2014年6月30日 (月)

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

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世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

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飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

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画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

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ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

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パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

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画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

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KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

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コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

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マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

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アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

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二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

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アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

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パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

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これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

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飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

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2014年6月20日 (金)

グアム玉砕戦の真実~小畑中将は自決せず

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玉砕の地、叉木山へ

グアム最後の戦場で 小畑中将が自決したとされている
叉木山(マタギャックヒル)を訪ねた。
 
玉砕の経緯を記した説明看板が立っているが
実はこの真意、定かでない。
小畑中将がここで自決した証拠など何もないのだ。
 
その理由を順を追って記す。
まずグアム玉砕に至る概要を記しておく必要がある。

グアム玉砕まで
1944年(昭和19年) 7月21日
サイパン、テニアンを陥落させ、さらに グアム島奪還の大義を掲げるアメリカ軍は、
空爆と艦砲射撃を十分に 行ったのち、陸軍第77師団と第2海兵師団の
2個師団を上陸させる。 グアムの防衛を担う日本軍守備隊は
陸軍第二十九師団 (および第48独立混成旅団)で 二十九師団は
以下の三個連隊から成るが松本50連隊は 先のテニアン戦で玉砕している。
 
陸軍第二十九師団(名古屋)
奈良38連隊(グアム玉砕)
豊橋18連隊(グアム玉砕)
松本50連隊(テニアン玉砕)
 
師団長は陸士25期、高品彪(たかしなたけし)中将であった。
二十九師団を基軸とした 日本軍守備隊は勇猛果敢に戦ったが
徐々に戦線を後退。最後にはバンザイ突撃を繰り返した。
 
7月28日
師団長、高品彪中将が戦死。
以降、師団の指揮は31軍司令の小畑英良(おばたひでよし)中将/陸士23期
が引き継ぐことになった。 小畑中将はグアム島北部へ転進する。
叉木山への撤退路の確保、ならびに 北部には大きな部隊が温存中であり
二日後に反撃をかける。表向きは以上のような名目であった。
 
8月11日
追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、
ここ叉木山の壕で 自決。死後大将に昇進した。
これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。
・・・といわれる。
 
それにしてもこの看板は 誰が書いたのであろうか。
まず、この看板設立の経緯を述べる。
 
▼小畑中将が自決したとされる壕とそれを示す看板

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叉木山で何があったのか
戦後の混乱期を経て

戦争が終わった後20年間は日米は何ら協定が存在しないため
遺族らが慰霊に来ることが叶わなかった。 1962年、はじめてペリリュー島へ
慰霊団が派遣された。 それが日本の慰霊団のはじまりであった。
1968年 テニアン、サイパンへも慰霊団が派遣される。
そのとき初めて、グアム島の知事が日本人慰霊団の上陸を許可したのだった。
 
慰霊団はクリフホテル(グアムで二番目に古いホテル)に宿泊。 そのとき慰霊団
長の部屋をノックする者がいた。 ドアを開けると、そこにはオスカー・カルボウという
神父が立っていた。 彼はデュエナス神父の親友である。彼は慰霊団長に
「もう戦争が終わったんだから、お互い恩讐を超えて モニュメントを作りましょう」
と申し出たのである。
 
このカルボウの行動の発端は昭和16年までさかのぼる。
開戦当時の銃爆撃でチャモロ人54人が不幸にも巻き添えとなり 死亡した。
そこに居合わせた広島出身のタケダという中尉が若きカルボウを呼び出して
「おい、かわいそうだから埋めてやれ」
と言って 死体の埋葬を許可したのである。 カルボウはこの一件に心動かされ、
戦後もずっと忘れられず、この日、ホテルを訪ねてきたのだという。
親友のデュエナスは惨くも日本軍に処刑されたがカルボウは
恩義を感じて一緒に墓を作ろうと 持ち掛けたのである。
 
小畑中将は本当にここで自決したのか
1972年、以上の経緯で叉木山に完成したのがこの合掌を象った
モニュメントである。 建立を主導したのは財団法人太平洋戦没者
慰霊協会で (現在は公益財団法人となっている) その当時の会長A氏は
インタビューに対し次のように語る。
 
Q「あの看板は誰が書いたんですか?」
 
A氏「あれは自分が書いた」
 
Q「じゃあ、あの60人というのはどこから調べた人数なんですか?」
 
A氏「あれは風聞ですよ。証拠は無い。昭和四十何年に自分で調べられるわけ
ないじゃないですか」
 
Q「では、あそこで小畑中将が自決したって本当ですか」
 
A氏「いや、そんなの誰も見てないよ」
 
Q「じゃあ、あれは偽物ですか」
 
A氏「いやあ、偽物ってわけじゃないけど作文だね」
 
当時、風聞を作文のまま建立しそれが今に至りそれにつられ、
みんな玉砕の地と勘違いして来ちゃってるのが現実。大手旅行会社の
団体も観光コースになっている。
 
ここ叉木山に一番重要なことはここにはなかったのである。
では、あの壕は、いつ作ったのか 誰が作ったのか、何の目的で作ったのか
 
真実はいかなるか
それには、この壕の中に入ってみれば おかしな点に気付くだろう。
元来、この壕はコンクリート製の海軍のもので、玉砕戦では陸軍が用いた。
中は狭い。この狭い壕に60人も入るのは困難である。 
そのうえ自決などできるわけがない。 
 
ではこの60人という数字、いったいどこからきたのか?
 
叉木山にKという兵隊がいた。彼は
8月11日朝5時にキャタピラの音を聞いた。
敵が来たと察した彼は、麓へ一気にかけおりて 「敵が来た」と告げた。
戦友は散っていった。 当時炊事をしていたがあんなところに集まっていたら
殺されるに決まっているから自分もすぐに逃げたという。
 
米軍側の戦記にも、このときの掃討戦の記録が残っている。残存守備隊は
全員逃げ切れなかったのだった。米軍は一挙にその周りを囲んで集中砲火を
浴びせた。そして日本軍を一ヵ所に閉じ込めた。 その閉じ込めたところを
火炎放射器で焼いて、200kgのダイナマイトを置いて一気に爆破して粉砕した
と記してある。
 
四日後に瓦礫を掘り起こしてみたら60人の死体が出てきたという。
60人の自決、というのは それを捻じ曲げて使ったのではないか。
 
つまり、ここ叉木山で小畑中将の自決を目撃した者は誰一人いないし、
証拠は何一つないのである。ここ起きたことは先に述べた通り。
戦死したのは米軍に追い詰められた一部の将兵である。
 
小畑中将はいったいどこへ?
では、小畑中将はどこへ行ったのか?
確かに小畑中将座乗の車列は、転進北上していた。ここまではわかっている。
このとき 運転手を務めていた兵が、戦後次のように証言している。
 
小畑中将座上の車列が米軍機に発見される。
車列先頭の運転手は咄嗟にハンドルを切りジャングルに車を突っ込ませ
難を逃れたが 小畑中将は米軍機の襲撃により戦死した。
これが真実ではなかろうか。
 
では 小畑中将は何の目的で、どこへ向かっていたのだろうか?
ここから先は推測になる。
 
本来の思惑は歴史の闇の中だが
この海軍壕には時価三億の金塊が残されていた。
小畑中将はこれを隠すために急行したと思われる。
 
金塊の用途は、日本軍が グアム島へやってきた当時、通貨が使えないため
チャモロ人と取引するための資金であった。無論、米軍が真実を公にすることは
ない。自分らが 金塊をガメた訳だから、玉砕したと発表してもらったほうが
都合がよいに決まっている。
 
首なし兵士の遺体の謎
この玉砕の以前、叉木山周辺で不可解な事件があり近所の住民が目撃して
いた。ある日、叉木山周辺で 日本軍の軍服を身に着けた首なしの死体が多数
見つかった。不思議なことに、この死体は首を切断されているにもかかわらず
血液が一切付着していなかったのだ。
 
この斬首された兵士こそ金塊の運搬、隠蔽に関わった兵士であり口封じのため、
味方に殺害されたと推測される。 首がなければ当然身元は不明となる。
 
遺族には戦死と伝えられたであろう。 殺害された後、(もしくは現場)
叉木山の麓を流れる小川に放置されたため、血は洗い流されたのであった。
 
以上がグアム玉砕と小畑中将の最期の真実である。
 
いかにも自ら取材したような書き方で恐縮だが、これらの内容は全て
グアム唯一の戦跡ガイド「ケン芳賀氏」に聞いた話で、氏の案内する戦跡ツアーに
参加すれば 全て現地を回りながら聞かせてもらえる内容である。
 
 
芳賀氏は、このほかにも横井庄一さんをはじめ、当時グアムで戦った
旧軍人、島民など、すべて直接会って取材しており、自らの集めた膨大な
証言記録をもとに グアムの戦跡を案内してくださる素晴らしい内容の
ツアーを行っている。グアム、チャモロの歴史、文化に精通、尊重している。
グアムに行かれる際はぜひ おすすめしたい。
 
申し込み、問い合わせは以下へ
(日本語でOKです)

http://www.usesguam.com/index.html

 

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▲叉木山壕近くの竹林。竹も成長し過ぎると自らの重さに耐えきれず倒れるのか。

グアムの方々にはこういった竹がたくさんある。

リディアン岬(グアム)

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グアム島最北端のリディアン岬まで車で走った。
アンダーソン空軍基地の間を抜けて行く。
ここはまだ走りやすくていいが ここから先はデコボコだ。
舗装道路に見える路面も サンゴダスト(サンゴの骨を砕いたもの。石灰。)で
固め作られたもので 雨が降るたびに浸食して、穴だらけになる。
 

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ここは穴場で観光客はあまり来ない。
そのかわり潮流が激しくせいぜい水際で遊ぶ程度で 泳ぐことはできない。
  
海は綺麗で透き通っている。
 

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ローカルが釣りをしている。
外洋隔てるサンゴ礁に波が当たって砕けている。
 

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砂浜の端の誰もいないところまで歩いてみた。
人工物がある。
 
 
砂浜に足を取られ、なかなか進まない上に

一眼レフ二台首にかけてるから、重くて暑い。
できれば海に飛び込みたい気分だった。
 
ゲートが夕方に閉まるので早い時間に行こう。車でしか行けないヘンピな場所にある。
車上狙いに注意。

イナラハン天然プール

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イナラハンにある天然プール。
地殻変動で出来た天然のプール。
外洋と隔てられていて面白い。
 
飛び込み台もある。
 

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こちらはメリッソ村にあるスペイン時代の名残、鐘楼(ベルタワー)

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この先、タロフォフォの滝公園には
横井庄一ランドもある

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。

グアム軍事法廷跡 BC級戦犯終焉の地

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グアム軍事法廷跡
1945年の終戦後、南洋各地から集められた、いわゆる
B、C級戦犯の裁判および刑が執行された場所である。
今はさら地となっている。何も残っていないが
ぜひとも見ておかなければならない。

 
沖縄から海兵隊が移転すれば、ここも基地施設となり

自由に入ることはできなくなるだろう。
 
もちろん裁判は戦勝国による一方的なものであり
必ずしも公正無私でない。
 
そのため、これらの裁判で死刑となり
命を落とした場合、日本では法務死と呼ぶ。
 
阿部孝壮の法務死(クェゼリン捕虜処刑事件)
海軍中将、阿部 孝壮(あべ こうそう)は
クエゼリンで米国人捕虜9名を殺害した容疑で
ここグアムで裁かれた。
 
阿部はマキンの戦いで敵上陸を目前に控え、
捕虜の処遇に関し、現地指揮官に意見を求められた。
その際、阿部は「適切に処分せよ」と、指示を部下に一任した。
  
1946年、3月21日
阿部は巣鴨プリズンからここグアムへ移送された。阿部は
クエゼリンの捕虜殺害事件については現地指揮官に責任を負ってもらいたい
との意向を受けており、自決せず裁判に臨んだ。
 
米海兵隊が主宰するこのグアム軍事法廷は、同年5月6日に起訴状が
出され15日に開廷された。そして結審したのがわずか一週間後の
22日であった。
阿部は当初聞かされていた予想とは
正反対の絞首刑を告げられる。
裁判ではほとんど阿部の発言は行われなかった。
 
1947年、6月19日
刑が執行される。
阿部は宮城(きゅうじょう)を仰ぎ、天皇陛下万歳といって
刑場の露と消えた。

ガンビーチ(グアム)

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ホテルニッコー・グアムの前に
ガンビーチと呼ばれる砂浜がある。
その名の通り、これが由来である。自由に触れることができる。
 

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うるわしき砂浜と対照的に
錆びついてもなお、戦い終わらず
照準は沖の舟艇か、空を睨む。

恋人岬を望むガンビーチには、日本人を含む
アジア各地からの観光客が多く賑やかだった。
 

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アサンビーチ(グアム島)

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上陸戦が展開されたアサンビーチを訪れた。 

  
1944年(昭和19年) 7月21日
激しい艦砲射撃と空爆ののち、いよいよ米国海兵隊はアサン海岸へ
上陸を開始する。日本軍守備隊は水際でこれを阻止せんと 猛然と応戦した。
海兵隊にも死傷者が続出し橋頭堡(きょうとうほ)を確保するため丸一日を要した。
この上陸戦から数えておよそ三週間にわたりグアムでの戦いが続くのであった。
 

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アメリカは奪還の大義のもと、
日本にとっては大宮島(おおみやじま・当時グアム島の日本名)
の落日がまさに迫りつつあった。
 

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ここアサンの歴史をスペイン時代から見てみよう。
 
1892年
スペイン時代、ハンセン病患者の隔離病棟が建設されたが1900年の
台風で倒壊。
 
1901年-1903年
フィリピン米総督府はフィリピン人政治犯をグアムに追放し
ここアサン岬の刑務所に収容。
 
1917年
第一次大戦勃発とともにグアムに居たドイツ巡洋艦水兵は
捕虜となり、ここアサンに収容された。
 
1944年-1945年
そして、先の大戦で 日米両軍の熾烈な戦いの末、 グアム島の奪還を
果たした米軍は キャンプ・アサンを建設する。これは米国軍属の宿舎であった。
以降、1967年まで使用されるがその後は放置される。
 
1975年
ふたたびここアサンが使われたのがベトナム戦争時で何千人もの
ベトナム難民受け入れの 施設となった。
 
1976年
大型台風パメラによって グアム島全域の建物が倒壊した際
アサンは瓦礫の集積場となった。
 
以上のように この開けた海岸は先の大戦のみならず
常に数多の悲劇とともにあった。 現在は海浜公園として美しく
整備され バーベキューをしたりローカル憩いの場となっている。
 
この平和が末永く続くことを切に願う。
 

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2014年6月19日 (木)

特殊潜航艇・甲標的(グアム)

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特殊潜航艇・甲標的

日本海軍の「特殊潜航艇・甲標的」である。
グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンターに展示されている。
 
ここ大宮港で戦闘終結後に米軍に鹵獲されたものであるが、詳しい経緯
については未記載であるうえ、同センターではこの決死兵器の運用方法
については詳しく触れられていない。
 
動力は2ボルトの乾電池
艦首に魚雷二本が搭載され、動力はモーターで、バッテリーを用いて
スクリューを駆動する。 (バッテリーというのは一個2ボルトの電池で、
これをモデルによって 異なるが192個から200個搭載した)
なおディーゼルエンジンを 搭載したモデルも存在する。
 
生還の望みは薄い
この潜航艇は二人乗り(丙型は3人乗り)で、敵基地港湾へ侵入し
決死の雷撃を敢行する目的で運用された。 生還の望みは薄い。
 
実物に近づいてみて、印象的だったのはやはり
艦首に突き出た二本の魚雷発射管で、実に衝撃的であった。
一応は、生還を前提として設計されたものだが、その運用方法を
見てみればほぼ命と引き換えと考えてよいだろう。2人乗りで
2本の魚雷。一人あたり一本。必中轟沈である。当時の若者が
どれだけの犠牲を払って戦ったか、日本人は今、みんな忘れてしまったのだろうか。
二本の魚雷発射管は物々しく、悲しい。
 
この潜水艦を用いた作戦といえば真珠湾の九軍神が有名だ。
なお、「蛟竜」はこの艦の後継型の「甲標的丁型」と呼ばれる。

※四国、三机湾の九軍神訓練の地へも行ってみた。

サイパンからグアムへ飛ぶ

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サイパンからグアムへ飛ぶ。
プロペラ飛行機で、約50分。
プロペラ機は軽快さが良い。
 
サイパンで搭乗手続きと簡単なパスポートチェックを受けて
飛行機はすぐに飛んだ。通勤電車のようだった。
この便は一日に数往復している。
バブル期はサイパン・グアム両島の周遊プランもあったのだろうが
いまや乗客の中に自分以外に日本人の姿はない。
 
背後に見えている駐機中の小型機は昨日乗ったテニアン行きの
マリアナスエアーである。
※「テニアン島へ飛ぶ!テニアン戦跡巡礼の旅」はこちら

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あっという間にグアムへ到着。グアムは凄い都会だ。
南洋の天気は晴れていたかと思えば、雨が降ったりすぐにやんだり、
また晴れたり曇ったり雨が降ったりやんだり晴れたりと、とにかく忙しい。
滑走路に七色のアーチがかかっている。
 
降りてすぐにレンタカーを借りる。最近はレンタカーも
さまざまな料金プランがあって、貸し出しの際に少々
チャージ(課金)するかわり、燃料を補給せずに返却できる
プランがあるので、たくさん走る予定だった私はそれにした。

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左ハンドルの日本車も多い。
これは北米のみで販売されたシビッククーペ。
高価だが、スポーツタイプのレンタカーもある。
(写真を撮っただけで借りてない。残念)
  
というわけで今回は一番安いフォードのセダンを借りてさっそく街へ。
日本の免許証で運転できる。

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2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年4月19日 (土)

テニアン島戦跡(6) B-29と原爆搭載ピット

我々人類の文明は進歩の過程において、つねに搾取と生存を賭して
衝突を繰り返してきた。これらの争いに不可欠な武器の進化も
同様、石器を手にしたときから始まっている。
剣を交えたかと思えば、銃弾が飛び交う時代が到来し、
文明から遅れをとったもの、あるいは戦そのものを拒んだ民族は
情け容赦なく駆逐された。
 
そしてついに人類は究極の武器、核兵器を手にした。
次の段階は何であろうか。
 
それは石器に違いない。世界が核戦争で終末を迎え、全てが
無に帰したとき、ふたたび石器を持つ時代が来るであろう。
 
ここ、テニアン島はもっとも世界の終末に近付いた島であった。
日本守備隊が玉砕し、アメリカの占領下となったテニアン島は
サイパン、グアムと合わせて、B-29の基地として瞬く間に整備された。
 

テニアン滑走路

テニアン滑走路




テニアン滑走路 
▲テニアン島ノースフィールド飛行場、A滑走路跡(下)とB滑走路跡(右上)、上空から見た4本の滑走路。
B-29による本土空襲、そして原爆投下を行ったエノラゲイ、ボックスカーもこの滑走路より飛び立った。

 
・B-29滑走路
焼夷弾による日本本土無差別絨毯爆撃はこの島から発進した
B-29によって行われた。現在も四本の滑走路が残っている。
また、原子爆弾を搭載したエノラゲイ、ボックスカーも
この滑走路より広島、長崎へ向けて飛び立った。
 

原爆搭載ピット 
▲広島型原爆「リトルボーイ」を「エノラゲイ」に搭載したピット。
破損防止と保護のため透明の囲いが施されている。
 
・原爆搭載ピット跡 
原子爆弾はその大きさゆえ、機体への搭載には地面を
掘り下げる必要があった。原爆本体はピット内から油圧ジャッキで
持ち上げられ機内へ搭載された。

原爆搭載ピット

原爆搭載ピット

ファットマン

▲こちらは長崎へ投下された「ファットマン」を「ボックスカー」へ搭載したピット
 

テニアン リトルボーイ原爆

テニアン リトルボーイ原爆02



テニアン 原爆

▲広島型原爆「リトルボーイ」の模型(青色)
ウラン235を用いたが、運用に過大なリスクを要したため、以後製造は中止され全て長崎型に移行した。 
  

テニアンのファットマン原爆

テニアンのファットマン原爆02








テニアン ファットマン原爆04

▲長崎型原爆「ファットマン」または「パンプキン」の模型 
  
・戦後も製造され続けた120発の長崎型原爆

黄色の塗装は長崎型原爆「ファットマン」ボックスカーに搭載された
プルトニウム型の原子爆弾。長崎に投下されたファットマンは死者
約73,900人という甚大な被害をもたらした。
戦争終結後(1950年迄)も120発が製造されアメリカ軍の核戦力を担っていた。
 
・模擬爆弾「パンプキン」の投下
当初、投下候補地となったのは京都、広島、小倉、新潟の四都市で
いずれも原爆による威力を観測するため、事前の空襲は禁止されていた。
この間「パンプキン」と呼ばれる長崎型原爆と同形の模擬爆弾を東日本の
30都市に合計50発投下し、実験を行った。模擬爆弾とはいえ
通常爆薬が詰められており、この実験により400名以上が死亡した。
  
・第一目標は京都
第一目標の京都であったが、ヘンリー・スティムソンの反対により
候補から外された。京都の歴史的文化財保護を目的とした
アメリカ側の意図があったと一般に流布しているが、これといった
根拠はなく、単に戦後処理を考慮した結果、京都への投下は
非合理と判断した結果にすぎない。京都は爆撃による被害が少なく
多くの家屋が破壊されすに残っていたため、その地形を含めて
原爆投下の影響を実証するには最も適するターゲットであった。※1
 
・ストレートフラッシュによる皇居爆撃
広島への原爆投下は当初、クロード・イーザリー少佐が機長を務める
シルバープレート「ストレートフラッシュ」が担う予定であった。
ところが7月20日、この事前実験として郡山がストレートフラッシュの
投下目標となった際、悪天候もあって、イザーリー少佐は
独断で皇居へパンプキンを投下。(昭和天皇の殺害を意図した説もあり)
結果的に目標から外れたが、天皇は降伏後の最重要交渉相手であると同時に
日本人に対する心理的影響を最大に懸念していた米軍はいかなる場合も皇居への
爆撃を禁じていたためイザーリー少佐とストレートフラッシュは広島への任務を
解任され、エノラ・ゲイが補されることとなる。なおストレートフラッシュは観測機と
して随行した。
 
・シルバープレートとは
シルバープレートとは原爆投下を専門に行う目的で改造された
B-29の仕様(呼び名)で終戦まで15機が準備された。なお
戦後も含めるとその数は65機に及ぶ。
 
・朝鮮戦争とマッカーサーの原爆投下要請
その後、勃発した朝鮮戦争で、最高司令官マッカーサーは徹底抗戦を
続ける北朝鮮に対し、原爆の使用(場合によっては数発から十数発)を
要請したが、トルーマン大統領は第三次世界大戦の勃発を懸念し、これを
却下。マッカーサーを解任する。
 
・テニアン島から核兵器廃絶と平和を考える
このように、世界は核兵器の登場で幾度となく終末の危機にあったことが
理解できるし、それは現在も変わらない。
 
昨今、左派活動家主導による「憲法九条をノーベル平和賞に」
という運動が一躍話題となったが※2
日本が今日まで戦争を経験せずにこれたのは
皮肉にもアメリカの大軍事力と核の傘下に依るもので、子供でも見当がつく
大きな矛盾が生じる。この矛盾を解決しない限り、真の平和など
実現しない。
 
以前、陸上自衛隊の佐官から聞いた言葉であるが
実に的を射ているので、それ以来、事あるごとに拝借しているので
今日もここで記して置く。
 
「残念ながら平和を守っているのは軍隊なのです」
 
残念ながら平和は乞うものでは無い。少なくとも今のところは。
守るものである。
 
真に核兵器が撤廃され平和な世の中を取り戻すために
議論は必要であろう。目をつむってはいけない。
 
私は日本人として、原爆投下は到底許せるものでは無いし、それが
戦争を早く終わらせる手段だったとして容認もできない。
かといって、アメリカを憎しみを持つものではない。アメリカとは
強かに付き合う必要がある。必要なのはこれらの事実を絶対に忘れない事、
語り継ぐことである。
 
長崎、広島と合わせて
サイパンへ訪れた際はテニアンまで足を伸ばしてみることを
ぜひ、おすすめしたい。
 

エノラ・ゲイ

エノラ・ゲイ

エノラ・ゲイ

▲スミソニアン航空宇宙博物館に保存されているエノラ・ゲイ

 
※1
アメリカは戦後、南洋においては日本の文化財、文化そのものを徹底的に
破壊してきた。B-29による無差別爆撃や原爆投下はホロコースト(虐殺)で
はないのだろうか。それら一切が罪に問われず、被弾し落下傘降下した
B-29搭乗員を殺害した将校は戦犯となり処刑された。日本人は
気付かねばならない。アメリカの戦争はいかに都合よく、合理的に
行えるか否か、でしかない。
 
※2朝日新聞は
一般の主婦と報道したが正確にはプロの左派活動家。

2014年4月18日 (金)

テニアン島戦跡(5) スーサイドクリフ・天寧の落日

テニアン島玉砕戦
陸軍松本歩兵五十連隊・
角田海軍中将の最期

前回の続き
 

・テニアン島へ敵上陸
昭和19年7月24日早朝

アメリカ海軍第二海兵師団の上陸用舟艇がテニアン港へ
向けて前進。これに対し日本守備隊の重砲が一斉に火を吹いた
海軍砲台は戦艦コロラドに22発以上の命中弾を浴びせ
さらに駆逐艦ノーマン・スコットを撃沈。艦長以下多数が死傷した。
 

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)
▲砲撃を行ったペペノゴル砲台(小川砲台)

 
しかしこれは米軍の陽動作戦であり、戦艦コロラドほかは結果的に囮となったが
その隙をついて防備が手薄となった北西チューロ海岸に第四海兵師団が
強襲上陸した。

 
ここで日本側の守備隊を記して置く。

帝国陸軍
松本歩兵50連隊(第二十九師団隷下)
連隊長・緒方敬志大佐
 
第一大隊・松田和夫大尉・北西海岸陣地
第二大隊・神山新七大尉・北東海岸陣地
第三大隊・山本好江大尉・南西海岸陣地
山砲大隊・甲斐克己少佐・ラソ、サバネタバス、カロリナス砲陣
  
このほか 工兵中隊(325連隊第二中隊) 矢野忠一中尉、
補給中隊・野崎健司中尉、独立戦車第二中隊・鹿村一男中尉
第二十九師団所属第一野戦病院・小野直樹軍医大尉であった。
 
・南溟に散華した山国の郷土部隊
歴戦の精鋭、松本歩兵50連隊は
かつて四コ連隊制の時期には第十四師団隷下にあり
・水戸2連隊 ・高崎15連隊 ・宇都宮59連隊 ・松本50連隊
の四コ連隊編成で、ともに大陸で戦った精鋭兄弟の連隊であったが
一コ師団三個連隊への改編に伴い、松本のみ29師団へ編入された。
 
水戸2連隊(全て)と高崎15連隊(一個大隊と逆上陸大隊)は
ペリリューで玉砕、宇都宮59連隊第一大隊はアンガウルで玉砕。
そして松本50連隊もテニアン島に散る運命にあり
栃木、茨城、群馬、長野の郷土部隊はいずれもはるかなる南溟に散華した。
 
・われら太平洋の防波堤とならん
第一大隊長・松田大尉は長野県別所温泉の出身で
朝は宮城(きゅうじょう・皇居のこと) に向けて遥拝し、そのあと
軍刀を抜いて精一杯素振りを行っていた。家の床の間には自筆で
「われら太平洋の防波堤とならん」と書いてあった。
そして戦いが始まる迄は、毎日床に入る前に
「今日も無事」「今日も無事」と口にしていたという。
松田大尉は豪傑な性格であったが小さな子供が二人おり、子供らの
話しをするときに限っては普通の人となった。満州で家族と判れる折
「すぐに帰るから」といっていたのが心残りで「嘘をついてしまった」と
何度も口にしており後悔した様子だった。
 
チューロ海岸に上陸した米海兵隊は破竹の勢いで南下を続け
松本連隊は後退を余儀なくされた。連隊本部は当初日の出神社付近で
あったが海兵隊の攻勢を受け徐々に後退し最終的に
島中央部マルポ地区まで後退した。マルポ地区は唯一の水源地である。
 
・あの世で会ったら一杯やろう
松田大隊長は「どうせこんな島だよ。あの世で会ったら一杯やろう」
とニッコリ笑ったという。
 
・松本連隊の玉砕
陸軍・松本連隊の抗戦はここに終わり、連隊旗が奉焼された。
連隊長以下、全員が敬礼して見守り、奉焼された連隊旗は
連隊旗手平井敏明少尉が灰まで丁寧に処理した。
翌日、最後の突撃を敢行し、連隊長以下全員が戦死。
栄光の松本歩兵50連隊の歴史はここに終焉を迎えたのである。
 
陸軍が中部マルポで玉砕し島南部の守備は
海軍陸戦隊に託された。
大家吾一大佐率いる第五十六警備隊と
第一航空艦隊司令の角田中将は司令部を
南部カロリナス台地に後退させなおも徹底抗戦を続けた。
 

カロリナス台地

▲カロリナス台地・最後の戦場

 
・翼を失った航空兵の戦い
飛行機を失った第121海軍航空隊のパイロット達ならびに司令の
岩尾正次中佐(海兵51期、大分県出身)は飛行場西海岸の岩場を
死守していたが、なにしろ元来陸戦の武器をもたない航空兵であるから
考えたあげく、爆弾を引っ張ってきていよいよ敵が攻めてきたならば
ハンマーで信管を叩きもろとも自爆する覚悟であった。
こうして虎の子の搭乗員と岩尾司令は、勇猛果敢に最後まで戦い
テニアン島の露と消えた。 

・角田中将と航空隊員の潜水艦救出計画 
搭乗員不足が深刻化していた海軍は、当初、潜水艦を派遣し
角田中将を含め、航空隊要員のみをテニアン島から脱出させる
計画であったが既にテニアンは100隻以上の米艦船に囲まれていた上
当の潜水艦が撃沈されたため、脱出作戦は頓挫した。それ以外の、
つまり陸軍の兵隊は死んでくれと言っているようなものであり、
当初批判も受けたが、角田長官も命令に従ったまででやむを得ない
事情であったし、結果的に脱出計画そのものが失敗しており角田中将以下
海軍部隊全員はカロリナス付近にて玉砕している。
 
角田中将は戦国武将に例えると上杉謙信のような指揮官であり、
自ら先陣を切って敵陣へ殴り込みをかけることを辞さない猛将であったと
伝えられる。潜水艦の接岸が成功したと仮定しても、はたして
大勢の部下や民間人を差し置いて逃げたであろうか。
 
・角田中将の最期とテニアン島陥落
角田中将は最後まで自決をしなかった。
「長官は手榴弾を抱えると司令部壕を飛び出し、敵陣へと消えていった」
それが角田中将を見た最後の証言であった。
 

テニアン スーサイドクリフ

テニアン スーサイドクリフ02

テニアン スーサイドクリフ


テニアン スーサイドクリフ 
▲スーサイドクリフ(テニアン島)と画面左がカロリナス台地
 
ごく一部の心無い中国人観光客による慰霊碑への落書き行為などが横行したため、
岬へ通じる道にゲートが設けられたが、最近は解放されて自由に見学できるように
なっている。サイパン島のスーサイドクリフと呼ばれる場所があるがここはテニアンの
スーサイドクリフである。
 

テニアン島において保護された民間人は
およそ9,000人と云われる。これは角田中将が民間人に対し
「皆さんは軍人でないのですから、死ななくていいのですよ。
投降して米軍の保護を受けなさい」と戒めたこと、さらに
陸軍緒方連隊長と
海軍大家司令がいずれも大分県の中津の同郷人であったため何かと気心が通じ、
カロリナス付近における民間人の指導もうまくいったという説がある。
その点はサイパン島と異なる。
 
しかしながら、数字は諸説あるものの自決を迫られた民間人も当然おり
サイパン島同様、島南端のスーサイドクリフから飛び降り、命を絶った。
さらに特筆すべき点は16歳から45歳までの男子、約3,500名を集めた
民間義勇隊6個中隊が編制され、戦闘に協力した。彼らの尊い犠牲も
忘れてはならない。
 
・天寧の落日
8月3日こうしてテニアン島における組織的戦闘は終結し
米軍はテニアン島占領を宣言した。そして
飛行場を大規模に整備拡張し
のちにB-29の最大拠点として完成させ、日本各地の都市を無差別爆撃
ならびに広島、長崎への原爆投下を行うのである。(後述)
 

※それから一年あまり経過した終戦後の昭和20年8月30日早川少尉以下48名は
なおも終戦を信じず抗戦を続けていたが先にサイパン島で投降した大庭大尉が
テニアンに招かれ説得にあたりこれに成功、長きにわたるテニアンでの戦いは終結した。
  
続き(B-29の基地となったテニアン島)

2014年4月15日 (火)

テニアン島戦跡(4) 日の出神社

テニアン 日の出神社 
 
前回の続き

人の営みあるところには必然と神社が祀られる。
テニアン島「日の出神社」跡である。
 
1920年(大正9年)テニアンはパラオやサイパン同様、第一次世界大戦での
ドイツ敗北によって、国際連盟より正式に日本の委任統治領となった島で
以後、日本語で「天寧」と表記されるようになった。 テニアン島における
南洋開拓は南洋興発株式会社が基軸となり、 内地からの移民を募って
推進された。主に砂糖やコーヒーの生産が行われ、
また鰹節の生産も盛んであった。
  
 昭和19年6月時点での人口は日本人15,700人(軍人除く)で
このほか朝鮮人2,700名、 チャモロ人26名が住んでいた。
その勢いたるやサイパン島に引けを取らないものだった。
その参道の規模から推測しても当時は賑やかだったことがうかがえる。
 

テニアン 日の出神社 

▲一の鳥居
 
ここテニアンを永住の地と決めた人々にとっては心の拠り所であり
悲しい事や嬉しい事、とにかく事あるごとに神社に足を運んだに違いない。
人々が集まり、生活を営む上で神社が祀られる。 

テニアン 日の出神社
▲参道と二の鳥居

神様は人々においでくださいと懇願され、呼ばれてやって来るのだ。
いまでは参道を歩く者は誰もおらず
ひとり残された神様だけが社に鎮座している。
 

テニアン 日の出神社

テニアン 日の出神社

テニアン 日の出神社


テニアン 日の出神社 

ここは日の出神社。今も昔も神様のいるところ。
 
 
続く

テニアン島戦跡(3) 第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

 
前回からの続き

テニアン島の海軍航空隊司令部跡である。

この建物、ペリリュー島に残る西カロリン航空隊司令部
ものとまったく同じ構造、間取りをしている。 
 
昭和18年~19年にかけて
第一航空艦隊の司令部となった建物である。

第一航空艦隊基幹

第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲

第261海軍航空隊(虎)零戦五二型

第263海軍航空隊(豹)零戦五二型

第265海軍航空隊(雷)零戦五二型

第321海軍航空隊 夜間戦闘機「月光」

第343海軍航空隊(初代/隼)零戦五二型

第521海軍航空隊 陸上爆撃機「銀河」

第523海軍航空隊 艦上爆撃機「彗星」

第721海軍航空隊(龍)一式陸上攻撃機

第1021海軍航空隊 輸送機

 
それにしても
第一航空艦隊というと、紛らわしい呼び名だが航空母艦は無い
 
第一航空艦隊といえば、かつては真珠湾攻撃に始まり
太平洋やインド洋でおおいに
暴れ回った空母機動部隊であったが
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で四隻の主力空母を撃沈されて以来
一旦解体し、
再建なかばにあったのだ。強いて言うならば島を
一時的に不沈空母としての運用した
のである。
 
そのため、まずはマリアナ・パラオなどで地上基地航空隊を発足させ、
訓練の
後、完成予定の航空母艦に搭載させふたたび大海原へと繰り出す
予定であった。しかし、帝国海軍の意図は脆くも崩れ去り、ふたたびその
堂々たる空母艦隊の雄姿を見ること叶わなかった。 

第一航空艦隊司令部

 
昭和19年5月、米国機動部隊がいよいよマリアナへと
進攻を開始した。マリアナ沖海戦(あ号作戦)の始まりである。
第一航空艦隊は米機動部隊を迎え撃つ形で遊撃戦に参加したが
搭乗員の大部分は未だ訓練途中であったため、大損害を受けた。
この損害により再建の望みは遠のく結果となった。
 
昭和19年7月7日、南雲忠一第一航空艦隊司令長官はサイパン島
地獄谷付近で玉砕。サイパン島はまもなく陥落し
同島アスリート飛行場を失ったうえ、多くのパイロットが
島を脱出できずに地上戦で戦死した。
 
同年8月2日、テニアン島玉砕。
南雲中将の後任となった角田覚治中将も
地上戦で戦死。海軍屈指のテニアン島ハゴイ飛行場と
ここでも脱出に失敗した多くのパイロットを地上戦で失う。
最後まで飛行機を与えられなかった飛行兵たちはさぞ無念であったろう。
 
同年8月10日、大宮島(グアム島)陥落。
さらに航空拠点を失う。
 
こうして第一航空艦隊の再建は絶望的なものとなった。
皮肉にも最も飛行場整備に適していたテニアンは
アメリカ軍の占領後、B-29の最大拠点として整備されることとなる。 
 
残存の航空兵力はパラオ・ペリリュー島とフィリピン
各地へ転進したが、その後は特攻作戦へと進んでゆく。
  

第一航空艦隊司令部▲日本海軍ハゴイ飛行場駐機場跡。

 

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部


続く

2014年4月14日 (月)

テニアン島戦跡(2)ブロードウェイは死へのカウントダウン

前回からの続き。
 
セスナ機はテニアン国際空港へ着陸した。

とは言ってもサイパンから10分。電車の初乗りとさほど変わらない。
 
空港でレンタカーを借りる。カウンターで簡単な手続き
(日本の免許証とクレジットカードを見せればOK)を経て出発。
島にはタクシーや公共交通機関は一切ないので、ツアー
以外で訪れて自由に動きたい場合はレンタカーが唯一の手段。
 
ブロードウェイを下りて行く。
遠くに見える大きな建物がテニアン・ダイナスティーホテル&カジノ。
テニアンは静かな島で、サイパンから足を伸ばす観光客は僅かしかいない。
対向車や人と行きあうことも稀だ。

ブロードウェイ


▲ブロードウェイ~原爆投下への道
ブロードウェイという名称はテニアン島がニューヨークのマンハッタン島に
似ていることから同様に名付けられたものだが、このブロードウェイを北上するとき
ぜひとも触れておかねばならない歴史がある。
 
1945年(昭和20年)7月26日
アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」がテニアン港に入港する。
重巡インディアナポリスはこのとき、人類史上、最も恐ろしいミッションを
帯びていた。後に広島、長崎へ投下される原子爆弾の輸送である。
インディアナポリスから陸揚げされた原子爆弾は、輸送用車両に積み替えられ
このブロードウェイを通って、ノースフィールド飛行場まで運ばれた。
広島に原爆が投下される11日前の出来事である。※1
 
我々日本人がこのブロードウェイを北上するとき、死へのカウントが冷酷
にも確実に刻まれているような、そして場合によっては震えが止まらない
恐ろしい錯覚に陥るかもしれないが、それは何ら不思議な事ではない。
過去の出来事ではあるが、アクセルを踏み込む足も重くなる。
 
そんな気持ちと相反するかのように、空は青く澄み渡り、
吹き付ける風が肌に心地よい。
 
原爆投下ミッションとその戦跡については後述する。
 

テニアン 

▲北にサイパン島が見える。
 
※1
インディアナポリスが輸送したのは原爆本体であり
核弾頭は航空機で空輸された。
 
なお、原爆を陸揚げした二日後の7月28日、
インディアナポリスは出港、単独レイテに向かったが
日本の潜水艦「伊58」の雷撃を受け、沈没する。
 
当初、原爆投下計画の極秘任務が漏えいし狙われたものと
思われ、アメリカ当局はパニックとなったが、日本海軍側が
意図するものはこれといって無く、撃沈は全くの偶然であった。
 
インディアナポリスは単独航行が災いし発見と救助作業が遅れ
クルー1199人のうち大部分が戦死し、生き残ったのはわずか316名
にすぎなかった。

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2014年4月12日 (土)

テニアン島へ飛ぶ テニアン戦跡巡礼の旅(1)

かねてより訪れたいと心に秘めていたテニアン島。
戦跡巡礼がこのたびようやく実現した。

テニアン島へ行く


テニアン島概要
テニアン島はサイパン島から海峡を隔てて南へ、わずか5kmの距離にある。
現在はアメリカ合衆国の自治連邦区(コモンウェルス)である。
 
日本の委任統治時代
1920年(大正9年)テニアンはパラオやサイパン同様、第一次世界大戦での
ドイツ敗北によって、国際連盟より正式に日本の委任統治領となった島で
以後、日本語で「天寧」と表記されるようになった。
 
さかんに「日本の植民地であった」などとと紹介されることがあるが
これは表現の違いでなく完全な誤りである。
 
テニアン島の最盛期
テニアン島における南洋開拓は南洋興発株式会社が基軸となり、
内地からの移民を募って推進された。主に砂糖やコーヒーの生産が行われ、
また鰹節の生産も盛んであった。
 
昭和19年6月時点での人口は日本人15,700人(軍人除く)で
このほか朝鮮人2,700名、 チャモロ人26名が住んでいた。
その勢いたるやサイパン島に引けを取らないものだった。
 
戦火の渦へ・・・テニアン玉砕戦
昭和19年7月24日、広大な航空基地を有し、絶対国防圏の要であった
テニアン島は サイパンに続き戦火に巻き込まれてゆく。この戦いで
日本軍守備隊は玉砕。残された民間人も、米海兵隊によって
カロリナス台地南端の 崖に徐々に追い詰められ、その多くが身を投げた。
崖は現在、スーサイドクリフと 呼ばれる。
 
B-29の航空基地となる
米軍はテニアンを占領後、サイパン、グアムと合わせて
かねてより計画していた一大航空拠点を築き上げ、B-29を多数配備。
日本本土無差別爆撃を行う。 そして原爆を搭載した二機のB-29も
このテニアンより広島、長崎へ飛び立った。
 
テニアンへのアクセス(行き方)
テニアン島へのアクセスはサイパン島から出るセスナ機が
唯一の手段で、飛行時間はおよそ10分。
これがその6人乗り軽飛行機である。

スターマリアナス

2014年現在、テニアン島へのセスナ機は二社の航空会社が担っている。
まずは30年間無事故を誇る「フリーダムエアー」
そしてもう一社が「スターマリアナス」である。
 
機体に紫のカラーリングがスターマリアナス。
ジュラルミンむきだしに水色のペイントがフリーダムエアーだ。

フリーダムエアー

スターマリアナス



テニアンへ行くスターマリアナス

サイパン国際空港に待機中の両社の飛行機。
同空港は戦時当時の昭和19年、アスリート飛行場と呼ばれ
日本海軍の飛行場であった。第261海軍航空隊や第263海軍航空隊の
ゼロ戦隊が連日出撃し、マリアナ沖海戦の主戦場となった。 
 
そんな遥かな思いを馳せながら、テニアン行きの切符を買い求める。 
テニアン行きのセスナは数十分から一時間毎に出ている。
 
原則、予約はできず、チケットは当日窓口で購入する。6人乗り
(キャプテンの除くと5人)乗りの飛行機なので定員に達すると
先着者が優先で、他の乗客は次の便に持ち越しとなる。
パスポートを提示し、チケットを購入すると

整理券

 
整理券が配られる。片道34ドル50セント。
今回はスターマリアナスを利用した。
 
チケットカウンターの脇には通常の空港
と同様の荷物の重量計があるが
ここでは、荷物を持ったまま自分自身も
計りの上に乗るよう指示される。



小さな飛行機なので重量は特に管理されているようだ。
大きな荷物の持ち込みは控える。また日帰りの場合、スケジュールに
余裕を持たないと満席で帰ってこれなくなる恐れがあるから最終便は
避けよう。
 

サイパン国際空港

サイパン国際空港 

サイパン国際空港を離陸する。ここから隣のテニアンまでわずか10分。
軽飛行機は景色も良く見えるし、乗り心地も実に爽快である。
大型旅客機では決して味わえない、大空を舞う感覚を存分に味わえる。
  

テニアンへ飛行機で

瞬く間にテニアン上空へ到達。
大きく旋回して着陸コースに入る。
 

飛行機でテニアン

四本の滑走路の上空を通過する。日本海軍の牛(ハゴイ)飛行場跡ならびに
米軍ノースフィールド飛行基地跡だ。この滑走路から数多くのB-29が
無差別爆撃を行うべく日本本土へ向け飛び立った。
 
なお、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはA滑走路を用いた。
 

ハゴイ飛行場

 
セスナ機はテニアンへ着陸する。
 
続きはこちら
 

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2014年4月11日 (金)

バンザイクリフ(サイパン島)

バンザイクリフ

昭和19年7月6日
サイパン島守備隊の総司令官である
南雲忠一海軍中将
ならびに斉藤義次陸軍中将の戦死により日本陸海軍による
組織的戦闘は終結した。
 
組織的戦闘終結後もアメリカ海兵隊は掃討作戦を実施。
指揮官を失った日本残存守備兵と婦女子を含む多くの民間人は
サイパン島の北へと北へと徐々に追い詰められていった。
逃げ場を失い、最終的に辿り着いたのがこのマッピ岬の断崖である。

バンザイクリフ

バンザイクリフ

バンザイクリフ

生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓のもと、多くの軍人は
自刃、もしくは最後の突撃を敢行したが、これが民間人にまで
及んでしまったのがサイパン島最大の悲劇と言えよう。
 
米兵に捕えられれば死より辛い仕打ちが待っていると言い聞かされていた
当時、多くの一般邦人、現地民が、「万歳」と叫びこの断崖から身を
投げたのであった。崖下の海は真っ赤に染まり、屍で埋め尽くされた。
そして戦後、このマッピ岬はBANZAI CLIFF(バンザイクリフ)と呼ばれる
ようになったのである。

バンザイクリフ 
それにしても、事実を知っていれば無事米軍の保護を受けられたのだろうか。
しかし田中徳祐は次のように証言している。
 
米軍による虐殺の事実
米軍はバナデル飛行場に追い詰められた民間人のうち、婦女子のみを
選びだすと裸にし、トラックに詰め込んでいった。女たちは荷台で泣き叫んでいた。
残った子供や老人は一ヵ所に集められ、ガソリンが撒かれ、火がつけられた。
炎から逃れようとする者を米兵はゲラゲラと笑いながら、再び炎の中へ

蹴り飛ばしたり銃で突いたりした。またある米兵は赤ん坊の両足を持って
真っ二つに引き裂いて
火中に投げ込んだ。
 
戦勝国としては、このような都合の悪い真実は抹消していて然りである。
今となっては確かめる術はないが、同様に米軍が全ての民間人を全うに
保護したという証拠が存在するわけでもない。
 

バンザイクリフ

観音像の背後の岩山がスーサイドクリフである。
今やサイパン島を訪れる日本人観光客は激減し、
韓国人や中国人が目立つ。かれらはピースサインをまじえて
笑顔で記念写真を撮っている。
 
ここへ来る以前、サイパンの街で偶然話しかけてきた島民は
私を日本人と知ってか知らでか「ナイスビューのポイントだから行ってみろ」と
このバンザイクリフの場所を教えてくれた。
 
戦争当時の事柄を、我々が現代常識という物差しをもって安易に
評価するのは避けるべきである。しかし唯一、断言できるとするならば
戦争で尊い命を犠牲にされた軍民全ての御霊に祈りを奉げることは当然であると
同時に今日日本の礎となり、繁栄と平和をあたえてくれた先人たちへ
感謝の気持ちを持つことこそ最も大切であろう。

2014年4月10日 (木)

スーサイドクリフ(サイパン島)

スーサイドクリフ

▲スーサイドクリフよりマッピポイント(マッピ岬)、バンザイクリフを望む

スーサイドクリフとは 直訳すると「自殺の崖」で
日本統治時代にマッピ山と呼ばれた岩山の断崖である。
  
昭和19年7月、北上を続ける米軍制圧部隊に追い詰められ、
逃げ場を失った多くの日本軍将兵および民間人までもが、
捕虜になることを拒み、この場所から身を投げた惨劇の場である。

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

▲CNMI Veterans Cemetery よりスーサイドクリフを望む

スーサイドクリフ


眼下に見える三角形の敷地はCNMI Veterans Cemetery
(北マリアナ諸島退役軍人墓地) その先にバンザイクリフも望む。
ちょうど崖下にあたるバスが駐車してある辺りがラストコマンドポスト
なお、崖下の一帯はバナデル飛行場跡地である。
バナデル飛行場は日本軍が建設途中であったものを
米軍が占領ののち奪取し完成させたものである。
 

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

 
なお、テニアン島にも同様の経緯で、惨劇の場となった
スーサイドクリフが存在する。
「テニアン島のスーサイドクリフ」へ

2014年4月 9日 (水)

ラストコマンドポスト(サイパン島)

Imgp7167

 
ここはサイパン島、いわゆるラストコマンドポストと呼ばれる
戦跡地であるがそもそも誤りである。
 
ラストコマンダーである南雲中将が最期を迎えた本当の野戦司令部は
ここよりはるか10kmも南に在る地獄谷なのだが
 
地獄谷の記事、行き方はこちら
 
多くの観光客は、この場所がまさにラストコマンドポストと紹介され見学し
誤解したまま帰って行く。多くのガイドブックにも 同様に掲載されており、
今更改めることは容易ではない。
 
火器や戦車も専門家が一見すれば配置がおかしく
余所から集めたものであることがわかる。
さらに、灰色の塗装は最近塗り替えられたものである。
 

Imgp7168

Imgp7157

Imgp7161

 
今日も嘘で塗り固められたラストコマンドポストに大勢の観光客がやってくる。
日本人の姿は少なく(サイパン全体に言えることだが) 最も多いのが韓国人、
次に欧米人の姿も見られる。 同じアジア系でも、韓国人と日本人の違いは
喋り声を聞くことすらなく、遠くから一見しただけでもすぐにわかる。
最も顕著なのが身なり(ファッション)そして歩き方や振る舞いなどである。
  

Imgp2469

 
さて、先に述べたように此処をラストコマンドポストと呼ぶのは誤りであるが
この地も激戦の戦闘拠点であることには違いない。
これらの戦車や高角砲 トーチカで戦って戦死した英霊に黙祷を
奉げることは当然であろう。
 
今やサイパンに日本人観光客の姿は少なく、北部は廃業したリゾートホテルが
並んでおり、青い空と海という絶景の中に、草生して そびえる巨大ホテルは
物悲しくかつての賑わったサイパンを 静かに物語る遺構の様である。
 

Imgp7165

Imgp7178

2014年4月 4日 (金)

KBブリッジ

KBブリッジ(パラオ)1

KBブリッジ(パラオ)2

KBブリッジ(パラオ)3

KBブリッジ(パラオ)4

KBブリッジ(パラオ)5

KBブリッジ(パラオ)6

KBブリッジ(パラオ)7

 
新KBブリッジ
KBはKoror-Babeldaob Bridgeの略であるが
正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge
ジャパン・パラオフレンドシップブリッジ(友好の橋)という。
 
2002年竣工。旧ブリッジ崩壊後、
日本の鹿島建設により再建された。
 
パラオ国際空港(バベルダオブ島)と最大の街コロールを繋ぐ橋であると同時に
バベルダオブ島の発電所と水源をコロール島へ供給する
パラオの国家生命線である。
 
通常、深夜便で到着し、同じく深夜便で出国する観光客は必ずこの橋を
経由する。暗闇の中その勇壮な姿を見る機会は少ないが
日本とパラオ友好のシンボルであるので、旧KBブリッジの
崩壊事故と合わせてその歴史に触れておきたい。
 
旧KBブリッジ(韓国製)の崩壊
旧KBブリッジは1977年に、韓国企業SOCIOにより建設された。
建設業者選定入札において、SOCIOは鹿島建設の半額の入札価格を
提示し落札している。
  
1996年9月26日木曜日
ちょうど二日前に行われた大統領予備選挙の開票作業が
進めらていたその日はごく普通の日であった。

夕方遅く
コロールガルミッド地区(旧ニッコーホテル付近) に住む住民によると
突然、ドーンという轟きとともに 電気が止まり、最初はダイナマイトか
何かが爆発したのかと錯覚したという。
 
「KBブリッジが落ちた!」
まもなく血相を変えた友人がそう言って飛び込んできた。
KBブリッジの見える裏山に登ると、かつて橋のかかっていた辺りに見えるのは
立ちのぼるもうもうとした 灰色の粉塵のみで、あるべき橋の姿は失われていた。
不幸にも崩落中に通行していた二名が海へ投げ出され死亡した。
 
◆クニオ・ナカムラは国家非常事態宣言を発令
水道、電気、電話線など、コロールで使用される ライフラインは
全てKBブリッジを通じて供給されていたので 崩落により、すべての
生命線を分断された。 クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。
ほどなく官民あげて不眠不休の復旧作業が始まるのである。
 
資材や重機も不充分なままであったが 事故から4日後、
まず橋の両岸に電線を建てて電気が確保された。
コロールの住民にとって切実なのは電気より水の確保であったが
アメリカ軍がすぐさま通信基地に備蓄していた非常用飲料水を提供し
日本やアメリカからの緊急援助も得て、海水淡水化装置も設置された。
またパラオ政府は消火用ホースを橋の両端に渡すことで 仮復旧を試み、
10月6日には朝夕二時間の限定ではあるものの 給水を確保した。
 
両岸の輸送体制も、民間の協力により 渡し船が就航するとともに
バージ船(ハシケ)を用いた 車両の輸送を開始した。
 
◆ヒロシマを引合いに出し国民を奮い立たせるナカムラ大統領
こうした官民一体必死の努力により 事故後10日ほどでとりあえず、
最低限の仮復旧は成った。 ナカムラ大統領は、事故の数日後
原爆の惨禍から立ち上がり今日の繁栄を築いた広島を引合いにだし
「この危機は国民をより強靭にする」と」鼓舞、
今回の危機への国民の対応が何よりの誇りであると称揚した。
 
またKBブリッジの崩壊はナカムラ大統領の再選に僅かながらも影響を与えた。
対抗馬のトリビオン候補が「一致団結してKBブリッジ崩壊の復旧に務めなければ
ならない。 こんなときに政争をしている場合ではない」として立候補を取り下げた。
これは「名誉ある撤退」とも賞賛された一方、現職ナカムラ大統領に
予備選挙で大差をつけられ、事実上決戦で勝ち目がないと悟ったことも大きい。
 
パラオ共和国独立への道筋をつけ その後も潤沢な資金を集め
パラオを活気付けるナカムラ大統領の手腕は 選挙前から広い支持を
得ていたものの、この事故と復旧により さらに求心力を高め、
次の四年間の指導力の根源となった。
 
二期目に入ったナカムラ大統領の最優先課題はKBブリッジの再建であった。
ここで資金と技術提供を求めたのが日本だった。 1997年1月に大統領は
日本を訪問しKBブリッジの再建を強く要請。 パラオのような小さな国に対しては
異例の23億円の無償資金供与が決まった。 かくして鹿島建設による
新KBブリッジ再建工事が着工、 旧ブリッジの土台を利用することも
検討されたが質が悪すぎたため 一からの作り直しとなった。
 
新KBブリッジの竣工
こうして2002年に竣工した新KBブリッジは
正式名称「Japan-Palau Friendship Bridge」と名付けられ
パラオ国民の生命線として根付いている。
 
なお、旧KBブリッジの瓦礫は現在も新ブリッジ真下に沈んでいる。
橋の下を流れるのは「アルミズ水道」である。
コロール側の橋の下は公園として整備されており、自由に立ち入ることができる。
ローカル憩いの場であり、朝や夕方は釣り人の姿が目立つ。
一画にはシャワーもあり 水も澄んでいるので、アルミズ水道側の深い箇所へ
近寄らなければ 泳ぐこともできる。
 
我が国の民といえば
山があればトンネルを掘り、谷があれば橋を架ける。
そんな土木技術を極めた日本製の橋である。
 
私がこの橋を渡るとき、運転していたパラオ人がこう言ったのである。
「頑丈な橋。日本人、ありがとうね」

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
パラオ地図

▲枠内をクリックするとそれぞれの地域に拡大されます
 
パラオ地図フリー素材(無料)配布中

 

カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年3月25日 (火)

ペリリュー、アンガウル

Imgp3287 

ペリリュー、アンガウルに滞在中です。
アンガウル島にてご遺骨を見つけましたので
帰国後、厚労省にデータを届け出ることにしました。
 
※(写真はペリリューの壕です)

2014年3月14日 (金)

パラオ全図

パラオ地図

▲パラオ全図
 
パラオ共和国ってどんなところ?
 

年配パラオ人は日本語ベラベラ(動画) 
ミルキーウェイ/古代から堆積した真っ白な泥 
勇壮のKBブリッジ(日パ友好の橋) 
世界遺産ロックアイランド/無限のブルーラグーン 
パラオの空を飛べ!セスナ機で空へ 
パラオ国旗の由来 
東日本大震災-そのときパラオでは 
日本語が語源のパラオ語 
ペリリューへ定期船の旅
ノースドックの子供達
2013年ペリリュー島の台風被害

 

パラオ・バベルダオブ島の地図

▲バベルダオブ島

ペリリュー島の地図

▲ペリリュー島

アンガウル島の地図

▲アンガウル島

2014年3月13日 (木)

南雲中将終焉の地

南雲忠一中将自決のサイパン島地獄谷 

サイパン島の地獄谷です。
南雲忠一中将終焉の地です。
 
南雲中将の最期は諸説ありますが
この辺りで自刃、もしくは最後の突撃を敢行した
とされています。
 
かつては大機動部隊を率いて真珠湾攻撃をはじめ
大海原を駆け回った南雲提督。
しかしその最期は、サイパン島のジャングル奥深く、矢尽き刃折れ
たった二発の手榴弾を抱えただけの、悲壮なものでした。

 
合掌
 

2014年2月17日 (月)

人形供養のお焚き上げ

今日は雪の残る中、
人形供養のお焚き上げに行って参りました。
ぬいぐるみや人形などをお寺にお願いして焼却する行事です。
大きさ30センチまで1,000円、60センチまで2,000円
ひな人形などのセットは10,000円をお坊さんに払うと
預かって供養してもらえます。

 
お寺の参道は、車一台がようやく通れるほどの
細長い急な上り坂で、途中スタックして動けなくなっている
車を見つけました。ドライバーは白髪のおじいさんでした。
私は引っぺがしたフロアマットを使ったり、車を
力いっぱい押したり、必死になって脱出を試みましたが
なかなか動かず、ややもすれば後続は渋滞となっていました。
そのうち渋滞先頭のドライバーが降りてこちらへ歩いてきたので、
協力してくれると期待したのですが

 
「あ~あ、こりゃダメだ。ノーマルタイヤじゃのぼれっこないよ
もう他の道で行こう」

 
と、やや怒り気味口調で踵を反すと
アクセルふかして行ってしまいました。

 
私は運転席でハンドルを握るおじいさんのかわりに
「どうもすみません」と謝ると作業に戻りました。
時間をかけてやっと脱出できたのですが
その間、他の人たちはみんな見てるだけでした。
ちょっとがっかりしました。

 
・・・さて、本題に戻ります。肝心の人形供養なのですが
お寺のどこへ行ってみても人形を燃やしている様子は無い。
コリャ雪と強風で中止になったんだろうと思って
「今日は中止になったんですよね?いつやるんです?」
と、お寺に尋ねてみると

 
「ああ、それなら無事に終わりましたよ。
燃やすと近所から苦情がくるもんで、今年からは預かるだけ預かって
お経あげるだけにしたんです」

 
「えっ、お経あげるだけなんですか。その後はどうするんです?」
と、尋ねたい気持ちもありましたが空気を読んでやめておきました。

 
お坊さんも忙しいんだと思います。

 
私は長靴をブカブカいわせながらも
すべらないようにしっかり雪を踏みしめながら、
のんびり歩いて帰りました。
水子供養のお地蔵さんは杉林の中、頭に積もった
雪を払ってあげたかったけれど、数が多すぎます。
寒そうでした。

2014年2月14日 (金)

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2014年2月 4日 (火)

山本五十六記念館

Scan0068

前回ブログの続です。長岡の
山本五十六記念館を見学しました。
実はここは夏にも来たことがありますが二度目です。
 
館内は撮影禁止なのでこれはパンフレットです。慰霊団がブーゲンビル島の
墜落現場から持ち帰った山本座乗の一式陸攻の左翼と実際に
座っていた座席が展示されています。
 
そのほかには山本直筆の書や手紙、愛用品などが展示されており
ひとつひとつじっくりと拝んできました。 
 

Imgp3317 
受付兼土産物店で買い求めた「常在戦場」の書、コピー品。
館内にはこの書の実物展示があり、拝んでいると山本五十六の覚悟
が伝わってくると同時に歴史の一部に触れられたようで感慨無量。
 
五十六記念館では、このほかにも素晴らしい
五十六グッズを(五十六カレーや「やってみせ~」の色紙など)多数
揃えて皆様のお越しをお待ちしております。 
 
受付の方は、見学者がわたしひとりだったこともあり
熱心にガイドしてくれまして、一式陸攻左翼帰還の
ビデオまで見せてもらいました。
 
次に車で5分くらいのところに墓所があるので
お参りに行きました。
 

Imgp6324

山本の墓所、長興寺(ちょうこうじ)です。
駐車場あります。しかし
この時期は雪でズブズブであります。
 

Imgp6320 

正面が山本五十六のお墓です。冬に来たのは初めてです。
この状態では戒名しか読み取れませんが、夏であれば
墓石の下のあたりに「山本五十六」と刻まれていますので
迷いません。


なお山本のお墓は東京の多磨霊園にもあります。
 



新潟にきたついでに柏崎刈羽原発広報センターを見学。
私は原子力関連施設を見学するのが好きなのです。
原発近くに来ると必ず見学します。
 
原発の可否はともかく、科学や機械、そしてなにより
重厚長大なものが大好きなのです。 

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Imgp6402

日本海を拝んで帰りました。
冬には珍しいベタ凪ぎの日本海です。
佐渡が見えます。

 


2014年2月 3日 (月)

三國峠を越えて新潟へ

Imgp6275

山本五十六のお墓参りと記念館見学の続きです。
 
水上より三國峠を経て日本海側へ抜けました。ここから越後の新潟県。
トンネルを抜けたら荒れた天候を覚悟していたのですが
こんなにも穏やかで
拍子抜けしました。得難いことであります。
 

Imgp6281

迫力の書体。どなたが書いたんだろう。
昭和32年開通と記されている。
 
延々、下って行きます。 
湯沢のスキー場近くです。
 

Imgp6300

Imgp6290




 

Imgp6304 

日本海側の冬は雪との戦いです。昔と比べれば
除雪機能は進化しましたけど、それでも冬の間、
ひたすら耐え忍ばねばなりません。
雪国の方は本当に辛抱強い。
太平洋側の我々には想像できない困難さがあります。
 

Imgp6318

南魚沼市へ入ると、有名な「雪国まいたけ」の工場があります。
大規模です。
 

Imgp6330

長岡の山本五十六記念館に到着。
つづく。



2014年1月30日 (木)

冬の日本海

Imgp6402 

冬の日本海です。
 
先日、長岡へ山本五十六記念館見学ならびにお墓参りへ行ってきましたので
近日アップします。これはその帰りに眺めた日本海の夕日です。

 
冬の日本海がここまで凪いでいるのは実にめずらしいんです。
運が良かった。
 
冬の天気は、日本海側と太平洋側ではまるで違います。

太平洋側に住む人たちは毎日、お天道様を拝んでいるのが
当たり前の生活ですが、谷川岳から北側、つまり
新潟の冬と言えばどんより常に曇っているか、雪または時化です。
生活は雪との戦いであります。
 
日本列島改造論/田中角栄
日本列島改造論で知られる越後出身の政治家

田中角栄の言葉を思い出します。
 
「谷川岳の山を切り崩して、関東とつなげてしまえばいい。
日本海からの湿った風は東京へと流れるだろう。なに?
出た大量の土砂はどうするかだって?佐渡と新潟の間を埋め立てて
陸続きにしてしまえばいいんだ。そうすれば東京まで真ッ平だ!」
 
 
陸続きにはなりませんでしたが、
田中角栄が谷川岳にトンネルを掘って高速道路と新幹線を通すまでは
それは大変な生活をしていましたのが激変したのです。
 
その佐渡島が沖に見えます。

2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


最後までご覧くださりありがとうございました。
 

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零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月22日 (水)

米軍に捕獲されたゼロ戦

ゼロ戦鹵獲機

▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。

 
サイパン島の激戦は有名ですが

同島にはアスリート飛行場と呼ばれる
帝国海軍屈指の航空拠点がありました。
 
太平洋デルタ地帯最後の攻防(昭和19年<1944>)
 
また、サイパンのほかには、大宮島※(グアム)、ヤップ、パラオな
ど三角地帯にいずれも大規模な滑走路を建設し
航空戦力を配置、太平洋の要となり、米軍と対峙しました。
 
※当時、日本占領時はグアムを大宮島<おおみやじま>と呼びました
 
昭和19年(1944)5月、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で
三角地帯の飛行場航空部隊は日本最後の空母機動部隊とともに
遊撃戦を展開し、多くの犠牲を払いました。その多くは若年の搭乗員でありました。
 
サイパン陸上戦で散った搭乗員
在サイパン第261海軍航空隊(虎)の至宝パイロット、東山中尉は、角田司令とともに
陸上戦隊に編入しました。海軍一の度胸と腕を持っていた東山中尉も
その最期は飛行機ではなく、陸上で玉砕したと伝わっています。
 
アスリート飛行場に残されたゼロ戦
ところが、サイパン・アスリート飛行場には
第263海軍航空隊(豹)第261海軍航空隊(虎)
状態の良いゼロ戦が多数残っており、これを
米軍が鹵獲(ろかく)してアメリカ本土に持ち帰っています。
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰ったうちの一機です。  
 
パイロット本来の持ち場である空で存分に戦えなかったことは
無念だったでしょう。上陸戦で瞬く間に飛行場を制圧され、
飛行機に近づけなかった可能性があります。
 

ゼロ戦鹵獲機

▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。

ゼロ戦鹵獲機

▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。

ゼロ戦鹵獲機

ゼロ戦鹵獲機

 
写真について
 
261空と263空の零戦は海軍機には珍しく迷彩色を
採用していたという説もあるが、これは誤りの可能性が高い。

モノクロ写真であれば翼の日の丸は通常黒に近い色で写るが
この写真はだいぶ薄い色に見える。溶剤などで、部分的に
塗装を落とし、日の丸を米軍の星のマークに
描きかえる直前の写真であり、それが迷彩のように見えたことから
間違った説が流れた可能性が高い。
 
敵の飛行機を戦利品として鹵獲した場合は直ちに国籍マークを
塗り替える必要があるうえ、上空から見ればまるで
日本の空母である。ここは太平洋の最前線。
誤認され爆撃でもされないよう、大急ぎで作業したのではないだろうか。
 

 

第263海軍航空隊の零戦五二型(指揮官機)をジオラマで再現してみた。
 
261空のゼロ戦に関しては
日の丸の白フチは現地で目立たぬよう黒く塗りつぶされていたが
263空は白のままだったようである。 
  

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2014年1月18日 (土)

長崎造船所などを世界遺産へ推薦

◆政府が長崎造船所などを世界遺産へ推薦
 
政府は17日の閣議で、8県の施設で構成する
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口関連地域」を
ユネスコの世界文化遺産に推薦することを了解した。
2015年の登録を目標に推薦書を提出する。
 
ユネスコが今年夏から秋に現地調査に入り
同年開催の世界遺産委員会で登録の可否が決定する。
 
推薦の名目は重工業を発展させ
日本が初めて産業国家としての地位を確立した
「世界史的意義」を強調した。
 

◆韓国は「強制労働時代の施設」と反対
これに反対しているのが韓国で
「対象施設の一部は植民地時代に強制徴用された朝鮮人が
働かされた経緯がある」との意向を示している。
 
これに対し、文部科学省下村大臣は
「今回の推薦は1910年までの産業遺産としての普遍的価値に
注目している。
日本が徴用を行ったのは1944年以降の話で、個別の問題」
とコメントした。
 
記事元と推薦施設一覧
http://www.mlit.go.jp/common/001003803.pdf
 

◆推薦予定の長崎造船所第三船渠
(1905)明治35年建設
 
◆同上ジャイアントカンチレバークレーン
(1909)明治38年建設
 

A4_2

Imgp3060

Imgp3072 

去年夏に行ってきました三菱重工長崎造船所
戦艦武蔵の故郷
もご覧ください。
 
ここからは私の感想を記して置きます。
 
韓国の反対は非合理です。
機械は機械で、それ以上でもそれ以下でもありません。 
純粋な機械、建造物だからこそ残す価値は高いと考えています。
 
私は日本人ですが、たとえばB-29。
B-29を単なるメカとして見たとき、当時の飛行機としては
洗練されたものがあり、技術、世界情勢を顕著に反映しており
歴史家にとっては実にニュートラルな
対象であり、研究対象として価値の高いものです。
 
エノラ・ゲイを保存することに対して、もちろん日本人として
あまり良い気持ちはしませんが、決して反対はしません。

ゼロ戦Tシャツ

ゼロ戦Tシャツデザインを一新し、再入荷しました。
僅かですので早めにお求めください。
 
「この色とサイズが欲しい!」という要望はたいへん
ありがたいのですが
毎度少ロッド生産ですので一種類でも売れてしまうと
しばらくお作りすることができません。何卒お許しください。
 
また、商品を置いてくださる小売店様も探しております。 
お気軽にご連絡ください。

03

Zerro

A4d

A4

T

01

amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)

2014年1月12日 (日)

岩本徹三の戦後2

以前、書きました岩本徹三の記事
貴重なコメントを頂きましたので
紹介させて下さい。(勝手にすみません)
 
以下、旅好きなおっさん様のコメントより

-------------------

ちょっと岩本さんの故郷、島根県益田市に
旅してきました(生まれは樺太です)
 
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場を
ちょこっとのぞいたりしてきました。工場は戦後を忍ばせる
古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと
勤めていたのかと思うと少し悲しかった。
 
地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという
情報があり 電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に
墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を
見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 
 
----------
 
以上です。
旅好きなおっさん様、貴重なコメントをどうもありがとうございます。
私も近くを通った折にはお墓参りしたいと考えています。

2014年1月10日 (金)

故人の人権を考える

ひとつ前の記事で、戦没者の軍歴調査について
ご案内しましたが、最近、イレギュラーな出来事が
ありましたので
少し書いておきます。
 
問い合わせを頂いたのは40代の女性でしたが
内容は次のようなものです。
 
女性
「19〇〇年〇月〇日ごろ、呉の飛行場から特攻で

沖縄方面へ飛んで亡くなった人のことを教えてほしい」
 

「そうですか。その方とはどんなご関係ですか」
 
女性
「私の前世なんです!」
 
私「うーむ」

私は前世や生まれ変わりという概念を持っておりませんので
研究調査にも加味したことはありません。
実にイレギュラーな例でしたが、女性は真剣でしたので
私は一旦、回答を保留し、後日、本に載っている
特攻隊の名簿をお見せしますということになったのですが
これでよかったのかと、今でも考えてしまいます。
 
女性は今流行のスピリチュアルに精通しており
時間や空間などの概念を超越してものを考えることができるそうです。
 
「なるほど。貴方の前世は調べた結果、この人ですよ」
とお答えすれば、自身に誇りを持って暮らしていけたのでしょうか。
しかし故人の意思はどうなるのか?乱暴な物言いではありますけれど
勝手に前世に認定されて迷惑ではないのか?とも思いました。
(すみません。スピリチュアルを否定するつもりは一切ありません)
 
そもそも故人の人権は何処にあるのか?
誰かが持っているとするならそれは一番近い遺族ではありますが・・・
遺族はあくまで遺族であり、故人の思惑や意向と異なる部分は
当然あるでしょう。亡くなった人をアレコレ評価するのは
実に難しい問題であります。
 
※注
なお、呉には飛行場はありません。(昭和17年に於いて)
呉海軍航空隊は岩国に飛行場を有しました。

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷採石場跡(大谷資料館)01

大谷採石場跡(大谷資料館)02

大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジンと機体が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

大谷採石場跡(大谷資料館)06

大谷採石場跡(大谷資料館)07

 

大谷採石場跡(大谷資料館)08

大谷採石場跡(大谷資料館)09

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大谷採石場跡(大谷資料館)12


ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)14

大谷採石場跡(大谷資料館)15

大谷採石場跡(大谷資料館)16

大谷採石場跡(大谷資料館)17

▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。
  
------------------------------

 
【大谷地下空間に存在した戦闘機「疾風」工場と秘密基地計画】
(個別ページへ)

昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
 
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。

  
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
 
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
 
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
 
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。

04_2 
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)

  
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
 
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
 
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
 
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
 
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
 

01 
▲地下工場で製造された疾風の胴体
 
◆城山地下工場概要

城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
 
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。

当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。

なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
 
◆地下工場の総員と勤務体制
 
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
 

02 
▲地下工場で製造された疾風の主翼
  

◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
 

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▲岡本西小学校北端の滑走路より離陸する「疾風」(想像図)

 
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
 
出典

米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
 
US. National Archives and Records Administration

八甲田山雪中行軍隊の足跡を辿る旅

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またやってきました。今度は夏に。
八甲田山 雪中行軍遭難資料館です。
まさにこの資料館の前の道(現在県道)を第五連隊が行軍して
八甲田山へ向かいました。
 

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▲冬と比べた写真です。


この先、田茂木野村があって、小峠、大峠と続きます。
幸畑の陸軍墓地には無料のボランティアガイドの方がいらっしゃり
こまかく説明して頂きました。
 

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▲幸畑陸軍墓地(資料館裏)夏の様子

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▲冬にも行ってきました。同じ場所です。
 
少し背の高い墓石は下士官、手前が兵卒のお墓です。
中央に並ぶのが将校のお墓で、見学者は自分だけだったのですが
丁寧に全て墓石の立ち止まって、一人一人の経緯を説明して頂きました。
ボランティアガイドの方の博識に驚くとともに
丁寧さに本当に感謝致します。
 
さて、行軍隊の遭難事件から今年で110年(平成24年現在)になります。
100年までは慰霊祭を催し遺族がお参りに来ていたのですが
それも真冬に墓石に積もった雪を掘り起こす困難さと
高齢化のため現在は行われておりません。
 
現在では陸上自衛隊が雪中訓練途中に立ち寄り清掃慰霊を行います。
ところで、山口少佐は物語では悪役になっていますが
映画が完成した折、実際の人柄と違うという指摘が随分あったようです。
しかしあくまでフィクションである旨を説明し決着させました。
さらに山口少佐の死因について、映画では病室で拳銃自殺していますが
病院に拳銃を携行することは出来ず、凍傷にかかった 左手で
こめかみを打ち抜くことはできなかったとも言われております。
 
日露戦争を控えて不祥事や揉め事を抹消したいという
軍部の思惑から 毒殺されたといった説もあり、真相は現在でも
不明のままです。 第五連隊の雪中行軍隊210名のうち199名が亡くなり
生き残った将兵も重度の凍傷を負って手足を切断の後遺症が残りました。
五体満足だったのは、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の三名のみでした。
一番元気だったのが倉石大尉でした。
東京でゴム長靴を買い求めた
倉石大尉でしたが、ゴム長は単に
当時ハイカラでお洒落なものだったようです。
これのおかげで 凍傷を防げたのは偶然でありました。
 
倉石大尉は黒溝台会戦で戦死しているので 雪中行軍遭難者の墓地とは
分けて右隣の敷地に墓石があり 階級も少佐に特進しています。
資料館を見学するとわかるのですが、雪山では僅かな距離なのに
方向を見失い 一日中彷徨した後、同じ場所に帰ってきてしまうんですね。
本当に雪山の恐ろしさを感じます。 今回は夏だったので、
行軍隊が辿った道を一通り見ることができました。
 

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▲冬の八甲田山

 

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▲ここが馬立場です。 仮死状態で発見された後藤伍長の象があります。


十和田湖まで足を延ばし 奥入瀬渓谷を走って参りました。

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▲冬の同じ場所

竜飛岬も行ってきました。 日本屈指の強風の町です。 

大きな風車の羽根。 竜飛岬から北海道を望む。
ボタンを押すと大音量で『津軽海峡冬景色』が流れます。
それから青函トンネル資料館です。 体験坑道ケーブルカーで
海底トンネルまで降りることができました。
扉の向こうは電車が走っています。

高台の碑は青函トンネル工事殉職者の慰霊碑です。

こちらは青函トンネル入口公園です。 ずいぶん手前にあるのですね。ここから潜って、出口は北海道です!

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往復1600kmの強行スケジュールでしたが
今回は夏なので 景色が存分に楽しめました。

厳冬の陸奥六県を巡る

前日夜の天気図では等圧線の間隔が狭く、ずいぶんと荒れているようでした。
積雪の為、東北道の一部が通行止めです。

しかし、この機会を逃すと次はいつになるかわかりません。
もし、降雪著しいようであれば青森まで行かず、手前で妥協して
観光するという判断で見切り発車しました。

宇都宮を午前三時に出発し、仙台を通過する午前6時頃
ヘッドライトを消灯、天候はまだ曇りで、雪の気配なく速度はそのまま
順調に進み、道程半分の古川を過ぎる頃、この先の除雪が完了し通行止め
解除されたとの情報がビーコンに入りました。

午前9時、一関から黒い雪雲が迫り、白いものが舞うようになり
これがいよいよ吹雪となって路面も真っ白になったのは
松尾八幡平を過ぎ、東北道最高地点の竜ヶ森トンネル前後。
フォグランプを点灯させると、ここからは速度を半分以下に落として
ノロノロ進みます。

ところが八戸道は入り、太平洋側へ出るとお日様がこんにちは!
路面も乾いた状態。距離は近くても場所や地形によって
全然違うのですね。驚きました。ふたたび速度を上げると
終点の三沢へ向かい11時に到着しました。ここまで8時間、
休憩無しで一気に走り切りました。

■三沢航空科学館
YS-11とゼロ戦を見学しました。

■六ヶ所村
六ヶ所村には原燃の再処理工場がありますが、併設された資料館を見学できるのです。
14時に到着、30分見学しました。プルサーマルや使用済み核燃料
の廃棄行程を再現した大規模な施設です。もちろん全て模型ですが
実物大に出来ており、工場見学のようなものです。
綺麗な女性がガイドしてくれて、すべて無料です。

■酸ヶ湯温泉
17時までに八甲田山麓にある酸ヶ湯温泉に到着しなければなりません。
六ヶ所~青森は除雪されており、快適に進むことができましたが
八甲田山に向かい標高が上がるにつれて急激に
積雪が増してきます。
ノロノロと走行し、日帰り入浴の
営業時間ギリギリで
酸ヶ湯温泉に到着しました。
ここにはひば千人風呂という体育館くらいの広さに大きな湯船の

混浴があって、木造の内湯はとても風情ある素晴らしい温泉でした。
山奥まで来た甲斐があった!
すっかり暗くなった雪山をノロノロと下り、この日は青森市街に宿泊します。

■八甲田山雪中行軍遭難資料館と第五連隊ゆかりの地
今回の一番の目的であった幸畑の八甲田山雪中行軍遭難資料館をじっくりと見学します。
朝9時からなので、ちょうどその時間に参りました。
自分以外、誰もいない。大きな立体地図があって遭難の経緯を
とてもわかりやすく検証することができました。行軍隊は1、2キロにも満たない地帯
をグルグル一日歩いた末、前日の露営地に戻ってきてしまうなど、冬山の恐ろしさを
実感しました。それから行軍隊が着ていたコートを試着することができます。(背嚢もセットであります)
もちろん着てみました。とても薄くて、ぜんぜんあたたかくない!
行軍隊の苦労を知り、涙が滲みます。

資料館の裏側が雪中行軍隊のお墓です。
しかし墓石は頭まで雪に埋もれており

手前で黙祷するだけでした。
また夏にきちんとした形で慰霊に訪れたい。

県道をこの先、もう数キロ山へ向かって進むと田茂木野村があります。
遺体安置所があったところで、現在はリンゴ園、小さな祠(ほこら)が残っています。

小峠から先は自動車冬季通行止めです。今回は装備が
薄い上、仲間もいないので
無理はしないで、ここで引き返します。
ただし馬立場付近は、迂回して行く
ことができるので、先に見てきました。
また夏に来たいと考えています。

■竜飛岬
竜飛岬へ向かいます。青森の市街地を出る前に、
国道4号線の終点を見てから
青森ベイブリッジを渡りました。
街を出ると津軽海峡線の貨物列車と並走しながら、陸奥湾岸道路を走ります。

外ヶ浜までは平坦で真っ直ぐな道の上雪もなく快適で、
そこから先は岬まで切り立った断崖の上を縫って行きます。
点在する漁村集落を通り過ぎ

竜飛岬は津軽海峡からの強風吹き荒れ、飛ばされそうな勢いでありました。
『津軽海峡冬景色』の石碑があり、赤い釦を押すと同曲が大音量で
流れます。大音量と噂には聞いていたので、少しは構えていたのですが
予想以上に大きな音だったので驚きました。誰もいなかったので思う存分
津軽海峡冬景色を歌いました。風に飛ばされそうになりながら。

北海道を望みます。はるばる自宅から陸路でやってきて今、眼前に
北海道が在る。繋がっていることを実感し感動が込み上げて参ります。

海底トンネル資料館を見学しました。この寒い時期、他に客はいなくて
受付の方が暇そうでした。

青函トンネル工事殉職者の慰霊碑に黙祷。

青函トンネル入り口公園に立ち寄ります。
ここが青函トンネルの入り口。列車はここから海底へ潜り出口は
北海道なのだと想像すると、また感動が込み上げて参ります。

岩木山を見上げながら広大な田園の津軽平野を走り
鰺ヶ沢から日本海へ抜けます。五能線と海岸を並走、
この辺りで名物犬わさおくんが軽トラックの荷台に乗って
走っているところを偶然に目撃しました。千畳敷を通過する頃
日本海に夕日が沈み、強風吹き荒れ春まだ遠い冬の日本海。
誰もいないが、そういった風情が好きです。

■不老不死温泉
黄金崎不老不死温泉へ到着。竜飛で30分間の見学時間を除くと7時間走りっぱなしでした。
ここはシングルのベッドルームがある温泉宿です。
しかし、宿の計らいでアップグレードしてくださり、同じ料金で広い和室に
通してくれました。嬉しいのですが一人では広すぎてなんだか落ち着かない。

ここで楽しみにしていた海沿いの混浴露天風呂に入りました。
吹きさらしで、とても寒いのですが眺めだけは最高です。
ここまで海に近い温泉は全国でも稀かもしれません。
北海道の知床にも似たような温泉がありましたが、それ以来かもしれません。

左手に白神山地の山々、右手に激しい波砕けて真白く泡立つ日本海に挟まれ進みます。
能代から内陸へ、田園地帯を抜け北秋田、大館を経由し十和田ICから帰路東北道へ。

■天童
しかし、そのまままっすぐは帰りません。8時間休憩無しで走り続け
村田JCから山形道へ折れ、天童を目指します。
天童はラフランス(洋ナシ)と将棋で有名な町です。
将棋が好きな方なら、駅前の将棋資料館や街頭の詰将棋、巨大駒のオブジェなど
実に楽しめるところです。とくに将棋資料館の摩訶大大将棋に驚かされたり
駒のひとつひとつ、芸術的書体を眺めていると、本当に美しく飽きず
街頭詰将棋の前に立っていると「それ、わかりますか?」と通りすがりの地元の方に
話しかけられたり、楽しいところでした。天童公園は桜の名所で、これが満開になる頃
甲冑を纏った駒たちを、やぐらの上のプロ棋士が動かし、対局を行う人間将棋が催されます。

公園には巨大な将棋盤とそれを上から見やすいように観覧席が設けてあり
春にまた訪れたいと思いました。

■帰路
16時30分に帰路に着きました。天童から自宅まで残すは260kmです。
ところが福島西-本宮12km2時間の震災復旧による工事渋滞。福島西で一旦高速を降り
一般道を迂回するものの、こちらも大混雑で抜け出すのに2時間半かかりました。
天童から休憩無しで走破し、23時に自宅へ到着しました。

■タダだったので
3月いっぱい東北の高速道路がタダだっていうのでツーリングを
強行しましたが、東北の春はまだ遠く、どこへ行ってもお客さんは少なかったという印象です。
お気に入りの演歌を流しながら冬のみちのくを旅するのも、これはこれであじわいあるものですが
被災地の観光活性化策としては中途半端すぎますし、一般のお客さんは雪道は敬遠するでしょう。
春からタダとはいかなくても割引など適用してくれたら良いと思うのですがどうでしょう。

■総走行距離1785km(内高速1134km一般道651km)
使った燃料188リットル
平均燃費9.4km-最後の渋滞と積雪がなければもっと伸びたはず。
乗車合計時間35時間半(一日あたり11時間半)

宇都宮 - 三沢 - 六ヶ所 - 酸ヶ湯温泉 - 青森
0300 1130 1400 1700 1900
1230 1430 1730

青森 - 八甲田 - 竜飛岬 - 不老不死温泉
0830 0900 1300 1830
1100 1330

不老不死温泉 - 白神山地 - 大館 - 十和田IC - 仙台 - 天童 - 福島西 - 本宮 - 宇都宮
0700 - - 1030 1300 1500 1830 2100 2300
- - 1630 - -

 

三日間で東北六県を走破しました。
総距離は1785kmです。(内高速1134km一般道651km)
使った燃料は188リットルで平均燃費9.4kmでした。
乗車時間は35時間で一日あたり11.6時間運転したことになります。
三沢~六ヶ所村~青森~八甲田~竜飛岬~白神山地~十和田~仙台~天童~福島の経路でした。

概要は以下の通りです。

■八甲田山
雪中行軍遭難資料館(幸畑陸軍墓地)見学・慰霊
その他、第五連隊ゆかりの地を訪れる。

■三沢航空科学館
特別展示のゼロ戦とYS-11の見学

■六ヶ所村
原燃PRセンター見学

■竜飛崎 (青森)
海底トンネル資料館見学
海底トンネル入口公園に立ち寄る

石碑の前で『津軽海峡冬景色』を唱歌。

対岸の北海道を見る。
(見るだけ)

■不老不死温泉、酸ヶ湯温泉に立ち寄る。
(いずれも混浴)

■天童将棋資料館の見学(山形)
天童の街探索、街頭の詰将棋を楽しむ。

写真は八甲田山麓にて。

2013年10月 5日 (土)

呉軍港と戦艦大和の街

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歴史の見える丘
呉海軍工廠の戦艦大和を建造したドックが現在でも残っている。
「大和のふるさと」と記された工場が大和を建造したドック跡で
戦後、埋めたてられたものの、現在も工場として利用されている。
  
西側一帯の工場群は日新製鋼呉製鉄所で、
当時は呉海軍工廠製鋼部であった。
 
※旧呉海軍工廠は戦後、石川島播磨重工業(IHI)呉工場となった後
現在はジャパン マリンユナイテッドが所有している。

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日本一、潜水艦を近くで見られる公園
「アレイからすこじま」は日本一潜水艦を近くで見られる公園。

道路を挟んだ反対側は当時からのレンガ造りの倉庫が並ぶ。
 
呉鎮守府
毎週土曜、日曜は護衛艦の一般公開を実施するほか

呉鎮守府(現、海上自衛隊呉地方総監部庁舎)の建物見学もできる。
 

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呉の街は今も昔も海軍さんの街だ。
佐世保や横須賀など、海軍さんの街を一通り見てきて
感じることだが、ここ呉が一番好きだ。
 
海沿いを散歩すれば潮風が心地よく、景観も
歴史的建造物が数多く、ちょっとした時間旅行
をしているようで楽しい。
 
呉軍港から引き継ぐ、大和も入渠した大ドックは
健在であり、空にそびえる大迫力のクレーンや工場群が
異世界のようであり、潜水艦がすぐ目の前に浮かんでいる。
 
ここ呉の特徴は、それらが市民生活と隣り合わせで
密着している点にある。
買い物帰りのおばちゃんが両手に
買い物袋をさげて歩いているし、
子供だって無邪気に遊んで
いるし、学校帰りの女子高生に、
ちゃんとヤンキー兄ちゃんだっている。
 
坂道が多く、迷うこともあるけど、丘の上から見える海は
とっても気分がいいし、
道は綺麗に整備されているので
窮屈に感じることはない。

 
とにかく、呉は街全体の雰囲気が明るく、居心地が良いのである。
何度訪れても飽きない。


 
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大和ミュージアムのガイドはパーフェクト

てつのくじら館が凄い

呉海軍墓地

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そのほか関連記事
 
戦艦武蔵ドックへ(三菱重工長崎造船所)
 

佐世保海軍工廠(佐世保重工業)


柱島と戦艦陸奥

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連合艦隊柱島泊地
ここは瀬戸内海。中央に見えるのが柱島(はしらじま)です。

連合艦隊の泊地があったところです。
 
波も静かで、民家も少なく、東に呉軍港、西に徳山の大燃料庫を備え
大艦艇の停泊に最も適していたことから 
長門とはじめとした連合艦隊の歴代旗艦が投錨し、作戦の立案から
前線部隊の指揮を行いました。
 
山本五十六は、ここ柱島に停泊中の長門艦上で真珠湾攻撃成功の
電文を受け取ったとされています。
 
あの戦艦大和も武蔵もここに投錨していたのです。
そして、ここから最後の出撃をし、二度と帰ってきませんでした。
 
※柱島自体には軍事施設はありません。島の沖合に
「旗艦ブイ」と呼ばれる艦を係留するためのブイがあり
呉への直通電話線が通じていました。
 
この写真は山口県周防大島から撮影したものです。
周防大島は柳井市と橋で繋がっており、自動車でも往来が容易です。
その周防大島の先端へ走るにつれて、柱島が見えてきます。
 
島は東西に長く、橋から先端までは自動車でも1時間かかりますが
とても景色の素晴らしいところで、穏やかな時間が流れています。
※頻繁にネズミ取りやってます!スピードは控えめに! 
 

Photo

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▲島へ渡る大島大橋
 
島の東端にあるのが「陸奥記念館」です。
 

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戦艦「陸奥」謎の爆沈
戦艦「陸奥」は昭和18年6月8日、正午すぎ

柱島の南、約2kmの海上に停泊中、原因不明の大爆発を
起こし、一瞬にして沈没。
 
この当時、陸奥の乗員は、1321名それに加え
艦務実習のため乗り合わせていた予科練習生と教官153名
合計1474名が在艦でした。
 
戦友、遺族による「陸奥会」の調査によればこの内、
生存者はわずかに100名(負傷者39名含む)で
(さらに、戦後まで生き残った陸奥の乗員は60名)
三好輝彦大佐(海兵43期)を含むほとんどの乗員が殉職したと
伝えられています。
 

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▲引き揚げられた陸奥の副砲、艦首、スクリューが展示されています
 

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▲慰霊碑の向こうに浮かぶ柱島と陸奥の眠る海
 
陸奥の眠る海
柱島の南側に連なる島は、手前から福良島、長島、続島の三島で

続島には焼き場が設けられ、連日漂着する遺体を収容、荼毘に付されました。
重油で海は黒く染まり、沈没から一年以上経過しても
岩に染みついた色は落ちず、辺りの漁場は壊滅し海草も貝も
全て死んでしまったのです。
 
長らく秘匿された沈没の事実
陸奥は国民に広く親しまれた戦艦で、その存在は日本の国そのものでした。

その陸奥が、戦わずして内地の海で原因不明の爆沈をしたことが、万が一
知れ渡れば、国民の失望と混乱を招くことは必至であり、海軍の名誉をも
大きく失墜させるので、海軍はこの事件の秘匿に徹底しました。
 
乗員の家族からは
「何度手紙を出しても返事が返ってこないのでおかしい」
といった問い合わせが相次ぎましたが、海軍の担当者は
胸が痛くなるのを覚えながらも、それらを全て黙殺し
手紙のすべてを焼却していたのです。 
 
「戦死であれば広報が来るはずだが、それもなく行方が一向にわからない」
そんな疑問を拭いきれない、ある予科練習生の父親は
「息子に何か事故でもあったのか」と、直接霞ヶ浦の航空隊を
訪ねたものの、「そんなことはない」と聞かされ家に帰ったのでした。
その嘘は、艦長の三好大佐の家族にさえも例外ではありませんでした。
 
「陸奥は健在である」 
 
そう振舞い続ける海軍でしたが、国民を
騙し続けることは既に苦しく、遺族にようやく知らされることと
なったのですが、それは事故から9ヶ月後の昭和19年3月で、広報には
「作戦中、西方海上に於いて殉職せり」と簡単に記されたに過ぎませんでした。
 

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沈没の原因

陸奥爆沈の謎は、現在でも完全に解明されていませんが
三式弾の自然発火説、爆雷誤爆、スパイ工作による説、あるいは
潜水艦の魚雷による攻撃など様々な原因が考えられたのですが
おおむね否定されてきました。

 
ある人物による放火説
乗員のいじめによる自殺、現在でも可能性が高いと考えられているのが、

特定の人物による放火説で、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、
容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから
この人物が火薬庫に侵入し、放火した可能性があり、
生き残ったある元乗員は

 
「爆沈した時、彼がやったのだと、直感しましたよ」

と述べているほか、別の乗員は

「間違いなく彼が放火ものだと確信していますが、この頃、彼が
生きているんじゃないかと思うようになってきましたよ」
 
とも証言しており、事実、容疑者である二等兵曹の船室をダイバーが
捜索したのですが、彼ひとりだけ、遺体が発見されることはなかったのです。
 
その二等兵曹は、公には戦死と発表されましたが、実際の安否は
現在も謎のままです。
 

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重油で黒く染まった海も今ではすっかり元の姿を取り戻しました。
そればかりでなく、海底40メートルに沈む陸奥が魚の隠れ家となり
以前より増して魚がよく獲れるようになったといいます。
 

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▲陸奥記念館屋外展示のPS-1飛行艇
 
陸奥記念館には引き揚げられた部品の一部や乗員の遺品、絶筆
資料などが多く展示されています。

海が美しく、とても静かなところです。
 
「陸奥記念館」アクセス
山口県大島郡周防大島町伊保田2111−3
なぎさパーク、なぎさ水族館併設
一般420円 小中学校210円
9:00~16:30開館、無休
館内撮影禁止
 

2013年10月 4日 (金)

回天基地(大津島)

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山口県周南市(旧徳山市)大津島の戦跡
人間魚雷「回天」基地を訪れた。
 
徳山港よりフェリー「新大津島」で40分、高速船「鼓海Ⅱ」で20分。
(画像はフェリー)どちらも料金は変わらず、およそ2時間おきに
交互に出ている。瀬戸内海の島々へ渡る航路は他にも多くあり、ここ
徳山港が拠点。新幹線の徳山駅からも歩いてすぐで、アクセスは良い。
車で行く場合は、朝一番の便か午前中の便であれば、波止場となりの
無料駐車場が空いている可能性が高い。満車の場合は離れた
有料駐車場を利用する。
 
波止場の券売機で「馬島行き」を求める。
大津島はもともとふたつの島が数百年前に繋がった
細長い島で、フェリーは「馬島」と「刈尾」、二ヵ所の波止場を巡るが
どちらも同じ大津島の波止場である。
 

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徳山の大プラント群を見ながら進む。
この辺りは屈指の工場夜景スポットで、地元のツアー会社が
工場夜景クルーズや、普段は立ち入ることのできない
工場内の夜間見学ツアーなどのプランを実施している。

なお、徳山は連合艦隊の燃料補給基地であり
東は柱島泊地と、呉軍港である。
 
フェリーに乗っているのは釣り人が数人。穏やかな瀬戸内海を進み
大津島馬島港へ到着。波止場には「回天の島」という大きな看板と慰霊碑。
回天発射基地跡と回天記念館は、波止場から歩いて5分ほど。
 

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遠くに回天発射基地が見えてきた。
 

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途中、断崖があるので、トンネルを抜けて発射基地へ向かう。
このトンネルは当時つくられたもので
回天はトロッコでこのトンネルを通り、発射基地へと運ばれた。
また、回天搭乗員もこのトンネルを通り訓練、また出撃した。
 
見学客は自分だけ。
釣竿を背負ったおじさんが何の歌かわからないけど鼻歌を歌いながら
トンネルのずっと先のほうを歩いて行くのがわかった。
 
これは空襲を監視するための横穴。

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長いトンネルを抜けて、回天発射基地へ到着。
 
同じように、回天搭乗員は、このトンネルをくぐったのか
と思うと、こんなに悲しいことは無い。
 
※注(発射訓練はここで行われたが、実際の出撃は沖合に停泊する母艦(潜水艦)
に一旦乗り込み、出撃。目的の戦域で切り離されて発進する)
 

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なんと、透き通った綺麗な海だろうか。
回天を海面へ降ろすためのクレーンの跡が残っている。
(白いフェンスの支柱のあたり、タコ足のような形をした部分)
 
大津島は通常魚雷の発射場として昭和14年に建設されたが
昭和19年9月から、人間魚雷「回天」の搭乗訓練および出撃基地となった。
 

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この縦穴から回天艇に乗り込む。
 
飛行機の特攻隊なら、機体トラブルで、あるいは
自分の意志で帰ってくることも可能であろう。
しかし、回天艇は一度、出て行けば、何があろうと
脱出は不可能で、二度と帰ってくることはできない。
 

次に

回天記念館へ向かう。
小中学校の敷地は回天搭乗員の宿舎などがあった。
現在も当時の壁や点火調整室などの建物が残る。
 

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回天記念館を見学する。記念館への道の両側には桜の木、そして
両側の石板には戦没者のお名前と出身地が刻まれている。
 

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館内は回天の資料と
回天搭乗員の遺影、遺書が展示されている。
 
見学者は他におらず、受付の年配男性が、たったひとりのために
入場切符を売ってくれて、中に入った。
 

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回天の内部セット。映画『出口のない海』で使われたもの
以前、この内部に入らせてもらったことがあるが(現在は見るだけ)
とても表現しきれない、閉塞感と絶望感があった。
 
外は潜望鏡で僅かに見えるだけ。
 
搭乗員はこれから突入すべき敵艦の予想進路と
速度を計算し、進む。仮に失敗しても
脱出はできず、再度計算し直し、突入しなければならない。
飛行機と違って、何があっても生きては帰れない。
絶対に命はないのである。 
 

Imgp3201

帰りのフェリーの時間を計算して波止場へ戻る時間となった。
 
記念館を出て、回天坂を下る。見学客は誰もいないのだけど、回転坂の
桜の落ち葉は綺麗に掃かれていて、ほうきをもった年配の女性が
「ありがとうございました」と言ってくれた。
 

三菱重工長崎造船所 (戦艦武蔵ドック)

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戦艦「武蔵」を建造したドックが現在でも残っている。
一号艦(大和)は呉海軍工廠で建造されたが
同型の二号艦(武蔵)は民間会社である三菱がここ長崎で建造した。
  
「今の話はだれにも言わないでおくれよ
おれが話したなんてことがわかるとまずいから」
 
そう言った老人の眼はおびえていた。
もう戦争は遠くの昔に終わっているというのに。
長崎の街はすり鉢の底のような形をしている。 四方を山々に囲まれ
海を見下ろせるところに、三菱重工長崎造船所がある。
 
第二号艦(戦艦武蔵)は秘匿に徹して建造が進められた。
 
建造中の目隠しとして、棕櫚(しゅろ:漁で使う縄)をドッグ上部より
スダレのようにたれ下げたが、それでも造船所を見下ろしたり建造中の
船について話題にあげたりした者はスパイの 疑いをかけられ、憲兵隊に
捕まり執拗な尋問を受けた。 いつしか、その存在は「お化け」と
噂されるようになった。
 
軍が買い占めた棕櫚の量は膨大であり、市場から棕櫚が消えた。
それもまた「お化け」の噂の一端となる。
 
長崎の住民は皆おびえていた。 史上異様と言える、その建造過程で
心血を注いだ三菱の技術者と工員、そして何も知らない、否、 決して
存在を口にしてはならなかった「お化け」の噂。
 
戦艦武蔵誕生の歴史がここにある。
 

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「女神橋」より望む長崎の街 

帝国海軍針尾送信所

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「ニイタカヤマノボレ」発信の塔
佐世保市の市街地を離れ、長崎へ向かって国道を南へ走ると
突然、大きな三本の塔が見えてくる。不気味とも神秘的ともとれる
とにかく、突然異世界に迷い込んだような印象の、この三本の塔は
およそ90年前に建設された「海軍針尾送信所」の跡である。

  
世界の歴史が動いた、真珠湾攻撃の日
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が、ここから発信されたと伝わる。
  
通信塔は、大正11年(1922)、旧海軍によって建設されたもので
塔の高さは136メートル、塔のまわりが38メートル、
間隔は300メートルあり上空から見ると正三角形に並んでいる。
写真では伝わりにくいが、突然、この塔が目の前に現れると驚く。
 

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Imgp3021_2

国道202号線沿いの西海橋公園から望む通信塔。
無料駐車場、展望台あり。橋は通行無料。 
 
住所:長崎県佐世保市針尾東町
西海橋公園

佐世保海軍工廠

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Imgp5924

Imgp2994

旧佐世保海軍工廠
現在は佐世保船舶工業(SSK)改め佐世保重工業のドックで
大型タンカーなどの建造、海上自衛隊艦艇の建造、保守
アメリカ海軍の艦艇の保守を行っています。
 
「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」誕生の佐世保海軍工廠
佐世保海軍工廠は、多くの駆逐艦、巡洋艦誕生の地であり、
「赤城」「加賀」の近代化改装もここ佐世保で行われました。
 
そのほか、大戦末期には晴嵐を搭載した潜水空母とも呼ばれる
伊四〇〇型潜水艦の「伊-四〇二」を建造、
航空母艦「伊吹」「大鷹」「笠置」の艤装もここ佐世保で行われました。
 
工廠内に残る赤レンガ
SSKの敷地からアメリカ海軍佐世保基地の敷地にかけて
当時の赤レンガの素敵な建物が残っています。道路から良く見えます。
 
私はアメリカさんの基地内にカメラを向けすぎてスパイと
疑われるのは面倒なので、撮影しませんでした。すみません。
 

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佐世保の護衛艦。
佐世保みなとIC入口近くに観光用駐車場があり
そこへ車をとめて、この海岸付近を散策できます。
画面左奥がSSKドック。

 

2013年7月22日 (月)

アントニオ猪木の島「イノキアイランド」

パラオの美しい海にイノキアイランドという島が浮かんでいる。
その名の通り、アントニオ猪木氏がオーナーの島で、正式名称である。

▼イノキアイランド 

イノキアイランド(ロックアイランド)
 
◆アントニオ猪木は、パラオがまだ無名だった頃より

熱心に足を運んでおり、それが縁となってパラオ政府より
友好の証として、この島をプレゼントされた。
 
イノキアイランドは美しいビーチのある島だ。
正式には猪木氏は島の名誉オーナーという形になっていて
島は猪木氏以外の誰でも使うことができる。
そのため、多くのダイバー船が係留され、それぞれがお昼休みを
のんびり過ごしている。
 

猪木氏本人も、頻繁に、お忍びでパラオにやって来てはこの島を訪れており
かくいう私も、パラオでアントニオ猪木と遭遇したことがある。
そのときはプロレス団体の後輩を引き連れてコロールの街で飲んでいた。
 
▼対岸に浮かぶ右側の島がイノキアイランド 
  
イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(パラオ)

Photo

▲イノキアイランドの位置

2

▲拡大図


◆2013年(平成25年)7月の参議院選挙で
アントニオ猪木が日本維新の会、比例区で立候補し
見事トップ当選した。
 
パラオで島をプレゼントされた話もそうだが、
猪木氏は外交に素晴らしく長けているのではないかと思う。
何せ、あの北朝鮮でも国賓扱いだ。
アントニオ猪木氏には、今後議員として拉致問題の解決に期待したい。
 


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ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年6月30日 (日)

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう
記事より~後藤丑雄少佐とアンガウルの落日



20100206_818

ここはアンガウル島。ジャングルの周回道路を歩いてゆくと
開けたところに慰霊碑群があり※1
その一画に後藤丑雄少佐の墓がある。
 
20100206_838▲下野観音などの慰霊碑群(旧)
 
20100206_842▲米軍建立した後藤丑雄少佐の墓

 
◆後藤少佐と五十九連隊の最期
アンガウル島の守備隊長である後藤少佐は
明治42年生まれの35歳、 信濃の国、長野県の出身であった。
 
後藤少佐は昭和19年10月19日
最後に残った、重軽傷者含む100名の部下を集め、次のように訓令を述べた。
 
「本日の夕刻を待って、個別に敵の包囲を突破し、成功した組は
ふたたび島の中央・南星寮東側に終結する。そこから遊撃戦闘によって
敵の飛行場建設を妨害する
  
・・・君たちはよく闘った。各自の武運長久を心から祈る」 ※2
 
同日夜、後藤守備隊長以下、残存の五十九連隊総勢は
最後の斬り込みを敢行し、
ここにアンガウル守備隊は玉砕、
組織的戦闘は終結した。

 
なお、後藤大隊長の最期は次のようにも記されている。

「今夜12時を期して米軍に斬り込みを敢行する。全員玉砕を覚悟で
帝国軍人に恥じない行動を取るように」

 
そして最後に
 
「靖国神社で会おう。長い間の勇戦ごくろうであった」
 
と述べた。※3

◆後藤守備隊長の自刃

そして後藤大隊長が先頭で出撃、途中米軍の陣地を通過中に負傷。
「ここは日本の玄関だから遠からずして米軍が来るであろう。その時まで
頑張ってこの戦闘の戦訓、苦戦を伝えてくれ」
そう言い残し、自刃。皆、涙を流した。
 
思えば9月17日に始まった上陸戦は 後藤少佐指揮の徹底抗戦により
一ヶ月以上、米軍を苦しめた。米陸軍81師団の兵力、二万名
(戦車50輌含む)に対し兵站部隊など全てを
合わせても、わずか
1200名編成の五十九連隊が33日間も抵抗した記録は
類なきもので、
長きにわたる抵抗といえば、隣のペリリュー島(中川大佐指揮)が
有名であるが、兵力の比率からすればアンガウルの戦闘がはるかに
上回っている。

 
◆アメリカ軍が後藤少佐を手厚く埋葬する
アンガウル島をようやく制圧した米軍は 後藤少佐の
遺体を確認し、手厚く埋葬した。

※ペリリュー島の中川大佐と村井参謀も同様に、戦闘終結後 米軍の手により手厚く埋葬された。
二人の墓標は隣同士で その写真が米軍カメラマンによって撮影されている。
 
米軍によると、当初はこの戦死したコマンダーの身元がわからず一旦
「無名戦士の墓」としたが、のちに「守備隊長後藤少佐の墓」と 改められた。
   
Imgp4934◆後藤丑雄(ごとう うしお)少佐(准47)
第十四師団五十九連隊(宇都宮)第一大隊長
アンガウル島守備隊長
明治42年2月16日生まれ、長野県出身
昭和19年10月19日玉砕、享年35
戦死後二階級特進、大佐。

◆人物・人柄 
「有難う、お蔭様で」という温和な口調で実に人を引き付ける
徳の持ち主であった。

気品の保持と武徳の涵養(かんよう)、切磋琢磨に重きを置いた。
温厚な人柄であったが、パラオへ向かう途中、輸送船上で
召集に遅れた将校(隊長)に対し 
「将校が時間に遅れるとは何事である」
と意外にも大声一喝する場面もあった。
 
兎角、教育の機会を大切にし
部下思いの人であった。酒の席では得意の逆立ち踊り
南洋踊りらしきものも披露した。※4
 
上陸戦前、後藤少佐率いる第一大隊を残して
アイライへ転進する第三大隊。これに対して少佐は
「安島は引き受けました。なにとぞご安心ください」
と述べたという。
 
話は現代に戻る。
私はたったひとり、静かなアンガウル島のジャングルの小道を歩くとき、
風の音と共に、彼らの最後の突撃の絶叫か、英霊の声が
耳にこだまする錯覚を幾度も経験した。
 
※1、2012年の台風によって慰霊碑は壊滅し、再建中。 
※2、船坂弘『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』192頁より
※3、『栄光の五九連隊』252頁
※4、同253頁

Imgp7200アンガウル島のガシュマルの木