指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯
「まさかあのとき、親父が死んだとは思わなかったんだ。スイッチひとつで
簡単に脱出できると言っていたから・・・事故の報せは聞いていたが
まあ、親父のことだから大丈夫だろうと思って、家に帰ったら記者が大勢
押しかけていて、それで事の重大さを悟ったんだ」
薩摩の武人・戦闘機パイロット指宿正信
最後まで空に生きた人であった。
昭和三十二年一月九日(1957年)航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機が
訓練飛行中、天竜川河口沖合に墜落。操縦士の指宿正信(いぶすきまさのぶ)
二佐が 殉職した。
指宿二佐は日本で初めてのジェット戦闘機操縦士の一人で、また先の大戦では
真珠湾攻撃から終戦までゼロ戦搭乗員として技量抜群で生き抜いた人物だった。
残念ながら指宿氏に関する記録はほとんど残っていない。 僅かな資料をもとに
調査を進めると指宿氏は海兵六十五期、鹿児島県南さつま市 (旧加世田市)出身
であることがわかった。戦後も第一線で戦闘機乗りを続け国に身を奉げて散った
武人の生き様を、僅かでも残すべきと考えここに記す。
指宿正信は南薩摩・加世田の出身であり海軍兵学校六十五期、 海軍兵学校を
主席で卒業、恩賜の短剣組であった。
弟、指宿成信少尉は海軍叩き上げの戦闘機パイロットで
兄弟揃って紫電改に搭乗し、のちに本土防空戦を戦うことになる。
(昭和20年、兄、指宿正信少佐は横須賀航空隊で飛行隊長として紫電改に搭乗。
弟、指宿成信少尉は第343海軍航空隊で紫電改に搭乗)
真珠湾攻撃
昭和16年12月、指宿大尉は真珠湾攻撃で空母赤城所属のゼロ戦隊分隊長を
務め、僚機の岩城芳雄一飛曹、羽生十一郎一飛曹とともに第一次制空攻撃隊に
参加。 ヒッカム飛行場を制圧し、敵戦闘機の迎撃を抑えた。
スピットファイヤと対峙
インド洋ではセイロン島・コロンボ空戦に参加。 英軍スピットファイアと交戦し4機
を撃墜した。このうち一機のスピットは不時着に成功し、敵パイロットはコクピット
より這い出したが、これを認めた指宿は 風防を開け手を振って上空を通過。
とどめをささなかったというエピソードが残っている。
ミッドウェーの敢闘
昭和17年5月のミッドウェー海戦では赤城の上空護衛を任務とし、合計8回に
渡り発艦を繰り返し 被弾し乍も敵機と果敢に交戦。TBD-1デヴァステイター1機、
SBDドーントレス1機、B-26マローダー2機(推定)を共同撃墜し、赤城防衛に尽く
したが、赤城は沈没、 指宿は海上に不時着、数時間の漂流の末、救助されたが
真珠湾以来、半年間に渡って僚機を務めた戦友、羽生一飛曹は行方不明となり
ついに帰らなかった。
翔鶴と南太平洋海戦
昭和18年8月、空母翔鶴乗り組みとなった指宿は、新郷英城大尉指揮のもと
南太平洋海戦を戦う。この間 幾度となく空の要塞、B-17フライングフォートレスを
迎え撃ったが そのほとんどは雲間に逃した。岩城一飛曹と協力し遂にB-17を
撃破したときは 岩城自らも被弾、火災となり鎮火できずにいた。帰還不可能と
悟った岩城は 指宿へ向かってニッコリ笑って敬礼すると自爆、南溟に散った。
指宿自身もその後の戦闘で被弾したが不時着、救助され生き延びていた。
第二六一海軍航空隊(虎)とマリアナ沖海戦
昭和18年末~昭和19年6月 玉井浅一中佐に協力して若き航空要員(甲種10期
の17~18歳が多かった)で、第二六三海軍航空隊(豹部隊)結成ならびに
指宿自身は二六一海軍航空隊(虎部隊)の錬成にあたり絶対国防権防衛を担う。
これらの航空隊は大宮島・サイパン島・天寧(テニアン)島・パラオ ペリリュー島を
転々とし空戦を重ねたが、消耗激しく 最後はマリアナ沖海戦で部下のほとんどを
失った。 指宿とその部下はサイパン島で運命を左右されることになる。
サイパン上陸戦を控え、生き残りの貴重な航空隊員は 潜水艦と輸送機にて順次
サイパンを脱出しフィリピンへ向かう。 これに特に優先順位等なかったと思われる。
脱出は僅かな差であった。 指宿は無事脱出しフィリピン、マバラカットへ。しかし
無念は261空の司令、上田猛虎中佐(海兵52期)や海軍の至宝ともいわれた
東山市郎中尉さえも いずれも戦闘機の操縦においては天才的技量を持ちながら、
サイパン島に取り残され地上戦に巻き込まれ手榴弾を持って戦い、玉砕した。
第二〇一海軍航空隊・特攻隊を志願・却下される
昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされる。
敷島隊の編成にあたり、指宿が特攻隊を 「辞退した」と書かれている戦記が多いが
これは事実と反する。
かれの脳裏に過るのは先に散った多くの若い部下の顔であった。決して忘れは
しない ニッコリ笑って敬礼し、煙を吐きながら編隊から離れていった、そして二度と
帰らなかった戦友のことを。 俺も必ず後に行くぞと誓った。
指宿は副長の玉井浅一中佐に自ら敷島隊の一番機として突っ込むと熱望したが
却下されてしまう。 代わりに白羽の矢が立ったのが関大尉であった。
「関が行くなら俺も行く!俺を一番にやってくれ!」
なおも食い下がる指宿の言葉に対し、玉井は告げた。
「貴様は真珠湾以来のつわもの。これからは指導する立場にあるので
作戦に参加させる事は出来ない。死なれては困る」
敷島隊の一番機を真っ先に志願したのは他でもない 指宿自身であった。
関もまた可愛い部下であった。 指宿は戦後、幾度となく関の墓参りに
愛媛を訪れている。
紫電改を駆り本土防空戦を展開
内地へ戻り横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、紫電改を駆り
B-29やP-51を邀撃。この頃既に階級は少佐となっていたが指宿は常に現役で
あった。そして生きて終戦を迎えた。
戦後、故郷鹿児島へ戻った指宿は子供たちを集め 自らの体験を語っている。
「こうして死にぞこない、おめおめと生きている」
と 寂しそうに言ったという。
航空自衛隊戦後初のジェット戦闘機F-86Fパイロット
最後まで空に生きた人であった。 指宿は航空自衛隊の黎明期を支える存在と
なった。 渡米。戦後初のジェット戦闘機F-86Fのパイロットとなった彼は全国各地で
教官として次世代を担う新人搭乗員の指導に明け暮れた。
事故~市街地を避けて海へ
昭和32年1月9日、突然の報せだった。指宿は浜松航空団F86Fで飛行指導中、
事故に遭う。不運な事故であった。 先頭を飛行する教官、指宿の機体が太陽と
重なり、後ろを飛行中だった訓練生の目を眩ませたのだ。
訓練機が指宿機に追突する形となり、二機は空中衝突、訓練生はその場で落下傘
降下し無事。機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため 人的被害は無かった。
一方、指宿の眼下には浜松の市街地が広がっていた。 指宿は民家への被害を
避けるため最後まで操縦桿を離さず、機体をコントロールし海上への離脱を図った。
「遠州灘まで引っ張る!」
それが指宿最後の言葉となった。 指宿は海上でベイルアウト(緊急脱出)の
レバーを引いたが 高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突。殉職した。
最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした指宿正信、42年の生涯であった。
薩摩の武人が残した礎
「戦後は特攻を関大尉に命じて自分は逃げたんだと、長い間、誤解されて
卑怯者扱いをされて、辛かったろうな。これじゃあんまりだ」
指宿氏のご遺族は語る。
ブルーインパルスの一番機が白い煙を引きながら大空へと吸い込まれて行く。
間違いなく、指宿が残した武人の志は今日日本の礎となって
現在も受け継がれている。
最後までご覧くださりありがとうございました。
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています
関連記事
赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース
※記事は加筆訂正をする場合があります。
出展:261海軍戦闘行動調書
取材・調査:篠原直人
こんにちは。ブログ更新ありがとうございます。
現代に生きる自衛官の多くもそうであるように、有事の際たとえ命と引き換えでも一般市民に与える損害をできるだけ少なくしようと、懸命に最後まで努力する姿に心を揺さぶられます。
私はこれから海軍墓地に今年最後のお参りに行ってきます。
海の防人の碑にもお線香をあげてきますね。
この美しい日本を残してくださった多くの先輩方に合掌。
投稿: アガタ | 2014年12月20日 (土) 13:41
事故機のF-86F-40は62-7494や62-7515でした。
指宿二佐の戦機はどれでしたかな?
投稿: ガメラ | 2014年12月26日 (金) 18:20
アガタ様
いつもありがとうございます。
日本の自衛官のモラルの高さは誇るべきものだと思います。
弱いものを助け、盾となり、そして万が一刀を抜くときはどのような時か、わかっています。
ところで私は御楯(みたて)という言葉が好きです。
天皇を守る盾ですが、天皇陛下をお守りするということは国そのもの
日本を守るということ、国民、妻や父母、あるいは子供を守ることです。
投稿: 篠原 | 2014年12月28日 (日) 13:42
ガメラ様
はじめましての方でしょうか?
投稿: 篠原 | 2014年12月28日 (日) 13:44
篠原 様:
ガメラ @ 外国人(中華人)です。
初めまして、よろおね。
俺の趣味は、二戦後~現在 東北アジアの軍事航空事故が含まれています。
所謂「航空考古学」の一種。
特に中国、台湾、日本で起こった軍事航空事故。
投稿: ガメラ | 2014年12月28日 (日) 16:00
ガメラ様
そうですね。新聞の写真に「衝突した事故機」として尾翼に写っているのは
62-7416ですが、これが指宿二佐の飛行機であるかはわかりません。
投稿: 篠原 | 2015年1月 5日 (月) 21:08
篠原 様:
あけおめ、ことよろ。
なぬほど。
でも、此のサイトのデータより、空自の「62-7416」は事故機じゃない。
www.millionmonkeytheater.com/F-86.html
空自の416号はF-86F-25-NA s/n 52-5439でした。
事故無しに、退役した。
因みに、俺のブログの写真集は此方:
photo.xuite.net/gamera_3000*2
投稿: ガメラ | 2015年1月 6日 (火) 23:21
ガメラ様
なるほど。ありがとうございます。
もう少し調査する必要がありそうですね。
投稿: 篠原 | 2015年1月10日 (土) 11:54
指宿正信さんは有名な軍人だが、
残念ながら海兵恩賜では無い。
信の置けない記事は引用すべきでは無い。
真にうけて、孫引きする者が出るから。
http://www.naniwa-navy.com/kaiheirekisi2.html
戦争末期に活躍した軍人に陸士や海兵の恩賜組は居ない。
生きて成した事が大事であり、海兵のハンモックナンバーなど
どうでも良い。
投稿: がお | 2018年11月 3日 (土) 06:55