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2015年6月 8日 (月)

原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出

真珠湾攻撃

  
「蒼龍」へ配属

佐伯航空隊から別府湾内の空母「蒼龍」配属になりました。
我々は艦隊の零戦パイロットだから、航空母艦で発艦、着艦を繰り返す
訓練をするのですが、それで航空母艦へいってみたら臨戦態勢になってる。
それで特に驚いたのが、航空母艦では防寒対策が完全に出来ていた事でした。
まさかハワイに行くとは思ってないですよ。無線も絶対出さないし、北の方を
向いているので、我々はウラジオストクを攻撃する
のかと噂をしていました。
 
幾日か航海して、朝起きたら、湾の周りの山が雪で真っ白なんです。
択捉島単冠でした。それで湾内の艦船が航空母艦だけで6隻。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。日本の当時の全航空母艦ですよ。
その他、日本には鳳翔と龍驤という航空母艦があったけれど
これは北の方へ行っていたから、その時はいませんでしたが。
 
そのほか、陸奥、長門も湾内に待機している。そこで連合艦隊の赤城に
各艦の飛行長とかリーダーの人達が集められて、
これから一番北回りの
寒いところを通って、普段商船が航行している
さらに北の方、商船と
遭遇しないように北回りしてハワイに接近していくと
言うんです。
 
日本はABCD包囲網で今後、やっていけなくなるだろう。そしてアメリカの方は
それを推し進めなければならないんだと。来栖、野村大使が交渉しているが
おそらく99、99%、交渉決裂
するだろう。そうしたら卑怯なようだけれども
12月8日、宣戦布告をして
我々航空艦隊がハワイ攻撃をやると。
 
直掩戦闘機隊へ
真珠湾攻撃で私は真っ先にハワイ空襲に飛び出すメンバーに入っていると
当然思っていました。ところが艦隊の上を守れというので、おかしいな、蒼龍
戦闘機隊の下士官とすれば年功も一番古い方だし、実戦では中国で1年も前に
飛んでいる。それを艦隊に置いて若いパイロットを皆連れて行くというので、変だな
と思ってね、隊長の菅波政治大尉に「おかしいじゃないですか」
と言ったんですよ。
 
そしたら菅波隊長は
「君、そういうけれどもこれは奇襲作戦といって、向こうがなる
べく知らないうちに
叩くんだから、敵の飛行機の空襲はなるべく避けるような
作戦計画をしてあるが、
でも向こうだって、ちゃんと計算してるから我々の艦隊が
空襲を受ける場合がある。
そのときに艦隊が傷ついてしまえば、せっかくこれだけ
隠密に行っても何にも
ならないんだから、各艦で下士官の一番ベテランを
艦隊護衛に残すから、そういう
連中と協力して艦隊を守ってくれ」と言うんです。
 
そう言われたら、私もなるほどね、と思いました。確かに、他にも各艦から
戦闘機隊の小隊長を二人くらいずつ
古いのが護衛で残ってる。護衛戦闘機隊は
三交代で飛ぶんです。私が一番最初に
2機連れて飛び上がる。するとその次の
小隊長がまた
2機連れて飛び上がる。だからもし敵が来れば各艦から9機ずつ
もう上空にいるわけ。そうするとね、ある程度艦隊を守れるということでした。
 
真珠湾攻撃当日
12月8日、私たちは戦闘機隊で一番軽いから、航空母艦の一番前から
発艦しました。それから一次攻撃隊が戦闘機、艦爆、艦攻隊とその後から
発艦して行く。どっちみち敵が来るならハワイの方向から来るだろうから
ある程度一緒に行って送ってそれで旋回して
 
篠原Q:途中まで行って艦攻隊を見送ったのですね。
 
ええ、どうせ敵が来るんだとすればハワイから来るんですから
そっち行っていれば早いでしょう。だからある程度向こうへ一緒に
ついて行って送って、だけどあんまり向こうへ行っちゃうと
今度はこっちの艦隊が無防備になっちゃうから。
 
自分でも攻撃に参加したいという気持ちで途中まで一緒に行った。
行ったけれども、いや、しようがねえなと(旋回
それで3回も飛んで。どうやら敵の攻撃は全然なかったんだけれども
 
Q、見送った艦攻隊に村田重治少佐の機もあったのですね。
 
ええ、村田さんという人は私の教官で、真珠湾では3人乗りの
九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長でした。この魚雷投下が非常に難しい。
ハワイの真珠湾へ入って行くには山を越していかなければならない。
山を越して急降下してくそれで降りてそのままの姿勢で魚雷を落とすと
魚雷が海底へ突き刺さってしまう。そこから機体を水平に引き起こして
雷撃しないといけないので、非常に難しいんです。
 
攻撃隊の帰艦
第一次攻撃隊ではほとんど被害が無くて、第二次攻撃隊では
戦闘機隊と艦爆も艦攻も被害はありましたが、軽微でした。
 
私達が一番辛かったのは、第一次攻撃から帰ってきた人たちが
被害が殆ど被害が無くて、彼らも嬉しかったんでしょう。
盛んに手柄話をするわけです。自分の狙った弾が命中した、あるいは
魚雷がちょうど戦艦の横腹へぶつかって炸裂したとか言って。
艦のほうでも「よくやったよくやった」といって早速一杯飲んでお祝いしていました。
 
ところがですよ、私達が一番心配したのが、航空母艦の連中は自分の
航空母艦というものの強さを知っている。その航空母艦がハワイの軍港に
一隻も居なかったというのを聞いて「これはえらいことだな」と感じました。
日本が持っている以上にアメリカの持っている航空母艦が一隻も無い
という事は、隠してる、もしくは余所へやってるということでしょう。
だから将来はこれは航空母艦の戦いになるだろうと、そういうことまで
心配したんですが・・・。
  
爆撃の名手、金井昇一飛曹
それともうひとつは蒼龍の爆撃機隊。
阿部大尉の水平爆撃隊がありました。それに私より一年後輩の金井昇という
長野市の人ですよ。爆撃の名手が居ました。
4000メートルから800キロの
爆弾をみんな命中させた。
だからね、あれだけの効果があったんだそうです。
 
※1
 
Q、金井さんは蒼龍では隣り同士の戦友ですね。
 
ええ、金井君は「戦艦を狙え」と言われていたそうです。
何故かというと、爆弾は通常、落ちた瞬間に炸裂するような信管を
使うんだけれども、これが戦艦の場合は一番上の甲板で
爆発しても致命傷に
ならないから、なるべく中へ入って行って
爆弾庫のあるところで破裂するように、
信管を遅れさせて炸裂
するよう調整するんです。
 
Q、その作業は金井さんが自らやるのですか
 
そうですね。何秒遅らせれば一番効果があるか
やっていましたね。
水平爆撃の日本の金井なんです。操縦の人は佐藤治尾さんといって
准士官、兵隊あがりで。だからね結局はね、日本海軍のパイロットと
いって爆弾を落としたり、それから魚雷を離したり一番活躍の実力を
持っていたのが下士官なんです。
 
Q、藤田怡与蔵さんの思い出はありますか
 
藤田怡与蔵さんという人は、あの人もちょっと変わってるんです。
生まれは満州、中国なんです。それで海兵へ入学したんです。
ところがね、その頃、日本から大陸へ渡った人たちは中国人を使って
贅沢な生活をしてたんです。だから誠に大陸的でね。のんびりした人なんです。
 
だからね、海兵出なんだけれども
全然海兵出のようじゃない。技術も我々から
見ると誠にお粗末で、海兵出のほうはピリピリしてるの。
ところが藤田さんは
大陸的で鷹揚なんです。藤田さんの2番機3番機
に高橋と岡本という下士官が
着いた。
高橋というのが私の後輩で、岡本というのがまた下の後輩なんですが
二人とも自分の小隊長の藤田さんを全然信用しないんです。
 
藤田怡与蔵(いよぞう)さんていうんですがね、読み方によっては
「ごようぞう」って読んじゃうんですよね。ごよさん、ごよさんって言ってね。
また本人も、俺はこれ(操縦の仕草)ダメなんだと言っていました。
飯田房太さんが蒼龍戦闘機隊の分隊長で分隊士が藤田さんでした。
飯田さんは海兵出のトップクラス頭の切れる人なんですがその下にいる
藤田さんが、誠にのんびりで戦闘機隊では
ごよさん、ごよさんって私らも言ってね。
またついていく高橋と岡本も、うちの小隊長はてんでコレだめだからと。
 
そのかわり人間的には良い人でした。とっても穏やかで人間的で
最高の人間だと。部下は喜んでましたね。
 
※2
 
Q,飯田房太さんについて聞かせてください
 
飯田さんとは蒼龍で一緒になりました。飯田さんという人は、お姉さんが
苦労して兵学校
出させてもらったんです。
 
飯田さん自身はハワイへ行ったら半分は帰れないだろうと、自分で考えて
いたようです。ハワイ攻撃で、もし燃料タンクに銃弾を
受けて帰れる見込みが
無くなったら、俺は自爆するよと、藤田分隊士に
皆任せるからまとめて帰れと、
事前に何度も申し合わせていたそうです。
 
凄い人でしたよ。将来の長官クラス。長生きすれば連合艦隊司令長官だったかも
しれません。
水上機出身で、優秀だからと戦闘機に引っぱられてきたようです。
戦闘機隊は水上機出身を余所者扱いするようなところがあったのですが
飯田さんは技量も素晴らしいし、立派な人でした。
だから部下で飯田大尉を嫌だっていう人は居ませんでしたよ。
とても優しいね、思い遣りのある人でしたよ。
惜しい人でした。
 
※3 

つづく
 

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原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

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※1、金井昇一飛曹
長野県出身。
爆撃の名手と名高い。蒼龍では格納庫の九七艦攻に乗り込み爆撃の
シミュレーションを行う姿が目撃されているほか、原田氏によれば
寝床まで照準器を持ち込んで研究を重ねていたという。真珠湾攻撃では
九七艦攻に搭乗し水平爆撃を行った。操縦の佐藤治尾とペアで息が
ピッタリ合っており、蒼龍艦長も「蒼龍には世界一の爆撃手が居る」と
誇りにしていたが、ウェーキ攻略で米戦闘機の奇襲を受け戦死した。
 
※2、藤田怡与蔵中尉
大分県出身。大正6年生まれ。海兵66期。
真珠湾攻撃で初陣。第二次制空隊、飯田房田大尉の分隊士として
参加した。飯田大尉の自爆ののち、戦闘機隊の帰艦を引き継いだ。
本土帰還後大尉に進級し、ダーウィン、コロンボ空襲、ミッドウェイ海戦に
参加し生還。飛鷹分隊長となり、ガダルカナル航空戦に参加した。
内地へ帰還後、築城航空隊、次いで第301海軍航空隊へ転属となって
飛行隊長を務め硫黄島防空戦、のち341海軍航空隊では比島で
戦い、本土へ後退、終戦を迎える。戦後初のジャンボジェット機長として
活躍した。
 
※3、飯田房太大尉
山口県出身。大正2年生まれ。海兵62期。
真珠湾攻撃では蒼龍戦闘機隊、分隊長。
燃料タンクへの被弾により、米飛行場へ自爆戦死。
アメリカ軍が飯田大尉の勇敢さを讃え、遺体を埋葬した逸話が有名。
  
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