重松 康弘(大尉) パイロットデータベース
重松 康弘(大尉)
海兵66期
大正5年東京出身。
「飛龍」分隊長、「隼鷹」分隊長、第263海軍航空隊飛行隊長。
小柄だが運動神経の塊といわれた。
昭和16年9月、飛龍乗組。
最若年パイロットとして真珠湾作戦に参加。
17年1月より分隊長となり、ミッドウェー海戦では第一次攻撃隊の直衛したのち
帰艦してすぐ、今度は小林艦爆隊を直衛し機動部隊攻撃を掩護した。
飛龍沈没後、救助され「隼鷹」乗組となる。
■南太平洋の韋駄天伝説
10月26日の南太平洋海戦では
第一次攻撃隊の掩護についたが、実はこのとき
発艦後、戦闘機の故障で一旦引き換えし、
代わりの機体に乗り換えると瞬く間に単機、主隊の後を追った。
18年「い号」作戦に参加したのち、横須賀航空隊へ。
■17~18歳の部下を率いて、マリアナ、パラオの空で戦う
昭和18年10月
第263海軍航空隊(司令・玉井浅一中佐)の発足とともに、
飛行隊長に抜擢された。
昭和19年に入ると劣性のマリアナ、パラオを転戦。部下の多くは17歳~18歳で
空戦経験の乏しい(主に甲10期生)搭乗員を率いて戦うも、そのほとんどを失う。
2月23日、米機動部隊の戦爆連合の空襲を受け
これを邀撃。輪島由雄中尉をふくむ11機を失う。
■パラオ大空襲
3/31パラオ大空襲邀撃戦では、ペリリュー発進した263空の
18機のうち、生還したのは重松を含め3機のみだった。
■戦死
同年7月8日、263空の残存5機を率い
パラオ転進の途次、ヤップ付近で空戦となり
杉田庄一上飛曹一機をのぞいた全機が未帰還、重松も戦死した。
戦死後二階級特進で中佐。