海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)
◆二式大艇の陸揚げ整備基地
アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。
水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。
九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。
スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。
近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。
現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く
感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。
ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。
※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが
同じようなスロープがあります。
◆アラカベサン水上基地概要
アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。
この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。
◆アラカベサン水上基地の歴史
昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。
基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の指揮下におかれた。
◆海軍乙事件の発生
昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)
3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。
同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。
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