます。
お忙しいのに申し訳ございません。
心穏やかに散策される姿が目に浮び、改めて篠原様の優しさを感じています。

記事はここ二、三日で殆んど拝見しました。
篠原様のお写真ですが、パラオ、ペリリュー島、アンガウル島の海、森、そしてジャングルまでもが優しく穏やかに感じられます。

その美しく優しく穏やかな海、森で過酷な戦いがあったと思うと胸迫る思いがします。
実際にその場所で感じられる篠原様のお気持ちは、いかばかりかと思います。
一人でも多くの人、特に日本の若者に知って頂きたい、そう願っています。

追記
こうしてコメントさせて頂くだけでも有り難く思っていますので
おばさんのひとり言とお思いくださり、返事は無理なさらないで下さいね。

茨城県笠間市(友部)の筑波海軍航空隊記念館は
戦争当時の建物と隊門と号令台と慰霊碑が残ってます。
笠間市こころの医療センター(友部病院)敷地内にあり
老朽化のためのちのち取り壊される予定らしいです。
地下施設や地下救護所も発見されたとか。
地下施設は土日祝のみ公開してるようです。
無くしてしまうのはちょっともったいない戦跡。
滑走路は普通の道路として使われています。

コシジロキンパラ様
ありがとうございます。
筑波海軍航空隊ですか。勿体ない話です。
これはぜひ、壊される前に見学に行きたいと思います。

篠原さん、
大変だと、思います。
見送ろうと
思った今回の記事。
色々な意見もあるでしょう。
真実に、
蓋をかぶせる
それだけは、絶対にしないでほしい。
頑張ってください。

ご無沙汰しております。サクラメントのゆき惠です。お忙しいところすみませんが、「パラオ戦跡を歩く」93ページ
中川大佐と村井少将の写真は何処から入手したものですか?

はじめまして
父が、パラオで戦死した父の叔父のことについて知りたくて、つい最近町役場に問い合わせたら、「パラオ戦跡を歩く」を紹介してくれたそうです。父に本を探してほしいと頼まれ、こちらにたどり着きました。amazonも品切れ、書店でも取り寄せることができないと言われました。
「医者になりたくて勉強を頑張ってたけど招集されたんだ。」「食べるものがなくて餓死したらしい。」などよく話して聞かされました。幼いころの記憶に残る叔父のことが長い間気になっていたようです。
少しでもパラオでの様子を知りたくて、ぜひ本を購入したいと思っておりますが、どちらかで購入することはできませんか。

初めまして。横浜在住の石母田(いしもた)と申します。
今年の2月にパラオ・ペリリュー島に行き、舩坂 弘氏の「英霊の絶叫 アンガウル島」を読み、深い
感銘を受けました。
アンガウルの遺品・遺骨収集のお手伝いをさせていただければと思いました。
大変な労力、体力が必要とされることがわかりました。
いずれ何かのお役に立てればと思っています。
ご連絡をいただければ光栄に存じます。


初めてコメントさせて頂きます。
遠方に住む息子(39歳)家族が8/13に主人と私の実家のお墓参りに行き、帰ってから私に「おじいちゃんの事が載っているよ」とスマホを見せてくれました。
中国語で書かれているので息子と何が書いてあるのかわからないねとその時は私もそれ程気にも止めませんでした。

実は私の主人は2年前脳出血で倒れ、左半身麻痺と高次機能障害で今は昔の記憶がほとんどなくなっています。倒れる前に私に何度も「親父が亡くなる前に戦争の事を聞いておけば良かった。親父は、自分の任務に誇りをもっていたのに俺は戦争の話が大嫌いで親父が亡くなるまで何も聞かなかったし、逆に軽蔑していた」と言っていた。ただ、遺品として主人の実家から持って来た大東亜戦争従軍記章のバッジだけいくつか我が家にあります。

息子が帰ってから主人に変わって義父の事を調べようと思い、ネットで検索していたら何と義父の写真まで載っていてびっくりしました。写真の中国語を翻訳したら命を落とす中国空の日本将軍と明記されていました。
虎部隊奮戦記なるものも書いて(生と死の扉とか、、)いたようなのですが・昭和19年9月に主人が生まれ義父は生還して帰って来た訳ですが、その時義父が亡くなっていたら私とも知りあえなかったと思うと先祖とのつながりが不思議に思えました。戦後は軍人だった為、肩身の狭い思いをしながら家族は苦労したと主人は言ってました。

今回、息子がスマホで義父の事を教えてくれて私も主人に変わって少しでも当時の事を知りたいと思い篠原さんのブログにもたどりつきました。

虎部隊奮戦記と言う本が本当にあるのでしょうか?息子は自分のルーツを知りたがり、又、「今あるのは日本を守る為に頑張ってくれた英霊のお陰だから子供達にも真実を伝えなければいけない」と言っております。


すみません。うっかりして主人の生年月日を間違えてしまいました。昭和18年9月です。

はじめまして。
時々読ませていただいております。
先日の連休で大分県竹田市を訪れました。九大で生体解剖されたと言われるアメリカ兵とアメリカ兵の戦闘機と戦い墜落した三四三航空隊の粕谷欣二さんを祀っている殉空の碑を訪れ、深々と頭を下げてきました。また、粕谷さんの慰霊碑にも行き、こちらでも頭を下げてきました。
粕谷さんの慰霊碑の前には、新たに発見された粕谷さん搭乗の紫電改の部品の一部を展示するためのケースが用意されていたようで、私が行った5月4日にはまだ黒い幕が掛けられていて見られませんでした。翌日の5日が墜落して亡くなった日なので、5日に幕を外したのを地元大分県の新聞社のHPで見ました。
また、同じ大分県の津久見市にある、最後の特攻隊員と言われる中津留達雄大尉の慰霊碑にも行きました。彗星の模型が展示してあり、家族を残して8月15日に飛び立った中津留大尉の気持ちはどんなものだったのだろうかと想像しただけで目頭が熱くなるばかりでした。

佐伯市にある丹賀砲台は行かれましたでしょうか。私はこの丹賀砲台で、砲というものの大きさ、高さを初めて知りました。

連休だということであちこち旅行できたり遊んだりしている平和な世の中も、多くの方々の犠牲の上にあるんだということを改めて認識した次第です。

こんにちは。
大村の戦跡をネットで検索していたらこちらにヒットし、興味深く読ませていただきました。
失礼ながら篠原さんは随分お歳かと思っておりましたがまだお若いのでびっくりした次第です。
私は本業(デザイン、航空写真)の傍大村市の遺跡発掘に携わっています。
昨年、7月には市内今富町山中で発掘作業をしましたが、現場すぐ横にコンクリート製海軍電探所跡がありました。
付近は住宅造成中であったので、現在はおそらく取り壊されたものと思われます。
先日、新幹線高架(工事中)が見える現場付近で土中より焼夷弾尾部(鉄製四枚羽根)が2個出土しました。

ブログにあった万世特攻祈念館は戦時中、私の亡父戦友(陸軍特別幹部候補生航空通信)が沖縄方面へ偵察爆撃に出撃し7名の同期生の方々が機上戦死されています。
亡父存命中、毎年四月の慰霊祭には参加しておりました。

大村は戦前より陸海軍軍都であり東洋一を誇る第21海軍工廠もありました。
それらを後世へ伝えるべく祈念館はありません。
先月だったか、兵庫県加西市では紫電改を造り後世にそれを伝える記事を知りました。
我が市も紫電改部隊が松山より進駐し航空作戦を展開した所縁の地でもあります。
また名隊長と呼ばれた鴛淵孝中佐は長崎県出身です。
加西市の話を読みながら実に羨ましく思いました。

為政者達は「今次大戦を引き起こした真の戦争責任者はどこの誰であったのか」詳細に検証する事も無いままに、いつまでも加害者意識から離れる事は無いのでしょう。
今年の長崎原爆慰霊祭も市長、遺族挨拶の文言も例年と変わらず現政府を罵る事で締め括られるでしょう。
英霊の方々はじめ無辜の命を突然奪われた一般市民の方々はこれでは浮ばれません。

11月30日は、百里にいらっしゃっていたんですね❣
私もいたんです、実は。。。
感動しました。
何十年も航空祭には、いってなかったので
最高の思い出になりました。
この間の慰霊祭は、お疲れ様でした

はじめまして。
父親の若い頃の事を何も聞く事もなく大人になり、父親が亡くなる前に
戦闘機の話などを本人が話したい範囲の話を少し聞きました。
賞状を元に色々見ていたら、こちらのデータベースを見つけ戦闘401に父親の名前がちゃんと載っていました。
戦争に対しての色々な思いがあるようでしたが語ることはなく、父親は海軍にいた事を生涯プライドを持ち生きる糧にしているようでもありました。
名前が載っている名簿のような物はお譲りいただくことはできますでしょうか?
父親の生きてきた証として残してあげたく思っております。

岡田様
第343海軍航空隊の戦闘401所属の方でしょうか?
それでしたら343空の戦友会が編纂した『343空隊史』を参考にしています。
この本は中古で現在でも出回っておりますが、とても高価なので
コピー本が出ています。(お名前が掲載されているなら、お父様もこの本を
受け取っているはずでありますが、もう何十年も前のことですものね)

そこで、愛媛県愛南町の南レク内、紫電改展示館で許可を得たコピー本が
売られています。少し前までは担当の方が熱心で通販でも購入できましたが
現在でも事情を説明すれば通信販売に応じてくれるかもしれません。

南レクの電話番号を載せておきます。
代表番号なので、紫電改展示館に繋いで貰えるよう、電話口でお伝えくださいませ。
0895-72-3213

もし断られたら、私宛にもう一度連絡下さい。私からも頼んでみます。
コメントありがとうございます。

ゼロ戦の事をもっと知りたくてこのサイトを見つけました。大変詳しく勉強になりありがとうございます。
以前から集めていた旧日本の戦闘機等(模型)を造りはじめているのを孫たちが機体の日の丸を覚え、いたる所で、赤いマル🔴を見つけては「仲間〜!!」と叫んでいます(笑)

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