2015年1月31日 (土)

雷電戦闘機の戦い

01

雷電(局地戦闘機)

▲雷電局地戦闘機/昭和20年 厚木飛行場・第302海軍航空隊
赤松中尉搭乗機(二一型)
 

局地戦闘機【雷電】一一型(J2M2)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分38秒
最高速度/596km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,348kg 全備重量/3,210kg 燃料搭載量/420L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/160kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×4 爆弾30kg×2
正式採用/昭和19年10月? 生産機数/155機
 

局地戦闘機【雷電】二一型(J2M3)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分50秒
最高速度/611km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱280機 高座海軍工廠50-80機
 

局地戦闘機【雷電】三三型(J2M5)諸表
発動機/三菱「火星」二六型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/8000m/9分45秒
最高速度/614km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年--月 生産機数/30-40機

青木義博中尉の雷電
▲第352海軍航空隊青木義博中尉機

02

雷電とは 
局地戦闘機「雷電」は海軍がインターセプター(迎撃機)の必要性に
早くから着眼し、零戦に次いで開発が進められた戦闘機である。
設計開発は三菱重工。堀越二郎博士をリーダーとして
零戦とほとんど同じ研究チームで昭和15年頃から行われた。
開発には多くの困難が伴い、正式採用は昭和19年10月となった。
開発元である三菱重工による量産のほか、高座海軍工廠でもライセンス
生産を行い、総計400-500機が完成したといわれる。
昭和19年末より実戦配備された。
 
雷電は零戦とまったく性格の異なる戦闘機で
その大馬力をもって、高高度で侵入する敵爆撃機(のちのB-29等) 
を捕捉し、強力な火力を持って一撃離脱で撃墜するという
主旨で生まれたため、空戦には不向きとされた。
また航続距離も短いため、基地上空の防衛に徹するとされた。

03

雷電の評価
「雷電」は多くの殉職者を出した殺人機、欠陥機と呼ぶ者も多い。
元搭乗員に雷電について質問すると、開口一番に「あれは欠陥機じゃ!」
と述べるなど、その評判は決して良いとは言えない。
 
殉職事故
試験飛行の事故と欠陥の解明
昭和18年5月16日、正式採用前のテスト飛行で早くも事故が発生した。

帆足大尉の搭乗した2号機が離陸直後に墜落、大炎上し殉職。
20mほどの高度から突然機首下げ姿勢に移り、そのまま畑に墜落したという。
 
同年、鈴鹿飛行場で三菱の柴山操縦士が雷電10号機で離陸。
脚を入れた直後に操縦桿が強く前へ引かれ、またも機首下げ姿勢となった。
操縦桿を戻そうにもびくともせず、とっさに脚を下げてみると嘘のように
操縦桿は動いた。原因は9月に判明した。
尾輪のオレオ式緩衝装置が
曲がって、脚上げ時に右昇降舵を連結する
軸管に干渉しその圧迫で
操縦桿が下がったことが判明した。
尾輪支柱の湾曲と、支柱と昇降舵
連結管との隙間の少なさが問題であり
クリアランスを多く設けることで
解決した。
 
昭和19年8月2日
堤光臣上飛が厚木周辺の畑へ墜落。雷電一一型は
訓練中、水平試姿勢での背面キリモミに陥り裏がえしのまま
回転しながら高度を失ってゆき脱出不可能のまま地面へ激突した。
 
昭和19年12月15日
302空、入江大尉の雷電から「エンジン不調、降着する」との電話(無線)あり
飛行場へ滑り込んできた。脚が出ていないので赤旗を持った搭乗員たちが
降着地点へ走って行った。(赤旗とは脚が出ていないので着陸をやり直せの
合図。当時は脚を出し忘れたまま着陸する事故が多かったため、これを
専門に見張る地上員を配置した)
赤旗を見た雷電はエンジンを一杯かけて
着陸をやりなおすために
旋回をはじめたが、エンジンがとまったとみえて
スーッと相模原空の格納庫の向こうへ落ちていった。
 
これを目撃した、雷電隊のエース寺村中尉は
「なぜエンジン不調なら着陸をやり直さず、脚の出ていないまま

滑り込ませなかったのか。そうすれば完全に助かっていたのに。
エンジン不調で滑り込んでくる飛行機に赤旗を振って
やり直しを命じるやつがあるか」と憤った。
 
このほかに、昭和19年12月一ヶ月に4、5回、
新任搭乗員の事故が相次いだ。機体の不調を告げる電話連絡が
あったものの未帰還となったケースでは原因の究明もできず
単純に操縦技術未熟故の事故として片づけられてしまった。
 
その噂は瞬く間に広がり雷電は殺人機、あるいは欠陥機などと
呼ばれ、多くの搭乗員の忌み嫌う存在となった。
 
岩本徹三の雷電評価
「大型機を攻撃するなら良いが空戦では零戦に劣る」

昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、
零戦と比較し次のような感想を述べている。 
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかも
しれないが、敵の戦闘機相手では零戦に劣る」 
 
美濃部正大尉の雷電評価 
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」
彗星夜戦隊「芙蓉隊」で有名な美濃部大尉(のち少佐)は
20年5月に302空で零夜戦、月光の第二飛行機隊長を務めており
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」と
雷電乗りに皮肉な大声を浴びせた。
 
 

04

羽切松雄中尉の雷電評価
「そうだ!雷電なら勝てる!」
横須賀海軍航空隊テストパイロットであった羽切松雄中尉は
当初、雷電を失敗作と考えていたが徐々にその必要性を
感じるように至った。以下は新兵器実戦記より引用しながら書く。
 
「雷電はとにかく零戦と違って若い搭乗員では乗り切れまいということを感じた
それ以降、雷電はあらゆる方向からけちをつけられ、この飛行機はダメだと
いう結論になった。
スピードは出るけれど航続距離が短い。全速で1時間半
だから、
これは空戦には向かない。(この回想は昭和18年頃と推測)
三菱は既に量産に入っていたが、雷電は海軍の飛行機としては
失敗作であると私たちは思っていた。
 
零戦 vs 雷電
しかしそのころ、前線ではすでに零戦は苦戦していた。
P-38が出ていたしF6Fも出ていた。そこで前線から盛んに
雷電と、雷電の出現を
待ちこがれていた。しかし我々は前線へ送っても
空戦がやれるかどうか首をひねった。
対零戦の空戦をやってみると
雷電には空戦フラップがついていても零戦とそれほど差がない。

確かに雷電は上昇力とスピードに秀でていたが
そのほかにはとりどころがなかった。やがて厚木に302空ができ
雷電隊が編成された。若い搭乗員の事故が絶えなかった。
これは決して雷電が悪いのではなく、雷電の性能が悪いのだと
私たちは言っていた。
雷電の空戦フラップは単機空戦をやりながらGを
かけてゆき
それが2G、3Gになるとひとりでに出てくるようになっていた。
翼面荷重を大きくするから旋回半径を小さくすることができたがお慰み程度
しかなかった。
 
ソロモン進出後、零戦に乗って毎日激しい空戦を繰り広げているうち
にふと雷電を思いだした。「そうだ!雷電なら勝てる!」
敵の戦闘機は零戦より遥かに優秀であって米軍機は一撃離脱が
確立されつつあった。
そのため零戦は多くが奇襲でやられ

敵機には追い付けない。どうにもならなかった。これに対応できるのは
雷電だと気付いた。
雷電の上昇力をもってすれば急激に高度を
とることができるので上から降ってこられることも少なくなり、逆にこちらから
降っていくチャンスも多くなる。
逃げる敵にも追いつける。敵は現在
単機空戦を避けるのであるから、空戦性能への物足らなさは
このさい問題にならない。それに雷電には20mm×4という
重武装がある。雷電の航続距離の短さも基地の上空戦では欠点とはならない。

 
いままでになかった重戦闘機「雷電」
以上が羽切松雄中尉の回想であるが、考察するに
零戦が手足を動かす如く、非常に乗りやすい飛行機だったため
ようやく飛べるようになったばかりの搭乗員では
雷電を乗りこなすのは難しかったのではないだろうか。
着陸時の視界は狭く、速度も速い。翼面荷重も高いので
零戦のように操縦も容易ではない。
 
戦後、雷電を鹵獲しテストした米軍によると離着陸時の視界が若干悪いと
されたが、それ以外は良好で、着陸時の速度もさして問題にならず
傑作機と称された。テスト時の測定基準が日米では若干ことなるものの
最高速度も671 km/hと大幅に増大し(高オクタン燃料によるものか)
P-51に匹敵するスピードが出ることを証明した。
 
日本と欧米では戦闘機の設計思想も違う。米P-51の着陸速度も
雷電と大差がなく、ごく通常ということだろう。少なからず
日本の搭乗員がそれまで(零戦)と全く違う重戦闘機、雷電に慣れていなかった
というところが要因のひとつとして少なからずあると感じる。
大戦末期では老練の搭乗員も少なく、事故も比例して多くなる。
  

05_2

雷電は傑作機だ

もっとも多くのB-29を撃墜
一方で、もっとも多くのB-29を撃墜したのは、零戦でなければ紫電改でも
ない。雷電である。
 
雷電の欠点も次々改善され、
高高度においても油温度は下がらなくなるし
高高度における機銃の不発もほとんどなくなった。さらに発動機のシールドを
完全にして雑音の防止に努め、空中線は折り返しその短さを補った。
滞空時間を長くするために、その巨大な胴体内に増槽をつけてしまった。
 
電話(無線)も良好で、地上からの受信はもちろんのこと
送信も感度良好であった。雷電のコールサインは雷で
「こちら雷十一番、空戦に入る、こちら雷十一番、空戦に入る」
と逐次地上と僚機への伝達を行った。
雷十一番とは、雷電隊一分隊一小隊一番機を示す。
高度3000メートルを越えると酸素マスクへ酸素が供給される。 
 
302海軍航空隊と雷電隊

第302海軍航空隊は内地空襲避け難しと感じられるようになった
昭和19年の春、横須賀航空隊において編成されてその後厚木飛行場へ
移った隊であった。
司令は小園大佐。飛行長は水上機出身の西畑中佐。
司令や飛行長のいる302空の司令部は横須賀にあり、厚木基地は
その派遣隊があり、飛行隊は全部
厚木にいた。厚木派遣隊長は
山田少佐であった。
 
302空は三飛行隊より成り
第一飛行隊は雷電2個分隊、零戦1個分隊
第二飛行隊は月光2個分隊、銀河1個分隊
第三飛行隊は彗星2個分隊、これに各整備分隊と
兵器整備分隊が付属されて編成されていた。

月光は初めから夜間戦闘機であるがほかの銀河、彗星、零戦は
ここで斜銃を取り付けて
夜間戦闘機として使用した。
厚木の夜間戦闘機隊は月光、彗星、銀河、彩雲、零戦の猛者で
雷電隊は航続距離が短く帝都上空の邀撃のみであったが
夜戦隊は名古屋まで邀撃可能だった。
雷電隊は滑走路の広い木更津基地も合わせて運用した。
302空の雷電は少なく、50機近くある中に完備状態で実戦に
使えるのは半数ほどにすぎなかった。
雷電隊編成は以下の通り。
 
雷電第一分隊長、寺村純郎中尉
雷電第二分隊長、赤松貞明中尉
 

05_3

高度一万メートルの景色
雷電隊のみが見た世界
 
雷電隊第一分隊長の寺村純郎中尉は次のように記している。
以下、東京空戦記より引用
 
一万メートル上空は静寂そのもので
さびしいさびしい世界である。

垂直の視界は良いので海岸線がはっきり見える。
眼下に相模湾の波打ち際が白い線となって見え
江の島や三浦半島が見え、遠くには九十九里の海岸
そして関東平野の緑、その周辺の山々、その山々の間に
一際そびえ立つ富士、さながら正確緻密に作られた箱庭
を見るようなものであった。

猛烈な西風が吹いているので機首を西に向けて
飛んでいるときのほうが多い。
飛んでいるのであるが、飛んでいる気持は少しも無い。
計器の速力は160節近く出ていても、付近には何もなく
地上の目標は一万メートルの遠くにある。
江の島上空一万米も小田原上空一万米も
地上を見る感じは大差がない。
空中にただ浮いている感じである。
特に旋回している間などは空中の一点で
飛行機の翼が静かに傾いて機首がゆっくり回っていく
ような感じしかしない。実に静かである。

さびしいさびしい世界である。
手も足も最小限度の動きしかしないで
じーっとしている。動けば寒さが身にしみこむ
とでもいうように段々風防のガラスが曇ってくる。
手で拭いても駄目である。こうして来るか来ないかわからない
B-29を待っている一時間は全く長いものであった。

引用おわり
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

06

◆坪井庸三中尉
唯一F-13(B-29の単機偵察型)を撃墜した雷電搭乗員
南方帰り、水戦出のベテランで単機侵入のB-29を撃墜した
唯一の搭乗員。
雷電でB-29、4機、F6Fを3機撃墜。
 
昭和19年12月3日
午後2時から一時間半にわたり数十機ずつ梯団になり、富士山の北方を
廻って帝都上空へ侵入せしB-29
約70機を捕捉し犬吠埼上空で
このうちの一機を撃墜。
 
昭和20年2月12日、
F-13を犬吠埼上空で撃墜
F-13はB-29の偵察機バージョンで単機高速で日本上空に侵入する。
爆撃任務と異なり、機体も軽く単機で逃げ回るため、これを捕捉して
撃墜に至るのは不可能といわれた。
(B-29爆撃編隊は一度爆撃コースに入ると進路変更しない)
  
2月16日、F6Fを2機、千葉県茨城県上空で撃墜
2月17日、F6Fを1機、千葉西方で撃墜。
 
4月1日、F-13と刺し違え戦死。
賑やかな昼食だった。わあわあ騒いでいるうちに
「雷電隊一コ小隊発動発進」の令
が来た。
「忙しいこっちゃ」と昼飯を食っていた
坪井大尉が飯を半分食ったまま
立ち上がって落下傘バンド
をつけはじめた。飯を食い終わっていた寺村が
「おい坪さん、俺がかわろうか、もう飯はおわったから」というと
手を振り振り「いいよいいよ」と言いながら出ていった。
それが坪井最後の姿となった。
 
坪井は単機のB-29を捕捉し得意の直上方より一撃し
B-29の後方をかわると同時に敵弾によって機は火を吐き、機と運命を
共にした。
指揮所には食べ残した昼飯が彼の帰りを待っていたが。

 
◆赤松貞明中尉
日本海軍のエース・雷電でP-51を撃墜

雷電隊第二分隊長
 
おおよそ350機を撃墜(うち
支那事変中243機、太平洋戦争ではおおよそ
百数十機)し
世界記録保持者と戦後も自負した海軍のエース。
零戦、雷電双方でP-51を撃墜した唯一の搭乗員である。
 
雷電でP-51を撃墜
赤松の自伝日本撃墜王によると空戦の模様は以下のとおりである。
終戦間際、
敵の大編隊が東京をあらしまわってゆうゆかえってゆくとき
赤松は送り狼で追いかけていった。城ケ島の真上を敵は真っ黒な編隊で
帰って行った。
味方は赤松を先頭に雷電5機。その後ろから零戦が5機
ついていった。
大編隊の殿を敵は必ず二機のP-51が交互に警戒してゆく。

赤松はこのうちの一機の後から隠れてつけていった。敵機の真後ろというのは
敵の廻る方へ廻るほうへととつけていって常に相手機の死角の中に入って
いることをいう。
真後ろと真下は敵から見えないのでその方向に隠れ隠れ
してつける。
そして頃はよしと思うころ有利な位置定めて突如P-51を射撃。
そのうち敵の燃料タンクから火を噴き、火だるまになって墜落していった。
 
もう一機のP-51が友軍のやられたのを見て垂直旋回で
廻り込んできて敢然と赤松機を攻撃。赤松はすでに全弾撃ち尽くしており
逃げるわけにいかないので(追いかけてくる)反対に敵機の方向に向かって
弾を撃たせ、そのうちに振りきって逃げた。
 
唯一、赤松は
「雷電は良い飛行機だ。ただもう少し燃料がつめたらな」と語っている。
 

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赤松中尉の戦後
 

◆寺村純郎中尉
雷電でB-29、F6Fを撃墜

海兵71期・302空雷電隊第一分隊長
昭和20年、2月10日銚子上空でB-29を撃墜。

寺村中尉の回想~東京空戦記より

実際の事をいうと雷電にのらねばならぬと決まったときは
少々うんざりした。今まで乗っていた零戦と比べ
雷電は悪評嘖々たるものがあった。

だが私たちがその雷電の離着陸訓練をはじめ
編隊飛行、特殊飛行、空戦訓練と進んでいった頃には
もう雷電は私たちにとって赤の他人ではなくなってしまう。
殺人機だということまで誇りになるのだ。

ドングリに翼をつけたような無様な恰好までが
ほほえましく感じられる。
猛牛が突進するように滑走路を走ってゆく姿も
まんざらすてたものではない。

寧ろ人の嫌がる雷電の搭乗員であることを
誇りにする気持ちであった。雷電の日本一を誇る
上昇力や速力、火力その他重武装を自慢にした。
敵機を一機おとすごとに桜のマークを描いた。
整備員たちは自分の受け持ちの飛行機の座席の前に
小さな神棚を作って武運を祀ってくれた。
座席の前の計器盤にはあちたこちらから
送られたマスコットがぶらさがっていた。
空襲の旅にそのマスコットと一緒に飛びたった。
 

07

8月15日の雷電隊出撃
寺村中尉は次のように回想する。
   
8月14日
「どうやら無条件降伏らしいんだ」
その言葉を初めて聞いた寺村は悲しみと憤りを覚えたという。
部長以上は一週間も前から司令から
その情報を知らされていたというのだ。
 
302空の夜戦隊が可動全機で銚子沖の敵機動部隊に薄暮攻撃を決行したのは
2、3日前。
無事に帰ってきたものはほとんどなく大きな犠牲を払った。
雷電隊も茂原から出撃する特攻隊の直掩に出るように命じられたのも
2、3日前だった。
特攻隊の援護では身を持って特攻機を守らねばならず※
寺村は今度こそ最後だと覚悟を決めていた。
 
※雷電は航続距離の短さから最後まで特攻機に使用されることはなかった。
しかし特攻隊の掩護といっても、特攻隊を見送って自分らだけは帰ることは
出来ない。敵機に体当たりするなど、概ね自分も死にに行くようなものである。
  
多くの搭乗員が終戦を控えながら、数日前に戦死した。
その舞台裏がこれである。寺村は
馬鹿にするなと怒鳴りたくなったという。
司令は徹底抗戦の構えを崩さず、全海軍部隊に降伏反対の電文を発進
するのだという。
 
寺村は無性に腹立たしく、寂しく酒をガブガブ飲んで酔いつぶれて寝てしまった。
 
15日
朝方、従兵が何度もおこしに来た。
 
「分隊長グラマンの空襲です!」

「なあに笑わせるな。今日日本が降伏しようというのに
なにが空襲だ、ほっとけほっとけ」
 
寺村はまたうつらうつらと眠りにはいった。
 
「分隊長、雷電発進です!」
 
「何、発進だ!ふざけるな!日本は負けたんだ!」
 
ふてくさって毛布の中に潜り込んでそしてまたうつらうつらと眠ろうとしていた。
そのとき雷電の爆音が響いた。
 
「しまった!」
 
かれは急いで飛行服を着て指揮所へとんで行ったが
すでに遅かった。雷電4機、零戦8機が離陸した後だった。
いままでどんなに飛行機が少ない日でも寺村は一番機として離陸できた。
そして最後の戦には乗り遅れてしまった。

 
このとき出撃した蔵本中尉は
「今日は絶対に生きて帰ってこない」
そう言って数少ない雷電を奪うようにして飛び立った。
まだ幼さの残る丸顔が印象的だった。
蔵本中尉はF6Fと空戦に入り不利な体勢から
これが最後の出撃と敢然とグラマンへ突撃した。
 
もうひとり、雷電で飛び立った
先任士官は寺村よりふたつ年下で
「早く雷電に乗せてくださいよ。そして分隊長の列機体にしてくださいよ。
分隊長を先に死なせませんよ」
そう言うのが口癖だった。零戦でP-51と戦い足に弾を受けて
びっこをひいていた。念願の雷電に搭乗し飛び立った。
 
そして二人とも帰らなかった。
これは8月15日の午前中のことである。
 
 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

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▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

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▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

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高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

Photo_8

宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

Photo_19

航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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最後までご覧くださりありがとうございました。
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カヤンゲル

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零戦21型/二一型

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

零戦二一型/21型

Photo_5

零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。 
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
 
零戦21型 
【零戦二一型諸表】A6M2-b

発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機 
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

 
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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

二式水上戦闘機

二式水戦(二式水上戦闘機)


Photo_13二式水上戦闘機(二式水戦)

Photo_15

二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期における島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 
二式水上戦闘機 
【二式水戦諸表】A6M2-N

発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

零戦32型/三二型

Photo_9

ゼロ戦(零戦)32型/三二型

Photo_11

零戦三二型(32型)
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカットした
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
 
零戦32型 
【零戦三二型諸表】A6M3

発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

零戦22型/二二型

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

Photo_18

零戦二二型(22型)
零戦二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と同様丸型へ戻し
折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を取り戻した。
武装を強化した二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年8月までに
560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 
零戦22型 
【零戦二二型諸表】A6M3

発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

零戦52型/五二型

Photo_20

ゼロ戦(零戦)52型/五二型

Photo_22

零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。22型、21型との違いは翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式単排気管(マフラー)を採用し
馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を
開始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部太平洋戦線で活躍。
参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。

 
零戦52型 
【零戦五二型諸表】A6M5

発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦52型甲/五二型甲

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

Photo_27

零戦五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重量(自重)は18kg増加した。
 
零戦52型甲 
【零戦五二型甲諸表】A6M5-a

発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

零戦52型乙/五二型乙

Photo_28

ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

Photo_30

零戦五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。
五二型との違いは右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリに換装したほか、
両翼下に150リットル増槽を各一個ずつ搭載可能に改造した。
後期生産機は座席後方の防弾を強化し風防正面を防弾ガラスに変更し
防御力を増加。昭和19年10月、正式採用され三菱で470機が生産された。
 
零戦52型乙 
【零戦五二型乙諸表】A6M5-b

発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦53型丙/五三型丙

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

Photo_36

零戦五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、
エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料
タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから
量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が
移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
 
零戦53型/53型丙 
【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦52型丙/五二型丙

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

Photo_33

零戦五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設けロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
零戦52型丙 
【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦62型/六二型

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

Photo_41

零戦六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定される。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

零戦62型/63型 
【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦64型/六四型(試製54型丙)

Photo_42

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

Photo_44

零戦六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
 
零戦64型/五四型丙 
【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 
64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2015年1月28日 (水)

ゼロ戦のカラーリング・塗装表(中島と三菱の違い)

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 
 
機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の塗装について
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは

暗緑色が胴体の斜めに入っているのが中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
 
日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。

あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 
零戦の日の丸 

 
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215221型と52型の違いについてはこちら





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2015年1月20日 (火)

烈風改

烈風(改)戦闘機

烈風(改)

  

烈風(改)三菱A7M3-Jは
零戦の後継機として堀越二郎がリーダーを務める
三菱重工開発チームで試作中であった艦上戦闘機「烈風」を
陸上基地で運用すべく大規模に構造変更が施された機体である。
 
この頃の空戦は旋回性能よりスピードが勝敗のほとんどを決し
ドッグファイトは既に時代遅れであった。よって烈風は零戦の
後継機と雖も、その設計思想は大きく異なるものであった。
大馬力を活かした一撃離脱戦法の「雷電」にやや近いものがあるが
必ずしも雷電を踏襲したとも言えず、極限までデザインされた翼で
空力を生かし、さらなる運動性能の向上を目指した。
 
烈風をさらに進化させた烈風(改)はこれまでにない重武装、大馬力を備えた
重戦闘機で、局地戦闘機本来の本土邀撃任務のほか、零戦を超える長大な
航続距離を誇り、250kg爆弾二発が搭載可能で進攻作戦にも運用可能であった。
烈風改はレシプロ戦闘機としての限界、洗練を極めた。
 
海軍は機動部隊の再建をかけて空母信濃の完成に至り、天城、葛城なども
呉のドックで艦載機の搭載を待っていた。搭載予定の艦載機は
艦上攻撃機「流星、」艦上偵察機「彩雲」、艦上戦闘機「烈風」 と
トリオでの運用が計画中であったが「烈風」開発の遅れに伴い、代わって
局地戦闘機の紫電改を艦上戦闘機へ改造し運用することと決定した。
 
この機体は紫電改三一型甲(別称、試製紫電改二)と呼ばれ
空母信濃へ着艦テストが行われたが、信濃も撃沈され、艦戦紫電改は
実戦配備に至ることなく終戦を迎えた。
 
一方のA7M2烈風も東南海地震とB-29による爆撃のため三菱の生産拠点は
壊滅、実戦に間に合わず、烈風改に至っては試作機の製作すら及ばず終戦。
三菱重工が誇る戦闘機製造の歴史はここに幕を閉じたのであった。
 
烈風(改) MITSUBISHI A7M3-J
全幅14.00m 全長11.96m 全高4.24m 翼面積31.197㎡
自重 3,955kg 全備重量 5,675kg 翼面荷重181.4kg/㎡
発動機 三菱ハ四二/一一型 MK9A 過給器付 2130馬力(高度6800米時)
巡航速度416km/h 最高速度682.2km/h 航続距離2,288km
兵装30mm機関砲4門+斜め銃
 

Photo

 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2015年1月13日 (火)

南洋神社

南洋神社

 
官幣大社・南洋神社は昭和15年、コロール島アルミズ高地に
創建された南洋群島総鎮守たる神社である。
 
南洋神社の建立
人々が営むところには必ず神社が建立される。
大正8年にはじまった南洋統治で、南洋全体での日本人の人口は7万人を
超えたが、中でも 一番の繁栄地コロールに神社が無かった。
 
そのため政府は神武即位紀元二千六百年記念行事の一環として
延べ九万坪にも及ぶ広大な境内を有する神社創建に至った。
祭神は天照大神である。かくして南洋神社は人々の心の拠り所となった。
  
祭神:天照大神
社格:官幣大社
鎮座地:コロール島アルミズ高地
境内地:約九万坪
造営費:33万1千円
造営期間:昭和15年2月-10月(9ヶ月)
鎮座日取:昭和15年11月1日
 
本殿・祝詞殿・神饌室・祭器室・渡殿・拝殿・渡廊・神饌所
祭器庫・玉垣・神塀・神橋・荒垣・神門・手水舎・鳥居・社務所
斎館・儀式殿・倉庫

上奏書 南洋神社を創立し官幣大社に列格の件

南洋群島は大正8年帝国の委任統治下になって二十余年 群島開発の業著しく進展し
いまや在住邦人7万を超え
南方の経済的発展の前進基地たるのみならず実に国防上
の要衝として重要なる地位を占め
五万の島民また聖恩に浴して福祉大に増進せらる
神武即位紀元二千六百年にあたり南洋神社を建立す
拓務大臣小磯國昭 昭和15年2月1日
米内光正内閣総理大臣 昭和15年2月6日

 
南洋神社の消失 
昭和20年、コロールに進駐してきた米軍によって 南洋神社は焼かれ、
境内とほとんどの建造物は跡形もなく消失した。
 

パラオ人による再建
その後長らく神社跡は放置されていたが、1997年、パラオ人が神社跡の土地を
購入し個人邸宅の敷地となった。 その折、神社消失の経緯を忍びなく思った
邸宅の主が、旧神社の本殿・拝殿があった辺りに祠を再建し守ってくれている。
 
当時の南洋神社そのものの建造物としては 石段と参道沿いの石灯籠などが
僅かに残っている。
 
実際に行ってみよう
では、実際に行ってみよう。現在は個人の邸宅の敷地内にあるので
必ず許可を取ってからお邪魔しよう。気軽に参拝させてくれる。
  

20100206_300

20100206_299

一度は消失した南洋神社。しかし
パラオ人が再建してくれた。こういった思いには
日本人として本当に嬉しく、涙がこみ上げてくる。
 
実際にはご祭神は移されているので正式に認められた神社ではないのだが
なんとかならないだろうか。ここの主人も全くの無償で祠を建て、毎日掃除を
してこんなに綺麗に守ってくれている。手ぶらで行くのが申し訳ないくらいだ。
 
正式に神社としてふたたびご祭神を祭るとか
(私は専門家ではないので難しいことはわからないが)
南洋神社の御朱印を設けるとか(超貴重なパワースポット)
もっと日本人に来てもらう方法を考えられないだろうか。
 
神社を再建してくださったパラオ人の方には心から感謝します。
本当にありがとうございます。


◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2015年1月11日 (日)

緑の島のお墓(追記/ボーカル募集)

この曲は、ペリリュー島在住のパラオ人、ウエンティ夫妻が日本人の為に
作って
くれたものです。慰霊に訪れる日本人が減った今もペリリュー島の
島民
たちは緑のお墓を守ってくれています。
  
どんなメロディーか知りたいというご意見があり
今回、ピアニストの久保亜未先生に演奏して頂きました。
(原曲を細かに再現しました)
パラオ人の優しさが込められています。ぜひお聴きください。
 

緑の島のお墓
YouTube: 緑の島のお墓

▲ピアノソロ・久保亜未


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲歌唱・ミシェルさん
 
 
Photo

 
緑の島のお墓

 
作詞:アントニオ・ウエンティ
作曲:トンミ・ウエンティ

 

遠い故郷から はるばると
お墓を参りに ありがとう
緑のお墓の  お守りは
ペ島にまかせよ いつまでも

 

海の中にも 山の中
ジャングルの中にも 土の中
英霊よよろこべ 安らかに
一緒に暮らそよ とこしえに

 

ペ島の願いはただひとつ
日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ
知らせておくれよ 祖国まで

 

伝えておくれよ 祖国まで
父母兄弟 妻や子に
僕らは緑の 島暮らし
涙をおさえ さようなら
涙をおさえ さようなら
  

大きな歌詞カードはこちらからダウンロード

Imgp2841  
 
ボーカル募集します
ペ島の桜を讃える歌と合わせてCDに2曲を収録しました。
またボーカル(歌ってくださる方を募集しています)
音源を希望される方はお問い合わせください。
※非営利企画です。
 

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
 こちらは御堂さんに歌っていただきました。
『ペ島の桜を讃える歌』

 

ペ島の桜を讃える歌

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)


ペ島の桜を讃える歌
YouTube: ペ島の桜を讃える歌(ピアノソロ)

この曲はペリリュー島在住のパラオ人が日本兵の武勲を讃える
ためつくってくれた曲です。
パラオ人が作ったという点に歴史上
非常に意義深いものがあります。 

 
 
ペ島の桜を讃える歌
作詞:オキヤマ・トヨミ、ジョージ・シゲオ
作曲:トンミ・ウエンティ
 


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ 

オレンジ浜を血で染めた
兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島はすべて墓となる
 

小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾撃ち尽くし食料(しょく)もない
 

将兵(へいし)は桜を叫びつつ
これが最後の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し
 

日本の桜は春一度
見事に咲いて明日は散る
ペ島の桜は散り散りに
玉砕れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
 

今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
 

平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る
 

どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗びし
あつい涙がこみあげる
 

戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
 

2015年1月10日 (土)

リバティウォークのゼロ戦

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Livertywalk Democar
TOKYO AUTO SALON 2015
 
東京オートサロンへ行きました。
素晴らしいデザインのマシンがあったので紹介します。
零戦五二型と二一型の色そのものです。
 

 
あとはカメラの練習も兼ねてポートレートも撮影してきました。
人物は写真の中でも最も難しい分野です。抜粋して100枚を
アップしました。照明の具合が各ブース毎に異なるので
設定がコツでした。まだまだ勉強中、精進してまいります。
 
ただ、コンパニオン(キャンギャル)の方はスタイルも抜群ですし
ポーズの決め方などプロですので、私なんかが下手っぴに撮っても
実にかっこよく写ってくれます。
 

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2015年1月 7日 (水)

震電

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震電03

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【震電諸表】J7W1
局地戦闘機震電 全幅11.114m 全長9.76m 全高3.92m
主翼面積20.5㎡ 自重3,525kg 全備重量4,950kg 翼面荷重210kg/㎡
離昇出力2030馬力 最高速度750km/h 巡航速度444km/h
VDM式定速6翅プロペラ 30mm機銃×4

Photo_4

震電局地戦闘機 J7W1
「震電」(しんでん)は海軍航空技術廠が主導し
九州飛行機が開発を担当した日本海軍の局地戦闘機である。
 
インターセプター(迎撃機)の重要性を認めた海軍は
昭和19年、前例のない重戦闘機の開発に着手した。
 
開発の計画・推進役は空技廠の鶴野正敬博士(技術少佐)で
十八試局地戦闘機「震電」と呼称されたこの戦闘機は
最大速度405ノット(750km/h)と30ミリ機銃4挺の搭載が求められた。
 
この時、最新鋭であった零戦五二型は564km/hで20ミリ2挺であるから
その数値がいかに困難なものであったか理解できる。最高傑作の
レシプロ戦闘機と称されるP-51でも昭和20年に最高速度は704km/h。
 
エンジンは三菱「ハ四三」四二型(MK9D改)を搭載し
公称出力1660馬力、離昇2030馬力を発する。
 
機体デザインは独自のエンテ翼・前翼式(後方にエンジンとプロペラ)に
よって重武装を前方に集中できるメリットがあったほかエンジンが防弾の
役割を担うので、被弾しても搭乗員の命を守ることが可能であった。
 
ただし、緊急脱出時にパイロットが巻き込まれる恐れが非常に高い。
殊に震電は対B-29用戦闘機として敵爆撃機の編隊に突っ込み、
集中砲火を受けるので、一撃離脱したものの被弾後の脱出が想定される。
これについて、テストパイロットを務めた山本重久大尉(この人は紫電改で
空母信濃にも着艦成功している)が空技廠の推進(プロペラ)部の
技術大尉との間で大激論になったと戦後回想している。
 
山本重久大尉 
「集中砲火を受けて撃ち合うパイロットの身にもなって
設計してください」
 
某技術大尉 「できないですねえ」
 
「プロペラ・ボス(プロペラ付け根以下の意)全体を破壊しなくてもプロペラブレード
一枚を飛ばすことができたら、残り五枚はアンバランス
になり、瞬間的に全ブレードが
スッ飛ぶであろう。それもできないのか」

  
「技術的に不可能だ」
 
「不可能を可能にするのが科学で、それをやるのが技術者だ」 
 
「無茶を言うな」
 
「何が無茶だ。なぜやろうとしないのか」
 
「こいつ」
 
山本は憤慨し、自分よりずいぶん古参であろう技術大尉の横っ面を
いやというほどぶんなぐってしまった。 
その後、プロペラを吹き飛ばす技術が開発され 試作が進められた。  
 
震電の翼には22ミリの防漏ゴムを施し
風防ガラス前方は70ミリの防弾仕様となった。
 
この仕様からも震電は汎用性や格闘性能を無視し、対爆撃機用
重戦闘機として誕生し、歩みを始めたといって間違いない。本土領空に
侵入せし敵爆撃機(のちのB-29)に対し、緊急発進、その大馬力を活用して
一気に上昇し、直上より強力な火力を浴びせるものだった。
 
震電プロトタイプ(試験機)の完成・初飛行は昭和20年8月6日
広島へ原爆投下の日だった。九州飛行機、雑餉隈(ざっしょのくま)
製作所から蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運ばれ、
試験飛行を実施。8月8日と合わせて45分間、飛行した。
この飛行の様子は動画フィルムに撮影されており、現在も
市販のDVDなどで見ることができる。
 
エンジンが故障し、製造元である三菱重工に連絡をとっている
間に終戦を迎えた。

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Photo_5 
震電はプロペラが後ろに位置する「エンテ翼」と呼ばれる機体です。
九州飛行機が機体デザインを担当し、エンジンは三菱製を搭載しました。
30ミリ火砲と上昇力を備え、B-29邀撃用戦闘機としての活躍が期待されて
いました。
昭和20年、8月、福岡県、雑餉隈(ざっしょのくま)で製造され
近くの陸軍席田飛行場(現・福岡空港)から離陸に成功しましたが、
実戦配備される前に終戦を迎えました。
この機体も史実通り、
雑餉隈仕様を再現して頂きました。

 
SF映画やアニメ、空想戦記で多く登場するため

女性や、幅広い年代に認知度が高く、人気の飛行機であります。
 

※周りのジオラマ素材は篠原が製作したものです。室内撮影のため、背景の青空は
エアブラシで描いたものです。

その独特な形状から震電は人気が高く、架空戦記やSFなど
多くの漫画などに昇華した形で描かれている。
 
震電Tシャツ販売中
  

震電Tシャツ震電Tシャツ02

スカイ・イクリプス

Photo

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2015年1月 6日 (火)

スカイクロラ 散香Mk-B

スカイクロラ 散香Mk-B

スカイクロラ 散香Mk-B

 
フリー素材としてダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。
 
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零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)フリー素材

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
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第二師団勇会有志会再編

会津若松の第二師団(勇)の戦友会に縁あって数年前から
頻繁にお邪魔していたのですが 今年からは若手有志の協力をいただき
私が会長代行の大役を仰せつかりました。 

 
元来、第二師団勇会は旧軍人の戦友会です。昨年末 会員の高齢化に伴い
「年内いっぱいで解散しようか」という 話になりました。そこで、若手の有志会員が
運営・事務の一切をを引き継ぎ、旧軍人の方の負担を軽減することで例会には
足を運んで頂くだけ、という形で維持継続を可能としました。
なんとか命を繋ぎとめたとホッとしております。
 
勇会は平均年齢94歳、最年長98歳の集いで大正生まれの大先輩方ばかり
なので次元を超えたお付き合いをさせてもらってます。 先輩方と過ごす時間は
私の宝物です。
 
第二師団とは
日本陸軍の第二師団は1888年(明治21年)5月14日に仙台鎮台を
改編して 宮城県仙台区(翌年より仙台市)に設立された師団であります。
日清戦争の最後に乃木希典が中将に昇進し始めて師団長になった師団で
遼陽会戦では弓張嶺の夜襲と呼ばれる師団規模の夜襲を敢行(ただしこれは
師団長の独断で行われた作戦で、命令違反だった。)以後 「夜襲の仙台師団」の
異名を取りました。そして大東亜戦争転換点。 ガタルカナルで米軍と激戦を重ね、
末期にはビルマ戦線で苦闘を 重ねた歴戦の師団です。(伊牟田会員解説)
 

硫黄島へ行くには

硫黄島

 
「硫黄島への行き方」

「硫黄島へ行きたい。どうやって行ったらいいのか?」
といった旨の問い合わせをメール等でよく頂きますので
この場を持ちまして回答とさせて頂きます。
 
硫黄島は全域が海上自衛隊と航空自衛隊の基地です。
従って一般の方の上陸は禁止されています。
米国は戦跡ツアーなども行っているようですが
ここでは日本人が渡航する手段について記述します。
 
建設業者等を除いて、一般の方が渡航するには
厚生労働省が行う遺骨収容事業への参加が一般的です。
厚生労働省は毎年、硫黄島の遺骨収容(遺骨収集)事業へ
参加する団体の公募と選定を行っており、先ずはそれら
いずれかの団体への加入が必須となります。
なお現在、個人での応募は廃止となりました。
 
平成26年度、公募で選ばれた団体は以下の7団体です。
 
一般財団法人日本遺族会
硫黄島協会
小笠原村在住硫黄島旧島民の会
NPO法人JYMA日本青年遺骨収集団
NPO法人国際ボランティア学生協会
公益財団法人大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会
 
詳しくは厚生労働省のホームページに記載がありますのでご覧ください。
なお単純に「硫黄島へ行きたいから入会希望」という理由での加入は
いずれの団体も断っており、加入の際は、それぞれ本来の主旨に
合った活動に尽力・従事することが前提となります。
 
また派遣日程の都合上、 最低でも10日間から14日程度仕事を
休める方に限られます。
 
硫黄島は携帯電話やスマホも圏外で、インターネットやEメール
通話はもちろん、内地や家族との連絡は緊急時を除いて原則できません。
 
節水実施中は一日のシャワー時間が5分に限定されるなどの条件が
つく場合もあります。持ち込める荷物も最低限に制限されます。
 
渡航前には身辺調査があり、前科の有無、その他不適切と見なされた
場合は渡航できません。 特に最近はそういったふるいにかけているにも
関わらず観光気分で入島してしまう者が多く、条件が厳しくなりつつあります。
原則的に撮影禁止でカメラ・携帯・スマホの持ち込みは厳しく制限されます。
 
興味本位や観光でなく、目的は戦没者供養と遺骨の収容にあります。
中には「せっかく行ったのにまったく島内観光やら写真を撮る機会がなかった!」
と怒り狂ってクレームをつける人もいるのですが、ぜひ原点に返って頂きたいと
思います。
 
上記は、当サイト独自の見解です。記載内容はあくまで参考で
免責事項と致します。渡航希望の各位におかれましては
厚生労働省または各公募団体に直接お問い合わせください。

2014年12月19日 (金)

指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

「まさかあのとき、親父が死んだとは思わなかったんだ。スイッチひとつで
簡単に脱出できると言っていたから・・・事故の報せは聞いていたが
まあ、親父のことだから大丈夫だろうと思って、家に帰ったら記者が大勢
押しかけていて、それで事の重大さを悟ったんだ」 

  
薩摩の武人・戦闘機パイロット指宿正信

最後まで空に生きた人であった。
昭和三十二年一月九日(1957年)航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機が
訓練飛行中、天竜川河口沖合に墜落。操縦士の指宿正信(いぶすきまさのぶ)
二佐が 殉職した。
 
指宿二佐は日本で初めてのジェット戦闘機操縦士の一人で、また先の大戦では
真珠湾攻撃から終戦までゼロ戦搭乗員として技量抜群で生き抜いた人物だった。
 
残念ながら指宿氏に関する記録はほとんど残っていない。 僅かな資料をもとに
調査を進めると指宿氏は海兵六十五期、鹿児島県南さつま市 (旧加世田市)出身
であることがわかった。戦後も第一線で戦闘機乗りを続け国に身を奉げて散った
武人の生き様を、僅かでも残すべきと考えここに記す。
 
指宿正信は南薩摩・加世田の出身であり海軍兵学校六十五期、 海軍兵学校を
主席で卒業、恩賜の短剣組であった。
弟、指宿成信少尉は海軍叩き上げの戦闘機パイロットで
兄弟揃って紫電改に搭乗し、のちに本土防空戦を戦うことになる。
(昭和20年、兄、指宿正信少佐は横須賀航空隊で飛行隊長として紫電改に搭乗。
弟、指宿成信少尉は第343海軍航空隊で紫電改に搭乗)
 
 

真珠湾攻撃
昭和16年12月、指宿大尉は真珠湾攻撃で空母赤城所属のゼロ戦隊分隊長を
務め、僚機の岩城芳雄一飛曹、羽生十一郎一飛曹とともに第一次制空攻撃隊に
参加。 ヒッカム飛行場を制圧し、敵戦闘機の迎撃を抑えた。
 
スピットファイヤと対峙
インド洋ではセイロン島・コロンボ空戦に参加。 英軍スピットファイアと交戦し4機
を撃墜した。このうち一機のスピットは不時着に成功し、敵パイロットはコクピット
より這い出したが、これを認めた指宿は 風防を開け手を振って上空を通過。
とどめをささなかったというエピソードが残っている。
 
ミッドウェーの敢闘
昭和17年5月のミッドウェー海戦では赤城の上空護衛を任務とし、合計8回に
渡り発艦を繰り返し 被弾し乍も敵機と果敢に交戦。TBD-1デヴァステイター1機、
SBDドーントレス1機、B-26マローダー2機(推定)を共同撃墜し、赤城防衛に尽く
したが、赤城は沈没、 指宿は海上に不時着、数時間の漂流の末、救助されたが
真珠湾以来、半年間に渡って僚機を務めた戦友、羽生一飛曹は行方不明となり
ついに帰らなかった。
 
翔鶴と南太平洋海戦
昭和18年8月、空母翔鶴乗り組みとなった指宿は、新郷英城大尉指揮のもと
南太平洋海戦を戦う。この間 幾度となく空の要塞、B-17フライングフォートレスを
迎え撃ったが そのほとんどは雲間に逃した。岩城一飛曹と協力し遂にB-17を
撃破したときは 岩城自らも被弾、火災となり鎮火できずにいた。帰還不可能と
悟った岩城は 指宿へ向かってニッコリ笑って敬礼すると自爆、南溟に散った。
 
指宿自身もその後の戦闘で被弾したが不時着、救助され生き延びていた。
 
第二六一海軍航空隊(虎)とマリアナ沖海戦
昭和18年末~昭和19年6月 玉井浅一中佐に協力して若き航空要員(甲種10期
の17~18歳が多かった)で、第二六三海軍航空隊(豹部隊)結成ならびに
指宿自身は二六一海軍航空隊(虎部隊)の錬成にあたり絶対国防権防衛を担う。
 
これらの航空隊は大宮島・サイパン島・天寧(テニアン)島・パラオ ペリリュー島を
転々とし空戦を重ねたが、消耗激しく 最後はマリアナ沖海戦で部下のほとんどを
失った。 指宿とその部下はサイパン島で運命を左右されることになる。
 
サイパン上陸戦を控え、生き残りの貴重な航空隊員は 潜水艦と輸送機にて順次
サイパンを脱出しフィリピンへ向かう。 これに特に優先順位等なかったと思われる。
脱出は僅かな差であった。 指宿は無事脱出しフィリピン、マバラカットへ。しかし
無念は261空の司令、上田猛虎中佐(海兵52期)や海軍の至宝ともいわれた
東山市郎中尉さえも いずれも戦闘機の操縦においては天才的技量を持ちながら、
サイパン島に取り残され地上戦に巻き込まれ手榴弾を持って戦い、玉砕した。
 
第二〇一海軍航空隊・特攻隊を志願・却下される
昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされる。
敷島隊の編成にあたり、指宿が特攻隊を 「辞退した」と書かれている戦記が多いが
これは事実と反する。
 
かれの脳裏に過るのは先に散った多くの若い部下の顔であった。決して忘れは
しない ニッコリ笑って敬礼し、煙を吐きながら編隊から離れていった、そして二度と
帰らなかった戦友のことを。 俺も必ず後に行くぞと誓った。
 
指宿は副長の玉井浅一中佐に自ら敷島隊の一番機として突っ込むと熱望したが
却下されてしまう。 代わりに白羽の矢が立ったのが関大尉であった。
 
「関が行くなら俺も行く!俺を一番にやってくれ!」
なおも食い下がる指宿の言葉に対し、玉井は告げた。
「貴様は真珠湾以来のつわもの。これからは指導する立場にあるので
作戦に参加させる事は出来ない。死なれては困る」
 
敷島隊の一番機を真っ先に志願したのは他でもない 指宿自身であった。
 
関もまた可愛い部下であった。 指宿は戦後、幾度となく関の墓参りに
愛媛を訪れている。
 
紫電改を駆り本土防空戦を展開
内地へ戻り横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、紫電改を駆り
B-29やP-51を邀撃。この頃既に階級は少佐となっていたが指宿は常に現役で
あった。そして生きて終戦を迎えた。
 
戦後、故郷鹿児島へ戻った指宿は子供たちを集め 自らの体験を語っている。
「こうして死にぞこない、おめおめと生きている」
と 寂しそうに言ったという。
 
航空自衛隊戦後初のジェット戦闘機F-86Fパイロット
最後まで空に生きた人であった。 指宿は航空自衛隊の黎明期を支える存在と
なった。 渡米。戦後初のジェット戦闘機F-86Fのパイロットとなった彼は全国各地で
教官として次世代を担う新人搭乗員の指導に明け暮れた。
 
事故~市街地を避けて海へ
昭和32年1月9日、突然の報せだった。指宿は浜松航空団F86Fで飛行指導中、
事故に遭う。不運な事故であった。 先頭を飛行する教官、指宿の機体が太陽と
重なり、後ろを飛行中だった訓練生の目を眩ませたのだ。
 
訓練機が指宿機に追突する形となり、二機は空中衝突、訓練生はその場で落下傘
降下し無事。機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため 人的被害は無かった。
一方、指宿の眼下には浜松の市街地が広がっていた。 指宿は民家への被害を
避けるため最後まで操縦桿を離さず、機体をコントロールし海上への離脱を図った。
  
「遠州灘まで引っ張る!」
それが指宿最後の言葉となった。 指宿は海上でベイルアウト(緊急脱出)の
レバーを引いたが 高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突。殉職した。
 
最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした指宿正信、42年の生涯であった。 
 
薩摩の武人が残した礎
「戦後は特攻を関大尉に命じて自分は逃げたんだと、長い間、誤解されて
卑怯者扱いをされて、辛かったろうな。これじゃあんまりだ」 
 
指宿氏のご遺族は語る。

 
ブルーインパルスの一番機が白い煙を引きながら大空へと吸い込まれて行く。
間違いなく、指宿が残した武人の志は今日日本の礎となって
現在も受け継がれている。
 
 
最後までご覧くださりありがとうございました。
 
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赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース

 
※記事は加筆訂正をする場合があります。
出展:261海軍戦闘行動調書
取材・調査:篠原直人
 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

タガビーチ(テニアン島)

タガビーチ(テニアン島)01

タガビーチ(テニアン島)02

タガビーチ(テニアン島)03

Photoテニアン島 タガビーチ
 
タガビーチはタガ遺跡から南に600メートルに位置する静かな砂浜で
遥か古にはチャモロ王朝が首長専用の水浴び場として利用したと
伝えられる。
 
サイパンから、ここテニアンまで足を延ばす観光客は非常に少ない。
プライベートビーチの気分を味わえる。真っ白な砂浜の脇に
切り立った崖があり、飛び込み可能だが、干潮時にはかなり
浅くなるので注意が必要。
 
テニアン島にはこのタガ・ビーチのほか、テニアンで最も美しいとされる
タチョンガ・ビーチや
カマー・ビーチがある。いずれもダウンタウンから近く
シュノーケリング等が楽しめる美しい砂浜である。
  
北部のチュル・ビーチは星の砂が採れるが、米軍が上陸し
激戦が行われた砂浜である。
(チュル・ビーチは島の北部に孤立してあるので車でないと移動が困難)
 
 
テニアン島へ行くには
テニアン島へのアクセス
 

2014年12月13日 (土)

当サイト掲載の画像提供について

◆無料で利用できるケース 
 
〇個人ブログ・ウェブサイト素材としての利用
〇動画素材(youtube、ニコニコ動画など個人非商用アカウントでの利用)
〇発行部数200部以下の同人誌・趣味の印刷物

〇SNSのアイコン等
〇教育・講演、プレゼンテーション等

  
利用の流れ
 
1、利用報告
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利用先(ご自身のサイト等のURL)を、
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【soranokakera(アット)uq.babyblue.jp】
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例文:〇〇ページの零戦の画像の使用します。(URL)
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お持ち帰りになれない範囲、例としまして
こちらから高解像度で再度書き出しを行う等につきましては
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最後までご覧くださりありがとうございました。
以上、よろしくお願い致します。
 
連絡先
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2014年12月10日 (水)

富安俊助中尉とエンタープライズ

◆実在した「永遠の0」宮部久蔵のモデル

映画『永遠の0』最後のシーンを見た私は即座に
これは実在した富安俊助中尉のエピソードとそっくりだ!
富安中尉をモデルにしたのではないか?そう確信した。
 
以下、ネタバレを含む。映画『永遠の0』ラストシーンで
宮部久蔵は特攻隊として爆弾を抱いて敵空母へ突入する。
遂に横っ腹に突入するという寸前、90度急上昇し、敵空母の直上から
機体を真っ逆さまにして甲板へ突っ込むという壮絶なものであった。
 
ここまでは『永遠の0』の内容であり、フィクションである。
-------- 
 
◆以下、ノンフィクション
以下はノンフィクション。富安俊助という実在した零戦搭乗員の物語である。
富安俊助中尉は私が運営を務める第二師団の戦友会でお世話になっている
元第二師団第二連隊の陸軍大尉、水足氏(陸士56期)のポン友(親友)であり
家も向かいだったということで、思い出話をよく聞いていた。
そのエピソードを紹介する。
 
  
◆富安 俊助(とみやす しゅんすけ)
大正十一年、長崎県に生まれ、まもなく東京へ引っ越した。幼少期

は「メバチ」のあだ名で呼ばれた。早稲田大学に進学、大学では柔道
部に所属した他、全てのスポーツに長けており、また音楽を愛した。
在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほどであった。
 
水足氏によれば「富安は兎に角、運動神経が抜群で、中学の鉄棒で
大車輪を何度もやっていた」という光景をよく覚えているそうだ。
 
昭和十七年九月、早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得卒業後

満州鉄道に就職したが、僅か一年後の昭和十八年九月、学徒出陣を受
け海軍へ入隊。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊へ配属され
僅かばかりの期間、訓練に励んだ。
 
◆鹿屋進出
昭和二〇年 四月二十二日
出撃を控え海軍鹿屋航空基地に移動。
 
◆神風特別攻撃隊「第六筑波隊」出撃
同年 五月十四日 午前五時三〇分
第六筑波隊の爆装零戦隊十五機は、五〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋飛行場を
飛び立った。滑走路の端一杯まで滑走して、ようやく機体が浮い
たという。
途中、一機がエンジントラブルで引き換えし十四機となっ
たが、同じく鹿屋を
発進した第十一建武隊第八七生隊第六神剣隊
の爆戦十二機と合流し、
合計二十六機となって南方の米機動部隊を目
指した。これを察知した機
動部隊はただちに迎撃隊を発進させた。特攻隊のうち
十九機が迎撃戦闘
機により撃墜され、六機が対空砲火によって突入前
に撃墜された。

◆富安機の突入
午前六時五十六分
戦友の犠牲のもと、ただひとり生き残った富安俊助中尉は、対空砲火
を避けて一旦雲に身を隠した。そして時折雲間から顔を出してはエン
タープライズの位置を確認しつつあった。一方のエンタープライズは
20分前からレーダーで富安機を捉えていたが、雲に隠れた富安機に
効果的反撃ができずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けた
瞬間、富安機は満を持して急降下突撃を敢行。エンタープライズは集
中砲火を浴びせたが、横滑りを駆使する富安機に致命弾を与えられぬ
まま、ついに懐への進入を許した。
 
そのまま横っ腹に突っ込むかと思
われた刹那、富安機は五〇〇キロ爆弾
を抱いたまま、一気に引き起こ
し、艦の真上へ上昇した。雲間から射した
日光を浴びてゼロ戦の腹が
輝いていた。富安機は一八〇度左旋回すると
揚力を抑えた背面飛行
のまま、艦直上より前部エレベーターに突入した。
突入時の衝撃によ
り前部エレベーターは上空およそ一二〇メートルまで
吹き上げられた
エンタープライズは大破し、沈没こそまぬがれたが、航空機の
運用は
不可能となり、戦線離脱を余儀なくされた。
 

富安俊助 
▲エンタープライズ直上より背面飛行のまま突入を敢行せし富安俊助中尉機
 

◆艦上で富安中尉を称える式典が行われる
エンタープライズ艦上ではこの攻撃で死亡した空母クルーの水葬を
行ったのち、別の式典が行われた。これは敵であった富安中尉を称え
る名誉式典で、同式典により富安中尉の遺体は米水兵と同様に手厚く
水葬された。
 
米本土へ回航されたエンタープライズは入渠修理のまま終戦を迎える。
修理完了後は兵員引揚船として僅かに運用されたが空母としての
戦線復帰は果たせぬまま除籍。「ビッグE」栄光の歴史に幕を閉じた。

富安俊助の突入後
▲富安機突入の瞬間。上空120mまで吹き上げられたエレベーターが確認できる。
戦艦ワシントンより撮影。
 

富安俊助の突入後のエレベーター 
▲突入直後のエンタープライズ甲板。消火活動を行うクルー。
 

◆犠牲となった特攻隊員
この攻撃で犠牲となった特攻隊員全員をここに記す。

以下昭和二十年五月十四日海軍鹿屋基地出撃。
機種はいずれも爆戦(爆装零式戦闘機)である。
氏名、出撃時の階級、出身都道府県、出身大学もしくは
予科練期別、生年の順。

  
第六筑波隊

富安 俊助  中 尉 東京 早稲田大 大正十一年生まれ

大木 偉央  少 尉 埼玉 宇都宮高農 大正十二年

大喜田久男 少 尉 徳島 日本大学 大正十年

小山 精一  少 尉 東京 中央大学 大正十年

黒崎英之朗 少 尉 福岡 慶応義大 大正十二年

時岡 鶴夫  少 尉 兵庫 京都帝大 大正十一年

藤田 暢明  少 尉 徳島 東京農大 大正十二年

中村 恒二  少 尉 茨城 早稲田大 大正十一年

高山 重三 少 尉  愛知 同志社大 大正十二年

荒木 弘   少 尉  愛知 東洋大学 大正九年

本田 耕一 少 尉 兵庫 法政大学 大正十一年

西野 実   少 尉  石川 拓殖大学 大正十一年

折口 明   少 尉  長崎 専修大学 大正十一年

桑野 実  少 尉  京都 慶応義大 大正十二年
 

第十一建武隊

楠本二三夫 中 尉 長 崎 久留米高工 大正十三年生まれ

日裏啓次郎 中 尉 東 京 法政大学  大正十年

花田 尚孝 一飛曹 北海道 飛練十二期 昭和二年

古田 稔  一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年

鎌田 教一 一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年


第八七生隊

藤田 卓郎 中 尉 愛 媛 拓殖大学 大正九年

橋本 貞好 一飛曹 富 山 乙飛十八 大正十五年

荒木 一英 二飛曹 新 潟 特乙三期 大正十五年


第六神剣隊

牧野 カイ 少 尉 石 川 明治大学 大正十二年

川野 忠邦 上飛曹 宮 崎 甲飛十期 大正十二年

淡路 義二 二飛曹 群 馬 乙飛十八 大正十四年

斉藤 幸雄 二飛曹 宮 城 乙飛十八 大正十四年
  

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富安俊助機

宮部久蔵機宮部久蔵機

 

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零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年11月29日 (土)

戦艦大和両舷全速プロジェクト

戦艦大和

 
万里の長城、ピラミッド、戦艦大和という世界三大無用の
長物とかいうのがあるそうだ。よく、大和一隻分の予算と資材があれば

飛行機がたくさん出来たとか、言われる。
 
しかし現在を生きる我々にとって、大和建造に際して培った工業技術は
今日日本の礎となり、多大な
恩恵を賜っているのは間違いない。
 
呉市の誇り
この辺のことは細かくブログに書くよりも
呉市の大和ミュージアムへ行くと、私より一億倍戦艦大和に
詳しいボランティアガイドのおばさんが丁寧に説明してくれる。
まさに目からウロコだ。感動したのだった。
ボランティアガイドといっても、その教育レベルは素晴らしいもので
とにかく一度、訪れてみることを強くおすすめする。
少なくとも呉市は戦艦大和の誇りで出来ている街だ。
戦争の経緯や思想はさておき、呉市の公園には大和の主砲を模した
オブジェが飾ってあったり、建造されたドックはそのまま残されていたりと、
とにかく戦艦大和を大切にする。
 
「大和沈めども、技術は沈まず今日日本の礎を築く」
 
これが大和ミュージアムのガイドのおばちゃんが言っていた
名文句である。感動したので機会さえあれば何度でも足を
運びたいと思っている。

戦艦大和ドック 
▲歴史の見える丘公園から望む戦艦大和ドック(夜景)

呉市の歴史の見える丘公園へ行く

長崎の武蔵ドックはこちら

 
鹿児島と大和
同様に坊の岬沖海戦が行われ、最後に大和が目撃された
縁の深い鹿児島で大和をいかして町興しできないか考えている。
鹿児島は本土決戦に備えた戦跡も多く、見ごたえがある。
指宿をはじめ、良い温泉もあるし、東京からお客さんをたくさん呼んで
過疎化に歯止めがかけられないか。考えている。
 
現地の友人と協力して戦艦大和グッズをいろいろ
作ることにした。
 
 
追記2015年4月
戦艦大和Tシャツ(通常版)販売開始しました。
こちらはamazonで購入できます。
 
また、置いていただける小売店様を募集しています。
買取・委託などご相談ください。
 

N

W



 

T

戦艦大和Tシャツ ホワイト販売ページへ
戦艦大和Tシャツネイビー販売ページへ
戦艦大和Tシャツブラック販売ページへ

戦艦大和イラスト

大和最終艤装図 
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵の艦影フリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
画像使用についてのお願い

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年11月 5日 (水)

BC級戦犯の処刑を見た

この内容は、昭和21年7月15日
元憲兵曹長の磯部氏がラングーン中央刑務所抑留中に目撃した法務死
(いわゆるBC級戦犯の処刑)についての証言です。2014年夏に
私を含む有志四名で、磯部氏に独自取材を行ったもので
やや刺激の強い表現が含まれますことをあらかじめお断り申し上げます。
 
95歳になる磯部さんは、こうした戦争のお話をされる際に、
「私は亡き戦友の代弁者として」と、必ず仰ってから
語り始めるのがのが常となっています。
 

BC級戦犯の処刑
YouTube: BC級戦犯の処刑

 
ラングーン刑務所におけるBC級戦犯の処刑と裁判の概要
昭和21年4月
ラングーン軍事法廷においてカラゴン村事件の裁判が開かれた。
17日間にわたる裁判の結果、日本軍将校四名が事件に深く関与したとされ
有罪、死刑が言い渡された。同年7月15日午前 少佐一名が絞首刑。
大尉一名と中尉二名が銃殺刑となった。
 
ただし戦勝国による裁判は必ずしも公正無私なものとは限らず、
その真偽は当然ながら、判決自体も開廷から結審まで合わせて
17日間という短期間に争われた結果であった。
 
日本軍側の主張でもあり矛盾点として付け加えるべきは
村の襲撃を命じたとされる師団長、連隊長は無罪であったうえ 法廷では
連合軍による日本本土無差別爆撃等による日本の民間人死傷も
同様の戦争犯罪にあたるとの言及がなされたが、以後一切、連合国の罪は
引き合いに出されることなく結審していることであろう。
 
 
カラゴン村事件とは
第三十三師団(弓)第215連隊第三大隊が ビルマ東南部の
モールメンにおいて女性子供含む現地住民600名を虐殺したとされる
事件である。カラゴン村の住民は英軍をゲリラ活動により支援しており
(これらを敵性部落と呼ぶ)さらに村が師団の 進軍経路上にあったため
師団司令部は 連隊に村の襲撃を下令したとされる。
  

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証言者略歴 
磯部喜一氏
最終階級憲兵曹長。 大正8年3月生まれ、鎌倉市出身。
昭和15年、歩兵49連隊(甲府)へ入隊 同年、憲兵試験を受験後合格。
中野の憲兵学校7期生として入学。 半年間の憲兵教育課程を修了後、
横須賀憲兵分隊で内地勤務。 司法係として、刑法を根拠とした軍人軍属の
犯罪取り締まり、 要人警護(葉山御用邸の警護)徴兵検査立ち会い、
遺骨引き渡しの警備等を行う。
 
昭和19年5月、外地勤務を志願しビルマ派遣。
現地人に変装し、諜報活動に尽力。インパール作戦中止に伴う
ラングーン放棄・シッタン平地作戦では(事実上の撤退作戦)
陸軍第一〇五旅団・敢威兵団の将兵3400名を導きモールメンへの
撤退路を確保した。
 
サトンにて終戦を迎える。バンワン、ラングーン刑務所へ抑留。
アーロン収容所を経て、昭和22年3月釈放。同年、8月復員。
 
97歳となった現在も
「亡き戦友の代弁者として」
講演、語り手を続ける。

 

2014年10月24日 (金)

ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

_20090715_0139_1

 
米軍側より見る ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

LVTまたはLVT(A)は上陸用舟艇または水陸両用戦車の名称である。

海兵隊では主に水陸両用装軌車両の略で
アムタンク(AMTRAK)または
アムトラック、(AMTANK)と呼ばれた。
 
ペリリュー上陸歩兵は全てアムトラックへ乗車
米第二海兵師団は1943年11月のタラワ攻略で
3000名を超える死傷者を出した。 タラワではアムトラックが
不足したため日本軍の銃火の下で サンゴ礁を歩いて上陸
しなければならなかったことが原因と考えられる。
第一海兵師団はこの戦訓から ペリリューでは突撃歩兵は
全てアムトラックに乗車し上陸することになっていた。
 

_20090715_0260_1▲ペリリュー島Dデイ。最終支援射撃を行う米艦船と上陸部隊。
 

_20090718_0918_1_1▲母艦であるLSTより出撃する米第一海兵師団とLVT

 
出撃から強襲揚陸まで

アムトラック・タンクは母艦であるLSTより出撃し
海岸から4000ヤード(3.6キロメートル) のラインで集結、
陸波を構成する。海岸線まで 時速7.2キロメートルで進撃し
およそ30分の距離であるが、上陸直前は極めて脆弱である。
 
「畜生!ジャップは無傷だ!」
もっとも、第一海兵師団は既に艦砲射撃で壊滅した海岸陣地に
日本兵が無傷の状態で潜んでいることは知らず
水際での反撃は全くの想定外であった。このため
海兵隊史上、極めて多大な犠牲を払う結果となった。
 
艦砲射撃を行った
J.B.オンデンドルフ海軍少将は
「ペリリュー・アンガウル両島に対する艦砲射撃は上陸前に
3,490トン、じ後3,359トン、
合計6,849トンであり、その効果に関し
上陸時の砲爆撃は当時最も完全で従来の如何なる支援より優れている
と思ったが
日本軍の掩蔽した火砲がLVT(A)に射撃開始したときの
私の驚きと残念さはどうであったかは想像されると思う」とのちに回想している。
 

_20090715_0141_2_2▲ペリリューの海岸を目指すLVT(A)4群

 
直撃弾で真っ直ぐに轟沈
LVTは装甲の薄さから、日本守備隊の放つ榴弾は脅威であり
徹甲弾においては過大ともいえる破壊力であった。 これらの直撃を
受けた車輛は兵員の逃げ出す間もなく水深の深い場所では真っ直ぐに
轟沈した。 浅瀬では燃え上がり、海兵隊員は火だるまとなりこぼれるように
海に落ちていった。

_20090718_0898_1_1

_20090718_0858_1_1▲ペリリュー島海岸を目指すLVT群。海岸より4000ヤード(3.6キロメートル)より
時速7.2キロメートルで進撃し砂浜到達まで30分を要した。
 

60輌が撃破された上陸戦
9月15日のDデイ(上陸戦)では 日本軍守備隊の熾烈な射撃により
60輌が上陸前に撃破されたとされる。(※1 
 

_20090718_0831_1▲LVT(A)4パーソナルネーム「レディラック」は最後まで生き残り
現在もペリリュー南部のジャングルにひっそりと眠っている。
 

陸上においての威力
しかし陸上においてのアムタンクは支援射撃や歩兵の盾として
絶大な威力を発揮し アムトラックは補給物資の輸送に重宝された。
この任務は危険を伴うものであり操縦士たちは飛行場までの運転を
パープルハートラン (名誉負傷賞へのひとっ走り) 山岳地帯への運転を
シルバースターラン (銀星章へのひとっ走り)と呼んでいた。
 

_20090715_0129_1▲ガドブス島掃討戦で火炎放射を行う様子

 
ペリリュー島での功績は大
どの操縦士も自分が何回運転したのか、あるいは車両を 何度修理したのか
わからなくなっていた。 彼らの忍耐力を維持していたのは奇跡とも
いえるほどであった。 操縦士はアムトラックが撃破されると所属する
トラクター大隊に戻らずその場で戦闘歩兵として最前線に留まる者もいた。
 
水陸両用車両は終始多大な犠牲を払ったものの
強襲揚陸での使用は当時最も優れた戦法であったし、犠牲の
多くは艦砲射撃の誤算からくるものであった。
結果として、その功績は大きく、ペリリュー戦で不可欠な存在で
あったのは確かである。
 
※1)日本側資料によると(防衛省戦史叢書)上陸戦当日に撃破された車両は少なくとも
60輌以上と記されている。
米軍公式記録では26輌のみとされている。 この数の相違は
多くのアムトラックの車長が水深の深い場所で完全に水没したような状況でなければ
撃破判定に異議を唱えたためであると考えられる。

 

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▲LVT4 上陸用舟艇
通称「アムトラック」 ペリリュー上陸戦で主力であった強襲揚陸艇。
クルー3名で兵員30名が輸送可能であった。 カタログ上の速力は
陸上32km/h、海上12km/hで、このLVT4は6月のサイパン戦で
はじめて使用された。兵員の乗降口が後部に移り、海岸で下車の
さいの防護を高めた。 ペリリュー戦では全てが更新されず不足分は
乗降部が前方の旧式LVT2等で埋め合わせており それらに乗車した
海兵隊は不運であった。
  

Imgp5770

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Imgp7743

▲LVT(A)1 水陸両用戦車
アムトラックにM5A1スチュワート軽戦車の砲塔である37mm戦車砲と
30口径機銃同軸装備を 搭載し、装甲を強化した水陸両用戦車である。
Dデイではこのアムタンクが最前線で制圧射撃を行い、その1分後、
突撃部隊の歩兵を載せたアムトラックが上陸した。
 

Imgp5746

▲LVT(A)4 水陸両用戦車(手前)
火炎放射装甲車 火力を強化し、M8砲塔に75ミリ榴弾砲が搭載され
50口径機銃を砲塔後部に備えた。いくつかの車両ではこれに火炎放射器を
備え、内陸部における掃討戦で 絶大な威力を発揮した。
  
▲LVT(A)2 水陸両用装甲車(奥)
LVT-2を装甲化したタイプで 兵員18名が輸送可能であった。
 

2014年10月 4日 (土)

「矢矧」航海士が見たマリアナ、レイテの回想

巡洋艦「矢矧」航海士、池田武邦さんのお話しをまとめたので書きます。
 
池田武邦さん(元海軍中尉) 海兵73期。巡洋艦「矢矧」航海士。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、 天一号作戦(大和特攻)に参加。
 
マリアナ沖海戦の地獄・翔鶴の最期
遺族には「壮烈な戦死を遂げました」といって知らされるけれど、
現実は そのような体の良いものでは決してない。
兵士が死にゆく様は実に惨たらしく、目を背けたくなるような光景であった。
 
わが矢矧でも 甲板は血で真っ赤に染まり、彼らは医務室へ運ばれる
余裕など 無く放置されている。片腕を失った水兵(兵卒)が
自ら止血処置を施し「大丈夫であります!」と気丈に振舞っていた。
 
翔鶴の最期
マリアナ沖海戦では空母「翔鶴」の最期を目の当たりにした。
翔鶴を見ると既に絶望の中にあった。波がかぶる都度、甲板の血は洗われるが
すぐにまた真っ赤に染まる。手足が四散し息絶えた水兵が高角砲に
引っかかっている。 血なまぐささと、煙硝の混ざった匂いは口では言い表せない
ほどひどいものであったという。
 
艦の傾斜が次第に急になり、残った水兵もつかまっていられなくなると
甲板から、次々すべり落ちる。そこには引っ掻いたような血痕が残った。
避けるも何も運であるが、そのまま海へ転落すれば まだ幸運であった。
成す術もなく、エレベーターの開口部にバラバラと 落下してゆく水兵。
その内部には炎が燃え盛っていた。地獄であった。
 
接舷して救助したかったが、翔鶴の沈没に巻き込まれるので
何もできずにやや離れた位置からただ見ているほか無かった。
 
やがて艦は転覆し、大きな渦を巻き起こし沈んでいった。
翔鶴の最期であった。
 
こうした経緯でマリアナ沖海戦では虎の子である
正規空母 「翔鶴」「飛鷹」そして、新鋭の「大鳳」までもが 失われ、
海軍は大敗北を喫した。 なお、マリアナ沖海戦は、日本海軍史上、
最後のZ旗掲揚の戦いだったと 伝わる。Z旗とは国家存亡
(皇国の興廃この一戦にあり)をかけた戦いで のみ掲げられる旗で
過去には、日本海海戦、真珠湾攻撃で掲揚された経緯がある。
そしてこのマリアナ沖海戦で3回目となったが、決戦に敗れ最後の機会となった。
 
レイテ海戦
池田氏の戦いは続く。 この後、レイテ海戦、坊の岬沖海戦(大和特攻)にも
参加している。 足が震えていた地獄のような戦場も、一度経験すると
良くも悪くも、すっかり慣れてしまうという。 最後の大和特攻においては
「平常心そのものだった」と語る。
 
「新造艦は弱い」
レイテ、坊の岬沖海戦いずれも敵弾飛び交う中、池田氏は
淡々と自らの任務に集中し航路の計算を行った。
氏が何度も強調していたのは 「新造艦は弱い」ということだった。
どんなに新鋭技術が盛り込まれた艦船でも 練度が低く、敵の標的に
なった場合は脆いという。 空母「大鳳」はその最たる例で、新鋭艦にも
かかわらず 戦線参加と同時に撃沈された。大鳳沈没には様々な要因が
重なり 一概に言えるものではないが、この「初陣による脆弱性」は
決して無視できないものだ。
 
修羅場を潜った者の強さ
これと同時に強調されていたのは
「ただし、その修羅場さえ生き残ればものすごく強くなる」 という話だった。
一度実戦を経験し生き残った艦でこそ 真価を発揮するのだという。
氏の二度目以降の戦いがそれを証明している。
 
栗田艦隊を率いる 
あの堂々の栗田艦隊を引っ張ったのは実は矢矧であった。
池田氏は矢矧航海士として、狭い水道を一列陣で 突破してみせた。
後続の艦に航路指示のサーチライトで信号を送る。 それがまた後続の艦に
伝わり、そのまた後ろに、といった具合で 戦艦武蔵、大和も然り経由し、
信号灯が最後まで伝わると 今度は最後尾の艦から矢矧に問題なく
伝令されたことを 伝える信号が返ってきた。
 
戦場での平常心と死への麻痺
レイテ沖海戦では死の恐怖はなく、 ただ、自らの職責を果たすという思い
しかない。 冒頭で記した惨たらしいと感じていた修羅場もだんだんと慣れて
「平気になってくる」のだという。 レイテ沖海戦の戦闘中握り飯すら作れなくなると、
カンパンが配られるのだが 修羅場ゆえべったりと血の付着したカンパンが
多かったので、 運よくあまりついていないものを選んで食べたという。
 
甲板では腸がはみ出して苦しんでいる戦友がいたので
氏はそれを見かねてその長い腸を素手で体の中に戻してやったという。
「もう助からないと思ったが、戻してやった。なぜそんなことを したのか
よく自分でもわからない。とにかくどんな惨い光景でも 平気になっていた。」
と回想する。
 
戦友の水葬・沈まない棺
それでも同期の死は言葉にできないものであった。
海戦を生き残った後、戦死者の亡骸を新南群島(現在の南沙諸島)で水葬した。
同期の中尉がレイテで戦死し、即日大尉となり 水葬をとりおこなうため
「これより水葬の行う」と、その旨旗艦に 信号を送り艦隊を一旦離脱した。
新南群島は比較的穏やかで敵襲の恐れも低い海域であった。
士官の水葬はそれなりの棺に入れられた。棺はそのままでは沈まないので
石など可能な限りの重りを入れ、5、6人の力でようやく かつぐことが出来た。
 
しかし、それでも棺は沈まない。 棺はしばらく波間を漂い、それが別れを惜しむ
ようで見るに堪えないものであった。 兵卒の水葬は棺はなく毛布にくるむ
のみであった。
 
坊の岬沖海戦
坊の岬沖海戦では大和と自身の矢矧も沈み、
いよいよこれで 最期かと思ったが、立ち泳ぎで一晩耐えて、
運よく駆逐艦に救われた。 漂流時、丸太が浮いていたが、
つかまっていた者は格好の標的とされ 米軍機の機銃掃射を受けて死んだ。
 
特攻作戦を部下に下令する
生きながらえた氏はその後、大竹にある潜水学校で教官を務める。
「もう潜水艦も残っていないというのに」 と呟いた。
そこで回天特攻隊の編成を下令するに至る。
 
部下には
「第二熱望」、「熱望」、「可」、「否」 いずれかを選び、紙に書いて
提出するように指示したが 「否」と記した者が三人いて上官に
ひどく殴られていたという。 池田氏は彼らがその後どうなったか、
ずっと気になっていた。が知る由もなく現在に至るという。
 
日本は戦争に負けたが
これからを担う世代へ向けて、池田氏の見解として
日本は戦争に負けた。だが、その負けっぷりは歴史上比類なきもので
日本と戦った連合国は「日本と戦争したらひどい目にあうぞ」という教訓を
得たのは 少なからず確かである。
 
他国軍隊に玉砕という概念は理解できない。
あの栗田艦隊が一年半で全滅したのである。
損耗率100%で降参する軍隊は世界どこを探しても 日本だけだ。
勝ったとしても、甚大な損害が予想される 日本との戦争は絶対に避けたい。
それが目に見えない形で 国際社会から評価されているのではないか。
「歴史をきちんと見ないと明日はつくれない。これからの世代には
歴史に学ぶことを切に願う」と締め括った。
 
戦後
凄惨な戦争を経験し、一度は死んだ身 どんな逆境であろうと、
殺されることはない、と思えば 気持ちが楽になり、なんてことはなかった。
氏は終戦後、復員業務に従事した後、東京帝国大学(現・東京大学)で
建築を学んだ。そして昭和42年に日本設計事務所(現・日本設計)を設立。
新宿三井ビル、京王プラザホテルなどを設計し、超高層ビル建築の草分け的
存在となった。その後も日本を代表する建築物の設計総括などをつとめ、
ハウステンボスを手掛けたことでも知られている。
 
また、池田氏は海上自衛隊の観艦式に招待された折
その堂々たる海原そびえる護衛艦隊が あの日見た
栗田艦隊そっくりであったと記憶を蘇らせたという。 
 

 

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マリアナ沖海戦航空母艦一覧

翔鶴

瑞鶴

大鳳

隼鷹


Photo_6

飛鷹

龍鳳

Photo_9

千歳

千代田

Photo_12

瑞鳳

Photo_15


Photo_14

マリアナ沖海戦参加の第一機動艦隊、空母9隻の戦闘機隊一覧です。
このほかに基地航空隊として第61航空戦隊が主力として敢闘しました。
 
第一機動艦隊 第三艦隊・甲部隊/第601海軍航空隊
正規空母「翔鶴」(沈没)
正規空母「瑞鶴」(小破)
正規空母「大鳳」(沈没)
 
同・乙部隊/第652海軍航空隊
正規空母「隼鷹」(中波)
正規空母「飛鷹」(沈没)
軽空母「龍鳳」(小破)
  
第二艦隊 第三航空戦隊/第653海軍航空隊
軽空母「瑞鳳」
軽空母「千代田」(小破)
軽空母「千歳」 
 
第61航空戦隊参照
第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲強行偵察隊。テニアン、ペリリュー基幹
第261海軍航空隊(虎)ゼロ戦戦闘機隊。サイパン主基地
第263海軍航空隊(豹)ゼロ戦戦闘機隊。グアム(大宮島)主基地
第265海軍航空隊(雷)ゼロ戦戦闘機隊。パラオ・アイライ主基地
第321海軍航空隊、月光戦闘機隊、テニアン主基地
第343海軍航空隊(隼)ゼロ戦戦闘機隊、パラオ、グアム主基地
第521海軍航空隊(鳩)銀河爆撃隊、ヤップ基地
第523海軍航空隊、彗星艦爆隊、ペリリュー基地
第761海軍航空隊(龍)一式陸攻、彗星による強襲部隊。ペリリュー基地
第1021海軍航空隊、輸送隊。
 


 

2014年9月19日 (金)

第343海軍航空隊戦闘飛行隊編成

紫電改

 
作画に伴い以下の記事を更新しました。

折口を守った神様、紫電改の林喜重大尉
過去記事のビジュアル化を進めています。
 

Photo_2

 
第343海軍航空隊は 主力として紫電改(紫電二一型以降の愛称)
3個戦闘飛行隊を据えていました。
 

紫電改

菅野直大尉率いる戦闘301飛行隊は「新選組」
鴛淵孝大尉の戦闘701飛行隊を「維新隊」
林喜重大尉の戦闘407飛行隊は「天誅組」

そして彩雲偵察機を用いた
偵察第4飛行隊は「奇兵隊」 と呼ばれていました。
敵機に体当たりした「彩雲」~三魂之塔へ
 
このほか、徳島では紫電(一一型)を用いた
戦闘401飛行隊「極天隊」が控えていました。
 
第343海軍航空隊全搭乗員リスト

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

012

2014年9月12日 (金)

遥かなるハトホベイ

Imgp2928

 
ハトホベイ州概要

ハトホベイ州はパラオ共和国の最南端に位置する州で
トビ島(トコベ島)とその東のヘレン環礁から成る。
北緯2度、パラオ諸島450kmに位置し
ヘレン環礁はアオウミガメ、オオシャコが多く
海鳥の大繁殖地である。
 
世界の果てのトビ島は
人口20名、面積は0.6平方キロメートル。
人種的には中央カロリン人に近い。
  
日本統治時代には燐鉱採掘のほか、鰹節やナマコ漁が主な産業であった。
戦時中は陸軍守備隊が配置されたが、終戦まで飢えに苦しんだ。
その終戦の知らせも、島へ届いたのはコロールよりはるかに後で
生き残った守備隊も帰還する術がなく、時間を要した。
 
現在は国境警備のレンジャーが僅かに配置されている程度で
物資補給のための定期船も一応あるが、丸三日かかるという。
 
「ハトホベイに飛行場を作ってくれ」
その、遥かなるハトホベイの州知事が2年ほど前、コロールを訪れ、
観光誘致にと、飛行場の建設を嘆願した。 
「これがそのイメージだ」と言って広げた図面には
島に十文字の滑走路が描かれている。
 
驚きの青写真
驚くべきは、その図面に、日本語で
「昭和15年」と記されていたことであった。どうも当時
日本海軍がペリリューに次いで計画した滑走路だったらしい。
とんでもないお宝と歴史の発見だった。
 
遥かなるハトホベイ 遥かなる昭和15年
観光が成り立つかはさて置き、
単純問題、ハトホベイへ飛行機を飛ばすのは可能なのか
現地のパイロットに尋ねると
「何もない洋上を長距離飛ぶので双発の飛行機でないと渡航は困難」
らしい。それにしても当時の日本はここに十文字の滑走路を造成し
本気で零戦を飛ばそうと計画していた。
 
遥かなるハトホベイと、遥かなる昭和15年の設計図。
感慨深い出来事であった。 
 
※写真はアイライ飛行場。イメージです。

2014年8月20日 (水)

コストコ鹿沼店

コストコ鹿沼店

コストコ鹿沼店

コストコ鹿沼店

コストコ鹿沼店





 

コストコ鹿沼店

コストコ鹿沼店

 
はじめてのコストコ

はじめてコストコへ行ってきました。 
後で知ったのですが、コストコは会員制で、購入はもちろん、 
会員証を入場口で提示しないと店の中にさえ入れないらしいです。 
 
そんなことを全然知らず、普通にスルーして他のお客さんに混じって 
入ってしまいました。広い店内を一巡ましたが 
けっこうな混雑だったので流し出されるように 
一度出口から出てもう一度入口から入ってみようとしたところ 
チェックの人に止められた次第です。 
 
二度目に入ろうとして止められたときはかなり恥ずかしかったです。 
田舎者で何も知らないもので、ごめんなさい。 
 
でも、店内を一通り見て、売ってるものとか雰囲気は掴めました。 
人によるかもしれませんが、 
外国のスーパーみたいで、いきなり英語で話しかけられたら 
どうしようとソワソワしてしまって、落ち着きませんでした。 
女性のお客さんがたくさんいて、でっかいカート押して突撃してくるので 
ちょっと怖かったです。 
 
地元にないので年会費を払って行きたいか、悩むところです。 
 
 
余談なんですが、知人のお母さんが 
自宅から2分のところに大型ジャスコ(イーオン)はあるのですが 
それでも、一ヶ月に一回、栃木の田舎から 
2時間かけて埼玉のコストコまで仲間数人で出かけて行って 
たくさんの買い物をしてくるという話を聞いていたので 
魅力あるところなんだな、と自分も想像していました。 
 
栃木では「今度、栃木にもコストコができるらしい!」という 
噂が広まっています。 
それは凄いものでインターネット全盛の世にも関わらず 
間違った情報が口コミで瞬く間に広がり、 
鉄腕ダッシュのチェーンメールの如く、何年経っても 
根強く生き続けています。 
 
もちろん嘘です。 
栃木にコストコ出店の予定は今のところないようです。 
(鹿沼の出店予定も中止になりました)
  

Alastair Wallace / Shutterstock.com mandritoiu / Shutterstock.com 

2014年8月 8日 (金)

坊津の美しい海と悲しい歴史

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▲坊津・丸木浜 
 
鹿児島県・坊津(ぼうのつ)へ行ってきました。

海の美しさは沖縄と比べても遜色ないものでしょう。
上画像は「丸木浜」です。
 

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Imgp4877
▲坊津・馬込浜 

こちらは、さらに奥へ行ったところにある
「馬込浜」です。砂のきめ細かさは屈指です。
穏やかなので小さな子供を連れての海水浴にも最適です。
 

Imgp4871 

戦艦大和と坊津
坊津といえば、戦艦大和が沈んで2日後くらいから
大勢の水兵の遺体が流れ着いたと伝わっています。
 
現地民が浜に埋葬し、階級章からわかった氏名をもとに
墓標をつくり戦後数十年は立っていたのですが、現在ではその位置も
わからなくなってしまいました。
 
米軍のパイロットの遺体も多く流れ着いて埋葬されたそうです。
これを知ったアメリカ人は感涙したそうですが
現地民にしてみればとにかく腐敗臭がひどく、
埋めるしかなかったと、いった理由からでした。
 
馬来丸慰霊碑
上は陸軍の兵隊が乗っていた輸送船「馬来丸(マレー丸)」の慰霊碑です。
坊津沖で被雷し、沈没。山岡少佐以下37名は自力で泳ぎ
ここへ上陸しましたが、力尽きました。
 
恵比寿様の埋葬跡
砂浜近辺の茂の中には、祠(ほこら)のようなものや
四角く結界を張った跡など昔、兵士を埋葬したと思われる
痕跡が残っています。

 
水死体はその姿から恵比寿様と呼ばれ
発見した漁師さんや地元の方々が埋葬してくれたのでした。
流れ着いたご遺体の数は相当なものだったでしょう。
 
しかし今や過疎化が進み、当時を知る方は
ほとんどいません。

林喜重大尉の紫電改~折口を守った神様

Imgp4833

 
折口の浜に眠る林喜重大尉の紫電改
鹿児島県阿久根市折口浜の浅瀬に一機の紫電改が眠っています。
第343海軍航空隊、林喜重大尉の機体です 。
 
林大尉最後の戦い~B-29へ捨て身の攻撃
昭和20年、4月24日、B29の編隊が阿久根を空襲。
余勢をかって、ここ折口まで 爆弾を投下しました。
現在、折口駅がありますが ちょうど線路を挟んで南にあたる
阿久根側は焼けたのですが 折口側は無事だったのです。
 
折口だけが焼けなかった理由
B-29が折口の爆撃進路に入ったとき
一機の紫電改が突っ込んできました。343空、林大尉の機体でした。
林大尉はB-29直上より、一撃攻撃を加えると、さらに反復して執拗に
食いつきました。 これにひるんだB-29は爆弾を全て捨てると、
遁走にかかりました。
 
林大尉の紫電改も被弾し、満身創痍でしたが
B-29に最後の一撃を加えると、ついにB-29は煙を吐きました。
おかげで折口の町はは焼けなかった。
 
「だから、わしらは林大尉は神様だと思っている」
住民はそう語り、そのとき林大尉が放った薬莢を
大切に持っていました。
 
増槽タンクが落ちなかった
林機は増槽タンクが故障により切り離せず、つけたまま戦ったそうです。
空戦後、大尉は沖へ不時着を試みましたが増槽タンクが抵抗となり
着水と同時に おおきく前のめりに突っ込み、頭がい骨骨折により
戦死しました。 この慰霊碑は林大尉を荼毘に付した場所に建てられています。
 
この話は鹿児島在住の私の友人が折口で取材して まとめた話です。
ある日、戦史研究者がやってきて、この話をしたそうです。
そして、特に許可した覚えはありませんが、この話ほぼそのままの形で
雑誌「丸」に掲載されました。 器の大きい友人は「まあ、よか」ということに
して、特に何も言いませんでした。
 

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林大尉の慰霊碑へ
野球場のフェンス奥へ入っていきます。
 

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見えてきました、地元の有志が清掃してくれていて
綺麗です。
 

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D

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林喜重大尉(戦死後少佐)碑文
 

松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか
 
▼再現作画(推測)

Photo

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天狗鼻望楼台「バルチック艦隊見ユ!」

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天狗鼻望楼台へ

薩摩川内市の天狗鼻にある
天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい) へ行ってきました。
かなり外れた場所にあるので時間がかかりますが見る価値は充分にあります。
 
川内原発からさらに西へ、 車一台がやっと通れる細い林道を走ること30分
車をとめて、さらに山道を20分歩きます。
この望楼台には歴史の重みがあります。
 
ここから対馬沖へ向かうバルチック艦隊を監視
ここから北上するバルチック艦隊を監視していたのですね。
その後、有名な日本海戦で東郷元帥率いる連合艦隊と
対峙します。
 

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保存状態の良い110年前の建造物!! 
それにしても、明治33年に完成、運用されたということは
110年以上前の建造物ということになりますが
レンガ造りの望楼台はこんなにも頑丈で、感動しました。
木も腐らないんですね。

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展望がよく気持ちが良いです。猫の横顔に似た岩があります。

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こちらは潜水艦に似た岩。岩場で漁をしています。

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薩摩川内市・天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい)概要
ここ天狗鼻は、北は天草、南は野間岬、西は甑島(こしきじま) が望める
見晴らしの良い場所で、江戸時代にも見張り台が置かれていたと
いわれています。明治28年(1895)の日清戦争終了後に日本海軍は
国内の要所に沿岸防備のための望楼台 を設けました。
ここ天狗鼻に設置されたのもそのひとつで 日露戦争時には海軍兵が常駐し、
バルチック艦隊の北上を監視していました。 鹿児島県内には
ここ天狗鼻(常設)、下甑島の釣掛崎(仮設)佐多岬(常設)三か所設置され、
現存するのはこの天狗鼻のみです。 また国内で現存するのは、
ここ天狗鼻と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
竣工明治33年3月30日、運用開始同年8月20日 廃止明治38年10月19日
(日露戦争終結による)佐世保鎮守府所属 海上監視、通信、気象観測を担う。
望楼手ほか4人(戦時中増員)

2


2014年7月25日 (金)

飛燕と晴嵐

また絵を描いています。
もう少しで完成です。
 

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2014年7月 7日 (月)

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ01

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ02

パラオ ミルキーウェイ03

パラオ ミルキーウェイ04

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パラオ ミルキーウェイ07

パラオ ミルキーウェイ08

パラオ ミルキーウェイ09

パラオ ミルキーウェイ10

ミルキーウェイ・パラオ


パラオ・ミルキーウェイは、ロックアイランドの岩盤から溶けだした

古代からの泥がこの一帯に流れ着き白くなった水域です。
 
真っ白な泥はきめ細かく、美容によいとされ
高価な化粧品などにも使われています。

 
ここへ来れば泥パックがタダで塗り放題です。
 
各種アクティビティ、オプショナルツアーの定番です。
申し込みはそちらから。白泥の持ち帰りはできません。
塗って乾かしたら、船上からダイブ。綺麗に落としてさっぱりします。
ダイビングや、カヤンゲル、ロックアイランドツアーで見る海も綺麗ですが
ここミルキーウェイは、また違った色、パラオの楽しみ方で、シュノーケリング
ツアーと合わせて楽しみます。
 
泳げなくてもライフジャケットがあるので大丈夫です。
ガイドが水底へ潜って泥をかき集めてきてくれます。
※お持ち帰りはできません 

この後ジェリーフィッシュレイクへ行く場合は
白泥が少しでも付着しているとゲートから先へ進めませんので注意しましょう。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

ロックアイランド パラオの世界遺産は無限のブルーラグーン

ロックアイランド・パラオの世界遺産

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

パラオの海は世界一美しいと称され
その中でも世界遺産のロックアイランドは
言葉では表せない魅力があります。
 
海の色は一様ではありません。
マリンブルーとはいうけれど、ディープブルー、
エメラルド、グラデーションとなって彩られた
数えきれない無限のブルーがあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド 
マッシュルーム型の島は海水の浸食を受け、
いつかは崩れ落ちる運命にあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

 
戦跡調査ではじめてこのパラオへやってきたときは
足さえ一度も水に浸かることもしませんでした。
しかし今ではすっかりこの海に魅了されてしまいました。 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年7月 3日 (木)

アンガウル島へ行こう

アンガウル島 大神宮海岸

アンガウル島地図

アンガウル島の動植物

 
アンガウル島は ペリリュー島の南およそ10kmに位置する
人口170人ほどの小さな島である。 少ない日程で足を運ぶのは難しいが
独自の生物や自然環境が存在する魅力あふれた美しい島である。
 
アンガウル島はペリリューと並んで激戦の島であり
宇都宮五十九連隊第一大隊が玉砕している。
パラオの戦いで何かとペリリューばかり特筆されるが
ここアンガウルはペリリューよりさらに米軍を苦しめた島であった。
 

アンガウルの戦い 五十九連隊

 
33日間の徹底抗戦 われら太平洋の防波堤とならん
アンガウルを守備する日本軍は兵站、臨時編入を合わせてもわずか
1200名で これを攻略する米国陸軍第81師団の兵力は2万名を超えた。
加えて、空爆と艦砲射撃により 島は焦土と化したが、後藤少佐指揮する
宇都宮五十九連隊第一大隊は 徹底抗戦の構えを崩さず、実に33日間もの間
島を死守したのであった。これだけの兵力差がありながら 33日間も
持ちこたえた例は、戦史を調べても他にないだろう。
 
五十九連隊は大陸から転戦した歴戦の猛者揃いである。
兵士の大部分を栃木県の出身者で占めたが 長野や群馬、北関東の兵士もおり
指揮官、後藤少佐は長野の出身である。 そして臨時編入された沖縄の兵士
たちの犠牲も忘れてはならない。
 
最初から勝ち目はなかった。しかしアンガウルの戦いで散った英霊は
太平洋の防波堤となり 一日でも長く、米軍の本土進攻を食い止めたと
間違いなく言えるであろう。 アンガウルは我々日本人にとっては特別な島である。
 
「私たちも一緒に戦わせてほしい」~アンガウル玉砕戦へ

 
アンガウル島へ行くには

ステートボート(定期船)

ステートボート(定期船)

定期便(小型飛行機)

 
アンガウルへのアクセス
1、定期船
定期船が一週間に一度、コロールから出ている。所要時間は4時間。
帰りは一週間後となる。
 
定期船の旅はこちら
 
2、飛行機
最近、就航したPMC航空で来ることができるようになった。
アイライ国際空港からはわずか20分程度である。
月曜日と金曜日に発着するが、アンガウルの滑走路に直陸後、
すぐに飛びたつので、島を観光することはできない。そのため最低
4日間は滞在しなければならない。飛行機は天候によってフライトできない
場合があるのでリスクが大きい。
 
3、スピードボートチャーター
コロール、もしくはペリリューのダイビングショップ等で
船をチャーターする方法。ガソリン価格の高騰もあり
コロールから往復すると800ドル程度と高価。
なお、アンガウル海峡の波は高く、操船できるオペレーターも
限られる。
 

アンガウル港01

アンガウル港02




アンガウル港03

アンガウル港04

 
アンガウル港

アンガウルへ到着した。外洋がどんなに穏やかでも
アンガウル港内は穏やかである。写真の左右で全く海の表情が違う。
日曜日や学校が終わると、港で子供たちがよく泳いでいる。
 

M4シャーマン

M4シャーマン

M4シャーマン戦車

 
港の入口が非常に狭く、潮の流れが集中し大波となる。
ここを突破できず、船が出港できないことがある。
私も台風の直後、出港できず10日間、島に閉じ込められたことがあった。
 
港の入口には米軍M4シャーマン戦車が2、3輌、投棄されたままになっている。
今では防波堤代わりだ。砲塔は流され、大きなエンジンが見える。
 

アンガウルの港

 

州が運営する定期船は様々なものを島へ運んでいる生命線である。
食料やビール、家電製品や家畜、車も積める。
なお、人間の運賃は一人片道5ドルである。
一週間に一度、定期船が港へ入ると島中から人が集まってきて
港は一番の賑わいとなる。
港には戦時中に作られた陸揚げ用のスロープが残る。
 

ダウンタウン

ダウンタウン

ダウンタウン

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Imgp8049 
アンガウル島の市街地(ダウンタウン)
この辺りに住んでいる。人口が少ないので、みんな家族同然だ。
ストアと宿泊施設は2軒ある。ここでも日本の中古車が頑張っている。
 

アンガウル島

アンガウル島

タロイモの収穫(上)と
マーク2(チェイサー?)のオープンカー。小さい島なので
雨が降っても2、3分で家に到着だから、モンダイナイ(パラオ語)

この車、ガレージはなく、シートがかぶせてあるだけだった。
それにしても日本の中古車は頑丈だ。
 

アンガウル島・サイパン村

▲戦前のパラオ・アンガウル島の市街地(サイパン村と称した)
日本人とパラオ人、およそ2500人が暮らした。
  

アンガウル島は砂利道ではあるものの周回道路が整備されており、
車でもレンタル自転車でも、気軽に一周することができる。時間は
そんなにかからない。自転車でも3時間もあれば十分か。
では時計回りで見て行こう。

 

サキシマオカヤドカリ

アンガウル 大神宮海岸

サキシマオカヤドカリ

アンガウル島 大神宮海岸

大神宮海岸
ダウンタウンを出てまもなく、大神宮海岸に出る。
別名オレンジビーチとも呼ばれるこの海岸はアンガウル島にある
他の砂浜と比べても独特の色をしている。ここだけ海流の関係で
微生物の死骸が堆積して、このような色になるという。
 
大神宮海岸という名称は、日本統治時代に島の「アンガウル大神宮」という
鎮守様がこの海岸にあったことから。(アンガウル大神宮は南洋では最古と
なる大正時代の建立。なおコロールの南洋神社は昭和15年建立である。
昭和18年、島の燐鉱産業は繁栄を極め、2600人以上が
が島で生活していた。(内、日本人は1300人)
人の集うところに必ず神社は祭られる。
 
大神宮海岸と鎮守の森には、当時
白亜の灯台がそびえ立ち、それは美しいものだった。
 
この海岸では上陸戦は行われなかったが
米軍が占領後敷設した物資陸揚げ用の
レールの跡などが今でも残っている。
 
サキシマオカヤドカリ
この海岸で褐色のヤドカリを見つけられたら幸運だ。
サキシマオカヤドカリといって珍しい個体である。何かいいことあるかも。
臆病なので、そっと観察しよう。
 

ガジュマル

ガジュマルゲート
左右の道路脇からそれぞれ自生したガジュマルがちょうど
真ん中で結合している。周回道路沿いにあるので見逃さないようにしよう。
 

アンガウル大燐鉱 
アンガウル大燐鉱の遺構
昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
当時の島の人口は2,618人で、
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱 
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱(同じ辺りと思われる)

 
アンガウル大燐鉱詳細記事と写真

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(丹下灯台)
先に述べたように、当時、たいへんな賑わいだったアンガウル島。
採掘した燐鉱を船に積みむ大規模な施設があり、船の往来も
盛んだった。船に灯台は欠かせないものである。
 
灯台の外壁は白一色で青空に映え、実に見事な佇まいであったという。
その島民の自慢であった灯台も、艦砲射撃に破壊され、倒壊した。
私が居るところが灯台の折れた根本部分にあたる。

アンガウル灯台(丹下灯台)アンガウル灯台に登ろう(別記事へ)

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那須岬
五十九連隊は栃木県の郷土部隊であったので、島の方々に故郷の名前をつけた。
那須岬へ向かう道。ペリリュー島が見える、ここは景色も良いし
潮風が心地よい。那須岬には現在アメリカの建てたマリア像がある。
那須岬の沖はとくに潮の流れが激しく恐ろしいほどである。
 

Imgp7522

潮吹き穴
那須岬へ向かう途中の岩場に潮吹き穴がある。
温泉の間欠泉のように、海水が高く舞い上がり、霧となって散る。
大迫力であるが、これは独自の岩場の地形が生み出したもので
温泉とは全く異なる。(パラオに温泉や地震は存在しない)
ボフォオオオオという不思議な音がこだまする。
 

アンガウル島レッドビーチ

レッドビーチ
上陸戦の展開されたレッドビーチ。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここ極端に狭いレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙した。集中砲火を受けた米81師団は、橋頭堡の確保までに
大苦戦を強いられ、甚大なる損害を被った。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのだろうが、すっかり緑は蘇っている。
 
激しい戦闘で砂浜が血で染まったからレッドビーチという名が
ついた、というのは俗説である。米軍がアンガウル島攻略にあたって、
便宜上、レッドビーチと名付けたにすぎない。しかし、血で血を洗う戦い
が繰り広げられたのは確かだ。砂浜がそれはもう惨く赤く染まったことは
相違ない事実である。戦いで犠牲となった全ての将兵に合掌。
 
レッドビーチの戦い

ここからもう少し先へ行くとブルービーチだ。
 

04

散兵壕(さんぺいごう)
レッドビーチから間もなく、飛行機墓場の近くに散兵壕が残されている。
70年前、兵隊さんによって掘られたものだ。中へ入ってみると、深さは
175センチの私の背丈よりもある。ここに隠れて敵の上陸に備えた。
島の地層はほとんどが隆起珊瑚岩で、スコップがカツンカツンとすぐ
岩にあたってしまい、これだけの深さを掘るのは大変な苦労だったろう。
掘削したという表現が近いかもしれない。上陸戦の三か月前、
第31軍司令の小畑中将が視察に訪れ、陣地構築の遅れに対し
激を飛ばしたが、これだけ固い地盤を短期間に掘るのは
無理なものは無理である。元兵士はこの小畑中将の視察に
良い印象を持たなかったと記している。
 

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11

飛行機墓場
主に米軍機であるが、滑走路脇の茂みに
レイテ作戦に投入された多くの航空機が眠っている。
これはB-24(リベレーター)大型爆撃機のプロペラ。
四枚のうち一枚でほかの三枚も近くにある。
丸いのは回転銃座、機体の外板も散乱している。
 

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アンガウル島のコルセア戦闘機

 
F4Uコルセア戦闘機
こちらはF4Uコルセア戦闘機。先の大戦でもっとも優秀だったと云われる

米国海軍の名機である。この戦闘機はジェット戦闘機が主流になった頃の
朝鮮戦争でも並行して使われ、活躍した。日本側からみれば、非常に苦しめられた
悪魔のような機体であるが、純粋にメカとして考察すれば非常に良くできた
レシプロ戦闘機の究極の完成型といってもいい傑作機である。
この戦闘機もナパーム弾を用いたアンガウルの掃討作戦と、その後の
フィリピン方面の作戦に活躍した。
 

F4Uコルセア戦闘爆撃機

▲ナパーム弾を取り付ける海兵隊のF4Uコルセア戦闘爆撃機
(写真はペリリュー飛行場のもの)

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アンガウル滑走路
米軍の敷設した滑走路である。
日本軍はペリリューに東洋一といわれる大規模な飛行場を持っていたし
ガドブスにはゼロ戦専用の滑走路、さらにアイライにも大型機が
飛べる飛行場を整備した。アンガウルにも平坦な地があり
「飛行場適地」として備えていたものの、最後まで建設せずに終わった。
 
これに目を付けたのが米軍だった。米軍は
後藤少佐と最後の兵士達が立てこもる複郭陣地を除く
島の大部分を制圧し、ここに滑走を瞬く間に敷設し
同島に残る残存部隊の掃討爆撃と、レイテ(フィリピン)作戦の
足がかりとして大いに活用した。
 
この「飛行場適地」がなければアンガウルでの凄惨な戦いも
避けられたかもしれない。しかし米軍は是が非でも飛行場が欲しかったのだ。
 
それにしても多大な犠牲を払ってまで、パラオ・ペリリュー、アンガウル両島の
飛行場が必要であったのだろうか。サイパン・テニアン・グアムはすでに米軍は
手中に収め、同島からフィリピンを叩くことは充分に可能だった。
マッカーサーもニューギニア方面から陸路でフィリピン奪還を

進言した。ハルゼイ提督も無駄な犠牲を懸念し、パラオを取る必要ない、と
作戦に反対し続けた。これを是非ともという形で推し進めたのがニミッツである。

これは現在でも議論の対象として終わりが見えない。
 

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週に二回の定期便が来た。
飛行機は島の上空を大きく旋回し、着陸コースに入る。
これは島民に飛行機が来たことを知らせるのと同時に

自由気ままなアンガウル滑走路、滑走路の真ん中に
人が寝ていたりするので、
「今から着陸するからちょっとどいてくれ」の合図でもある。
 

Imgp8084 
 
この建物がアンガウル空港のターミナル。
酋長がいま届いたばかりの新聞を読んでいる。
新聞は週に二回しか届かないから貴重だ。
 

Imgp3313_2

着陸すると、島中から人がやってくる。
着陸して、すぐにコロールへ戻ってしまうので、飛行機を待たせての
観光はできない。原則片道だけと考えたほうがいいだろう。
 
飛行機はデコボコの滑走路をものともせず、あっという間に
飛び立っていった。
  

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3

V

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アンガウル島鬼怒岬

鬼怒岬
アンガウルの最南端、鬼怒岬へ。
これも郷土の兵隊が名付けた名だ。当初、上陸部隊の米81師団は

この鬼怒岬を目指して沖合から前進していた。これに即座に対応すべく
陣地を持たない遊撃隊であり、島中尉率いる紅蓮疾風隊が
海岸に駆け付けたが、沖の上陸用船艇は全く動かなくなってしまった。
これは陽動作戦であった。島中隊が鬼怒岬に引きつけられている間に

81師団の本体は、レッド、ブルー両ビーチに上陸を開始した。
 
しかしアンガウル島は小さな島である。島中隊は陽動を解ると直ちに反転し
上陸戦の展開されている、ブルービーチへ向かった。
紅蓮疾風隊の名の通り、疾風の如くブルービーチへ急行すると
水際防御に加勢。米上陸部隊の上陸を許さず
勇猛果敢に戦った。この戦いで米軍は大隊長や大隊幕僚まで負傷し、

上陸部隊は壊滅。一旦、押し戻されてしまう。
 
「ブルービーチの死闘」続きはこちら

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沼尾少尉の鬼怒岬~妻との約束

 
※写真は台風前と台風後の比較。

この巴岬から鬼怒川岬にかけては沼尾隊の陣地であった。

指揮官、沼尾少尉は叩き上げの士官である。大陸からの転戦した
古強者であり、また部下の面倒見がよく、たいへん慕われたといわれている。
彼もまた太平洋の防波堤となって散る運命だった。 
 
沼尾少尉は内地に妻を残していた。少尉と妻には
次のようなエピソードがある。
「沼尾少尉、妻との誓い」

 
  

ブルービーチ

アンガウル島ブルービーチ

ブルービーチ
台風前に訪れたブルービーチ
米軍の敷設した物資陸揚げ用のレールが残る。
ここも激戦のビーチである。
 

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同じ場所とは思えない。
台風の高波で全てが流され瓦礫の浜になってしまった。

大木といえども根元から引き抜かれ倒れている。
 
 

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そう、この砂浜では激闘があった。70年前の9月、
何もかも燃えてしまったのだ。
戦争で焦土と化したシャングルが再生したように。
地で染まったこのビーチが美しい青を取り戻したように。

緑の息吹を感じる。きっとまた蘇るであろう。
 
ブルービーチの激闘へ
 

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アンガウル・ラストコマンドポスト
玉砕の複郭陣地へ
 
後藤少佐が玉砕し、最後までたてこもり徹底抗戦を行った
複郭陣地へ向かう。今回は特別な許可を得て
酋長と島民の協力で、複郭陣地へ進む。
 
後藤少佐の最期~アンガウル島のラストコマンダー
 

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台風の影響と、長年誰も足を踏み入れていないこともあり
道がなくなっている。
 

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倒木を切断したりしながら少しずつ前に進んだが、結局、複郭陣地の
入口すら行けなかった。今回は段取りだけにして
次回、出直そう。なんとしてでも最後の玉砕地で慰霊がしたい。
 
海ゆかばをうたう。
合掌。
 
平成28年9月追記
アンガウル島遺骨収集の旅へ行ってきました
  

私は戦史の専門家なので今回は慰霊目的であったが、
それ以外にもアンガウル島は魅力の多い島である。

白く光るホタルはここでしか見られない。
 
ぜひ足を運んでみては如何だろうか。
そして、ここへ来たら、アンガウルで玉砕し
太平洋の防波堤となった英霊の御霊にどうか
感謝の気持ちをわすれないでほしい。
 
あなた方のおかげで、いまの日本があります。

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D

D_2上から、左、右の順で
・シロアジサシ
仲良く2羽でいるところが多い。
 
・パラオオオトカゲ
パラオ最大のオオトカゲ。戦争中は食用になった。
美味らしい、今でも食べる気になれば食べられるそうだ。
 
・プルメリア
 
・椰子の実
 
・野生のグアバ
 
・ハイビスカス
 
・パパイヤ
青い実は間引く。間引いた実は千切りにしてサラダなどにすると旨い。
間引いてできた完熟の実はとても濃厚で甘い。その場合は虫に食われないよう
早めに収穫して追熟させるのが一般的。
 
・ゴールデンコプラ
パラオでもなかなかお目にかかれない黄金の椰子の実。
ジュースは濃厚。
 
・プルメリア
プルペリアはパラオの全域に自生するが、地域によって
花弁の色、形がまったく異なる。私はアンガウルのプルメリアが
一番綺麗だと思う。パラオ語ではエリライと称す。
 
 

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2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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A4

 

------------------

ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。