長嶺公元(海軍大尉) パイロットデータベース

長嶺公元大尉(海兵68期)
長崎県、平戸市出身。
 
昭和19年1月1日付
S19.6.12付戦死
戦死後中佐に進級。
 
※長嶺公固大佐(第四南遣艦隊司令部・艦隊機関長)は
実兄。公元より半年後に戦死。
 
 
■落下傘部隊で活躍、負傷
 
長嶺は大東亜戦争始め、横須賀鎮守府第三特別陸戦隊で落下傘部隊として活躍。
昭和17年2月、ティモール島クーパンに落下傘降下し敢闘。
このとき左膝部を負傷し九ヶ月あまり治療静養生活を送る。
なお、この銃創は国際法で禁止されていたダムダム弾によるもので
回復手術は十数回におよんだ。回復後も歩行困難なため館山砲術学校の
教官兼分隊長におさまったものの、前線に挑む執念と敢然たる闘志を燃やし
昭和18年3月、航空隊特修科学生を志願、偵察搭乗員の資格を取得した。
 
■121空分隊長へ
 
横森直行(当時121空飛行士・海軍中尉)は次のように語っている。
 
『長嶺公元は千早猛彦少佐とならび、挺身偵察の功労者である。
第121航空隊(雉)が開隊となり、千葉県香取基地で飛行訓練がはじまる。
それは厳格かつ全力投球で他は省みないものであった。
そのため他の分隊士、分隊長とは常に摩擦があったがそれを承知して平気で進めた。
 
長嶺は酒も煙草もやらず、飲めないのが欠点で人付き合いが悪かった。
ただし千早猛彦飛行隊長は長嶺大尉の厳格なやりかたに満足していたと思う。
その故、分隊長の発令以前にすでに分隊長として任せていた。
 
正月の話題も出始めた昭和18年の暮れ、日程表を書き込むとき、そっと休暇のことを訊ねてみた。すると
「バカ、戦争に暮れも正月もあるものか」と一喝された。
 
実際は三十一日から三日までの休暇となった。
当直に横森と地元千葉県出身の某中尉が引き受けすべての準備が整った。
ところが三十一日の午前中は飛行作業で午後から休暇にすると言う。
彼の訓練に対する執念から、長嶺大尉は半日も無駄にしたくなかったのであるが
飛行作業を行うとなると、それにともなう整備、通信員が必要である。
結局、整備点検のみで終了となった』
 
■挺身偵察、戦死
 
2/23
(0315)長嶺大尉率いる二式艦偵5機が敵機動部隊索敵に出動
(0545)米機動部隊を発見。山本正雄飛曹長も敵機発見。
(1030)テニアン基地帰投
 
6月4日、彩雲を用いてメジェロ挺身偵察に出動、同日ナウル補給。
6月5日、メジェロ偵察。写真撮影失敗するも空母6、軽空母8、戦艦8、
巡洋艦8以上、駆逐艦16以上、輸送船24以上を認め、詳細を記す。
 
6月11日
千早は見送りの長嶺に
「機動部隊に単機で向かうんじゃ」
と言い残すと、愛機彩雲に乗って飛び去っていった。
いまさら敵機動部隊の動静を偵察する必要もないが、地上で敵の来るのを待って
いられるかといわんばかりに淋しげに笑っていた。
岩尾司令(のち玉砕)は悲壮な面持ちで見送った。
 
それから五分も経たないうちに、同方向からグラマン30機以上が襲来し
飛行場に銃撃を加えた。岩尾司令は側に立つ横森少尉に
「やられたんじゃないか」とつぶやいたが以降、消息を絶つ。
千早機の「ヒ連送」(敵発見の無電)を傍受したともいわれているが定かでない。
 
翌12日、空襲が続くが長嶺は待避壕の彗星を無理に修理させ
「地上では死にたくない」と言い残し飛び立ったまま帰らなかった。
 
 
参考・引用
(太平洋戦争証言シリーズ6 別冊丸中部太平洋戦記s62 7/15 第6号
横森直行(当時121空飛行士・海軍中尉)
 
戦史叢書マリアナ沖海戦
 
秦郁彦著、太平洋戦争航空史話(下)より)
 
※ダムダム弾
着弾の衝撃で弾頭が体内で割れることにより、深刻なダメージを与えることを目的としている。
元々は狩猟用の弾頭であったが、イギリス軍が陸戦で使い始め、他の欧米諸国の軍隊も
使うようになった。しかしその後、不要な傷口の大きさから「非人道的な兵器」として
1907年のハーグ会議(ハーグ陸戦協定規定)によって戦争におけるダムダム弾を含む
ホローポイント弾の使用が禁止となったが、実際はその後も使われていた。名前の由来は
最初に作った造兵廠(ダムダム兵器工場。インドのコルカタ近郊にある)の名前から。