« エアインテーク | メイン | ノースドッグの子供たち »

2011年8月21日 (日)

激戦のオレンジビーチ

ペリリュー島オレンジビーチ01

81師団モニュメント(千人墓地)の位置から海岸に
下りてきたところが
オレンジビーチにあたる。

オレンジビーチの由来
オレンジビーチの名の由来は上陸した海兵隊のコードネームで
長い砂浜を区切って、オレンジ1から3、ホワイト1、2と各隊が受け持ったため
上陸地点がそのままビーチの名前として残っている。
北方がホワイトビーチである。
 
戦闘で浜が血に染まり、オレンジビーチとなったというのは
名の由来としては俗説であるが、血で染まったのは事実は間違いない。
 

Imgp3147_3

Imgp3124_3

ペリリュー島オレンジビーチ02

 
Dデイ概要
9月15日のDデイ(ドックデイ/上陸戦当日の意)では

海岸線北側よりホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3
と上陸部隊毎に区分けされた名称がそのまま残る。
 
上陸部隊は水陸両用戦車を先頭に、海兵第一、第五、第七連隊の
五個大隊からなる総員4500名が上陸、さらに三個大隊が加わり、
最終的には8000名の部隊が上陸したが、猛烈な水際からの反撃に、
上陸第一波はほとんど全滅し、退却。その後の波状攻撃で辛くも
橋頭堡を確保したが上陸戦を含む初期の戦闘で師団戦力の60パーセント超
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)を失った第一海兵師団は
事実上壊滅した。第一海兵師団はもっとも歴史が古く、
歴戦精鋭を誇るが
現代に至るまで師団が壊滅した例はこのペリリュー戦のみである。
 
ノルマンディー作戦を超える死闘
また、ペリリュー島上陸作戦時における上陸部隊の死傷率は
ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチを越える激しさであった。

ペリリュー島オレンジビーチ04

ペリリュー島オレンジビーチ05

ペリリュー島オレンジビーチ06" 
▲画面やや左でステッキを携えているのがルパータス少将。

ペリリュー島オレンジビーチ07
▲埋葬後のオレンジビーチ

  
米陸軍81師団のモニュメントがあるこの近辺は

オレンジ2にあたり、上陸戦後、多くの十字架が砂浜を埋め尽くし
戦死者の多さに埋葬作業が追い付かない状態であった。


十字架はあらかじめパヴヴ島で工兵隊が制作し名目上、船のバラストとして
輸送されたが実際に数多くが埋葬用に使われる運命となった。
敷地の北側には残る建物の跡は教会の壁である。

 

戦闘経過
昭和19年9月15日
長きにわたる熾烈なペリリューの戦いがここに開始された。
上陸したのは海兵隊の中で最も著名かつ歴戦の
精鋭第一海兵師団(ファーストマリーン)で、兵を率いるルパータス少将は
この戦いは2、3日で終わるだろうと訓示を述べた。
2か月以上に及ぶ、泥沼の戦いになると、だれが予想したであろうか。

 
執拗な艦砲射撃と空爆により、ペリリュー島のジャングルを焼き払い
丸裸した米海軍は、まさか日本兵が生き残っているとは予想していなかった。
 
中川大佐率いる水戸歩兵二連隊ならびに
高崎歩兵十五連隊の群馬県片品村出身の28歳、千明(ちぎら)武久大尉
がこれに応戦した。どの兵も大陸戦線からの古強者ばかりで
火器の扱いも、戦場での肝の据わり方も、当時の最精鋭だったと言っても
過言でない。精鋭同士の対決であった。
 
今まで静まり返っていた海岸線から日本兵が現れ、いっせいに火を噴いた。
今までの艦砲射撃は日本守備隊にほとんど損害はなく、彼らは深く掘り下げた
壕に息をひそめていたのだ。
 
・天童砲兵隊の神業
山岳部の陣地からは、こちらも精鋭天童砲兵隊の砲弾が発射され
上陸用舟艇に正確に命中。火柱が上がった。
天童砲兵隊の陣地は山岳部のくぼみにあり、直接の照準はできない。
放射線状に上陸部隊を狙ったものと推測される。 
 
第一海兵隊の全滅
これに混乱したのが第一海兵隊だった。
「ジャップは死んではいない!」
 

ペリリュー島オレンジビーチ08

▲海岸線に釘づけになる第一海兵師団
 

猛烈な水際からの反撃に、上陸部隊は
次々に撃破され、師団戦力の60パーセント超を失い
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)
事実上の全滅判定が下された。
米国海兵隊が全滅した例は後にも先にもない。
ペリリューの戦いのみである。
 
米軍にも陸海軍のそれぞれプライドがあり、陸軍81師団に応援を要請するまで
時間を要してしまったのも一因ではある。
 
沖までリーフが形成されており、遠浅の海岸の波はとても静かな砂浜である。
画面奥がホワイトビーチ。
 
米軍側から見たペリリュー島上陸戦
水陸両用戦車隊の死闘を見る

ペリリュー島オレンジビーチ10





コメント

コメントを投稿