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2014年6月 1日 (日)

グアムはなぜ独立できなかったのか

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◆幻の「チャモロ共和国」

グアムに住んでいる人たちは何人と呼べばいいのか?
え、いま何て言った?グアム人? 答えは一応、アメリカ人。
 
だが、重要なことを付け加えておく。 グアムの先住民族はチャモロ人であり、
グアム島はチャモロの島である。 そしてチャモロを含むグアム市民は
アメリカ合衆国の市民権を与えられているものの米国大統領選挙には
投票できない。差別である。
 
戦後、太平洋の島々は相次いで米国からの独立を果たした。
しかしグアムは米国領のままである。 なぜ「チャモロ共和国」として
独立を果たせなかったのか。

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▲グアム島アンダーセン空軍基地の敷地を隔てるフェンス。リディアン岬方面へ走る。

 
◆米軍基地の島、グアム島
グアムの観光地を外れ、郊外を車で走っていると
その広大な基地の割合に驚く。走っても走っても空軍基地とを隔てる
鉄条網が遥かに続く。 グアム島の面積は淡路島と同じ程と考えればよいが、
このうち米軍基地が占める割合は 現在およそ33%。
これが沖縄から海兵隊が移転すると47%に増大する。
島の半分は基地になると考えて よいだろう。
 
なお沖縄は現在およそ20%弱である。沖縄のグアム海兵隊移転は、
結果的に チャモロ人たちに負担を押し付ける形となるがグアムは
建前上、米国の一部なのでそういった議論は日本では出てこないのが残念だ。
 

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▲グアムの市街地を南北に貫く道路「マリン・ドライブ」片側3車線の巨大な道路は
ベトナム戦争時、島北部にある空軍基地へ大型機を輸送するため用いられた。
 

◆沖縄は日本国へ帰属したが
沖縄は先の大戦を経て、一旦米国に占領され1972年、主権を回復、
つまり 日本への帰属が決定した。 元来、琉球民族は大和民族とは異なるし
かれらを尊重するのであれば 日本でもアメリカでもない、
琉球が独立して独自の文化と平和を築いていくこと、 それがベストだ。理想だ。
一番良いに決まっている。
 
しかし、沖縄という島は昔も今も軍事上の要衝であり、
最も緊迫した海域に位置する。 どこか大国に属していなければたちどころに
吸収されてしまうだろう。 残念ながら軍備放棄で成し得る独立ならびに
平和など、歴史上ありえない。
 
小さな島の民がどのように生き残っていくか考えなければならない。
沖縄の人たちには申し訳ないが、基地反対の主張が堂々できるのは
日本国政府の後ろ盾あってこそ、もし琉球が独立国であれば、
米国や中国、朝鮮半島等、各国との交渉力は無に等しく
主義主張は簡単に握りつぶされてしまうであろう。
そう、グアムのように。

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◆グアム島先住民族衰退と西洋搾取の歴史
グアム島の先住民族であるチャモロ人の歴史は3000年におよび、
独自の文化で平和に暮らしてきた。 当時の人口は10万人以上とも云われる。
その3000年の平和が破られたきっかけであり、西洋文化との初めての遭遇が
1521年、3月6日 マゼランの上陸である。以降、長きにわたる西洋支配と
搾取の時代が始まった。 (グアム島の南にはマゼランの上陸記念碑がある)
 
マゼランは人類史上初めての世界一周で名を馳せた冒険家であり
この航海では、偶然ではあるものの、一度も嵐に見舞われなかったことから
静かな海「パシフィックオーシャン」(太平洋)と名付けた。
航海途中、グアム島に立ち寄ったマゼランにより、同島は瞬く間に 西洋で
知れ渡り、以降グアム島とチャモロ人はスペイン帝国の支配下となる。
 
グアム支配の過程で、宣教師がチャモロの祖霊崇拝をはじめとする
独自文化を厳しく禁じたため 不満が生じ、スペイン・チャモロ戦争が勃発する。
もともと裸同然の 暮らしを営んでいたチャモロ人が火器を持った西洋文化に
対抗できる術はなく この戦争により、無残極まりない殺戮が繰り返され
10万人と言われたチャモロ民族は5千人にまで激減した。
 
スペイン帝国の支配は333年続くが 1898年の米西戦争で、
アメリカがスペインを破り 長きにわたるスペイン支配はここで終焉を迎える。
スペインの支配は他のミクロネシア地域においても 及んでおり、
サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなども同様であった。
 
◆なぜグアムは独立できなかったのか~現在まで至る運命の分かれ道
しかしその後は別の歴史を歩むこととなる。
スペイン帝国が米西戦争に敗れ衰退すると グアム島のみをアメリカ、
他のミクロネシア地域はドイツが掌握した。 ドイツはその後の
第一次世界大戦で敗れたため、それらミクロネシアの島々を手放すこととなった。
そして国連の決議により、サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなどは
日本の委任統治領となる。 これが今日まで影響する歴史の分かれ道である。
 
1941年、日本の真珠湾攻撃ならびにマレー侵攻によって幕開けした
太平洋戦争(大東亜戦争)で、開戦当時、日本領に囲まれていたグアム島は
一夜にして孤立状態となった。 このとき、グアム島に駐留するアメリカ軍
守備隊は僅か数百人で、強いて抗戦は 行わず上陸してきた日本軍に降伏。
島を早々に放棄した。
 
同様に日本軍は開戦から間もなく破竹の勢いで 米領フィリピン、
英領マレー半島、仏領インドシナ半島を攻め落とし 「米英恐るるに足らず」と
豪語したが、 いずれも勝ち目がないと判断した連合軍が早々に撤退を決断し
兵を温存したため 本質的な日本の勝利とは言い難い。 周知のように日本の
優勢はわずか半年で崩壊し 元々の日本領土であったサイパン、テニアンさえ
奪われ 昭和19年6月、ついに米軍はグアムを奪還するのである。
グアムの玉砕戦については後ほど述べることとして ここでは国家独立と
現代の話をしよう。
 

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◆ミクロネシア三国の独立をかけた戦いと辛勝
ミクロネシアの島々はいずれも戦後独立を勝ち取った。
1986年、「ミクロネシア連邦」としてカロリン諸島のうちトラック、ヤップなどの島々が
1991年、「マーシャル諸島共和国」が、
1994年、「パラオ共和国」がいずれも米国領より独立。
これら三つの国が正式に国家として主権を保持し アメリカと結んだ盟約を
自由連合盟約(じゆうれんごうめいやく、
Compact Of Free Association, COFA) 略して「コンパクト」と呼ぶ。
 
これら三国は、一切の軍隊を保持せず、安全保障は米国に委ねることとなるが
裏を返せば有事の際にはいつでも島を軍事基地として利用される運命にある。
このうち、パラオについて独立の経緯を見てみよう。
 
◆太平洋三国の国民は険しくも独立の道を選んだ
パラオの独立運動は パラオの非核憲法の存在によるところが大きく
住民投票でパラオ国民は独立を選んだのだった。
ペリリュー島などかつての要衝も、米軍の利用価値が無くなったので
独立の後押しとなったのは幸運だった。
 

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まったくもって米国の都合であるところが大きいし、真の独立とは言い難い、
疑問点は残るが それでも、独立そのものははパラオ国民が自らの意思で
決め、辛くもアメリカから勝ち取ったものであることは間違いない。
 
◆米国はグアム独立を許さない
しかしグアムはそうもいかない。
米国は軍事拠点とて重要視しており、手放すわけにいかないからだ。
  
◆沖縄は何れに属すれば最善か?生き残る道か
さて、以上をふまえた上で、これを沖縄に置き換えた場合、どう考えるか。
 

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▲日本時代のトーチカ内部より海を望む。
ピンクと黄色の花はプルメリアの花。プルメリアと一言にいっても
多様で、自生する場所によって花弁の形や色が大きく異なる。


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