2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年9月20日 (火)

リディアン岬

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グアム島への着陸態勢に入ると、
リディアン岬が見えてきました。
 
リディアン岬はグアム最北端の岬で、
空から見るのは初めてです。 
 
特有の地形と、以前岬の先端まで
車で走ったことがあるので、よく覚えています。
 
こんな感じの場所でした。↓以前、地上から撮った写真。

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観光客はほとんど来ない。
潮流が激しく水際で遊ぶ程度。遊泳は不可。
海は綺麗で透き通っている。
空軍基地の真ん中を抜けて行くので途中まで物々しい雰囲気。

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詳しくはこちら
リディアン岬へ行こう

2014年6月20日 (金)

グアム玉砕戦の真実~小畑中将は自決せず

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玉砕の地、叉木山へ

グアム最後の戦場で 小畑中将が自決したとされている
叉木山(マタギャックヒル)を訪ねた。
 
玉砕の経緯を記した説明看板が立っているが
実はこの真意、定かでない。
小畑中将がここで自決した証拠など何もないのだ。
 
その理由を順を追って記す。
まずグアム玉砕に至る概要を記しておく必要がある。

グアム玉砕まで
1944年(昭和19年) 7月21日
サイパン、テニアンを陥落させ、さらに グアム島奪還の大義を掲げるアメリカ軍は、
空爆と艦砲射撃を十分に 行ったのち、陸軍第77師団と第2海兵師団の
2個師団を上陸させる。 グアムの防衛を担う日本軍守備隊は
陸軍第二十九師団 (および第48独立混成旅団)で 二十九師団は
以下の三個連隊から成るが松本50連隊は 先のテニアン戦で玉砕している。
 
陸軍第二十九師団(名古屋)
奈良38連隊(グアム玉砕)
豊橋18連隊(グアム玉砕)
松本50連隊(テニアン玉砕)
 
師団長は陸士25期、高品彪(たかしなたけし)中将であった。
二十九師団を基軸とした 日本軍守備隊は勇猛果敢に戦ったが
徐々に戦線を後退。最後にはバンザイ突撃を繰り返した。
 
7月28日
師団長、高品彪中将が戦死。
以降、師団の指揮は31軍司令の小畑英良(おばたひでよし)中将/陸士23期
が引き継ぐことになった。 小畑中将はグアム島北部へ転進する。
叉木山への撤退路の確保、ならびに 北部には大きな部隊が温存中であり
二日後に反撃をかける。表向きは以上のような名目であった。
 
8月11日
追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、
ここ叉木山の壕で 自決。死後大将に昇進した。
これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。
・・・といわれる。
 
それにしてもこの看板は 誰が書いたのであろうか。
まず、この看板設立の経緯を述べる。
 
▼小畑中将が自決したとされる壕とそれを示す看板

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叉木山で何があったのか
戦後の混乱期を経て

戦争が終わった後20年間は日米は何ら協定が存在しないため
遺族らが慰霊に来ることが叶わなかった。 1962年、はじめてペリリュー島へ
慰霊団が派遣された。 それが日本の慰霊団のはじまりであった。
1968年 テニアン、サイパンへも慰霊団が派遣される。
そのとき初めて、グアム島の知事が日本人慰霊団の上陸を許可したのだった。
 
慰霊団はクリフホテル(グアムで二番目に古いホテル)に宿泊。 そのとき慰霊団
長の部屋をノックする者がいた。 ドアを開けると、そこにはオスカー・カルボウという
神父が立っていた。 彼はデュエナス神父の親友である。彼は慰霊団長に
「もう戦争が終わったんだから、お互い恩讐を超えて モニュメントを作りましょう」
と申し出たのである。
 
このカルボウの行動の発端は昭和16年までさかのぼる。
開戦当時の銃爆撃でチャモロ人54人が不幸にも巻き添えとなり 死亡した。
そこに居合わせた広島出身のタケダという中尉が若きカルボウを呼び出して
「おい、かわいそうだから埋めてやれ」
と言って 死体の埋葬を許可したのである。 カルボウはこの一件に心動かされ、
戦後もずっと忘れられず、この日、ホテルを訪ねてきたのだという。
親友のデュエナスは惨くも日本軍に処刑されたがカルボウは
恩義を感じて一緒に墓を作ろうと 持ち掛けたのである。
 
小畑中将は本当にここで自決したのか
1972年、以上の経緯で叉木山に完成したのがこの合掌を象った
モニュメントである。 建立を主導したのは財団法人太平洋戦没者
慰霊協会で (現在は公益財団法人となっている) その当時の会長A氏は
インタビューに対し次のように語る。
 
Q「あの看板は誰が書いたんですか?」
 
A氏「あれは自分が書いた」
 
Q「じゃあ、あの60人というのはどこから調べた人数なんですか?」
 
A氏「あれは風聞ですよ。証拠は無い。昭和四十何年に自分で調べられるわけ
ないじゃないですか」
 
Q「では、あそこで小畑中将が自決したって本当ですか」
 
A氏「いや、そんなの誰も見てないよ」
 
Q「じゃあ、あれは偽物ですか」
 
A氏「いやあ、偽物ってわけじゃないけど作文だね」
 
当時、風聞を作文のまま建立しそれが今に至りそれにつられ、
みんな玉砕の地と勘違いして来ちゃってるのが現実。大手旅行会社の
団体も観光コースになっている。
 
ここ叉木山に一番重要なことはここにはなかったのである。
では、あの壕は、いつ作ったのか 誰が作ったのか、何の目的で作ったのか
 
真実はいかなるか
それには、この壕の中に入ってみれば おかしな点に気付くだろう。
元来、この壕はコンクリート製の海軍のもので、玉砕戦では陸軍が用いた。
中は狭い。この狭い壕に60人も入るのは困難である。 
そのうえ自決などできるわけがない。 
 
ではこの60人という数字、いったいどこからきたのか?
 
叉木山にKという兵隊がいた。彼は
8月11日朝5時にキャタピラの音を聞いた。
敵が来たと察した彼は、麓へ一気にかけおりて 「敵が来た」と告げた。
戦友は散っていった。 当時炊事をしていたがあんなところに集まっていたら
殺されるに決まっているから自分もすぐに逃げたという。
 
米軍側の戦記にも、このときの掃討戦の記録が残っている。残存守備隊は
全員逃げ切れなかったのだった。米軍は一挙にその周りを囲んで集中砲火を
浴びせた。そして日本軍を一ヵ所に閉じ込めた。 その閉じ込めたところを
火炎放射器で焼いて、200kgのダイナマイトを置いて一気に爆破して粉砕した
と記してある。
 
四日後に瓦礫を掘り起こしてみたら60人の死体が出てきたという。
60人の自決、というのは それを捻じ曲げて使ったのではないか。
 
つまり、ここ叉木山で小畑中将の自決を目撃した者は誰一人いないし、
証拠は何一つないのである。ここ起きたことは先に述べた通り。
戦死したのは米軍に追い詰められた一部の将兵である。
 
小畑中将はいったいどこへ?
では、小畑中将はどこへ行ったのか?
確かに小畑中将座乗の車列は、転進北上していた。ここまではわかっている。
このとき 運転手を務めていた兵が、戦後次のように証言している。
 
小畑中将座上の車列が米軍機に発見される。
車列先頭の運転手は咄嗟にハンドルを切りジャングルに車を突っ込ませ
難を逃れたが 小畑中将は米軍機の襲撃により戦死した。
これが真実ではなかろうか。
 
では 小畑中将は何の目的で、どこへ向かっていたのだろうか?
ここから先は推測になる。
 
本来の思惑は歴史の闇の中だが
この海軍壕には時価三億の金塊が残されていた。
小畑中将はこれを隠すために急行したと思われる。
 
金塊の用途は、日本軍が グアム島へやってきた当時、通貨が使えないため
チャモロ人と取引するための資金であった。無論、米軍が真実を公にすることは
ない。自分らが 金塊をガメた訳だから、玉砕したと発表してもらったほうが
都合がよいに決まっている。
 
首なし兵士の遺体の謎
この玉砕の以前、叉木山周辺で不可解な事件があり近所の住民が目撃して
いた。ある日、叉木山周辺で 日本軍の軍服を身に着けた首なしの死体が多数
見つかった。不思議なことに、この死体は首を切断されているにもかかわらず
血液が一切付着していなかったのだ。
 
この斬首された兵士こそ金塊の運搬、隠蔽に関わった兵士であり口封じのため、
味方に殺害されたと推測される。 首がなければ当然身元は不明となる。
 
遺族には戦死と伝えられたであろう。 殺害された後、(もしくは現場)
叉木山の麓を流れる小川に放置されたため、血は洗い流されたのであった。
 
以上がグアム玉砕と小畑中将の最期の真実である。
 
いかにも自ら取材したような書き方で恐縮だが、これらの内容は全て
グアム唯一の戦跡ガイド「ケン芳賀氏」に聞いた話で、氏の案内する戦跡ツアーに
参加すれば 全て現地を回りながら聞かせてもらえる内容である。
 
 
芳賀氏は、このほかにも横井庄一さんをはじめ、当時グアムで戦った
旧軍人、島民など、すべて直接会って取材しており、自らの集めた膨大な
証言記録をもとに グアムの戦跡を案内してくださる素晴らしい内容の
ツアーを行っている。グアム、チャモロの歴史、文化に精通、尊重している。
グアムに行かれる際はぜひ おすすめしたい。
 
申し込み、問い合わせは以下へ
(日本語でOKです)

http://www.usesguam.com/index.html

 

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▲叉木山壕近くの竹林。竹も成長し過ぎると自らの重さに耐えきれず倒れるのか。

グアムの方々にはこういった竹がたくさんある。

リディアン岬(グアム)

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グアム島最北端のリディアン岬まで車で走った。
アンダーソン空軍基地の間を抜けて行く。
ここはまだ走りやすくていいが ここから先はデコボコだ。
舗装道路に見える路面も サンゴダスト(サンゴの骨を砕いたもの。石灰。)で
固め作られたもので 雨が降るたびに浸食して、穴だらけになる。
 

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ここは穴場で観光客はあまり来ない。
そのかわり潮流が激しくせいぜい水際で遊ぶ程度で 泳ぐことはできない。
  
海は綺麗で透き通っている。
 

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ローカルが釣りをしている。
外洋隔てるサンゴ礁に波が当たって砕けている。
 

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砂浜の端の誰もいないところまで歩いてみた。
人工物がある。
 
 
砂浜に足を取られ、なかなか進まない上に

一眼レフ二台首にかけてるから、重くて暑い。
できれば海に飛び込みたい気分だった。
 
ゲートが夕方に閉まるので早い時間に行こう。車でしか行けないヘンピな場所にある。
車上狙いに注意。

イナラハン天然プール

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イナラハンにある天然プール。
地殻変動で出来た天然のプール。
外洋と隔てられていて面白い。
 
飛び込み台もある。
 

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こちらはメリッソ村にあるスペイン時代の名残、鐘楼(ベルタワー)

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この先、タロフォフォの滝公園には
横井庄一ランドもある

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。

グアム軍事法廷跡 BC級戦犯終焉の地

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グアム軍事法廷跡
1945年の終戦後、南洋各地から集められた、いわゆる
B、C級戦犯の裁判および刑が執行された場所である。
今はさら地となっている。何も残っていないが
ぜひとも見ておかなければならない。

 
沖縄から海兵隊が移転すれば、ここも基地施設となり

自由に入ることはできなくなるだろう。
 
もちろん裁判は戦勝国による一方的なものであり
必ずしも公正無私でない。
 
そのため、これらの裁判で死刑となり
命を落とした場合、日本では法務死と呼ぶ。
 
阿部孝壮の法務死(クェゼリン捕虜処刑事件)
海軍中将、阿部 孝壮(あべ こうそう)は
クエゼリンで米国人捕虜9名を殺害した容疑で
ここグアムで裁かれた。
 
阿部はマキンの戦いで敵上陸を目前に控え、
捕虜の処遇に関し、現地指揮官に意見を求められた。
その際、阿部は「適切に処分せよ」と、指示を部下に一任した。
  
1946年、3月21日
阿部は巣鴨プリズンからここグアムへ移送された。阿部は
クエゼリンの捕虜殺害事件については現地指揮官に責任を負ってもらいたい
との意向を受けており、自決せず裁判に臨んだ。
 
米海兵隊が主宰するこのグアム軍事法廷は、同年5月6日に起訴状が
出され15日に開廷された。そして結審したのがわずか一週間後の
22日であった。
阿部は当初聞かされていた予想とは
正反対の絞首刑を告げられる。
裁判ではほとんど阿部の発言は行われなかった。
 
1947年、6月19日
刑が執行される。
阿部は宮城(きゅうじょう)を仰ぎ、天皇陛下万歳といって
刑場の露と消えた。

ガンビーチ(グアム)

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ホテルニッコー・グアムの前に
ガンビーチと呼ばれる砂浜がある。
その名の通り、これが由来である。自由に触れることができる。
 

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うるわしき砂浜と対照的に
錆びついてもなお、戦い終わらず
照準は沖の舟艇か、空を睨む。

恋人岬を望むガンビーチには、日本人を含む
アジア各地からの観光客が多く賑やかだった。
 

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アサンビーチ(グアム島)

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上陸戦が展開されたアサンビーチを訪れた。 

  
1944年(昭和19年) 7月21日
激しい艦砲射撃と空爆ののち、いよいよ米国海兵隊はアサン海岸へ
上陸を開始する。日本軍守備隊は水際でこれを阻止せんと 猛然と応戦した。
海兵隊にも死傷者が続出し橋頭堡(きょうとうほ)を確保するため丸一日を要した。
この上陸戦から数えておよそ三週間にわたりグアムでの戦いが続くのであった。
 

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アメリカは奪還の大義のもと、
日本にとっては大宮島(おおみやじま・当時グアム島の日本名)
の落日がまさに迫りつつあった。
 

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ここアサンの歴史をスペイン時代から見てみよう。
 
1892年
スペイン時代、ハンセン病患者の隔離病棟が建設されたが1900年の
台風で倒壊。
 
1901年-1903年
フィリピン米総督府はフィリピン人政治犯をグアムに追放し
ここアサン岬の刑務所に収容。
 
1917年
第一次大戦勃発とともにグアムに居たドイツ巡洋艦水兵は
捕虜となり、ここアサンに収容された。
 
1944年-1945年
そして、先の大戦で 日米両軍の熾烈な戦いの末、 グアム島の奪還を
果たした米軍は キャンプ・アサンを建設する。これは米国軍属の宿舎であった。
以降、1967年まで使用されるがその後は放置される。
 
1975年
ふたたびここアサンが使われたのがベトナム戦争時で何千人もの
ベトナム難民受け入れの 施設となった。
 
1976年
大型台風パメラによって グアム島全域の建物が倒壊した際
アサンは瓦礫の集積場となった。
 
以上のように この開けた海岸は先の大戦のみならず
常に数多の悲劇とともにあった。 現在は海浜公園として美しく
整備され バーベキューをしたりローカル憩いの場となっている。
 
この平和が末永く続くことを切に願う。
 

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2014年6月19日 (木)

特殊潜航艇・甲標的(グアム)

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特殊潜航艇・甲標的

日本海軍の「特殊潜航艇・甲標的」である。
グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンターに展示されている。
 
ここ大宮港で戦闘終結後に米軍に鹵獲されたものであるが、詳しい経緯
については未記載であるうえ、同センターではこの決死兵器の運用方法
については詳しく触れられていない。
 
動力は2ボルトの乾電池
艦首に魚雷二本が搭載され、動力はモーターで、バッテリーを用いて
スクリューを駆動する。 (バッテリーというのは一個2ボルトの電池で、
これをモデルによって 異なるが192個から200個搭載した)
なおディーゼルエンジンを 搭載したモデルも存在する。
 
生還の望みは薄い
この潜航艇は二人乗り(丙型は3人乗り)で、敵基地港湾へ侵入し
決死の雷撃を敢行する目的で運用された。 生還の望みは薄い。
 
実物に近づいてみて、印象的だったのはやはり
艦首に突き出た二本の魚雷発射管で、実に衝撃的であった。
一応は、生還を前提として設計されたものだが、その運用方法を
見てみればほぼ命と引き換えと考えてよいだろう。2人乗りで
2本の魚雷。一人あたり一本。必中轟沈である。当時の若者が
どれだけの犠牲を払って戦ったか、日本人は今、みんな忘れてしまったのだろうか。
二本の魚雷発射管は物々しく、悲しい。
 
この潜水艦を用いた作戦といえば真珠湾の九軍神が有名だ。
なお、「蛟竜」はこの艦の後継型の「甲標的丁型」と呼ばれる。

※四国、三机湾の九軍神訓練の地へも行ってみた。

サイパンからグアムへ飛ぶ

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サイパンからグアムへ飛ぶ。
プロペラ飛行機で、約50分。
プロペラ機は軽快さが良い。
 
サイパンで搭乗手続きと簡単なパスポートチェックを受けて
飛行機はすぐに飛んだ。通勤電車のようだった。
この便は一日に数往復している。
バブル期はサイパン・グアム両島の周遊プランもあったのだろうが
いまや乗客の中に自分以外に日本人の姿はない。
 
背後に見えている駐機中の小型機は昨日乗ったテニアン行きの
マリアナスエアーである。
※「テニアン島へ飛ぶ!テニアン戦跡巡礼の旅」はこちら

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あっという間にグアムへ到着。グアムは凄い都会だ。
南洋の天気は晴れていたかと思えば、雨が降ったりすぐにやんだり、
また晴れたり曇ったり雨が降ったりやんだり晴れたりと、とにかく忙しい。
滑走路に七色のアーチがかかっている。
 
降りてすぐにレンタカーを借りる。最近はレンタカーも
さまざまな料金プランがあって、貸し出しの際に少々
チャージ(課金)するかわり、燃料を補給せずに返却できる
プランがあるので、たくさん走る予定だった私はそれにした。

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左ハンドルの日本車も多い。
これは北米のみで販売されたシビッククーペ。
高価だが、スポーツタイプのレンタカーもある。
(写真を撮っただけで借りてない。残念)
  
というわけで今回は一番安いフォードのセダンを借りてさっそく街へ。
日本の免許証で運転できる。

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2014年6月 1日 (日)

グアムはなぜ独立できなかったのか

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◆幻の「チャモロ共和国」

グアムに住んでいる人たちは何人と呼べばいいのか?
え、いま何て言った?グアム人? 答えは一応、アメリカ人。
 
だが、重要なことを付け加えておく。 グアムの先住民族はチャモロ人であり、
グアム島はチャモロの島である。 そしてチャモロを含むグアム市民は
アメリカ合衆国の市民権を与えられているものの米国大統領選挙には
投票できない。差別である。
 
戦後、太平洋の島々は相次いで米国からの独立を果たした。
しかしグアムは米国領のままである。 なぜ「チャモロ共和国」として
独立を果たせなかったのか。

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▲グアム島アンダーセン空軍基地の敷地を隔てるフェンス。リディアン岬方面へ走る。

 
◆米軍基地の島、グアム島
グアムの観光地を外れ、郊外を車で走っていると
その広大な基地の割合に驚く。走っても走っても空軍基地とを隔てる
鉄条網が遥かに続く。 グアム島の面積は淡路島と同じ程と考えればよいが、
このうち米軍基地が占める割合は 現在およそ33%。
これが沖縄から海兵隊が移転すると47%に増大する。
島の半分は基地になると考えて よいだろう。
 
なお沖縄は現在およそ20%弱である。沖縄のグアム海兵隊移転は、
結果的に チャモロ人たちに負担を押し付ける形となるがグアムは
建前上、米国の一部なのでそういった議論は日本では出てこないのが残念だ。
 

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▲グアムの市街地を南北に貫く道路「マリン・ドライブ」片側3車線の巨大な道路は
ベトナム戦争時、島北部にある空軍基地へ大型機を輸送するため用いられた。
 

◆沖縄は日本国へ帰属したが
沖縄は先の大戦を経て、一旦米国に占領され1972年、主権を回復、
つまり 日本への帰属が決定した。 元来、琉球民族は大和民族とは異なるし
かれらを尊重するのであれば 日本でもアメリカでもない、
琉球が独立して独自の文化と平和を築いていくこと、 それがベストだ。理想だ。
一番良いに決まっている。
 
しかし、沖縄という島は昔も今も軍事上の要衝であり、
最も緊迫した海域に位置する。 どこか大国に属していなければたちどころに
吸収されてしまうだろう。 残念ながら軍備放棄で成し得る独立ならびに
平和など、歴史上ありえない。
 
小さな島の民がどのように生き残っていくか考えなければならない。
沖縄の人たちには申し訳ないが、基地反対の主張が堂々できるのは
日本国政府の後ろ盾あってこそ、もし琉球が独立国であれば、
米国や中国、朝鮮半島等、各国との交渉力は無に等しく
主義主張は簡単に握りつぶされてしまうであろう。
そう、グアムのように。

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◆グアム島先住民族衰退と西洋搾取の歴史
グアム島の先住民族であるチャモロ人の歴史は3000年におよび、
独自の文化で平和に暮らしてきた。 当時の人口は10万人以上とも云われる。
その3000年の平和が破られたきっかけであり、西洋文化との初めての遭遇が
1521年、3月6日 マゼランの上陸である。以降、長きにわたる西洋支配と
搾取の時代が始まった。 (グアム島の南にはマゼランの上陸記念碑がある)
 
マゼランは人類史上初めての世界一周で名を馳せた冒険家であり
この航海では、偶然ではあるものの、一度も嵐に見舞われなかったことから
静かな海「パシフィックオーシャン」(太平洋)と名付けた。
航海途中、グアム島に立ち寄ったマゼランにより、同島は瞬く間に 西洋で
知れ渡り、以降グアム島とチャモロ人はスペイン帝国の支配下となる。
 
グアム支配の過程で、宣教師がチャモロの祖霊崇拝をはじめとする
独自文化を厳しく禁じたため 不満が生じ、スペイン・チャモロ戦争が勃発する。
もともと裸同然の 暮らしを営んでいたチャモロ人が火器を持った西洋文化に
対抗できる術はなく この戦争により、無残極まりない殺戮が繰り返され
10万人と言われたチャモロ民族は5千人にまで激減した。
 
スペイン帝国の支配は333年続くが 1898年の米西戦争で、
アメリカがスペインを破り 長きにわたるスペイン支配はここで終焉を迎える。
スペインの支配は他のミクロネシア地域においても 及んでおり、
サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなども同様であった。
 
◆なぜグアムは独立できなかったのか~現在まで至る運命の分かれ道
しかしその後は別の歴史を歩むこととなる。
スペイン帝国が米西戦争に敗れ衰退すると グアム島のみをアメリカ、
他のミクロネシア地域はドイツが掌握した。 ドイツはその後の
第一次世界大戦で敗れたため、それらミクロネシアの島々を手放すこととなった。
そして国連の決議により、サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなどは
日本の委任統治領となる。 これが今日まで影響する歴史の分かれ道である。
 
1941年、日本の真珠湾攻撃ならびにマレー侵攻によって幕開けした
太平洋戦争(大東亜戦争)で、開戦当時、日本領に囲まれていたグアム島は
一夜にして孤立状態となった。 このとき、グアム島に駐留するアメリカ軍
守備隊は僅か数百人で、強いて抗戦は 行わず上陸してきた日本軍に降伏。
島を早々に放棄した。
 
同様に日本軍は開戦から間もなく破竹の勢いで 米領フィリピン、
英領マレー半島、仏領インドシナ半島を攻め落とし 「米英恐るるに足らず」と
豪語したが、 いずれも勝ち目がないと判断した連合軍が早々に撤退を決断し
兵を温存したため 本質的な日本の勝利とは言い難い。 周知のように日本の
優勢はわずか半年で崩壊し 元々の日本領土であったサイパン、テニアンさえ
奪われ 昭和19年6月、ついに米軍はグアムを奪還するのである。
グアムの玉砕戦については後ほど述べることとして ここでは国家独立と
現代の話をしよう。
 

Vvf

◆ミクロネシア三国の独立をかけた戦いと辛勝
ミクロネシアの島々はいずれも戦後独立を勝ち取った。
1986年、「ミクロネシア連邦」としてカロリン諸島のうちトラック、ヤップなどの島々が
1991年、「マーシャル諸島共和国」が、
1994年、「パラオ共和国」がいずれも米国領より独立。
これら三つの国が正式に国家として主権を保持し アメリカと結んだ盟約を
自由連合盟約(じゆうれんごうめいやく、
Compact Of Free Association, COFA) 略して「コンパクト」と呼ぶ。
 
これら三国は、一切の軍隊を保持せず、安全保障は米国に委ねることとなるが
裏を返せば有事の際にはいつでも島を軍事基地として利用される運命にある。
このうち、パラオについて独立の経緯を見てみよう。
 
◆太平洋三国の国民は険しくも独立の道を選んだ
パラオの独立運動は パラオの非核憲法の存在によるところが大きく
住民投票でパラオ国民は独立を選んだのだった。
ペリリュー島などかつての要衝も、米軍の利用価値が無くなったので
独立の後押しとなったのは幸運だった。
 

Photo

 
まったくもって米国の都合であるところが大きいし、真の独立とは言い難い、
疑問点は残るが それでも、独立そのものははパラオ国民が自らの意思で
決め、辛くもアメリカから勝ち取ったものであることは間違いない。
 
◆米国はグアム独立を許さない
しかしグアムはそうもいかない。
米国は軍事拠点とて重要視しており、手放すわけにいかないからだ。
  
◆沖縄は何れに属すれば最善か?生き残る道か
さて、以上をふまえた上で、これを沖縄に置き換えた場合、どう考えるか。
 

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Imgp7475 
▲日本時代のトーチカ内部より海を望む。
ピンクと黄色の花はプルメリアの花。プルメリアと一言にいっても
多様で、自生する場所によって花弁の形や色が大きく異なる。


2013年6月28日 (金)

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
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昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

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第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年6月20日 (木)

浜松広報館の零戦と尾崎伸也大尉

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航空自衛隊浜松広報館に零戦五二型(43-188号機)が展示されている。

この機体の歴史をさかのぼると、昭和38年、グアム島で発見され
日本へ返還輸送、復元されたものだ。
 
誰が乗っていたのだろうか?
展示機の説明書きにはこれといった記載が無い。
ただ書物によると、尾崎伸也(大尉)の搭乗機と推測される。
尾崎大尉は水上戦闘機出身の零戦搭乗員で
 
昭和19年5月25日、343空は、ビアク作戦発動とともにパラオ(ペリリュー基地)へ進出、
6月6日にはアイライ基地(現在のパラオ国際空港)へ拠点を移した。
 
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、敵戦闘機2機と交戦となり
1機を撃墜、もう一機に追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させたが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
それがこの機体だ。多くの観光客が訪れるが、かつて太平洋の空を席巻し
護国に命を奉げた尾崎大尉をはじめ、大空のサムライに思いを馳せる者は少ない。
 
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▲復元前、グアム島で発見された尾崎機 
 
この際なので
航空自衛隊浜松広報館(エアパーク)について触れておく。浜松は航空自衛隊発足の地で
航空自衛隊浜松広報館は、航空自衛隊に理解を深めてもらうための施設であり
巨大な格納庫には、歴代の多くの機体が展示されている。
飛行機好きにはよだれもののパークだ。
 
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老若男女、入場無料だ。
 
※民主党による2010年度の予算編成で、目の敵にされ、約一年間
入場料をとっていたが、ふたたび無料化が実現した。現在は無料である。
 
エントランス前には、退役した初代ブルーインパルスF-86Fが迎える。
 
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国産ステルス戦闘機の「心神」と政府専用機の椅子。
あまり知られていないが、政府専用機は航空自衛隊直轄の機体である。
 
この写真を友人に見せたところ 
「ふ~ん、なんかあほらしい」とコメントしていた。
でも、訪れる観光客は総理大臣の椅子に座って、みな満足そうな様子である。
確かに座り心地は良い。 
 
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三菱F-2戦闘機のプロトタイプであるXF-2。
 
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三菱F-1戦闘機。
 
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建物の隣は航空自衛隊浜松基地で、広大な滑走路を望む。
戦闘機の離着陸が見られる。なお、3階にある図書膣の資料は膨大で時間を忘れる。
 
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なんといってもここの特徴は、実際の戦闘機のコクピットに座れるという点。
操縦桿を動かしたり、ラダーペダルを踏んだりできる。
F-1やブルーインパルスのT-2などにも搭乗できる。
 
本物の戦闘機に座れるのは日本ではここだけ!
おみやげショップも完備し、飛行機好きなら絶対に損はさせない
すばらしい施設である。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

03

 
さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

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到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

ペリリュー飛行場1

▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

ペリリュー飛行場2

▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

ペリリュー飛行場3

▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

ペリリュー飛行場4 
▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

ペリリュー飛行場5

▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

ペリリュー飛行場6

ペリリュー飛行場7

ペリリュー飛行場8

▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

ペリリュー飛行場9

米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

ペリリュー飛行場10

ペリリュー飛行場11

 

なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
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メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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Imgp7651_3

 

現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。