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昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。(▲写真は地下工場で製造された疾風の胴体)
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
◆城山地下工場概要
城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。
当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。
なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
◆地下工場の総員と勤務体制
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
▲地下工場で製造された疾風の主翼
◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
出典
米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
US. National Archives and Records Administration
独立飛行第1中隊(あきつ丸)/対潜哨戒飛行隊
◆使用機種
九九式軍偵察機、三式連絡機
◆部隊史
三式連絡機8機をもって陸軍はじめての
航空母船あきつ丸を母船とし、朝鮮地域において
主として関釜連絡航路の対潜哨戒を実施。
◆編成/昭和19年7月20日海雲台
◆復帰/昭和20年8月15日、海雲台
◆歴代中隊長
神谷正男少佐
船舶飛行第2中隊/対潜哨戒飛行隊
◆使用機種
カ号観測機
陸海軍史上初となるオートジャイロ部隊。
航空母船あきつ丸での運用試験実施後
壱岐筒城浜飛行場
◆編成/昭和19年10月広島市宇品
◆復帰/石川県七尾において終戦
独立飛行第3中隊/戦闘機隊
◆使用機種
甲式四型戦闘機(ニューポール・ドラージュ NiD 29)
◆部隊史
飛行第四連隊で編成、第一次上海事変に派遣
◆編成/昭和7年2月
◆復帰/大刀洗昭和7年5月、事変終結により帰還
◆歴代中隊長
神谷正男少佐
独立飛行第3中隊/重爆撃機隊
◆使用機種
九八式軽爆撃機、イ式重爆撃機(フィアットBR.20)
◆部隊史
飛行第七連隊にて編成。天津旧飛行場に前進。
第一飛行団長の指揮下に入り、昭和12年9月の第一軍の
京漢鉄道沿線および山西省の作戦に協力。昭和13年はじめ
伊式重に機種改編。昭和13年8月15日、飛行第98戦隊に改編。
◆編成/昭和12年7月8日浜松
◆復帰/昭和13年8月15日、王賓飛行場
◆歴代中隊長
島谷亭大尉
独立飛行第4中隊/偵察機隊(満洲第691)
使用機種
九四式偵察機
◆部隊史
飛行第四連隊第一中隊を基幹として編成。12年7月27日天津に前進、
平津地区の戦闘に協力。滄州、保定、石家荘、徳州、済南に移動地上作戦に協力。
12年8月27日北京に移駐。永定河右岸地区の戦闘、山西省広靈の戦闘に参加。
其の後上海、南京方面に参戦常に地上兵団の耳目として活躍
編成/昭和12年7月15日大刀洗
復帰/昭和13年7月27日、安慶
◆歴代中隊長
神崎清大尉、田中正藏大尉
独立飛行第6中隊/偵察機隊
◆使用機種
九四式偵察機
◆部隊史
飛行第四連隊第二中隊を基幹として編成。
12年7月27日天津に移駐。平津地区の地上作戦に協力。
12年8月15日上海派遣軍に編入。
12年9月1日上海に移駐。第十軍の上陸後、
進撃開始と共に敵の退却部隊の捜索と爆弾による攻撃を徹底して行い、
第十軍司令官より感状を授与
◆編成/昭和12年7月23日大刀洗
◆復帰/昭和13年7月27日、安慶
◆歴代中隊長
河村考三郎大尉、押目音次郎大尉
独立飛行第7中隊/偵察機隊
◆使用機種
乙式一型偵察機(サルムソン 2)
◆部隊史
飛行第四連隊より編成
2年5月18日天津に派遣(山東出兵)
2年10月済南に移動
◆編成/昭和2年5月17日大刀洗
◆復帰/昭和4年5月17日原隊復帰
◆歴代中隊長
川添長太郎少佐
独立飛行第8中隊/偵察機隊
◆使用機種
乙式一型偵察機(サルムソン 2)、八八式偵察機
◆部隊史
飛行第六連隊より乙式一型、四機。八八偵、二機で編成。
関東軍司令官の指揮下に入り、奉天に前進、地上部隊の戦闘に協力。
6年11月11日平壌に帰還
◆編成/昭和6年9月19日平壌
◆復帰/昭和8年6月17日、平壌
◆歴代中隊長
平田辰男少佐
独立飛行第9中隊/偵察機隊
◆使用機種
八八式偵察機
◆部隊史
6年10月15日満州派遣
編成/昭和6年9月19日承徳
復帰/昭和8年6月17日関東軍
飛行隊飛行第10大隊に編入
独立飛行第9中隊/戦闘機隊
◆使用機種
九五式戦闘機
◆部隊史
飛行第六連隊第一中隊にて九五戦十二機で編成。承徳に前進、
南口の守備隊が敵の増強により孤立し、
輸送機三十機による空輸挺身により敵の後方に当隊の
掩護の下に強硬着陸、南口の危機は回避された。
12年10月第二軍の石家荘作戦、更に第一軍の山西作戦に協力
◆編成/昭和12年7月 平壌
◆復帰/昭和14年2月、彰徳
◆歴代中隊長
鈴木五郎大尉
独立飛行第10中隊/戦闘機隊
◆使用機種
甲式四型戦闘機(ニューポール・ドラージュ NiD 29)
◆部隊史
甲式四型戦闘機八機で飛行第六連隊より編成。
関東軍司令官の指揮下に入り奉天に前進、
地上部隊の戦闘に参加。6年11月11日平壌に帰還
◆編成/昭和6年9月19日平壌
◆復帰/昭和8年6月17日関東軍飛行隊
飛行第11大隊第4中隊に編入
◆ 歴代中隊長
花沢喜美大尉
独立飛行第十中隊/戦闘機隊
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆部隊史
九五戦十五機をもって飛行第八連隊にて編成。王賓飛行場に前進。
12年12月3日大校飛行場攻撃、イ十六・七機を撃墜。
13年4月徐州作戦協力。13年9月漢口攻略作戦協力。
14年12月第百号作戦(蘭州進攻)の為運城展開。
16年5月中原会戦協力。16年12月4日広東前進、
16年12月8日大東亜戦争の開戦の第一撃で香港飛行場を急襲し在地10数機を壊滅。
第二十三軍司令官より感状授与。
第一次第二次淅カン作戦に参加。17年1月5日第十四軍飛行隊の隷下
◆編成/昭和12年9月6日ヘイトウ
◆復帰/昭和17年10月20日、漢口
◆歴代中隊長
安部勇雄大尉、木村清大尉、渋谷民雄大尉(戦死)、高月光少佐、森正幹大尉
独立飛行第11中隊/爆撃機隊
◆使用機種
九三式軽爆撃機
◆部隊史
九三式軽爆撃機十機をもって飛行第八連隊より編成。
12年10月16日上海方面航空部隊増強のため王賓飛行場に前進、
第三飛行団長の指揮下に入る。
12年10月17日大場鎭の敵陣地に対する爆撃を開始。
12年12月3日南京進撃戦において大校飛行場を爆撃。
その後句容を経て上海に移駐
◆編成/昭和12年9月6日ヘイトウ
◆復帰/昭和13年7月27日、安慶
◆歴代中隊長
野中俊雄大尉、前島美佐男大尉
独立飛行第14中隊/戦闘機隊
◆使用機種
◆部隊史
飛行第八連隊より編成。天津附近に進出
◆編成/昭和12年7月屏東
◆歴代中隊長
独立飛行第15中隊 爆撃
◆使用機種
九三式重爆撃機、九七式重爆撃機
◆部隊史
飛行第十四連隊において、九三重六機で編成、
第三飛行団長の指揮下に入る。12年10月王賓飛行場に前進、
敵陣地を爆撃。第百一師団の大場鎭占領に寄与。
13年5月九七重に機種改編。13年8月敵航空兵力封殺のため
戦爆四十八機で運城より西安に進攻し飛行機軍事施設を破壊
◆編成/昭和12年9月28日嘉義
◆復帰/昭和13年8月15日、王賓
◆歴代中隊長
滝昇中佐、野本重男少佐
独立飛行第15中隊/戦闘機隊
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
◆部隊史
沖縄において活躍
◆編成/昭和19年10月台中
◆歴代中隊長
独立飛行第十六中隊/司偵隊
◆使用機種
九七式偵察機
◆部隊史
飛行第三大隊より編成。漢口攻略戦の第二軍に協力。
航空兵団長より感状を授与。14年5月南苑にて航空兵団直轄となり
奥地進攻のための偵察に従事。15年4月第三飛行集団司令部の
直轄として奥地の偵察に従事、第百一号作戦に寄与。
16年8月第百二号作戦にて四川省方面の敵情捜索遂行
◆編成/昭和13年8月1日
◆復帰/昭和16年9月20日、彰徳
◆歴代中隊長
衣川悦司大尉、竹下光彦大尉、大平英夫少佐
独立飛行第16中隊/司偵防空戦闘機隊(燕第18999)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
中部軍管区にて内地防空作戦に参加
◆編成/昭和19年7月30日大阪
◆復帰/昭和19年9月15日、児玉
◆歴代中隊長
武藤廣喜大尉
独立飛行第十七中隊/直協
◆使用機種
九二式偵察機、九八式直接協同偵察機
◆部隊史
飛行第三大隊より編成。漢口攻略戦に協力。
14年3月第三飛行団長の指揮下に入り、第十一軍の南昌作戦に協力
◆編成/昭和13年8月1日
◆復帰/昭和15年9月3日飛行第44戦隊に編入
◆歴代中隊長
釘宮清重大尉、河村宗彦大尉
独立飛行第17中隊/司偵防空戦闘機隊(帥第34214)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
東部軍管区内で内地防空作戦に参加
◆編成/昭和19年3月31日調布
◆復帰/昭和19年9月15日調布
◆歴代中隊長
北川禎佐大尉
独立飛行第18中隊/司偵防空戦闘機隊(隼第2383)
◆使用機種
九七式偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
司偵としては最古参。13年3月?13年8月北支方面遠距離捜索。
13年9月-12月漢口攻略作戦協力戦略捜索。
13年12月第一飛行団長の指揮下に入り、奥地進攻のための偵察。
14年1月?2月奥地航空進攻作戦(重慶、蘭州)の捜索。
14年4月飛行第四十四戦隊に編入。15年9月再び独立飛行第十八中隊に復帰。
15年10月ハノイに移駐海軍航空隊のビルマ、ルート及び
昆明等奥地攻撃のための捜索に協力。
16年4月台湾を経て漢口に移駐重慶地区及び奥地飛行場群を捜索。
16年9月広東に前進桂林その他の飛行場群の攻撃。16年12月香港攻撃作戦。
17年3月ハノイに移駐、昆明等奥地飛行場群の捜索及び仏印作戦。
17年8月漢口に帰還。奥地進攻作戦(重慶衡陽零陵等)の攻撃に参加。
粤漢作戦のため漢口?広東間の航空写真撮影実施。感状四回受賞
◆編成/昭和13年2月中国
◆復帰/昭和19年10月31日漢口
◆歴代中隊長
古林忠一大尉、荒蒔義次大尉、片倉怒大尉、青木秀夫大尉、児玉眞一大尉
独立飛行第19中隊/司偵防空戦闘機隊(靖第21204)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
西部軍管区内の防空作戦に参加
◆編成/昭和19年7月30日小月
◆復帰/昭和19年9月15日、小月
◆歴代中隊長
自在丸庫一少佐
独立飛行第20中隊/輸送飛行隊(威第15382)
◆使用機種
百式輸送機(MC輸送機)
◆部隊史
18年6月23日新田原出発、ソロモン、ニューギニアを経て、
19年6月20日飛行第七師団長の隷下に入り主力はネグロス飛行場、
一部はアンボン島リアン飛行場に移駐。
12月25日バンバン、メナド、クラーク飛行場を経て
マニラ東飛行場に前進、ネグロス夜間空輸。
20年5月28日台湾、比島等を経てビナバック到着警備輸送に従事
◆編成/昭和18年5月15日
◆復帰/5月30日比島にて復帰
◆歴代中隊長
大石秀次大尉
独立飛行第23中隊/戦闘機隊(誠第41)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
◆部隊史
2月17日台湾ヘイ東に前進、要地防空と台湾及び南西諸島に於ける
防衛戦闘に参加。10月30日台中に移動要地防空。12月28日ヘイ東に
帰還要地防空。20年2月28日花蓮港に前進、台湾及び南西諸島に
おける天号作戦に参加、その後花蓮港において戦力回復
◆編成/昭和19年1月20日大刀洗
◆復帰/9月2日花連港にて停戦
◆歴代中隊長
馬場園房吉大尉
独立飛行第24中隊/戦闘機隊(誠第16500)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
◆部隊史
飛行第五十四戦隊第一中隊を基幹として編成。
19年3月1日パレンバンにて、防空任務に従事。
19年9月30日フィリピン転用ファブリカに進出、
船団掩護及防空に任ず。20年3月2日スマトラ島マナ、
タンジュンパト、ベトンに移駐。5月30日帰還。
7月17日台北経由宣蘭着
◆編成/昭和19年2月29日広東
◆復帰/8月15日宜蘭にて終戦
◆歴代中隊長
菊地幹二大尉(戦死)、岩本繁明大尉
独立飛行第25中隊/戦闘機隊(羽第16682)
◆使用機種
二式複座戦闘機改(屠龍)
◆部隊史
鞍山において南満防空に従事
20年8月5日一部を湯崗子羽攻撃飛行隊に派遣。
20年8月11日日ソ開戦熱河省林西方面敵機械化部隊攻撃。
20年8月15日ソ軍白城子トウ南方面戦車群攻撃
◆編成/昭和19年8月25日鞍山
◆昭和20年8月15日、終戦
◆歴代中隊長
永井要大尉、池田忠雄大尉、松本武夫大尉
独立飛行第31中隊/重爆隊(威第18902)
◆使用機種
九七式重爆撃機
◆部隊史
飛行第五十八戦隊の一中隊が航空通信学校で電探中隊に改編。
隊長以下五十名空中輸送にて南方移駐。
地上部隊は白石中尉以下百九名船舶輸送で移動。
19年11月3日比島バンバン結集。
20年1月14日空中部隊台湾前進、地上部隊北部ルソン移駐。
20年2月13日地上部隊ツゲガラオ到着。
20年3月10日第三十六航空地区司令部の指揮下に入る。
20年5月1日臨時歩兵第二十二大隊に編入
◆編成/(2)昭和19年6月20日水戸
◆昭和20年5月30日比島復帰
◆歴代中隊長
藤井一夫大尉
独立飛行第41中隊/襲撃・対潜哨戒機隊(誠第16683)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
関東軍臨時襲撃中隊を改編。第五航空軍の指揮下に入る。
19年11月30日上海に前進、同地において東支那海の
対潜哨戒に参加。20年3月25日第十方面軍の指揮下に入り
台北に移駐その後台北、台南、宣蘭等において南西諸島の作戦に参加
◆編成/昭和19年8月20日満洲
◆復帰/9月2日宜蘭にて停戦
◆歴代中隊長
金子精一郎少佐
独立飛行第42中隊/対潜哨戒隊(誠第19104)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
北部軍直協飛行隊を改編。
20年1月17日第五航空軍司令官の隷下に入る。
20年1月19日広東飛行場に前進、対潜哨戒の任務に従事。
20年3月27日第八飛行師団長の指揮下に入り、20年3月29日台北飛行場に前進、
同地において台湾及び南西諸島における天号航空作戦に参加
◆編成/昭和19年10月30日潮洲
◆復帰/8月15日、台北
◆歴代中隊長
森孜郎大尉
独立飛行第43中隊/対潜哨戒隊(誠第19108)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
中部軍直協飛行隊を改編。同地において対潜哨戒に従事。
20年1月17日南支宝安に移駐。
20年3月27日沖縄天号航空作戦のため樹林口飛行場に前進(特攻及び特攻誘導)
20年5月27日宣蘭に移駐、同地において昭和20年第一期航空作戦に参加
◆編成/昭和19年10月30日恒春
◆復帰/8月15日、宜蘭
◆歴代中隊長
井出覚少佐
独立飛行第44中隊/対潜哨戒隊(冀/台第18970)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
西部軍直協飛行隊を改編。
19年7月20日比島ニコラス海軍航空隊に移駐、
同地において第二飛行師団長の隷下にあって哨戒および
輸送船団の護衛に従事。
19年10月13日アパリ、マリキナを経て空中勤務者の
主力と地上整備員の一部がボルネオのアブアンに前進、
哨戒および輸送船団の護衛にあたる。20年5月30日現地復帰
◆編成/昭和19年6月10日郡山
◆復帰/昭和20年6月23日、ケニンゴー
◆歴代中隊長
塚田清大尉
独立飛行第45中隊/対潜哨戒隊(翼第18971)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機、九九式軍偵察機
◆部隊史
朝鮮軍直協飛行隊を改編。
19年12月8日レイテ作戦に参加。20年1月戦闘激化により戦力低下。
20年2月戦力回復のため昭南に移動、残存空中勤務者は
特攻要員として内地帰還。20年3月在比部隊は米軍セブ島上陸に
伴い全機損害をうけ部隊人員は山嶽地帯に入り地上防衛戦闘に参加しつつ
自活活動に入る
◆編成/昭和19年10月20日比島
◆復帰/8月15日、比島にて終戦
◆歴代中隊長
永田輝雄少佐
独立飛行第46中隊/対潜哨戒隊(誠第19170)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
東部軍直協飛行隊を改編。19年10月20日台湾に展開、
第八飛行師団長の隷下に入り、沖縄作戦を準備。
20年4月~6月特攻隊(赤心、武克飛行隊)として沖縄作戦に参加。
同作戦間部隊は大損害をうけ部隊総員百六十名中、
戦死百三十名、生死不明七名
◆編成/昭和19年10月20日東京
◆復帰/9月2日、台湾にて停戦
◆歴代中隊長
佐藤勇男大尉
独立飛行第47中隊/戦闘機隊
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、二式単座戦闘機(鍾馗)、キ60(三機のみ試作)
◆部隊史
赤穂義士にあやかり命名され俗称空の新撰組といわれ
増加試作機(二式戦)の胴には山鹿流陣太鼓のマークを画く。
16年12月9年サイゴンに進出、第三飛行集団長の指揮下に入り
仏印、マレー、ビルマなど南方作戦に参加。
17年4月25日本土防空のため調布に帰還。柏に移駐
◆編成/昭和16年9月5日福生
◆復帰/昭和18年10月3日柏
◆歴代中隊長
坂川敏雄少佐、神保進大尉、貴島俊男大尉
独立飛行第47中隊/対潜哨戒隊(誠第9910)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
第六直協飛行隊を改編。台湾主として台東にて
台湾及び南西諸島における作戦、特攻及び特攻機誘導、艦船攻撃に参加
◆編成/昭和19年10月20日台東
◆昭和20年8月15日、台東にて終戦
◆歴代中隊長
不明
独立飛行第48中隊/対潜哨戒隊(誠第9911)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
第七直協飛行隊を改編。
20年3月26日~6月20日台湾及び南西諸島における
天号航空作戦、特攻及び特攻機誘導、艦船攻撃に参加。
8月6日台中に移駐、第八飛行師団より感状を授与
◆編成/昭和19年10月30日花連港
◆8月15日、台中にて終戦
◆歴代中隊長
高橋一茂大尉(戦死)、伊藤俊之助大尉、奥平正人大尉
独立飛行第49中隊/対潜哨戒隊(誠第9912)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
第八直協飛行隊を改編。
20年3月26日~6月20日台湾及び南西諸島における天号航空作戦。
特攻及び特攻機誘導、艦船攻撃に参加、第八飛行士団長より感状を授与
◆編成/昭和19年10月30日台北
◆復帰/9月2日、台北にて停戦
◆歴代中隊長
永山菊次郎大尉(戦死)、鈴木信也大尉(戦死)、脇本末男中尉
独立飛行第50中隊/司偵隊(隼第8350)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十五戦隊第一中隊より編成。
16年10月18日サイゴン展開、マレー半島隠密捜索。
11月下旬コンポントラッシュで第三飛行団長の指揮下に入り、
航空撃滅戦のための捜索。第二十五軍のマレー作戦に直接協力。
17年2月クルアンに展開、パレンバン空挺作戦更に
パレンバンに前進、ジャワ攻略作戦参加。
3月19日ミンガラドンに前進、ビルマ攻略作戦協力。
4月新京帰還、第二航空軍隷下に復帰。訓練及び特殊任務に服す
◆編成/昭和16年7月29日新京
◆復帰/昭和19年1月31日、新京
◆歴代中隊長
佐藤清彦大尉
独立飛行第51中隊/司偵隊隼第8351
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十五戦隊より編成。第二十五軍司令官の指揮下に入り、
ハノイ、サイゴンに進出、
南部仏印進駐作戦に参加。
16年8月11日広東移駐。タ号、キ号作戦に協力。
11月15日第七飛行団長の指揮下に入り、マレー方面の
高々度隠密写真撮影を行い南方作戦資料収集に大きく貢献。
11月27日根本中隊長は昆明に対する陽動作戦のための
先行偵察で未帰還。後任少佐大室孟(45)
12月10日プノンペン進出、第一撃の捜索ビルマ航空撃滅戦の捜索。
12月28日コタバル進出シンガポール航空撃滅戦のための捜索。
17年1月アエルタワル進出、シンガポール航空作戦、
要地攻撃、スマトラ攻略作戦協力。
3月ビルマ作戦のためランパン進出。4月23日新京帰還
◆編成/昭和16年7月29日広東
◆昭和19年1月31日、新京
◆歴代中隊長
根本正大尉(戦死)、大室孟少佐、佐藤繁雄大尉
独立飛行第52中隊/軍偵隊(威第10655)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
教導飛行第二百六戦隊より編成。
16年11月第十独立飛行隊長の指揮下に入り
ヘイ東に展開
16年12月8日開戦と共に比島作戦参加。バンダイ、
カルメン、クラーク、マニラに移駐。
17年3月バタン、コレヒドール、セブ、パナイ、
ミンダナオ攻略作戦、全比島戡定作戦協力。
19年5月第四飛行師団の編組に入り、比島周辺海上護衛。
19年9月3日カロカンに移駐。富永第四航空軍司令官より賞詞を授与。
19年10月20日~20年1月10日捷一号作戦参加。
20年3月7日エチアゲにて臨時集成飛行隊を編成。
20年6月14日米軍の進入により残存した一機を台湾に向け飛行させ、
主力はピナパガンに後退、遊撃戦を展開
◆編成/昭和16年7月29日白城子
◆復帰/昭和20年9月16日、ヨネスにて解散
◆歴代中隊長
大森茂大尉、林靖博大尉(殉職)、手島丈夫大尉
独立飛行第53中隊/軍偵隊(翼)
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
衙門屯において教育訓練。
18年5月佳木斯(チャムス)に移駐
◆編成/昭和17年3月31日衙門屯
◆復帰/8月31日、佳木斯
◆歴代中隊長
鈴木剛一大尉
独立飛行第54中隊/直協隊(隼魁第8354)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
教導飛行第二百六戦隊より編成
17年4月八面通移駐、満州各地において空地連合の演習と教育訓練を実施。
7月10日太原に移駐。北支方面軍司令官の指揮下に入り多くの地上作戦に協力。
駐蒙軍に協力し蒙古における対ソ作戦準備を行う。
19年5月漢口に転進、第十一軍の湘桂作戦その他の作戦に協力。
20年6月「と号」作戦。
20年8月9日飛行隊(中練)を配属され特攻訓練を行う。
20年8月13日ソ軍の不法侵入により張家口に展開、偵察と攻撃を行う
◆編成/昭和16年7月23日白城子
◆昭和20年8月15日、杭州にて終戦
◆歴代中隊長
芝田武治少佐、熊倉惨大尉、森川偉大尉、岡本良夫少佐
独立飛行第55中隊/司偵隊(隼第2386)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
第十五独立飛行隊において編成。
17年<2項より補足>8月25日南京に移駐。
第三飛行師団の指揮下に入り重慶進攻作戦のため作戦路の
写真撮影と捜索及び中南支敵航空状況監視の任に服す。
18年5月4日漢口に展開、第一飛行団長の指揮下に入り、
在支米空軍に対する航空作戦参加。
19年3月24日南京において戦力整備。
5月湘桂作戦に協力、敵状捜索及び監視に任ず
◆編成/昭和17年3月31日ドムアン
◆復帰/昭和19年10月31日、南京
◆歴代中隊長
石田芳郎大尉
独立飛行第63中隊/司偵隊(鷲)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第二十八戦隊第二中隊より編成。
第二飛行師団の直轄として温春において解く主任務に服す
◆編成/昭和16年7月30日温春
◆復帰/昭和19年4月、温春
◆歴代中隊長
川村良吉大尉
独立飛行第66中隊/軍偵・対潜哨戒隊(靖第9171)
◆使用機種
九九式軍偵察機、九八式直接協同偵察機
◆部隊史
飛行第二十九戦隊第二中隊より編成。
16年<2項より補足>8月北支大原に移駐第三十五軍の鄭州攻略と
第一軍の山西省西辺地区撃滅戦に協力。
17年7月30日八面通に移駐。10月20日海林に移駐。
18年10月15日海浪に移駐。
各駐屯地において教育訓練。
20年2月3日海雲台に移駐、第二百六独立飛行隊の指揮下に
入り主として関釜連絡航路の哨戒に当る
◆編成/昭和16年7月29日連浦
◆復帰/昭和20年8月15日、海雲台
◆歴代中隊長
伊丹武雄大尉、青木正好大尉
独立飛行第70中隊/司偵隊(司第9641)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十戦隊第一中隊より編成。
16年12月25日第十飛行団長の隷下に入り
仏印クラコールに前進、ビルマ方面の捜索に従事、同方面航空撃滅に貢献。
17年11月南太平洋方面に転用され濠北方面捜索に任ず。
18年12月ハルク島に移駐。19年10月セレベス島リンプンに移駐。
20年4月ジャワ島のマランに移駐、ホランジア以西の捜索とボルネオ周辺の哨海を担当
◆編成/昭和17年7月28日チチハル
◆復帰/昭和20年8月15日、ジャワにて終戦
◆歴代中隊長
大平忠夫大尉(戦死)、佐々木駿爾大尉(戦死)、市川蔵康少佐
独立飛行第71中隊/軍偵・戦闘機隊(誠第9180)
◆使用機種
九九式軍偵察機、一式戦闘機(隼)
◆部隊史
飛行第八十三戦隊第一中隊より編成。
16年12月~17年2月マレー半島。2月11日シンガポールの
敵軍に対し降伏勧告文を投下。
2月~11月ビルマ。11月~18年1月ジャワのチモール島。
2月~12月ビルマ各地で大東亜戦争に従事。
12月明野飛行学校において戦闘機に機種改変。
19年4月~20年6月北部スマトラ並びにアンダマン諸島の
防空任務に服す。
2月24日マレーのアロルスター飛行場に移駐、
同地において訓練警備。
6月30日本土作戦のため一式戦十三機で
整備員三十四名搭乗の九七重三機を護衛、台湾に移駐
◆編成/昭和16年7月29日海林
◆昭和20年8月15日、一部アロールスターにて終戦
◆歴代中隊長
西篤大尉、勝田悦男大尉、家田西行大尉、後藤芳夫大尉
独立飛行第73中隊/軍偵隊(司第9181)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式軍偵察機
◆部隊史
飛行第八十三戦隊第三中隊より編成。海林に於て警備並びに次期作戦準備。
大東亜戦争に参加し、マレー攻略作戦、ジャワ攻略作戦。
チモール島周辺の哨戒及船団掩護飛行場港湾設備偵察。
第二次濠洲進攻作戦セレベス島周辺の対潜哨戒及び船団掩護海上交通保護作戦。
比島捷号作戦などに参加。
19年8月独立飛行第八十二中隊の一部を編入。
20年2月ジャワ島に移駐、クレテンにて反攻邀撃々作戦に従事
◆編成/昭和16年7月29日海林
◆復帰/昭和20年9月2日、ジャワにて停戦
◆歴代中隊長
南隆耕大尉、島田三郎大尉(戦死)、春成兼正少佐
独立飛行第74中隊/直協・司偵隊(翔第9643)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十戦隊第三中隊より編成。
16年12月比島ピガンに前進、第十独立飛行隊長の
指揮下にて比島作戦に従事。
18年2月~5月八街において司偵に機種改変。
7月26日ニューギニア方面に移駐、同島周辺航空撃滅戦に参加。
其の後比島を経てパレンバンに展開。
20年4月高々度戦闘中隊編成。5月12日ゲルンバンに移駐
◆編成/昭和16年7月28日衙門屯
◆昭和20年8月15日、ゲルンバンにて終戦
◆歴代中隊長
調正三大尉、堀貞夫大尉(戦死)、角田雄三大尉、湯地定三大尉
独立飛行第76中隊/司偵隊(洋・高第9642)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十戦隊より編成。
開戦と共に第五飛行集団長の隷下に入り比島カガヤン方面
クラーク地区の敵状及び気象状況を捜索し第十四軍主力の上陸作戦に協力。
17年10月南太平洋方面ラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア方面の捜索に活躍
◆編成/昭和16年7月28日衙門屯
◆復帰/昭和18年6月10日、ラバウル
◆歴代中隊長
高田勝重大尉、桐田日出夫大尉(戦死)、篠原英夫大尉
独立飛行第81中隊/司偵隊
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第二十八戦隊第一中隊より編成、温春において教育訓練。
第六飛行師団に編入。18年8月ニューギニア、ウエワク中飛行場に
進出、連日にわたり捜索活動に従事。
同地に対する敵機の攻撃は日を追ってはげしく戦力は9月下旬零となった。
独立飛行第八十二中隊と交代し満州に帰還
◆編成/昭和16年7月30日温春
◆昭和19年4月、温春
◆歴代中隊長
森本三郎大尉(戦死)、斉藤三郎大尉
独立飛行第81中隊/司偵隊(羽第9162)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、二式複座戦闘機改(屠龍)
◆部隊史
19年7月30日鞍山飛行場に移駐、鞍山防空に従事。
20年6月20日奉天を経て新京に移駐。
7月20日対ソ戦準備のため臨時司偵隊を編入、
新京西飛行場において編成完結
◆編成/昭和19年4月1日温春
◆復帰/昭和20年8月15日、新京にて終戦
◆歴代中隊長
大和田進少佐
独立飛行第82中隊/軽爆隊
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機
◆部隊史
第二十一独立飛行隊の指揮下に入り広東地区で活躍
◆編成/昭和14年7月6日広東
◆復帰/昭和17年10月15日飛行第34戦隊に改編
◆歴代中隊長
岡田武夫大尉、鈴木秋水大尉、藤井辰次郎少佐
独立飛行第82中隊/司偵隊
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
第二十八独立飛行隊において編成、温春において教育訓練。
19年1月1日独立飛行第八十一中隊と交替し、ニューギニア、ホランジアに進出。
豪北方面の捜索任務に従事。5月1日ホランジア失陥により森玉飛行団長の
指揮の下、地上行軍により5月末、サルミに到着
◆編成/昭和17年12月温春
◆復帰/昭和19年10月29日内地帰還
◆歴代中隊長
不明
独立飛行第82中隊/司偵防空戦闘機隊(天鷲第19529)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
大阪を主活動地域とし高々度戦闘に従事
◆編成/昭和20年2月25日大正
◆復帰/昭和20年8月10日第28独立飛行隊に編入
◆歴代中隊長
成田冨三大尉
独立飛行第83中隊/軍偵隊(天風第19530)
◆使用機種
九九式軍偵察機甲型、九八式軽爆撃機
◆部隊史
14年9月より中国全土にわたり多くの飛行場において各種作戦に参加。
18年5月南方ウエワクに移駐、第六飛行師団長の指揮下にて
第一線協力、高級ブインの空輸、指揮連絡、敵の軍事施設、
飛行場、上陸基地の攻撃を行う。
11月主力ラバウルに前進。
19年8月一部は独立飛行第七十三中隊に転属
◆編成/昭和14年8月1日彰徳
◆復帰/昭和19年7月25日、現地復帰
独立飛行第83中隊/司偵防空戦闘機隊
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
内地を主活動地域として高々度戦闘実施
◆編成/昭和20年2月25日
◆復帰/昭和20年7月30日
◆歴代中隊長
不明
独立飛行第84中隊/戦闘機隊
◆使用機種
九七式戦闘機、二式複座戦闘機(屠龍)
◆部隊史
第二十一独立飛行隊の指揮下に入り広東地区の防空に任じ
翁英作戦、南寧作戦、賓陽会戦に於て地上兵団に協力。
北部仏印進駐と共にハノイに前進。
16年7月南部仏印進駐と共にサイゴンに移動。
12月ナトランに移駐、上陸船団掩護。
17年1月二式複戦に機種改変。4月一部を
マニラに派遣、比島防空、上陸掩護等の任務に従事。
6月広東に移動、桂林進攻
◆編成/昭和14年7月6日広東
◆昭和17年10月20日、ハノイ
◆歴代中隊長
原弥治大尉、長野綱男少佐
独立飛行第84中隊/戦闘機隊(翔)
◆使用機種
不明
◆部隊史
主として蘭印において活動
◆編成/昭和20年2月25日パレンバン
◆昭和20年5月30日
◆歴代中隊長
不明
独立飛行第85中隊/司偵隊(鷲)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
不明
◆編成/昭和17年秋温春
◆昭和19年1月31日
◆歴代中隊長
渡部行男大尉
独立飛行第87中隊/軍偵隊(満洲)
◆使用機種
九九式軍偵察機、九七式軽爆撃機
◆部隊史
飛行第二十九戦隊にて編成。
16年8月北支太原に移駐。16年9月16日
第一次長沙作戦協力のため白螺磯に前進。
17年1月第二次長沙作戦に参加。
17年5月南昌に前進、淅カン作戦に参加。
17年7月30日八面通移駐。17年10月海林移駐
◆編成/昭和16年7月29日連浦
◆昭和19年2月5日、海林
◆歴代中隊長
中川範治大尉
独立飛行第89中隊/直協・軍偵、司偵隊
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機、九九式軍偵察機、二式複座戦闘機改(屠龍)
◆部隊史
飛行第八十三戦隊第三中隊より編成。
16年12月第八十三独立飛行隊に属し、
海上輸送によりサイゴンに前進、マレー作戦に従事。
17年2月9日軍砲兵隊のシンガポール島制圧の弾着観測を行う。
17年4月ビルマ作戦のためトングーに前進、シンゲン基地で第十五軍に協力。
18年9月軍偵に機種改変。
18年10月末ビルマ方面軍指揮下に入り、
南ビルマの写真撮影、海上哨戒等の任務に服す、インパール作戦に協力
◆編成/昭和16年7月29日海林
◆復帰/昭和19年3月31日、ラングーン
◆歴代中隊長
黒川正憲大尉、長沢清大尉、坪井利大尉
独立飛行第90中隊/軍偵隊
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
第二十九独立飛行隊より編成。
同隊の隷下として、17年5月南昌に前進、淅カン作戦に参加。
7月15日新郷に移駐。訓練整備を行う。10月海林に移駐
◆編成/昭和17年4月太原
◆復帰/昭和19年2月5日、海林
◆歴代中隊長
中野猪之八大尉
独立飛行第91中隊/直協隊
◆使用機種
九八式直接協同偵察機
◆部隊史
17年4月ビルマ、トングーで第八十三独立飛行隊長の指揮下に入る。
18年7月24日第三航空軍の隷下となる。9月ジャワ島バリシアンにて作戦参加。
18年末サイゴンに移駐、同方面の哨戒及び訓練を行う
◆編成
◆復帰/昭和19年3月31日、ラングーン
◆歴代中隊長
中村虎之助大尉
独立飛行第96中隊/直協隊
◆使用機種
九九式軍偵察機
◆部隊史
不明
◆編成/昭和16年7月25日
◆復帰/昭和19年2月5日、海林
独立飛行第101中隊/司偵隊
◆使用機種
九七式司令部偵察機
◆部隊史
内地を主要行動地域とす
◆編成/昭和16年7月20日調布
◆復帰/昭和17年4月21日、調布
◆歴代中隊長
安田岳彦大尉
独立飛行102中隊/司偵隊
◆使用機種
九七式司令部偵察機
◆部隊史
内地を主要活動地域とす
◆編成/昭和16年7月20日加古川
◆復帰/昭和17年4月21日加古川
◆歴代中隊長
山本礼二大尉
独立飛行103中隊/司偵隊
◆使用機種
九七式司令部偵察機
◆部隊史
内地を主要活動地域とす
◆編成/昭和16年7月20日小月
◆復帰/昭和17年4月21日小月
◆歴代中隊長
木村正義大尉
陸軍飛行戦隊のデータベースを作っています。
海軍航空隊の情報は充実しているのですが、陸軍飛行戦隊は
ほとんど検索しても出てこないので、興味を持って調べられた方の
きっかけになりたいと願っております。
陸軍の航空機運用は、歩兵の支援機関であり、古くは明治42年に発足した
気球研究会が始まりです。
固定翼機が活躍した大東亜戦争時の基本部隊編成を役割ごとに分けると
戦闘機隊・軽爆撃機(襲撃機)隊・重爆撃機隊・偵察機隊・輸送飛行隊があります。
海軍と比較して部隊が規模が小さい代わり数が多いのが特徴です。
陸軍の歩兵中隊をベースに考えるとわかりやすく、
陸軍飛行戦隊は3機~4機を一個中隊(飛行隊と呼ぶ場合も)として
第一から第三、第四中隊で一個の飛行戦隊となり、おおむね16機程度となります。
飛行戦隊以外に
師団司令部直轄飛行隊、独立飛行中隊、教育飛行隊、飛行学校、教導飛行師団、
航空廠等も揃えて参ります。
部隊名のみ記入し、概要と航空機のビジュアル等は
完成次第、追加して行きます。
ちょっと多すぎるので、ページを分けます。
部隊名など、文字検索の方法
(win)Ctrl+Fキーを同時に押すと画面右上にウインドウが現れ
ページ内部検索ができます。
(Mac)command+Fキーを同時に押すと画面右上にウインドウが現れ
ページ内部検索ができます。
飛行第1戦隊/戦闘機隊(威第8301)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
日本陸軍最初の戦闘隊として最も古い伝統を誇る。
その前身は大正4年10月に所沢で編成された航空大隊で
気球一個中隊、飛行機一個中隊、材料廠より成る。
当初の使用機はモーリス・ファルマンであった。
ノモンハン事件では飛行第十一戦隊とともに活躍し、
大東亜戦争では一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」
を使用しニューギニア・大陸戦線を転戦したのち、
フィリピン決戦に全戦力を投入。通常任務のほか、
特攻隊を編成、戦力の全てを失った。埼玉県の高萩で戦力復帰し
第十飛行師団隷下で本土防空戦を行いつつ終戦を迎えた。
◆編成と復帰
昭和13年7月5日各務原において編成。
埼玉県高萩飛行場において復帰
◆部隊史
飛行第一連隊を改編。
14年6月1日満州孫家へ移駐、第一飛行集団隷下。6月21日満州徳伯斯へ展開。
7月2日満州採塩所へ展開、この間第二次ノモンハン事件に参加、第五飛行集団隷下。
10月10日孫家に帰還。
16年3月呂号特別演習参加。6月勃利にて警備。11月19日孫家出発、第三飛行集団隷下。
12月8日シンゴラ着マレー作戦参加、船団援護、泊地援護。
17年2月17日パレンバンに進出同地防空。4月7日レグ進出ビルマ作戦参加。
17年5月~7月三重県明野にて機種改変。8月第十二飛行団隷下、パレンバン進出同地防空。
17年10月3日ハノイ着、雲南、昆明攻撃参加。10月20日一部を二十一戦隊に転属。
18年1月9日ラバウル進出、ソロモン、ニューギニア、ガダルカナル作戦参加。
18年8月2日明野において機種改変、満州佳木斯へ展開。
11月内地に転進、千葉県柏着以後帝都防空に従事。
19年10月23日比島クラークフイルドに展開、第十二飛行団長の隷下に入り、レイテ総攻撃作戦参加。
19年11月7日戦力回復のため茨城県下館に帰還。12月27日ポーラックに進出、比島航空作戦参加。
20年2月台湾に移動。4月30日第十二飛行師団隷下、埼玉県高萩へ移駐、戦力回復。
地上残置隊はルソン島カガヤンにおいて臨時歩兵第二十四大隊(長は安倍大佐)に編入。
イザベラ州サンタクルーズ付近の討伐警備に任す。
20年9月2日停戦により武装解除、米軍収容所に入る。
◆歴代戦隊長
加藤敏雄中佐、原田文雄少佐、吉田直少佐、竹田金四郎中佐、
沢田貢少佐、松村俊輔少佐、橋本重治大尉、四至本広之蒸大尉
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第2戦隊/偵察機隊(威第11614)
◆仕様機種
九二式偵察機、九四式偵察機、九七式司令部偵察機、
九八式直接協同偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第二連隊を改編。
7月18日第六・七直協飛行隊を編成、第一飛行集団隷下。
18年8月31日チチハルに移駐、独立飛行第五十三中隊を編合、9月20日佳木斯へ移駐。
19年5月25日クラークに展開、海軍連合艦隊司令長官の指揮下に入り、
6月16日ペリリユウに前進、海上捜索。
19年7月9日クラークに帰還、第二飛行士団長の指揮下に復帰、ハルマヘラ方面、
比島航空作戦に参加、
機動部隊捜索、攻撃部隊誘導、戦果確認等に活躍。
11月21日第四航空軍司令官より感状授与。
20年1月12日戦力回復のため空中勤務者及び、基幹人員ヘイ東へ転進
(地上勤務者の大部は臨時歩兵第十五大隊及び航空通信隊編入)
2月16日第六航空軍司令官の隷下に入り、3月6日から逐次千葉県八街へ帰還。
3月24日福岡県蓆田(板付)に前進、飛行第百六戦隊、独飛第十九中隊、
第四独立飛行隊を指揮下に入れ(4月20日独飛第十九中隊を除き編合)、
菊水及び天号航空作戦に参加、沖縄方面養生作戦に任じた。
7月15日第十二独立飛行隊に改編復帰。
◆編成と復帰
昭和13年7月31日、各務原において編成
昭和20年7月15日、福岡において復帰
◆歴代戦隊長
沼田英治中佐、小林孝知大佐、今津正光中佐、沢井光二中佐、鈴木剛一少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第3戦隊/軽爆・偵察・襲撃隊(誠第18967)
◆仕様機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、
百式司令部偵察機(新司偵)、キ百二双発襲撃機(五式双発襲撃機)
◆部隊史
飛行第三連隊を改編、第一飛行集団隷下。
17年3月青森県八戸に移駐。17年6月樺太落合飛行場に移駐。19年3月北千島占守島に移駐。
19年6月沖縄嘉手納に展開。10月台中に移駐、台湾防衛戦闘参加。
10月下旬クラークに展開、比島航空作戦参加、
11月20日戦力回復のため埼玉県所沢へ帰還、戦力再編成、第二十六飛行団隷下、
20年6月秋田県能代に移駐。
◆編成と復帰
昭和13年8月31日八日市において編成
昭和20年9月1日、能代復員
◆歴代戦隊長
東榮治大佐、志方光之大佐、鈴木京中佐、木村修一中佐(戦死)、鈴木武男少佐、並木好文少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第4戦隊/偵察・戦闘機隊(天風第35001)
◆使用機種
九四式偵察機、九五式戦闘機、九七式戦闘機、
九七式司令部偵察機、二式複座戦闘機(屠龍)
◆概略
北九州地区におけるB-29邀撃戦闘で著名な飛行戦隊。
夜間、対重爆撃機に対する邀撃に最も早くから着目し
鹵獲したB-17を目標機に使用して高高度戦闘訓練を実施。
二式複戦屠龍のほか、武装した百式司偵を加え、
成都から飛来するB-29梯団の邀撃任務に就く。
昭和十九年十二月には空対空体当たり専門の「回天隊」を編成したほか
フィリピンへ数名の特攻要員を送り出している。
◆部隊史
飛行第四連隊を改編、第一飛行集団隷下。
15年3月山口県小月に移駐。16年10月10日台南屏東に展開、防空及船団援護。
11月11日小月に帰還、第十二飛行師団隷下、北九州の防空に従事。
◆編成と復帰
昭和13年8月31日、芦屋において編成
昭和20年8月15日、小月において終戦
◆歴代戦隊長
近藤時習大佐、立松芳次郎大佐、林三郎中佐、岡本修一中佐、長野綱男少佐、
黒田武文少佐、阿部勇雄少佐、小林公二少佐、町田久男少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第5戦隊/戦闘機隊(天鷲第15310)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式複座戦闘機屠龍、五式戦闘機
◆概略
二式複戦「屠龍」を用いて
名古屋地区の本土防空戦で活躍したことで著名な戦隊。
二式複戦のほかに、終戦までに五式戦30機が配備された。
終戦の詔勅ののち
戦隊は18日未明を期して伊勢湾南方の米機動部隊に爆装した
五式戦二十五機で強襲する計画をたてていたが、情報が洩れ
飛行師団司令部の説得で中止された。
南方戦線では昭和19年5月
高田勝重戦隊長がビアク上陸の当日、ソロン・エフマン基地に
あった二式複戦、四機を爆装して出撃。海面から100メートルの
超低空飛行で敵駆逐艦を強襲し全機未帰還となった。
高田隊の壮挙は特攻の先駆けと称えられ南方総軍司令官から
感状を授与された。
◆部隊史
飛行第五連隊を改編し、第一飛行集団隷下となる。
14年6月千葉県柏に移駐。
18年7月マランに展開し、船団掩護と防空任務に服す。
18年5月27日高田勝重戦隊長は4機をもってピアクの敵艦船に突入。
19年9月愛知県小牧に移駐し、第二十三飛行団隷下となる。
◆編成復帰
昭和13年8月31日立川において編成
昭和20年8月15日、清州で終戦
◆歴代戦隊長
近藤兼利大佐、恩田謙蔵大佐、小松原虎男中佐、
高田勝重少佐、松山武夫少佐、山下美明少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第6戦隊/軽爆機隊(隼魁第9102)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式軽爆撃機、九八式軽爆撃機、九九式襲撃機
◆部隊史
飛行第六連隊を改編、第二飛行団隷下。
16年8月14日関特演のため朝鮮会寧に移動。10月18日満州佳木斯に移動。
18年8月東京城へ展開。19年1月31日支那に転用され編成改正。
5月19日中支南京へ展開。5月29日主力(本部主力及び第一・第三中隊)
白螺磯へ展開、長沙攻略作戦。衡陽攻撃に参加、
6月7日一部(本部の一部及び第二中隊)南支へ展開、衡陽攻撃に協力。
20年4月海州を経て朝鮮大邱へ展開、20年8月23日東京都調布へ移駐。
◆編成復帰
昭和13年8月31日平壌において編成
20年8月調布において復帰
◆歴代戦隊長
平田勝治大佐、佐藤吉直中佐、広田一雄中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第7戦隊/重爆機隊(靖第21202)
◆使用機種
九三式重爆撃機、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)
四式重爆撃機(飛龍)
◆概略
陸軍重爆撃機隊として最も古い歴史を誇る。
昭和19年6月以降、四式重爆機「飛龍」をもって
海軍連合艦隊の指揮下に入り
鹿屋、大分等の海軍基地へ展開。98戦隊とともに陸軍機としては初となる
雷撃隊となる。空母「鳳翔」を敵艦にみたて、雷撃訓練を実施した。
比島・クラークに進出し、巡洋艦撃沈等の戦果を記録。
年末には千葉県香取基地よりサイパン島を爆撃。そのうちに
陸軍より「爆撃に使用するくらいなら陸軍に返せ」と問題になり
約三週間実施した爆撃を中止し、宮崎へ帰投する。
◆部隊史
飛行第七連隊を改編し、第一飛行集団隷下となる。
16年7月11日航空兵団長隷下に入り、関特演参加のため満州公主嶺に移駐。
17年9月第三航空軍指揮下に入りカリジヤチに前進、パンダ海方面海域の哨戒。
18年4月静岡県浜松に於て機種改変。18年8月ニューギニア航空作戦参加。
19年1月戦力回復のため浜松に集結。19年2月鹿児島県鹿屋に移駐。
19年2月22日編成改正、第一航空軍司令官の隷下に入り四式重爆撃機(飛龍)に機種改変。
19年6月海軍連合艦隊の指揮下に入り雷撃訓練。
19年10月比島クラークに展開、比島、沖縄航空作戦参加。
19年12月千葉県香取に展開、サイパン攻撃。
20年3月宮崎に集結、九州東方海面航空作戦及沖縄艦船攻撃に参加、第二十七飛行団隷下となる。
20年6月29日本部は兵庫県伊丹に、各中隊は公主嶺、福島県郡山、鳥取県美保、
三重県亀山基地に展開。
20年8月15日各中隊伊丹に集結。
◆編成復帰
昭和13年8月31日浜松において編成
20年8月15日伊丹において終戦
◆歴代戦隊長
塚田理喜智大佐、三成省三大佐、深井英一大佐、大西豊吉中佐、高橋猛少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第8戦隊/司偵・軽爆隊(誠第9913)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第八連隊を改編、第四飛行団隷下。
16年3月30日臨時編成下令。16年4月15日台北に集結、南支方面軍司令官の指揮下に入り福州作戦参加。
4月29日屏東帰還。16年5月11日臨時出動下令支那派遣軍總司令官の指揮下に入り淅東作戦に参加。
5月27日屏東帰還。16年7月機種改編。12月8日~12月21日比島航空撃滅戦参加、
12月比島ツゲガラオに展開マニラ攻略戦参加。17年1月9日次期作戦準備のため屏東へ移駐。
1月22日ドムアンに展開、飛行第五師団隷下、ビルマ航空作戦参加、
バンコック、ミンガラドン、モールメン、トングーに基地前進。
18年8月岐阜に於て機種改編(九九式双発軽爆撃機)
18年11月タイに転進、ビルマ北方遮断作戦及びインパール作戦参加。
19年7月仏印プノンペン、クツクリ等に於て艦船及び飛行場攻撃に参加。
20年7月屏東に移駐、第八飛行師団に編入。
◆編成復帰
昭和13年8月31日編成
◆歴代戦隊長
山中繁茂大佐、本多三男大佐、塩田要中佐、釘宮清重中佐、肱岡直少佐、長屋勝重中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第9戦隊/戦闘機隊(隼魁第9103)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)
◆概略
支那事変・ノモンハン事件以来、大東亜戦争終結まで
大陸戦線で敢闘を続けた戦闘機隊。昭和18年5月
明野で二式単戦に機種転換し東満の団山子飛行場へ移駐し
各地で空戦を重ねた。また、当初成都から出撃するB-29の編隊を
攻撃した。
◆部隊史
飛行第九連隊を改編。
13年7月12日蒙古力に移駐。
18年9月9日牡丹江省団山子に移駐。
19年2~12月の間、支那に派遣され、安慶、新郷、漢口に展開。
19年中期、後期、中支航空作戦に参加。
19年12月8日~20年3月8日広東に前進、南支航空作戦ならびにと号作戦参加。
20年8月14日南京に展開。
◆編成復帰
昭和13年7月1日会寧において編成
南京において終戦
◆歴代戦隊長
難波清作大佐、秋田熊雄中佐、高梨辰雄少佐、役山武久少佐、平家輔少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第10戦隊/偵察・軽爆機隊(誠第9624)
◆使用機種
九四式偵察機、九七式司令部偵察機、九八式軽爆撃機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十連隊を改編、第二飛行集団隷下。
14年5月1日、ノモンハン事件参加。
16年7月28日第十独立飛行隊本部、独立飛行第七十、七十四、七十六中隊に改編。
18年6月10日ラバウルにおいて第十独立飛行隊、独立第七十六中隊を復帰し、
飛行第八十一戦隊より、一個司偵中隊を転入して戦隊再編成。
18年8月ニューギニア、ウエワクに前進、ニューギニア、東部・南部の捜索に任ず。
19年6月5日ミンダナオ島ダバオに展開。19年7月戦力回復のため千葉県下志津へ移動。
19年11月台北に展開、台湾及び南西諸島、航空作戦参加。
20年3月26日~6月20日天号航空作戦参加。
◆編成復帰
昭和13年8月31日嫩江において編成
台北にて終戦
◆歴代戦隊長
田副登大佐、白銀重二大佐、土田兵吾大佐、下村兵一中佐、新沢勉中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第11戦隊/戦闘機隊(燕第8311)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
ノモンハンで勇名を馳せた陸軍戦闘機隊。
飛行第一戦隊と共にもっとも古い伝統を誇り
篠原弘道など数多のエースを輩出。大東亜戦争では
フィリピンでの激戦、本土防空戦に従事した。
11を象った電光マークは最もよく知られている。
◆部隊史
飛行十一連隊を改編。
14年5月13日第一次ノモンハン事件参加のため満州採塩所に展開。
14年10月20日より支那事変参加、南京、武昌、漢口において防空ならびに諸作戦に従事。
15年12月17日ハルピンに帰還。
16年6月関特演参加のため、満州勃利に展開、第三飛行集団隷下となる。
16年11月14日南方転進、フコク島クーカンに展開し船団掩護。
その後シンゴラ、パタニ、クワンタン、スンゲイバタニ、パトバハ、パレンバンと移動し、
マレー、ジャワ作戦に参加。
17年3月ビルマ派遣、レグへ展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
17年7月3日機種改編のため三重県明野に移駐。9月16日シンガポール帰還。
12月21日南東方面に転用されラバウルへ展開、ニューギニヤ方面の作戦に参加。
18年8月12日内地帰還。明野で機種改編後、ハルピンに移動し戦力回復。
12月17日中支武昌へ展開。一号作戦参加。
19年3月東京都福生に移動、四式戦に機種改編。10月宜蘭に前進し、台湾防空。
19年11月2日比島ポーラックに展開、捷一号作戦参加。
20年2月26日第六航空軍に編入。茨城県下館、埼玉県高萩にて戦力充実。
◆歴代戦隊長
野口雄次郎大佐、岡部貞中佐、杉浦勝次少佐、森下清次郎少佐、金谷祥弘少佐、溝口雄二少佐
◆編成/昭和13年8月31日ハルピン
◆復帰/昭和20年埼玉県高荻飛行場
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第12戦隊/重爆撃機隊(誠第9122)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)
◆部隊史
飛行第十二連隊、第一大隊を改編、航空兵団隷下。
13年9月北支派遣、漢口攻略その他作戦、重慶、蘭州等奥地進攻作戦参加。第二飛行集団隷下。
14年2月公主嶺帰還。14年6月19日~7月14日ノモンハン事件参加。
16年8月北支派遣、重慶、蘭州に進攻。
9月23日広東へ展開、第三飛行集団隷下、プノンペンに前進、マレー航空撃滅戦参加。
12月25日ビルマ航空撃滅戦参加。
17年1月シンガポール攻撃、2月16日~3月16日北部スマトラ作戦参加。
4月24日ビルマ、ミンガラドンに展開、第二次ビルマ航空作戦参加。
9月10日武装改装のため内地帰還。9月20日現地に帰還。第七飛行団隷下。
17年11月18日ジャワ、スラバヤに展開、ジャワ周辺航空作戦参加。
18年5月レグー展開ビルマ航空撃滅戦参加、
19年7月15日比島、クラークに集結。11月4日ケンダリー、モロタイ攻撃。
20年1月11日比島マラバンに展開、戦力回復。此の間第二次濠北作戦、比島作戦参加。
20年7月10日第八飛行師団隷下、屏東に移動。
◆歴代戦隊長
原田宇一郎大佐、山本健児大佐、北島熊雄大佐、吉井宝一大佐、野本重男少佐、浜田益生少佐
◆編成/昭和13年8月31日公主嶺
◆復帰/ヘイトウ
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第13戦隊/戦闘機隊(誠第11703)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式司令部偵察機、九七式戦闘機、
一式戦闘機(隼)、二式複座戦闘機(屠龍)、四式戦闘機(疾風)
◆概要
日米開戦とともに加古川で、阪神地区の防空任務を主として
編成された戦隊。京城派遣、室蘭防空ののち二式複戦に
機種改編し昭和18年3月、南方進出の命が下る。
B-17攻撃用として37ミリ戦車砲が搭載された機体を含め
フィリピンを経由しラバウルへ進出。空母「雲鷹」「沖鷹」
で横須賀を出港した部隊はトラック春島飛行場へ立ち寄った
のちラバウルへ進出し、主として対重爆機戦闘の要として
戦果を上げた。
◆部隊史
飛行第十三連隊を改編、第一飛行集団隷下となる。
16年12月8日~17年12月31日柏に移駐、帝都防衛。
17年3月二式複戦屠龍に機種改編。
18年5月11日ラバウルに展開、防空任務。ウエワクに前進、海上輸送掩護。
12月31日ハルマヘラ島ガレラに展開、対潜哨戒、船団掩護。
19年4月一式戦隼に機種改編。12月3日比島ポーラック進出、比島航空作戦参加。
20年3月15日サイゴンに移動、戦力回復。第八飛行師団隷下となる。
20年7月15日台湾屏東に展開。
◆歴代戦隊長
神谷正男大佐、近藤三郎中佐、立山武雄大佐、秋田熊雄中佐、
長野綱雄少佐、町田久雄少佐、中野和彦少佐、丸川公一少佐
◆編成復帰
昭和13年8月30日加古川
昭和20年8月15日ヘイトウにて終戦
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第14戦隊/重爆撃機隊(燕第9906)
◆使用機種
九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
飛行第十四連隊を改編、第四飛行団隷下。
15年7月海南島海口に展開。
16年4月福州上陸作戦のため台北へ展開、5月浙江作戦のため中支大場鎭へ転進。
5月下旬台湾嘉義帰還。
7月13日南部仏印進駐作戦のため海南島、海口に展開。8月30日嘉義帰還。
12月8日北部比島攻撃。12月16日香港攻撃、12月23日ルソン島、ツゲガラオに展開、比島作戦参加。
17年1月6日嘉義帰還。1月20日タイ・ドムアンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
5月1日機種改変のため浜松へ移動。6月26日マレー、ケチルに展開、
第七飛行団隷下、ビルマ周辺地区航空作戦参加。
18年3月1日ラバウルに展開ニューギニア、ソロモン航空作戦参加。
19年1月15日~3月チモール島、モロタイ島、パラオ島各飛行場に展開、対潜哨戒。
3月下旬~4月クラーク、アンヘレス飛行場に展開、輸送船団掩護。
7月~10月嘉義に於て海上哨戒。10月20日クラークフィールドに展開。
11月セレベス島・ピンランに展開、モロタイ島攻撃。12月22日ジャワ島、マランに展開。
20年1月16日機種改変のため福岡県新田原に移動。2月4日茨城県水戸へ移駐。
第十六飛行団隷下、20年5月群馬県新田へ移駐。
◆歴代戦隊長
弘中孫六大佐、井戸田勇大佐、遠藤操中佐、朝山小二郎中佐、吉田大八少佐
◆編成復帰
昭和13年8月31日嘉義
新田にて終戦
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第15戦隊/偵察機隊(威第8315)
◆使用機種
九四式偵察機、九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、
九八式直接協同偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
飛行第十五連隊を改編、航空兵団隷下。
13年9月23日北支作戦参加の為、南苑に展開、第二飛行集団隷下。
14年4月満州新京に帰還。6月27日ハイラルに展開、ノモンハン事件参加。
9月30日新京帰還。15年3月直協中隊支那方面派遣。16年3月編成改正、司偵二個中隊となる。
16年7月1日第二中隊広東へ展開、第二十五軍指揮下に入る。
7月29日戦隊を第十五独立飛行隊・独立飛行第五十、五十一中隊に改編。
19年1月31日新京に於て、第十五独立飛行隊本部、独立飛行第五十、五十一中隊を復帰。
19年5月比島クラーク進出、海軍第二十三航空部隊の指揮下に入り南東方面の捜索。
19年10月内地帰還、大阪府大正にて戦力回復、機種改変。
11月比島サンマルセリノに前進、レイテ方面捜索、比島航空作戦参加。
20年2月第三航空軍に転属、サイゴンに転進。
◆編成昭和13年8月31日新京
◆復帰 昭和20年5月 サイゴン
◆歴代戦隊長
安倍克己大佐(戦死)、山本辰雄大佐、中浜吾祐中佐、高橋勝夫中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第16戦隊/軽爆撃機隊(隼魁第9142)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、二式複座戦闘機(屠龍)、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
飛行第十六連隊を改編、第二飛行団隷下。
14年7月17日~9月22日第2次ノモンハン事件に参加のため満州採塩所に展開。
9月26日海浪へ帰還。
16年11月30日台湾佳冬に展開。第5飛行集団隷下。
16年12月10日~17年1月11日アパリ・ツゲガラオに展開、北部比島作戦に参加。
17年3月~4月コレヒドール攻略作戦に参加。17年5月鉾田に於て機種改変。
17年6月北支彰徳に展開。17年7月~11月河南・湖南作戦に協力。
17年12月~19年6月武昌・漢口・南京・上海展開、各航空作戦に参加、地上戦闘に協力。
19年10月奥地進攻。20年1月~4月上海に移駐、地上作戦に協力。
20年5月朝鮮平壤に移駐。第八飛行団隷下。
20年6月一部をもって福岡県大刀洗を補給地として沖縄作戦に参加。
◆編成/昭和13年8月31日海浪
◆復帰/平壌
◆歴代戦隊長
下山琢麿大佐、大塚寅雄大佐、久米精一大佐、梁瀬建吾中佐、川守田庄次郎中佐、
甘粕三郎中佐、森桂中佐、佐藤三郎少佐、林正博少佐、佐藤大六少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第17戦隊/戦闘機隊(誠第15351)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
◆概略
昭和19年2月、各務原で三式戦闘機「飛燕」をもって
編成。フィリピン戦線へ進出し戦闘を繰り返した。
フィリピンで全戦力を損耗した戦隊は回復の為
小牧へ帰還。名古屋地区へ飛来するB-29の邀撃任務に就く。
昭和20年3月、天号作戦発令とともに特攻隊を編成。石垣島へ前進。
慶良間列島沖の米艦船に対し第一次特攻攻撃を敢行した。
その後、第二次特攻隊、台湾に転進したのち第三次
特攻隊を編成出撃した。6月、台湾では唯一となる五式戦が配備されたが
操縦資料がなく、高田戦隊長自らが空輸者から要領を聞き教育にあたった。
昭和20年8月9日、ソ連が参戦の日、戦隊は内地転進の
命を受け、上海を経由し熊本の健軍飛行場へ転進する計画途中
終戦の詔勅を受けた。
◆部隊史
第二十二飛行団隷下。
19年3月~6月愛知県小牧に移駐、訓練および防空任務。
6月11日マニラに展開、マニラ防空任務。
19年10月ネグロス島へ展開、レイテ作戦参加。空中勤務者の大半戦死。
20年1月小牧に帰還、戦力回復。
20年3月5日台湾花蓮港に展開、台湾および南西諸島、天号航空作戦参加。
◆編成/昭和19年2月10日各務原
◆復帰/花連港
◆歴代戦隊長
荒蒔義次少佐、高田義郎少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第18戦隊/戦闘機隊(天翔第19190)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
◆概略
昭和18年12月に三式戦「飛燕」をもって編成された
戦闘機隊。編成時は帝都防空任務を担う計画であったが
錬成が間に合わず、次第に戦力を向上した。大刀洗に
派遣し北九州防空任務に就いたのち、比島派遣が
下令され、アンヘレスへ進出した。レイテをめぐる航空決戦で
米艦載機との空戦、落下傘部隊の掩護、爆装し夜間の
船団襲撃等で敢闘するも、損耗を続けた。
一方で、小宅光男中尉以下の内地残置隊は第10飛行師団の隷下で
帝都防空にあたった。第六震天制空隊を編成。
小三中尉自身が体当たりし生還しB-29を撃墜した。
なお、18戦隊は59戦隊や244戦隊と並んで
もっとも早くに五式戦に機種改編が行われた。
フィリピン残置隊は機体を全耗したのち、ルソン島で
臨時歩兵第20大隊に配属。終戦時の生存者は僅かに6名であった。
◆部隊史
19年11月18日比島アンヘレスへ展開、同地航空作戦に参加。
12月10日ネグロス島バコロドに展開、レイテ航空作戦参加。航空機殆ど全滅。
20年2月千葉県柏に帰還、第十飛行師団隷下となる。20年5月千葉県松戸に移駐。
◆編成/昭和19年2月10日調布
◆復帰/松戸
◆歴代戦隊長
磯塚倫三少佐、黒田武文少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第19戦隊/戦闘機隊(誠第15352)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
◆概略
昭和19年2月、明野飛行学校で
編成された三式戦闘機「飛燕」部隊。伊丹にて
3月、海軍零戦部隊とともに阪神地区の防空任務に就く。
5月、比島進出が下令され、マニラ・ニルソンへ進出。
米艦載機との空戦、海軍中攻隊の護衛、レイテ湾艦船
攻撃等を行い、次第に戦力全耗、瀬戸戦隊長は地上で敵機の
爆撃を受け戦死。遠藤正博中尉以下三機は、瀬戸内元戦隊長の
分骨を抱き特攻掩護に出撃したまま未帰還となった。
中司准尉も戦死。比島作戦中止とともに台湾へ転進し
同じく比島から転身した55戦隊生存者を編入し
戦力回復を図る。戦隊は僅かな稼働機をもって
練度の高い操縦者は爆装による艦船攻撃を、未成熟の
操縦者には特攻を命じ、沖縄に散った。
◆部隊史
第二十二飛行団隷下。
19年3月16日兵庫県伊丹に移駐、京阪神防空。6月2日マニラに展開。
19年8月アンヘレスに展開、船団掩護、防空および機動部隊攻撃。
19年10月ネグロス島ラカルロタに展開、航空総攻撃の出撃掩護。
11月8日戦力回復のため愛知県小牧へ帰還。
20年1月7日台中へ展開、一部特別攻撃隊としてアンヘレスへ展開。
1月8日敵船団に対し特攻直掩、全機未帰還。1月12日ツゲカラオ展開。
20年2月台中展開、沖縄方面敵艦戦への特攻攻撃。
6月21日花蓮港に展開、天号航空作戦に参加。
◆編成/昭和19年2月11日明野
◆復帰/花連港
◆歴代戦隊長
瀬戸六郎少佐、中島凡夫少佐、本田辰造少佐、吉田昌明大尉、
深見和雄少佐、栗山美春大尉
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第20戦隊/戦闘機隊(誠第18968)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和18年12月、伊丹において編成され
台湾へ転出した246戦隊のあとをうけて大正飛行場
(現在の八尾市柏原)に移駐。阪神地区の防空を務めつつ
錬成を行った。19年2月、20戦隊は北方軍に編入されたため
耐寒準備を行った後、千島へ進出した。
6月、台湾へ移駐し台湾防空任務に就く。
昭和19年10月、比島戦線への進出が下令され
ルソン島バンバンへ進出した。
万朶隊、八紘隊の直掩任務、高千穂空挺隊降下の掩護
を行う。丹心隊掩護ではP-38、16機のの妨害を排しつつ
丹心隊の特攻機6機全機を命中させた。昭和20年2月
台湾に戻った戦隊は一式戦隼三型に機種改編したが
南方空輸中の四式戦を無断で流用し、戦隊長が
憲兵隊に呼び出される一幕もあった。
沖縄決戦開始後は石垣島、宮古島を前進基地として
度々特攻隊の掩護を行い、損耗した。
7月末、沖縄飛行場へ強行着陸する計画が準備されたが
実現に至らぬまま終戦を迎えた。8月15日の夜には
操縦者の中には自決者もあり、沖縄へ突入しようという
空気もあったが、幹部の説得で平穏に帰した。
沖縄北飛行場に残留していた滝平次郎少尉以下、
地上勤務者は地上戦に移行し玉砕した。
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年12月6日大阪府柏原に移動、阪神防衛。
19年5月23日千島得撫島移駐。
8月25日南方転用のため台北へ展開、台湾および南西諸島防衛戦参加。
10月20日一部カロカンに展開、比島作戦参加。
12月20日戦力回復のため台湾の小港に移動し本隊と合流。
20年4月17日天号航空作戦参加。特攻攻撃を行う。
◆編成/昭和18年12月1日伊丹
◆復帰/小港
◆歴代戦隊長
山本五郎中佐、村岡英夫少佐、深見和雄少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第21戦隊/戦闘機隊(誠第11050)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式複座戦闘機(屠龍)
◆概略
飛行第64戦隊の人員を基幹として編成された独立飛行第84中隊が
その前身である。64戦隊がノモンハン進出の折、南支方面の航空作戦
を担った。日米開戦後は、戦隊はハノイにあり、支那・ビルマ・比島と転戦し、
昭和17年末には、パレンバン等油田地帯に移駐し防空・船団護衛任務を行った。
B-24攻撃では、二式複戦の37ミリ砲装備機で空中分解させるなど、
威力を発揮したが、随行するP-51に苦戦し、牟田戦隊長が撃墜寸前
のところ、64戦隊の黒江大尉に救われたこともあった。戦隊主力はその後
台湾へ移駐。一部はパレンバンに残り、終戦を迎える。
◆部隊史
独立飛行第八十四中隊と飛行第一戦隊の一部をもって編成。
17年12月4日~18年4月パレンバン防空。
18年4月~19年1月マライ、ビルマにて船団掩護、ラングーン防空。
19年11月~12月セレベス島アムランに前進、モロタイ島攻撃。第八飛行師団隷下。
20年7月12日主力は台湾桃園へ展開。
◆編成/復帰昭和17年10月20日ハノイ
◆復帰/主力・桃園 一部スマトラ
◆歴代戦隊長
牟田弘国少佐、佐藤熙少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第22戦隊/戦闘機隊(隼第18913)
◆使用機種
二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
東京・福生の陸軍飛行実験部より派生した
初の四式戦闘機「疾風」装備部隊。尾翼に菊水を描いた
決戦部隊として、その期待は大きく
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊の至宝、岩橋譲三少佐を任命、
操縦者も老練の者を多く集め、虎の子としての
処遇が与えられた。満を持して大陸戦線、フィリピン決戦へと
送られたが、激戦の末、その多くが損耗し、終戦に至る。
◆部隊史
19年5月東京都福生より東京都中津に移動。
19年8月19日支那漢口へ展開、桂林作戦参加。
19年10月神奈川県中津へ帰還。
19年10月18日マルセリノへ展開、レイテ作戦に参加。
20年1月戦力回復のため中津帰還。
3月25日徐州に展開、第一飛行団隷下となり、同地区防衛に従事。
8月2日朝鮮京城に移駐。
◆編成/昭和19年3月5日福生
◆復帰/晋州
◆歴代戦隊長
岩橋讓二少佐、難波茂樹少佐、坂川敏雄少佐、上原重雄少佐、
神保進所少佐、北島栄一少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第23戦隊/戦闘機隊(天翔第19026)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
◆概略
昭和19年10月、太田の中島飛行機で編成。新設された
11月、新設の印旛飛行場へ移駐した。
戦隊の一部は硫黄島へ進出し、海軍の指揮下に
編入。船団護衛、三号爆弾をもって海軍戦闘機とともに
米軍機を邀撃したが、全機消耗し印旛に帰還。
その後戦隊は戦力回復しB-29邀撃戦に従事。
その後は芦屋飛行場へ移駐し再びB-29邀撃任務にあたる。
終戦時の保有機は二式単戦約20機、一式戦三型約15機
のほか一式戦の特攻機(神鷲隊)18機であった。
◆部隊史
関東地区防空。
19年12月~20年1月一部硫黄島に派遣、掩護任務に服す。
3月29日福岡県芦屋に展開、北九州防空。4月12日千葉県印旙に帰還。
第十飛行団隷下。関東地区防空。
◆編成/昭和19年10月11日印旛
◆復帰/印旛
◆歴代戦隊長
藤田重郎少佐、谷口正義少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第24戦隊/戦闘機隊(誠第9602)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆概略
昭和13年9月にハルピンの飛行第11戦隊を母体として編成。
ノモンハン航空戦に参加した。昭和16年11月比島攻略作戦への
参加が決定すると、機種は九七式戦闘機のままであったが
士気は高く、開戦当日の12月8日、ビガンへ上陸する
菅野支隊の上空を掩護を行った。その後、一式戦に機種を
変え、昭和18年にはパレンバンへ移駐して防空任務に就く。
さらにニューギニアへ前進した戦隊は、B-17、B-24等の
重爆機と交戦。特にマ弾(マ-102炸裂弾)
による前方攻撃を実施し、戦果を挙げている。
その後も戦隊はニューギニアへ上陸する船団護衛にあたり
P-38、P-39、P-40等の戦闘機と交戦。熱帯不健康地での
疲労から倒れるものも少なくない状況において
戦闘を継続し、損耗した。昭和18年8月2日には
18軍司令、安達二十三中将は第51師団の作戦指導に
あたるため、軍偵に搭乗しアレキシスを離陸。
戦隊は9機をもって直衛にあたったが、
フィンシュハーヘン周辺で
敵戦闘機と交戦状態に入り、安達中将機は
離脱に成功したが、40歳の大ベテランだった戦隊長
横山中佐が、この空戦により惜しくも犠牲となった。
11月末に北九州の芦屋に帰還した戦隊は防空任務に就く。
戦力の回復を行った後、比島へ派遣され海軍連合艦隊の
指揮下に入ったが、一式戦は零戦と比べ運用方法が
異なっていたため、海軍の指揮下では作戦上苦戦を強いられた。
この間、操縦者20名、飛行機40機を失い、全耗。
その後も戦力回復を進めつつ、各地を転戦。
一式戦、四式戦の混成部隊となって、比島決戦後は
台湾へ後退。特攻隊を編成して来たるべき台湾決戦に備えたが
終戦を迎えた。
◆部隊史
第二飛行集団隷下
13年9月22日ハイラルに移駐。
14年5月12日~6月10日第一次ノモンハン事件に参加。
6月19日~9月15日第二次ノモンハン事件に参加。
16年12月5日屏東に展開、比島作戦参加。ビガン前進泊地掩護、航空撃滅戦。
12月16日ルソン島ラオアグに展開。
17年1月ハイラル帰還。明野にて機種改編。7月広東進出、夏季航空作戦参加。
18年5月ブーツに展開。ニューギニヤ航空作戦参加。
11年6月福岡県芦屋に移駐。戦力回復。
19年5月15日クラークに展開。ビアク島攻撃。比島航空作戦に参加。
20年1月台湾嘉義に移動、戦力回復。2月広東に展開。船団護衛と防空任務。
3月28日宮古島に進出。天号航空作戦に参加。
6月21日~8月15日台湾宜蘭に展開、同地防空ならびに戦力回復。
◆編成/昭和13年9月1日ハルピン
◆復帰/宜蘭
◆歴代戦隊長
松村黄次郎中佐、檮原(ゆすはら)秀見少佐、高橋武少佐、
横山八男少佐、佐田代正一少佐、庄司孝一少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第25戦隊/戦闘機隊(隼魁第2387)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和17年11月、独立飛行第10中隊を基幹として漢口で編成された
陸軍戦闘機隊屈指の名門である。支那戦線において、こちらも
急降下爆撃隊の名門飛行第90戦隊の掩護など、在支米軍機との空戦を行う。
昭和20年3月まで支那戦線各地で在支米軍の重爆撃機および戦闘機との
攻防を繰り返した。この間、主力の機体は一式戦二~三型で、
四式戦に機種改編が済んだのは同年5月頃であった。京城で終戦を迎える。
◆部隊史
独立飛行第十中隊を改編。
17年10月~19年3月漢口、南京にて要地防空および地上作戦協力。
4月運城、新郷に展開、河南作戦協力。
5月白螺磯(はくらぎ)に展開。湖南作戦協力および防空。
20年1月上海へ移動。2月南京へ移動。5月北京へ移動。
第一飛行団隷下。7月朝鮮水原に移駐。
◆編成/昭和17年10月20日漢口
◆復帰/水原
◆歴代戦隊長
坂川敏雄少佐、別府競少佐、松山武夫少佐、向谷克己少佐、金沢知彦少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第26戦隊/戦闘・軽爆隊(誠第8399)
◆使用機種
九七式戦闘機、九七式軽爆撃機
九九襲撃機、一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
◆概略
昭和17年10月、衙門屯において編成された。
当初は戦闘機と軽爆撃機の混成隊であった。
編成とともに比島クラークへ進出。この頃の比島は
戦火から離れていたため、襲撃隊二個中隊はニューギニアへの前進し
ダンピール海峡の夜間哨戒、薄暮あるいは夜間の敵陣地、飛行場
攻撃を行ったが次第に戦力を損耗した。一方、戦闘機隊は
内地へ帰還し隼二型に機種改編を実施。パレンバン防空任務に就く。
時折来襲するモスキートを撃墜したほか、石川清雄曹長は船団護衛中
敵潜水艦の発射して魚雷に体当たりして松川丸(陸兵1300人乗船)を救った。
比島へ後退し、比島決戦を戦う。内地へ帰還後は隼三型に機種変換を行う。
シンガポール等で作戦を行った後、台湾へ転進、特攻隊を編成し
二度にわたり沖縄へ出撃。間もなく終戦。
◆部隊史
第二飛行団隷下。
17年11月20日比島クラークに展開。
18年10月29日軽爆隊はニューギニヤ・ブーツへ展開。
戦闘中隊はパレンバン、ハノイ、アンダマンへ展開。
19年3月戦隊スマトラ、ゲルンバン集結。戦闘分科に改編。
10月10日主力比島に転進。レイテ航空作戦参加。12月戦力回復のため
三重県明野へ移駐。
20年3月シンガポールへ展開。ペトン残置隊と合流。
第八飛行師団隷下。7月6日台東に展開。所在の誠第二十六戦隊と合流。
比島残置隊は地上戦闘に参加。
◆編成/昭和17年10月2日衙門屯
◆復帰/台東
◆歴代戦隊長
島谷亨中佐、太田鉚吉中佐、坂口唯雄少佐、永田良平少佐
飛行第27戦隊/軽爆隊(威第9123)
◆使用機種
九四式偵察機、九八式軽爆撃機、九九式襲撃機、二式複座戦闘機(屠龍)
◆部隊史
第二飛行集団隷下。北支方面地上作戦協力。
9月広東に展開。広東攻略作戦協力。
14年8月満州延吉に移駐。
16年2月1日広東に展開、福建省方面の作戦協力。7月南部仏印進駐、第三飛行集団隷下。
12月コンポンクーナン展開、開戦第一日占領直後のシンゴラ進出マレー作戦に密接に協力。
17年2月パレンバンに進出、ジャワ作戦に参加。3月テンガーに展開。
4月トングーに展開、ビルマ作戦に参加。10月22日延吉に帰還。
18年8月31日衙門屯に移駐。
19年7月9日ネグロス島サラビヤに展開。
20年2月戦力回復のため内地帰還。3月第六航空軍隷下に入り埼玉県所沢に移駐。
◆編成/昭和13年8月1日石家荘
◆復帰/7月15日所沢にて復帰
◆歴代戦隊長
須藤榮之助大佐、広田豊大佐、櫻井肇大佐、
黒田久文中佐、田尻清少佐、高橋安夫少佐、後藤清敏少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第28戦隊/偵察・戦闘機隊(天翔第9160)
◆使用機種
九七式偵察機、九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機
百式司令部偵察機(新司偵)
◆概略
昭和14年6月に満州で編成された偵察戦隊。
ニューギニアへ前進し偵察を行う。
昭和19年12月に内地へ帰還士、千葉県東金飛行場へ
移駐した司偵隊は機種に20ミリ砲二門を装備した武装百式司偵で
訓練を開始し、本土防空戦に備えた。
20年6月より、新型の高高度防空戦闘機キ102が
配備されたが、出動の機会なく、7月15日
戦隊は第28独立飛行隊に改編され終戦となる。
◆部隊史
第二飛行団隷下。
16年3月編成改正、司偵戦隊となる。
16年7月30日第二十八独立飛行隊本部、独立飛行第六十三、八十一中隊に改編。
19年4月温春に於て第二十八独立飛行隊本部、独立飛行第六十三、
八十一中隊は編成を解き第二十八戦隊を再編。
7月第一中隊を満州鞍山に派遣。
19年11月千葉県東金に移駐、機関砲装備百式司偵で高々度戦闘任務につく。
◆編成/昭和14年6月1日新京
◆復帰/昭和20年7月10日東金にて復帰
◆歴代戦隊長
北川潔水大佐、松沢恭平大佐、河村孝三郎大佐、上田秀夫少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第29戦隊/偵察・戦闘・司偵隊(誠第9163)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機、
九九式襲撃機、二式単座戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年2月、戦闘機隊の増勢計画の一環として
偵察分科から戦闘分科に改編された戦隊の一つで
当初は台湾防空を担ったが、8月以降中支戦線へ
派遣されたのち、10月、台湾へ戻る。
11月、レイテ決戦の激化にともない、戦隊も進出
命令が下ったが、川田戦隊長がデング熱で倒れており
土橋飛行隊長(のち戦隊長)指揮する20機が
クラークへ進出した。8月13日、戦隊は
「富嶽隊」をはじめ、特攻隊の掩護を行う。
四式戦闘機に機種改編を行うが一部は二式単戦のまま
防空任務に就く。12月7日、土橋戦隊長以下五機は
特攻隊「勤皇隊」を直掩したまま全機未帰還となった。
昭和20年1月、戦隊は台湾へ後退。沖縄戦の激化により
戦隊も四機編成の特攻隊を四隊を編成、浅野史郎少尉以下
12名が出撃し散った。6月にはさらに二隊の編成命令が
下ったが、沖縄戦が終結に近付くと、台湾防空のため
戦力温存を図った。終戦時の保有機は37機、操縦者は
44名と充実していたが、燃料不足により十分な飛行が
できないままであった。
◆部隊史
航空兵団隷下。
14年8月朝鮮会寧に移駐、ノモンハン事件参加。
16年3月編成改正により、軍偵、直協の戦隊となる。
16年7月29日、第二十九独立飛行隊本部、独立飛行第六十六、
八十七中隊に改編。8月北支中支各地で作戦に参加。
17年10月満州海林に展開。
19年2月5日第二十九独立飛行隊本部、独立飛行第八十七、
九十中隊を満州海林にて飛行第二十九戦隊(戦闘隊)に改編。
19年3月5日満州杏樹に移駐。19年7月台中に展開、台湾防空。
19年8月26日中支武昌に展開、8月26日~10月26日後期航空作戦に参加。
19年11月8日比島派遣、クラークに展開、第二次比島及び濠北作戦に参加。
20年3月15日台中に展開、3月26~6月20日天号航空作戦に参加。
◆編成/昭和14年7月15日各務原
◆復帰/台中
◆歴代戦隊長
森本秀応大佐、光岡明中佐、川田武雄少佐、土橋正次少佐(戦死)、小野勇(大尉)
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第30戦隊/襲撃・戦闘機隊(高第9198)
◆使用機種
九九式襲撃機、一式戦闘機(隼)、試作複座戦闘機
◆概略
昭和18年10月に編成され、
当初は九九式襲撃機を備えた襲撃隊であったが
昭和18年11月より、九七戦、ついで一式戦の
教育を実施。19年5月、南方進出が決定し
比島・アンヘレスへ進出した。
9月、在ネグロス島戦闘隊選抜者による機動部隊強襲が
下令(カン作戦)されると30戦隊からは
藤本勝美中尉らが爆装した一式戦二機で
出撃し巡洋艦に命中弾を与えたが中野恒雄軍曹は
未帰還となる。以降、ネグロス島邀撃戦において
戦隊は損耗。ルソン島に残る戦隊は
30戦隊のみとなったが、戦闘を続け、爆装した
一式戦で敵船団を襲撃した。
昭和20年1月16日、第四航空軍司令の冨永恭次中将は
エチアゲから台湾への脱出をはかったが
悪天候で引き換えし、翌日の17日未明、今度は
ツゲガラオから九九式襲撃機に搭乗して離陸。
30戦隊の四機が富永機を護衛して台湾へ到着。
第四航空軍解散後も30戦隊は引き続き
残留しリンガエン湾の敵船団に攻撃を継続した。
◆部隊史
第13飛行団隷下。
18年10月25日敦化移駐、戦闘隊に分科変更。
19年8月15日比島マナベラに展開、ネグロス島邀撃作戦に参加。
19年9月14日クラークに転進、同地防空。
19年10月台湾沖航空作戦参加。19年11月戦力回復のため大刀洗帰還。
20年1月6日ツゲガラオに展開、リンガエン湾作戦に参加。
20年1月24日台湾屏東に転進し戦力回復。
◆編成/昭和18年10月1日東京城
◆復帰/昭和20年5月2日?東にて復帰
◆歴代戦隊長
神崎清中佐、佐藤眞一少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第31戦隊/軽爆・襲撃・戦闘機隊(威第9623)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式襲撃機、一式戦闘機(隼)
◆概略
29、30戦隊とともに戦闘機隊へ改編された
31戦隊は、操縦者の大部分が襲撃機出身であった。
一式戦に機種改編後の昭和19年5月以降、
逐次比島へ派遣され、日々来襲する米機動部隊の艦載機と
空戦を展開した。昭和20年1月9日、リンガエンに上陸する
米軍に対し、このときマバラカットにあった31戦隊の
一部は8日以降、特操出身者を中心とする特攻隊「精華隊」
に編入され、リンガエン湾へ出撃、散華した。
◆部隊史
第一飛行団隷下。
13年8月~14年8月中支漢口攻略、広東攻略、海南島攻略、各作戦に協力。
14年8月満州嫩江に移動、ハイラルに於てノモンハン事件参加。第九飛行団隷下。
9月嫩江に移駐、第三飛行集団隷下。
16年12月4日仏印シエムレアに展開、第十五軍のタイ進駐に協力。
12月23日ビルマ・ピサンロークに展開、ビルマ作戦に参加。
17年4月27日マグエに展開。第十五次戡定作戦参加。
17年7月嫩江に帰還。17年10月18日満州敦化に移駐。九九式襲撃機に改変。
18年12月一式戦闘機(隼)に改変。
19年7月30日ネグロス島ファブリカに展開し、レイテ作戦、マニラ防衛戦に参加。
20年4月主力戦力回復のため内地帰還。
◆編成/昭和13年8月南苑
◆復帰/昭和20年5月30日シンガポールにて復帰
◆歴代戦隊長
高橋常吉大佐、佐藤正一大佐、長谷川正雄中佐、林順二中佐、加島誠輝中佐、西進少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第32戦隊/軽爆隊(鏑第9142)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式襲撃機
◆部隊史
第二飛行集団隷下。
16年4月24日北支南苑に展開、第百号作戦参加。
5月20日満州杏樹に帰還。
19年2月22日北海道計根別に移駐、松輪島、占守島に前進、船舶掩護、対潜警戒。
12月比島ラオアグに展開、呂宋(ルソン)島航空作戦参加。
20年3月25日計根別に帰還、南千島方面哨戒及び対潜掃蕩
◆編成/昭和14年10月5日杏樹
◆復帰/計根別
◆歴代戦隊長
川上清志大佐、相京正夫大佐、宇佐神正捷少佐、岡村正義少佐、安原勤少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第33戦隊/戦闘機隊(高第9144)
◆使用機種
九四式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
◆概略
33戦隊はアジア、太平洋のほとんどを戦域として健闘した戦隊である。
海狼にあった飛行第16連隊がその前身で、ノモンハン事件に参加、
昭和17年、桂林、零陵飛行場攻撃など在支米軍との攻防、武漢上空でのB-24邀撃、
ハノイへ移動し、ビルマ戦線で戦う。昭和18年にはインパール攻撃の直掩
カルカッタ初攻撃に参加しスピットファイア7機を撃墜している。
チタゴン、昆明攻撃に参加、19年になるとニューギニアし、劣勢の中、
ブーツ、ウエワク、ホランジアで邀撃にあたる。
比島決戦では33戦隊にも参加命令が下りニルソン飛行場へ展開した。
11月12日、特攻隊「万朶隊」の九九双軽4機をレイテ湾まで掩護し
敵戦闘機の妨害を排し、戦果確認後、全機が帰還した。その後は
マニラ防空、特攻隊の直掩、12月にはレイテに降下する
高千穂空挺隊を低空で直掩。山浦戦隊長が戦死した。スマトラ帰還命令とともに
飛行機を特攻隊に引き渡し、操縦者は輸送機で台湾へ渡り、シンガポールを経由して
スマトラ島ベトンへ到着。戦力回復を行う。6月2日付で33戦隊の廃止が決まり
部隊はそのまま第九飛行師団直属の翔忠戦闘隊となる。翔忠戦闘隊は
全機特攻を目指して待機していたが、7月26日北スマトラ出動の命が下り
敵飛行場、艦船を攻撃しつつ、終戦となる。
◆部隊史
第二飛行集団隷下。
14年8月28日平安鎮へ前進、ノモンハン事件参加。
17年9月1日広東へ展開、支那大陸航空作戦参加。
18年7月武昌に展開、支那十八年度中期航空作戦参加。
9月仏印ハノイに展開、支那十八年度中期航空作戦参加。
10月パレンバン展開、防空任務。
18年11月3日ビルマ、マウビに展開しビルマ航空作戦参加。
19年1月3日タイ、ドムアンに展開。2月ホランジアに展開しニューギニア航空作戦に参加。
5月シンガポール移動。戦隊再編。6月6日パレンバン展開、要地防空。
10月25日クラークに展開、比島航空作戦参加。
20年1月13日パレンバンに帰還、要地防空および戦力回復。5月15日メダンに展開。
◆編成/昭和13年8月1日杏樹
◆復帰/昭和20年6月20日メダンにて復帰
◆歴代戦隊長
青木正三中佐、原田潔中佐、水谷勉少佐、渡辺啓少佐、
福地勇雄少佐、山浦浩少佐、生井清少佐、勝田悦夫少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第34戦隊/軽爆隊(洋第11051)
◆使用機種
九九式双発軽爆撃機
◆部隊史
独立飛行第八十二中隊を改編。第四飛行団隷下。
18年3月3日タイ・チェンマイに展開、第三十一号作戦参加。
6月25日アロールスターに展開。10月7日チエンマイに帰還しビルマ航空作戦参加。
19年2月9日ニューギニア・ホランジアに展開し同方面作戦参加。
同地戦闘に於て殆ど戦力を喪失、一部マニラに派遣。
19年7月31日残存部隊、ルソン島リバ・に展開。
8月20日同戦隊はニューギニヤに於て復帰。比島残存人員は飛行第二百八戦隊に転属。
◆編成/昭和17年10月15日プノンペン
◆復帰/昭和19年8月20日、ニューギニヤ
◆歴代戦隊長
田中祐晴中佐(戦死)
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第38戦隊/司偵隊(鏑第19342)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年9月26日~10月24日カムチャッカへ隠密捜索。
18年11月3日北海道札幌に移駐。19年4月7日北海道帯広に移駐、
北千島占守島にて洋上捜索。
19年9月19日~10月10日アッツ島捜索。
19年10月24日クラークフイルドに展開、比島作戦に参加。
20年3月20日帯広に帰還。
比島移駐に当り一部帯広に残置されたる隊は
19年12月~20年3月千葉県八街に転地訓練。
20年4月帯広に帰還主力に合流。
◆編成/昭和18年4月15日樺太大谷
◆復帰/帯広
◆歴代戦隊長
木村拙郎中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第44戦隊/偵察機隊(隼魁第2376)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九八式軽爆撃機、九九式軍偵察機(九九式襲撃機)
◆部隊史
14年7月第三飛行団隷下。
飛行第三大隊と独立飛行第十八中隊と飛行第四十五戦隊より選抜されたる
人員機材に依り編成。
15年4月~7月宜昌作戦参加。
15年9月編成改正、独立飛行第十八中隊を再編転出させ、
独立飛行第十七中隊を編入、軍偵一隊、直協三隊となる。
9月5日中支漢口に展開。16年7月30日第二次長沙作戦参加。
11月30日広東に展開、香港攻略作戦参加。
17年8月杭州に展開淅かん作戦に協力。
18年2月南昌、蒲折に展開、江北殲滅作戦。
18年8月漢口に展開、中南支飛行場攻撃、揚子江船舶攻撃。
19年3月新郷に展開、京漢、湘桂作戦参加。6月漢口に帰還、粤漢作戦参加。
20年5月5日唐山に展開。6月1日主力朝鮮大田移駐。
軍偵中隊、第三直協隊は常州残置。
◆編成/昭和14年7月漢口
◆復帰/大田
◆歴代戦隊長
森玉徳光大佐(ニューギニヤにて飛行団長で戦死)、大坪清大佐、
福沢丈夫中佐、広瀬茂中佐、沢山義治少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第45戦隊/軽爆隊(威第10654)
◆使用機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、二式複座戦闘機(屠龍)、
キ百二双発襲撃機(五式双発襲撃機)(試作襲撃機)
◆部隊史
独立飛行第六中隊を改編、第三飛行団隷下。
13年8月~10月武漢作戦参加。
14年9月12日ハイラルに展開、第二次ノモンハン事件参加。
9月25日満州嫩江に移駐。
16年12月6日広東に展開、香港攻略戦に参加。
17年1月13日機種改変のため埼玉県所沢へ移動。
4月24日満州白城子へ移動。
18年1月22日ラバウルに展開、ガダルカナル作戦に参加。
5月ブーツに展開、ニューギニア作戦参加。
18年12月10日機種改変のため茨城県鉾田へ移動。
19年2月10日クラークに展開、船団掩護第三次比島戡定作戦、
濠北作戦、第三次ニューギニア作戦に参加。
8月20日ネグロス島タリサイに展開、同地に於て防空、
船団掩護、レイテ作戦に参加。
20年2月機種改変のため鉾田に移駐、第二十六飛行団隷下。
◆編成/昭和13年7月27日安慶
◆復帰/鉾田
◆歴代戦隊長
吉田定雄大佐、下田竜衛門大佐、土生秀治大佐、浜田竜太郎中佐、
佐内不二生中佐、高橋賢一少佐、竹下福寿少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第47戦隊/戦闘機隊(天風第34212)
◆使用機種
二式戦闘機(鍾馗)四式戦闘機(疾風)
◆概略
開戦から終戦まで鍾馗一筋で通したかわせみ部隊。
昭和16年11月立川の航空審査部で試作段階にあった
二式単戦「鍾馗」によって臨時編成された独立飛行第47中隊が
改編された。二式単戦は一式戦に慣れた操縦者には必ずしも
歓迎されなかったが、英空軍スピットファイアに対抗する新鋭機として
増加試作機9機をもって急遽一個中隊を編成し鍾馗の審査主任だった
坂川敏雄少佐を隊長として南方軍の直轄部隊に編入した。
隊名は赤穂義士にあやかって命名され、「新選組」あるいは
「かわせみ部隊」と呼ばれた。胴体には山鹿の陣太鼓を描いた。
以降、ビルマ戦線において重戦の威力を遺憾なく発揮した。
内地に帰還した独飛47中隊は飛行第47戦隊と改称され東京・成増飛行場に展開。
調布の244戦隊と並んで関東地区の防空の要となる。
第十飛行師団により震天制空隊に任命された47戦隊は鈴木、坂本曹長
永崎、見田伍長の四名を指名。体当たり機は武装・防弾装備を取り外し
高度110000メートルまで上昇可能となった。昭和20年1月9日の
B-29邀撃戦では震天制空隊による凄惨な体当たり戦となった。
隊員らは「ただいまより体当たり!バンザーイ!」との叫びを無線にのせて
次々突入。幸万寿美軍曹は成増飛行場上空でB-29に体当たりし
機体は四散。左外側エンジンを吹き飛ばされたB-29は黒煙を吐きつつ
脱落。真崎大尉の編隊によってとどめが刺された。
◆部隊史
第十九飛行団隷下年
18年10月3日成増に移駐。独立飛行第四十七中隊を編入。帝都防空。
20年3月第三十戦闘飛行集団長の隷下に入る。
20年5月9日宮崎県都城西に展開、天号作戦参加。
7月25日第十二飛行師団長の隷下に入り、山口県小月にて機種改編。九州防空。
◆編成/昭和17年5月30日柏
◆復帰/小月
◆歴代戦隊長
下山登令中佐、奥田暢少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第48戦隊/戦闘機隊(隼魁第16618)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)
◆概略
昭和18年7月、77戦隊と教導飛行204戦隊を基幹として
臨時編成された部隊。昭和19年5月末、初陣では
湘桂作戦に参加。多大な犠牲を払いつつ、在支米軍と空戦を展開。
連日、戦場上空までの3~400kmを往復する
戦いが続いた。8月8日の瀋陽陥落の日も全稼働機の九機で
戦闘に上がり7機を撃墜したが、我が方は3機を失い戦隊長も
重傷を負った。後任の鏑木戦隊長はただちに補充の
一式戦三型3機を率いて内地を飛び立った。
その途中、B-29撃墜という戦果が報告されている。
これは8月20日のB-29北九州来襲時、鏑木編隊の中島中尉が
高度6000メートルにおいて単機、B-29の5機編隊に正面攻撃を加え
1機を撃墜した。新聞誌上で「行きがけの駄賃」と大々的に報道された。
戦力回復後、桂林飛行場攻撃制空で鏑木戦隊長がP-51撃墜等の戦果を挙げたが
その後、瀋陽飛行場が敵100機以上の波状攻撃を受け壊滅。稼働機は3機となり
武昌へ後退した。この頃、戦隊の機種は一式戦二型と三型であったが
三型をもってしてもP-51との戦闘は劣勢におかれた。
12月18日、漢口はB-29とP-51戦爆連合の大空襲を受け灰塵に帰した。
昭和20年1月、漢口はふたたに敵戦爆連合の波状攻撃を受けたが
48戦隊は全戦力をもって邀撃。中国大陸における最後の大空戦となった。
戦隊創設以来の木村増吉中尉がP-51撃墜後自爆。多数の損害を出した。
48戦隊は9戦隊とともに最後の在支戦闘機隊となっていた。
5月に南京に移動。8月13日、48戦隊は張家口付近を南下する
ソ連機甲部隊を攻撃するため、北京転進の命が下ったが
悪天候により待機中、終戦となる。
◆部隊史
第五航空軍隷下。第十二飛行団編入。
18年11月5日満州間島省・間島に移駐。
19年4月29日武昌に展開、九江上流航路掩護。
19年7月中支白螺磯。19年11月衝陽。19年12月漢口、南京。
20年5月土山鎮と転戦し、諸作戦続行。終戦とともに上海集結。
◆編成/昭和18年7月30日牡丹江
◆復帰/昭和20年8月15日、泰県
◆歴代戦隊長
松尾政雄少佐、鏑木健夫少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第50戦隊/戦闘機隊(誠第9914)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
飛行第64戦隊と並んでビルマ航空戦で勇名を馳せた
飛行第50戦隊は昭和15年9月、台湾において編成された。
比島戦線においては、九七式戦闘機でB-17を撃墜した記録を持つ。
ビルマでは、九七式戦闘機をもって
米義勇軍のP-40や英空軍のホーカー・ハリケーンと対峙し苦戦を
強いられた。
一式戦一型に機種改編が行われたのは昭和17年6月、
二型への改編は18年3月で、石川戦隊長指揮のもとビルマを転戦。
ラングーン邀撃戦では、穴吹軍曹が単機でB-24を3機(うち一機は体当たり)
撃墜、P-38を2機撃墜している。
昭和18年10月、戦隊はマウントバッテン連合軍司令官がインドから中国へ訪問する
との情報を得て、ミートキーナへ前進。戦隊の選抜者8機で
輸送機数機を撃墜したが、マウントバッテン搭乗機はこれを逃れ
無事中国に到着していた。カルカッタ進攻参加、最後のインパール進攻を
実施したが、P-51、スピットファイア50機と交戦。
永島中尉、五十嵐軍曹ら三機が未帰還となった。
19年7月、サイゴンへ後退ののち
第8錬成飛行隊の保有機20機に加え、空輸機の10機をもって
四式戦に機種改編。ラングーンへ戻り防空任務、
英機甲師団攻撃、インパール撤退作戦の掩護にあたる。
12月のシエボ付近の攻撃では四式戦13機をもって
敵戦車と車両、100両以上に打撃を与える戦果を挙げた。
20年1月にふたたびサイゴンへ後退した戦隊は同地防空にあたり
B-24、B-25などと交戦。4月にモールメンへ進出すると
ビルマ方面軍司令官だった木村 兵太郎大将のラングーン脱出掩護にあたる。
7月、台湾へ後退し、戦力温存の命令を受けたまま終戦に至る。
◆部隊史
16年11月26日台湾恒春に移駐、開戦にあたり比島攻略船団の掩護。第四飛行団隷下。
12月20日比島ビガンに展開、泊地掩護。
16年12月8日~17年1月7日マニラ攻略戦参加。
1月10日タイ・ナウンサワンに展開、ビルマ航空撃滅戦に参加。
17年4月埼玉県所沢にて機種改編。
17年5月モールメンに展開、ビルマ、印度、昆明、作戦参加。
18年10月へホに展開。
18年10月~19年6月印支空路遮断作戦、インパール作戦参加。
19年10月19日ビルマ、ミンガラドンに展開、インパール撤退作戦参加。
12月マウビに展開、ビルマ地上作戦協力。
20年1月サイゴン展開。
1月~6月同地にありて敵機動部隊攻撃、一部特攻隊となる。
7月主力台中に展開、第八飛行師団隷下。地上部隊主力は仏印残置。
残置部隊は第八錬成飛行隊に転属。
◆編成/昭和15年9月10日台中
◆復帰/嘉義
◆歴代戦隊長
吉田直中佐、牧野靖雄少佐、石川正少佐、新田重俊少佐、藤井辰次郎少佐、河本幸喜少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第51戦隊/戦闘機隊(威第18424)
◆概略
昭和19年4月、小月で編成され、同時期に大阪で編成された
52戦隊とともに四式戦装備の第16飛行団を構成。
北九州に飛来したB-29を2機撃破している。
第四航空軍に転属ののち、比島、デルカメンへ前進。
52戦隊とともに激戦を重ねた。12月に内地へ帰還後は
下館においてB-29邀撃にあたる。
◆使用機種
◆部隊史
◆編成/昭和19年4月28日小月
◆復帰/下館
◆
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第52戦隊/戦闘機隊(威第18425)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年4月、大阪で編成された四式戦部隊である。
成都を出撃したB-29の北九州空襲が開始されると
これに呼応して邀撃戦を展開。昭和18年8月20日の戦闘では
15機が出撃(夜間行動可能な8機)し、59戦隊と協力して
B-29一機を撃墜。41歳だった飛行団長の進藤常右衛門中佐
も単機八幡上空で一機を撃墜した。
第四航空軍に転属ののち、比島、デルカメンへ前進。
激戦を重ねる。下館帰還後は関東地区の防空任務に就いた。
しかし新鋭の四式戦をもってもB-29に随伴するP-51の撃墜は困難を極めていた。
52戦隊は戦力温存のため、邀撃を実施せずにいた。
8月15日特攻機掩護のため熊本建軍飛行場へ前進準備中に終戦。
終戦時の保有機は約30機で、8月24日に全力で納め飛行を行ったのち
28日、解散した。
◆部隊史
19年5月7日福岡県芦屋移駐。
9月27日比島デルカメンに展開。ルソン島沖、台湾沖、
クラーク航空作戦参加。10月24日サラビヤに展開。
11月10日迄レイテ作戦参加。一部サルビヤに残置。
地上要員は大博丸、大彰丸にてデルカメンに向うも
10月26日バシー海峡にて雷撃を受け海没。
生存隊員は11月5日デルカメンに到着。
11月13日デルカメン残置の空中勤務者は千葉県下館に移動、戦力回復。
第十六飛行団隷下。帝都防空任務。20年7月東京都調布へ移動。
20年2月~4月整備員はレイナマルセデスに移動。
2月一部ツゲガラオに移動させるも空輸不能のため、
レイナマルセデス残置隊は第六、第七野戦補充隊に編入。地上戦闘参加。
20年9月18日アンケブロにて停戦。
サラビヤ残置隊は19年11月13日~20年1月23日
飛行第七十一戦隊、飛行第二百戦隊に協力。
9月2日サンパブロにおいて米軍に収容。
ツゲガラオ残置隊は20年2月アパリに移動。ラロー地区地上戦闘参加。
9月14日モンテンルパに収容。
◆編成/昭和19年4月28日防府
◆復帰/調布
◆歴代戦隊長
桑原信彦少佐、内徳隆幸少佐、沢山義隆少佐、坂内士郎少佐、高野明少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第53戦隊/戦闘機隊(天翔第18426)
◆使用機種
二式複座戦闘機(屠龍)
◆概略
昭和19年3月、所沢で編成され、直ちに
関東地区防空を担当する第十飛行師団に編入された
二式複戦の夜間戦闘機隊である。戦隊長は重爆出身の
児玉少佐で操縦者は午後起床し、夕方から訓練を開始。
夜明けに就寝した。視力増強のためビタビンA錠を服用し
「猫の目部隊」「ふくろう部隊」と称され
第一飛行隊を「まつうら隊」第二飛行隊を「こんごう隊」第三飛行隊を
「さざなみ隊」と改めた。11月7日、師団命令により
震天制空隊が編成されている。また、実戦前に終戦となるが
53戦隊は百式司偵四型が配備されていたほか、二式複戦には
タキ2号機上レーダーを装備するため2機の機種を改造して
レドームを製作、実験飛行を行った。
戦力温存が命令され、20年7月の戦力は二式複戦およそ34機
を保有。来たるべき決戦に備えていた。
◆部隊史
19年5月千葉県松戸に移駐、夜間防空先任。
20年千葉県藤ヶ谷に移駐、第十飛行師団隷下。
◆編成/昭和19年4月3日所沢
◆復帰/藤ヶ谷
◆歴代戦隊長
児玉正人少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第54戦隊/戦闘機隊(鏑第19272)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆概略
北海道・北千島防衛の要となった戦隊で
千歳飛行場を要に北千島、札幌丘珠、苫小牧、室蘭の
防空を担当。アリューシャンから飛来する敵機に備えた。
しかし冬季の防空は極めて困難で12月から1月にかけての空襲や
艦砲射撃には反撃できず、竹田勇大尉(244戦隊竹田五郎大尉の兄)を
長とする苫小牧残置隊で錬成を行った。比島決戦では
一部を札幌に残置し、主力を一式戦三型に機種改編を行った後
マニラ近郊のサブランに展開した。
20年1月7日早朝、バコロド沖の艦船偵察に偵察に出動した
杉本明准尉はファブリカ飛行場上空でアメリカの撃墜王、
マクガイア少佐の率いるP-38、4機と空戦となり
71戦隊の福田軍曹と協同してマクガイアおよび僚機の
リトメイア少佐機を撃墜した。マクガイアは戦死。
しかし杉本機も被弾。不時着に成功したが、ゲリラの襲撃を
受け戦死した。特攻隊「万朶隊」直掩では
渡辺史郎伍長が特攻機とともにレイテ湾の敵艦船に突入し散華した。
札幌へ帰還した戦隊は部隊の回復を行った後
南樺太進出を決定。竹田戦隊長以下24機が
爆装して離陸したが宗谷海峡の悪天候により引き返し
、再度出撃準備中に終戦となった。ホロムシロ島に
残留した中島大尉以下14機の北千島派遣隊は
19年10月末、占守島の片岡飛行場へ移動し
連日飛来するB-24、B-25重爆の邀撃にあたりつつ
越冬。20年夏に札幌へ復帰している。
◆部隊史
第一飛行団隷下。
16年12月2日中支漢口へ展開、武漢地区防空。
17年1月7日白螺磯に展開、戦場上空制空。
8月7日まで南京、杭州地区防空。第二次せ號航空作戦参加。
17年10月北海道千歳に移駐。18年1月帯広に移駐。
18年4月大阪大正に移駐。6月7日帯広帰還。
8月12日幌莚島に展開、一部残置。B~24邀撃作戦に参加。
19年2月29日第一中隊は独立飛行第24中隊に改編。
19年11月10日ネグロス島ファブリカに展開、レイテ航空作戦に参加。
20年5月戦力回復のため北海道帰還。
9月札幌にて主力は復員。幌莚島残置者は8月末ソ連に抑留さる。
◆編成/昭和16年7月26日柏
◆復帰/札幌9月主力復員
◆歴代戦隊長
島田安也少佐、黒川直輔少佐、竹田勇少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第55戦隊/戦闘機(鷲第18427)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
◆概略
昭和19年3月に編成された三式戦装備部隊。
編成当初、小牧に駐留して中京地区防空にあたる。
レイテ決戦がたけなわになるとルソン島アンヘレス、ついで
ネグロス島タイサイに展開。レイテ第二次航空総攻撃に参加。
20年1月にはリンガエンに上陸する米軍に対する特攻隊掩護、
払暁、薄暮の爆装攻撃を行う。飛行機は終戦までに全耗。
地上勤務者はネグロス島、ルソン島の山中に取り残され
終戦までに全滅した。
小牧に駐留する部隊は引き続き中京地区の防空を担い
20年1月3日の夜間戦闘では代田中尉がB-29に体当たりして
撃墜、特操一期の安達武夫少尉は12月から1月の間、
B-29、4機を撃墜したが、1月19日に戦死。
戦隊のうち8機は沖縄作戦参加の為、芦屋、万世に進出し
特攻隊掩護にあたる。沖縄作戦中、三式戦二型への機種改編が
行われた。
◆部隊史
第十一飛行師団隷下。
19年5月25日愛知県小牧に移駐。11月18日比島アンヘレスに展開、
クラーク地区防空、
比島航空作戦参加。一部は小牧に残置。
20年1月3日マナブラに展開、同地区の戦闘に於いて全機喪失。
2月空中勤務者と基幹整備員ネグロス島脱出以後不明。
20年3月1日第十六航空地区司令官の指揮下に入り地上戦闘参加。
◆編成/昭和19年4月26日大正
◆復帰/伊丹
◆歴代戦隊長
岩橋重夫少佐、矢野武夫代理大尉、小林賢二郎少佐
飛行第56戦隊/戦闘機隊(天鷲第18428)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
◆概略
昭和19年3月に編成された三式戦部隊。当初、三式戦の稼働率も低く
事故が頻発。殺人機と嫌われたが、5月に小牧へ移駐し
中京地区の防空にあたる。阪神中京地区へ飛来するB-29邀撃の要として
活躍。昭和20年3月27日の防空戦では飛行隊長の緒方醇一大尉が
B-29に体当たり戦死。緒方大尉は77戦隊時代、ビルマ戦線で
爆撃機3機、内地でB-29を4機撃墜、5機を撃破している。
摩耶山山頂に落下したB-29の残骸からは緒方機の破片が発見された。
56戦隊は第12飛行師団に編入され、芦屋へ移動し北九州地区の防空、
海軍の佐伯へ移動してB-29邀撃にあたる。5月に伊丹へ帰還し
三式戦二型への機種改編を行った。
◆部隊史
19年5月兵庫県伊丹移駐、阪神防空。
8月28日済州島に展開、同方面洋上撃滅戦闘参加。
11月15日第十一飛行師団隷下。伊丹に帰還、防空戦闘。
◆編成/昭和19年4月26日大正
◆復帰/伊丹
◆歴代戦隊長
古川治良少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第58戦隊/重爆隊(誠第9145)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機
◆部隊史
飛行第十二連隊第二大隊を改編。第二飛行集団隷下。
14年6月満州佳木斯に移駐。15年8月広東に移動、桂林等攻撃。
9月12日佳木斯に帰還。
18年2月スマトラ島メダンに展開、印度洋の哨戒、船団掩護。
18年7月支那大場鎭に展開、中期航空作戦参加。
10月メダンに展開、同地に在りて船団掩護。
19年6月20日独立飛行第三十一中隊を編成。
20年1月13日仏印コンポンクーナンに展開、
7月25日迄敵機動部隊攻撃、ビルマ敵基地攻撃、第八飛行師団隷下。
20年8月台湾草屯に移動。
◆編成/昭和13年8月31日公主嶺
◆復帰/草屯
◆歴代戦隊長
小川団吉大佐、滝昇大佐、高品朋大佐、坪内剛直大佐、辻本隼三少佐、中嶌隆弘少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第59戦隊/戦闘機隊(天風第2377)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
◆概略
中支作戦、ノモンハン事件、大東亜戦争開戦直後の
南方作戦等で活躍。ジャワ駐留を経てパレンバン防空
ポードダーウィン攻撃ののちニューギニア各地を転戦したが
一式戦二型ではP-38相手に苦戦を強いられるようになる。
昭和19年1月23日には、南郷茂男大尉が戦死。戦力を失って
内地に帰還した後、明野で三式戦に機種改編を行い
北九州防空の任務に就く。昭和19年7月18日、59戦隊は
第12飛行師団隷下となり、12月には体当たり専門の
第二回天隊を編成。11月末からは戦隊の一部を済州島に
昭和20年1月には主力を芦屋から蓆田へ移動する。2月。
南朝鮮の群山へ。4月1日、知覧へ前進した。その後
知覧にあって特攻機の掩護、防空任務に就いた後
芦屋に後退した戦隊は五式戦に機種改編を行い、終戦まで
北九州防空にあたった。
◆部隊史
飛行第一連隊より編成。第九飛行団隷下。
13年8月満州、延吉に展開。9月安慶前進、漢口攻略作戦参加。
11月漢口に展開、ノモンハン事件参加。
15年広東に展開、仏印進駐作戦参加。
16年1月漢口に帰還。5月~10月機種改編のため東京都立川に移動。
第三飛行集団隷下。
12月7日コンポントラッシュに展開、第一撃参加、
マレー作戦に従事。
12月25日マレー・イポーに展開、
シンガポール作戦に参加。
17年1月クアラルンプールに展開、
パレンバン、スマトラ、ジャワ作戦参加。
3月10日バンドンに展開。5月マラヤンに展開、
小スンダ作戦参加。
18年2月ジャワにて防空任務。第三飛行団隷下。
6月20日~6月22日ポートダーウィン進攻。
7月11日ブーツ東に展開、ニューギニア作戦参加。
19年3月福岡県芦屋に移駐、戦力回復。3~10月北九州、阪神地区防空。
20年1月福岡県蓆田(むしろだ)に展開。北九州、京阪神地区防空。
2月芦屋に帰還。3月知覧に展開、沖縄地区航空作戦に参加。
第三十戦闘飛行集団隷下。6月芦屋に帰還。
◆編成/昭和13年7月1日各務原
◆復帰/芦屋
◆歴代戦隊長
今川一策大佐、土井直人中佐、谷村礼之助少佐、中尾次六少佐、福田武雄少佐、
佐藤猛夫少佐、本田辰造少佐、木村利雄少佐、西進少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第60戦隊/重爆隊(威第2378)
◆使用機種
九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
飛行第六大隊を飛行第六十戦隊に改編。第四飛行団隷下。
14年1月より支那運城へ前進、第三飛行集団隷下。重慶、蘭州、成都に進攻。
15年3月9日南苑に移駐。飛行第九十八戦隊第三中隊編入。
3月17日~4月28日南京、彰徳地上作戦協力竝に要地攻撃。
4月29日~9月4日漢口、運城第四次航空進攻作戦参加。
16年4月1日~6月20日仏印ハノイ基地。印、緬、支、遮断進攻作戦参加。
9月20日機種改変のため静岡県浜松に移動。12月5日プノンペンに展開、
マレー・ビルマ作戦参加。
17年3月6日クラークに展開、バタアン半島、コレヒドール攻撃。
5月16日器材整備のため浜松帰還。7月6日北満、拉林に移駐、同地警備。
18年2月20日アエルタワルに展開、印度洋哨戒。7月22日武昌に展開、
重慶、昆明進攻作戦参加。
9月19日ハノイに展開。12月17日メダンを経てヘホに前進、第二次昆明攻撃。
19年1月メダンに展開、2月11日ホランジアに展開、濠北作戦に参加。
5月マバラカットに移動、7月7日水戸に移駐、戦力回復。
8月24日南京に展開、中国奥地B29基地攻撃参加。10月11日浜松移駐。
20年2月硫黄島攻撃参加。第六航空軍隷下。
20年3月8日熊本健軍飛行場に展開、沖縄攻撃参加。
◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/熊本
◆歴代戦隊長
中薗盛孝大佐、田中友道大佐、小川小二郎大佐、花本盛孝大佐、
大岩三男中佐、渥美光少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第61戦隊/重爆隊(誠第9604)
◆使用機種
九三式重爆撃機、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
第二飛行集団隷下。
14年5月31日ハイラルに展開、ノモンハン事件参加。
16年11月~12月山下兵団上陸掩護のため一部仏印に出勤。
17年9月25日メダンに展開、印度洋哨戒。18年3月14日スラバヤに展開。
6月19日ラウテンに進出、ポートダーウイン進攻、
8月15日機種改変のため浜松に移動。10月13日ニューギニア島ワクデに展開、
19年3月25日迄第三次ニューギニア戦闘に参加。5月6日ナムレアに展開、ピアク、モロタイ攻撃。
10月16日機種改変のため浜松へ移動。
20年2月9日コンポンクーナンに展開、3月1日~7月10日反攻邀撃々碎作戦に参加。
7月16日台湾嘉義に展開、地上部隊主力シンガポールに残置
8月11日第三航空軍司令部に転属、一部コンポンクーナンに残置。
8月10日第四十五教育飛行隊に転属。
◆編成/昭和13年8月31日チチハル
◆復帰/嘉義
◆歴代戦隊長
志方光之大佐、三上喜一大佐、藤崎茂大佐、小川一郎大佐(殉職)、
八木斌中佐、堀川正三郎少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第62戦隊/重爆隊(灘第9908)
◆使用機種
九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
飛行第三集団隷下。
16年12月6日カンボチヤ・クラコールに展開、マレー作戦第一撃参加。
12月15日タイ・ドムアンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
17年4月26日クラークフイルドに展開、パターン半島攻撃参加。
4月27日南京に展開、せ号航空作戦参加。
18年8月11日北海道帯広に移動。
12月22日第四十五戦隊南方先発のための人員器材をクラークに輸送、
19年1月13日静岡県浜松に帰還。2月20日スンゲイバタニ展開、ビルマ航空作戦参加。
5月28日サバニ島付近哨戒。8月19日シンガポールに展開。
7月1日~10月22日ニューギニア、セレベス、モロタイ、レイテ作戦参加。
スンゲバダニ残置者100名(その後の行動不詳)。
12月15日シンガポールに展開(同地残置者は200名。
20年3月5日ルソン島カガヤンに於て臨時独立歩兵第十五大隊に編入)
20年1月東京都福生で機種改変。2月西筑波に移動。第六航空軍隷下。
4月8日福岡県大刀洗に展開、沖縄作戦参加。6月西筑波に帰還。
◆編成/昭和16年11月14日帯広
◆復帰/西筑波
◆歴代戦隊長
波多野魁夫大佐(戦死)、大西洋大佐、堀場一雄大佐、芳賀政信中佐(戦死)、
石橋輝志少佐、新海希典少佐(戦死)、沢登正三少佐(戦死)、小野祐三郎少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第63戦隊/戦闘機隊(洋第15378)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆概略
北海道、千島列島防空の要として活躍した63戦隊は
昭和18年4月、札幌に在り、室蘭防空のため、新設された
苫小牧飛行場へも一個中隊が派遣された。9月には
アリューシャンから飛来する米軍機邀撃のため
北千島ホロムシロ島へ派遣。11月、一転してニューギニア派遣の
命令が下る。北千島に残留した一個中隊は敵襲こそなかったが
厳しい自然と戦いつつあった。北海道へ帰還して間もなく
本隊合流の命令によってウエワクへ移駐。敢闘を続けたが
稼働機を失い、飢餓と病気に倒れるものが多く、原戦隊長も戦病死した。
終戦時までサルミで自活生活に入り、生還者は僅か3名であった。
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年4月25日北海道札幌及び苫小牧に移駐。9月第一中隊北千島幌莚に派遣。
19年1月14日ニューギニア島ウエワクに展開。
北千島派遣隊は2月28日ホランジアにて本隊と合流。
3月ホランジア展開、一部ウエワク残置。
19年1月16日~4月21日同地にて進攻、邀撃作戦。この作戦で飛行機全耗。
6月27日サルミに移動、途次戦闘により大部分は戦死。
19年7月25日サルミにおいて復帰。その後21年6月まで現地にて自活活動。
ウエワク残置隊は20年10月ポイキンにて武装解除。
21年1月19日神奈川県浦賀上陸復員。
◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/8月22日クラコール
昭和21年4月25日サンジャック出発5月4日大竹上陸復員
◆歴代戦隊長
原孫治少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第64戦隊/戦闘機隊(高第9124)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
◆概略
加藤隼戦闘隊として、戦中戦後を通して最も名高い飛行戦隊である。
加藤隼戦闘隊は映画化され、戦意高揚に大いに寄与した。
陸軍航空総監部兼陸軍航空本部部員の加藤健夫戦隊長は一式戦隼の採用に
反対の立場であったが、64戦隊に赴任し、隼の
採用が決定すると、隼の特性と弱点を研究し
その性能を最大限に活かせる方法を模索し続けた。
特に海上航法、熱帯地方での飛行に重点を置いて猛烈な訓練を重ね、
大東亜戦争開戦直後、南方作戦で勝利をおさめる。
◆部隊史
飛行第二大隊を改編。第四飛行団隷下。
13年8月中、支二套口に展開、漢口作戦参加。
12月広東に展開、海南島攻略作戦参加。
14年2月独立飛行第九中隊を編入。
14年8月5日満州ハイラルに展開。ノモンハン事件参加。のち、朝鮮東京城移駐。
15年1月8日広東に展開、同地防空、北部仏印進駐に協力。
16年9月1日一式戦に機種変更。12月3日第三飛行集団隷下。
南部仏印、フコク島に展開、船団掩護、マレー作戦参加。
12月25日ドムアン前進、ラングーン航空撃滅戦参加。
17年1月10日イポーに前進、シンガポール作戦参加。
17年2月カハンに前進、パレンバン作戦参加。
2月16日パレンバンに前進、ジャワ作戦参加。
3月26日チェンマイに展開。4月23日トングーに展開。
17年4月~20年4月5日アキヤブ、レグ、マウビ、ヘホ等にて
ビルマ周辺地区航空撃滅戦および反攻作戦参加。第三航空軍隷下。
20年5月バンコクに展開。7月13日クラコール集結。
8月22日クラコール。
21年4月25日サンジヤツク出発。5月4日広島県大竹上陸。復員。
◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/8月22日クラコール昭和21年4月25日サンジャック出発5月4日大竹上陸復員
◆歴代戦隊長
寺西多美弥中佐、横山八男中佐、佐藤猛夫少佐、加藤建夫少佐、
八木正己少佐、彰樂武世少佐、広瀬吉雄少佐、江藤豊喜少佐、宮部英夫少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第65戦隊/襲撃・軽爆隊(威第9104)
◆使用機種
九四式偵察機、九八式軽爆撃機、一式戦闘機(隼)、
二式複座戦闘機(屠龍)、九九式襲撃機
◆部隊史
飛行第九連隊と独立飛行第四中隊を改編、第二飛行団隷下。
14年9月9日ハイラルに展開、ノモンハン事件に参加。
16年8月満州敦化に移駐、
17年5月12日支那大場鎭に展開、淅かん作戦参加。
9月16日機種改変のため岐阜県各務原に移動。
10月23日朝鮮咸興に移駐、18年9月4日海浪に移駐。
19年7月7日ルソン島リパに展開、比島作戦参加(飛行機の大半損耗)。
20年1月2日戦力回復のため福島県原ノ町へ移動。
3月27日鹿児島県知覧に展開、第六飛行団隷下、沖縄作戦参加。
◆編成/昭和13年7月27日会寧
◆復帰/目達原
◆歴代戦隊長
藤塚止才夫大佐、寺田済一大佐、桑塚城中佐、椙村隆良中佐、
石原政雄中佐、吉田穆少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第66戦隊/襲撃機隊(鷲第9150)
◆使用機種
九九式襲撃機
◆部隊史
17年4月29日満州間島省東盛湧に移駐。
17年10月27日三江省湖南営に移駐。
18年9月一部周水子に展開、対潜警戒。
19年7月8日ルソン島リパに展開。
19年9月~19年11月リパを基地としてレイテ作戦に参加。
20年2月戦力回復のため茨城県鉾田に移動。整備員リパ・クラークに残置。
20年4月鹿児島県万世に展開、第六飛行団隷下。
20年7月福岡県大刀洗に展開、沖縄作戦参加。
◆編成/昭和17年3月31日平壌
◆復帰/大刀洗
◆歴代戦隊長
小森田親玄大佐、田村重夫少佐(戦死)、藤井權吉少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第67戦隊/襲撃機隊(誠第18969)
◆使用機種
九九式襲撃機、二式複座戦闘機(屠龍)
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
19年4月千島へ移駐。主力得撫島東雲、一部天寧にて哨戒任務。8月28日沖縄に展開。
9月26日アパリに展開。10月24日ネグロス島バコロドに展開、レイテ作戦参加。
飛行機損耗の為、空中勤務者及び地上勤務者若干名はラオアグに残置。
20年2月27日ザンボアンガに移動。
◆編成/昭和18年2月25日八戸
◆復帰/昭和20年5月30日ザンボアンガに於て現地復帰
◆歴代戦隊長
佐藤辰男中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第68戦隊/戦闘機隊(真第9151)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
◆概略
初の三式戦「飛燕」配備部隊。三式戦は
未だ正式採用前であったが、南東方面への新鋭戦闘機の
配備が待ち望まれており、昭和18年3月、不十分なまま
戦隊の九七戦から三式戦への改編が完了した。
4月4日、空母春日丸に搭載された三式戦は
トラックへ進出。春島飛行場で整備と訓練を進め、
トラックからは自力でラバウルへ向け離陸したが、エンジンの不調と
天候の悪化で全機が引き返した。戦隊は再度整備を行い、27機がふたたびラバウルへ
向かったが、ラバウルに無事到着したのは中川鎮之助中尉、ただ一機のみで
その他は誘導の司偵機とはぐたれた上に、コンパスが狂っていたため
多くが不時着する事態となった。このとき操縦者二名が未帰還となり、
稼働機の多数を失った。海上航法の弱さが露呈する形となり、新鋭戦闘機に
かける期待は失望へと変わった。三式戦の初陣は5月17日で
数機が14戦隊のウワ爆撃を掩護した。その後も航法の誤りで
阿部少尉以下3機が未帰還になったほか、整備も冷却器や燃料ポンプの
故障が多発。南方戦線での三式戦運用は、故障、マラリア等による
多大なる犠牲と困難がともなう形での幕開けとなったが、過酷な環境の中、
戦隊はよく敢闘し多くの敵戦闘機・重爆機を撃墜している。
19年1月2日、連合軍がマダン南方のグンビ岬に上陸したさいは
木村戦隊長は衰弱した体に注射を打ち、他戦隊機を含む60機を
率いて同地に進出し、空戦で未帰還となっている。
その後、補給も絶え、稼働機を失った戦隊は自活に入ったが
次々に飢餓と病に倒れ、全滅した。
◆部隊史
第十四飛行団隷下。
17年4月ハルピンに移駐。12月23日機種改編のため三重県明野に移動。
18年4月24日ラバウルに展開、船団輸送作戦に参加。
8月11日ウエワクに展開、同地に於いて進攻作戦および船団掩護。飛行機大半損耗。
19年4月22日サルミに移動。5月一部ハルマヘラ島ワシレの防空。
19年8月20日サルミにおいて復帰。
◆編成/昭和16年7月29日会寧
◆復帰/昭和19年8月20日サルミに於て復帰
◆歴代戦隊長
下山登令中佐、木村清中佐、貴島俊男少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第70戦隊/戦闘機隊(天翔第8370)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)
二式複座戦闘機(屠龍)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
大陸、内地双方でB-29の邀撃を行った重戦隊。
昭和19年7月、成都を基地とするB-29が鞍山へ来襲するようになり
二式戦闘機「鍾馗」二型を用いて対超重爆機訓練を実施。
9月8日、B-29、100機が大挙して来襲した際、これを邀撃したが
二式戦二型の上昇力をもっても高高度を飛来するB-29撃墜は
困難を極めた。11月5日、内地帰還命令によって70戦隊は
柏へ帰還し、第10飛行師団隷下となる。震天制空隊を
編成したほか、通常の飛行隊は40ミリ砲を用いて
相当の戦果を挙げた。昭和20年6月頃からは
四式戦が僅かずつ配備されたが実戦に使用されず
、ロケット戦闘機「秋水」(陸軍名「火龍))の装備が計画され
7月には操縦者全員が秋水搭乗のための身体検査を
航空審査部へ受けに行ったが実戦に至らず終戦となる。
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
17年9月満州杏樹に展開日対ソ作戦準備および満州重要都市防空。
19年2月25日千葉県松戸に移駐日東部地区防空。
8月4日南満鞍山に展開日同地防空。
11月8日松戸に移駐日第十飛行師団隷下日東部地区防空。
◆編成/昭和16年3月5日杏樹
◆復帰/杏樹
◆歴代戦隊長
江山六夫少佐、長縄克己少佐、坂戸篤行少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第71戦隊/戦闘機隊(誠第18429)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年9月に編成完結した、四式戦部隊である。
雁ノ巣において北九州防空任務にあたる。
比島派遣の命令が下ると、デルカメンへ進出。
錬成の間に合わなかった未熟操縦者十数名は
防府に移駐し錬成を続けた。進出早々に
米艦載機の波状攻撃を受け、離陸前に多数を消失した。
人員は無傷だったのが幸いで、若干の補充を受けたのちに
ネグロス島マナプラへ前進し、レイテ湾に出撃する
友軍機の掩護に当たる。20年1月7日早朝、
71戦隊の福田瑞則軍曹はマラリアで39度の熱があったが
僚機の三浦軍曹とともにリンガエン湾上陸に向かう敵船団を求め
出撃したが発見に至らず、単機で帰投中、バコロド上空で
54戦隊の杉本明准尉機(隼三型)と合流した。三浦軍曹はスコールの中、
マナプラ飛行場への着陸進路に入った。杉本准尉は
ファブリカ飛行場に向かったが、超低空で偵察に飛来した
マクガイア少佐のP-38、4機編隊と遭遇。先頭のリトメイア少佐機を
撃墜した。福田軍曹はその直後、高度300メートルで残りの3機と
正面から遭遇し爆弾と落下タンクを着けたまま撃ちあって、
先頭のマクガイア機を撃墜した。残る2機と巴戦に入り
1機に煙を博士たが自らも被弾して不時着した。杉本准尉も
被弾し不時着したが現地ゲリラによって襲撃され戦死している。
内地へ帰還した71戦隊は防府の残置隊と合流し北九州防空についたのち
20年5月には義烈空挺隊出発掩護のため隈之庄へ移駐。8月13日知覧へ移駐
準備中に終戦となる。
◆部隊史
19年9月21日山口県小月に移駐。北九州防空。
11月14日比島デルカメンに展開。
12月上旬マナブラに展開日レイテ第二次総攻撃参加。
地上部隊は一部デルカメンに残置。
20年2月ボルネオ島サンダカンに展開。一部はネグロス島に残置。
20年4月1日クチン日サイゴン日ツーランを経て防府に移駐日第十二飛行師団隷下。
残置隊は20年9月2日停戦に伴い収容所に入る。
◆編成/昭和19年9月17日亀山
◆復帰/防府
◆歴代戦隊長
綾部逸雄少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第72戦隊/戦闘機隊(威第18430)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年5月、明野飛行学校北伊勢文教所で編成された四式戦部隊。
12月に比島へ派遣され、バンバンへ向かったが敵戦闘機に奇襲され
バンバンへ到着したのは7機のみとなっていた。ミンドロ島進攻作戦で損耗を重ね
20年1月、第30戦闘飛行集団長の命令で戦闘隊は全機特攻隊に転じることになり
71、72、73戦隊、200、1、11戦隊の混成で精華隊を編成。250kg爆弾2個を
翼下に吊り下げてリンガエン湾へ2機ずつ出撃(うち1機は戦果確認機)し散華した。
◆部隊史
19年9月1日第二十一飛行団隷下日兵庫県伊丹に展開日阪神地区防空。
12月16日比島バンバンに展開日リンガエン上空戦闘。
ルソン東方船団攻撃日クラーク上空邀撃作戦参加。
20年2月1日レイナマルセデスに展開。
ルソン島残置部隊編成日アリタオ付近特別斬り込み作戦参加。
2月15日アパリに転進。3月2日カマルンガヤンに展開。
3月15地上整備要員内地輸送待機のためアパリに転進。
4月25日臨時歩兵第二十五大隊編成。第二中隊駿兵団長の指揮下に入る。
サンビセンテに展開。
5月15日アリタオ付近の地上決戦に参加。
20年5月30日部隊復帰。内地帰還予定人員8月15日ナトニンに集結。
9月2日戦闘行動停止。カビサヤンにおいて収容所に入る。
◆編成/昭和19年5月16日北伊勢
◆復帰/昭和20年5月30日部隊復帰
◆歴代戦隊長
津崎英介少佐、移野道雄少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第73戦隊/戦闘機隊(威第18431)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年5月、明野飛行学校北伊勢文教所で編成された。
斜め三本線の戦隊マークは隊員で画家の山本鶴丘氏がデザインした。
19年9月、所沢へ移駐し防空任務につく。12月、比島派遣命令により
マバラカット東へ前進。特攻機掩護、ミンドロ島サンホセ攻撃に出撃するなど
戦闘を重ねたが、20年1月、第30戦闘飛行集団長の命令で
特攻隊が編成され、元オリンピック選手の吉田喜一少尉ら3名が散華した。
◆部隊史
第二十一飛行団隷下。
19年9月埼玉県所沢に移駐。
12月14日ルソン島マバラカット東飛行場に展開、
ルソン島航空作戦に参加、航空機全機損耗。
20年3月オロラに移動。
4月10日オロラ残留者臨時歩兵第二十五大隊に編入。
5月30日オロラにおいて復帰。
南方残置隊は20年9月2日戦闘停止、収容所に入る。
◆編成/昭和19年9月17日柏原
◆復帰/昭和20年5月30日オロラに於て復帰
◆歴代戦隊長
三隈輝男少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第74戦隊/重爆隊(威第9132)
◆使用機種
九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
17年12月~19年2月満州公主嶺にて警備。
一部を以って東京都立川-マニラ間の空輸業務。
19年4月7日北海道計根別に展開、千島、オーツク海、太平洋上哨戒。
11月15日デルカルメンに展開、レイテ作戦参加。
20年1月~2月嘉義空輸作戦。
20年4月熊本に移駐、第五飛行団隷下。地上部隊デルカメン残置。
7月樺太・落合移駐。8月12日松本移駐。
◆編成/昭和17年12月20日公主嶺
◆復帰/松本
◆歴代戦隊長
河島慶吾中佐、笹尾宏中佐、上沼利清中佐、丹波多四郎少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第75戦隊/軽爆隊(輝第2379)
◆使用機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、キ102双発襲撃機(五式双発襲撃機)
◆部隊史
第三飛行団隷下、飛行第七大隊を改編。漢口作戦、
宜昌作戦協力及敵航空基地攻撃。
15年9月中支武昌に展開、淅東作戦、奥地進攻。102号作戦参加。
16年12月5日コンポントラツシユ展開、マレー作戦参加。
12月15日スンゲイバタニに前進、地上部隊協力、
シンガポール航空撃滅戦参加。
17年2月21日パレンバンに展開、ジャワ作戦参加。
3月2日カリジヤチに展開、バンドン攻略戦参加。
8月18日バンドンに展開。18年11月セレベス島アマハイに展開。
ハルマヘラ島、ニューギニア沿岸の哨戒船団掩護。
19年2月ホランジアに展開、マダン、ウエワク方面作戦参加。
3月アマハイに展開、西部ニューギニア作戦参加。
9月セレベス島アンベシヤに展開、ハルマヘラ島付近の戦闘に参加。
10月ボルネオ島サンダカンに展開、レイテ作戦参加。
12月リパに展開、比島作戦参加。
20年1月ツゲガラオに集結。3月機種改変のため茨城県鉾田に移動。
5月青森県八戸に移駐。
◆編成/昭和13年8月1日北京
◆復帰/八戸
◆歴代戦隊長
秋山豊次大佐、今西六郎大佐、小野門之助大佐、亀山主計中佐(殉職)
徳永賢治大佐、安岡光衛中佐、土井勤中佐、中川範治少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第77戦隊/戦闘機隊(翔第9625)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆概略
昭和12年7月、盧溝橋事件に端を発して大刀洗から北支に派遣。
九五式戦闘機で地上作戦に協力する。中支戦線でソ連機との戦闘を
続け、ノモンハン事件もは参戦せず終結後に満州へ移駐した。
昭和16年11月、開戦に備え、一挙南方へ進出。マレー上陸船団の
掩護を行った。12月8日の朝にはタイに進駐する第15軍地上部隊の
掩護に出撃。当初、外交交渉により平和進駐を目指していたが、
タイ国首相より回答が届かず、やむなくタイ国領内へ侵入。
小競り合いとなり、タイ国空軍機3機を撃墜している。
ドムアン、ついでラーへ展開した戦隊主力はラングーン航空撃滅戦
に参加。英空軍および米義勇軍戦闘機と交戦、ミンガラドン飛行場を
攻撃した。このとき機材は九七式戦闘機で全機が帰還したが
重爆5機を失い、64戦隊に支援を要請した。第二次ラングーン航空撃滅戦
南部ビルマ航空撃滅戦に参加、英米空軍のほとんどを撃滅し
マグエへ前進し、6月に竜鎮に帰還した。10月に斉斉哈爾へ移駐し
一式戦二型に機種改編。18年10月、南方への派遣命令で
ニューギニア、ホランジアへ前進。ブーツ、ウエワクを前進基地として
航空作戦にあたった。しかしホランジア大空襲で稼働機の殆どを失い、
松元戦隊長も邀撃戦で戦死。ホランジアに連合軍が上陸し
飛行機を失った戦隊はサルミを目指して陸路で転進を試みたが、
地上勤務者を含めても、終戦後生還できた者は僅か5名で
操縦者は全滅した。
◆部隊史
第一飛行団隷下。飛行第八大隊を改編。
13年8月湖北省二套口に前進、漢口作戦参加。
14年6日南昌に移駐。9月満州龍鎭に移駐。第五飛行集団隷下。
16年12月20日タイ・ランバンに展開、ビルマ作戦参加。
17年6月朝鮮東京城に移駐。18年10月ビルマに展開、同地作戦参加。
19年2月ホランジアに展開、ニューギニア作戦参加。
19年8月20日ホランジアにおいて現地復帰。
◆編成/昭和13年7月30日南京
◆復帰/昭和19年8月20日ホランジアに於て現地復帰
◆歴代戦隊長
武田惣次郎大佐、川原八郎中佐、吉岡洋中佐、
森本重一中佐、松本邦男中佐、井上重俊少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第78戦隊/戦闘機隊(真第9152)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
◆概略
68戦隊とともに初の三式戦闘機「飛燕」装備部隊として編制された。
先に68戦隊がラバウルへ派遣されたが、故障、事故、海上航法未熟による
未帰還が相次いだため、この失敗を教訓に78戦隊は明野で十分な訓練を重ねた。
ラバウルに到着した68戦隊の三式戦は1機のみであったが
6月16日、78戦隊の三式戦は満を持して明野を離陸。洋上航法の練度向上と
新航空路の開発により途中の落伍機は12機に達したものの、33機がラバウルへ無事到着した。
新航空路はトラック経由を廃して、島伝いの大迂回路をとることとし、
新田原、那覇、台湾の嘉義、マニラ、ダバオ、メナド、バボ、ホランジア、ウエワクを
経てラバウルへ到着するコースであった。
その後も第二陣が空母雲鷹に搭載され横須賀を出港。15機がラバウルへ到着。
間もなく重爆の掩護を行った。しかしニューギニアにおける諸所の航空戦は
非常に厳しく損耗を重ねつつあった。17機撃墜のエース高宮敬司中尉もここで
戦死。稼働機を失った戦隊は昭和20年11月まで自活生活を続け、生還者は
22名。操縦者は全滅した。
◆部隊史
第十四飛行団隷下。
17年4月8日満州孫家に移駐。
18年4月~6月三重県明野において機種改編。
7月2日ラバウル前進、ホランジアに展開。
7月22日ウエワクに展開、ニューギニア航空作戦参加。
19年3月ホランジアに移動。4月22日サルミに移動、飛行機全機損耗。
地上勤務者はウエワクに残置。
19年8月20日サルミにおいて現地復帰。残置者サルミにおいて終戦。
◆編成/昭和17年3月31日杏樹
◆復帰/昭和19年8月20日サルミに於て現地復帰
◆歴代戦隊長
安部勇雄少佐、高月光少佐、泊重愛少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第81戦隊/司偵隊(高第2380)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
キ102双発襲撃機(五式双発襲撃機)
◆部隊史
独立飛行第十六中隊改編。飛行第三集団隷下。
16年11月~12月プノンペン前進、マレー作戦準備捜索。
マレーに前進、ボルネオ、スマトラ、ジャワ上陸作戦の為の上陸点捜索。
17年3月ジャワに前進、濠北作戦、占領地戡定作戦参加。
マレー、スマトラ、西部ジャワ作戦参加。
7月ビルマに展開、東部印度、印度洋哨戒作戦に協力。
7月24日~11月30日第一次ビルマ地区航空撃滅戦。
7月24日~18年1月31日第二次ビルマ地区航空撃滅戦。
2月1日~4月30日第三十一号作戦協力竝に第三次ビルマ地区航空撃滅戦参加。
第三航空軍隷下、5月1日~9月30日ビルマ周辺航空作戦竝に地上作戦協力。
10月1日~19年12月15日反攻邀撃々碎作戦。
20年6月南部仏印に移動、ビルマ、アンダマン捜索、哨戒、地上作戦協力。
◆編成/昭和19年9月20日彰徳
◆復帰/レグー
◆歴代戦隊長
柳本榮喜中佐、森正光少佐、岩崎正一中佐、鈴木正雄少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第82戦隊/司偵隊(隼魁第2383)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
第五航空軍隷下、漢口に於て独立飛行第十八中隊及び
独立飛行第五十五中隊を基幹として編成。
11月1日~12月31日 19年度後期航空作戦参加。
20年3月主力支那南京に展開、一部青島に派遣、
20年度第一期航空作戦参加。
20年6月朝鮮京城に移駐、第八飛行団隷下、第二中隊主力南京に残置。
◆編成/昭和19年10月31日漢口
◆復帰/京城
◆歴代戦隊長
出口敦少佐、奥村房夫少佐、真木洋大尉(南京派遣隊長)
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第83戦隊/偵察隊(灘第11070)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機、九九式軍偵察機、九九式襲撃機
◆部隊史
航空兵団隷下。
5月北支運城に展開、中原会戦に協力。
6月満州海林へ帰還。
7月29日第八十三独立飛行隊本部、
独立飛行第七十一、七十三、八十九中隊に改編。
19年3月31日ラングーンにて、第八十三独立飛行隊本部、
独立飛行第八十九・九十一中隊を飛行第八十三戦隊に改編。
4月15日ボルネオ島ラグアンに展開、
飛行第五十八戦隊長の指揮下に入り、同地付近の海上交通保護作戦に従事。
6月9日第五十八戦隊長の指揮を脱す。
6月9日主力はラグアンに展開、沿岸哨戒。
6月末一部ビルマ方面軍配属となり拉孟守備隊に空輸補給。
12月10日ネグロス島シライに展開、
12月10日~20年1月8日ネグロス島に在りて比島捷号作戦参加。
1月8日クチンに展開。
◆編成/昭和16年3月1日海林
◆復帰/昭和20年5月30日クチンにて復帰
◆歴代戦隊長
二田原憲次郎大佐、綾部節夫中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第85戦隊/戦闘機隊(隼魁第8385)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和16年3月、満州、孫家において飛行第1戦隊と第64戦隊の人員を基幹として
編成された。大東亜戦争開戦後も関東軍戦闘機隊の精鋭として満州に置かれ、
昭和17年末頃から18年初めにかけて二式戦闘機への機種改編が行われた。
同年7月、戦隊は広東へ展開し中南支航空戦に参加。零陵、桂林に進攻し
在支米軍との戦闘、邀撃を繰り返した。当初より重戦を用いた一撃離脱戦法により
在支米軍P-40に対して優勢であった。19年10月、二式戦、四式戦混合部隊となる。
12月18日、正午頃からB-29、B-24、B-25、P-51の戦爆連合百数十機が漢口に来襲し
十数回の波状攻撃で市街地は火の海と化した。85戦隊も空襲の合間を縫って
邀撃したが、地上機も破壊され、邀撃機もP-51に対しては苦戦を強いられた。
稼働機が2、3機となった戦隊は20年1月、南京へ後退。戦隊の回復を行いつつ
防空任務および特攻による艦船攻撃訓練を実施した後、朝鮮の金浦へ移駐し
本土決戦に備え終戦となる。最後の戦闘は8月13日、P-51との空戦で、中村
守男少佐以下5名が戦死している。生還した操縦者は15名。
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
16年3月21日八面通に移駐。12月1日海浪に移駐。
18年7月広東に展開、夏季航空作戦参加。湘桂作戦参加。
19年2月漢口に移駐、武漢防空。
20年2月南京に展開、一部広東に残置。第一飛行団隷下。
5月30日朝鮮京城に移駐。広東残置隊は8月3日京城に移動し本隊と合流。
10月7日仙崎上陸復員。
◆編成/昭和16年3月7日孫家
◆復帰/京城
◆歴代戦隊長
山本五郎中佐、斉藤籐吾少佐
飛行第87戦隊/戦闘機隊(冨第8387)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)
◆概略
昭和16年3月、編成され、大東亜戦争開戦後も対ソ作戦に備え、
満州に駐留し、錬成を続けた。昭和17年末から18年初めに
かけて二式戦二型に機種改編を実施。半数は40ミリ砲二門を備えた丙型で
7月、柏へ転進した戦隊は、間もなくパレンバン製油所の防空を命じられた。
静穏で燃料に恵まれた戦隊は錬成を続けたが、昭和19年5月、一時期
ビルマへ転用。P-51等との戦闘で稼働機四分の一を失い戦死者6名を出した。
パレンバンへ戻った戦隊は再び暫くの静穏の中、戦力回復に努め
8月末頃には52機を保有した。19年秋の比島決戦に他戦隊は次々投入されたが
87戦隊はパレンバンに残り製油所防空にあたる。いよいよと思われる
戦局が動いたのは20年1月、セイロン島を出港した英艦隊の艦載機に
よる空襲であった。87戦隊は英空母四隻から発艦した百数十機のアベンジャー、
ヘルキャット、コルセア、シーファイアとの空戦を展開した。
阻塞気球、高射砲で強固に守られた空の陣地へ勇敢にも侵入した英艦載機は
爆撃を繰り返し製油所は大損害を受けた。戦隊も全力で邀撃。高射砲隊と
協同し50機を撃墜した。(英軍側記録によれば41機を失っている)
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
16年3月26日牡丹江省団山子に移駐。
18年5月22日千葉県柏に移駐。帝都防空。
12月ゲルンバンに展開、パレンバン防空。
19年5月メイクテイラに展開。第三航空軍隷下。インパール作戦参加。
5月27日ゲルンバン帰還、6月20日~8月一部スマトラ島タンジユンプーラに派遣。
20年3月8日タンジユンバトに移駐。7月チヤンギーに展開、シンガポール防空。
8月ダンジユンバトに帰還。一部チヤンギーに残置。
21年5月31日広島県大竹港上陸復員。
◆編成/昭和16年3月1日ハルピン
◆復帰/タンジユンバト
◆歴代戦隊長
新藤常右衛門中佐、山田邦雄中佐、中野猪之八少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第90戦隊/軽爆撃機隊(隼魁第2381)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機
◆部隊史
飛行第九大隊を改編。第三飛行集団隷下。
13年8月~12月4日北支太原、運城、包頭にて第二期第三期粛清作戦、
ならびに第二次航空進攻作戦参加。
14年12月5日~15年7月31日北支路安、太原、石門、運城、包頭にて
地上作戦直接協力ならびに要地攻撃参加。一部を以って宜昌作戦参加。
8月1日~12月1日北支太原、南支広東、欽州にありて南支第一次作戦参加。
16年1月仏印ハイフォンに展開、地上作戦直接協力ならびに要地攻撃に参加。
6月21日~11月14日済南にて地上作戦協力、第102号航空作戦参加。
12月21日ハイフォンを経てスンゲイバタニに展開。
17年3月31日まで南支要地攻撃マレー作戦、南部スマトラ西部ジャワ作戦等に参加。
3月18日~4月24日クルアンにて占領地戡定作戦に参加。
4月25日広東に展開、地上作戦航空進攻作戦に従事。
7月28日南苑に展開。
17年後期18年前期・中期・後期各航空作戦ならびに地上作戦に直接協力。
19年2月19日徐州に展開、
19年前期航空作戦ならびに「ト」及び「コ」号作戦19年中期作戦参加。
19年8月11日~12月31日徐州、虹橋にて19年後期航空作戦参加。
21年1月1日~20年8月14日中支虹橋、
北支済南にて20年第一期第二期航空作戦、天一号作戦に参加。
◆編成/昭和13年8月1日南苑
◆復帰/虹橋・済南
◆歴代戦隊長
山瀬昌雄大佐、山口槌夫大佐、瀬戸克己中佐、三木了中佐
平松健二少佐、鈴木武男少佐
◆戦死者・殉職者追悼
教導飛行第95戦隊/重爆隊(満洲第950)
◆使用機種
百式重爆撃機(呑龍)
◆部隊史
第五飛行団隷下。
95戦隊に記載
◆編成/昭和17年12月18日鎭東
◆復帰/昭和19年1月30日拉林にて飛行第95戦隊と改称
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第95戦隊/重爆隊(威第9132)
◆使用機種
百式重爆撃機(呑龍)
◆部隊史
教導飛行第九十五戦隊を飛行第九十五戦隊と改称。第五飛行団隷下。
19年2月16日茨城県鉾田に移動。4月26日北海道帯広に移駐、北東海上哨戒任務。
5月択捉島天寧移駐。8月11日計根別移駐。11月19日クラークに展開。
11月24日~12月31日第二次比島作戦参加。
12月14日菊水特攻隊に丸山義正大尉以下49名出動。
20年1月4日嘉義に移動、一部クラーク残置。
3月9日一部をマレーに派遣、一部をクラーク残置。4月帯広に移駐。
◆編成/昭和19年1月30日拉林
◆復帰/昭和20年5月10日帯広に於て復帰
◆歴代戦隊長
山本邦麿中佐、久保木巌少佐(戦死)、大沢進一中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第98戦隊/重爆隊(靖第21203)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
◆部隊史
第四飛行団隷下。上海、王賓にて独立飛行第三、十五中隊を改編。
13年<2項より補足>11月10日漢口に移駐、奥地進攻作戦。
14年3月18日杭州に移駐、編成改正により
第三中隊を飛行第六十戦隊に転出。
7月10日奉天に移駐。14年11月敦化に移駐、機種改変。
15年3月改編により一個中隊増強。
8月海口を基地として桂林攻撃及び海上航法訓練。
15年10月敦化に帰還。16年8月南苑に展開、
運城を前進基地とし重慶、蘭州攻撃。
16年12月4日サイゴンに展開、第三飛行集団隷下、
船団掩護、マレイ爆撃、ラングーン航空撃滅戦参加。
17年1月10日マレイ、ケチルに展開、マレイ、パレンバン作戦参加。
3月タイ国ナコンサワンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
8月装備改変のため一部岐阜に移駐。
9月タイ国ドムアンに展開、一個中隊をビルマ、タボイに展開、
12月マレイ・スンゲイパタニに移動、カルカッタ進攻。
一部をドムアンに残置。
18年5月ランバン移動、ビルマ航空撃滅戦参加。
10月スンゲイパタニに集結、カルカッタ爆撃戦参加。
19年2月鹿屋に移駐。2月22日海軍第五航空艦隊の指揮下に入る。
雷撃訓練。
6月豊橋海軍基地にて機種改変。7月鹿屋帰還。
10月10日~10月14日台湾沖航空作戦参加、部隊の全戦力を失う。
20年2月大刀洗に移動、第二十七飛行団隷下、
3月沖縄作戦参加のため大刀洗、
宮崎、鹿屋、新川、小松、大邱、郡山に移動或は展開。
7月1日第五航空艦隊の指揮を脱し、
第二十一飛行団司令部の指揮下に入り、主力児玉に移動
◆編成/昭和13年8月15日上海
◆復帰/主力・児玉
◆歴代戦隊長
服部武士大佐、吉田喜八郎大佐、林勇藏大佐、臼井茂樹大佐(戦死)、大阪順次中佐
楢崎五百刀中佐、前野榮吉中佐、松村靜馬中佐、高橋太郎少佐、宇木素道少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第101戦隊/戦闘機隊(靖第18920)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年7月、北伊勢において編成が開始された
101~103戦隊の三個飛行戦隊から成る、第百飛行団のひとつ。
20年3月より都城東へ移動し、稼働機20機で沖縄決戦に参加。
徳之島、喜界島へ前進し特攻機掩護を行う。第一次、第二次
総攻撃参加。16日の第三次総攻撃においては沖縄北、中飛行場へ
超低空で接近しタ弾による挺身攻撃を実施。
児玉正美中尉以下8名が未帰還となる。
児玉中尉は不時着し最後まで地上部隊と共に奮戦したと
伝えられている。その後、戦力補充を受けつつ
第六次航空総攻撃まで参加し特攻隊を掩護する。
7月10日、戦隊は解散。残った人員は第百飛行団として
高松へ後退。間もなく終戦を迎えたが、飛行団長、秋山紋次郎大佐は
以前、戦闘態勢を維持。8月16日夕方、米艦隊が土佐湾へ侵入との
情報を受け、夜半に特攻隊12機へ編成し、出撃したが
目標を発見できず帰投した。
◆部隊史
第百飛行団隷下。
20年2月大阪府柏原に移駐。3月宮崎県都城東に展開。
5月熊本県隈之城へ移駐。6月東京都成増に移駐、戦力回復。
8月2日埼玉県高萩へ移駐。
◆編成/昭和19年11月10日北伊勢
◆復帰/高萩
◆歴代戦隊長
代永兵衛少佐、末永正夫大尉、坂本美岳少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第102戦隊/戦闘機隊(靖第18921)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年7月、北伊勢において編成が開始された
101~103戦隊の三個飛行戦隊から成る、第百飛行団のひとつ。
20年3月、稼働機40機を揃えた戦隊は都城西飛行場へ前進。
喜界島を中継基地として特攻掩護を行う。
4月6日の第一次総攻撃においては第百飛行団の稼働機
48機をもって特攻機掩護のため、奄美大島付近の制空戦闘に参加。
102戦隊から20機が参加したが帰途、針路を失い
九州、四国へ不時着する機が多発した。20年6月、
成増へ後退し再建中に終戦。
◆部隊史
第百飛行団隷下。
19年11月10日宮崎県都城西に展開。
20年4月から6月沖縄作戦参加。6月末、東京都成増に移動。
洋上迷彩の施された機体が特徴。
◆編成/昭和19年7月25日北伊勢
◆復帰/昭和20年7月30日 成増にて復帰
◆歴代戦隊長
垣見馨少佐、林岩男大尉
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第103戦隊/戦闘機隊(靖第18922)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年7月、北伊勢において編成が開始された
101~103戦隊の三個飛行戦隊から成る、第百飛行団のひとつ。
昭和20年3月、熊本県隅ノ庄飛行場へ前進したが、戦隊の四式戦は
定数の半分程度で、東条道明戦隊長は、宇都宮航空廠と中島飛行機へ
行き、ひざ詰め談判で十数機を四式戦を手に入れ、計30機を揃えた。
天号作戦発令と共に、103戦隊は第6飛行団に配属となり
65、66戦隊とともに知覧から徳之島へ前進し、両襲撃隊の特攻隊
掩護を行った。徳之島が艦載機の銃爆撃で使用不可能となると
知覧へ後退し、第八次総攻撃では、小川倶治郎大尉以下11機が
悪天候の中、超低空で沖縄北飛行場を銃撃。10機が未帰還となり
小川大尉機のみが帰還した。損耗した戦隊は淡路島の由良飛行場へ
後退し、戦力回復に努めたが終戦となる。
◆部隊史
三重県北伊勢にて19年10月まで本土防空作戦に従事。11月兵庫県伊丹に移駐。
20年1月熊本県隅之庄に移駐、沖縄作戦に従事。2月28日鹿児島県知覧に前進。
3月鹿児島県徳之島に移動。3月下旬知覧に帰還。4月宮崎県都城に移動。
6月東京都成増に移駐、戦力回復。第百飛行師団隷下。
7月飛行第百二戦隊の人員、資材を転入して編成改正。8月兵庫県淡路島に移駐。
◆編成/昭和19年7月25日北伊勢
◆復帰/由良
◆歴代戦隊長
東條道明少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第104戦隊/戦闘機隊(羽第18923)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
◆部隊史
第二航空軍隷下。
19年9月満州の奉天深井子。10月奉集堡に移駐、戦力整備。
11月鞍山移駐。第十五飛行団隷下、第二次編成完結。同地防空任務。
8月22日ソ連により武装解除。昭和製鋼所解体作業に従事。
◆概略
昭和19年8月、小月で編成された防空戦闘機隊。
奉天を拠点に、満州防空を担う。B-29への体当たり専門の
「菊水攻撃隊」が編入。昭和20年8月9日、ソ連が参戦すると
10日、ソ連軍機甲部隊を攻撃。11日にも機甲部隊をタ弾をもって攻撃し
約20両を炎上させたほは、独飛25中隊、独飛81中隊と協同して
満州防空を続けた。昭和20年8月17日、竹田宮恒徳王が終戦の聖旨
伝達に来満したさい、その乗機を護衛した第26教育飛行隊の
鎌田正邦大尉以下4機が奉天上空に帰還したところ、既にソ連軍の
手に落ちたことを知るや、全機密集編隊のまま滑走路へ自爆した。
◆編成/昭和19年8月15日小月
◆復帰/鞍山
◆歴代戦隊長
滝山和少佐、岡崎弥助少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第105戦隊/戦闘機隊(誠第19102)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
◆概略
昭和19年11月に編成完結された三式戦部隊。
台湾の防空を担う。間もなく独立飛行第23中隊が
沖縄から台湾へ後退し、指揮下に入る。
2月、23中隊は石垣島へ前進し3月26日
伊舎堂用久大尉の指揮する最初の特攻隊
「誠」第17飛行隊の4機を105戦隊が掩護して
出撃。直掩機の阿部久作少尉も後を追い散華した。
3月25日、105戦隊主力も決戦参加の為、宜蘭へ移動。
4月1日石垣島へ前進し、三式戦による特攻、特攻掩護を
繰り返した。
◆部隊史
第八飛行師団隷下。
19年10月10日~17日台湾ならびに南西諸島防衛戦闘に参加。
20年3月24日台湾宜蘭に移動。4月主力石垣島に前進。
4月26日~6月20日天号作戦参加。8月15日宜蘭に帰還。
21年2月24日和歌山県田辺港に上陸復員
◆編成/昭和19年7月15日台中
◆復帰/宜蘭
◆歴代戦隊長
吉田長一郎少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第106戦隊/司偵隊(靖第18924)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
◆部隊史
第十二飛行師団隷下。
19年12月8日マニラに展開。
20年1月10日戦隊長以下10名ツゲガラオに移動。
19年12月~20年2月マニラ、マリキナ、ツゲガラオにて比島作戦参加。
20年1月下旬~2月台湾小港に集結。地上勤務者マリキナ残置。
第百六戦隊長以下4名宮崎県新田原へ移動。
他の台湾所在人員は飛行第二戦隊の指揮下に入る。
3月9日一部八街に集結。
20年3月26日福岡県蓆田飛行場に移動、沖縄作戦参加。
20年3月残置者は広島県宇品へ帰還。福岡へ移動。
◆編成/昭和19年10月24日各務原
◆復帰/昭和20年4月20日
◆歴代戦隊長
須子正雄中佐(戦死)
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第107戦隊/防空戦闘・重爆隊(燕第18925)
◆使用機種
四式重爆撃機(飛龍)、キ109特殊防空戦闘機
◆部隊史
第五十一教育飛行団長の隷下に入り、内地防空。
20年6月朝鮮大邱移駐、朝鮮海峡哨戒。
◆編成/昭和19年11月10日浜松
◆復帰/昭和20年7月30日浜松に於て復帰
◆歴代戦隊長
道盛清中佐、吉田大八少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第108戦隊/輸送機隊(誠第19103)
◆使用機種
一式双発高等練習機、九七式重爆撃機二型
九九式双発軽爆撃機、百式輸送機(MC輸送機)
◆部隊史
第八飛行団隷下。
19年10月~12月主力を以って数次にわたり比島クラーク地区への輸送。
12月10日台湾塩水に移駐。
20年1月沖縄、新田原、上海、宮古島への空中輸送。3月台北に移駐。
3月26~6月20日台湾ならびに南西諸島における天号航空作戦参加。
20年5月26日第三中隊を基幹として飛行第百八戦隊爆撃飛行隊を編成。
7月1日主力は台湾樹林口に、一部は台湾彰化に移駐。
◆編成/昭和19年8月下旬嘉義
◆復帰/樹林口
◆歴代戦隊長
古川日出夫中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第109戦隊/輸送機隊(威第11091)
◆使用機種
百式輸送機(MC輸送機)、一式輸送機
◆部隊史
第三航空軍隷下。
19年11月15日スマトラ島バカンバルに移駐。
12月6日タイ国アロールスターに移駐、ビルマに対する人員資材輸送。
20年3月28日仏印フーミに移駐。
8月7日南方航空輸送部隊第一・第二輸送隊を編合。
◆編成/昭和19年10月8日シンガポール
◆復帰/仏印
◆歴代戦隊長
高梨稔中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第110戦隊/重爆機隊(靖第19027)
◆使用機種
四式重爆撃機(飛龍)
◆概略
昭和19年10月。浜松教導飛行師団第三教導飛行隊を基軸として編制。
長距離爆撃と合わせて雷撃訓練を実施する。19年12月7日
浜松~サイパンを飛行し攻撃を敢行。ついで20年2月、
硫黄島緊急空輸任務、天号作戦では熊本県健軍飛行場を前進基地として
沖縄本島の飛行場攻撃ならびに艦船攻撃を行った。
◆部隊史
19年12月7日教導航空軍隷下、静岡県浜松を基地としてサイパン攻撃。
20年2月第六航空軍隷下、東京都立川を基地として硫黄島に対する空輸。
2月浜松を基地として硫黄島周辺艦船攻撃。
3月福岡県大刀洗に前進、3月中旬~3月下旬沖縄周辺艦船攻撃。
第七飛行団隷下。4月熊本県隈之庄に移駐。5月23日義号作戦、沖縄中飛行場攻撃。
◆編成/昭和19年10月浜松
◆復帰/隈之庄
◆歴代戦隊長
草刈武男少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第111戦隊/戦闘機隊(帥第34217)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機
◆概略
昭和20年7月、明野教導飛行師団から名称を
改め、111戦隊となる。112戦隊と並んで、
最後の陸軍飛行戦隊となった。装備機は最新鋭の
五式戦で、4個中隊から成り、主力は大阪の佐野飛行場、のち小牧
展開し、一個中隊のみ四式戦で淡路島の由良飛行場にあった。
編隊長以上には老練の助教クラスを置いたが
列機は航士57期、特操などの練度不足の者を主体とし、
最新鋭の五式戦を多数保有しながら、燃料不足で飛ぶことも
ままならなかった。温存する作戦となり、終戦となるが
編成早々の6月には数回にわたってB-29を邀撃している。
7月16日、江藤豊喜少佐の率いる五式戦12機と、加藤隼戦闘隊の生き残り、
檜与平少佐の率いる五式戦12機が出撃。松坂上空で
P-51、12機と空戦となる。義足のエースと
その列機は11機(不確実5)を撃墜した。
◆部隊史
第二十三飛行団隷下。
20年8月13日愛知県小牧に移駐。
◆編成/昭和20年7月10日明野
◆復帰/小牧
◆歴代戦隊長
石川正中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第112戦隊/戦闘機隊(帥第34218)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機
◆概略
昭和20年7月、常陸教導飛行師団から名称を
改め、112戦隊となる。111戦隊と並んで、
最後の陸軍飛行戦隊となった。最後の決戦部隊として温存策がとられ
111戦隊と同様、通常の飛行戦隊の倍の戦力を保有したが
その実態は燃料不足により飛行訓練すら満足に実施できなかった。
操縦者は航士57期、特操などの練度不足の者を主体とし
装備機は最新の五式戦であったが1~2回のみの飛行しか
許されなかった者も多い。唯一の戦闘は8月10日
早乙女栄作大尉の率いる4機が八街の潜伏飛行場からB-29を
房総沖に追撃し、撃破したのみであった。
◆部隊史
第一航軍隷下。第二十三飛行団隷下。
鹿島灘の哨戒。
◆編成/昭和20年7月28日新田
◆復帰/新田
◆歴代戦隊長
擣原秀見中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第144戦隊/戦闘機隊(帥第34213)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
◆部隊史
16年9月東京都調布に移駐。11月飛行第二百四十四戦隊に改編。
◆編成/昭和16年7月30日豊岡
◆復帰/昭和16年11月、調布
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第200戦隊/戦闘機隊(威第19028)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和19年10月、明野教導飛行師団で編成された
明野の精鋭を選抜した決戦部隊として期待されたが
航士57期など、明野の乙課程を終わったばかりの者も含まれていた。
編成直後に比島進出の命令が下され、4個中隊、50機が明野を離陸。
しかしテスト飛行を省略したため、航空総攻撃の前日にあたる23日、
ルソン島ポーラックに到着したのは12機にすぎなかった。
翌24日、35機が追及してきたので、戦隊主力はネグロス島サラビア基地へ
前進。後発の第五、第六中隊は21機で10月30日クラーク基地へ到着した。
200戦隊にかける期待は大きく「皇戦隊」と命名したが、続発する
四式戦の故障と、飛行場不良による事故によって、10月末までに
老練宮丸大尉以下11機が未帰還となっていた。11月、ネグロス島へ
移動し22戦隊と合流。レイテ制空、タ弾による飛行場夜襲等を実施。
12月中旬より戦隊はマバラカット東へ後退。邀撃戦に移行する。
20年1月8日、米軍のリンガエン上陸とともに戦隊は残った稼働機で
特攻隊を編成。散華した。
◆部隊史
第30戦闘飛行集団隷下。
19年10月24日ルソン島ポーラックに展開し、レイテ作戦参加。
12月マバラカットに展開、一部ネグロス島に残置。
ルソン島航空作戦および特攻作戦参加。
20年1月31日台湾潮州に移動。地上勤務者はアパリに残置。
2月28日埼玉県所沢に移動。
◆編成/昭和19年10月12日明野
◆復帰/昭和20年5月16日所沢にて復帰
◆歴代戦隊長
高橋武中佐
◆戦死者・殉職者追悼
教導飛行第204戦隊/戦闘機隊(誠第11071)
飛行第204戦隊/戦闘機隊(誠第11071)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
◆概略
昭和17年4月、西満州の白城子付近の鎮西で編成された
教導飛行第204戦隊がその前身である。軽爆機の
教導飛行第208戦隊とともに白城子教導飛行団を構成する。
昭和18年9月、ビルマへの派遣が決定。一式戦二型へ機種改編を
行ったのち、ラングーン郊外のミンガラドンへ前進した。
11月下旬、連合軍爆撃機によるラングーン昼夜爆撃が熾烈となり
戦隊もこの邀撃にあたる。重爆機を撃墜する戦果を挙げた。
12月、カルカッタ爆撃に参加、テンスキア攻撃、中部ビルマヘホへ
前進ののち33戦隊、64戦隊とともに60戦隊の重爆機を掩護して
昆明を攻撃。アキャブ、モンドー攻撃、
2月9日、コックスバザー付近の戦闘で田淵戦隊長が戦死。
2月22日付で教導飛行第204戦隊から飛行第204戦隊へ改称。
ラングーンに対する夜間防空戦闘、インパール作戦参加。
タイのドムアンに後退したのち、比島方面への派遣が決定。
マニラ郊外のニルソンへ展開。マニラ地区防空と
船団掩護にあたる。ネグロス島ファブリカへ前進し
レイテ湾の米艦船を爆装し強襲。損耗を重ね
水戸へ帰還した。水戸で航士57期、特操1期を中心とする
空勤者を補充し、一式戦三型へ改編。再度サイゴンへ
派遣された。天号作戦では台中から特攻隊四隊を編成出撃させている。
◆部隊史
第四飛行団隷下、同地にて教育訓練。
18年9月15日満州孫家に移駐。11月6日仏印、サイゴンに展開。
12月ラングーンに展開。カルカッタ、ケンスキヤ、チタゴン攻撃。
19年2月22日ラングーンにて人員を増強し、飛行第二百四戦隊と改称。
ビルマにおいて航空作戦、インパール作戦協力。
8月1日バンコックに展開。10月11日マニラに展開、比島航空作戦に参加。
12月15日戦力回復のため茨城県常陸に移動。地上勤務者クラークに残置。
20年2月28日サイゴンに展開、仏印作戦参加。
第八飛行師団隷下、4月一部台北に展開、沖縄作戦に参加。一部サイゴンに残置。
7月4日主力は台湾花蓮港に移動。台北展開組と合流し沖縄作戦参加。
21年3月5日主力は田辺港上陸復員。
マニラ残置隊はネグロス付近に残留所在部隊に協力。
20年9月2日停戦、収容所に入る。
20年8月10日サイゴン残置者は第百二十六飛行場大隊及び飛行第六十四戦隊に転属。
教導204戦隊
◆編成/昭和17年3月満洲・竜江省・鎭西
◆復帰/昭和19年2月22日ラングーンにて人員を増強し飛行第204戦隊と改称
204戦隊
◆編成/昭和19年2月22日ラングーン
◆復帰/花連港
◆歴代戦隊長
田淵宗少佐、相沢寅四郎少佐、村上浩少佐
◆戦死者・殉職者追悼
教導飛行第206戦隊/軽爆・偵察隊(満洲第8326)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機
◆部隊史
白城子教導飛行団隷下。
16年3月下旬満州白城子に移駐。
◆編成/昭和16年3月1日新京
◆復帰/昭和16年7月23日臨時編成下令
◆歴代戦隊長
安西秋男中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第208戦隊/軽爆隊(靖第8328)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機
◆部隊史
16年<2項より補足>3月下旬トウ<さんずいに兆>南に移駐、
白城子教導飛行団の編組に入る。
第六飛行団隷下。18年2月12日トラツク島に展開、南太平洋作戦参加。
5月28日ブーツに展開、第二次ニューギニア作戦参加。
19年3月10日ホランジアに展開、一部ブーツに残置。第三次ニューギニア作戦参加。
4月3日飛行機受領のため嘉義へ移動、一部ホランジア残置。
4月マニラに展開、5月8日ダバオに展開。5月16日ガレラに展開。
7月リパに展開。8月20日リパに於て飛行第三十四戦隊の人員、器材を編入。
11月28日カロカンに移動。
20年1月10日ツゲガラオに移動。約200名マニラ地区に残置。
1月屏東に移駐。3月13日所沢に移動
◆編成/昭和16年3月31日牡丹江
◆復帰/昭和20年5月復帰
◆歴代戦隊長
於田秋光中佐、田中昇藏少佐、加島誠輝中佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第244戦隊/戦闘機隊(帥第34213)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)五式戦闘機
◆概略
昭和16年7月、埼玉県豊岡の航空士官学校で関東地区の防空部隊として
編成された144戦隊が前身で、当初は九七式戦闘機二個中隊から成る
部隊であった。144戦隊は調布に移動し12月の開戦時には
九七戦19機と、地上勤務者の多くは予備役の召集であった。
昭和17年4月15日付で244戦隊と改称され、調布にあって、当時としては
唯一の防空戦隊として備えた。19年3月、サイパン陥落後、本土空襲の
危機が迫る中、飛行第十師団が新編成され、244戦隊はその隷下で
主戦力を担う。帝都上空にB-29が飛来するようになると、邀撃を繰り返し
たが高度一万を飛来するB-29の撃墜は困難であった。間もなく体当たり専門の
震天制空隊が編成され、初代隊長の四宮徹中尉をはじめ
体当たり撃墜に成功している。名古屋に来襲するようになってから
浜松と調布を行きし、帝都と中部地区の防空を兼任する。
この頃にはB-29は爆撃精度を高めるため、犠牲を覚悟で3000~5000メートルで
飛来しており、戦隊も多くの撃墜戦果を挙げている。
昭和20年5月、五式戦闘機に機種改編した戦隊は知覧へ前進し、
特攻隊掩護と知覧の防空にあたる。沖縄作戦の一段落とともに
八日市へ後退し、最後の温存部隊として、飛行禁止が命令されたが
小林戦隊長は演習の名目で艦載機を邀撃。戦果を挙げた。
◆部隊史
飛行第百四十四戦隊を改称。第十七飛行団隷下。内地防空専任。
19年3月第十飛行師団の編組に入る。
20年3月第三十戦闘飛行集団の隷下に入り、調布、浜松、鹿児島、八日市等にて
防空ならびに特別攻撃隊の直掩を行う。
◆編成/昭和16年11月調布
◆復帰/八日市
◆歴代戦隊長
泊重愛少佐、村岡信一少佐、藤田隆少佐、小林照彦少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第246戦隊/戦闘機隊(天鷲第19196)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
◆概略
昭和17年8月、加古川で13戦隊を基幹として編成された。
18年4月、一式戦二型に機種改編。
18年11月、台湾へ進出し高雄地区の防空にあたる。
19年3月に大正飛行場へ復帰。8月、石川貫之少佐、戦隊長に着任。
この頃より二式単戦をもって錬成にあたり、台湾へ前進し
台湾南部の防空にあたる。11月より比島戦線へ派遣。
クラーク中飛行場へ前進した。11月24日、特攻隊「富嶽隊」の
掩護にあたる。防空戦闘にあたっては、劣勢の状況下、敢闘を続けた。
比島から帰還ののち、本土防空戦闘隊として大正飛行場にあって
中部地区のB-29邀撃にあたる。20年1月より四式戦配備。二式単戦、
四式戦混合部隊となって中部、京阪地区の防空任務を継続。
7月以降は温存部隊となり終戦。
◆部隊史
第十八飛行団長の隷下に入り、阪神地区防空。
一個中隊は北海道千歳に派遣。主力は兵庫県尾上に移駐。
18年12月主力は台湾屏東に派遣、台湾防空。
19年3月屏東に派遣の主力、大阪府柏原に移駐。
19年11月比島に前進、比島作戦参加。第十一飛行師団隷下。
20年2月15日大阪移駐。中部地区防空。
◆編成/昭和17年6月30日加古川
◆復帰/加古川
◆歴代戦隊長
宮本武夫中佐、石川貫之少佐
◆戦死者・殉職者追悼
飛行第248戦隊/戦闘機隊(洋第15389)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)
◆概略
昭和17年8月、小月の4戦隊を基幹として福岡県雁ノ巣で
編成された。18年10月。ニューギニア・ウエワクへ展開。
11月上旬、マサブ飛行場攻撃、マラサワ、フィンシュハーヘン攻撃
ならびにウエワク防空戦闘にあたる。19年4月、全機を損耗した戦隊は
保有機を持たず、米軍のホランジア上陸を迎える。
黒田戦隊長以下は徒歩でサルミへ撤退するが、途中次々と倒れ
9月30日、イドレへ到着した操縦者は黒田戦隊長以下3、4名であった。
◆部隊史
第十九飛行団長の隷下に編入。
17年8月15日福岡県芦屋に移駐、北九州防空。
10月25日ニューギニアに転用となり、ホランジアに展開。
11月30日地上勤務員主力の二百一名はてらごあ丸に乗船し呉出港。
土佐沖において敵潜水艦の魚雷攻撃を受け海没。
生存者五名。第二百四十八飛行場大隊に転属。
11月2日ウエワクに展開。ラム、マーカム河谷航空撃滅戦参加、
サラモア地上作戦協力。
ニューギニア島における各種航空作戦参加。
2月15日飛行第六十六戦隊より六十六名転入。
3月11アイタベ移駐。一部ウエワク残置。
3月15日ホランジアに移駐。一部アイタベ残置。その後全員戦死。
3月16日~8月19日ニューギニア島における各種作戦参加。
ホランジア、サルミ間転進作戦およびサルミ地区守備作戦参加。航空機全耗。
8月20ホランジアにて現地復帰。
19年7月25日空中勤務者は第一航空軍に、
その他の人員資材は管理官の定むる部隊に転属。
生存者は一部内地帰還。
他は所在の地点にて地上部隊の指揮下に入り、自活しつつ地上作戦に参加。
停戦後収容所に入る。
◆編成/昭和17年8月10日小月
◆復帰/8月20日ホランジアにて現地復帰
◆歴代戦隊長
牧野靖雄少佐、村岡信一少佐、黒田武文少佐
◆戦死者・殉職者追悼
集成飛行戦隊
◆使用機種
◆部隊史
◆編成/昭和20年1月ルソン島
◆復帰/昭和20年3月復帰
◆
◆戦死者・殉職者追悼
--------------------------------------------------
◆◆独立飛行隊◆◆
(1)第一独立飛行隊 司偵、帥第16631
(2)昭和19年4月30日
(3)敦化
(4)
(5)昭和20年5月15日平壌にて復帰
(1)第一独立飛行隊 司偵、帥第34219
(2)昭和20年6月
(3)八街
(4)
(5)8月15日八街
(1)第二独立飛行隊 重爆、帥第34223
(2)昭和19年10月31日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年2月浜松にて復帰
(1)第二独立飛行隊 司偵、帥第19029
(2)昭和20年7月18日
(3)大阪
(4)
(5)8月15日小牧
(1)第三独立飛行隊 司偵
(2)昭和19年1月
(3)温春
(4)
(5)昭和19年調布にて復帰
(1)第三独立飛行隊 重爆、帥第19030
(2)昭和19年10月31日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年6月熊本にて復帰
(1)第四独立飛行隊 司偵、帥第19031
(2)昭和19年10月31日
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年5月2日、鹿屋
(1)第十独立飛行隊 偵察、高第9640
(2)昭和16年7月28日
(3)嫩江(満洲)
(4)
(5)昭和18年6月10日
(1)第十二独立飛行隊 司偵、靖第11614
(2)昭和20年7月15日
(3)福岡(蓆田)
(4)
(5)昭和20年8月15日、福岡
(1)第十五独立飛行隊 司偵、威(信)第8315
(2)昭和16年7月29日
(3)新京
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
(1)第十六独立飛行隊 司偵、燕第18999
(2)昭和19年9月15日
(3)児玉
(4)
(5)昭和20年7月5日児玉にて復帰
(1)第十七独立飛行隊 司偵、帥第34214
(2)昭和19年9月15日
(3)調布
(4)
(5)昭和20年7月15日調布にて復帰
(1)第十九独立飛行隊 司偵、靖第21204
(2)昭和19年9月15日
(3)調布
(4)
(5)昭和20年7月30日調布にて復帰
(1)第二十一独立飛行隊 戦隊・爆撃、司第
(2)昭和14年7月6日
(3)廣東
(4)
(5)昭和17年10月15日ハノイにて復帰
(1)第二十八独立飛行隊 司偵、鷲第
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月温春にて飛行第28戦隊に復帰
(1)第二十八独立飛行隊 戦闘、帥第
(2)昭和20年7月15日
(3)東金
(4)
(5)8月15日、東金
(1)第二十九独立飛行隊 軍偵、栄第9163
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
(1)第三十八独立飛行隊 司偵、鏑第19342
(2)昭和20年7月10日
(3)帯広
(4)
(5)8月15日、帯広
(1)第八十三独立飛行隊 軍偵、司第9172
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
(1)第二百六独立飛行隊 直協・対潜、靖第21201
(2)昭和16年7月23日
(3)白城子
(4)
(5)8月15日、海雲台
◆◆独立飛行中隊◆◆
(1)独立飛行第一中隊 対潜
(2)昭和19年7月20日
(3)海雲台
(4)
(5)昭和20年8月15日、海雲台
(1)独立飛行第三中隊 戦闘
(2)昭和7年2月
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和7年5月、事変終結により帰還
(1)独立飛行第三中隊 重爆
(2)昭和12年7月8日
(3)浜松
(4)
(5)昭和13年8月15日、王賓飛行場
(1)独立飛行第四中隊 偵察、満洲第691
(2)昭和12年7月15日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
(1)独立飛行第六中隊 偵察
(2)昭和12年7月23日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
(1)独立飛行第七中隊 偵察
(2)昭和2年5月17日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和4年5月17日原隊復帰
(1)独立飛行第八中隊 偵察
(2)昭和6年9月19日
(3)平壌
(4)
(5)昭和8年6月17日、平壌
(1)独立飛行第九中隊 偵察
(2)昭和6年9月19日
(3)承徳
(4)
(5)昭和8年6月17日関東軍飛行隊飛行第10大隊に編入
(1)独立飛行第九中隊 戦闘
(2)昭和12年7月
(3)平壌
(4)
(5)昭和14年2月、彰徳
(1)独立飛行第十中隊 戦闘
(2)昭和6年9月19日
(3)平壌
(4)
(5)昭和8年6月17日関東軍飛行隊飛行第11大隊第4中隊に編入
(1)独立飛行第十中隊 戦闘
(2)昭和12年9月6日
(3)?東
(4)
(5)昭和17年10月20日、漢口
(1)独立飛行第十一中隊 爆撃
(2)昭和12年9月6日
(3)?東
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
(1)独立飛行第十四中隊 戦闘
(2)昭和12年7月
(3)?東
(4)
(5)
(1)独立飛行第十五中隊 爆撃
(2)昭和12年9月28日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和13年8月15日、王賓
(1)独立飛行第十五中隊 戦闘
(2)昭和19年10月
(3)台中
(4)
(5)
(1)独立飛行第十六中隊 司偵
(2)昭和13年8月1日
(3)
(4)
(5)昭和16年9月20日、彰徳
(1)独立飛行第十六中隊 司偵、燕第18999
(2)昭和19年7月30日
(3)大阪
(4)
(5)昭和19年9月15日、児玉
(1)独立飛行第十七中隊 直協
(2)昭和13年8月1日
(3)
(4)
(5)昭和15年9月3日飛行第44戦隊に編入
(1)独立飛行第十七中隊 司偵、帥第34214
(2)昭和19年3月31日
(3)調布
(4)
(5)昭和19年9月15日、調布
(1)独立飛行第十八中隊 司偵、隼第2383
(2)昭和13年2月
(3)中国
(4)
(5)昭和19年10月31日、漢口
(1)独立飛行第十九中隊 司偵(防空)、靖第21204
(2)昭和19年7月30日
(3)小月
(4)
(5)昭和19年9月15日、小月
(1)独立飛行第二十中隊 輸送、威第15382
(2)昭和18年5月15日
(3)
(4)
(5)5月30日比島にて復帰
(1)独立飛行第二十三中隊 戦闘、誠第41
(2)昭和19年1月20日
(3)大刀洗
(4)
(5)9月2日花連港にて停戦
(1)独立飛行第二十四中隊 戦闘、誠第16500
(2)昭和19年2月29日
(3)広東
(4)
(5)8月15日宜蘭にて終戦
(1)独立飛行第二十五中隊 戦闘、羽第16682
(2)昭和19年8月25日
(3)鞍山
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
(1)独立飛行第三十一中隊 重爆、威第18902
(2)昭和19年6月20日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年5月30日比島復帰
(1)独立飛行第四十一中隊 襲撃・対潜、誠第16683
(2)昭和19年8月20日
(3)満洲
(4)
(5)9月2日宜蘭にて停戦
(1)独立飛行第四十二中隊 対潜、誠第19104
(2)昭和19年10月30日
(3)潮洲
(4)
(5)8月15日、台北
(1)独立飛行第四十三中隊 対潜、誠第19108
(2)昭和19年10月30日
(3)恒春
(4)
(5)8月15日、宜蘭
(1)独立飛行第四十四中隊 対潜、(冀)(台)第18970
(2)昭和19年6月10日
(3)郡山
(4)
(5)昭和20年6月23日、ケニンゴー
(1)独立飛行第四十五中隊 対潜、翼第18971
(2)昭和19年10月20日
(3)比島
(4)
(5)8月15日、比島にて終戦
(1)独立飛行第四十六中隊 対潜、誠第19170
(2)昭和19年10月20日
(3)東京
(4)
(5)9月2日、台湾にて停戦
(1)独立飛行第四十七中隊 戦闘
(2)昭和16年9月5日
(3)福生
(4)
(5)昭和18年10月3日、柏
(1)独立飛行第四十七中隊 対潜、誠第9910
(2)昭和19年10月20日
(3)台東
(4)
(5)昭和20年8月15日、台東にて終戦
(1)独立飛行第四十八中隊 対潜、誠第9911
(2)昭和19年10月30日
(3)花連港
(4)
(5)8月15日、台中にて終戦
(1)独立飛行第四十九中隊 対潜、誠第9912
(2)昭和19年10月30日
(3)台北
(4)
(5)9月2日、台北にて停戦
(1)独立飛行第五十中隊 司偵、隼第8350
(2)昭和16年7月29日
(3)新京
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
(1)独立飛行第五十一中隊 司偵、隼第8351
(2)昭和16年7月29日
(3)広東
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
(1)独立飛行第五十二中隊 軍偵、威第10655
(2)昭和16年7月29日
(3)白城子
(4)
(5)昭和20年9月16日、ヨネスにて解散
(1)独立飛行第五十三中隊 軍偵、翼
(2)昭和17年3月31日
(3)衙門屯
(4)
(5)8月31日、佳木斯
(1)独立飛行第五十四中隊 直協、隼魁第8354
(2)昭和16年7月23日
(3)白城子
(4)
(5)昭和20年8月15日、杭州にて終戦
(1)独立飛行第五十五中隊 司偵、隼第2386
(2)昭和17年3月31日
(3)ドムアン
(4)
(5)昭和19年10月31日、南京
(1)独立飛行第六十三中隊 司偵、鷲
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月、温春
(1)独立飛行第六十六中隊 軍偵・対潜、靖第9171
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年8月15日、海雲台
(1)独立飛行第七十中隊 司偵、司第9641
(2)昭和17年7月28日
(3)チチハル
(4)
(5)昭和20年8月15日、ジャワにて終戦
(1)独立飛行第七十一中隊 軍偵・戦闘、誠第9180
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和20年8月15日、一部アロールスターにて終戦
(1)独立飛行第七十三中隊 軍偵、司第9181
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和20年9月2日、ジャワにて停戦
(1)独立飛行第七十四中隊 直協・司偵、翔第9643
(2)昭和16年7月28日
(3)衙門屯
(4)
(5)昭和20年8月15日、ゲルンバンにて終戦
(1)独立飛行第七十六中隊 司偵、洋 高第9642
(2)昭和16年7月28日
(3)衙門屯
(4)
(5)昭和18年6月10日、ラバウル
(1)独立飛行第八十一中隊 司偵
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月、温春
(1)独立飛行第八十一中隊 司偵、羽第9162
(2)昭和19年4月1日
(3)温春
(4)
(5)昭和20年8月15日、新京にて終戦
(1)独立飛行第八十二中隊 軽爆
(2)昭和14年7月6日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年10月15日飛行第34戦隊に改編
(1)独立飛行第八十二中隊 司偵
(2)昭和17年12月
(3)温春
(4)
(5)昭和19年10月29日内地帰還
(1)独立飛行第八十二中隊 司偵(防空)、天鷲第19529
(2)昭和20年2月25日
(3)大正
(4)
(5)昭和20年8月10日第28独立飛行隊に編入
(1)独立飛行第八十三中隊 軍偵、天風第19530
(2)昭和14年8月1日
(3)彰徳
(4)
(5)昭和19年7月25日、現地復帰
(1)独立飛行第八十三中隊 司偵(防空)
(2)昭和20年2月25日
(3)
(4)
(5)昭和20年7月30日
(1)独立飛行第八十四中隊 戦闘
(2)昭和14年7月6日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年10月20日、ハノイ
(1)独立飛行第八十四中隊 戦闘、翔
(2)昭和20年2月25日
(3)パレンバン
(4)
(5)昭和20年5月30日
(1)独立飛行第八十五中隊 司偵、鷲
(2)昭和17年秋
(3)温春
(4)
(5)昭和19年1月31日
(1)独立飛行第八十七中隊 軍偵、満洲
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
(1)独立飛行第八十九中隊 直協・軍偵、司偵
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
(1)独立飛行第九十中隊 軍偵
(2)昭和17年4月
(3)太原
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
(1)独立飛行第九十一中隊 直協、(司)(高)(灘)
(2)
(3)
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
(1)独立飛行第九十六中隊 直協
(2)昭和16年7月25日
(3)
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
(1)独立飛行第百一中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)調布
(4)
(5)昭和17年4月21日、調布
(1)独立飛行第百二中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)加古川
(4)
(5)昭和17年4月21日、加古川
(1)独立飛行第百三中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)小月
(4)
(5)昭和17年4月21日、小月
◆直協飛行隊
(1)第一直協飛行隊 直協
(2)昭和13年8月31日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和14年5月30日、内地復帰
(1)第六直協飛行隊 直協、誠第171
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月20日、台東
(1)第七直協飛行隊 直協、誠第172
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月30日、花連港
(1)第八直協飛行隊 直協、誠第173
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月30日、台北
(1)東部軍直協飛行隊 直協、東部第125
(2)昭和17年12月30日
(3)柏
(4)
(5)昭和19年10月20日、東京
(1)中部軍直協飛行隊 直協
(2)昭和17年8月10日
(3)帯広
(4)
(5)昭和19年10月30日、恒春
(1)西部軍直協飛行隊 直協、西部第127
(2)昭和17年12月30日
(3)柏
(4)
(5)昭和19年6月10日、郡山
(1)北部軍直協飛行隊 直協、北部第89
(2)昭和17年5月30日
(3)
(4)
(5)昭和19年10月30日、潮洲
(1)朝鮮軍直協飛行隊 直協、朝第102
(2)昭和17年5月20日
(3)京城
(4)
(5)昭和19年10月20日、比島
(1)第八方面軍飛行隊 直協、剛第11254
(2)昭和20年4月15日
(3)ラバウル
(4)
(5)昭和20年8月15日、ラバウル
◆独立・直轄飛行隊
(1)砲兵協力飛行班 教育
(2)昭和18年頃
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年8月15日、銚子
(1)海燕第一飛行隊 対潜
(2)昭和20年5月25日
(3)広島
(4)
(5)昭和20年8月15日、蔚山
(1)海燕 対潜
(2)昭和20年8月1日
(3)新潟
(4)
(5)昭和20年8月15日、新潟
(1)北辰飛行隊 対潜
(2)昭和20年5月1日
(3)広島
(4)
(5)昭和20年8月1日、新潟
(1)関東軍第一航空写真隊、洋第9316
(2)昭和18年3月8日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
(1)第一写真作業隊、師第34224
(2)昭和20年7月20日
(3)
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
◆輸送飛行隊
(1)航空本部(航空総監部)飛行班 輸送
(2)昭和14年5月
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月9日、所沢
(1)陸軍航空輸送部 輸送、師第34201
(2)昭和16年9月
(3)東京
(4)
(5)昭和20年9月4日、東京他
(1)陸軍航空輸送部 第一飛行隊 輸送、輝第4333
(2)昭和19年1月17日
(3)宇都宮
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第二飛行隊 輸送、威第4334
(2)昭和19年1月17日
(3)太田
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第三飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第四飛行隊 輸送、第4336
(2)昭和19年1月31日
(3)各務原
(4)
(5)昭和20年8月15日、浜松
(1)陸軍航空輸送部 第五飛行隊 輸送、第4337
(2)昭和19年1月31日
(3)小牧
(4)
(5)昭和20年8月15日、小牧
(1)陸軍航空輸送部 第六飛行隊 輸送、第4338
(2)昭和19年1月31日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年8月15日、八日市
(1)陸軍航空輸送部 第七飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)マニラ
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第八飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)マニラ
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第九飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
(1)陸軍航空輸送部 第十飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
(1)特設第十三輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年10月3日
(3)
(4)
(5)
(1)特設第十五輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年10月3日
(3)
(4)
(5)
(1)南方航空輸送部 輸送、威第9326
(2)昭和17年9月15日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日、
(1)南方航空輸送部 第一輸送飛行隊 輸送、威第9326
(2)昭和19年11月30日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月7日
(1)南方航空輸送部 第二輸送飛行隊 輸送、信第1160
(2)昭和19年11月30日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月7日
(1)第一輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)昭和20年8月15日、嘉義
(1)第二輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)昭和20年9月2日、嘉義
(1)第三輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)
(1)第七輸送飛行隊 輸送、師第9987
(2)昭和16年6月30日
(3)八日市
(4)
(5)昭和20年8月15日、各務原(主力)
(1)第八輸送飛行隊 輸送、師第18904
(2)昭和19年6月20日
(3)筑波
(4)
(5)昭和20年8月15日、立川
(1)第十一輸送飛行中隊 輸送、師第6611
(2)昭和16年6月30日
(3)新京
(4)
(5)昭和16年6月30日、ビルマ
(1)第十二輸送飛行中隊 輸送、師第9350
(2)昭和16年7月7日
(3)八日市
(4)
(5)昭和18年6月30日、昭南
(1)第十三輸送飛行中隊 輸送、師第18905
(2)昭和19年6月20日
(3)筑波
(4)
(5)昭和19年11月2日、岐阜
(1)第十四輸送飛行中隊 輸送、師第18906
(2)昭和19年6月
(3)西筑波
(4)
(5)昭和20年9月2日、坂戸
(1)第十五輸送飛行中隊 輸送、師第18907
(2)昭和19年8月20日
(3)唐瀬原
(4)
(5)昭和20年8月15日、松戸
(1)第百一輸送飛行中隊 輸送
(2)
(3)
(4)
(5)
(1)独立第二十輸送飛行中隊 輸送
(2)
(3)
(4)
(5)
(1)関東軍輸送飛行隊 輸送、羽第4335
(2)昭和20年8月9日
(3)新京
(4)
(5)昭和20年8月15日、新京
(1)第十四軍飛行隊
(2)昭和17年1月5日
(3)?東外
(4)
(5)昭和17年4月2日
(1)誠補充飛行隊、誠第19122
(2)昭和20年7月7日
(3)台湾
(4)
(5)昭和20年9月2日、台湾
◆教育・錬成飛行隊
(1)第百一教育飛行連隊 戦闘、東部第104
(2)昭和16年9月30日
(3)原ノ町
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百二教育飛行連隊 重爆、北部第74
(2)昭和17年4月31日
(3)八戸
(4)
(5)昭和19年2月25日
(1)第百三教育飛行連隊 偵察、中部第115
(2)昭和17年5月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百四教育飛行連隊 軽爆、中部第94
(2)昭和17年4月31日
(3)八日市
(4)
(5)昭和19年2月25日
(1)第百五教育飛行連隊 遠爆、中部第113
(2)昭和16年4月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百六教育飛行連隊 戦闘、西部第108
(2)昭和19年9月30日
(3)菊池
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百七教育飛行連隊 挺進、西部第110
(2)昭和16年9月30日
(3)菊池
(4)
(5)昭和19年2月25日
(1)第百八教育飛行連隊 戦闘、台湾第37
(2)昭和17年4月22日
(3)?東
(4)
(5)昭和19年1月15日
(1)第百九教育飛行連隊 重爆、台湾第38
(2)昭和17年4月22日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和19年2月25日
(1)第百十教育飛行連隊 司偵、中部第133
(2)昭和17年8月31日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和19年2月25日
(1)第百十一教育飛行連隊 戦闘、朝鮮第100
(2)昭和18年3月5日
(3)仙台
(4)
(5)昭和19年2月29日
(1)第百十二教育飛行連隊 戦闘、台湾第100
(2)昭和18年3月5日
(3)恒春
(4)
(5)昭和19年3月15日
(1)第百十三教育飛行連隊 軽爆、朝鮮第101
(2)昭和17年8月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百十四教育飛行連隊 戦闘、隼第15301
(2)昭和18年8月31日
(3)加古川
(4)
(5)昭和19年3月7日
(1)第百十五教育飛行連隊 司偵、隼第15302
(2)昭和18年8月31日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百十六教育飛行連隊 重爆、昭第1106
(2)昭和18年8月31日
(3)浜松
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百十七教育飛行連隊 戦闘、昭第11067
(2)昭和18年8月31日
(3)小月
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第百十八教育飛行連隊 戦闘、隼第15305
(2)昭和17年8月31日
(3)南京
(4)
(5)昭和19年3月31日
(1)第一練習飛行隊、治第18995
(2)昭和19年8月22日
(3)熊谷飛行学校、児玉分教場
(4)
(5)終戦
(1)第二練習飛行隊、昭第18996
(2)昭和19年10月30日
(3)マレー分散地(クラン、クアンタン、アロルスター、クアラカンサル、ポートセッテンハム)
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第三練習飛行隊、昭第18997
(2)昭和20年3月31日
(3)仙台
(4)
(5)昭和20年5月15日
(1)第五練習飛行隊 特攻訓練、羽第16675
(2)昭和19年12月15日
(3)綏中
(4)
(5)昭和20年8月20日
(1)第六練習飛行隊、紺第540
(2)昭和20年2月20日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年8月29日熊谷、八雲に於て復員
(1)第七練習飛行隊、空第541
(2)昭和20年2月20日
(3)京都府久世郡御牧
(4)
(5)昭和20年9月3日御牧飛行場にて復員
(1)第八練習飛行隊 空第542
(2)昭和20年2月20日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年9月3日
(1)第九練習飛行隊 宙第543
(2)昭和20年2月20日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年8月25日
(1)第一教育飛行隊 戦闘、空第230
(2)昭和19年3月31日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二教育飛行隊 重爆、昭第15314
(2)昭和19年3月31日
(3)リンガエン
(4)
(5)終戦レンバン島収容昭和21年5月17日同島出発5月29日名古屋港上陸、復員
(1)第三教育飛行隊 軍偵、昭第15315
(2)昭和19年3月31日
(3)リパ
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第四教育飛行隊 軽爆、紺第531
(2)昭和19年2月25日
(3)八日市
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第五教育飛行隊 重爆、中部第113
(2)昭和19年3月31日
(3)浜松第105教育飛行連隊を改称
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第六教育飛行隊 戦闘、台湾第36
(2)昭和19年3月31日
(3)台中
(4)
(5)昭和19年12月25日
(1)第七教育飛行隊 挺進、朝鮮第110
(2)昭和19年2月25日
(3)朝鮮咸興
(4)
(5)昭和19年12月25日
(1)第八教育飛行隊 戦闘、誠第532
(2)昭和19年1月15日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年7月6日
(1)第九教育飛行隊 重爆、台湾第38
(2)昭和19年2月25日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和19年12月31日
(1)第十教育飛行隊 偵察、空第533
(2)昭和19年2月29日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十一教育飛行隊 戦闘、宙第534
(2)昭和19年2月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年8月20日
(1)第十二教育飛行隊 戦闘、昭第15316
(2)昭和19年3月31日
(3)デルカルメン
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第十三教育飛行隊 襲撃、朝鮮第161
(2)昭和19年3月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年1月15日
(1)第十四教育飛行隊 戦闘、隼第15301
(2)昭和19年3月7日
(3)南苑
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十五教育飛行隊 偵察、隼第15302
(2)昭和19年3月31日
(3)済南
(4)
(5)昭和19年12月31日
(1)第十六教育飛行隊 重爆、昭第11066
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島カリジャチ
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十七教育飛行隊 戦闘、昭第11067
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十八教育飛行隊 戦闘、隼第15305
(2)昭和19年3月31日
(3)南京
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十九教育飛行隊 戦闘、宙第533
(2)昭和19年3月31日
(3)朝鮮会寧
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十教育飛行隊 戦闘、台湾第42
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾花連港
(4)
(5)昭和19年12月31日
(1)第二十一教育飛行隊 戦闘、台湾第43
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾佳冬
(4)
(5)昭和19年12月31日
(1)第二十二教育飛行隊 戦闘、台湾第44
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾潮州
(4)
(5)昭和19年11月
(1)第二十三教育飛行隊 軽爆、羽第15353
(2)昭和19年3月1日
(3)朝鮮宜徳
(4)
(5)横道河子に於て昭和20年9月2日停戦
(1)第二十四教育飛行隊 重爆、羽第15354
(2)昭和19年3月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年9月8日
(1)第二十五教育飛行隊 戦闘、羽第16615
(2)昭和19年3月31日
(3)遼陽
(4)
(5)昭和19年12月31日
(1)第二十六教育飛行隊 戦闘、羽第16616
(2)昭和19年3月10日
(3)満洲龍江省白城子
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十七教育飛行隊 戦闘、羽第16617
(2)昭和19年3月25日
(3)満洲錦州省興城
(4)
(5)昭和19年12月15日
(1)第二十八教育飛行隊 戦闘、隼第17303
(2)昭和19年3月31日
(3)河北省石家荘石門
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十九教育飛行隊 戦闘、隼第17304
(2)昭和19年3月7日
(3)河北省唐山
(4)
(5)昭和19年7月2日
(1)第三十教育飛行隊 襲撃、宙第536
(2)昭和19年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第三十一教育飛行隊 戦闘、威第10610
(2)昭和19年3月31日
(3)ルソン島デルカルメン
(4)
(5)昭和20年1月31日
(1)第三十二教育飛行隊 戦闘、富第15355
(2)昭和19年2月25日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年1月31日
(1)第三十三教育飛行隊 戦闘、威第15356
(2)昭和19年2月15日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年1月31日
(1)第三十四教育飛行隊 戦闘、昭第11068
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第三十五教育飛行隊 戦闘、岡第11069
(2)昭和19年3月31日
(3)シンガポール、臨時編成
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第三十六教育飛行隊 戦闘、昭第15357
(2)昭和19年2月29日
(3)朝鮮連浦
(4)
(5)昭和20年2月28日
(1)第三十七教育飛行隊 戦闘、治第15358
(2)昭和19年2月25日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第三十八教育飛行隊 挺進、昭第11099
(2)昭和19年2月29日
(3)比島タルラック
(4)
(5)昭和20年2月25日
(1)第三十九教育飛行隊 戦闘、紺第537
(2)昭和19年7月31日
(3)千葉県横芝
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第四十教育飛行隊 戦闘、空第538
(2)昭和19年4月8日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年9月3日
(1)第四十一教育飛行隊 重爆、宙第539
(2)昭和19年4月29日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第四十二教育飛行隊 司偵、羽第16642
(2)昭和19年7月31日
(3)満洲チチハル
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第四十三教育飛行隊 戦闘、威第10618
(2)昭和19年6月7日
(3)タルラック
(4)
(5)昭和20年1月31日
(1)第四十四教育飛行隊 戦闘、岡第11081
(2)昭和19年5月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第四十五教育飛行隊 司偵、岡第11082
(2)昭和19年7月31日
(3)マレー、スンゲイバタニ
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第四十六教育飛行隊 偵察、昭第11083
(2)昭和19年5月31日
(3)マレー、ケチル
(4)
(5)昭和20年1月31日
(1)第一錬成飛行隊 戦闘、紺第520
(2)昭和19年7月31日
(3)相模
(4)
(5)昭和20年8月24日
(1)第二錬成飛行隊 戦闘、宙第521
(2)昭和19年7月22日
(3)京城
(4)
(5)昭和20年9月14日
(1)第三錬成飛行隊 戦闘、誠第522
(2)昭和19年4月28日
(3)滋賀県八日市
(4)
(5)昭和20年7月19日
(1)第四錬成飛行隊 戦闘、羽第16634
(2)昭和19年5月30日
(3)新京
(4)
(5)?
(1)第五錬成飛行隊 戦闘、隼第16635
(2)昭和19年5月31日
(3)浜江省孫家
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第六錬成飛行隊 司偵、空第523
(2)昭和19年7月31日
(3)兵庫県三木
(4)
(5)終戦。昭和20年9月3日復員
(1)第七錬成飛行隊 司偵、昭第18432
(2)昭和19年6月20日
(3)?東
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第八錬成飛行隊 戦闘、昭第18433
(2)昭和19年5月31日
(3)会寧
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第九錬成飛行隊 戦闘、富第11080
(2)昭和19年4月30日
(3)ビルマ、メイクテイラ
(4)
(5)昭和20年9月2日
(1)第十錬成飛行隊 戦闘、空第524
(2)昭和19年11月30日
(3)京都府由良
(4)
(5)終戦、昭和20年9月3日復員
(1)第十一錬成飛行隊 戦闘、空第525
(2)昭和19年11月30日
(3)目達原
(4)
(5)終戦。昭和20年8月28日復員
(1)第十二錬成飛行隊 戦闘、宙第526
(2)昭和19年9月15日
(3)京城金浦
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十三錬成飛行隊 戦闘、羽第16663
(2)昭和19年9月15日
(3)満洲公主嶺
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第十四錬成飛行隊 戦闘、羽第16664
(2)昭和19年8月20日
(3)満洲龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和19年8月20日
(1)第十五錬成飛行隊 司偵、昭第11092
(2)昭和19年11月30日
(3)マレークアラルンプール
(4)
(5)昭和20年6月30日
(1)第十六錬成飛行隊、富第11095
(2)昭和19年7月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和19年11月復帰
(1)第十七錬成飛行隊 戦闘、昭第11093
(2)昭和19年10月3日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年9月5日
(1)第十八錬成飛行隊 戦闘、昭第11094
(2)昭和19年10月30日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月1日
(1)第十九錬成飛行隊 戦闘、隼第17327
(2)昭和19年10月7日
(3)河北省南苑
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十二錬成飛行隊 戦闘、羽第16664
(2)昭和19年8月20日
(3)龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十三錬成飛行隊 襲撃、宙第527
(2)昭和20年1月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十四錬成飛行隊 重爆、空第528
(2)昭和19年12月31日
(3)浜松
(4)
(5)終戦昭和20年8月29日復員
(1)第二十五錬成飛行隊 重爆、宙第529
(2)昭和19年12月27日
(3)咸鏡南道宜徳
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十六錬成飛行隊 戦闘、富第11097
(2)昭和20年2月28日
(3)ジャワ島マラン
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十七錬成飛行隊 襲撃、昭第11098
(2)昭和20年2月28日
(3)マライケダー州ケチル
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第二十八錬成飛行隊 重爆、昭第11099
(2)昭和20年2月25日
(3)マレーイポイ
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第一野戦補充飛行隊、司第9915
(2)昭和16年11月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第一飛行教育隊、中部第92
(2)昭和12年12月10日
(3)各務原
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第二飛行教育隊
(2)昭和12年12月10日
(3)平壌の飛行第6連隊にて本部及び2個中隊編成
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第三飛行教育隊、西部第99・空第571
(2)昭和12年12月10日
(3)台湾嘉義
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第四飛行教育隊、東部第102・紺第572
(2)昭和13年7月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第五飛行教育隊、空第573
(2)昭和13年7月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第七飛行教育隊、中部第98・空第576
(2)昭和12年12月10日
(3)満洲公主嶺
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第八飛行教育隊、空第539・中部第77
(2)昭和12年12月10日
(3)満洲牡丹江省海浪。第八飛行団隷下
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第九飛行教育隊、空第577
(2)昭和12年12月10日
(3)龍江省チチハル。第9飛行団隷下
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第十二飛行教育隊、紺第578
(2)昭和12年12月10日
(3)龍江省ハルピン
(4)
(5)昭和13年7月5日
(1)第一航空教育隊、中部第92・宙第570
(2)昭和13年7月5日
(3)各務原
(4)
(5)終戦昭和20年10月15日仁川港出発10月20日佐世保上陸10月23日復員
(1)第二航空教育隊
(2)昭和13年7月5日
(3)平壌
(4)
(5)昭和18年9月17日
(1)第三航空教育隊、空第571・西部第99
(2)昭和13年7月5日
(3)嘉義。第3飛行教育隊を第3航空教育隊と改称
(4)
(5)昭和20年7月18日
(1)第四航空教育隊、紺第572・東部第102
(2)昭和13年7月1日
(3)立川
(4)
(5)終戦昭和20年8月29日復員
(1)第五航空教育隊、空第573
(2)昭和13年7月5日
(3)大刀洗。第5飛行教育隊を第5航空教育隊と改称
(4)
(5)終戦昭和20年8月30日戦後処理業務に従事し復員
(1)第六航空教育隊、空第574・北部第79
(2)昭和15年9月1日
(3)福島県原ノ町
(4)
(5)昭和20年7月18日
(1)第七航空教育隊、空第576・中部第98
(2)昭和13年7月5日
(3)
(4)
(5)昭和20年7月18日
(1)第八航空教育隊、空第539・中部第77
(2)昭和13年7月5日
(3)牡丹江省海浪。第8飛行教育隊を第8航空教育隊と改称。
(4)
(5)昭和20年9月5日
(1)第九航空教育隊、空第577
(2)昭和13年7月5日
(3)満洲龍江省チチハル
(4)
(5)終戦業務を終え復員
(1)第十航空教育隊、誠第39
(2)昭和18年10月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年6月8日
(1)第十一航空教育隊、東部第103
(2)昭和16年3月1日
(3)茨城県水戸
(4)
(5)昭和18年9月17日
(1)第十二航空教育隊、紺第578・東部第111
(2)昭和13年7月5日
(3)満洲ハルピン。第12飛行教育隊を第12航空教育隊と改称
(4)
(5)終戦、復員
(1)第十三航空教育隊、師第579
(2)昭和19年1月10日
(3)新潟県高田南本町
(4)
(5)終戦昭和20年9月1日復員
(1)第十四航空教育隊、宙第580・西部第104
(2)熊本県菊池
(3)昭和19年1月24日
(4)
(5)終戦昭和20年10月23日釜山港出発山口県仙崎港上陸、復員
(1)第一航空軍教育隊、帥第581
(2)昭和17年12月3日
(3)岐阜
(4)
(5)終戦復員
(1)第二航空第一教育隊、羽第16613
(2)昭和18年8月15日
(3)吉林省公主嶺
(4)
(5)昭和18年8月15日
(1)南方軍第一航空教育隊、昭第11056
(2)昭和18年8月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)支那派遣軍第一航空教育隊、隼第1622
(2)昭和18年9月30日
(3)南京
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)岐阜第一航空教育隊、空第563
(2)昭和20年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)岐阜第二航空教育隊、空第564
(2)昭和20年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)奈良陸軍航空教育隊、空第565
(2)昭和20年2月25日
(3)奈良
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)立川陸軍航空教育隊、紺第561
(2)昭和20年2月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)所沢陸軍航空教育隊、紺第560
(2)昭和20年2月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)八戸陸軍航空教育隊、紺第562
(2)昭和20年2月25日
(3)青森県八戸
(4)
(5)昭和20年8月15日
◆陸軍直轄飛行隊・研究飛行隊等
(1)陸軍航空本部、風第29651
(2)大正14年5月1日
(3)東京?町区隼町
(4)
(5)昭和20年11月30日、東京
(1)陸軍航空総監部
(2)昭和13年12月10日
(3)東京
(4)
(5)昭和20年4月18日
(1)陸軍航空技術研究所
(2)昭和10年8月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)第一陸軍航空技術研究所、風第29661
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部福生・出張所甲府
(1)第二陸軍航空技術研究所、風第29662
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所高山・岡谷
(1)第三陸軍航空技術研究所、風第29663
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部福生・出張所阿字ヶ浦
(1)第四陸軍航空技術研究所、風第29664
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、八王子
(1)第五陸軍航空技術研究所、風第29665
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所屋代
(1)第六陸軍航空技術研究所、風第29666
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、立川
(1)第七陸軍航空技術研究所、風第29667
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部青梅・出張所甲府・秩父
(1)第八陸軍航空技術研究所、風第29668
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所新潟
(1)陸軍飛行実験部
(2)昭和14年12月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)陸軍航空審査部、風第29653
(2)昭和17年10月15日
(3)福生
(4)
(5)昭和20年8月29日、本部福生・出張所京都・水戸・松本
(1)陸軍航空工廠
(2)昭和15年4月1日
(3)東京府北多摩郡昭和村(現昭島市)
(4)
(5)昭和20年11月14日、昭和村
(1)陸軍航空適性検査部
(2)昭和19年1月31日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年9月15日、調布
(1)多摩陸軍技術研究所、風第29669
(2)昭和18年6月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部国立・出張所青梅・久我山・藤岡・上諏訪・関西
(1)南方軍航空技術部、司第9312
(2)昭和16年11月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)大本営航空通信保安長官部
(2)昭和17年9月1日
(3)東京(市ヶ谷)
(4)
(5)昭和20年9月13日、東京
(1)大本営野戦航空兵器長官部
(2)昭和12年11月20日
(3)東京
(4)
(5)昭和20年9月13日、東京
(1)大本営陸軍航空通信隊
(2)昭和17年8月
(3)東京
(4)
(5)20年3月
◆飛行学校
(1)陸軍航空士官学校
(2)昭和13年12月10日
(3)豊岡
(4)
(5)昭和20年9月1日、豊岡
(1)仙台陸軍飛行学校
(2)昭和18年10月9日
(3)仙台
(4)
(5)昭和20年8月27日、仙台
(1)東京陸軍航空学校
(2)昭和12年12月1日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和18年4月1日
(1)東京陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和18年4月1日
(3)村山町
(4)
(5)昭和20年8月27日、村山町
(1)大津陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和18年4月1日
(3)大津
(4)
(5)昭和20年8月27日、大津
(1)大分陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和19年5月15日
(3)大分
(4)
(5)昭和20年8月27日、大分
(1)陸軍航空学校
(2)大正8年4月15日
(3)所沢
(4)
(5)大正13年5月16日
(1)所沢陸軍飛行学校
(2)大正13年5月16日
(3)所沢
(4)
(5)昭和12年10月1日
(1)熊谷陸軍飛行学校
(2)昭和10年12月1日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年2月
(1)宇都宮陸軍飛行学校
(2)昭和15年10月1日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和19年10月
(1)大刀洗陸軍飛行学校
(2)昭和15年10月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年2月
(1)岐阜陸軍飛行学校
(2)昭和15年8月1日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和18年4月1日
(1)下志津陸軍飛行学校
(2)大正13年5月17日
(3)千葉県千葉郡都村
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)明野陸軍飛行学校
(2)大正13年5月17日
(3)三重県度会郡明野村
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)明野陸軍飛行学校分校
(2)昭和18年8月1日
(3)茨城県那珂郡前渡村
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)浜松陸軍飛行学校
(2)昭和8年8月1日
(3)静岡県浜名郡神久呂村
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)白城子陸軍飛行学校
(2)昭和14年7月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)鉾田陸軍飛行学校
(2)昭和15年12月1日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和19年6月20日
(1)水戸陸軍飛行学校
(2)昭和13年7月1日
(3)茨城県那珂郡前渡村
(4)
(5)昭和18年10月9日
(1)陸軍航空技術学校
(2)昭和10年8月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和19年10月10日
(1)陸軍航空整備学校
(2)昭和13年7月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和18年8月1日
(1)立川陸軍航空整備学校
(2)昭和18年8月1日
(3)福生
(4)
(5)昭和19年6月30日
(1)所沢陸軍航空整備学校
(2)昭和18年8月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和20年2月25日
(1)岐阜陸軍航空整備学校
(2)昭和18年4月1日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年2月25日
(1)陸軍航空通信学校
(2)昭和15年8月1日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年5月3日
◆教導飛行師団
(1)教導航空軍司令部、靖第19500
(2)昭和19年8月8日
(3)東京
(4)
(5)昭和19年12月26日
(1)下志津教導飛行師団、下志津陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)明野教導飛行師団、明野陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)明野
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)浜松教導飛行師団、浜松陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)宇都宮教導飛行師団、宇都宮陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)鉾田教導飛行師団、鉾田陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)常陸教導飛行師団、常陸陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)前渡
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
(1)教導飛行師団、風第1000
(2)昭和20年7月16日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年8月29日、宇都宮
◆教導飛行隊
(1)第一教導飛行隊、明野飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)明野
(4)
(5)昭和20年8月29日、明野
(1)第二教導飛行隊、常陸飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)常陸
(4)
(5)昭和20年8月29日、新田
(1)第三教導飛行隊、鉾田飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年8月29日、那須
(1)第四教導飛行隊、浜松飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月29日、富山・三国
(1)第五教導飛行隊、下志津飛行隊
(2)昭和20年7月24日
(3)
(4)
(5)昭和20年8月29日、壬生
(1)第六教導飛行隊、宇都宮飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年8月29日、宇都宮
(1)立川教導航空整備師団、立川陸軍航空整備部隊
(2)昭和19年6月30日
(3)福生
(4)
(5)昭和20年8月29日、福生
(1)水戸教導航空通信師団、水戸陸軍航空通信部隊
(2)昭和20年5月3日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年8月29日、水戸
(1)加古川教導航空通信団、加古川陸軍航空通信部
(2)昭和20年5月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年8月29日、加古川
(1)三方原教導飛行団、三方原陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月28日、浜松
(1)陸軍電波兵器練習部、東部第92
(2)昭和19年2月
(3)立川(多摩研)
(4)
(5)昭和20年8月29日、小平
◆航空廠
(1)陸軍航空本廠
(2)昭和10年8月1日
(3)東京
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)立川陸軍航空支廠
(2)昭和10年8月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)大刀洗陸軍航空支廠
(2)昭和13年7月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)平壌陸軍航空支廠
(2)昭和11年4月1日
(3)平壌
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)?東陸軍航空支廠
(2)昭和12年4月1日
(3)?東
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)満洲陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)帯広陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)帯広
(4)
(5)昭和17年5月31日
(1)宇都宮陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)大阪陸軍航空支廠
(2)昭和16年8月1日
(3)大阪
(4)
(5)昭和17年10月15日
(1)東京陸軍航空補給廠、師第34208
(2)昭和19年10月20日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月14日、立川
(1)大阪陸軍航空補給廠、師第34209
(2)昭和19年10月20日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年11月14日、大阪
(1)関東軍航空廠、羽第16680
(2)昭和20年5月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)立川陸軍航空廠、師第34202
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月4日、立川・分廠の所在地柏・成増・相模・出張所の所在地熊谷
(1)各務原陸軍航空廠、師第34203
(2)昭和17年10月15日
(3)各務原
(4)
(5)昭和20年11月14日、各務原・分廠の所在地浜松・亀山・小牧
(1)大阪陸軍航空廠、師第34204
(2)昭和17年10月15日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年11月14日、大阪・分廠の所在地八日市・伊丹・加古川・出張所の所在地京都・明石
(1)大刀洗陸軍航空廠、師第34205
(2)昭和17年10月15日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年11月14日、大刀洗・分廠の所在地芦屋・下関・菊地・新田原・防府・福岡・知覧
(1)宇都宮陸軍航空廠、師第34206
(2)昭和17年10月15日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年11月14日、宇都宮・分廠の所在地八戸・出張所の所在地大田・新田・太田南
(1)平壌陸軍航空廠、師第34207
(2)昭和17年10月15日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年8月15日、平壌・分廠の所在地咸興・郡山・京城
(1)?東陸軍航空廠
(2)昭和17年10月15日
(3)?東
(4)
(5)昭和19年10月25日
(1)満洲陸軍航空廠
(2)昭和17年10月15日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年5月1日
(1)マニラ陸軍航空廠、威第15311
(2)昭和18年8月15日
(3)マニラ
(4)
(5)昭和20年3月現地復帰
(1)奉天野戦航空廠
(2)昭和13年7月
(3)奉天
(4)
(5)昭和15年4月1日
(1)第七野戦航空廠
(2)昭和15年4月1日
(3)威興
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第八野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第九野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)楡樹屯
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第十野戦航空廠
(2)昭和15年8月1日
(3)佳木斯
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第十一野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)四平
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第十二野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)ハルピン
(4)
(5)昭和16年7月31日
(1)第十五野戦航空廠
(2)昭和13年5月15日
(3)北京
(4)
(5)昭和19年2月
(1)第十六野戦航空廠
(2)昭和16年4月12日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年5月30日
(1)第五野戦航空修理廠、誠第19023
(2)昭和19年10月25日
(3)?東
(4)
(5)昭和21年3~21・12復員
(1)第六野戦航空修理廠、鏑第19250
(2)昭和17年5月31日
(3)帯広
(4)
(5)昭和20年8月15日
(1)第七野戦航空修理廠、靖第8316
(2)昭和16年7月31日
(3)咸興
(4)
(5)昭和20年10月7日、仙崎
(1)第八野戦航空修理廠、隼第8331
(2)昭和16年7月31日
(3)蘭崗
(4)
(5)昭和21年2月24日、佐世保
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62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。
シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
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必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり
以下写真画像
◆「ニイタカヤマノボレ」や「硫黄島決別電文」を中継した海軍通信所
北海道稚内市の戦跡を見学する。
この赤レンガの建物は海軍さんの通信所で
昭和6年に開設。海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所と呼称した。
平屋の送信所施設、そして隊舎を備えた大規模な施設で
当時は鉄塔のアンテナが立っていた。それらを周囲の樹木に隠蔽されるように
なっている。現在でも周囲は深い森で、その面影は残したままだ。
有名な電文「ニイタカヤマノボレ」は、ここから択捉島、単冠湾の
南雲機動部隊へ中継された。真珠湾攻撃の歴史がここ稚内にもある。
その他には昭和20年、3月17日の硫黄島玉砕の際、最後の突撃および決別
電報を栗林中将から傍受するなど、最北の無線基地として
重要な電文連絡を行った歴史的価値の高い戦跡・史跡である。
◆深い森の中から突然現れる廃墟群
近年、赤レンガの老朽化が激しく、積雪により屋根は崩壊している。
現在は危険のため、立ち入り禁止となっており
見学にはガイドを伴う事前予約が必要。
事前予約し、稚内市のガイドさんに
門を開けてもらい、中へ入る。
深い森の中を進んでいくと、突然、目の前に廃墟群が現れる。
異世界へ迷い込んだような、
この雰囲気は当時のままだ。
◆所在地・アクセス
北海道稚内市声問村
稚内空港から道道121号線を南におよそ3キロ
恵北集落へ入り、1119号線を左折して間もなく
入口がある。
◆見学の問い合わせ先
教育委員会教育部教育総務課
稚内市中央3丁目13番15号
総務管理グループ
23-6518(直通) 文化振興グループ 23-6056(直通)
◆
猿払電話中継所跡
宗谷岬から南におよそ30キロ、
猿払村の浜猿払(漁港)付近に
猿払電話中継所跡が残されている。
この場所から五本の海底ケーブルが
樺太、真岡まで伸びており、北海道と樺太を繋ぐ中継拠点であった。
現在も海底ケーブルは残され、
ここ猿払では、埋め込まれた一部を見ることができる。
昭和二十年、八月十五日、終戦。その五日後の二十日。
ソ連軍が樺太は真岡(まおか)に上陸を開始した。
民間人をも無差別に殺傷するソ連軍の進攻に対し、
日本軍守備隊ならびに取り残された民間人は徹底抗戦を
貫き玉砕した。
その際、真岡郵便局に交換手として勤めていた、若き女性9人が
いた。女性たちは北海道との通信を保持するため、自主的に残ること
決断し、最後の瞬間まで通信を続けた。
女性たちは刻々と迫るソ連軍の進攻に対し、最後まで
職務を全うし、ある者はソ連軍の攻撃で戦死、
そして、郵便局のすぐそばまでソ連軍が迫ると、残った者は全員
青酸カリで自決する。北海道、内地へ向けて行った
最後の通信が、ここ猿払の石碑にも刻まれている。
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
その最期の声を伝えたケーブルの一部がこれである。
ここ猿払の海岸から、いまは異国となった樺太の望み、
殉じた九名の女性たちに哀悼の意を捧ぐ。
猿払電話中継所跡へのアクセス
国道238号線から浜猿払の漁港・集落方面へ入る。
漁港の北側、「海王食品」に面する道を挟んだ反対側にある。
一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。
ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が
見学できる場所です。現在、胴体と尾翼の修復まで終わり
残りは主翼のみとなりました。格納庫の隅に展示してあります。
一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、ゼロ戦と並んで
先の大戦の主戦力となりました。それにしても、
75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した
日本は凄い。それらを必死に支えた国民の底力に敬意と
感謝を表する次第であります。
河口湖自動車博物館飛行館へ
河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し
見学できる。それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。
8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも
かかわらず、多くの人が訪れていた。
いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。
ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。三脚、自撮り棒は
もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み
禁止。i-padも禁止。
なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか?
こういう理由らしい。
館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、
携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。私は
実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。
▲
それにしても大きい。
まずは機首の風防から見てみよう。
この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので
風防越しに内部が細部までよく見える。とても興味深い。
内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが
これだけでも満足。
風防に使われている。
アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。
▼
▲一番前(ドーム型の先端)は爆撃手が座る。爆撃手の席は
よく見える。写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり
細部まで非常に緻密に復元されている。
爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、
床はアクリルの透明張りだ。
特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より
窓が多くなっており良く視界が確保されている。
一式陸攻の水平爆撃
一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、
爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると
翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より
爆撃する。これを合図に、後続の機が続く。よって
一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。
単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による
網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。
戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を
卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。
戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。
地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって
7000メートル程度。地上目標は動かないから優秀な爆撃種が
一番機に乗っていればそれでよかった。
問題は艦船の爆撃である。
敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて
3000-4000メートルで行われた。これは対空砲火を避ける以外に
敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。
これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを
突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを
与えられない。
戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。
戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで
3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は
すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。
こればかりは運であった。優秀な爆撃手ともなると敵艦の
ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか
見極めたという。
一式陸攻の雷撃
一式陸攻の最も最初の活躍といえば
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの
レパルスの撃沈が有名である。
雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し
大凡30度の角度で入水。この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。
敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても
20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。
理想的な高度とされた。
ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの
超低空で飛行した。これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで
しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば
敵の弾は当たらないという考えであった。それで敵艦に突っ込んで行って
魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では
回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。
そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る
戦法に切り替えたのである。結果的にこのほうが被弾率は少ない。
しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや
並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか
かわせない。プリンス・オブ・ウェールスでは
腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。
さすがは伝統のロイヤルネイビー。敵ながらあっぱれと思ったそうである。
その後、ニューギニアに進出し、連日のように
連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると
一式陸攻の消耗は激しくなった。
▲その右上が操縦席。
高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、
全体の配置などはよくわかる。全て復元が終了した暁には
ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。
一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要)
主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。
主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の
日本の飛行機だからそういう並び。
一式陸攻は原則、7人乗りである。
・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。機銃兼任)
・射爆員(爆撃・雷撃手。操縦員兼任の場合あり。機銃兼任)
・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任)
・電信員(機銃を兼任)
電信、偵察は兼任するケースが多い。大戦初期においては
7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。
これに編隊の指揮官や同乗者が加わると
8名~10名になる場合、また、戦争末期で
副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。
一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか?
よろしければ以下もご覧ください。
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
(一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り
兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている)
主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。
後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり
そちらが機長となっている場合もある。
これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで
真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば
「操縦員は操縦に専念してればいい。後席の偵察員が見張りや
航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と
語っている。
▲操縦席の風防を開けたところ。
これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。
内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は
諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも
色々な説がある。
機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。
▲鮮やかな日の丸。入口のハッチがある。
誰がなんと言おうと、美しい。
鮮やかな日の丸に感激する。格納庫の中で最も兎角
目を引くのだ。白い縁取りがまたそれを際立たせている。
一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。
この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し
主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は
サンライズに思える。
一式陸攻の生存率
一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの
一式陸攻の任務は
敵陣へ攻め入ることが殆どの為、
脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる
ケースがほとんどであった。
一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為
一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。
敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、
護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。
とにかく、回避行動はとれない。
戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを
聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく
滅多にお目にかかる機会はない。幸運中の幸運が重なり
生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが
終戦までに戦死している。
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
▲この機体はヤップ島のジャングルから回収されたもので
翼の付け根から後ろが完全なオリジナル。前方は図面に基づいて
復元された。
▲バラレ島の一式陸攻
復元の際に参考にされたバラレ島に残された
一式陸攻一一型。
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▲20ミリ動力銃塔。
電動の20ミリ銃塔。
敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。
敵戦闘機に捕捉された場合、
通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に
飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。
▲上面の機体色と下面の灰色の境目が
グラデーションになっている。
実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて
いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。
▲銘板
ステンシルで刻印された銘板。
復元機は第761海軍航空隊(龍)の機体である。
第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・
ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で
一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。
最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。
航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって
ペリリュー島玉砕戦に参加。中川州男大佐とともに
玉砕した。土田喜代一氏は第761海軍航空隊の
地上見張り員だった。
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中川大佐玉砕の地へ
▲主翼の断面を見ることができる。
復元が完了してしまえばこの部分は見られない。貴重である。ゼロ戦同様
主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に
アルミ合金が貼ってある。
一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。
このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと
言われているが、ちょっと待ってほしい。
ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから
日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。
それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。
当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。アメリカと戦争してみて
はじめてそれが不利なこととわかったのだ。
館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに
掲示されていた。何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に
復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。
▲
一式陸攻の尾翼上部には「桜花」が吊り下げられていた。
桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し
切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。
私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。
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▲貼り付けられた桜花の説明文。
私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。
桜花は桜花だ。
一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。
ここは日本で唯一ゼロ戦二一型を展示しているところでもある。
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骨格も展示されている。骨格が見られるのも全国でここだけ。
ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。
後ろは第263海軍航空隊(豹)のゼロ戦五二型。
▲
こちらは一式戦闘機「隼」
ジュラルミン地剥き出しで、その鈍い輝き、質感などがよく見てわかる。
みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。
資料としての価値は最高に高いのだが。写真ではわかりにくいから
ぜひ足を運んでみてください。隼の後ろには戦意高揚のため
印刷されたポスターが展示されている。こういったものも非常に貴重。
まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。
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知覧~ある特攻隊員と少年の実話「少尉と隼」
▲
ここはエンジンの展示も素晴らしく、保存状態も良い。
これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40
「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。
細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも
充分に見る価値がある。後ろにあるのがこのエンジンに搭載された
過給器(スーパーチャージャー)だ。
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航空機に見る陸海軍の確執
このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で
保存されれている。誉エンジンは素晴らしい。誉エンジンを
搭載した機体はいずれも優秀だ。
「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。
機体は細部までよく観察できるようになっている。
あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが
頼むからやめてください。そういうことをするから制約が
増えてしまうんですってば。
オレオ式の脚。うーむ・・・。75年前とは思えないほど良い仕事してる。
まさに芸術作品だ。
▲
青色塗装は腐食防止用塗装。
海軍機に多く見られる特徴だ。
本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが
それでも腐ることは腐る。白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが
それだ。可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。
後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で
当時はそんな呼び方は存在しなかった。
写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと
薄い色だ。工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて
ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。すなわち
ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が
空けた青色と説明すればわかるだろうか。
航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。
歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。
どれも素晴らしかった。また来ようと思う。
カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。
一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが
展示スペースが確保できず探しているそうだ。
来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。
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はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。
自分ひとり、闇の中、
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。
◆艦上爆撃機「彗星」
彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみであり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。
◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型
二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
型式一覧
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◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
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彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
彗星画像
▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星
◆関連記事
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ
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◆◆◆
大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。
キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
日本国民の総力を注いで送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘められた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。野木町へ墜落、戦死した。
◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ばれ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われていた。
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライセンス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多くがキ-84へ移行する。
宇都宮空襲
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体などに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所における女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったことを忘れてはならない。
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆ど完成状態で出荷を待っていた。
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大
※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
中島飛行機のロゴを復元作成しました。(著作権失効済意匠)
中島飛行機は終戦とともに解体され幻となった航空機会社です。
その恐るべきマスプロ力によって帝国陸海軍の兵器製造を担い
国家繁栄に大きく寄与しました。
しかし夢幻の如く、
戦後、これを恐れたGHQは財閥の解体と、航空産業の一切を禁止し
惜しくも中島飛行機はここに消滅します。以後、富士重工業(スバル)や
日産自動車などへ技術や人員が引き継がれました。原則的に中島飛行機と
富士重工は別の組織ですが、その歴史を調べてみるととても面白いものです。
中島飛行機の開発・生産能力は日本一でした。
代表的な零式戦闘機は三菱重工の開発した飛行機ですが、
中島飛行機がライセンス生産を行い、最終的には三菱を大幅に
超える生産数を誇りました。しかもこの間に、四式戦闘機を四千機以上、
大型重爆、水上機なども並行して生産していたので、そのマスプロ力は
強大なものでした。
中島飛行機宇都宮製作所では糸川英夫博士の一式戦闘機「隼」をはじめ
四式戦闘機「疾風」、百式重爆「呑龍」など多くの機体が生産されました。
※四式戦闘機は宇都宮と太田の二カ所で製造されましたが
昭和20年2月の太田空襲で太田製作所は大きな損害を受けました。
宇都宮ではこれを回避すべく、四式戦闘機のエンジン工場を
宇都宮大谷地区の地下へ移しましたが、機体の組み立ては地上で行いました。
~地下工場へ行ってみる
昭和20年7月の宇都宮空襲で生産は大幅に落ち込みましたが
それでも終戦まで稼働し、終戦時にも宇都宮製作所の生産ラインには
ピカピカの武装された四式戦闘機が乗っていたそうです。
生産の背景には女子挺身隊(女子学生)の活躍など
多くの国民の心血が注がれたことは特筆すべき点であり
決して忘れてはならない事実であります。
中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ホワイト)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ホワイト)
画像使用についてのお願い
零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
昭和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により総計1万機以上が生産された。
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。
型式について
零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。
零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。
専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。
型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
◆ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機として開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
エンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求に
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
零戦11型 【零戦一一型諸表】A6M2-a
◆中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以来
支那事変における空戦では一機の損害もなく終始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。
零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期における島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
◆二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。
零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカットした
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重量(自重)は18kg増加した。
零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリに換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。
零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設けロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定される。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした性格かつ協調性が求められた。
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置きコンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され一人前となる。
ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
日米で異なった戦闘機の設計思想
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
零戦のライバルたち
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。
高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。
ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。
▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。
▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが)
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」
機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが中島で、真っすぐが三菱。
塗装の色も、受注元である海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も同じ黒のようで違う。
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。
▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
▲宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。
エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという
個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)
作成中
支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
浜松広報館レポート
◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も
月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる
◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
大刀洗平和祈念館へ行ってみる
◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
河口湖自動車博物館飛行館へ
◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
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靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
作成中。
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救ってくださっています。
最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
「硫黄島への行き方」
「硫黄島へ行きたい。どうやって行ったらいいのか?」
といった旨の問い合わせをメール等でよく頂きますので
この場を持ちまして回答とさせて頂きます。
硫黄島は全域が海上自衛隊と航空自衛隊の基地です。
従って一般の方の上陸は禁止されています。
米国は戦跡ツアーなども行っているようですが
ここでは日本人が渡航する手段について記述します。
建設業者等を除いて、一般の方が渡航するには
厚生労働省が行う遺骨収容事業への参加が一般的です。
厚生労働省は毎年、硫黄島の遺骨収容(遺骨収集)事業へ
参加する団体の公募と選定を行っており、先ずはそれら
いずれかの団体への加入が必須となります。
なお現在、個人での応募は廃止となりました。
平成26年度、公募で選ばれた団体は以下の7団体です。
一般財団法人日本遺族会
硫黄島協会
小笠原村在住硫黄島旧島民の会
NPO法人JYMA日本青年遺骨収集団
NPO法人国際ボランティア学生協会
公益財団法人大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会
詳しくは厚生労働省のホームページに記載がありますのでご覧ください。
なお単純に「硫黄島へ行きたいから入会希望」という理由での加入は
いずれの団体も断っており、加入の際は、それぞれ本来の主旨に
合った活動に尽力・従事することが前提となります。
また派遣日程の都合上、 最低でも10日間から14日程度仕事を
休める方に限られます。
硫黄島は携帯電話やスマホも圏外で、インターネットやEメール
通話はもちろん、内地や家族との連絡は緊急時を除いて原則できません。
節水実施中は一日のシャワー時間が5分に限定されるなどの条件が
つく場合もあります。持ち込める荷物も最低限に制限されます。
渡航前には身辺調査があり、前科の有無、その他不適切と見なされた
場合は渡航できません。 特に最近はそういったふるいにかけているにも
関わらず観光気分で入島してしまう者が多く、条件が厳しくなりつつあります。
原則的に撮影禁止でカメラ・携帯・スマホの持ち込みは厳しく制限されます。
興味本位や観光でなく、目的は戦没者供養と遺骨の収容にあります。
中には「せっかく行ったのにまったく島内観光やら写真を撮る機会がなかった!」
と怒り狂ってクレームをつける人もいるのですが、ぜひ原点に返って頂きたいと
思います。
上記は、当サイト独自の見解です。記載内容はあくまで参考で
免責事項と致します。渡航希望の各位におかれましては
厚生労働省または各公募団体に直接お問い合わせください。
知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。
「すまん又敵に逃げられてしまった」
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。
「仕方ないですよ」
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。一対五の空戦はざらであった。
「そんなことより背中を流しましょう」
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」
と尋ねた。
「ああ、あれで行くよ」
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い
「分かりました」
と答えた。
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
叔父は酔っ払うと
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
有田 直史(著)
---------
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
篠原 直人(解説)
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓参りに行ってきました。
いつもの事ながら、行き当たりばったりの旅でしたが
無事、お墓を探し当てて、大隊長にご挨拶ができました。
栃木県側からは奥日光のさらに奥、戦場ヶ原を抜けて
標高1800メートルの金精峠を越えて群馬県片品村へ。
もうじき雪がふるので今を逃すと冬季閉鎖されてしまい、
来年の初夏まで栃木県側からのアクセスは出来なくなってしまいます。
峠を越えて片品村へ下って行くと、千明少佐の故郷の集落があります。
誠に感慨深いものがあります。ここが千明少佐の菩提寺
龍滄院です。場所は群馬県片品村東小川2900
お寺さんなので、お墓がたくさん並んでいるのですが
ご住職に尋ねると親切に教えてくださいました。
武人のお墓にはこのような傘がついていることが多いです。
千明武久大尉はペリリュー島の水際攻防戦で
アメリカ海兵隊を全滅に追い込んだ歴史上唯一の部隊の大隊長です。※
高崎15連隊第三大隊こと 千明大隊は精鋭猛者揃い、千明大隊長は
付属部隊を含む750名余りを率いて、海兵隊二コ連隊に対し敢闘、散華しました。
昭和19年9月16日未明。 行年28歳。
ペリリュー島の千明隊長陣地へ
※西地区の富田大隊も同様
ペリリュー島南部地区守備隊
高崎歩兵第十五連隊第三大隊長
千明武久(ちぎら たけひさ)大尉※戦死後少佐
墓碑謹書
履歴 正八位勲六等功六級 近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として
大正6年4月15日片品村鎌田にて出生 片品小学校を経て群馬県立
沼田中学校に進み在学中文武の秀才 剣道部主将として県下に
其の勇名を馳す そして県下大会に於いては優勝全国大会に進出
昭和10年4月陸軍士官学校第56期生として入校
昭和15年同校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任を経
昭和19年2月満州国斉々哈爾(チチハル)より南方へ出陣
同年9月16日大隊長としてペリリュー島に於て散華す
行年二十八歳
義介謹書
▲坊津・丸木浜
鹿児島県・坊津(ぼうのつ)へ行ってきました。
海の美しさは沖縄と比べても遜色ないものでしょう。
上画像は「丸木浜」です。
こちらは、さらに奥へ行ったところにある
「馬込浜」です。砂のきめ細かさは屈指です。
穏やかなので小さな子供を連れての海水浴にも最適です。
戦艦大和と坊津
坊津といえば、戦艦大和が沈んで2日後くらいから
大勢の水兵の遺体が流れ着いたと伝わっています。
現地民が浜に埋葬し、階級章からわかった氏名をもとに
墓標をつくり戦後数十年は立っていたのですが、現在ではその位置も
わからなくなってしまいました。
米軍のパイロットの遺体も多く流れ着いて埋葬されたそうです。
これを知ったアメリカ人は感涙したそうですが
現地民にしてみればとにかく腐敗臭がひどく、
埋めるしかなかったと、いった理由からでした。
馬来丸慰霊碑
上は陸軍の兵隊が乗っていた輸送船「馬来丸(マレー丸)」の慰霊碑です。
坊津沖で被雷し、沈没。山岡少佐以下37名は自力で泳ぎ
ここへ上陸しましたが、力尽きました。
恵比寿様の埋葬跡
砂浜近辺の茂の中には、祠(ほこら)のようなものや
四角く結界を張った跡など昔、兵士を埋葬したと思われる
痕跡が残っています。
水死体はその姿から恵比寿様と呼ばれ
発見した漁師さんや地元の方々が埋葬してくれたのでした。
流れ着いたご遺体の数は相当なものだったでしょう。
しかし今や過疎化が進み、当時を知る方は
ほとんどいません。
折口の浜に眠る林喜重大尉の紫電改
鹿児島県阿久根市折口浜の浅瀬に一機の紫電改が眠っています。
第343海軍航空隊、林喜重大尉の機体です 。
林大尉最後の戦い~B-29へ捨て身の攻撃
昭和20年、4月24日、B29の編隊が阿久根を空襲。
余勢をかって、ここ折口まで 爆弾を投下しました。
現在、折口駅がありますが ちょうど線路を挟んで南にあたる
阿久根側は焼けたのですが 折口側は無事だったのです。
折口だけが焼けなかった理由
B-29が折口の爆撃進路に入ったとき
一機の紫電改が突っ込んできました。343空、林大尉の機体でした。
林大尉はB-29直上より、一撃攻撃を加えると、さらに反復して執拗に
食いつきました。 これにひるんだB-29は爆弾を全て捨てると、
遁走にかかりました。
林大尉の紫電改も被弾し、満身創痍でしたが
B-29に最後の一撃を加えると、ついにB-29は煙を吐きました。
おかげで折口の町はは焼けなかった。
「だから、わしらは林大尉は神様だと思っている」
住民はそう語り、そのとき林大尉が放った薬莢を
大切に持っていました。
増槽タンクが落ちなかった
林機は増槽タンクが故障により切り離せず、つけたまま戦ったそうです。
空戦後、大尉は沖へ不時着を試みましたが増槽タンクが抵抗となり
着水と同時に おおきく前のめりに突っ込み、頭がい骨骨折により
戦死しました。 この慰霊碑は林大尉を荼毘に付した場所に建てられています。
この話は鹿児島在住の私の友人が折口で取材して まとめた話です。
ある日、戦史研究者がやってきて、この話をしたそうです。
そして、特に許可した覚えはありませんが、この話ほぼそのままの形で
雑誌「丸」に掲載されました。 器の大きい友人は「まあ、よか」ということに
して、特に何も言いませんでした。
林大尉の慰霊碑へ
野球場のフェンス奥へ入っていきます。
見えてきました、地元の有志が清掃してくれていて
綺麗です。
林喜重大尉(戦死後少佐)碑文
松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか
▼再現作画(推測)
天狗鼻望楼台へ
薩摩川内市の天狗鼻にある
天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい) へ行ってきました。
かなり外れた場所にあるので時間がかかりますが見る価値は充分にあります。
川内原発からさらに西へ、 車一台がやっと通れる細い林道を走ること30分
車をとめて、さらに山道を20分歩きます。
この望楼台には歴史の重みがあります。
ここから対馬沖へ向かうバルチック艦隊を監視
ここから北上するバルチック艦隊を監視していたのですね。
その後、有名な日本海戦で東郷元帥率いる連合艦隊と
対峙します。
保存状態の良い110年前の建造物!!
それにしても、明治33年に完成、運用されたということは
110年以上前の建造物ということになりますが
レンガ造りの望楼台はこんなにも頑丈で、感動しました。
木も腐らないんですね。
展望がよく気持ちが良いです。猫の横顔に似た岩があります。
こちらは潜水艦に似た岩。岩場で漁をしています。
薩摩川内市・天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい)概要
ここ天狗鼻は、北は天草、南は野間岬、西は甑島(こしきじま) が望める
見晴らしの良い場所で、江戸時代にも見張り台が置かれていたと
いわれています。明治28年(1895)の日清戦争終了後に日本海軍は
国内の要所に沿岸防備のための望楼台 を設けました。
ここ天狗鼻に設置されたのもそのひとつで 日露戦争時には海軍兵が常駐し、
バルチック艦隊の北上を監視していました。 鹿児島県内には
ここ天狗鼻(常設)、下甑島の釣掛崎(仮設)佐多岬(常設)三か所設置され、
現存するのはこの天狗鼻のみです。 また国内で現存するのは、
ここ天狗鼻と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
竣工明治33年3月30日、運用開始同年8月20日 廃止明治38年10月19日
(日露戦争終結による)佐世保鎮守府所属 海上監視、通信、気象観測を担う。
望楼手ほか4人(戦時中増員)
鹿児島へ行ってきました。
こちらは空港内にありました、先日のAKB総選挙で第三位の
柏木由紀(本物)鹿児島出身だそうです。
今回のAKB総選挙(2014)、中国ファンからの大きな
組織票があったようです。(産経ニュース)
なんだ、実際の国政選挙となんら仕組みが変わらないじゃないか。
とんだ皮肉ですが、中国のファン獲得のため、
今後、動くメンバーも出てくるかもしれませんね。
恐ろしい。
さて、パラオ・グアムの記事もまともにアップしていないのに
すみません。ペリリュー島の現状とラストコマンドポストなど、
書き直したいのですが資料がたまっております。
こちら鹿児島空港は
戦中は陸軍国分第二飛行場でした。
特攻隊も出撃しています。
鹿児島空港は比較的大きな空港です。現在、日本各地の都市への
便のほか、奄美、種子島など離島へのコミューターが頻繁に
離着陸を行っています。けっこういそがしい空港です。
燃料給油車(レフューラーもしくはリフュエリングカーともいう)が
忙しく動き回っています。ここのレフューラーは全国比較しても
特にかっこいいんですよ。もう一台、出光仕様もありますが撮り損ねました。
空港内には無料の資料館があります。B747のエンジンから入ります。
変わった展示が多く、飛行機好きなら垂涎ものです。早く到着しても
2時間はあっという間に過ごせるでしょう。
紫電改Tシャツ再入荷しました。
魂を込めて描き上げました。
B-29の爆撃から日本を守った松山の343空モデルです。
よろしければご覧ください。
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また「こんな機種があったら欲しい!」というアイデアも引き続き募集しています。
飛行機でなくでもOKです。先日は
「陸軍ものが少ないので欲しい」といったご意見を頂戴しました。
お待ちしております。
前回ブログの続です。長岡の
山本五十六記念館を見学しました。
実はここは夏にも来たことがありますが二度目です。
館内は撮影禁止なのでこれはパンフレットです。慰霊団がブーゲンビル島の
墜落現場から持ち帰った山本座乗の一式陸攻の左翼と実際に
座っていた座席が展示されています。
そのほかには山本直筆の書や手紙、愛用品などが展示されており
ひとつひとつじっくりと拝んできました。
受付兼土産物店で買い求めた「常在戦場」の書、コピー品。
館内にはこの書の実物展示があり、拝んでいると山本五十六の覚悟
が伝わってくると同時に歴史の一部に触れられたようで感慨無量。
五十六記念館では、このほかにも素晴らしい
五十六グッズを(五十六カレーや「やってみせ~」の色紙など)多数
揃えて皆様のお越しをお待ちしております。
受付の方は、見学者がわたしひとりだったこともあり
熱心にガイドしてくれまして、一式陸攻左翼帰還の
ビデオまで見せてもらいました。
次に車で5分くらいのところに墓所があるので
お参りに行きました。
山本の墓所、長興寺(ちょうこうじ)です。
駐車場あります。しかし
この時期は雪でズブズブであります。
正面が山本五十六のお墓です。冬に来たのは初めてです。
この状態では戒名しか読み取れませんが、夏であれば
墓石の下のあたりに「山本五十六」と刻まれていますので
迷いません。
なお山本のお墓は東京の多磨霊園にもあります。
新潟にきたついでに柏崎刈羽原発広報センターを見学。
私は原子力関連施設を見学するのが好きなのです。
原発近くに来ると必ず見学します。
原発の可否はともかく、科学や機械、そしてなにより
重厚長大なものが大好きなのです。
日本海を拝んで帰りました。
冬には珍しいベタ凪ぎの日本海です。
佐渡が見えます。
山本五十六のお墓参りと記念館見学の続きです。
水上より三國峠を経て日本海側へ抜けました。ここから越後の新潟県。
トンネルを抜けたら荒れた天候を覚悟していたのですが
こんなにも穏やかで拍子抜けしました。得難いことであります。
迫力の書体。どなたが書いたんだろう。
昭和32年開通と記されている。
延々、下って行きます。
湯沢のスキー場近くです。
日本海側の冬は雪との戦いです。昔と比べれば
除雪機能は進化しましたけど、それでも冬の間、
ひたすら耐え忍ばねばなりません。
雪国の方は本当に辛抱強い。
太平洋側の我々には想像できない困難さがあります。
南魚沼市へ入ると、有名な「雪国まいたけ」の工場があります。
大規模です。
長岡の山本五十六記念館に到着。
つづく。
冬の日本海です。
先日、長岡へ山本五十六記念館見学ならびにお墓参りへ行ってきましたので
近日アップします。これはその帰りに眺めた日本海の夕日です。
冬の日本海がここまで凪いでいるのは実にめずらしいんです。
運が良かった。
冬の天気は、日本海側と太平洋側ではまるで違います。
太平洋側に住む人たちは毎日、お天道様を拝んでいるのが
当たり前の生活ですが、谷川岳から北側、つまり
新潟の冬と言えばどんより常に曇っているか、雪または時化です。
生活は雪との戦いであります。
日本列島改造論/田中角栄
日本列島改造論で知られる越後出身の政治家
田中角栄の言葉を思い出します。
「谷川岳の山を切り崩して、関東とつなげてしまえばいい。
日本海からの湿った風は東京へと流れるだろう。なに?
出た大量の土砂はどうするかだって?佐渡と新潟の間を埋め立てて
陸続きにしてしまえばいいんだ。そうすれば東京まで真ッ平だ!」
陸続きにはなりませんでしたが、
田中角栄が谷川岳にトンネルを掘って高速道路と新幹線を通すまでは
それは大変な生活をしていましたのが激変したのです。
その佐渡島が沖に見えます。
◆政府が長崎造船所などを世界遺産へ推薦
政府は17日の閣議で、8県の施設で構成する
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口関連地域」を
ユネスコの世界文化遺産に推薦することを了解した。
2015年の登録を目標に推薦書を提出する。
ユネスコが今年夏から秋に現地調査に入り
同年開催の世界遺産委員会で登録の可否が決定する。
推薦の名目は重工業を発展させ
日本が初めて産業国家としての地位を確立した
「世界史的意義」を強調した。
◆韓国は「強制労働時代の施設」と反対
これに反対しているのが韓国で
「対象施設の一部は植民地時代に強制徴用された朝鮮人が
働かされた経緯がある」との意向を示している。
これに対し、文部科学省下村大臣は
「今回の推薦は1910年までの産業遺産としての普遍的価値に
注目している。日本が徴用を行ったのは1944年以降の話で、個別の問題」
とコメントした。
記事元と推薦施設一覧
http://www.mlit.go.jp/common/001003803.pdf
◆推薦予定の長崎造船所第三船渠
(1905)明治35年建設
◆同上ジャイアントカンチレバークレーン
(1909)明治38年建設
去年夏に行ってきました三菱重工長崎造船所
戦艦武蔵の故郷もご覧ください。
ここからは私の感想を記して置きます。
韓国の反対は非合理です。
機械は機械で、それ以上でもそれ以下でもありません。
純粋な機械、建造物だからこそ残す価値は高いと考えています。
私は日本人ですが、たとえばB-29。
B-29を単なるメカとして見たとき、当時の飛行機としては
洗練されたものがあり、技術、世界情勢を顕著に反映しており
歴史家にとっては実にニュートラルな
対象であり、研究対象として価値の高いものです。
エノラ・ゲイを保存することに対して、もちろん日本人として
あまり良い気持ちはしませんが、決して反対はしません。
小笠原には飛行場がありません。
内地への唯一の交通手段は定期船
「おがさわら丸」で25時間かかります。
幻の小笠原飛行場
「戦時中は洲崎に軍用飛行場があった」と、当時
小笠原で働いていた方が教えてくれました。お話によれば
一式陸攻が滑走路いっぱいを使って離発着したそうですが
記録によれば小笠原の飛行場は小さいものだったので、軽量の
戦闘機を運用するくらいが精一杯で
大型の一式陸攻を飛ばすにはだいぶ無理があります。
一式陸攻の謎
それにしても、なぜそんな話が生まれたのか疑問です。
実は、戦後しばらくの間、滑走路近くに一式陸攻の残骸が残されておりました。
(現在は撤去されています)
もしかしたら機体トラブルか被弾などで
やむをえず不時着を敢行した事があったのかもしれません。
それでないまぜになっている可能性があるなと感じました。
夢のある話だとは思います。
急患発生時の対応
さて、話を現代に戻して、もし
小笠原の住民に急患が発生した場合、
海上自衛隊に協力を要請することとなります。
要請を受けた海自は硫黄島基地に待機中のヘリコプターを
父島へ派遣します。急患を乗せたヘリは、一旦硫黄島基地へ
Uターンし、基地で飛行機に乗り換えて、内地へ向かいます。
この場合、東京までの合計所要時間は3時間ですが
仮に、父島から東京から直行しても、ヘリは速度が遅いので
4時間もかかってしまいます。Uターンしても
飛行機に乗り換えたほうが1時間も早く到着するのです。
ひとつ合理的な手段があります。
V-22オスプレイの運用です。V-22オスプレイは現用ヘリより
スピードが速いので、内地へ直行することが可能です。
災害時やその他緊急時にも役立つでしょう。
自衛隊にオスプレイ導入の動きがあるので
近い将来実現するかもしれません。
最後に蛇足ながら
船で25時間かかるから価値があるし、世界遺産の
自然も残っている。この先も飛行場は作らないほうが
小笠原にとっていいのかもしれません。
日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。
◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。
◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺
◆宇都宮飛行場
◆洞窟戦車工場(那須烏山市)
◇茨城県
◆予科練平和記念館
◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
◇千葉県
◆房総半島戦跡群
◆館山航空隊地下壕
◆「震洋」基地
◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。
◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む
◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。
◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。
◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。
◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。
◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。
◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。
◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
◆由良要塞
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。
入場無料。
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
◆番外編~素晴らしい四国
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ)
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
◆大村海軍航空隊
◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非
◆知覧特攻平和会館
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)
知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。
◆神雷部隊「桜花」別杯の地
桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。
◇沖縄県
◆南部戦跡
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。
夏場は寒いので上着をお持ちください。
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。
地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。
壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジンと機体が製造されました。
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。
映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか
※YOUTUBEで視聴可能作品
ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232
老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。
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【大谷地下空間に存在した戦闘機「疾風」工場と秘密基地計画】
(個別ページへ)
昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
▲地下工場で製造された疾風の胴体
◆城山地下工場概要
城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。
当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。
なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
◆地下工場の総員と勤務体制
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
▲地下工場で製造された疾風の主翼
◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
出典
米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
US. National Archives and Records Administration
宇都宮 採石場 大谷資料館 巨大地下空間
中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場を行く
栃木県宇都宮市の巨大地下空間大谷採石場の特集です。
※戦時中は中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場
採石場跡へ入る前に周辺も素晴らしい景色と史跡がありますので
まずそちらを散策します。
大谷石の採石は現在も行われており、採石や加工会社が軒を
連ねています。加工がし易く使い勝手の良い大谷石は
ここ宇都宮で採石、加工され全国へ出荷されています。
採石して切り開いた道路です。地層がはっきりとわかります。
現在、建設の主役はコンクリートとなり、石が用いられる機会も
少なくなりました。大谷石の最盛期である昭和初期から中期にかけて
ここ石の街大谷は繁栄を極めましたが、現在は人口も減り静かです。
平和観音を拝観します。なむなむ。
日本最大の磨崖仏(※まがいぶつ 石を掘り削ってつくった大仏様)で
です。この通路も迫力があります。
なお、この辺りは
ジブリのアニメ映画「茄子2 スーツケースの渡り鳥」のシーンにも
登場し、美しく描かれています。
大仏様のお顔付近まで階段で登ってこられます。
景色も良いのでぜひエクササイズ兼ねて登りましょう。
大谷寺(おおやじ)を見学します。
大谷寺はせり出した崖の下に建てられたといにしえのお寺です。
ここには日本最古といわれる(なんと1200年前)
磨崖仏が掘られています。弘法大師の作と伝えられています。
中は撮影できないので、パンフレットを載せました。
大谷へ来たらぜひ訪れると良いでしょう。
こちらの千手観音を拝観すると1200年分の時空を体感
でき、言葉で表せない感動が味わえます。
それにしても我々の一生は実に儚いものであります。
お庭も素敵です。
背後の山は御止山といって、昔は宮様しか入ることができませんでした。
現在は庶民も登れます。
ではいよいよ大谷資料館(採石場跡)へ向かいます。
到着しました。
砂利道を抜けた先が駐車場です。
駐車場入り口に展示されているレトロなボンネットトラックは必見。
トラックの搬入口。
中からここからの光が見えますので、覚えて置いてくださいね。
ひんやりした空気が流れてきます。
それからカフェとお土産屋さん、無料休憩所などが揃っています。
※木曜休み
受付のおねえさん(ときどきおばちゃん)から
入場切符を買い求めいよいよ中へ入ります。
またやってきました。今度は夏に。
八甲田山 雪中行軍遭難資料館です。
まさにこの資料館の前の道(現在県道)を第五連隊が行軍して
八甲田山へ向かいました。
▲冬と比べた写真です。
この先、田茂木野村があって、小峠、大峠と続きます。
幸畑の陸軍墓地には無料のボランティアガイドの方がいらっしゃり
こまかく説明して頂きました。
▲幸畑陸軍墓地(資料館裏)夏の様子
▲冬にも行ってきました。同じ場所です。
少し背の高い墓石は下士官、手前が兵卒のお墓です。
中央に並ぶのが将校のお墓で、見学者は自分だけだったのですが
丁寧に全て墓石の立ち止まって、一人一人の経緯を説明して頂きました。
ボランティアガイドの方の博識に驚くとともに
丁寧さに本当に感謝致します。
さて、行軍隊の遭難事件から今年で110年(平成24年現在)になります。
100年までは慰霊祭を催し遺族がお参りに来ていたのですが
それも真冬に墓石に積もった雪を掘り起こす困難さと
高齢化のため現在は行われておりません。
現在では陸上自衛隊が雪中訓練途中に立ち寄り清掃慰霊を行います。
ところで、山口少佐は物語では悪役になっていますが
映画が完成した折、実際の人柄と違うという指摘が随分あったようです。
しかしあくまでフィクションである旨を説明し決着させました。
さらに山口少佐の死因について、映画では病室で拳銃自殺していますが
病院に拳銃を携行することは出来ず、凍傷にかかった 左手で
こめかみを打ち抜くことはできなかったとも言われております。
日露戦争を控えて不祥事や揉め事を抹消したいという
軍部の思惑から 毒殺されたといった説もあり、真相は現在でも
不明のままです。 第五連隊の雪中行軍隊210名のうち199名が亡くなり
生き残った将兵も重度の凍傷を負って手足を切断の後遺症が残りました。
五体満足だったのは、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の三名のみでした。
一番元気だったのが倉石大尉でした。東京でゴム長靴を買い求めた
倉石大尉でしたが、ゴム長は単に当時ハイカラでお洒落なものだったようです。
これのおかげで 凍傷を防げたのは偶然でありました。
倉石大尉は黒溝台会戦で戦死しているので 雪中行軍遭難者の墓地とは
分けて右隣の敷地に墓石があり 階級も少佐に特進しています。
資料館を見学するとわかるのですが、雪山では僅かな距離なのに
方向を見失い 一日中彷徨した後、同じ場所に帰ってきてしまうんですね。
本当に雪山の恐ろしさを感じます。 今回は夏だったので、
行軍隊が辿った道を一通り見ることができました。
▲冬の八甲田山
▲ここが馬立場です。 仮死状態で発見された後藤伍長の象があります。
十和田湖まで足を延ばし 奥入瀬渓谷を走って参りました。
▲冬の同じ場所
竜飛岬も行ってきました。 日本屈指の強風の町です。
大きな風車の羽根。 竜飛岬から北海道を望む。
ボタンを押すと大音量で『津軽海峡冬景色』が流れます。
それから青函トンネル資料館です。 体験坑道ケーブルカーで
海底トンネルまで降りることができました。
扉の向こうは電車が走っています。
高台の碑は青函トンネル工事殉職者の慰霊碑です。
こちらは青函トンネル入口公園です。 ずいぶん手前にあるのですね。ここから潜って、出口は北海道です!
往復1600kmの強行スケジュールでしたが
今回は夏なので 景色が存分に楽しめました。
前日夜の天気図では等圧線の間隔が狭く、ずいぶんと荒れているようでした。
積雪の為、東北道の一部が通行止めです。
しかし、この機会を逃すと次はいつになるかわかりません。
もし、降雪著しいようであれば青森まで行かず、手前で妥協して
観光するという判断で見切り発車しました。
宇都宮を午前三時に出発し、仙台を通過する午前6時頃
ヘッドライトを消灯、天候はまだ曇りで、雪の気配なく速度はそのまま
順調に進み、道程半分の古川を過ぎる頃、この先の除雪が完了し通行止め
解除されたとの情報がビーコンに入りました。
午前9時、一関から黒い雪雲が迫り、白いものが舞うようになり
これがいよいよ吹雪となって路面も真っ白になったのは
松尾八幡平を過ぎ、東北道最高地点の竜ヶ森トンネル前後。
フォグランプを点灯させると、ここからは速度を半分以下に落として
ノロノロ進みます。
ところが八戸道は入り、太平洋側へ出るとお日様がこんにちは!
路面も乾いた状態。距離は近くても場所や地形によって
全然違うのですね。驚きました。ふたたび速度を上げると
終点の三沢へ向かい11時に到着しました。ここまで8時間、
休憩無しで一気に走り切りました。
■三沢航空科学館
YS-11とゼロ戦を見学しました。
■六ヶ所村
六ヶ所村には原燃の再処理工場がありますが、併設された資料館を見学できるのです。
14時に到着、30分見学しました。プルサーマルや使用済み核燃料
の廃棄行程を再現した大規模な施設です。もちろん全て模型ですが
実物大に出来ており、工場見学のようなものです。
綺麗な女性がガイドしてくれて、すべて無料です。
■酸ヶ湯温泉
17時までに八甲田山麓にある酸ヶ湯温泉に到着しなければなりません。
六ヶ所~青森は除雪されており、快適に進むことができましたが
八甲田山に向かい標高が上がるにつれて急激に
積雪が増してきます。 ノロノロと走行し、日帰り入浴の
営業時間ギリギリで 酸ヶ湯温泉に到着しました。
ここにはひば千人風呂という体育館くらいの広さに大きな湯船の
混浴があって、木造の内湯はとても風情ある素晴らしい温泉でした。
山奥まで来た甲斐があった!
すっかり暗くなった雪山をノロノロと下り、この日は青森市街に宿泊します。
■八甲田山雪中行軍遭難資料館と第五連隊ゆかりの地
今回の一番の目的であった幸畑の八甲田山雪中行軍遭難資料館をじっくりと見学します。
朝9時からなので、ちょうどその時間に参りました。
自分以外、誰もいない。大きな立体地図があって遭難の経緯を
とてもわかりやすく検証することができました。行軍隊は1、2キロにも満たない地帯
をグルグル一日歩いた末、前日の露営地に戻ってきてしまうなど、冬山の恐ろしさを
実感しました。それから行軍隊が着ていたコートを試着することができます。(背嚢もセットであります)
もちろん着てみました。とても薄くて、ぜんぜんあたたかくない!
行軍隊の苦労を知り、涙が滲みます。
資料館の裏側が雪中行軍隊のお墓です。
しかし墓石は頭まで雪に埋もれており
手前で黙祷するだけでした。
また夏にきちんとした形で慰霊に訪れたい。
県道をこの先、もう数キロ山へ向かって進むと田茂木野村があります。
遺体安置所があったところで、現在はリンゴ園、小さな祠(ほこら)が残っています。
小峠から先は自動車冬季通行止めです。今回は装備が
薄い上、仲間もいないので 無理はしないで、ここで引き返します。
ただし馬立場付近は、迂回して行く ことができるので、先に見てきました。
また夏に来たいと考えています。
■竜飛岬
竜飛岬へ向かいます。青森の市街地を出る前に、
国道4号線の終点を見てから 青森ベイブリッジを渡りました。
街を出ると津軽海峡線の貨物列車と並走しながら、陸奥湾岸道路を走ります。
外ヶ浜までは平坦で真っ直ぐな道の上雪もなく快適で、
そこから先は岬まで切り立った断崖の上を縫って行きます。
点在する漁村集落を通り過ぎ
竜飛岬は津軽海峡からの強風吹き荒れ、飛ばされそうな勢いでありました。
『津軽海峡冬景色』の石碑があり、赤い釦を押すと同曲が大音量で
流れます。大音量と噂には聞いていたので、少しは構えていたのですが
予想以上に大きな音だったので驚きました。誰もいなかったので思う存分
津軽海峡冬景色を歌いました。風に飛ばされそうになりながら。
北海道を望みます。はるばる自宅から陸路でやってきて今、眼前に
北海道が在る。繋がっていることを実感し感動が込み上げて参ります。
海底トンネル資料館を見学しました。この寒い時期、他に客はいなくて
受付の方が暇そうでした。
青函トンネル工事殉職者の慰霊碑に黙祷。
青函トンネル入り口公園に立ち寄ります。
ここが青函トンネルの入り口。列車はここから海底へ潜り出口は
北海道なのだと想像すると、また感動が込み上げて参ります。
岩木山を見上げながら広大な田園の津軽平野を走り
鰺ヶ沢から日本海へ抜けます。五能線と海岸を並走、
この辺りで名物犬わさおくんが軽トラックの荷台に乗って
走っているところを偶然に目撃しました。千畳敷を通過する頃
日本海に夕日が沈み、強風吹き荒れ春まだ遠い冬の日本海。
誰もいないが、そういった風情が好きです。
■不老不死温泉
黄金崎不老不死温泉へ到着。竜飛で30分間の見学時間を除くと7時間走りっぱなしでした。
ここはシングルのベッドルームがある温泉宿です。
しかし、宿の計らいでアップグレードしてくださり、同じ料金で広い和室に
通してくれました。嬉しいのですが一人では広すぎてなんだか落ち着かない。
ここで楽しみにしていた海沿いの混浴露天風呂に入りました。
吹きさらしで、とても寒いのですが眺めだけは最高です。
ここまで海に近い温泉は全国でも稀かもしれません。
北海道の知床にも似たような温泉がありましたが、それ以来かもしれません。
左手に白神山地の山々、右手に激しい波砕けて真白く泡立つ日本海に挟まれ進みます。
能代から内陸へ、田園地帯を抜け北秋田、大館を経由し十和田ICから帰路東北道へ。
■天童
しかし、そのまままっすぐは帰りません。8時間休憩無しで走り続け
村田JCから山形道へ折れ、天童を目指します。
天童はラフランス(洋ナシ)と将棋で有名な町です。
将棋が好きな方なら、駅前の将棋資料館や街頭の詰将棋、巨大駒のオブジェなど
実に楽しめるところです。とくに将棋資料館の摩訶大大将棋に驚かされたり
駒のひとつひとつ、芸術的書体を眺めていると、本当に美しく飽きず
街頭詰将棋の前に立っていると「それ、わかりますか?」と通りすがりの地元の方に
話しかけられたり、楽しいところでした。天童公園は桜の名所で、これが満開になる頃
甲冑を纏った駒たちを、やぐらの上のプロ棋士が動かし、対局を行う人間将棋が催されます。
公園には巨大な将棋盤とそれを上から見やすいように観覧席が設けてあり
春にまた訪れたいと思いました。
■帰路
16時30分に帰路に着きました。天童から自宅まで残すは260kmです。
ところが福島西-本宮12km2時間の震災復旧による工事渋滞。福島西で一旦高速を降り
一般道を迂回するものの、こちらも大混雑で抜け出すのに2時間半かかりました。
天童から休憩無しで走破し、23時に自宅へ到着しました。
■タダだったので
3月いっぱい東北の高速道路がタダだっていうのでツーリングを
強行しましたが、東北の春はまだ遠く、どこへ行ってもお客さんは少なかったという印象です。
お気に入りの演歌を流しながら冬のみちのくを旅するのも、これはこれであじわいあるものですが
被災地の観光活性化策としては中途半端すぎますし、一般のお客さんは雪道は敬遠するでしょう。
春からタダとはいかなくても割引など適用してくれたら良いと思うのですがどうでしょう。
■総走行距離1785km(内高速1134km一般道651km)
使った燃料188リットル
平均燃費9.4km-最後の渋滞と積雪がなければもっと伸びたはず。
乗車合計時間35時間半(一日あたり11時間半)
宇都宮 - 三沢 - 六ヶ所 - 酸ヶ湯温泉 - 青森
0300 1130 1400 1700 1900
1230 1430 1730
青森 - 八甲田 - 竜飛岬 - 不老不死温泉
0830 0900 1300 1830
1100 1330
不老不死温泉 - 白神山地 - 大館 - 十和田IC - 仙台 - 天童 - 福島西 - 本宮 - 宇都宮
0700 - - 1030 1300 1500 1830 2100 2300
- - 1630 - -
三日間で東北六県を走破しました。
総距離は1785kmです。(内高速1134km一般道651km)
使った燃料は188リットルで平均燃費9.4kmでした。
乗車時間は35時間で一日あたり11.6時間運転したことになります。
三沢~六ヶ所村~青森~八甲田~竜飛岬~白神山地~十和田~仙台~天童~福島の経路でした。
概要は以下の通りです。
■八甲田山
雪中行軍遭難資料館(幸畑陸軍墓地)見学・慰霊
その他、第五連隊ゆかりの地を訪れる。
■三沢航空科学館
特別展示のゼロ戦とYS-11の見学
■六ヶ所村
原燃PRセンター見学
■竜飛崎 (青森)
海底トンネル資料館見学
海底トンネル入口公園に立ち寄る
石碑の前で『津軽海峡冬景色』を唱歌。
対岸の北海道を見る。
(見るだけ)
■不老不死温泉、酸ヶ湯温泉に立ち寄る。
(いずれも混浴)
■天童将棋資料館の見学(山形)
天童の街探索、街頭の詰将棋を楽しむ。
写真は八甲田山麓にて。
歴史の見える丘
呉海軍工廠の戦艦大和を建造したドックが現在でも残っている。
「大和のふるさと」と記された工場が大和を建造したドック跡で
戦後、埋めたてられたものの、現在も工場として利用されている。
西側一帯の工場群は日新製鋼呉製鉄所で、
当時は呉海軍工廠製鋼部であった。
※旧呉海軍工廠は戦後、石川島播磨重工業(IHI)呉工場となった後
現在はジャパン マリンユナイテッドが所有している。
日本一、潜水艦を近くで見られる公園
「アレイからすこじま」は日本一潜水艦を近くで見られる公園。
道路を挟んだ反対側は当時からのレンガ造りの倉庫が並ぶ。
呉鎮守府
毎週土曜、日曜は護衛艦の一般公開を実施するほか
呉鎮守府(現、海上自衛隊呉地方総監部庁舎)の建物見学もできる。
呉の街は今も昔も海軍さんの街だ。
佐世保や横須賀など、海軍さんの街を一通り見てきて
感じることだが、ここ呉が一番好きだ。
海沿いを散歩すれば潮風が心地よく、景観も
歴史的建造物が数多く、ちょっとした時間旅行
をしているようで楽しい。
呉軍港から引き継ぐ、大和も入渠した大ドックは
健在であり、空にそびえる大迫力のクレーンや工場群が
異世界のようであり、潜水艦がすぐ目の前に浮かんでいる。
ここ呉の特徴は、それらが市民生活と隣り合わせで
密着している点にある。買い物帰りのおばちゃんが両手に
買い物袋をさげて歩いているし、子供だって無邪気に遊んで
いるし、学校帰りの女子高生に、ちゃんとヤンキー兄ちゃんだっている。
坂道が多く、迷うこともあるけど、丘の上から見える海は
とっても気分がいいし、道は綺麗に整備されているので
窮屈に感じることはない。
とにかく、呉は街全体の雰囲気が明るく、居心地が良いのである。
何度訪れても飽きない。
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連合艦隊柱島泊地
ここは瀬戸内海。中央に見えるのが柱島(はしらじま)です。
連合艦隊の泊地があったところです。
波も静かで、民家も少なく、東に呉軍港、西に徳山の大燃料庫を備え
大艦艇の停泊に最も適していたことから
長門とはじめとした連合艦隊の歴代旗艦が投錨し、作戦の立案から
前線部隊の指揮を行いました。
山本五十六は、ここ柱島に停泊中の長門艦上で真珠湾攻撃成功の
電文を受け取ったとされています。
あの戦艦大和も武蔵もここに投錨していたのです。
そして、ここから最後の出撃をし、二度と帰ってきませんでした。
※柱島自体には軍事施設はありません。島の沖合に
「旗艦ブイ」と呼ばれる艦を係留するためのブイがあり
呉への直通電話線が通じていました。
この写真は山口県周防大島から撮影したものです。
周防大島は柳井市と橋で繋がっており、自動車でも往来が容易です。
その周防大島の先端へ走るにつれて、柱島が見えてきます。
島は東西に長く、橋から先端までは自動車でも1時間かかりますが
とても景色の素晴らしいところで、穏やかな時間が流れています。
※頻繁にネズミ取りやってます!スピードは控えめに!
▲島へ渡る大島大橋
島の東端にあるのが「陸奥記念館」です。
戦艦「陸奥」謎の爆沈
戦艦「陸奥」は昭和18年6月8日、正午すぎ
柱島の南、約2kmの海上に停泊中、原因不明の大爆発を
起こし、一瞬にして沈没。
この当時、陸奥の乗員は、1321名それに加え
艦務実習のため乗り合わせていた予科練習生と教官153名
合計1474名が在艦でした。
戦友、遺族による「陸奥会」の調査によればこの内、
生存者はわずかに100名(負傷者39名含む)で
(さらに、戦後まで生き残った陸奥の乗員は60名)
三好輝彦大佐(海兵43期)を含むほとんどの乗員が殉職したと
伝えられています。
▲引き揚げられた陸奥の副砲、艦首、スクリューが展示されています
▲慰霊碑の向こうに浮かぶ柱島と陸奥の眠る海
陸奥の眠る海
柱島の南側に連なる島は、手前から福良島、長島、続島の三島で
続島には焼き場が設けられ、連日漂着する遺体を収容、荼毘に付されました。
重油で海は黒く染まり、沈没から一年以上経過しても
岩に染みついた色は落ちず、辺りの漁場は壊滅し海草も貝も
全て死んでしまったのです。
長らく秘匿された沈没の事実
陸奥は国民に広く親しまれた戦艦で、その存在は日本の国そのものでした。
その陸奥が、戦わずして内地の海で原因不明の爆沈をしたことが、万が一
知れ渡れば、国民の失望と混乱を招くことは必至であり、海軍の名誉をも
大きく失墜させるので、海軍はこの事件の秘匿に徹底しました。
乗員の家族からは
「何度手紙を出しても返事が返ってこないのでおかしい」
といった問い合わせが相次ぎましたが、海軍の担当者は
胸が痛くなるのを覚えながらも、それらを全て黙殺し
手紙のすべてを焼却していたのです。
「戦死であれば広報が来るはずだが、それもなく行方が一向にわからない」
そんな疑問を拭いきれない、ある予科練習生の父親は
「息子に何か事故でもあったのか」と、直接霞ヶ浦の航空隊を
訪ねたものの、「そんなことはない」と聞かされ家に帰ったのでした。
その嘘は、艦長の三好大佐の家族にさえも例外ではありませんでした。
「陸奥は健在である」
そう振舞い続ける海軍でしたが、国民を
騙し続けることは既に苦しく、遺族にようやく知らされることと
なったのですが、それは事故から9ヶ月後の昭和19年3月で、広報には
「作戦中、西方海上に於いて殉職せり」と簡単に記されたに過ぎませんでした。
沈没の原因
陸奥爆沈の謎は、現在でも完全に解明されていませんが
三式弾の自然発火説、爆雷誤爆、スパイ工作による説、あるいは
潜水艦の魚雷による攻撃など様々な原因が考えられたのですが
おおむね否定されてきました。
ある人物による放火説
乗員のいじめによる自殺、現在でも可能性が高いと考えられているのが、
特定の人物による放火説で、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、
容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから
この人物が火薬庫に侵入し、放火した可能性があり、
生き残ったある元乗員は
「爆沈した時、彼がやったのだと、直感しましたよ」
と述べているほか、別の乗員は
「間違いなく彼が放火ものだと確信していますが、この頃、彼が
生きているんじゃないかと思うようになってきましたよ」
とも証言しており、事実、容疑者である二等兵曹の船室をダイバーが
捜索したのですが、彼ひとりだけ、遺体が発見されることはなかったのです。
その二等兵曹は、公には戦死と発表されましたが、実際の安否は
現在も謎のままです。
重油で黒く染まった海も今ではすっかり元の姿を取り戻しました。
そればかりでなく、海底40メートルに沈む陸奥が魚の隠れ家となり
以前より増して魚がよく獲れるようになったといいます。
▲陸奥記念館屋外展示のPS-1飛行艇
陸奥記念館には引き揚げられた部品の一部や乗員の遺品、絶筆
資料などが多く展示されています。
海が美しく、とても静かなところです。
「陸奥記念館」アクセス
山口県大島郡周防大島町伊保田2111−3
なぎさパーク、なぎさ水族館併設
一般420円 小中学校210円
9:00~16:30開館、無休
館内撮影禁止
山口県周南市(旧徳山市)大津島の戦跡
人間魚雷「回天」基地を訪れた。
徳山港よりフェリー「新大津島」で40分、高速船「鼓海Ⅱ」で20分。
(画像はフェリー)どちらも料金は変わらず、およそ2時間おきに
交互に出ている。瀬戸内海の島々へ渡る航路は他にも多くあり、ここ
徳山港が拠点。新幹線の徳山駅からも歩いてすぐで、アクセスは良い。
車で行く場合は、朝一番の便か午前中の便であれば、波止場となりの
無料駐車場が空いている可能性が高い。満車の場合は離れた
有料駐車場を利用する。
波止場の券売機で「馬島行き」を求める。
大津島はもともとふたつの島が数百年前に繋がった
細長い島で、フェリーは「馬島」と「刈尾」、二ヵ所の波止場を巡るが
どちらも同じ大津島の波止場である。
徳山の大プラント群を見ながら進む。
この辺りは屈指の工場夜景スポットで、地元のツアー会社が
工場夜景クルーズや、普段は立ち入ることのできない
工場内の夜間見学ツアーなどのプランを実施している。
なお、徳山は連合艦隊の燃料補給基地であり
東は柱島泊地と、呉軍港である。
フェリーに乗っているのは釣り人が数人。穏やかな瀬戸内海を進み
大津島馬島港へ到着。波止場には「回天の島」という大きな看板と慰霊碑。
回天発射基地跡と回天記念館は、波止場から歩いて5分ほど。
遠くに回天発射基地が見えてきた。
途中、断崖があるので、トンネルを抜けて発射基地へ向かう。
このトンネルは当時つくられたもので
回天はトロッコでこのトンネルを通り、発射基地へと運ばれた。
また、回天搭乗員もこのトンネルを通り訓練、また出撃した。
見学客は自分だけ。
釣竿を背負ったおじさんが何の歌かわからないけど鼻歌を歌いながら
トンネルのずっと先のほうを歩いて行くのがわかった。
これは空襲を監視するための横穴。