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2013年7月24日 (水)

岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

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出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

コメント

ちょっと岩本さんの故郷益田市に旅してきました(生まれは樺太です)
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場をちょこっとのぞいたりしてきました。
工場は戦後を忍ばせる古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと勤めていたのか
と思うと少し悲しかった。 地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという情報があり
電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 

やっとアマゾンで岩本徹三さんの本を見つけて読みました。
坂井三郎さんや原田要さん、その他のものと比べるとすごく簡素で飾りのない文章という印象を受けました。
本人がノートに記録したものを編集したと、あとがきにありましたが、「無駄な戦闘はしない」「確実に有利な状況に持ち込む」という姿勢が文章から伝わりました。
個人的に、F6FやP51に零戦は全く敵わないのかと思っていましたが、機材と搭乗員のレベルの問題なんだなぁと感じました。

雷電の話が紹介されていましたが、本文中には343空の紫電改の空戦の様子も出てきており、「うちには(紫電改は)回って来ないだろう」という内容が書かれていました。
岩本さんが、紫電改に乗っていたらどうだったのかなとも想像してしまいました。

フランカーさん
ありがとうございます。お買い求めになりましたか。
やはり人柄が出ていますよね。岩本徹三さん、もっと長生きしてもらいたかった。
雷電の評価も良い点も悪い点も両方書いてあってよかったです。
紫電改が配備されたのは343空と横須賀空だけですね。
横須賀空は実験部隊に近いので紫電改が実質配備されたのは343空だけです。
私が本土防空戦で戦ったゼロ戦乗りの方に聞いたところ、紫電改は
源田実司令がぜんぶ独り占めしてしまったと憤ってました。熟練の搭乗員もぜんぶ引き抜かれて
しまったから343空は強くて当たり前なんだと・・・。だから我々は終戦までゼロ戦で戦わなければならなかったと源田さんに怒りをぶつけてましたよ。
考えようによってはそうかもしれません。当時から雷電は殺人機という噂と
「ああ、いいなあ自分も紫電改に乗りたい」と思っていたそうです。

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