憧れの樺太
来週、北海道に行くので
ついでに樺太へ行けないかと考えていた。(画像は樺太庁立博物館)
樺太へは稚内からフェリーが出ているほか、函館、新千歳から
航空便も就航している。
樺太(からふと)はかつて日本領土であった。
年配者の話を伺っていると、樺太の出身者は予想以上に多い。
北方領土同様、故郷を無くした者の気持ちは察するに堪えがたい。
現在はロシアの支配下にあり、極東サハリン州となっている。
さて、戦前戦中まで
樺太には樺太庁の置かれた最大の都市、豊原(とよひら)市、
国境の町、敷香(しすか)町、そして真岡(まおか)町などがあった。
ユーラシア大陸との境を我が国は間宮海峡と呼称し、ポーツマス条約により
樺太島の南半分、すなわち南樺太を領土として
発展を遂げてきた。
昭和20年8月20日、ソビエト連邦軍が
真岡に上陸。北海道を奪うべく南進を開始した。
(占守島の戦いとは区別される)
この戦闘により陸海軍人2000人、
民間人3000人以上が死亡したとされる。
逃げ遅れた民間人はソ連軍の迫害を恐れ、自害した。
同年2月に行われたヤルタ会議でソ連は
北海道の全部、妥協して、旭川から北半分の割譲を主張したが
英米がこれを許さなかった。ソ連にしてみれば
太平洋の要衝である北海道と宗谷海峡は是が非でも欲しかった。
ヤルタ会談で主張が通らなかったので、終戦直後、
日本が弱りきったところに武力で奪いにかかったのだ。
しかし、真岡の徹底抗戦により、日本軍民は
ソ連の進攻から樺太および北海道への進路を死守。
樺太は奪われたが、後世日本に北海道を残した。
ここでもう一度、写真を見てみよう。
樺太庁立博物館は壊されず残り、現在も博物館として利用されている。
(写真はRFより購入)
戦前日本の建築物はなんと厳壮なる佇まいであろうか!
ぜひ、樺太へ足を運んでこの目で見たい。
もし、北海道へのソ連軍が進攻していれば
現在、北海道は南北で分断され、戦後のベトナム、東西ドイツ
南北朝鮮のように分断されていたであろう。
こんにち存在する北海道の安泰は、樺太の人々犠牲の上
成り立っているものだと肝に銘じておきたい。
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