笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
篠原Q、第263海軍航空隊(豹部隊)についてお伺いします。
A、笠井智一さん
あの頃はペリリューにおりました。
ペリリューは割合大きな飛行場だったんですよ。
それが随分空襲で叩かれるようになって戦死者も増えました。
これではいかんというのでガドブスへ移動したんですよね。
Q、263(フタロクサン・通称豹部隊)では
笠井さんと、杉田さん、他にはどなたが 生き残りましたか。
A
日光安治上飛曹(甲飛10期・のち343紫電改部隊へ)
井上武二飛曹(東京)、久留米出身で 263の先任搭乗員しとった、
一木利之さんていう方、 ほとんどおりませんね。※1
Q、263(豹部隊)は甲飛の10期が多いですね。
A
そうです。263空には大方40名足らず甲飛の10期が居りました。
それはね、昭和18年の11月20日に徳島での延長教育が終わって、
203空へ転勤したんですけどね 徳島で延長教育をやっとる中で
甲飛10期は300人ぐらいおったんですよ。
そん中でね、第一級選抜が37、8人で一番最初に卒業ということになって、
その一番最初に卒業した奴が263空へ配属になったんですよ。
だから集合写真でも写真見たら誰かだいたいわかりますよ。
Q、263の同期の方は同じ年の方が多いのですか。
おおむね17歳くらいですよね。
A
そうです。だいたいね、一番古い奴が大正13年生まれ、
一番多かったのが大正14年生まれで、私たちは15年生まれ ですから。
しかし、あの時分は年齢なんか全然関係なかったですからね。
Q、分隊長の輪島由雄中尉はかなり古い方ですよね。
A
ああ、これはもう、そらあんた操練の18期かなあ。
Q、34歳ですね。
A
そうそうそうそう。輪島中尉、 あら、もう実直な大人しい人でね、
この人は支那事変から乗っとるからね。 もう一人、生き残った人で
松山出身の 磯崎千利さんという人が、30歳位やったですよ。
この人は輪島さんより二期後輩で。 戦後、病気で亡くなられたんですよね。
Q、輪島中尉もベテランですけれど戦死されましたね。
A
そうやなあ。 あれがあんた、2月22日かな。輪島中尉が戦死したのが。
Qテニアンの邀撃戦で、輪島中尉を含む11機が未帰還です。
A
そうそう。テニアンの邀撃戦。
あのとき充分に戦闘態勢を整えていとったらそんなに負けへん。
ところが着陸寸前に襲われたとか。 戦闘態勢が全然悪かったからね。
それで亡くなった。
輪島中尉はね、機銃無しで敵を2、3機落とした。
敵機を追いかけて。(激突させて)そういう話も残っとるんですよ。
そんな話を知った人はおらんでしょうなあ。
Q、3月31日にパラオ大空襲があって随分損害が出ましたけれど
A
そのときは私はグアムにおった。 そして私達も戦闘に
参加さしてくれと、言うて 玉井司令にお願いに行ったんだけども
お前たちはまだグラマンと空中戦出来る技量やない、と。
お前たちがそんなところへ空戦に行ったら片っ端からみな落とされてしまう。
もっと訓練して、そいでやれと。 いうことで戦闘に参加させてもらえなかった。
ほいで3月31日にペリリューで263空の基幹搭乗員や古い連中が
殆ど戦死したから、これからは10期のお前たちが空戦できるか
どうかわからんけれども空戦に参加せい、言われてペリリューへ送られた。
Q共同した第261海軍航空隊(虎)、第343海軍航空隊(隼)に
ついてお聞きします
A
その時分に中部太平洋の主戦力は普通の戦闘機隊で、
261空と263空と265空と三飛行隊あって、
そいで、局地戦闘機隊で343空と、341空と二つの航空隊があった。
戦闘機隊は頭文字が2なんですよね。 それで局地戦闘機隊が3なんですよね。
だから343ですからね、紫電の局地戦闘機隊だったんですよね。
343(隼)で甲の10期。だから、徳島を、二次、三次に卒業した奴が
343(隼)の搭乗員でね。 僕らは263ですからレイセンね。※2
それからあとは艦爆隊が4、艦攻隊が5でしたかな。 中攻隊が7でしたかな。
そいから水上機は9で。 こういう航空隊番号でみな、仕分けされとったんですよね。
昭和19年の3月22日にサイパンとテニアンが敵の機動部隊に
木端微塵にやられてですよ、 261(虎部隊)がサイパンに基地で、
私たちはグアムが基地でね。 サイパンからグアムまでレイセンで
40分ぐらい飛んだんでしょうかね。 普段の訓練なんかは一緒に
なりませんけれども、しかし 総合訓練でね、サイパンの虎と
グアムの263(豹)と、 一緒になって訓練した経験はあるんですよ。
あの時分はね、まだそんなに切羽詰った戦争の感じは
無かったと思うんですが、そのとき空襲に来よって 私の同期で、
九州出身で初代の343空の隼部隊の隊員がおったんですが
あれがペリリューで司令のとこへ行って
「司令、レイセンに爆弾をワイヤーで固定してくれ」と。
「わしはそれで敵の船へ体当たりへ行くから」言うた奴が居りましてね、
それが特攻のはじまりになったみたいなんやな。
Q、関大尉の前ですか
A
うん、関大尉のずっと前。
Q、行ったんですか
いや、その時は司令が許可せなんだな。
しかし最後はフィリピンで特攻で死にました。
あの人はもう死んだかなあ261でね、甲の8期で なんちゅうひとやったか。
サイパンで敵が上陸したときにね まだ日本の兵隊がおると思って
不時着して 生き残ったのがおるんですよ。
Q,粒針さんですか。戦後は航空自衛隊で その後民間機で。
A
そうそう。粒針さん。 甲の8期だとぼくらより2つぐらい年上ですわ。
2つ3つ上ですわ。261の生き残りですね。
Q、その後、201空へ統合されますね。
A
玉井浅一さんいう人が居りましてね、
その時期にはもう第一航空艦隊(一航艦)の各飛行隊は消耗して
飛行隊としての機能が出来なくなった。 それでぜんぶ解散して201空に
統合されたんです。
あれは昭和19年の6月頃でしたかな。皆201空に統合されて、
そいで311(サンヒトヒト)飛行隊と301(サンマルイチ)飛行隊と
305と306と、こんだけの飛行隊ができましてね。 しかし内地から
補給に来る人も居りましたが、もう顔も知らんし 同期生か、
そんなんもう全然わからん人も居りましたけどね。 私はそこで306飛行隊に
編入されたんですよ。
Q、異例なエピソードがあったとか
A
あの時分に搭乗員はみな、丸刈りじゃないといかんかったですよ。
それが、201空では、搭乗員は不時着したときに毛があったほうが
怪我せんから 頭伸ばしてもええぞーと。お達しが出ましてね。
そんなお達しの出た部隊はおそらく他に無かったと思います。
Q、それは下士官でもですか?
A
そうそう。下士官でも。それがね、変な話やけども、
そんな油(整髪料)も何も無いわけですよ。無いから
飛行機用の機械に使う油を。あれをガーって頭にかけてね(笑)
Q,指宿兄弟のエピソードを教えてください
19年の11月にフィリピンから内地に帰って横須賀へ降りたときに、
指宿正信少佐(兄)と、 もうひとり古い人が二人で出迎えてくれてね
指宿さんが、「おお、お前263か」 「そうです」いうたら
「おー、よう帰ってきたなあ」いうてね。
そして、弟の指宿成信さんが少尉で甲の2期でしたかな。
343空で戦闘301でしたな。
Q、指宿成信少尉(弟)は生き残って戦後は?
A
病死されたよね。昭和25、6年じゃないでしょうかね。
だから兄貴の指宿少佐よりも先に死んじゃって。
Q、お兄さんは昭和32年に殉職されましたね。
A
わたしはあの時に新聞記事見て、びっくりしたんですよ。
あの指宿大尉が事故で亡くなった?とね。その新聞記事がどっかに
残っとるはずなんですがね。 F86Fで亡くなったんでしたな。
編隊飛行中に空中接触で亡くなられたいう話は聞いとるんです。
私は航空自衛隊で殉職された先輩たちの記録を 皆もっとるんです。
誰が、いついつ、どこで亡くなったいうね。
甲飛の10期のよく知った奴が築城かどっかでね。
これも事故で殉職したんですよ。
Q、航空自衛隊創設時のお話を聞かせてください。
A
航空自衛隊のジェット戦闘機の部隊ができるというときに
源田実さんから、私に電話がかかってきたんですよ。
「お前、来い」と。いうて。
そいで、よっしゃ、いったろ、とは思っとったんだけれども
願書を送ったら、私が試験を受ける資格が無かった。
その当時は、戦時中に準士官以上。それか大学出以上でなければ
受験資格はないという事やったんで。 それで私は源田さんにすぐに
「私は受験の資格がないから受験しませんと」伝えたら
「えー、そうか」いうて、源田さん驚いていたけどな。
それから二年後ぐらいに、予科練出でも航空自衛隊の
ジェット戦闘機の部隊に行けると決まりが変わりましてね。
(2)へ続く
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
※1、杉田庄一、日光安治は343空で戦死。
※2、笠井氏は零戦を一貫して「レイセン」と称した。
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