2021年6月 4日 (金)

パラオ・ロックアイライランド内の零戦五二型甲

パラオ・ロックアイライランド内の零戦五二型甲

パラオ・ロックアイライランド内の零戦五二型甲

せめてイラストで復元してもう一度空を飛ばしてあげたい。

2018年11月16日 (金)

地図の再編集を実施

123

23日に水戸で行われるペリリュー島戦没者慰霊祭に間に合うよう、
パラオの地図を急ぎ再編集しました。
この地図データは映画『追憶』でも使われたものです。
作成にあたって特筆すべき点は、74年前、ペリリュー島掃討作戦を
実施した米軍の観測機から撮影した航空写真がとても役にたった事です。
我が国は大変ハイテクな国と戦争したものだと、感じます。
 
パラオの詳しい地図は日本では売ってないので、そうした事柄を含め
役に立てば何よりです。

2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年2月 7日 (日)

昭和14年 横浜-パラオ間に実在した空の定期便

1

  
昭和14年、パラオはサイパンとともに

最も早く内地からの定期航路を結びました。
運航スケジュールはこちらの記事で書いた通りです。
  
昭和14年といえば77年も前のことです。
旅客船と比べれば運賃は割高でしたけれど、一般のお客さんも
この飛行艇に普通に乗れたのです。
どれだけ壮大な事を実施していたか、
ビジュアル化しました。
 
この飛行艇は
海軍では九七式飛行艇ですが、民間での名称は
川西式四初飛行艇と言いました。運用したのは大日本航空株式会社です。
カラーリングはジュラルミン剥き出しの銀色で
「綾波」号など、パーソナルネームが存在しました。
開戦とともに、飛行艇は海軍に事実上徴用され、運命を共にしますが

戦争が始まるまでは南洋の楽園と内地を結ぶ夢の定期便だったのです。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

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2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月 9日 (土)

プルメリア(エリライ)

プルメリア

プルメリア

プルメリア

プルメリア

パラオのプルメリアは美しい。プルメリアは英名であり、
パラオ語では「エリライ」と称する。
 
木によって形や色が違う。上の写真2枚はアンガウル島で撮影した
エリライで、近くにある木だが形がかなり異なる。次の二枚は
ペリリュー島の小学校近くで撮影した。
 
プルメリア(エイライ)はキョウチクトウ科に属する植物で高さ5メートルほどの
木に咲く。木の高いところは届かないが、枝下の花なら充分観察できる。
パラオの花は白から黄色が多く、ピンクの割合が少々。
(そういえばグアム島ではピンクが多かった印象を受ける)
ただし乳汁は有毒なので注意が必要。
 
気に入った花があれば、立ち止まって観察してはどうだろうか。
 

プルメリア

 

2015年5月 2日 (土)

パラオのジュゴンの伝説

ジュゴン

 
パラオに生息するジュゴン 

パラオはミクロネシア唯一のジュゴン(人魚)の生息地で
その数は200頭前後と推測されている。
 
パラオ全域の大堡礁の礁湖(ラグーン)内深所に生息し夜間、礁草の浅所へ
餌を食べにやってくる。 餌は海草のアジモ、アマモ類で、これを一日に
数十キログラムを食べなければならない。
 
ジュゴンは沖縄以南、東南アジア、オーストラリア沿岸、パラオに分布し
体長3メートル、体重400キロ、非常におとなしい性格で臆病なため
海上で遭遇できるケースは滅多になく ほとんどの場合、航空機より
目撃されている。目撃地点はマラカル港周辺、バベルダオブ島の
西岸ガラスマオが 多く、そのほかマラカル港外東やアルミス水道東、
カイシャル周辺でも 目撃例がある。
 
絶滅が危惧される存在に
飛行機による発見頭数は 1978年に34頭、79年に15頭、83年に17頭、
84年に58頭 91年に26頭と、減少傾向にあり絶滅が危惧されている。
※倉田洋二博士による調査
 
パラオの法律では捕獲は禁止である。 しかし古くからの伝統を受け継いで
いる部落では現在でも食用に捕獲している。 数年前、バベルダオブで
ジュゴンが捕えられたとの報告を受け 調査チームが現場に急行すると、
海岸には骨だけとなった ジュゴンが残されていた例もある。
 
そのほか神聖視し食用を禁じる部落も存在したり、神に供えてから処理
しないと災いが おこるとされる部落など、多様である。
 
捕獲には呼吸の為、浮上してきたところを 狙うか、餌場に網をかけて
待つ方法があるが 滅多に捕獲できない。非常に美味である。
 
人魚の悲しい伝説
神話にも登場するジュゴンに対するパラオ人の関心は極めて深くジュゴンの
第一頸椎(オレウル)はアンガウル・カイシャル を除く男子の酋長のみの着用が
許された神聖なアクセサリーである。 このようにパラオではジュゴンに多くの
伝説(人魚の悲しい伝説が有名)神話、タブーなどが存在し部落によって違いは
あれど、いずれも特別な存在として崇められている。
 

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

2015年4月28日 (火)

パラオでジンベエザメを見られる確率

パラオでジンベエザメを見たい!というリクエストをするダイバーさんが
いるので、書いておくことにした。ジンベエザメ所望で旅行を
計画されている人の参考になれば幸いです。
 

ジンベエザメとパラオ

 
ジンベエザメはパラオも回遊しているが
結論からいうと、かなり難しい。自他ともに認めるサメマニアで
パラオも経験豊富な現地のダイビングガイドに尋ねたところ
「2000本近く潜って一度見られるくらいの確率じゃないかな?」
とのこと。
 
しかしジンベエザメがパラオを回遊していることは事実のようで
他のショップで同じことを尋ねたところ、運よく何度も目撃している
インストラクターが居た。それでも2、3年の滞在中での
話だったけれど。
 
「ジンベエザメと泳ぎたいならモルディブとか、オーストラリアへ行った方が
いいよ!パラオは豊富な種類の魚を楽しむところだから」
 
ということでした。もしジンベエと遭遇できたなら
かなりの幸運といえよう。
 
水族館のジンベエザメはいつでも見れるが、水槽の中だし窮屈そうだ。
もちろん私もパラオでジンベエザメを見たことはない。
一度、一緒に泳いでみたい。
 

2015年4月19日 (日)

ジェリーフィッシュレイクの危機

ジェリーフィッシュレイク

ジェリーフィッシュレイク

 
ジェリーフィッシュレイクはパラオの
世界遺産ロックアイランドのマカルカル島に存在する
汽水湖で
その極めて限られた自然条件から、発生した二種類のクラゲが
棲息している。ゴールデン・マスティギアスと、オーレリアムーン
ジェリーフィッシュであるが、いずれの
のクラゲは刺す力を持っていない。
 

ジェリーフィッシュレイク


深さ30メートルの湖のおよそ15メートル以下は猛毒が湧き出ているが
(無酸素層における硫化水素)水面を泳ぐぶんには害はない。湖は
地下三か所のトンネルで海と繋がり、塩分濃度を保っている。この猛毒域に
存在するトンネルのため、古代より生物が海と湖をと一切行き来すること
なく現在に至る。
クラゲは太陽を求めて湖内を回遊するので天候によって
群れの位置が異なる。
 
ジェリーフィッシュレイクと同様の条件でクラゲの生息する汽水湖が
ロックアイランド内に2ヶ所存在するが自然保護の名目から、観光客が
訪れることが可能なのはここのみである。
  

ジェリーフィッシュレイク

▲水面に浮かぶクラゲの群れが確認できる。画面上中央はシュノーケリングで
 観察を楽しむ観光客

 
ジェリーシッシュレイクの危機
ジェリーフィッシュレイクは
1982年にナショナルグラフィックという雑誌で紹介されて以来有名になり
1985年から一般的な観光地となった。
 
ジャリーフィッシュレイクを訪れるには
専用のパーミッド(許可証)が必要となる。
10年前は無料であったが2015年現在、多くの観光客が殺到している
ことから、100ドルを支払う必要がある。
ツアーに参加申し込みをすればツアー会社が用意してくれる。
 
特に近年は中国、韓国からの多くの観光客が訪れるようになり
湖の水質悪化が懸念されている。私がみたところ
ジャリーフィッシュへ向かう検問所前の桟橋には

桟橋が足りないくらいの観光客が、湖への順番待ちで
何十人~百人くらい並んでいる。その光景は

ゾッとする。数年前は多くても10数名程度であった。
 
クラゲは非常にもろいのでフィンで触れるだけでも死んでしまう。
これにパラオ側は危機感を募らせて値上げに踏み切ったのだろうが
観光客は増える一方であった。世界でここだけなのだから金を払っても
見たいという欲求であろう。しかし制限しないと貴重な生態系が

失われてしまう。対策は急務である。
 

ジェリーフィッシュレイク

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

パラオの伝説巨大シャコ貝

イノキアイランドとガルメアウス島との間にある
シュノーケリングポイントをクラムシティと称する。
 
ここには我々人間の時代を遥か凌駕する推定年齢100~200歳とも
いわれる直系1~2メートルの
巨大シャコ貝が棲んでおり、その貝が
閉じる迫力ある様子などをシュノーケリングで
観察することができる。
 

Koed0027

  
シャコガイはいくつか種類があるが、ダイビングやシュノーケリング中に
何度も目にとまる、水底で青い光を放つシャコ貝の姿は美しく

神秘的である。ストーリーボードにも描かれパラオでは最も身近な存在
ともいえる。神話に登場するほか、刺身で食しても美味である。
現地語でも同様に「サシミ」と呼ぶ。
  
パラオ神話ではパラオ諸島は巨大シャコ貝から誕生したウアブ
がアンガウルで育ち、子供の姿のままみるみるうちに巨大化し
それを恐れた島民が焼き殺してしまい、前進に炎を
ウアブはアンガウル以北に
倒れ込んだ。そのとき飛び散った体のあちこちがペリリューから
ロックアイランドの数々の島となり、上半身と頭は
バベルダオブ(パラオ本島)に姿を変えたと伝わっている。
 
ここに棲むあまりに巨大化し動けなくなったシャコ貝ははるか古代より
パラオの海を見守ってきたことであろう。ここクラムシティではそんな歴史
の一端に感じることができる。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 3日 (火)

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

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▲パラオ諸島

ペリリュー島地図01(フリー素材)

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Photo_8

▲ペリリュー島
 

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D

Photo_2


Photo_8

▲アンガウル島
 
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利用可能な例
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2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年1月30日 (金)

ロックアイランド地図

ロックアイランド地図 
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2014年7月 7日 (月)

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ01

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ02

パラオ ミルキーウェイ03

パラオ ミルキーウェイ04

パラオ ミルキーウェイ05




パラオ ミルキーウェイ06

パラオ ミルキーウェイ07

パラオ ミルキーウェイ08

パラオ ミルキーウェイ09

パラオ ミルキーウェイ10

ミルキーウェイ・パラオ


パラオ・ミルキーウェイは、ロックアイランドの岩盤から溶けだした

古代からの泥がこの一帯に流れ着き白くなった水域です。
 
真っ白な泥はきめ細かく、美容によいとされ
高価な化粧品などにも使われています。

 
ここへ来れば泥パックがタダで塗り放題です。
 
各種アクティビティ、オプショナルツアーの定番です。
申し込みはそちらから。白泥の持ち帰りはできません。
塗って乾かしたら、船上からダイブ。綺麗に落としてさっぱりします。
ダイビングや、カヤンゲル、ロックアイランドツアーで見る海も綺麗ですが
ここミルキーウェイは、また違った色、パラオの楽しみ方で、シュノーケリング
ツアーと合わせて楽しみます。
 
泳げなくてもライフジャケットがあるので大丈夫です。
ガイドが水底へ潜って泥をかき集めてきてくれます。
※お持ち帰りはできません 

この後ジェリーフィッシュレイクへ行く場合は
白泥が少しでも付着しているとゲートから先へ進めませんので注意しましょう。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

ロックアイランド パラオの世界遺産は無限のブルーラグーン

ロックアイランド・パラオの世界遺産

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

パラオの海は世界一美しいと称され
その中でも世界遺産のロックアイランドは
言葉では表せない魅力があります。
 
海の色は一様ではありません。
マリンブルーとはいうけれど、ディープブルー、
エメラルド、グラデーションとなって彩られた
数えきれない無限のブルーがあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

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マッシュルーム型の島は海水の浸食を受け、
いつかは崩れ落ちる運命にあります。

 

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戦跡調査ではじめてこのパラオへやってきたときは
足さえ一度も水に浸かることもしませんでした。
しかし今ではすっかりこの海に魅了されてしまいました。 

◆◆

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2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

Imgp2968

 
世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

Imgp7671

Imgp3018

Imgp7670 
飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

Imgp2932_2 
画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

Imgp2937

ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

Imgp7663_2

パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

Imgp7657

 
画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

Imgp3011

KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

Imgp3006

コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

Imgp7637

マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

Imgp3003

アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

Imgp3005

二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

Imgp2997

アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

Imgp2977

パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

Imgp7635

これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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Imgp2987

 
水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

Imgp2961

Imgp2960

飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

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2013年7月22日 (月)

アントニオ猪木の島「イノキアイランド」

パラオの美しい海にイノキアイランドという島が浮かんでいる。
その名の通り、アントニオ猪木氏がオーナーの島で、正式名称である。

▼イノキアイランド 

イノキアイランド(ロックアイランド)
 
◆アントニオ猪木は、パラオがまだ無名だった頃より

熱心に足を運んでおり、それが縁となってパラオ政府より
友好の証として、この島をプレゼントされた。
 
イノキアイランドは美しいビーチのある島だ。
正式には猪木氏は島の名誉オーナーという形になっていて
島は猪木氏以外の誰でも使うことができる。
そのため、多くのダイバー船が係留され、それぞれがお昼休みを
のんびり過ごしている。
 

猪木氏本人も、頻繁に、お忍びでパラオにやって来てはこの島を訪れており
かくいう私も、パラオでアントニオ猪木と遭遇したことがある。
そのときはプロレス団体の後輩を引き連れてコロールの街で飲んでいた。
 
▼対岸に浮かぶ右側の島がイノキアイランド 
  
イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(パラオ)

Photo

▲イノキアイランドの位置

2

▲拡大図


◆2013年(平成25年)7月の参議院選挙で
アントニオ猪木が日本維新の会、比例区で立候補し
見事トップ当選した。
 
パラオで島をプレゼントされた話もそうだが、
猪木氏は外交に素晴らしく長けているのではないかと思う。
何せ、あの北朝鮮でも国賓扱いだ。
アントニオ猪木氏には、今後議員として拉致問題の解決に期待したい。
 


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2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

03

 
さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

04

 
到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

05

07

 

機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

08_2

 
私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2011年9月 6日 (火)

おじさん島とセブンティアイランド

IMGP5578

航行は続きます。見えてきたのは「おじさん島」です。

おじさんが仰向けで寝ている姿にそっくりなので、おじさん島です。

本当ですってば。

IMGP5591

こちらはセブンティアイランドです。

パラオがテレビや雑誌、旅行会社のパンフレットなどで紹介される際など、

よく、このセブンティアイランドの写真が使われます。しかしここは

タイマイの産卵場所でもあり、航行を含め、島周辺海域への立ち入りは禁止になっています。

遊覧飛行ツアーで上空から見ることはできます。

2011年8月28日 (日)

ベントー

IMGP5559

お昼ちょうどに出たので、お腹が空いてきました。

ペリリューまではまだまだ時間がかかります。でも心配いりません。ダイジョーブ(パラオ語)です。

 

定期船に乗るときは弁当が要らないのです。(こんなことを本気で書いたら怒られそうですが)

なぜなら、乗り合わせた他のオキャクサン(パラオ語)がいろいろとくれるのです。

今日もドリンクやビールに始まり、菓子、ベントー(パラオ語)

シャコのサシミ(パラオ語)を貰ってしまいました。ありがとうございます。

丁寧にお礼を述べていただきました。特にサシミは実に美味しゅうございました。

 

※今回はパラオ語を四つ紹介しました。「ベントー」はそのまま、弁当のことです。

「サシミ」は刺身、「オキャクサン」はお客さん、「ダイショーブ」は大丈夫という意味です。

 

私のような、なりの外国人は、定期船の中でも目立ちます。

船は退屈なので、乗客が必ず話しかけてきます。

ベントーのお礼に、日本の話など、すると、とても喜ばれます。

パラワンは日本の話に興味津々なのです。

 

ここで、くだらないバカ話をしても大いに結構なのですが、自身が日本人であることを

忘れてはなりません。この船の中で、私は日本代表なのです。

日本人らしく相手を尊重して礼儀正しく振舞うよう心がけています。

 

ただ、気をつけてもらいたいのは、よくハッパ(マリファナ)をすすめてくる輩がいることです。

その場合はもちろん毅然とした態度で断りましょう。