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2014年4月15日 (火)

テニアン島戦跡(3) 第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

 
前回からの続き

テニアン島の海軍航空隊司令部跡である。

この建物、ペリリュー島に残る西カロリン航空隊司令部
ものとまったく同じ構造、間取りをしている。 
 
昭和18年~19年にかけて
第一航空艦隊の司令部となった建物である。

第一航空艦隊基幹

第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲

第261海軍航空隊(虎)零戦五二型

第263海軍航空隊(豹)零戦五二型

第265海軍航空隊(雷)零戦五二型

第321海軍航空隊 夜間戦闘機「月光」

第343海軍航空隊(初代/隼)零戦五二型

第521海軍航空隊 陸上爆撃機「銀河」

第523海軍航空隊 艦上爆撃機「彗星」

第721海軍航空隊(龍)一式陸上攻撃機

第1021海軍航空隊 輸送機

 
それにしても
第一航空艦隊というと、紛らわしい呼び名だが航空母艦は無い
 
第一航空艦隊といえば、かつては真珠湾攻撃に始まり
太平洋やインド洋でおおいに
暴れ回った空母機動部隊であったが
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で四隻の主力空母を撃沈されて以来
一旦解体し、
再建なかばにあったのだ。強いて言うならば島を
一時的に不沈空母としての運用した
のである。
 
そのため、まずはマリアナ・パラオなどで地上基地航空隊を発足させ、
訓練の
後、完成予定の航空母艦に搭載させふたたび大海原へと繰り出す
予定であった。しかし、帝国海軍の意図は脆くも崩れ去り、ふたたびその
堂々たる空母艦隊の雄姿を見ること叶わなかった。 

第一航空艦隊司令部

 
昭和19年5月、米国機動部隊がいよいよマリアナへと
進攻を開始した。マリアナ沖海戦(あ号作戦)の始まりである。
第一航空艦隊は米機動部隊を迎え撃つ形で遊撃戦に参加したが
搭乗員の大部分は未だ訓練途中であったため、大損害を受けた。
この損害により再建の望みは遠のく結果となった。
 
昭和19年7月7日、南雲忠一第一航空艦隊司令長官はサイパン島
地獄谷付近で玉砕。サイパン島はまもなく陥落し
同島アスリート飛行場を失ったうえ、多くのパイロットが
島を脱出できずに地上戦で戦死した。
 
同年8月2日、テニアン島玉砕。
南雲中将の後任となった角田覚治中将も
地上戦で戦死。海軍屈指のテニアン島ハゴイ飛行場と
ここでも脱出に失敗した多くのパイロットを地上戦で失う。
最後まで飛行機を与えられなかった飛行兵たちはさぞ無念であったろう。
 
同年8月10日、大宮島(グアム島)陥落。
さらに航空拠点を失う。
 
こうして第一航空艦隊の再建は絶望的なものとなった。
皮肉にも最も飛行場整備に適していたテニアンは
アメリカ軍の占領後、B-29の最大拠点として整備されることとなる。 
 
残存の航空兵力はパラオ・ペリリュー島とフィリピン
各地へ転進したが、その後は特攻作戦へと進んでゆく。
  

第一航空艦隊司令部▲日本海軍ハゴイ飛行場駐機場跡。

 

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部


続く

コメント

第二次大戦中のテニアンについて詳しい情報をありがとうございます。
そうか、テニアン島では航空戦はほとんどできなかったのですね。飛行場滑走路に向いているテニアンは平地が続いているようですね。祖父は海軍ですが、最後は勲章を取って部下たちと一緒に一兵卒として戦って戦死したと聞いています。総力戦後生き残って帰国された方がお参りに来てくれてお話してくれました。
コロナで旅行もいけませんでしたが、私の祖父大家吾一が戦死した場所と母から聞かされているので一度お参りに行ってみたいとずっと思っています。

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