ペリリュー島守備隊長中川大佐のお墓が
出身地である熊本県熊本市にあります。
熊本の市街地を見渡せる岡の上に
小さな墓碑群があり
その一角に中川大佐のお墓はあります。
また、この辺りは西南の役(西南戦争)で亡くなった著名な方の
お墓もあり、歴史を学ぶ方は一度、訪れておくのもよいかもしれません。
だいぶわかりにくい場所にあり、随分と迷いました。
近くに大型霊園があり、そちらと勘違いしがちです。
中川大佐の墓碑は、そちらの大型霊園とは別の場所にあり
霊園の名称等は特にありません。
お墓は地元の方が、定期的に清掃をしてくださっているようで
とても綺麗になっていました。
中川州男大佐(戦死後中将)墓所
アクセス
熊本県熊本市立田山貯水池付近
住所、墓所名は不明
立田貯水池入口に駐車し(車はここで行き止まり)奥へ歩くと
墓碑群が見えてくる。急な階段(を下りずに)手前を右へ折れ
20メートルほど歩くと、中川大佐の墓がある。
近くに小峰墓地があるが、こちらではないので間違えないようにする。
なお、小峰墓地は、原爆慰霊碑、先の大戦の慰霊碑ほか西南戦争の
戦没者が眠っている。
国家存亡の危機を迎えた明治の日本
十九世紀末、西欧諸国の植民地拡大競争は激しくなり
その矛先は世界各地に向けられた。 日本にとっての最大の脅威は
帝政ロシアだった。ロシアは冬でも凍らない港をと、南満州へ進出し、旅順に
軍港を築くとともに極東艦隊を派遣、黄海を手中に収めた。
ロシア海軍の進出は、いよいよ直接日本に向けられることとなった。
そして、まさにここ瀬戸内海は要衝であった。 いよいよ日本は国家存亡の
危機を迎え ここ小島に、芸予要塞の一端を構築する。
極めて保存状態の良い110年前の戦跡
明治35年(1902)に完成した要塞であったが
明治38年(1905)年、日本は旅順攻略ならびにバルチック艦隊を撃滅し
日露戦争に辛勝。 結果的に小島の要塞が役立つことはなかったが、
要塞に据え付けられていた28cm榴弾砲、2門が旅順攻略戦に
持ち出され、活躍した。現在も非常に保存状態がよく、100年以上前の
戦跡としては極めて稀である。
28cm榴弾砲
小島には6門が据え付けられたが
明治37年(1904)日露戦争の勃発により うち2門が旅順要塞の攻略に送られた。
この28cm榴弾砲は NHKドラマ「坂の上の雲」で撮影に用いられたセットで、
撮影終了後 松山市が譲り受け、しばらく松山城で展示されていたが
現在は今治市が譲り受け、ここ小島に渡った。▼
▲芸予要塞(げいよようさい)小島(おしま)へはフェリーで渡る。
フェリーは今治の波止場を出港すると、瀬戸内海に点在するいくつかの島を
巡り、ふたたび今治の波止場へ帰ってくる。
背景は今治造船
乗客は、我々のほかには釣り人が数人と、郵便屋さんが
乗っていた。郵便屋さんのフットワークはどこへ行っても軽い。
通勤電車のような感覚のこのフェリーにひょいっと乗り、あっという間に
島の港へ接岸すると、のんびり釣竿を背負った人たちを追い越して
幸先よく手紙を配って行く。
▲探照灯(サーチライト)跡。
戦跡巡りの権威である、S方氏の案内で小島芸予要塞を巡る。
島は周囲3キロほどなので、2時間もあれば全部見学できる。
島には画像のような周回歩道があり、潮の香りと風が心地よい。
釣り人が目立つ。
▲円形の基礎は砲台の跡
放射線を描いて着弾するので、海からは見えない構造。
要塞は役目を終えた後、爆撃演習の標的として
利用された。その際の爆撃で崩れた跡が残る。
若い人は皆、島を出て行ってしまったのか、民家には空き家が多い。
島の人口は30人。遠くに望む、近代的な来島海峡大橋。
▲弾薬庫
これは「ハンミョウ」という昆虫。いままで
図鑑でしか見た事がなく、珍しかったので撮った。
瀬戸内海の島々に生息しているようだ。
人が道を歩いていると、進行方向を促すように飛翔するので
別名「道教え」とも呼ばれる。
海を見ながら波止場へ戻る。
110年前の歴史を感じ、また自然も素晴らしく綺麗な島だった。
芸予要塞小島(げいよようさい・おしま)
アクセス
愛媛県今治市波止浜観光港より
小島行きフェリーで5分。
愛媛県愛南町の「紫電改」を見学しました。
一見した感想は「大きいな」と感じたことです。
ゼロ戦より一回り、大型で迫力があります。重戦闘機紫電改。
昭和20年、この紫電改もB-29やグラマン戦闘機と大空戦を
繰り広げていたのでしょう。思いを馳せました。紫電改を知っている方も
知らない方も一見の価値あり。
この紫電改は昭和53年11月に、久良湾に沈んでいるのが発見され
翌年引き揚げ作業が行われました。館内にはこの機体の搭乗員だったと
推測される第343海軍航空隊(剣)、六名についての展示があります。
▲紫電改が沈んでいた久良湾です。
南レク宇和海展望タワーより撮影。
※碇義朗著『紫電改の六機』によれば、着水時の状況、
座席の位置などから考えて小柄な、米田伸也上飛曹か、とくに可能性の高いのは
武藤金義少尉と推測されているが、確定的な証拠が無いかぎり、
状況推測だけで断定することは避けねばならないと記されている。
※また、当該機体を「撃墜した」と証言する元米海軍戦闘機搭乗員
アプルゲート(アップルゲート)氏の主張であるが、
紫電改で戦った戦友たちによれば
「武藤少尉がまともに空中戦を行って、負けるはずがない」
「もし、落とされたとするなら、流れ弾か機体トラブルによるものであろう」
との見解もある。
「紫電改展示館」見学は無料。紫電改を見学できるのは、日本ではここだけ。
紫電改関連グッズを豊富に取りそろえた土産物店があります。
▲松山基地を再現したジオラマです。
なお、松山空港周辺には343空の使った掩体壕が残っており
そちらも見てきました。第343海軍航空隊航空基地跡
▲紫電改展示館の屋外にはこのような遊具もあり
尾翼には343と刻まれています。それにしてもF-4に似ている。
▲これは見なかったことに・・・。
愛南町も素晴らしい目玉があるのですから、もっと町おこしに利用すれば
よいと思います。 まずは熟練ガイドの養成は必須。
アクセス
紫電改記念館(南レク内)
住所:愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1 馬瀬山頂公園内
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空母信濃に着艦した艦上戦闘機「紫電改」
今治造船の艤装工場です。
今治造船は国内トップを誇る造船会社で、ここ今治のほか
伊予西条と丸亀にも工場があります。
大型船を多数、建造しています。
船を造っています。
後ろの高架は来島海峡大橋です。ここから広島の尾道まで通じています。
そしてこちらは今治のローカルキャラクター
「バリィさん」です。
2011年、ゆるキャラグランプリにて、クマモンに敗れ2位に甘んじる
2012年、ゆるキャラグランプリにて、ついに優勝を獲得。
2013年、PRに十分な知名度を得たとして不出馬を表明。
身長150cm、体重150kg、胴回り150cm
性格はのんびりしているが、今治弁を話すせいで少しきついイメージがある。
今治名物の焼き鳥がモチーフで
頭に乗っているのは来島海峡大橋、
ハラマキは名産の今治タオルを表したもので、持っているのは船。
ゆるキャラが生まれた背景には、今治でなければならない理由がありました。
今治は名産品が多く、瀬戸内海に面しており、とても良いところです。
高知竜馬空港周辺の掩体壕を見たついで、西へ10km走り
桂浜から土佐湾を望みます。
四国は素晴らしいところでした。何と言っても
人柄が素晴らしい。お遍路さん文化があるのか
どこへ行ってもあたたかいおもてなしを
受けることができました。お遍路さんといえば
心に傷を負っている人も少なくない。そんな人たちを
あたたかく迎え入れてくれる精神は素晴らしいです。
ただ、唯一、残念だったことがあります。
香川のウドンを食べ損ねたことです。
わが栃木も世界遺産だと喜んでいるけれど、
きちんとお客さんをおもてなしできているのか疑問です。
どうもおごりがあるように感じます。四国を見習うべきです。
第343海軍航空隊(二代目・剣)の基地は愛媛県の松山市にあり
拠点を鹿児島の鹿屋、国分、長崎の大村に置いた。
松山基地は現在の松山空港である。
▲松山空港
▲掩体壕
掩体壕(飛行機を爆撃から守るコンクリートの建物)
ご主人の許可を頂いて写真を撮らせてもらった。
掩体壕が車庫として利用されている。
現在は、住宅地やコンビニとなっているが
当時はこの辺りまで飛行場の一部だったことがわかる。
紫電改や彩雲が格納されたのだろうか。
▲掩体壕
こちらは納屋として利用されている。
コンクリートの建物、しかも掩体壕ともなれば相当頑丈であるので
解体は容易ではない。
そういえば、以前、桜花の発射基地跡を
訪ねたときも、コンクリートのカタパルトの土台はそのまま残されていた。
※桜花の基地を建設する際、軍に土地を接収され、戦後は返還されたものの
土地の境界線が有耶無耶になり、コンクリートの解体作業を自治体へ要請するも
資金を出し渋っているそうだ)
こちらも掩体壕。分厚いコンクリートと
飛行機を収納していた形がはっきりわかる。
初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」五名の慰霊碑が
隊長の関行男大尉の出身地である、伊予西条市の楢本神社にある。
この衝撃的な慰霊碑は、五名がゼロ戦に抱いて飛び立った
250キログラムの爆弾そのまま模している。
左側は戦艦「大和」の砲弾、右は「三笠」
なお、境内には神風特攻隊記念館もある。
入場は300円。
私は以前、敷島隊の五機を整備した元整備兵の方に
お話を聞いたことがある。あわせて谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹の
回想も少し書いた。
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」
伊予西条に慰霊碑があると聞いたので、以前から訪ねたいと
思っていたのが、ようやく、お参りができた。
関さんは、軍神として、またこのような形で顕彰され
関さん自身、それが嬉しいことなのかどうか、私には
知る術もないけれど、今日の日本のために命を奉げたことには
心から感謝します。
楢本神社
住所:愛媛県西条市大町1138
国道11号線から住宅街へほど500メートル入ったところにある。
慰霊碑と鳥居の前が駐車場。
隣が緑色の外装をした畳屋さん。
戦艦大和が全速27ノット(時速50km/h)で試験航行した際の
有名な写真です。この写真は、昭和16年10月30日
宿毛湾沖の沖の島-鵜来島間で撮影されたものです。
▲宇和海展望タワーより撮影。沖ノ島-鵜来島間を戦艦大和は全力で航行試験を
行った。手前が紫電改の着水した久良湾。
宿毛市の宇須々木海軍基地は
大正10年に戦艦「長門」が寄港して以来、昭和17年頃まで
艦隊の停泊地として利用され、宇須々木は
休養の為の宿舎や病院、各施設がありました。
またワシントン軍縮会議で廃艦が決定した戦艦「土佐」はここ
宿毛湾沖に沈められています。
そして太平洋戦争末期には特攻艇「震洋」の基地にもなりました。
現在は弾薬庫、飛行艇の係留場(およびスロープ)、誘導灯、防空壕などが
僅かに残っています。
▲スベリと呼ばれる飛行艇揚陸スロープ
▲魚雷艇整備壕
九軍神の訓練が行われた三机湾
ここは愛媛県瀬戸町。佐田岬の伊方原発を過ぎて西へ10kmほど走ったところに
三机湾と呼ばれる静かな湾がある。
三机湾は東洋の真珠湾と呼ばれ、地形が真珠湾に似ていたことから、
特殊潜航艇「甲標的」で出撃した10名(内9名が戦死しのちに九軍神と呼ばれた)
の訓練が行われた場所である。
須賀公園内にある「九軍神の碑」
慰霊碑の近くでバーベーキューをしていた中年男性のグループがいて
私たちが熱心に慰霊碑の写真を撮っていると
それまでは興味はなかったのだろうけど、近づいてきて
「へ~っ、真珠湾の攻撃訓練したのか」と頷いていた。
こちらは何故か夜間戦闘機「極光」のプロペラらしいが
説明書きが読めない。
極光とはオーロラの意で「銀河」の夜間戦闘機型。
住所:愛媛県瀬戸町三机
須賀公園
四国カルスト天狗高原より夕日を望む
経緯
昭和20年3月19日 午前7時45分頃
第343海軍航空隊の三人乗り偵察機「彩雲」が 飛行中、
エンジントラブルから敵機に捕捉される。
離脱は不可能と判断した彩雲は、この上空で敵編隊に突入、体当たりを
敢行したものである。 搭乗員は機長、高田満少尉、操縦、遠藤稔上飛曹、
電信、影浦博上飛曹の三名で 全員が戦死。四散した機体の破片は三つの
峰に散らばったが 遺体は墜落する様子を目撃していた住民によって収容された。
現在も「彩雲」の主脚、片方が残されている。
「三魂之塔」と刻まれた慰霊碑であるが
その経緯などは一切記されていない為 、偶然訪れた者は、
何の慰霊碑かわからないだろう。
場所
高知県高岡郡津野町芳生野、
四国カルスト天狗高原、天狗荘から県道48号線を
およそ5.5km下ったヘアピンカーブの内側にある。
狭く急勾配の道の途中にあるので 訪れる際は注意が必要。
探していたらすっかり暗くなってしまった。
栃木県那須烏山市の地下戦車工場跡は、手掘りの壕で
昭和19年末から20年にかけて実際に稼働した戦車部品の軍需工場跡。
現在は株式会社島崎酒造が酒蔵として所有している。
事前に予約すれば無料で洞窟内を見学できる。
▲入口
洞窟内の温度は年内を通じて一定に保たれており、
夏は涼しく、冬はあたたかい。
ここはオーナーズボトルのコーナー。
預かりの期間は5年(10,500円)から最長20年(31,500円)
で、出産を機会に購入し、20歳の誕生日を待つというプランが人気。
ボトルとともに家族の写真やメッセージが貼り付けてある。
試飲もできる。ここで寝かせた熟成酒は烏山の名物。
お酒を販売する島崎酒造は烏山の市街地にあり、洞窟から
少し離れている。
とにかく洞窟の広さと天井の高さ、そして全長には驚いた。
この壕は車体そのものではなく、部品の工場であったが
これだけの大きさがあれば戦車がそのまま入る。
昭和19年末から20年にかけて宇都宮十四師団は
パラオで戦っているので、直接の関係はないが
終戦まで20台の戦車部品が製造された。
ガイドも親切丁寧に説明してくれた。
詳しくは株式会社島崎酒造へ
硫黄島摺鉢山山頂に
「第一御楯隊」ならびに「第二御楯隊」の慰霊碑がある。
御楯(みたて)とは天皇陛下の盾、すなわち祖国の盾という意味である。
第一御楯隊は昭和19年11月27日に、
第二御楯隊は昭和20年2月21日に出撃、大戦果をあげ散華した。
第一御楯隊
第一御楯隊は第252海軍航空隊戦斗317の零式戦闘機12機
をもってサイパン島のアスリート飛行場に集結するB-29を
強襲、生還を前提とした攻撃隊であった。機体は識別用の国籍マーク
を除いて黒に塗られた。
この勇猛果敢な攻撃によりB-29炎上4、大破6の戦果をあげた。
強襲後はパガン島へ不時着、潜水艦で救出される作戦であったが
結果的に全機が失われた。
※なお、岩本徹三が第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと後に回想している。
零戦隊とは別に、戦果確認用に「彩雲」2機が、前日の26日には
先発隊として海軍中攻機、海軍少尉搭乗の陸軍機、百式司偵が
出撃している。このため、第一御楯隊の碑の左側面には
「陸軍重爆隊」右側面には「海軍中攻隊」と刻まれている。
彩雲一機は帰還した。
なお、山頂の慰霊碑とは別に
第一御楯隊が硫黄島からの出撃前夜に過ごしたトーチカが
自衛隊基地内に現在も残されている。
▲黒一色に塗られた第一御楯隊の零戦
第一御楯隊で散華した搭乗員は次の通り。
第一御楯隊
零戦11機、昭和19年11月27日
サイパン・アスリート飛行場強襲において散華
◆大村 謙次 中尉(静岡)
海兵72期・大正11年生・22歳
◆小野 康徳 飛曹長(香川)
甲飛3期・大正10年生・23歳
◆北川 磯高 上飛曹(福井)
甲飛13期・大正12年生・21歳
◆住田 広行 一飛曹(大阪)
甲飛11期・大正13年生・20歳
◆東 進 一飛曹(滋賀)
甲飛11期・大正14年生・19歳
◆加藤 正人 一飛曹(山形)
甲飛11期・大正11年生・22歳
◆司城 三成 二飛曹(大分)
丙飛16期・大正13年生・20歳
◆新堀 清次 飛長(東京)
特乙1期
◆上田 祐次 飛長(神奈川)
特乙1期
◆高橋 輝美 飛長(香川)
特乙1期・昭和2年生・17歳
◆明城 哲 飛長(京都)
特乙1期・大正15年生・18歳
第二御楯隊
第二御楯隊は昭和20年2月21日、第601海軍航空隊
天山、彗星、爆戦(爆装零戦)をもって編成された特別攻撃隊で
香取基地を出撃、八丈島で燃料補給後、硫黄島東南東海上の
米機動部隊に体当たり攻撃を敢行。航空母艦二隻に大損害を与えた。
搭乗員は次の通り。
第二御楯隊
天山6機、彗星11機、爆戦6機、昭和20年2月21日
硫黄島周辺にて散華
◆村川 弘 大尉(新潟)
海兵70期・大正10年生・23歳
◆飯島 晃 中尉(長野)
海兵72期
◆桜庭 正雄 中尉(広島)
海兵72期・大正12年生・21歳
◆茨木 速 中尉(高知)
高等無線技術13期・大正12年生・21歳
◆佐川 保男 少尉(香川)
香川技13期・大正14年生・19歳
◆木下 茂 少尉(大阪)
関西大学13期・大正12年生・21歳
◆中村 吉太郎 少尉(石川)
中央大学13期・大正12年生・21歳
◆原田 嘉太男 飛曹長(鳥取)
甲飛2期・大正8年生・25歳
◆小島 三良 上飛曹(東京)
乙飛14期・大正12年生・21歳
◆石塚 元彦 上飛曹(山形)
甲飛9期・大正13年生・20歳
◆小石 政雄 上飛曹(神奈川)
甲飛9期・大正14年生・19歳
◆村井 明夫 上飛曹(大分)
甲飛9期
◆志村 雄作 上飛曹(山梨)
乙飛15期・大正13年生・20歳
◆岩田 俊雄 上飛曹(福井)
乙飛13期・大正13年生・20歳
◆青木 孝充 上飛曹(千葉)
丙飛10期・大正9年生・24歳
◆牧 光廣 上飛曹(広島)
乙飛16期・大正13年生・20歳
◆小松 武 上飛曹(高知)
乙飛16期・大正13年生・20歳
◆中村 伊十郎 上飛曹(千葉)
乙飛16期・大正13年生・20歳
◆窪田 高市 上飛曹(山梨)
乙飛16期・大正14年生・19歳
◆小林 喜男 上飛曹(山形)
乙飛16期・大正14年生・19歳
◆幸松 政則 上飛曹(大分)
乙飛16期・大正14年生・19歳
◆小山 照夫 上飛曹(香川)
乙飛16期・大正15年生・18歳
◆戸倉 勝二 上飛曹(三重)
乙飛16期・大正15年生・18歳
◆下村 千代吉 上飛曹(鹿児島)
乙飛16期
◆森川 博 一飛曹(京都)
甲飛11期・大正14年生・19歳
◆三宅 重男 一飛曹(岡山)
甲飛11期
◆池田 芳一 一飛曹(和歌山)
丙飛10期・大正10年生・23歳
◆大久保 勲 一飛曹(茨城)
丙飛11期・大正12年生・21歳
◆田中 武夫 一飛曹(滋賀)
丙飛10期・大正11年生・22歳
◆原田 章雄 一飛曹(熊本)
丙飛17期・大正11年生・22歳
◆稗田 一幸 一飛曹(福岡)
丙飛13期・大正13年生・20歳
◆鈴木 辰蔵 一飛曹(東京)
乙飛17期・大正14年生・19歳
◆伊藤 正一 一飛曹(宮崎)
乙飛17期・大正12年生・21歳
◆清水 邦夫 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正14年生・19歳
◆叶 之人 二飛曹(北海道)
甲飛12期・昭和2年生・17歳
◆信太 廣蔵 二飛曹(秋田)
甲飛12期・大正14年生・19歳
◆川島 茂 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正15年生・18歳
◆竹中 友男 二飛曹(兵庫)
乙飛16期・昭和2年生・17歳
◆長 与走 二飛曹(福岡)
丙飛11期・大正12年生・21歳
◆小山 良知 二飛曹(長野)
乙飛18期・昭和3年生・16歳
◆北爪 円三 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正11年生・22歳
◆和田 時次 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正13年生・20歳
◆岡田 金三 二飛曹(広島)
丙飛15期・大正10年生・23歳
◆水畑 辰雄 二飛曹(兵庫)
丙飛15期・大正13年生・20歳
◆川崎 直 飛長(宮崎)
特乙1期・大正14年生・19歳
◆栗林忠道中将の壕です。
正式には兵団司令部壕、通称栗林壕と呼びます。
上陸戦が始まると、栗林中将はこの中で作戦の指揮を執りました。
2013年4月、安部晋三総理大臣が遺骨収容の現場視察に訪れた
折、この栗林壕にも入って説明を受けました。
私は今回は壕に入らず、入口で拝礼したのみでした。
(中を明るくするには発電機を持ってきて動かさねばなりません)
◆私は、疎開前に栗林中将を見たという元島民の方のお話を伺いました。
次のような証言でした。
私は自分の家の離れを栗林中将に貸しており、当初はそれが誰であるか
わからなかったが、毎日にように、部下と思われる将校が訪れては
「〇〇中尉であります!ただいま着任致しました!」
などと、着任挨拶があった。中将はそれを籐椅子に座って聞いており
ああ、相当な偉い人なんだなと思った。
栗林中将は優しそうな表情の親父さんだった。
上陸戦が始まる前に、島民は内地、あるいは父島などに疎開をさせられた。
いずれは、戦争が終わって帰ってこられると思っていた。
北硫黄島、および硫黄島は戦争が始まる以前は平和な
島だったのですが、帰還は実現せず現在に至ります。
硫黄島の海軍医務科壕です。
つまりは負傷兵のための病院です。
内部の壁面には菩薩様が掘り込まれており
お焼香の跡や、お供え物などがありました。
衛生隊や兵隊さんの遺留品も残されており
当時の凄惨な光景が想像できます。
まず、驚くのが壕の広さです。硫黄島の地盤は固く
壕といえば、腰を折って中腰で進めればまだ広いほうと言えます。
ところが、この海軍医務科壕は別格でした。
英霊に一礼をしてから内部へ入らせてもらうと
身長175センチの私でも立ったまま奥まで進むことができ
横幅も十分にあり、地面は平坦にならされていました。
現代の技術と機械を使って造られたトンネルと錯覚するほどですが
もちろん、戦争当時、ツルハシで掘ったものです。
この壕では次のような逸話があります。
◆米軍に包囲された守備隊の兵隊さんにはそれぞれ
自決用の手榴弾が配られました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という
当時の戦陣訓は最も有名です。
日本軍は捕虜となることを禁止しておりました。
※厳密に記すのであれば、少々、ニュアンスが違って
単純に禁止ではなく、捕虜になることは、最大の恥だ、といった概念です。
ただ、私がよくお話しする玉砕戦の生還者の方が
「日本軍は捕虜になることは禁止されていた」と何度も何度も
過去を思い出して仰っているので、ここでは禁止と記すことにします。
そんな風潮で、戦後、次のように公言した軍医中尉がいました。
「私は堂々白旗を掲げて、米軍に投降した」
彼は医者だから、生きるために治療をする。
しかし、せっかく生き延びた兵隊を、手榴弾自決で死なせることが
あまりにも忍びなく悲しかった。その旨を述べ、勇気を持って
白旗を掲げたと伝わっています。
投降して壕から出ようとしたとき
後ろから仲間に撃たれる可能性もあったでしょう。
汚名を覚悟で負傷兵を救った軍医さんのお話しです。
▲でかい!壕の前に自生する超巨大ポトスの葉です。
それから、
作家の笹幸恵先生の著書『女ひとり玉砕の島を行く』
の表紙写真はこの壕の前で撮影されたそうです。
航空自衛隊浜松広報館に零戦五二型(43-188号機)が展示されている。
千葉県南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」の
カタパルト跡があります。
「カタパルト」というのは打ち上げ発射台のことです。
ロケット特攻機「桜花」はその名の通り、パイロットが搭乗し、
打ち上げられた機体は、燃料尽きるまで飛び、敵艦に突っ込み、
二度と帰ってきません。
画面奥に向けて発射される造りで、完成間際で終戦を迎えた為
実際に使われることはありませんでしたが、本気でこのような
計画があったことがうかがい知れます。
発射台から射出された桜花は、ジェット推進により、200kmの
航続距離があり、房総半島沖の敵機動部隊に肉弾となって
突入、自爆します。
▲桜花の模型を合成し再現してみました。
戦時中は画面奥の木は伐採され、開けていたのでしょう。
見据える先は太平洋です。
当時を記憶する地元の神職の女性(77)にお話を聞くことができました。
終戦間際(8月)突然、大勢の人たちがやってきて工事が始まりました。
カタパルトの直下に神社があり、立ち退きを命じられたということです。
「神様に立ち退きを命じるなんて、もうこの戦争はダメだね」
と当時を回想されていました。
▲カタパルト直下にある神社は立ち退き、現在は小さな祠(ほこら)として
地元の方が綺麗に守っています。
カタパルト建設と並行して進められたのが壕を用いた格納庫の建設で、
掘削、発破作業とか危険な仕事は朝鮮労働者が従事しました。
無理な工事がたたり事故も多く、現場からむしろがかかったご遺体が
運び出されるのを何度か見てしまったとも仰っていました。
土地や財産は全て軍に接収され、土地の境界線に関しては
戦後の混乱もあり現在でも所有権が有耶無耶のままだそうです。
畑の真ん中に作られたカタパルトもそのままです。
▲コンクリートの土台のみ残っています。
ここにレールが敷設される予定でした。
▲少し離れた山中にレールも残っています。
▲横から撮影しました。画面中央、緑の土手の上にカタパルトが
敷設されています。
▲桜花一一型の模型です。ゼロ戦と同じスケールです。
靖国神社の遊就館の売店で購入できます。
「桜花」四三型とは
このカタパルトで運用される予定だった
「桜花」四三型、乙について記す。
同機は桜花の初期型である一一型(一式陸攻に吊り下げて
敵艦隊の近くまで接近し、発進させるタイプ。実際に使用)
の改良型で、重量は1.15トン。一一型のおよそ二倍。しかし爆薬は
三分の二しか積めず、800キロだった。主翼の面積を
広げてグライダー的要素を強くした。
機体は名古屋市の愛知航空機および九州、大分の第十二航空技術廠で
生産され、エンジンは「橘花」と同じ20型ターボジェットを採用した。
カタパルトは巡洋艦用「呉式二号」の5倍の長さがあって
ここ南房総のほか、比叡山にも設ける予定があった。
なお、横須賀の武山では発射テストに成功している。
第725海軍航空隊は、昭和20年7月に開隊された
桜花部隊である。搭乗員を浦戸、三保空の甲飛14期生で
編成し、5機を1グループとして長野県の野辺山農場にて
まずグライダー訓練を行い、その後、練習機で操縦技術を
養ったが、実戦に至る前に終戦を迎えた。
※桜花四三型の出典
『別冊「丸」 太平洋戦争証言シリーズ15 終戦への道程』446頁
「桜花」パイロット生き残りの証言
当時、桜花のパイロットで、出撃直前に終戦を迎えたため
生き残った鈴木英男さんのお話しはこちらに掲載しました。
硫黄島に残るB-29のプロペラ。アメリカ軍は
ステンシルくらいで景色は望めない。むき出しの配線や機器類。
私たちは吊り床のような輸送機の席に横並びで座っている。
フラップ作動による油圧音が鳴ると身体 が浮き上がる感覚を覚えた。
高度を下げているのだろう。
吹雪の入間基地を離陸してニ時間四十分、衝撃も感じないままに
輸送機は着陸したようだった。機体が停止するとリヤゲートが縦に開き
差し込 んだ光に目が眩む。
二月の硫黄島は内地の初夏を思わせる風と太陽が実に心地よく
蒼穹に掲げられた旭日旗が映える。輸送機から降りた私たちはエプロンを歩く。
陽炎立ち上る滑走路からの照り返しが眩しく、肌を差す。
半袖の制服を着た航空、海上各自衛隊員の出迎えを受けた。
飛行場からマイクロバスに乗り換えて島内道路を行くと遠くに摺鉢山を 望む。
当初、もっと殺風景なところだと想像していたが、その違いに驚いた。
火山島で半砂漠といえども、背は低いが木々が生い茂り
緑の美しい島という印象だった。
それにしても決して穏やかな雰囲気は無く、隆起し荒々しく切り立った
崖の先は、深々とした群青の海原が広がり、それは生まれて初めて見る
海の色だった。遮るものがない絶海の孤島は見渡す限りの水平線で
遥かに北硫黄島、南硫黄島を望む。
その日も朝から青い空だった。
「兵隊さん、長い間お疲れ様でした さあ、ふるさとへ帰りましょう」
私はご遺骨を抱いてエプロンを歩く。陽炎立ち上る硫黄島基地滑走路では
在島隊員による「奉げ銃」そして音楽隊の「 海行かば 」で 内地へ帰還する英霊を見送る
儀式が行われた後、輸送機に搭乗、百十七御柱の英霊と共に故郷へ向けて硫黄島を後にした。
ご遺骨を抱いたまま数時間、やがて輸送機は曇天真冬の入間基地に着陸した。
ここで輸送機から大型バスに乗り換え千鳥ヶ淵墓苑へ向かう。
滑走路から隊門までの道を千二百人の自衛隊員が直立不動、敬礼して並び英霊の
帰還を迎えた。雲の晴れ間から富士山が見える。大型バスが交差点を曲がると
横断歩道の信号待ちをしている若者の姿に 今日の日本を垣間見た。
最前線の自衛隊基地の緊迫感と 英霊の悲しみ。ここは本当に
同じ日本なのだろうか。
◆敷島隊の五機を整備
昭和十九年 十月十八日 フィリピン、ルソン島クラーク飛行場
暁闇の中、中野はたったひとり、五機並んだ零式戦闘機の暖機運転に
取り掛かっていた。彼は零戦のプロペラに手をかけるとゆっくりと回してゆく。
十数回も回せば次第に滑らかになりエナーシャ(スターター)を鳴らして
操縦席に飛び乗ると 右足にエナー車の引き手を繋いだまま、さらに回し
続けながら操縦桿を引いた。
「コンタクト!」
始動の合図を呼称しスイッチを入れるとエンジンが轟きプロペラが回転した。
これを微速にして油圧の安定を確認すると、隣の飛行機に移る。
次は谷一飛曹の機体である。
谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹はサイパンで初めて顔を合わせて以来、
寝起きを共にした搭乗員だ。下級の整備兵だった中野にも親しく接してくれる
優しい人だった。彼の操縦する零戦の後席に乗せてもらった思い出もある。
ここフィリピン戦線でも愛機の整備は中野が担っていた。
中野が初めて空襲を経験したのはサイパンに派遣された折でその頃は
恐怖のあまり蛸壺の中で念仏を唱えていたが、それも数を重ねると随分
大胆不敵となった。パラオのペリリュー、フィリピンと転戦し、この頃は
空襲警報が鳴ると「ああ、また敵さんが来たか」といった具合で慣れたもの。
「まわせー!」
空襲警報が発令されるとエンジンを急ぎ回し、搭乗員へ引き渡すと
蛸壺に飛び込んだ。 「操縦員から地上を見たとき、動くものが目立って特に
狙われる 空襲に遭ったら無闇に逃げてはダメだ。その場で寝てろ。じっとして
いるんだ」 谷の話を思い起こせば、常に冷静に努めることができた。
搭乗員達は空中待避ならびに邀撃態勢を取るが、敵の奇襲となれば
飛び上がる 順番など入り乱れて我先に離陸して、殊に経験の浅い搭乗員は
慌てて舞い 上がったところを敵機に撃たれた。一方、老練の兵は滑走路端まで
移動してから離陸しジャングルをかすめてしばらく低空で飛んだ後に
勢いを付けて敵機に襲い掛かる。 度重なる空襲でひどくやられた。
今ここクラークに健在なのは虎の子の零戦二十一型、五機であった。
「コンタクト!」
中野が五機目のエンジンが回すと、東の空が白み始めていた。
レイテの決戦が迫っている。
◆突然の帰国命令、谷との別れ
「中野は明朝内地から来る一式陸攻に乗って帰国せよ」
突然の異動命令だった。一切の口外無用、 整備兵として極めて重要な任務が
内地で待っているとだけ告げられた。
「明朝、内地から陸攻が迎えに来る。給油を済ませたらすぐに離陸するから
今夜中に帰国の準備をしておくように」
突然の別れにあわただしく荷物をまとめていると 谷を含む四人がやってきて
餞別とホマレ(煙草)を差し出した。 命令といえども、ここで戦友と共に最後まで
戦うと、潔く腹をくくったものだが、 まさか死に損ない、一人内地へ引き揚げねば
ならぬ後ろめたさといったら、 悔しさが込み上げた。 翌19日の朝、内地へ戻る
中野を皆が笑顔で見送った。
「谷さん、さようなら。ご武運を」
陸攻は飛び立った。
日を同じくして、201航空隊本部へ交互するように現れた将官こそ
大西瀧治郎海軍中将であり、この夜、後年の歴史に残る異例の航空作戦が
立案されることとなる。
◆三菱で試験機の開発に携わる
内地へ戻った中野は明治航空隊の監督官に任命され
日々、三菱から納入される航空機の試験に立ち会った。
「谷さんは今頃レイテで敵を撃ち落としているだろうか」
11月末にはペリリュー島守備隊が玉砕し、翌3月末には硫黄島が陥落した。
硫黄島を占領した米軍は瞬く間に飛行場を整備し、B-29が護衛のP-51と共に
飛来し本土の無差別爆撃を繰り返すようになった。 日本の戦局は悪化の一途を
辿っていたが それでも中野は三菱から次々納入される機体の試験立ち会う
とともに 新型機の開発に携わっていた。
作業に追われ開戦から四度目の夏が訪れた。
◆秋水の整備と飛行試験に立ち会う
昭和二十年七月七日
海軍横須賀航空隊追浜飛行場
初夏の青い空が滑走路の果てるまで広がっていた。
中野は新型機を木製の台坐とともに格納庫から押し出し滑走路へと移動させた。
褐色の機体が初めて日の光を浴びた瞬間だった。
ロケット戦闘機「秋水」の初飛行試験である。
秋水は三菱が独自に開発した日本史上初のロケット戦闘機だった。
実戦配備が成されれば、離陸後3分半で高度1万メートルに達し
B-29に 一撃を加え、燃料の尽きたところで重滑空機となって帰投コースに入る。
当初、14時に予定されていた発進はエンジンがかからず再整備のため
遅れていた。 テストパイロットは海軍大尉犬塚豊彦で 滑空機「秋草」での
滑空試験を重ね、それが概ね成功したので いよいよこの日、ロケット
エンジンを搭載しての初飛行となった。 準備された飛行服は
超高高度飛行を考慮し 冬用飛行服の内側や襟に銀狐の毛皮を縫いつけた
特別なもので 犬塚はそれを身にまとったまま整備完了をじっと待っていた。
初夏の地上での暑さは想像を絶するものであったが、犬塚から整備の遅れを
責める言葉は一切なかった。周りの者は飛行の翌日延期を進言したが、
かれは これを断り整備完了を待ち続けた。 16時、整備が完了し、
犬塚が全面褐色の秋水戦闘機に乗り込むと 発火を防ぐための放水が
行われ、エンジン始動の準備があわただしく行われた。
持田勇吉設計課長が彼の誠意ある対応に感謝し 握手を求めると、
かれは少し微笑みながらその手を握った。
「大尉殿、少しでもおかしく感じたら、まっすぐ海へ向かって不時着水して
下さい。沖に待機している船の艇指揮は七十期と七十一期だから心配は
要りません!この機が沈んでも次が用意してありますから大丈夫です」
同期の絆は兄弟以上に強い。どんなに無理をしてでも救助してくれるはずだ。
◆中野の手から離れ飛び立つ秋水
エンジンが始動すると虎の尾と呼ばれる縞模様の排気炎が現れ、
陽炎となって 背景を歪めてゆく。
16時55分、機体は滑走を開始した。廣瀬大尉が左翼を、
中野が右翼を支えた、その手からは振動が伝わってくる。
10メートルほど 走ったところで機体は中野の手から離れて行った。
機体はしばらく滑走路を這ったが、220メートルで遂に地面を離れ
車輪が切り離されると、機体は澄み渡った青い空へ吸い込まれていった。
その急上昇の勢いたるや、天地をひっくり返して空へ落下するの勢いであった。
地上で見守っていた者達から一斉に歓声が上がった。
試験飛行成功かと思われた瞬間、高度350メートル程のところで
パンパンという異音を発して黒煙を排出するとともにエンジンが停止して
しまった。余力で、なおも150メートル上昇を続けた後、犬塚はエンジンの
再始動を試みたが失敗に終わった。 「少しでもおかしく感じたら、まっすぐ
不時着水して下さい」 離陸前の言葉が思い出されたが、犬塚は海へ
向かわず操縦桿を傾け滑走路への 着陸を試みた。虎の子の機体を
無傷で持ち帰ろうと考えたのである。 燃料の投棄が開始されたが、
これがなかなか進まず高度は徐々に 下がっていった。
犬塚は、爆発を懸念し大勢の見学者が居る滑走路への 着陸を避け、
再度旋回、隣接した埋立地への不時着を目指したが、倉庫を 飛び越そうと
機首を上げた瞬間失速し倉庫に接触、鷹取川の水面を反跳
飛行場西端で大破して止まった。
◆犬塚大尉の死
意識のあった犬塚は救助され、ただちに防空壕内の病室へ運ばれたが
頭蓋低骨折の為、その深夜に息を引き取った。 試験飛行の失敗原因は
本来満載すべき燃料を過小積載した為 急速上昇した際にタンク内の燃料が
傾きエンジンへ供給されず停止したものと 結論付けられた。
◆身を隠した戦後
秋水の開発は事故後も続けられたが、試験飛行が行われたのは
これ一度きりであった。この他に陸軍仕様のキ-200が千葉県柏飛行場で
試験飛行に備えていたが、飛び立つ機会を待たず終戦となり
残っていた試験機は進駐軍の鹵獲を恐れて直ちに解体された。
「中野整曹、貴様は秋水に関わったからじきに進駐軍がやってきて
逮捕される恐れがある。行方不明扱いにしておくから今すぐ逃げろ」
中野は先ず部下を故郷へ帰し、自らも行方を暗ませた。
それから空白の50年間を過ごすことになる。
◆敷島隊五人との再会
戦友会が中野の身元を辿って連絡してきたのは平成となってからのこと。
いま空白の50年間を少しずつではあるが取り戻しつつある。
中野、姓を改め河辺は戦友の誘いで戦地を巡る慰霊の旅をはじめた。
平成17年にフィリピンを訪ねた折である。ダニエル・H・ディソン氏の尽力で
マバラカット飛行場の脇に建てられた折「敷島隊五人の勇士」の碑の
除幕式に立ち会うこととなった。その名に見覚えがあった。
「関行男大尉、中野磐雄一飛曹、谷暢夫(のんぷ)一飛曹、 永峰肇飛長、
大黒繁男上飛、初めてカミカゼが飛び立った飛行場」
「・・・この零戦五機はわしが整備しとったやつじゃ」
このとき河辺は初めてその事実を知った。あの零戦が爆弾を抱えて
母艦に体当たりする運命を秘めていたとは当時、思いもしなかった。
10月18日に河辺が整備した機体は直後、マバラカットに派遣された。 19日夜、
大西が立案したとされる特攻作戦は、20日に関大尉を 指揮官とする
神風特別攻撃隊「敷島隊」として結成され、爆装し マバラカットを離陸した。
索敵のミスから会敵せず、またトラブルで 出撃帰還を繰り返したが、
25日に至っては敷島隊の五機、全員が母艦に 突入、散華した。
谷一飛曹はこの敷島隊三番機であった。
以下は谷の遺書である。
「何一つ親孝行できなかった私も最初で最後の親孝行をします。
ご両親の長命を切に祈ります」
谷 暢夫 享年20。
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ここまで話をしてくれたのは愛知県に在住の
河辺勇さん93歳。(旧姓中野)秋水離陸の際、その右翼を支え見送った
中野上整曹、その人である。今でも谷一飛曹や犬塚大尉など、
パイロットの顔が 忘れられないと言う。私は敷島隊について続けて尋ねた。
「戦闘機として整備したのですか」
「内地へ帰ってから映画館でニュースを見たんじゃが、間違いなく
あのゼロ戦はわしが整備しとった。関大尉や谷さんがレイテに出撃した
ということだけは知っとったんじゃが、まさか爆弾を抱えとることまでは・・・
それは戦後知ったんじゃ」
河辺氏は玄関まで見送ってくれた。一番よく目立つところに敷島隊の五人と
三菱重工により復元された秋水の写真がかけてある。
「こう、零戦で谷さんの後ろに座っとってな・・・わたしは空を見とった」
私は丁重に礼を述べてその場を辞した。 玄関を出た住宅街の路地では
子供たちが元気に駆け回っている。 見上げると関大尉や谷さん、
犬塚大尉が飛んでいたあの日と同じ どこまでも続く青い夏の空だった。
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「横浜根岸外国人墓地」を訪れた。
住宅街を見下ろす丘の上にあり、閑散としている。
もともとは横浜外国人墓地が手狭になったの折、ここ根岸に新設されたもので
関東大震災で犠牲となった外国人を埋葬したほか、船員など異国の地で
亡くなった名前のわからない者も多い。墓石は多様である。
ここに横浜の裏の歴史がある。
この慰霊碑は片翼の天使を象ったもので、飛べなかった天使
すなわち生きることを許されなかった嬰児を表現している。
横浜は1945年の敗戦以降、アメリカ軍の進駐によって
面積の大部分を接収され、混迷の時代が始まった。
アメリカ軍兵士による日本人女性に対する性的犯罪が横行し
望まれない混血児が多く誕生した。
こうした嬰児は20万人ともそれ以上とも伝えられているが
戦後混迷も相まって、現在でもその事実について
自治体は明確な言及を避けられている。
慰霊碑や周辺に明記は無い。
しかし集められた証言によると、ここに埋葬された嬰児の数は
800から900と言われ、横浜外国人墓地に夜中遺棄される事も日常であった。
さらに朝鮮戦争の特需によって活気沸いた横浜の街であったがこれは裏の姿である。
風紀は乱れ、生活の術を身を売ることでしか得ることのできなかった日本人女性が
娼婦となって現れ、ベトナム戦争の終結まで続いた。
墓地を歩くと時折、風で舞った落ち葉の擦れる音が耳に残る程度で
あとは自分の足音だけが響く。駅前の喧騒が嘘のようだった。
市営であるため、墓守によって掃除が行き届いているものの
横浜外国人墓地とは様相がまったく異なり、訪れる者は皆無で
その存在は地元でも薄れたものになっている。
名も無き天使たちの安息を祈る。