朝日村のパイナップル工場
旧朝日村鳳梨工場跡
大正15年、南洋庁が初めてこの一帯を訪れ実地調査を行った際、
辺りはガルミスカン川に沿う湿地帯と密林に覆われ、未だ人跡未踏の地であった。
昭和7年に福島県出身の宍戸佐次郎がはじめて鳳梨栽培に着手。
その後、南洋殖産公司社長の「羽生兵四郎」が缶詰事業に着眼し
昭和12年にパイナップル加工工場を設立。躍進を果たした。
設立後2、3年の全盛期は常時従業員数60名で稼働する。
昭和13年8月
北海道旭川市出身の開拓民が多くを占めたこの集落を
旭を転じて「朝日の昇る如く」その意味も含めて「朝日村」と名付けられた。
朝日村の開拓以来、バベルダオブ島には
清水村、瑞穂村、大和村と呼ばれる入植地が相次いで誕生した。
この間、開拓民は大変な努力と苦労を経て村の発展に尽力。
昭和13年から昭和17年にかけて朝日神社建立、医療機関完備、次いで
尋常小学校、郵便局、駐在所などが設置され
113世帯、705人が暮らしていた。(昭和15年調査)
※鳳梨(ほうり)パイナップルの当時の名称
▲パイナップル工場の機械を作動し、缶詰を圧着するために用いたボイラー
朝日村のパイナップルについて
朝日村産のパイナップルは大きく
甘く美味であったという。品種はスムースカイエンで
沖縄出身の16、17歳くらいの女工が製造に従事した。
殊に芽の部分を螺旋状に切り込みを入れ取り除く作業は
機械には不可能で、手間を要した。パイナップルは
輪切りにされ、五枚入り一個の缶で出荷された。
このほか規格外や形が崩れたものをクズパインと称して安価で出荷。
コロールでも手軽に食べることができた。
昭和18年頃になると鉄資源である缶が不足し
パイナップルはジュースに生成したほか、発酵させてパイン酒を作った。
パイナップル工場の道路を挟んで反対側に彗星の残骸がある。
この機体は
昭和19年3月21日に付近へ不時着した
第一二一海軍航空隊所属の二式艦偵(彗星)で
雉一号機と推定される。機体は大破したが
搭乗員は無事であった。(篠原現地調べ)
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