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2013年7月24日 (水)

パラオってどんなところ?

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パラオ共和国ってどんなところ?
世界一美しい海があり
日本時代の名残を体験できる。
パラオ国旗の由来は?

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パラオ国民は優しく、親日的
細かいことを気にしないおおらかな性格。

◆パラオ旅行の注意点
 
良くも悪くも南洋気質。みんな
おおらかである故、細かいところにこだわりイライラする人は
楽しめないかも。のんびりいきましょう。
 
グアムやサイパンのように整備されておらず
自然をありのまま受け入れられる人でないと楽しめない。
停電もしょっちゅう。
 
インターネットがダイヤルアップなので、ものすごく遅い。
ほぼ、使えないと思った方が良い。
 
その他 概要・日本統治時代からの歴史

■パラオの年間平均気温は摂氏27度。常夏の島で、北緯5~7度付近、経緯は134度と
日本の真南に位置する為、時差は無し。現在は飛行機で片道4時間半。

人口は21000人ほどで、そのうち70%程度がパラオ人で、他にはフィリピン人が多い。
日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている。

首都はパラオ本島のマルキョクへ遷都したが
実質、経済の中心地はコロールにある。

■言語は主にパラオ語であるが、
第二公用語として英語も使われる。

■西欧列強の時代、1885年にスペインの植民地となる。米西戦争に敗れたスペインは
1899年パラオをドイツに売却。以降ドイツの植民地となった。第一次大戦でドイツが
敗れると、1914年から国際連盟により日本の委任統治領となる。一時は南洋一の繁栄を
極めたが、大東亜戦争が始まると戦火の渦中となり、激戦の末、1945年に米軍が占領し
47年、同国による統治が開始された。他国統治から解放され「パラオ共和国」として
独立に至ったのは1994年のことで、日系のクニオ・ナカムラ大統領が就任した。

■日本統治当時、南洋群島全体の島民5万人に対し、日本人は8万5千人。
パラオには島民向けの公学校が26校あり、40歳以下の者はおおむね日本語を理解できた。
ガラスマオ、ガスパン、アイライ、アイミリーキのほか、瑞穂、清水、朝日、大和といった
和名の村があった。昭和18年の内訳は以下の通り。

■日本統治時代の学校は日本人向けの小学校と、日本語を母国語としない人向けの公学校と分けられ
学校教育の普及が当時の政策の重要課題だった。

■公学校は1915年(大正4年)に最初の公学校が建設されて以来、パラオには合計6つの公学校(コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュー
アンガウル、ガラスマオの各学校)が建設された。公学校は3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成されており
「本科」で優秀な成績を収めた生徒の多くは「補習科」に進学できた。

1915年から1935年までの21年間の間に、2242人が「本科」を卒業し、654人が「補習科」を卒業した。
当時のパラオにおける就学率は93%(1931年)で、南洋群島全体の平均就学率57%と比べても圧倒的に高い就学率を誇った。
「本科」「補習科」ともに国語(日本語)の時間が多く、カリキュラムの中の約半分の時間が割り当てられた。算数や実用種目も重視された。

補習科の卒業生の中で特に優秀だった生徒の中には、「木工徒弟養成所」に進学する者もいた。木工徒弟養成所は1926年に設立された、建築技術を
習得するための男子校で、毎年30人ほどが全南洋群島から選抜されて入学した。そのため、同校の生徒は「エリート」と考えられており、同校は当初
建築過程の専門校であったが、後に土木科や機械科が設置され、総合的な職業訓練校となった。
日本統治時代の後半になると、内地に留学して高等教育を受けることのできたパラオ人も少数ながら存在した。

■日本人向けには、尋常小学校から旧制中学校(および高等女学校)までが設置された。

■現地住民に対する処遇
呪術(モデクゲイ)の排除。徹底した取り締まりを行った。

パラオ人の中には志願によって日本軍に貢献しようとする人々があらわれ、それらは1942年に「資源調査隊」として約60名。1943年には
「パラオ挺身隊」として約30名が集まり、主にニューギニアなどへ派遣された。戦争末期には、「斬込隊」が結成されたが、実戦には至らなかった。

 



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