2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
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沖縄・喜屋武岬で戦没者を想う

喜屋武岬(沖縄)

 

はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
 
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。

 
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で
野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
 
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
 
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。

自分ひとり、闇の中、 
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。

2015年6月22日 (月)

戦友会を運営して思う事(3) 戦友の思い出

戦友というものは特別な存在だ。
 
昨今、若い人たちが苦労を分かち合った仲間や同僚を
本来の意味をはき違えて軽率に戦友と呼んでいたりするが、
それは適切でない。
 
戦場で散った戦友は
一生、忘れられないものである。
自らの一生を捧げ、供養を続ける人
あるいは自責の念から「あのときあいつが死んだのは自分のせいだ」
と、戦後ずっと自分を許すことができず苦しんでいる人も多い。
 
戦友会のメンバーである
水足氏と富安俊助氏はポン友(親友)だった。
家が向かいだったので、よく一緒に学校へ行ったという。
中学卒業後、水足氏はお国の為、命を捧げる覚悟で陸軍士官学校へ、
そして富安俊助氏は日本の将来を担うべく早稲田大学へ進学した。
水足氏は
「成績は富安より僕の方がよかったんだが」と笑いながら当時を
回想する。
 
水足氏は陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉まで進級し中隊長として
ビルマへ出征。最前線で死を恐れず戦ったが
奇跡的に生還し復員した。
 
戦争は悲惨で運命は残酷だ。富安俊助氏は学徒動員で
海軍中尉を任官し、特攻隊となり、南溟に散っていたのである。
 
そして戦後、長らく経ってから、富安中尉の
戦死の状況が判明した。エンタープライズに

体当たりを成功させたゼロ戦は
富安俊助中尉の機ではないか?との知らせが入った。
 
詳しくはこちらをご覧頂ければと思う。
永遠のゼロのモデルは存在した
富安俊助中尉とエンタープライズ 
 
水足氏によれば
「2.26事件の、あの雪の日も一緒に富安と一緒に学校へ行った。
交通手段が全部止まっていたから、歩いて行ったんだけれど
妙に静かだった。馬に乗った陸軍将校が伝令に走り回っている。
そのときは富安と二人で、何も知らなかったんだが
校門前に着いて、ようやく事態を知って。二人で顔を見合わせて驚いてね、
もちろん学校は休みだというので帰ってきたんだ。」
 
「富安はハーモニカが得意だったな。ハーモニカのバンドをやっていた。
人気者で、僕は下手なんだけど」
 
そういって水足氏自身もハーモニカを取り出し演奏してくれた。
 
「あのビッグE(エンタープライズ)に富安がね・・・。
霞ヶ浦の航空隊へ入って、訓練時間などそんなに無かったはずだ。
僅かな間でどうしてそんな技量を身に着けたのかと思った。
500キロの爆弾を抱いて、水平飛行をして、ビッグEに接近して
それではダメだというので機体を翻して、雲の切れ目から
真っ逆さまにビッグEの飛行甲板に突っ込んだんだ」
 
親友、富安中尉の勇敢な最期だった。
これもひとつの戦友の記憶である。

2015年6月20日 (土)

NSXパトカー

NSXパトカー

NSXのパトカーを久々に見ました。この車体は
鹿沼ICの県警高速隊鹿沼分駐所に配備されており

待機中はガレージに入っています。
 
私はICの近所に住んでいるので、このNSXパトカーが付近の一般道を
走っているのを度々見るのですが(逆に東北道を走っている姿を見た事ありません)
ほとんど運転中のため、
すれ違っても、写真を撮れず、今回は運良く助手席
だったので撮影できました。
 
この車体はリトラクタブルのモデルですが、栃木県警は固定ライトの
モデルも所有していたはずで、そちらも何度か私は見ています。
そっちは最近、見ないけど、廃車になったのかな?
噂では事故を起こしたとか言われてますけど、噂なので真相はわかりません。
とにかくリトラの方は元気です。平成27年6月現在。
 
以下の写真は以前、喜連川のイベントで撮影したもので
同じ車体ですのNSXパトカーです。

NSXパトカー

 
以下、過去記事より
栃木県警が誇るNSXパトカー仕様です。
NSXのパトカーは2013年現在、世界に一台きりです。
日本で一番速いパトカーかもしれません。
  
栃木県はHONDAの重要生産拠点となっており
HONDAから地元貢献事業で県警に寄贈されたお車です。
お巡りさんに尋ねたところ、現役で
栃木県警高速機動隊に所属し、東北道を走っているそうです。
しかし、このパトカーで取り締まりを行うことは原則的にありません。
2シーターで、切符を切るには不向きな為
主に新人の育成訓練に用いることが常だそうです。
  
確かに、考えてみれば必要ありません。
NSXのパトカーが走っているだけで
十分な抑止力が発揮できるので
取り締まる機会は皆無ということでした。
 
 
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Imgp2913Imgp2935_3
 
 
それでも万が一、この車の前へ出るような違反者があれば
パーキングへ誘導すれば良いだけですから、検挙は可能であります。
助手席にはきちんと速度計測器を供えておりました。
赤色灯はパトライト社製のエアロブーメランを備えております。  
 
 
Imgp2938Imgp2941  
Imgp2917Imgp2939
 
 
当然リミッターも無し!そのほかはおおむね純正のようです。
タイヤはグッドイヤーでした。リミッターはないそうです!
私はお巡りさんに根掘り葉掘り、直接聞きましたから!(笑)
それが本当かどうかはまた別ですけど!
 
こちらのNSXパトカーは「三菱ふそう&さくら市 はたらく車を体験しよう 2013」
イベントにて展示されました。

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
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◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
------------------------------
  
彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
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Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

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◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

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400_3

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Zenttai

▲伊400型潜水艦喫水線上

Kissuisen_2

▲伊400型潜水艦全体

2015年6月15日 (月)

羽根空港午前二時(1)

Haneda92_2

 

東京国際空港(羽田空港)で深夜、アルバイトをしていた。学生時代。
夜の滑走路の真ん中を走ると、無数の誘導灯が点在していて
宇宙の中を散歩しているようで綺麗だった。
 
空港で働いてみて、一機の飛行機を飛ばすのに大勢の人が
関わっていることが理解できた。夜通しで機体の整備をする
航空整備士や滑走路を点検する人、様々だった。
 
勤務は22時に始まる。フライト終了後の機体を翌朝までに
綺麗に清掃する仕事だった。学校が終わってから漫画喫茶で少し仮眠を
取ってからほとんど乗客のいないガラガラのモノレールで通勤した。
夜の羽田空港ターミナルには人もまばらで売店やレストランも閉店し
静かだった。出発ロビーへ突き抜ける長いエスカレーターを上がって行く。
空港敷地内へ幾重ものゲートを通過しようやく中へ入る。
 
バイトの仲間も多様だった。
 
A君は根っからの飛行機マニアで
このバイトのために山梨県から連夜通っていた。
かかる時間を交通費を相殺すればバイト代は僅かであったのに
彼は飛行機が好きで、毎晩、飛行場内に入るだけでもウキウキして
バイト代は二の次という印象だった。移動中は詳しく飛行機の解説を
してくれたり、みんなが疲れて寝てしまっていても、ひとり滑走路を眺めていた。
 
Bさんは昼間は東京ディズニーシーのキャストとして
働いていて、飾り気の無い笑顔が素敵な女の子だった。
キャストというのが花形だったらしいけど、どこだったっけな。
自分もディズニーランドが好きでバイトの面接までなら
行ったことがあるから、彼女とは色々と話をした。
 
Cさんは無類の免許マニアで、いろいろな種類の
免許を取るのを生き甲斐としている人だった。
彼の免許証欄には普通、大型はもちろんけん引、二輪、
二種も含め取得できる限り、すべての欄を埋めるのが目的なんだとか。
唯一の後悔は普通免許を原付より先に取得してしまったので
原付の欄が空白になっていることだと残念そうに言っていたのを思い出す。
一番の取得困難は「けん引二種」という免許を取ること。
先頭の牽引車量が乗客を乗せた客車を引っ張る
一部遊園地などにあるらしい。免許に費やした金額は相当なものだが
車は所有していない。免許を全種類取得したらレガシイが欲しいと言っていた。
佐藤隆太に似ていて、見た目は無骨だが優しい人だった。
 
画像はドルフィン。見た目が丸くて可愛いしもっとも好きな飛行機。
何より掃除が楽だった。ボーイング747が大変だった。
それと、まだ辛うじてYS11が離島航路に残っていた。
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵 フリー素材

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2015年6月13日 (土)

原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

戦争は二度と起こしてはならない 
戦争ほどの罪悪はない。平和の為に、私は

これを死ぬまで喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
戦争は世界の文化や歴史を壊してしまい、今は科学が発達しているから
戦争は人類の破滅に直結してしまう。
 
何より、若い人たちには絶対に戦争を経験してほしくありません。
それが私の願いです。だから誰が何と言おうと言い通すと、決めました。
 
私は最初、自費出版も4冊も5冊も出しました。それが今は取材もされて
色々な本になっています。今度はニューヨークタイムズにも
掲載されて
世界の反響は非常に大きい。
 
日本、非戦の誓い 
大東亜戦争を10年間やって、結局日本が負けて降伏をした。
日本は戦後、新しい憲法を作って、二度と戦争をしない、軍隊をもたない。
経済を発展させて世界に恩返しをする、そういう理想に近い宣言をしたわけです。
 
世界中にかけた迷惑、一方ではアジアの独立に貢献
日本は自分の能力以上の計画をたてて、戦争をして世界中に
迷惑をかけた、そういう事ですけれども、日本の活躍の見事さに
世界の植民地が自立出来て、
植民地から解放された
それが日本の戦いの残された功績であるとも
言われています。
 
また、そのときの日本のリーダーがどういう気持ちで
日本を引っ張って行ったのか、我々は考えるべきでしょう。
必ずしも私利私欲ではない。その当時は、みんな日本の生存をかけて
一生懸命にやったんだと、そういう考えもあるのではないかと思います。
 
日本は悪いところを一方だけ見るのではなく
良いこと悪いこと、両万全てを見て判断することが
大切なんではないかなと。日本の失敗や成功が世界の国々の
参考になれば良いと考えています。
 
とにかく、絶対に戦争はいけないんだと
私は喋り通しますよ。
 
また来てください。
 

-------------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける
 

--------  

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あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
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2015年6月12日 (金)

原田要さんの話(6) 関行男大尉の教官を務める

艦上爆撃機「彗星」

 

霞ヶ浦航空隊へ
私がガダルカナルで撃墜された後、病院を転々として

手もなんとか治ってきて、こっち側の手が、今でもあんまり
握力がないですけれど、なんとか操縦できるようになって
霞ヶ浦の教官を命じられました。その時、私は准士官になっていました。
  
関行男大尉の教官を務める
そこで出会ったのが、海兵出身の関行男さん、蔵田脩さん、
それから機関学校から回された鈴木さんでした。
その3人を受け持ちなさいと言われて、練習機に乗って
ほとんどかかりきりで、その3人に教えました。
 
3人、みんな中尉なんです。私は准士官でしょう。
それが教えにくいんだ。もう言葉遣いがね、普段、自分の後輩の
予科練なら「ダメだ!」で言えるのが、言えないから、丁寧な口調で
「それはダメですよ。そうすると飛行機がこうなっちゃうから
こういう風な操縦をしなきゃいけません」といった第三者の言葉遣いで
指導しました。ところがそれを向こうは理解してくれていて、関さんは
 
「教官、そんな遠慮はいらないからダメなときはダメと
言ってください。
私たちは階級は何であれ、技術指導者として
尊敬しているんですから。
何でも好きに喋ってください」

そう、言われてね、かえって、こっちが恐縮しちゃいました。
海軍兵学校出てきた人は鼻ばっかり高くて、威張っているばかりで
プライドだけは高いのに中身が伴わない、当時は下士官から
そういった印象を持たれていました。だけど私の身近では海兵出だからと
威張る人はあまりいなかった。
 
蒼龍戦闘機隊では菅波政治さんも、飯田房太さんも、藤田怡与蔵さんも
一番最初の教官だった村田重治さんも、みんな海兵出だからと威張るような
ことはありませんでした。立派な人たちでした。
小園安名さんも、我々下士官と
士官を一心同体のように
大事にしてくれました。
 
蔵田さんもそうだし、鈴木さんは途中で肺結核で亡くなっちゃったけど
みんな立派な人たちでした。蔵田大尉は後に元山航空隊で
特攻隊の
隊長になって。

私が一番最初に教えてあげた関行男さんは、その海兵のプライドの犠牲に
なった人なんです。
下士官が活躍してるのに、兵学校出の一番偉いエリート
コースが
何やってるんだと。それで誰か代表で一番先に行かざるをえなくなった。
 
ところが私が後から考えるとね、戦後まで元気で喋ってた偉い人が
あれが、特攻に行くべきだった。ところが、それは自分で行きたくない。
それが関さんをね、特攻にやったんですよ。関さんは戦闘機じゃないんです。
急降下爆撃がね、上手なんです。戦友に聞いたんですが
関さんは言っていたそうですよ。
 
「俺は何も零戦で爆弾を抱いて行かなくたって、九九艦爆で何でも沈められるよ」

って。
結婚したばかりなんですよ。関さんは
 
「本当は、俺は行きたくないんだけれども、日本が負けたら家内がどんな事に
なるかわからない。
だから日本が負けないために。私が第一号で、敷島隊の
隊長で海兵出の名誉のために行きます」
 
そう言ったんだそうです。
 
つづく
 

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関連記事
関行男大尉と敷島隊の祀られる楢本神社へ
私は敷島隊の5機を整備した~中野整曹

※画像は彗星艦爆
 
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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和を訴え続ける
 

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2015年6月10日 (水)

原田要さんの話(5)紫電改よりも零戦21型が一番だった

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
篠原Q、原田さんは海軍のほとんどの飛行機にお乗りになっていますね

 
ええ、雷電や紫電改も乗ったし、みんな乗りました
大型の九六陸攻も乗っています。
 
Q、雷電や紫電改は如何でしたか
 
雷電だめ、紫電改もだめですよ。
ゼロ戦だって52型だの丙型だの、みんなダメですよ。
 
アメリカのB-29には届かない。向こうが1万メートルで
紫電改が後ろにつくとロケットを発動しちゃう。サーっと置いていかれる。
それで最後にB-29に対処するにはこれしかない(秋水の模型を手に取る)
この秋水はロケット機ですから1万メートル迄3分。1万4千メートル迄でも
4分程度で上がっちゃうんです。
それで30ミリを両翼に備えています。
これなら絶対に大丈夫、
B-29なんかへっちゃらだというんです。
 
そのかわりパイロットの養成が大変で、その頃になると、
アメリカの
グラマンが攻撃に来ていたから内地では訓練できないから、
霞ヶ浦から
千歳へ配属になって、パイロットの養成をしなさいと
言われました。
 
Q、プロペラの飛行機で一番良かったのはなんですか
 
プロペラの飛行機で一番良かったと思えるのは私は最終的に
零戦の21型。佐伯航空隊で初めて乗りました。
 
それまで九六式艦上戦闘機だったのですが
この九六戦も堀越さんのグループが開発した戦闘機ですけれど
九六戦は行動半径が短い、攻撃兵器が貧弱でした。
 
Q、ゼロ戦(21型)を佐伯航空隊で初めてご覧になって如何でしたか
 
初めて見た零戦は格好良かったですね。私がこれに乗れるのかと。
九六戦と違って、ゼロ戦は随分大きいという印象を受けました。そして
脚が入ってしまう。骨組みが強化してありますし
翼内から20ミリという強力な
弾が撃てる。加えてプロペラの圏内からは
九六戦と同様に7ミリ7も撃てる。
300リッターの増槽タンクの他に
翼内、胴体に燃料をたくさん積める。10時間
以上飛んで大型機を
掩護できるんです。エンジンはダブル式になっている。
これが出来てね、すごい飛行機だなあ、と思っていたんです。
 
Q、ゼロ戦と九六戦を乗り比べて違いましたか
 
ええ、だから操縦が重くて大変だろうと思って、初めてゼロ戦に乗ってみた。
そうしたら誠に軽い。九六戦より自由がきく。素晴らしい飛行機だなあ、と
思いました。九六戦と全然違う。
 
Q、21型が一番良かったのですね。
 
 
日本の零戦として一番長い間、戦ったのが21型だと思います。
守る、攻める、安心感、三拍子揃っていた。
初恋の飛行機ではないかな。
 
素晴らしい飛行機だなぁ。これがいわゆる一番
武士の気持ちに近い、そのまんま合う飛行機だと思いました。
 
私達はゼロ戦に乗っていれば「絶対に負けないんだ」という自信

持っていました。そして、そのゼロ戦に掩護される爆撃機や
攻撃機も
「ゼロ戦がついているなら大丈夫だ」という安心感がありました。
 
ただ、世界中からどんなに驚かれるような零戦でも最終的には悲劇になる。
アメリカの方もF4FがF6Fに、
どんどん新鋭機が開発される。飛行機だろうが
人間だろうが
最初の功績に甘んじていると大変な事になります。
 
ゼロ戦はその後、エンジンの馬力を上げたり翼を短くしてみたり、排気管を
単排気管にしてみたりと、少しずつ良くはなっているんだけど
21型が一番良かったですね。
 
だから最終的に私が飛龍(※1)から飛び上がったのも21型ですよ。
飛龍の飛行甲板で、最後にひとつ寄せ集めの飛行機ができたんです。
私は飛行長のすぐそばで助手をしていたからすぐお前上がれって言われて
ああ、今頃こんな時に、よく21型あったなと。結局は信頼があったから
最後に寄せ集めの飛行機が21型で出来たんじゃないかなと。
恵まれています。
 
つづく
  
※1飛鷹かも?
 

A4_11

21型と52型の違いについてはこちら
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
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原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
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2015年6月 9日 (火)

原田要さんの話(4)航空母艦への着艦

蒼龍

 
航空母艦への着艦
赤城も加賀も、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、みんな一通り
着艦させてもらいました。
 
「赤城」という艦はね、あんまり良い艦じゃないんですよ。
艦尾の気流が乱れて、着艦が難しいんです。それなら幾分
「加賀」の方がいい。赤城も加賀も元々は戦艦を改造した航空母艦ですから
飛行甲板が海面から高いんです。
 
赤城の戦闘機隊は全部を引っ張っていくだけの、司令長官の艦ですから
艦隊の中でも一番の先輩か、部署によっては若いけれども優秀な人が
乗ってましたね。
 
「蒼龍」「飛龍」は元々航空母艦として設計されているから
飛行甲板は割合小さいけれど楽でした。
 
「翔鶴」「瑞鶴」が一番良かったですよ。着艦も非常に楽で良い艦でした。
ですから翔鶴、瑞鶴は、飛行時間の短い人達が乗っていたようです。
 
そうは言っても我々は航空母艦のパイロットですから
あの艦が良いとか
悪いとか言ってられないんです。ただ唯一、夜間着艦は怖い。夜間着艦
だけは最後まで怖かったですね。
 
それと、船だから当然、静かに走ってくれない。波で縦の揺れはしょっちゅうだし
それから横の揺れもしょっちゅう。だけど、揺れはまだいいんですよ。
一番嫌なのはヨーイングといって、母艦が艦尾を振るんですよ。せっかくこう
行って(真っ直ぐ着艦コースに入る)るのにまたこうして真っ直ぐに戻して。
 
戦争の時は、急速着艦と言って連続着艦しなければいけないんです。
その時は、次々降りてくるから、後ろがつかえているし待ってくれないんです。
一機が着艦したら、その飛行機を甲板の前へ出して、遮風柵(しゃふうさく)
というのを上げてしまうんです。後から降りてきたのが失敗したら、遮風柵に
ぶつかるようになってる。甲板の前には着艦した飛行機が一杯たまってるから
そこへぶつかればえらいことになるでしょう。一機を犠牲にしても前を守る。
それを皆こなしているのが、航空母艦の戦闘機パイロットなんです。
 
つづく
 

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※画像は「蒼龍」 模型製作/提供:ラプターさん
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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

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2015年6月 8日 (月)

原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出

真珠湾攻撃

  
「蒼龍」へ配属

佐伯航空隊から別府湾内の空母「蒼龍」配属になりました。
我々は艦隊の零戦パイロットだから、航空母艦で発艦、着艦を繰り返す
訓練をするのですが、それで航空母艦へいってみたら臨戦態勢になってる。
それで特に驚いたのが、航空母艦では防寒対策が完全に出来ていた事でした。
まさかハワイに行くとは思ってないですよ。無線も絶対出さないし、北の方を
向いているので、我々はウラジオストクを攻撃する
のかと噂をしていました。
 
幾日か航海して、朝起きたら、湾の周りの山が雪で真っ白なんです。
択捉島単冠でした。それで湾内の艦船が航空母艦だけで6隻。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。日本の当時の全航空母艦ですよ。
その他、日本には鳳翔と龍驤という航空母艦があったけれど
これは北の方へ行っていたから、その時はいませんでしたが。
 
そのほか、陸奥、長門も湾内に待機している。そこで連合艦隊の赤城に
各艦の飛行長とかリーダーの人達が集められて、
これから一番北回りの
寒いところを通って、普段商船が航行している
さらに北の方、商船と
遭遇しないように北回りしてハワイに接近していくと
言うんです。
 
日本はABCD包囲網で今後、やっていけなくなるだろう。そしてアメリカの方は
それを推し進めなければならないんだと。来栖、野村大使が交渉しているが
おそらく99、99%、交渉決裂
するだろう。そうしたら卑怯なようだけれども
12月8日、宣戦布告をして
我々航空艦隊がハワイ攻撃をやると。
 
直掩戦闘機隊へ
真珠湾攻撃で私は真っ先にハワイ空襲に飛び出すメンバーに入っていると
当然思っていました。ところが艦隊の上を守れというので、おかしいな、蒼龍
戦闘機隊の下士官とすれば年功も一番古い方だし、実戦では中国で1年も前に
飛んでいる。それを艦隊に置いて若いパイロットを皆連れて行くというので、変だな
と思ってね、隊長の菅波政治大尉に「おかしいじゃないですか」
と言ったんですよ。
 
そしたら菅波隊長は
「君、そういうけれどもこれは奇襲作戦といって、向こうがなる
べく知らないうちに
叩くんだから、敵の飛行機の空襲はなるべく避けるような
作戦計画をしてあるが、
でも向こうだって、ちゃんと計算してるから我々の艦隊が
空襲を受ける場合がある。
そのときに艦隊が傷ついてしまえば、せっかくこれだけ
隠密に行っても何にも
ならないんだから、各艦で下士官の一番ベテランを
艦隊護衛に残すから、そういう
連中と協力して艦隊を守ってくれ」と言うんです。
 
そう言われたら、私もなるほどね、と思いました。確かに、他にも各艦から
戦闘機隊の小隊長を二人くらいずつ
古いのが護衛で残ってる。護衛戦闘機隊は
三交代で飛ぶんです。私が一番最初に
2機連れて飛び上がる。するとその次の
小隊長がまた
2機連れて飛び上がる。だからもし敵が来れば各艦から9機ずつ
もう上空にいるわけ。そうするとね、ある程度艦隊を守れるということでした。
 
真珠湾攻撃当日
12月8日、私たちは戦闘機隊で一番軽いから、航空母艦の一番前から
発艦しました。それから一次攻撃隊が戦闘機、艦爆、艦攻隊とその後から
発艦して行く。どっちみち敵が来るならハワイの方向から来るだろうから
ある程度一緒に行って送ってそれで旋回して
 
篠原Q:途中まで行って艦攻隊を見送ったのですね。
 
ええ、どうせ敵が来るんだとすればハワイから来るんですから
そっち行っていれば早いでしょう。だからある程度向こうへ一緒に
ついて行って送って、だけどあんまり向こうへ行っちゃうと
今度はこっちの艦隊が無防備になっちゃうから。
 
自分でも攻撃に参加したいという気持ちで途中まで一緒に行った。
行ったけれども、いや、しようがねえなと(旋回
それで3回も飛んで。どうやら敵の攻撃は全然なかったんだけれども
 
Q、見送った艦攻隊に村田重治少佐の機もあったのですね。
 
ええ、村田さんという人は私の教官で、真珠湾では3人乗りの
九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長でした。この魚雷投下が非常に難しい。
ハワイの真珠湾へ入って行くには山を越していかなければならない。
山を越して急降下してくそれで降りてそのままの姿勢で魚雷を落とすと
魚雷が海底へ突き刺さってしまう。そこから機体を水平に引き起こして
雷撃しないといけないので、非常に難しいんです。
 
攻撃隊の帰艦
第一次攻撃隊ではほとんど被害が無くて、第二次攻撃隊では
戦闘機隊と艦爆も艦攻も被害はありましたが、軽微でした。
 
私達が一番辛かったのは、第一次攻撃から帰ってきた人たちが
被害が殆ど被害が無くて、彼らも嬉しかったんでしょう。
盛んに手柄話をするわけです。自分の狙った弾が命中した、あるいは
魚雷がちょうど戦艦の横腹へぶつかって炸裂したとか言って。
艦のほうでも「よくやったよくやった」といって早速一杯飲んでお祝いしていました。
 
ところがですよ、私達が一番心配したのが、航空母艦の連中は自分の
航空母艦というものの強さを知っている。その航空母艦がハワイの軍港に
一隻も居なかったというのを聞いて「これはえらいことだな」と感じました。
日本が持っている以上にアメリカの持っている航空母艦が一隻も無い
という事は、隠してる、もしくは余所へやってるということでしょう。
だから将来はこれは航空母艦の戦いになるだろうと、そういうことまで
心配したんですが・・・。
  
爆撃の名手、金井昇一飛曹
それともうひとつは蒼龍の爆撃機隊。
阿部大尉の水平爆撃隊がありました。それに私より一年後輩の金井昇という
長野市の人ですよ。爆撃の名手が居ました。
4000メートルから800キロの
爆弾をみんな命中させた。
だからね、あれだけの効果があったんだそうです。
 
※1
 
Q、金井さんは蒼龍では隣り同士の戦友ですね。
 
ええ、金井君は「戦艦を狙え」と言われていたそうです。
何故かというと、爆弾は通常、落ちた瞬間に炸裂するような信管を
使うんだけれども、これが戦艦の場合は一番上の甲板で
爆発しても致命傷に
ならないから、なるべく中へ入って行って
爆弾庫のあるところで破裂するように、
信管を遅れさせて炸裂
するよう調整するんです。
 
Q、その作業は金井さんが自らやるのですか
 
そうですね。何秒遅らせれば一番効果があるか
やっていましたね。
水平爆撃の日本の金井なんです。操縦の人は佐藤治尾さんといって
准士官、兵隊あがりで。だからね結局はね、日本海軍のパイロットと
いって爆弾を落としたり、それから魚雷を離したり一番活躍の実力を
持っていたのが下士官なんです。
 
Q、藤田怡与蔵さんの思い出はありますか
 
藤田怡与蔵さんという人は、あの人もちょっと変わってるんです。
生まれは満州、中国なんです。それで海兵へ入学したんです。
ところがね、その頃、日本から大陸へ渡った人たちは中国人を使って
贅沢な生活をしてたんです。だから誠に大陸的でね。のんびりした人なんです。
 
だからね、海兵出なんだけれども
全然海兵出のようじゃない。技術も我々から
見ると誠にお粗末で、海兵出のほうはピリピリしてるの。
ところが藤田さんは
大陸的で鷹揚なんです。藤田さんの2番機3番機
に高橋と岡本という下士官が
着いた。
高橋というのが私の後輩で、岡本というのがまた下の後輩なんですが
二人とも自分の小隊長の藤田さんを全然信用しないんです。
 
藤田怡与蔵(いよぞう)さんていうんですがね、読み方によっては
「ごようぞう」って読んじゃうんですよね。ごよさん、ごよさんって言ってね。
また本人も、俺はこれ(操縦の仕草)ダメなんだと言っていました。
飯田房太さんが蒼龍戦闘機隊の分隊長で分隊士が藤田さんでした。
飯田さんは海兵出のトップクラス頭の切れる人なんですがその下にいる
藤田さんが、誠にのんびりで戦闘機隊では
ごよさん、ごよさんって私らも言ってね。
またついていく高橋と岡本も、うちの小隊長はてんでコレだめだからと。
 
そのかわり人間的には良い人でした。とっても穏やかで人間的で
最高の人間だと。部下は喜んでましたね。
 
※2
 
Q,飯田房太さんについて聞かせてください
 
飯田さんとは蒼龍で一緒になりました。飯田さんという人は、お姉さんが
苦労して兵学校
出させてもらったんです。
 
飯田さん自身はハワイへ行ったら半分は帰れないだろうと、自分で考えて
いたようです。ハワイ攻撃で、もし燃料タンクに銃弾を
受けて帰れる見込みが
無くなったら、俺は自爆するよと、藤田分隊士に
皆任せるからまとめて帰れと、
事前に何度も申し合わせていたそうです。
 
凄い人でしたよ。将来の長官クラス。長生きすれば連合艦隊司令長官だったかも
しれません。
水上機出身で、優秀だからと戦闘機に引っぱられてきたようです。
戦闘機隊は水上機出身を余所者扱いするようなところがあったのですが
飯田さんは技量も素晴らしいし、立派な人でした。
だから部下で飯田大尉を嫌だっていう人は居ませんでしたよ。
とても優しいね、思い遣りのある人でしたよ。
惜しい人でした。
 
※3 

つづく
 

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※1、金井昇一飛曹
長野県出身。
爆撃の名手と名高い。蒼龍では格納庫の九七艦攻に乗り込み爆撃の
シミュレーションを行う姿が目撃されているほか、原田氏によれば
寝床まで照準器を持ち込んで研究を重ねていたという。真珠湾攻撃では
九七艦攻に搭乗し水平爆撃を行った。操縦の佐藤治尾とペアで息が
ピッタリ合っており、蒼龍艦長も「蒼龍には世界一の爆撃手が居る」と
誇りにしていたが、ウェーキ攻略で米戦闘機の奇襲を受け戦死した。
 
※2、藤田怡与蔵中尉
大分県出身。大正6年生まれ。海兵66期。
真珠湾攻撃で初陣。第二次制空隊、飯田房田大尉の分隊士として
参加した。飯田大尉の自爆ののち、戦闘機隊の帰艦を引き継いだ。
本土帰還後大尉に進級し、ダーウィン、コロンボ空襲、ミッドウェイ海戦に
参加し生還。飛鷹分隊長となり、ガダルカナル航空戦に参加した。
内地へ帰還後、築城航空隊、次いで第301海軍航空隊へ転属となって
飛行隊長を務め硫黄島防空戦、のち341海軍航空隊では比島で
戦い、本土へ後退、終戦を迎える。戦後初のジャンボジェット機長として
活躍した。
 
※3、飯田房太大尉
山口県出身。大正2年生まれ。海兵62期。
真珠湾攻撃では蒼龍戦闘機隊、分隊長。
燃料タンクへの被弾により、米飛行場へ自爆戦死。
アメリカ軍が飯田大尉の勇敢さを讃え、遺体を埋葬した逸話が有名。
  
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2015年6月 6日 (土)

原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件

揚子江

以下、原田要さんの回想
 
昭和12年の初め、私達は佐伯航空隊で訓練中でした。

その頃、脇坂部隊というのが広州湾に敵前上陸して南京向けて
進んで行くんだと聞きました。私達は延長教育といって
相生高秀さん(戦後海上自衛隊で艦隊司令)の部下で訓練をやっていまして
飛行時間は300時間しかなかったんです。実戦で使うには500時間が
必要なので、まだ早いんですけど、
九五式艦上戦闘機で敵前上陸の掩護を
したいから、
佐伯航空隊から若いパイロットをよこせと言ってきたんです。
そこで訓練しながら500時間にすればいいということで連れていかれたんです。
 
60キロの爆弾を両翼にひとつずつ吊り下げて、プロペラの間から
7ミリ7を撃ちながら掩護してずーっと1年間やってきて昭和12年の
終わり頃にようやく南京まで辿り着いて、ところが南京の光華門と
太平門というのが、まあ凄い頑強で。脇坂部隊がどうしても入っていけない。
それで常州といってね、すぐそばに前進基地を作ってそこへ我々が行って
もう朝から晩まで城壁を爆弾と銃撃。これをやったらどうやら脇坂部隊が
中へ突入できたと。
 
そしたら南京の中に居た敵の大部隊が南京を捨てちゃって
重慶へ逃げるんです。揚子江の波止場から小さい船でみんな逃げて行くので
今度はそれを我々と、村田重治さんをはじめ潮田良平大尉、
そういう人たちが
指揮官になって、これを沈めちゃった。
 
そしたらその中にアメリカのパネー号※とイギリスの輸送船も入ってた。
だけど
そんな事こっちは構わねえもの、我々がやっちゃったから(爆撃)
そこで村田さんも潮田さんも責任者はみんな降格になって、我々下士官も
内地へ帰されました。
 
南京攻略とパネー号爆撃のときは九五式艦上戦闘機に乗っていました。
十二航空隊は九五式艦上戦闘機で十三航空隊は九六式艦上戦闘機です。
私が九六式艦上戦闘機に乗ったのは内地へ帰ってきて大村の航空隊で
教官をするときでした。その頃にはもう我々ベテランですからね。
 
------------------
つづく
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 
※「パネー号事件」篠原補足
当時、第三国であるアメリカの船「パネー号」を日本海軍の飛行隊が爆撃して
しまったため国際問題となった事件。アメリカ側はパネー号にアメリカ国旗を
掲げていたと主張したが、爆弾を命中させた原田氏はこれを否定し
「我々戦闘機隊が一番接近したが、アメリカ国旗などどこにもなかった」
と記している。結局、日本側は誤爆事件として認め、アメリカ側に賠償金を
支払う形で決着したが、後に「爆弾を落とされる前に国旗を広げようとした」
とアメリカ側は見解を改めた。海軍搭乗員は誤爆の責任を取る形で
内地へ帰されたが、表向きの処置でありその後、責任を負わされるような事は
なかったという。
 
※画像は揚子江

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あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

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な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
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篠原弘道

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零戦雷電震電

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2015年6月 4日 (木)

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない

ホーカー ハリケーン(Hawker Hurricane)

 
今月は元ゼロ戦搭乗員で空母「蒼龍」に乗組み、真珠湾作戦に
参加した原田要さん(98)に
個人的にインタビューする機会に恵まれました。
4年ほど前から出版社宛に何度か手紙を書いて打診はしていたのですが
縁あって念願が叶いました。
 

原田さんは著書を読んだ内容から想像していた通り、とてもお優しい方で
またユーモアもあり素晴らしいお人柄の方でした。
 
原田さんに伺った内容を何回かに分けて書くことにします。
ゼロ戦での本格的空戦の回想に入る前に、原田さんの平和に対する

願いを是非とも書いておかねばなりません。
 
以下、原田さんのお話 
 
今年は戦後70年でね、
私のスケジュールを見たら6月、7月と取材が随分入っているんです。
8月に入ると今度は放送ということですけれども
 
◆忘れようとした戦争の記憶 
戦争の話は、嫌なんですけれども、
それまで私は忘れようと思って忘れよう、忘れよう、としてたもんですから
なるべく人には喋らなかったんです。
 
1991年の湾岸戦争で、あのとき若い人たちが、テレビでミサイルを
打ち上げるのを見て、
面白いだとか、花火のようだとか、ゲームみたいだと
感想を言っているのを知って、私は「これはえらいことになるんではないか」と

感じて、戦争だけは絶対に駄目なんだと、戦争で経験したことを話すように
なりました。
 
我々が子供の頃はロシアという大きな国と戦って辛くも勝ちはしましたけれども
それを毎日、従軍した年寄りから聞いていたから、まるで「戦は男の働き場所」
のように受け取っちゃったんです。
 
あのころは日本の男子は20歳になったら兵役という義務があったから
そんならいっそのこと、17歳で志願で軍隊に行ってしまってずっと軍隊で
使ってもらって、
もし戦争でもあったら真っ先に飛んで行って自分の命を捧げると、
簡単にいうと、子供の頃はそういう気持ちでした。
 
◆国に尽くした誇りと表裏一体の罪悪感
私の海軍での生活は12年と8ヶ月、滞空時間は8,000時間です。※1
子供の命から12年8ヶ月も「お国の為に私の命を使って下さい」という気持ちで
私利私欲を捨てて働いた期間です。だから自分とすればこれ程までにお国の為に
一生を捧げた人間はいないというプライドと自信と誇りを持っています。
 
私は純粋にお国に尽くしたいつもりで一生懸命にやったんだけれども
それが裏側では恐ろしい殺人ロボットになってしまっていたんです。
これを、そういう風にさせるのが戦争なんだと。中には私が自分の戦ったことを
誇らしげに喋ってると、誤解する人も
必ず世の中には居ますけれども、そういう
人はそういう人でいいと
思っています。
 
8,000時間※1という滞空記録でゼロ戦のコックピットから戦争の実態というものを
ずっと見て来て、また後輩の指導をする為に飛んで、これも戦争の一部ですから
敵のパイロットを盛んに殺めた。何の恨みも無い、同じ人間ですよ。どちらかが
命を落とさなければならないのが戦争。本当に恥ずかしいことです。
そんな多くの人を殺してきた私が、今こんなに幸せでいいのか罪悪の
気持ちでいっぱいです。
 
だから戦争ほど罪深いものはない。戦争というのは絶対にいけない。
何が何でも避けなければならないんです。
勝った方も負けた方も不幸になる。
これを喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
 
◆南京攻略戦から真珠湾~ミッドウェイ~ガダルカナル
私は昭和12年の南京攻略に九六式艦戦で初陣して、その後は零戦で真珠湾、
コロンボ、ミッドウェイ、ガダルカナル、終戦まで内地で飛んでいました。
その中で4回、もうだめだと思ったことがあります。教官もやっておりましたから
海軍の飛行機はほとんど乗りました。雷電や紫電改、
大きな九六陸攻にも
乗ったことがありますよ。でも零戦の二一型が一番いいですね。
紫電改?いや、だめだめ(笑)零戦のね、二一型が一番良い。佐伯で
はじめて零戦と対面して、なんと美しい、性能も抜群で
素晴らしい飛行機だと私は瞬く間に恋をしたわけです。
 
さきほども申し上げました通り、私は12年8か月、軍隊に身を捧げてきました。 
ところが、それだけの期間、戦って相手が「もうやめてくれ、助けてくれ」と
逃げてくのを追いかけて、いや、俺がお前をやらなければ俺がやられてしまうんだ
ということで、何人の敵を、尊い命を殺めたかわかりません。
 
◆撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
グラマンがね、だいたい600キロ近いスピードで逃げる。
それを追いかけてこっちが550キロ。
580を超せば自分の飛行機が空中分解する恐れがあるから
この7ミリ7で頭を押さえて敵機を蛇行させる。
(敵機は弾を回避しようと旋回を繰り返すので、まっすぐ飛べない)
20ミリと7ミリ7では200メートルで一点に合うように調整してある。
ところが200メートルもむこうの照準をしたのでは
なかなか当たらないんです。
 
いよいよ20ミリを撃つ時は60発と、
ちょっとだけで終わっちゃうから。
100メーター以下になったときに照準器がいらないくらい近付いて行って
そうすると60発でも10発くらいバババッと撃つとね
相手がダーンと(撃破され失速する仕草)それをね、今度は避けるでしょ。
カツカツなんですよ。まごつけばぶつかっちゃうから。
 
ところがね、5メーター、10メーターまで寄って撃墜した敵を避ける。
相手が苦しそうな顔をして、うらめしそうな顔をして見るんです。
その顔がね、いまだに頭の中に残ってる。
 
で、中にはね、私に張り付かれて撃たれそうになると
「勘弁してくれや、命だけは助けてくれ、撃たんでくれや」って、
そういう哀願する姿も
見えるんですよ。でもそんなこといったってこっちが
撃たなければやられちゃんんだから、
自分で人殺ししたいんじゃないんだけれど
あのパイロットの顔は、もうずっと忘れられないですね。
 
※1、実際は2000時間くらいとの説が有力
 
-----つづく-----
 

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証言者プロフィール
原田 要(はらだ かなめ)
長野県出身、大正5年8月11日生まれ(98歳)
昭和8年、17歳で海軍を志願し横須賀海兵団へ水兵として
入団。駆逐艦「潮」乗り組み。憧れだったパイロットを志すも父の反対で
一度はその道を諦めたが、空母「鳳翔」で
飛行機に関わることのできる
兵器員を務める。その後今度は
反対を押し切り操縦練習生(操練)35期の
試験に合格。訓練ののち、
主席で卒業、
 
昭和12年の支那事変勃発後は
第十二航空隊で中支戦線(揚子江と黄河に
挟まれた戦域)に出動。
南京攻略作戦で初陣。九五式艦上戦闘機で
攻撃隊の援護および
南京城壁の爆撃を敢行。内地へ帰還した後、
佐伯航空隊で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめて目の当たりにし
その美しさと性能に心から惚れ込んだ。
 
昭和16年、空母「蒼龍」乗り組みとなり、佐伯から択捉島単冠を経てハワイ
真珠湾攻撃へ参加。
翌17年6月のミッドウェイ海戦では直掩隊として機動
部隊の護衛任務につき米雷撃隊と交戦。
蒼龍沈没後は「飛龍」に着艦し
飛龍搭載の零戦に乗り換え
再び発進した。機動部隊の壊滅により着艦が
不可能となり海上へ不時着。
自決を決意するも、拳銃を飛龍発艦時に置き
忘れたためこれを果たせず
4時間漂流の末運よく駆逐艦「巻雲」に救助される。
このとき、飛龍に接舷した
巻雲艦上で山口多門少将と加来止男艦長の
最期を目撃している。
 
内地へ帰還しおよそ一ヶ月の軟禁生活ののち空母「飛鷹」乗り組みとなり
同年10月、ガダルカナル島上空でグラマン機と空戦。双方真正面からの
打ち合いで相撃ちとなり
ジャングルへ不時着、瀕死の重傷を負うも自力で
友軍陣地へ辿り着き、命を繋いだ。内地への帰還を待つ間マラリアに感染し
また多くの陸軍
兵士の死と直面する。
 
重傷の後遺症も癒えぬまま、霞ヶ浦航空隊で教官を命じられる。この間、
関行男大尉の教官も務めた。その後は
「秋水」の教官として千歳海軍航空隊へ
赴き搭乗員要請にあたる。
海軍中尉として終戦を迎える。
 
同期には片翼帰還で有名な樫村寛一、
後輩に坂井三郎、西澤廣義、岩本徹三などが居る。

※岩本徹三、海軍では先輩であったが操練では岩本が34期にあたる。
坂井三郎は三期後輩で原田と同い年であった。
 
※参考画像は英イギリス空軍戦闘機「ホーカーハリケーン」原田氏はコロンボ上空の空戦で
この機体と戦った。
 
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原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 

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2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
「戦争の話を聞かせてください」
最近、当戦友会に、そういって訪ねてこられる人がとにかく多い。
もう戦争で最前線を経験された方は少ないからだ。
最近は若い人も多いので我々としては、来るもの拒まず
というスタンスでいるが、何を勘違いしたか、そこで政治的な
主張をしたり、一方的に持論を展開する人も後を絶たないので
そういう人たちはお引取り願っているが、だがそれは一部で
純粋に戦争の話が聞きたいという若者がほとんどだ。
 
それにしても原則的には、ここは戦友会。
戦友たちの憩いの場なのだ。一ヶ月に一回集まって
昔の思い出話、亡き戦友たちの話や、四方山話をして帰路に着く。
「これが一ヶ月に一度の楽しみなんだ」
「この集いがなくなったら楽しみがなくなってボケてしまうよ」
 
そんな声を聞くたびに、私は戦友の方々が今回も元気で会場まで足を
運んでもらえたことに安堵している。だから、私たちはその手伝いが
できればそれで良いのであり昔話を隅で聞かせてもらえれば
それで満足なのだ。
 
聞きっぱなしはダメ
戦友会に出てくる戦友の方々は
「戦争の話を聞かせてほしい」
と言われれば、まず断ることはないだろう。とても丁寧に話してくれる。さらに
「わからない軍隊用語はないかい?」
などと、気を遣ってくれたり、とても若者に優しい。
 
感想と報告を忘れずに
しかし戦争のしかも最前線の回想は、死に関わる話が多く
語る方だって、渾身で覚悟がいるのだ。それで、何も
報告がない場合が多く、戦友の方々は、音信不通になってしまうと
「本当にあれでよかったのか。どうのように活用されたのか」
とずいぶん時間が経っても悩むことが多いという 
 
「戦争の話を聞かせてください」
そう、言って来られるのは結構だが、話す側には相当の
エネルギーと覚悟があることを忘れてはならない。
聞きっぱなしはいけない。アフターケアを忘れてはならない。
 
取材が目的であれば、「このように活用されましたよ」と
出来たものを送るとか、純粋に戦争の話を聞きたい
若者ならば、きちんとお礼の葉書や電話を忘れないことだ。
 
つづく。
 
戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月24日 (日)

ブルーホーネット

TH-480B,ブルーホーネッツ

北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事、無事終了しました!
予想外の終日晴天に恵まれ、各機、大迫力の展示飛行でした。
 
なお、今年度(平成27年度/2015年)よりTH-480への機種変更に伴い
スカイホーネットの名称新たに「ブルーホーネット」と称して
翼が触れんばかりの六機によるアクロバットと編隊飛行が行われました。
ヘリコプターによる機動はブルーインパルスにも真似できない
驚くべきものであり、 大迫力でありました。
   
なお、80枚の限定で宇都宮のみでの販売でした「疾風」Tシャツ
好評につき午前中でほぼ完売となりました!ありがとうございました!
 
わざわざ宇都宮へ足を運んで頂いた方へ、なんとか
ここでしか味わえない思い出を持ち帰ってもらおうと
色々と考えております。また来年もよろしくお願い致します!

2015年5月23日 (土)

自衛官お見合いパーティー

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今日はオリオンスクエアで自衛隊お見合いパーティーでした!
男女それぞれの自己紹介、フリータイム、告白&ちょっと待ったコールなどなど!
熱戦でしたが、今年は11組のカップルが誕生しました!!
 
自衛官の人気は凄い!こっちもハラハラドキドキしながら見ていました!
うまくいってほしいなあ!
 
そして明日24日は北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事です!
ぜひお越しください!
 
2016年もやると思いますので
詳しくはお問い合わせください!
  

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2015年5月22日 (金)

5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事

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新生ヘリアクロバットチームの展示飛行は10時からです!
 
5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事の案内です。
周辺道路はたいへん混在しますのでお車で来場される方は
お早めにお越しください。

2015年5月21日 (木)

戦友会を運営して思うこと(1)

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒
 
この年齢でまさか戦友会の代表をさせてもらうことになるとは思わなかった。
メンバーは80代後半から最年長は98歳になる。
 
実質的な運営(会場の手配、案内葉書の送付、電話連絡、司会等)は
我々若手で行い、戦友の方々には会場に足を運んで頂くだけ結構です、
ということにした。
 
あちらこちらにぶつかりながら、徐々に軌道修正してやっている。
失礼なこともあるかもしれないが、大正生まれ、明治時代の教育を受けた
ご年配方はどなたも例外なく寛容な心をお持ちで、数々の無礼を
許してもらっている。これが満足に運営できるようになった頃、
この戦友会はもう無いのかもしれないのが残念でならない。
 
これから、戦友会の運営で経験したことを少しずつ書いていこうと思う。
たくさんあるから少しずつ書く。 
 
まずは戦友メンバーの方をお呼びする際の敬称の付け方だが、「さん付け」
が最も無難かつ適切であると
私は思う。戦争は終わった。平等であるが
参加メンバーはいずれも旧帝国陸海軍の軍人だ。これは変わることはない。
 
そこには士官学校卒業の元大尉や将校(隊長)もいるし、一兵卒(兵隊)も
徴兵された方もいる。元憲兵さんも居る。志願された方と徴兵では
だいぶ事情が違う。そして、元隊長さんは「多くの部下を死なせてしまった」
という自責の念で苦しんでいる。戦争が終わり、退役された今では
上下関係は存在しない。戦友の方々はそれでも、過去の関係が根強く
残っていて、元上官に遠慮して満足に発言できなかったりする。
もちろん、頭ではわかっているのだがそういうものなのだ。
現代を生きる我々には理解が難しいだろう。
  
だから最もニュートラルな「さん付け」が無難なのだ。敬意を込めるなら全員
「先生」が最も良いが、そんなたいそうな呼び方はやめてくれといわれるので
私は一様にさん付けしている。
 
間違っても昔の階級で呼んではいけない。
経歴や戦歴を紹介する上で階級を出すときは必ず「元~~少佐」など
元をつけるのを忘れてはならない。
 

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方



つづく。
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

ステンシルフォント(漢字・和文)

漢字・和文のステンシルフォントを作成しています。ミリタリー系・軍事・SF系
創作物に最適です。もちろん個人・商用利用ともにOKです。

 

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漢字・和文のステンシルフォントの既成販売品は2万円くらいするので
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一文字につき200円で作成します。希望される文字をメールで
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また、ステッカー出力、マスキング出力も承っております。

2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月 8日 (金)

オスプレイ陸上自衛隊へ導入

V-22オスプレイ

V-22オスプレイ

 
米国政府は垂直離着陸輸送機(VTOL機)V-22オスプレイ、17機を
日本に売却する方針を決定した。
 
売却総額は約30億ドル(約3600億円)で、機体のほかに
エンジン40機、赤外線前方監視装置40基、代替部品などの
装備品も含まれる。日本への供与は米国議会の承認を経て
最終決定されるが、日本国政府は平成29年度(2018年度)までに
オスプレイ17機を陸上自衛隊に配備する計画となっている。
 
2015年5月8日産経新聞より
 
米国では2005年12月より運用が開始され既に200機以上を
保有しているが、供与が決定すれば米国と日本は唯一の
V-22保有国となる。なお、他にはアラブ首長国連邦、イスラエル、カナダ、
インドが導入を検討中である。最新技術が収められ、最高機密とされる
部品はブラックボックス化されるので、同盟国といえども極めて高い
機密順守が求められる。
 
同様に米国の同盟国である韓国が米国製戦闘機のブラックボックスを
無断で空けてしまい、解析。信頼関係にヒビが入る結果となった記憶も新しい。
 
さて、陸上自衛隊への導入となれば
ヘリコプター部隊の総本山である宇都宮北駐屯地への派遣も
考えられるが、どうだろう。宇都宮といえば既にUH-60JAブラックホークが
運用されており、こちらの音のほうがオスプレイよりはるかに騒々しいが
割合、市民は寛容である。ずっと宇都宮に住んでいるが
反対運動など見たことも無い。いずれにしても見守りたいと思う。
 

V-22オスプレイ

 
関連記事
小笠原が求めるオスプレイ

 

Dr Ajay Kumar Singh
/ Shutterstock.com

2015年5月 6日 (水)

ピースうつのみや(宇都宮平和祈念館をつくる会)

ピースうつのみやとは宇都宮平和祈念館をつくる会の前身で
宇都宮の活動家を中心とした平和団体である。
 
前身である「宇都宮平和祈念館建設準備会」を昭和60年(1985年)に発足。
1996年に「つくる会」と改称し、宇都宮空襲展の開催や灯籠流し、市内の
戦跡を めぐる「ピースバス」などを年一回運行して命の尊厳や恒久平和を
訴えてきた。
 
平成27年(2015年)18日の定期総会により 「ピースうつのみや」と名称を改称。
祈念館設置が実現しないまま会員数は減り高齢化も進み 資料の収集は進んだ
ものの、資金面から祈念館の自力建設は遠く、 市に要望を続けてきた公設民営
による設置も見通しは暗い。 当初500人弱いた会員は3月末時点で実質50人を
切った。 そこで今後は祈念館の設置を前面に出すのではなく、 収集した県内各地
の戦災や空襲資料を中心に、 他団体(連合、日本共産党など)と協力連携を
図ることで活動を盛り上げていく方向性を決めた。
 
また、会は集団的自衛権の行使容認の閣議決定や憲法改正に向けた流れに
言及するなどの活動も行っている。会の藤田勝春代表は憲法9条改正の阻止を
訴えた。 名称の変更とともに、藤田会長は退任を表明。 5月の臨時総会で
宇都宮市民ユニオンの田中一紀氏が 新代表に就任する見通しとなっている。
 
出展 平成二十七年、四月十九日、下野新聞
 
(ピースうつのみや)宇都宮平和祈念館をつくる会)ホームページ

2015年5月 5日 (火)

満州鉄道デザイン作成

満州鉄道ロゴ

 
先日、中島飛行機のロゴを作成したところ、あじあ号ファンの方から
満州鉄道のリクエストがあり、製作しました。

漢字は既存のゴシックフォントに切れ込みや変形を加えて改造。
ステンシル調に仕上げました。
 
ダウンロードは以下をクリックしてください。
使用条件に関しては中島飛行機と同様とします。
 

満州鉄道ロゴ



2015年5月 3日 (日)

中島飛行機ロゴマーク

中島飛行機ロゴ

中島飛行機のロゴを復元作成しました。(著作権失効済意匠)
中島飛行機は終戦とともに解体され幻となった航空機会社です。
その恐るべきマスプロ力によって帝国陸海軍の兵器製造を担い
国家繁栄に大きく寄与しました。
 
しかし夢幻の如く、
戦後、これを恐れたGHQは財閥の解体と、航空産業の一切を禁止し
惜しくも中島飛行機はここに消滅します。以後、富士重工業(スバル)や
日産自動車などへ技術や人員が引き継がれました。原則的に中島飛行機と
富士重工は別の組織ですが、その歴史を調べてみるととても面白いものです。
 
中島飛行機の開発・生産能力は日本一でした。
代表的な零式戦闘機は三菱重工の開発した飛行機ですが、

中島飛行機がライセンス生産を行い、最終的には三菱を大幅に
超える生産数を誇りました。しかもこの間に、四式戦闘機を四千機以上、
大型重爆、水上機なども並行して生産していたので、そのマスプロ力は
強大なものでした。
 
中島飛行機宇都宮製作所では糸川英夫博士の一式戦闘機「隼」をはじめ
四式戦闘機「疾風」、百式重爆「呑龍」など多くの機体が生産されました。
※四式戦闘機は宇都宮と太田の二カ所で製造されましたが
昭和20年2月の太田空襲で太田製作所は大きな損害を受けました。
 
宇都宮ではこれを回避すべく、四式戦闘機のエンジン工場を
宇都宮大谷地区の地下へ移しましたが、機体の組み立ては地上で行いました。
~地下工場へ行ってみる
 
昭和20年7月の宇都宮空襲で生産は大幅に落ち込みましたが

それでも終戦まで稼働し、終戦時にも宇都宮製作所の生産ラインには
ピカピカの武装された四式戦闘機が乗っていたそうです。
  
生産の背景には女子挺身隊(女子学生)の活躍など
多くの国民の心血が注がれたことは特筆すべき点であり
決して忘れてはならない事実であります。
 

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中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ホワイト)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ホワイト)
 
 
画像使用についてのお願い
 

中島飛行機ロゴ

中島飛行機ロゴ

2015年4月22日 (水)

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

 

栃木県塩谷町の放射性廃棄物最終処分場建設計画 
最初に述べておくが、この記事は建設の可否を論じるものでない。

現在おかれている政治側面と現地の状況を記しておくものだ。
進捗があり次第、追記する。 
 
全国屈指の水源地
ここは栃木県に塩谷郡に計画されている
放射性廃棄物の最終処分場予定地から近い
水源地、尚仁沢湧水(しょうじんざわゆうすい)
 

宇都宮からもおよそ30分と近く、私自身も疲れたときには
ここへリフレッシュをしにドライブに行くことがある。
この写真も一年前に撮影した。
何より水が綺麗でおいしいし、原生林の森が美しい。

宇都宮や矢板など、周辺の
このおいしい水を求めてポリタンクを何個も何個も
車に積んでやってくる。豆腐屋さん、飲食店関係者も多い。
 
水源地近くには水汲み場があって、基本的には持ち帰りはタダなのだが
最近、個人なのか業者なのかわからないが、多くの人が水を汲みに訪れ
マナーの悪さが問題視されている。
一人で何個も大きなポリタンクを持ってきて水の湧き出ている
ところを占領するものだから同じように水を求めてやってきた
者同士でトラブルになるのだ。

 
さらに水を積み過ぎて帰り道事故を起こす車が続出している。
カーブを曲がりきれなかったり、ブレーキがきかなくて大きな
事故になる。
 
水源地近くにはミネラルウォーターのボトリング工場があり、全国の

飲食店や食品工場などに出荷されている。
とにかく、それくらいここの水は全国でも屈指の名水である
ということだ。
 
原発から出た核のゴミ、つまり放射性物質の最終処分場計画は
地元自治体である塩谷郡塩屋町と矢板市が懸念を表明している。
矢板市は最近シャープの撤退が噂されているし、最大の危機ともいえる。
 
自民党系知事は容認の立場
平成27年4月の統一地方選挙で栃木県は県議会議員選挙と
市議会選挙が行われるが自民党系議員はいずれも容認の立場を表明している。
一方、無党派や民主党系議員などはこれに反対する構えで対抗、
有権者の支持を求める見通しだ。自民党系の栃木県知事、福田富一氏は
容認の立場を示している。福田知事の任期は2016年なので候補地を
めぐり次の選挙で争うことが予想される。
 
建設を推し進めたい与党と具体的代替案に欠ける野党
なお最終処分場という名称を国が長期保管場と改めると表明したが
言葉のトリックとしか思えないし、実質的には変わらないだろう。
 
国は水源地に影響はないとの見解を伝えて理解を求めているが
想定外の事態は十分に予想されるだろうし、原発事故から
我々が学んだことと言えば、何でも「想定外」の一言で
国の見解が信用できるものでないことは明らかだ。
 
与党は建設を推し進めているが、では反対する野党はどうか
具体的な代替のアイディアがないのもまた事実だ。
我々有権者は、単純な賛成反対に左右されてはならず

具体的アイディアを聞いて、それが論理的であるか
十分に精査して投票しなければならない。

 
基本的に自治体は国に勝てない
国の決定を自治体は覆すことができない。
沖縄の辺野古基地移設のように、知事が反対すれば工事は進まないが
基本的に資材の運搬許可を出さなかったりと、邪魔をして
工期を遅らせるのが精一杯だ。
 
問題の根本は処分場建設にあらず
反対する住民と地元の水に関わる業者は何より
収入源を絶たれることを危惧するのだろうが、それは国が保障すればよい。
問題の根本は「核のゴミをどうするか?」これに尽きる。
 
国の方針に白紙撤回はありえないだろう。
核のゴミはいずれかへ処分しなければならない。ツケが回ってきたのだ。
福島で処理しろといわれても福島の住民も困っている。
 
原発を停止しただけでは問題は解決しない。
福島、栃木の人たちはもちろん、全国のひとたちも大局的観点から
核の廃棄物をどうするのか、関心を持って考えてほしい。

2015年4月21日 (火)

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特別企画限定公開中

内貴直次さんの訃報

内貴直次さんがお亡くなりになりました。
  
平成27年4月9日午後2時頃、金沢で行われる戦友会に参加するため、
北陸新幹線で金沢へ向かっていた車内で倒れ、病院に搬送されましたが
死亡が確認されたそうです。
 
内貴さんは95歳。元陸軍少尉、西武ニューギニアから生還した方で
戦争中に片足を切断(しかも麻酔無しで)しているのですが、
最近、お会いしたときも、一日1000メートルの水泳を毎日
こなすのが日課で、趣味ではオートバイに乗るのが楽しいと仰っていました。
  
心よりご冥福をお祈りします。
 

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横山岳夫さんの訃報

元海軍大尉で戦闘機搭乗員の横山岳夫さんが亡くなりました。
先日、訃報を知ったところです。横山さんは97歳、3月5日に
ご自身で車の運転をされ、買い物へ行った際に、駐車場で倒れ

そのまま救急車で運ばれましたが、間もなく亡くなったそうです。
直前までお元気だったことから
肺塞栓症(エコノミークラス症候群)だったと聞いています。
 
私は横山さんと親交の深い方にお願いし、近日取材を行う予定でした。
週末にお会いする予定だったのですが、数日前に伺う予定を
お電話で確認しようとしたところ、一向にお出にならないので
おかしいなと、思っていたところ、先に記した通りです。

  
横山岳夫元少佐は海兵67期、水上戦闘機(二式水戦)出身で、のち
零式艦上戦闘機へ転向。201海軍航空隊でもっとも知られるエピソードといえば

指宿正信大尉とともに初の神風攻撃隊である「敷島隊」編成に関与された
といわれる方です。横山さんと指宿さんの名誉のために書いておきますと

これは201海軍航空隊副長の玉井浅一中佐の命令であり
お二人には特攻を制止できる権限はありませんでした。
 

指宿さんに関しては戦後航空自衛隊初のジェット戦闘機パイロットとなり
昭和32年に殉職されましたが、生前、このようなエピソードが
残っています(篠原調べ)
空に生きた武人~指宿正信の生涯

 
横山岳夫さんはその指宿大尉の戦友でもっともよく知っている
ということで
戦友としての思い出を伺う予定だったのですが、残念です。
 
貴重な歴史の証言者が亡くなられたことは誠に残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2015年4月20日 (月)

吹上浜での拉致

吹上浜

 
時間を見つけては、文字に残しておきたい事が沢山あるが
「生きている人間を救出する」これは最優先事項だから特に
力を入れて書く。 
 
私の友人が北朝鮮に拉致されそうになったことがあると

話してくれたことがある。本当の話だ。
 
昭和50年代、場所は吹上浜。
吹上浜といっても海岸線が47kmあるので具体的な場所をいうならば
現在の吹上浜海浜公園近辺だったという。
 
当時、中学生だった彼は
友人と二人で吹上浜で行われる花火大会へ遊びに行った。
夏の夜空に打ち上がる花火を眺め楽しんでいると
人混みの中で明らかに違和感のある、男の二人組を目撃した。
 
花火の見物客はいずれも空を見上げているというのに
その二人組の視線は上空の花火を楽しむ様子もなく
橋の上からこちらをじっと見つめているというのだ。
不気味さと一抹の不安を感じながらも花火が終わって
自転車で帰路についたときだった。
 
会場から離れ、人気のない道に差し掛かった頃
後をつけてくる自動車がいることに気付いた。
自分たちが速度を落とすとあちらも落とす。引き離そうと
すれば間合いを詰めてくる。そうやって自転車を漕ぐ速度を幾度か変えたが
これが着かず離れずだったのでこの時点で明らかに追われていると
気付いたののだった。
 
「おい、やばいぞ」
二人には置かれている状況が全く理解できないが、
身に危険が及んでいることは明確だった。
逃げるために全力でペダルを踏んだ。
 
しかし到底自転車では逃げ切れない。
一本道の周りには身を隠す場所がなくとにかく全力で逃げた。
そしてようやく茂みある付近に差し掛かった時
二人はお互いに合図をすると同時に自転車を捨てて茂みに逃げ込んだ。
 
二人組もすぐに車を停車させ、後を追ってきた。
遠くまでは逃げられなかったので咄嗟に身を潜める他なかった。
追ってきた二人組は辺りを執拗に探し回っている。
このときの喋り声が日本語でないのがわかった。
しばらく探すと諦めたのか、舌打ちをして遠ざかっていったという。
 
この話はこれでおしまいだが
拉致犯に目を付けられ、未遂におわったということだろう。
後日、警察に事情を聴かれたが、事件が大きく取り上げられることは
無かったという。北朝鮮による一連の拉致は彼が大人になってから
知ることになる。拉致事件は
新潟が多いような印象があるがここ
鹿児島の吹上浜でも事件が確認されている。
 
当時、機転を利かせたことから無事逃げ切った彼は
「昔のことだから」と笑いながら話していたが
私は背筋の凍る思いがした。
こうして明るみに出ない事件が他にもあったのではないだろうか。
できる限るの真実を残したいのでここに記す。
 
 
私はブルーリボンを胸に付けている。あるとき
「何か拉致事件の運動に参加しているの?」
と尋ねられたことがあるが、何もない。つけているだけだ。
 
極端な言い方をすればつけるだけで何もしなくていい。
しかし国民の多くがこのバッジをつけたらどうだろう?
国民が一貫となって関心をもって拉致は許さないんだ。
絶対に生きて故郷の親のもとに返すんだという
気持ち表明すれば、
首相の発言力は強大なものとなり
解決に向けた後押しとなることは確かだ。
 
強いて言うならば上に記した通り、身近な人が未遂とはいえ拉致の被害に
遭っているからだ。
北朝鮮による拉致は決して他人事では無い。
 
被害者家族の横田夫妻はすっかり年をとった。
一刻も早く会わせてほしいと願っている。高齢になりながらも
全国の集会等に参加する横田夫妻の表情を見る度に
心を切り裂かれたような気持ちになる。
 
平成14年の小泉首相訪朝で金正日は拉致という国家犯罪をを正式に認めた。
それ以前に社民党の土井は「拉致は無い」と断言してしまった。
社民党は未だ言及どころか謝罪訂正が無い。現在与党の一部議員しか
ブルーリボンをつけていないが、拉致事件は
超党派で言及し、早急に
被害者救出にあたるべきだ。
拉致は北朝鮮による重大な国家犯罪であり
現在進行形による、一刻も早い解決が必要な人権侵害だ。
 
生きている人間を救出する。
これは最優先事項だ。
 
それには何より、多くの国民が関心を持つことが大切だと感じている。

2015年4月19日 (日)

ジェリーフィッシュレイクの危機

ジェリーフィッシュレイク

ジェリーフィッシュレイク

 
ジェリーフィッシュレイクはパラオの
世界遺産ロックアイランドのマカルカル島に存在する
汽水湖で
その極めて限られた自然条件から、発生した二種類のクラゲが
棲息している。ゴールデン・マスティギアスと、オーレリアムーン
ジェリーフィッシュであるが、いずれの
のクラゲは刺す力を持っていない。
 

ジェリーフィッシュレイク


深さ30メートルの湖のおよそ15メートル以下は猛毒が湧き出ているが
(無酸素層における硫化水素)水面を泳ぐぶんには害はない。湖は
地下三か所のトンネルで海と繋がり、塩分濃度を保っている。この猛毒域に
存在するトンネルのため、古代より生物が海と湖をと一切行き来すること
なく現在に至る。
クラゲは太陽を求めて湖内を回遊するので天候によって
群れの位置が異なる。
 
ジェリーフィッシュレイクと同様の条件でクラゲの生息する汽水湖が
ロックアイランド内に2ヶ所存在するが自然保護の名目から、観光客が
訪れることが可能なのはここのみである。
  

ジェリーフィッシュレイク

▲水面に浮かぶクラゲの群れが確認できる。画面上中央はシュノーケリングで
 観察を楽しむ観光客

 
ジェリーシッシュレイクの危機
ジェリーフィッシュレイクは
1982年にナショナルグラフィックという雑誌で紹介されて以来有名になり
1985年から一般的な観光地となった。
 
ジャリーフィッシュレイクを訪れるには
専用のパーミッド(許可証)が必要となる。
10年前は無料であったが2015年現在、多くの観光客が殺到している
ことから、100ドルを支払う必要がある。
ツアーに参加申し込みをすればツアー会社が用意してくれる。
 
特に近年は中国、韓国からの多くの観光客が訪れるようになり
湖の水質悪化が懸念されている。私がみたところ
ジャリーフィッシュへ向かう検問所前の桟橋には

桟橋が足りないくらいの観光客が、湖への順番待ちで
何十人~百人くらい並んでいる。その光景は

ゾッとする。数年前は多くても10数名程度であった。
 
クラゲは非常にもろいのでフィンで触れるだけでも死んでしまう。
これにパラオ側は危機感を募らせて値上げに踏み切ったのだろうが
観光客は増える一方であった。世界でここだけなのだから金を払っても
見たいという欲求であろう。しかし制限しないと貴重な生態系が

失われてしまう。対策は急務である。
 

ジェリーフィッシュレイク

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

パラオの伝説巨大シャコ貝

イノキアイランドとガルメアウス島との間にある
シュノーケリングポイントをクラムシティと称する。
 
ここには我々人間の時代を遥か凌駕する推定年齢100~200歳とも
いわれる直系1~2メートルの
巨大シャコ貝が棲んでおり、その貝が
閉じる迫力ある様子などをシュノーケリングで
観察することができる。
 

Koed0027

  
シャコガイはいくつか種類があるが、ダイビングやシュノーケリング中に
何度も目にとまる、水底で青い光を放つシャコ貝の姿は美しく

神秘的である。ストーリーボードにも描かれパラオでは最も身近な存在
ともいえる。神話に登場するほか、刺身で食しても美味である。
現地語でも同様に「サシミ」と呼ぶ。
  
パラオ神話ではパラオ諸島は巨大シャコ貝から誕生したウアブ
がアンガウルで育ち、子供の姿のままみるみるうちに巨大化し
それを恐れた島民が焼き殺してしまい、前進に炎を
ウアブはアンガウル以北に
倒れ込んだ。そのとき飛び散った体のあちこちがペリリューから
ロックアイランドの数々の島となり、上半身と頭は
バベルダオブ(パラオ本島)に姿を変えたと伝わっている。
 
ここに棲むあまりに巨大化し動けなくなったシャコ貝ははるか古代より
パラオの海を見守ってきたことであろう。ここクラムシティではそんな歴史
の一端に感じることができる。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2015年3月30日 (月)

篠原弘道准尉 戦闘機パイロットデータベース

篠原弘道准尉

篠原 弘道(しのはら こうどう)准尉 
 
篠原弘道准尉 栃木県宇都宮市出身 大正二年8月15日生まれ
戦闘機搭乗員 帝国陸軍航空隊無双のトップエースである。 
 
無双のエース
篠原はノモンハンで勇猛果敢な空戦を展開し、一躍陸軍のエースとなった。
総撃墜数は58機。一日でソ連機、11機を撃墜した記録があり、ドイツ空軍の
エーリヒ・ハルトマンを除けば、世界でもこれを越える記録は現在まで存在しない。
また、太平洋戦争を含めても篠原を超えるスコアを記録したパイロットは
陸海軍ともに存在せず不動の記録となっている。
 
生い立ち~戦闘機搭乗員へ
栃木県の農家で生まれ育った篠原は下野中学校を卒業後、
昭和6年、陸軍に現役志願兵として入隊。騎兵27連隊に配属された
(篠原は馬が好きだった)のち昭和8年には航空兵に転科して
所沢飛行学校に入校。翌昭和9年に戦闘機操縦者となった。
昭和13年には叩き上げで准尉へ進級。初陣では既に6年の飛行経験が
あった。のちに「実際の空中戦よりも訓練のほうが遥かに辛かった」と述べて
いることからも、その強さがうかがえる。
 
「稲妻部隊」飛行第11戦隊へ
昭和14年5月、篠原はノモンハンにおいて飛行第11戦隊第一中隊に所属。
愛機、九七式戦闘機の垂直尾翼に白い稲妻を描き、稲妻部隊と称した。
 
初陣
5月27日、実戦経験こそなかったものの、既に6年の飛行経験のあった
篠原は初陣で早くもI-16、4機を撃墜した。それまで猛訓練に堪えてきた
篠原ははじめて敵機を撃墜したさいの感想を
「永いこと一生懸命の猛訓練も僅か5、6秒に備えるためだ」
と記している。しかし1機撃墜後、予想以上に敵を深追いし、気付けば
ハルハ河から数十キロ入った外蒙領上空に差し掛かっており
自分めがけて襲ってくる敵機は11機、しかし不思議と肝が据わり
思い切り迫り撃ちまくると2機、3機と火を噴いて落ちていった。
4機目は遁走にかかった。
 
基地へ帰還した篠原の機体風防には射抜かれた跡があり
これが頭を後ろにもたせていたら即死していた位置にあった。
 
曰くつきの敵機
5月28日の空戦ではLZ機を逆落としで撃墜、一度基地へ帰還したのち
再度出撃、今度はアブダラ湖上空で、I-15の編隊60機と会敵。
5機を撃墜した。この5機目が曰くつきで敵の司令官機であったのだが
50メートル後方まで迫っていた篠原機を引き離そうともがいたところ
操縦を誤って地上に激突した。篠原は大破した敵機の近くに着陸すると
プロペラと将校のピストルを戦利品として持って帰り、自身の
テントの一隅に無造作に立てかけた。
 
ソ連機大編隊100機以上に対し単機殴り込み
篠原の戦法はシンプルかつ果敢で、ソ連機大編隊100機以上に対し
単機殴り込みをかけ、追い散らし一機ずつ確実に撃墜するというものであった。
 
マスコミで大々的に報じられ、戦意高揚の立役者となる
篠原はその迫力ある空戦の模様を日記に書き残しており、その内容は
『国境大空中戦』と題して、新聞連載(昭和14年、大阪朝日新聞、昭和16年
には単行本化)されたほか、数々の新聞、ラジオ等のマスコミも大々的に
篠原の戦果を報じた。その結果
「東洋のリヒトホーフェン」、「ホロンバイルの荒鷲」、「世界の鬼篠原」「三羽烏」
など数々の呼び名が生み出され、篠原は一躍戦意高揚の立役者となった。
 
落ち行く敵機に「一抹の哀れさを感じるのは武士の情けでは」
当時、ノモンハンで戦う一部の搭乗員は
「ソ連機の搭乗員は飛行機の付属品、恐るるに足らず」などと揶揄嘲笑。
マスコミもこれを煽りに煽り、報じた。対する篠原の考えは
「落ちてゆく敵機を見ると一抹の哀れさを感じるのは武士の情けでは」
と敵兵に対する哀悼のコメントを残している。
 

ホロンバイル平原

▲戦域となった内蒙古・ホロンバイルの大平原
 
ホロンバイルの戦い
ホロンバイル平原におけるノモンハン航空戦はのちの
太平洋戦線とは全く異なった戦闘が展開された。
戦域はいずれも平原で飛行場設営の必要が無く
どこでも離着陸が可能であった。そのため便宜上、付近の地名を
とって飛行場ということにした。戦闘機が敵前に着陸し戦車を含む
地上の蒙古ソ連軍と白兵戦を展開するという場面もあった。
それを象徴するエピソードが残っている。 
 
奇跡の二重救出劇~渾身の戦友愛
7月25日、この日、野口戦隊長率いる飛行第十一戦隊は
ソ連軍I-16戦闘機40機と会敵。第一中隊の篠原も戦闘に加わり
30分の空戦の末、敵機を撃退したが、自らも燃料タンクに被弾し
機体は炎上。この様子を見ていた僚機は、煙を噴いて降下する
機体に一條の白い線が認められたことから「篠原准尉だ!」と
確信した。篠原は懸命に機体を操縦し不時着したが、そこは
敵陣只中であった。ソ連軍の機甲部隊のベーテー中型戦車11輌が
篠原へ迫り、武運尽きたかと思われた刹那、これを上空で見ていた
青柳豊曹長が勇敢にも急降下し篠原機の側へ着陸を強行。
救出に向かった。しかし青柳機は敵戦車の機銃を受けて炎上し
自身も腰に銃弾を受けてしまった。今度こそ最期と覚悟したところ
さらに二機の戦闘機が強行着陸した。岩瀬孝一曹長と鈴木栄作曹長で
ある。戦車との距離は250メートルを切り、頭上を銃弾がかすめてゆく中
駆け寄った岩瀬曹長は青柳曹長と篠原准尉の二人を機体の後部胴体に
収容すると、銃弾の中、三名を乗せた重い機は滑走しようやく舞い上がった。

 
上空の友軍機は篠原機と青柳機の鹵獲を阻止せんと射撃を行い
炎上破壊した。かくして機体を失ったものの
篠原は奇跡の生還を果たした。
 
地上と空中でのギャップ
闘志むき出しの戦法とは変わって、飛行機を降りた篠原は
戦友たちの中でも大人しい性格であった。
7月25日の戦闘で愛機を失った折、
「新しいやつを貰ってかえっていいじゃありませんか」という戦友に対し篠原は
「それもそうだが、古い女房に死別したようなもんですよ」と
たった一度、寂しげな顔を見せた。
 
確実な撃墜にこだわった篠原
篠原は撃墜する毎、機体に撃墜マークを描き込んでいたが
相次ぐ出撃に、描込みが追い付かないでいた。星の数が多いので
「ソ連機みたいになってしまったよ」と笑った。そして
「自分の記録に不確実は一機もない。自分の確認法は空中の場合は火災を
発してそのまま落下したものということにしている」と記している。
疑念を持つ将校も居たが、何より最も身近な戦友は皆、篠原の戦果を認めていた。

 
ある日、空戦から帰還し、戦果報告を受けた野口戦隊長は篠原の主張する
撃墜地点が空戦域とかけ離れていることに疑問を感じ、問いただしたところ
篠原は「証拠品を取ってきます」といってふたたび飛び立つと、しばらくして
から撃墜した敵機の破片とソ連兵の焼け焦げた長靴の一部を持ち帰って
くると「こいつであります!」と突きつけたと野口戦隊長は回想している。
 
最後の出撃・戦死
撃墜58機というスコアはわずか三ヶ月間に達成したものである。
連日の出撃と勇猛果敢な戦法、裏を返せば非常にリスクの高い
戦いを展開していた篠原である。疲労もあり、最後の出撃間際には
 
「少し目が悪くなって射撃練習がうまくいかん。第一線を退くかな」
と漏らしており、それでも飛び立った。篠原最後の出撃は
昭和14年8月27日、爆撃機護衛中に3機を撃墜したが
自らも燃料タンクに被弾し炎上、
モホレヒ湖付近に墜落、戦死した。
満26歳であった。戦死後准尉から少尉に特進。

篠原弘道

▲篠原の戦死を伝える記事。昭和14年8月朝日新聞
 

篠原の故郷を訪ねて
私は、篠原弘道の直近の甥が近所に住んでいるので会いに行った。
現在でも大きな農家だ。(篠原少尉の生家は現在も宇都宮市にある)
しかし、甥の話に
よれば篠原は生涯独身であったため直系の遺族は
存在せず
墓もないという。孤独である。もし妻や子があれば、運命もまた
違ったものになったのだろうか。陸軍のトップエースと雖も遺品は
ほとんど残っていない。
 
  
直近の甥によれば弘道は「こうどう」と読む
多くの書物やネットでは「ひろみち」と記されているが、誤りである。
 
近所の住民に尋ねると
「ああ、弘道(こうどう)さんね。あのノモンハンで何十機か落とした」
と少し知っていたが、残念ながら記憶は着実に風化しつつある。
 

▲篠原の活躍を大々的に伝える記事。昭和14年7月読売新聞。篠原はこの一ヶ月後に戦死
 
 

なお、海軍のエース赤松貞明より3つほど年下。
岩本徹三、坂井三郎はともに3つ年上。
 
篠原少尉を後世に伝える
ところで、SFアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト2199」に
篠原弘樹というキャラクターが戦闘機搭乗員役で登場する。
栃木県出身という設定。篠原弘道少尉をモデルにしたのだろうか
これは素直に嬉しい。ブラックタイガー隊の加藤もそうだけれども。
少しでも篠原が生きた証を残してくれたら嬉しい。
  
最後までご覧くださりありがとうございました。
記事は調査継続中につき順次加筆訂正を行います。
 
 
平成29年9月19日追記
宇都宮市内にお墓がありました。
篠原弘道さんのお墓です。
詳しいことは、整理して更新します。

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▲宇都宮市内某所にある篠原弘道准尉(少尉)のお墓
 

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ホロンバイルの荒鷲(入江徳郎)

日本陸軍戦闘機隊付エース列伝(酣燈社)

日本陸軍航空隊のエース(ヘンリーサカイダ)

蒼空戦線 太平洋日米航空決戦録(小林たけし)

陸海軍航空隊蒼天録(野原茂)

Photo_2

 

参考・出典
篠原弘道少尉遺族への聞き取り調査ノート(篠原直人)
防衛省防衛研究所資料室 飛行第十一戦隊戦闘詳報
『日本陸軍戦闘機隊付エース列伝』(酣燈社)44頁

『日本陸軍航空隊のエース』(ヘンリーサカイダ)17頁
『陸海軍航空隊蒼天録』(野原茂)25頁
朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞(昭和十四年八月)
 
篠原准尉の日記が掲載された本
『ホロンバイルの荒鷲』(入江徳郎)昭和16年11月発行
 
篠原准尉が登場する作品
漫画『蒼空戦線 太平洋日米航空決戦録』(小林たけし)
 
ノモンハン航空戦陸軍飛行隊の活躍をもとに製作された曲
『空の勇士』昭和14年製作、翌15年にレコード5社から発売。
「恩賜の煙草をいただいて」の歌詞ではじまる戦時歌謡曲・または軍歌。
大槻一郎作詞、蔵野今春作曲
 
篠原弘樹として登場する作品(SF)
アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト2199』

2015年3月22日 (日)

最後の戦車兵 ルソンの戦い

「駅に着いたら電話をください。車で迎えに行きますから」
 
電話口でそう語るこの方、昨年の秋、あるきっかけで出会った。
御年94歳。戦争中は戦車の操縦士をしていたという。
「わし以外はみんな死んだ」
戦車兵としての自身の経験を淡々と語るが、
その内容は熾烈であった。
   
氏は戦車第二師団第十連隊所属し
操縦士を経て、のちに射撃の腕が特に優秀だったので師団の参謀長
から認められ、中隊長車の射撃手となった。九七式戦車に乗っていたという。
 
昭和20年1月、フィリピンルソン島において
マッカーサー率いる米軍と対峙。
連隊の戦車は全て米シャーマンによって壊滅したが
擱座した戦車から機関銃を外して白兵戦を展開し
終戦まで徹底抗戦したという。戦車連隊の戦友800名のうち生還
できたのが50名。そして同師団の11連隊の戦友は占守島へ赴き
ソビエト軍による本土進攻を阻止していた。
 
私はこの出会いを通じて記録を残すことにした。
とはいっても私は戦車についての知識がほとんどない。
「戦車のイロハを改めて学んできます」
ということで、またお会いする約束をした。
 
また続きを整理しながら書く。

2015年3月17日 (火)

ある飛行兵の話(パラオ人の証言)

De

 
戦争中はいつもひもじい思いをしていました。 
そんなある日、私たちはガラルドの畑へ行きました。
すると、私たちの畑小屋に人の気配を感じました。
近付くと、そこに居たのは日本の飛行兵でした。
飛行兵は小屋の下で柱に家族の写真を立てかけて
それを眺めながら座り込んでいました。
 
私はバナナを持ってきて
「兵隊さん、バナナをどうぞ」と言いました。 すると兵隊さんは
「いや、いいですよ。私はもうだめだ。 私が食べればあなたたちの分がなくなる」
そう言って断りました。
 
私は家に帰ってそのことを家族に話しました。 
すると、今度は兄が小屋へ行ってもう一度 食べるよう言いました。 
それでも兵隊さんは食べなかった。
 
次の日、小屋へ行ったらもう
その兵隊さんの姿は ありませんでした。
傷ついた体で長い道を
歩いていったのでしょうか。
その後はどうなったかわかりません。
 
------------  

 
これはマルキョク出身で当時ガラルドにいたパラオ人
ニーナさんの話です。ニーナさんは日本統治時代を知る女性です。
もちろん日本語ベラベラなので、私は日本語でたくさんお話しをしました。
日本時代のことを良いこと悪いこと、たくさんお話ししてくれました。
今回はその中からひとつ紹介しました。
 
画像はインタビュー動画から切り取ったものなので
少し暗いです。すみません。私はこうして日本統治時代を知る
多くの年配パラオ人にインタビューして公開していないものが
たくさんあります。

2015年3月15日 (日)

戦艦武蔵のパラオ離脱

戦艦武蔵が話題になっているので、私はパラオで武蔵を目撃した
という人物にインタビューしたことがあるので資料と照らし
合わせながら少し書く。(ぜんぶは書ききれない)
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、遠くから見ていた。かき分けた

海水がサンゴ礁に乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「でかくてたまげたね。アラカベサンの山よりでかかった」

 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため
パラオは騒然とした。
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。連合艦隊司令部はコロールの
陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の海軍司令部に置かれた。
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。
 
「我々勤労奉仕団に混じって、飛行場作るのを手伝ってくれた」
 
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ滑走路を完成させるに至った。
これが現在のパラオ国際空港である。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との報せを
受けた連合艦隊福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると
大慌てで武蔵以下艦隊を直ちにパラオ港外へ待避させることを下令。
 
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで
1分40秒かかる。これが全速航行時ならば 1.4キロも走って
しまう計算になる。
 
パラオ・コロール泊地から外洋に出るには唯一「西水道」
を経由せねばならない。最少幅110メートル、8.5キロに
及ぶ西水道は出口付近で直角に折れ、複雑かつ急速な潮流に
より通行を困難なものにした。満潮時の他は絶対に離脱不可能である。
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、かき分けた海水がサンゴ礁に
乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「武蔵が転進した後、コロールでは31日の夜、大型の飛行機の音が聞こえた。
確か2機だったと思う。(※記録では3機目が着水しているが)低いうなるような
音だった。

一旦、静まり返った後、夜明け前に離陸していった」
 
これは二式大艇のエンジン音だったと推定される。
のちの海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)である。

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。

中川大佐と村井少将と伊藤海軍少将

村井権治郎少将、ペリリューへ
ペリリュー島守備隊の総司令官が陸軍の中川州男大佐であったのは

周知であるが、中川大佐より階級が上の村井権治郎少将
追ってペリリュー島へ派遣される。
 
通例であれば上級の村井少将が指揮権を掌握するが
ペリリュー島の戦いにおいては中川大佐が最高司令官として
戦うことを決定し、師団の方針とした。
 
これが疑問だと尋ねられることが多いので
村井少将がペリリュー島でどのような役割を担ったのか、
ここで述べたい。師団の方針は次のようなものだった。
 
「村井少将を戦術顧問としてペリリュー島へ派遣する。
指揮権は中川大佐が持ち、村井少将はあくまで中川大佐の
補佐・相談役に徹する」
 
中川大佐は国際派として知られ陸軍大学を出たばかりで、
その頭脳と有能さは陸軍でも屈指であった。
十四師団長の井上貞衛中将はこれをよく知っており
激戦が予想されるであろうペリリュー島へ
中川大佐を派遣することで最大の働きを期待したのだった。
 
中川大佐はゆくゆくは将官として活躍が望まれていたが
それ以前に南方への出征、ペリリューでの玉砕した。
 
要塞構築の専門家・村井少将 
片や、村井少将は要塞構築の専門家であったので
ペリリュー島の陣地構築において手腕を発揮した。
 
中川大佐はもとより司令官というよりも、参謀タイプであり
大佐がほとんど口を開かない寡黙な人物だったのに対し、
それよりだいぶ年配の村井少将は人情味あふれる明るい
性格であったと
伝わっている。二人でちょうとバランスが取れて
いたとも取れるが、
このあたりのやり取りは『天皇の島』に
詳しく書いてあるので
見てほしい。
 
海軍への牽制か?陸海軍の対立
特筆すべきは、村井少将が後から派遣されたという点である。
少将が要塞構築の専門家であるなら、なぜ最初から中川大佐と
共にペリリュー島に渡らなかったのだろう。
 
元来パラオ・ペリリュー島は海軍の島であるため
海軍の権限が非常に大きく、東洋一と称される
飛行場を有した。航空隊要員(整備兵)や
建設設営隊が多くを占め、陸戦部隊をほとんど持たなかった。
 
僅かに海軍の陸戦隊(根拠地隊)が高角砲等を備え守備を担っていたが
米軍パラオ進攻の公算大と判断した大本営は
ペリリュー島守備の必要性を急務とし、大陸から
陸軍部隊(14師団)を急遽、ペリリューへ派遣したのが昭和19年4月。
戦いの始まるわずか半年前であった。
 
海軍航空隊の壊滅と陸軍部隊の到着
3月31日のパラオ大空襲でペリリュー島の海軍航空隊は壊滅し
補充された航空隊も徐々に消耗。
マリアナ沖海戦後にはほとんど全滅し、
以後、フィリピン、本土決戦に備えて、戦線の後退、および航空機の
温存に伴いパラオ飛行場は事実上放棄された。
 
一方、ペリリュー島へ到着した陸軍はこの間、大山麓を中心に広がる
山岳地形を
利用し、大変な努力の末、500~700あまりにおよぶ
洞窟陣地から構成される複郭陣地を構築し決戦に備えた。
 
パラオ地区の最高司令官は誰か?
ペリリュー島を含むパラオ地区の最高司令官は
海軍第30根拠地隊司令の伊藤賢三海軍少将
ペリリュー島は西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵海軍大佐が最高階級であった。
 
(西カロリン航空隊が結成された頃には稼働する航空機は
ほとんど残っておらず、西カロリン航空隊という部隊名称は
ほとんど名目上といったところである)
 
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ
この時点でペリリュー島には
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ。
 
そこで陸軍は村井少将のペリリュー派遣で、中川大佐の後ろ盾とし
海軍への発言力を強める狙いもあったと充分に考えられる。
陸軍は陣地構築のための資材を海軍に提供してもらえず苦労した。
陸軍兵士の回想によれば「何度も何度も海軍も頭を下げてお願いして
建設資材を提供してもらった」と記録されている。
 
陸軍と海軍壕の違い
陸軍の陣地と海軍の陣地を比べてみれば
現在でも違いがはっきりわかる。陸軍の陣地はツルハシなどつかった
手掘りで、
急ごしらえの壕だったのに対し、海軍はもとより立派な壕を
有していた。
 
代表的なところでいえば、水戸山陣地はもとより頑強な海軍壕で
南興村付近のトンネル構築のプロ(海軍軍属)が構築した陣地であった。
天井も高く敷板が敷いてあり、
発電機を備え、空調設備(エアコン)まで
あったという
証言もある。
 
陸軍は大山を中心とする複郭陣地で、すべて急造の天然洞窟を利用するか
手掘りした壕である。
戦術や兵隊の指揮など、関係する要因は他にも
あるので
一概には言えないが、それにしても海軍壕は早くに陥落し
陸軍壕は玉砕まで長く持ちこたえた。皮肉な結果となった。
 
村井少将と中川大佐の意見対立
籠城戦の継続に伴い、村井少将と中川大佐で
戦略意見の対立が目立つようになる。
 
中川大佐は一日でも長く戦って
米軍の進攻を阻止するという信念を持っていた。であるから
「各々の命は大切に」し、持久戦に徹せよと部下に命じた。
 
2014年、ペリリュー戦がフジテレビで地上波のドラマになった。
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』という題目だったが
  
この中川大佐の提唱した「命を大切に」という願いは本来であれば
戦略上の概念であったのだが、何故か現代風にねじ曲げられて
「個人個人の命はかけがえのない尊い大切なもの。生きて日本に帰ろう」
という価値観に塗り替えられて放送されてしまった。残念でならない。
 
ここで倫理上どっちが正しいか、という議論はさておき
まがりなりにもペリリュー戦の歴史をなぞったドラマであるなら
極めて不正確で誤った描写だと言いたい。少し脱線した。
 
玉砕を求める村井少将
これに対し、村井少将の立案した作戦は
飛行場付近の米軍陣地に突撃をかけ、玉砕するというものであった。
 
水が無いのである。
村井少将水筒のエピソードについて書く。
10月初頃、ペリリュー戦は中盤となり既に守備隊は籠城戦に移行。
『天皇の島』では村井少将と部下のやりとりを次のように描写している。
村井少将の人柄を感じるエピソードだ。以下『天皇の島』136頁より
 
----------
壕内は静かだった。敵のマイク放送も聞こえない。
村井少将は軍刀を抱きかかえ、岩壁にもたれて眼を閉じていた。
栗原曹長は拳銃の手入れをしていたが、そういえば
村井少将の拳銃の調子が悪く、修理するつもりだったのが
敵上陸にまぎれて忘れていたことを思い出した。
 
「閣下、閣下、拳銃の手入れを致しますから」
そっとひざをゆすると村井少将は「おう、おう」と
相変わらずのニコニコ顔で目を覚ましたが首を振った。

「いや、栗原、わしには拳銃はいらん。使うことも
ないじゃろ。それよりも喉が渇いた。水を一杯くれんか」
「水ですか」と、栗原曹長は当惑げに岩壁にたてかけた水筒を振り返った。
水には難儀をしていた。もともとペリリュー島には
水源地が少ない。
 
中央台地群で利用できるのは天山の西、
第二大隊第四中隊の
守備範囲で第四中隊長・川又広中尉の名をとった
「川又水源地」と
南征山の東にある池ぐらいのものであった。
だが、川又水源地は既に
敵中にあり、一文字壕から間近に見える
池も近付きにくい。夜、敵の照明弾、
サーチライトをぬって
水を汲みに行くのだが、ときに敵弾に倒れる。
 
「水汲みで死ぬのも立派な戦死だ」と中川大佐ははげましたが
やはり小銃片手に死ぬのと水筒を抱いて射殺されるのでは
兵の気迫は異なる。自然に水汲み志願者は減り、今では毎日訪れる
スコールを砲弾の薬莢に受け、あるいは
洞窟の岩壁にしたたり落ちる
わき水を水筒にためて
喉の渇きを凌いでいる状態だった。
 
「おう、こりゃあすまんことをいうた。あとでいい。あとで・・・」
栗原曹長の様子に村井少将は右手をあおぐようにふりながらそう言った。
しかし老齢の少将の望みである。洞穴内にぼんやりとうずくまり
あるいは横になっていた兵たちがあちらこちらで起き上がり水筒を振り
飯盒を鳴らして水を集め始めた。
 
「いいんだ。もういいんだ」
少将からみれば兵たちはわが息子にひとしい若さである。
その子供たちがとぼしい水を差しだす。少将は声をつまらせ、夢中で
「いい、いい、お前、飲め」と水筒を押し戻し
飯盒をおさえた。
 
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引用おわり
 
「最後に水が飲めるなら死んでもいい」
  
いずれにしても死ぬのだから、部下の兵士をこれ以上
もう苦しませたくないというのが村井少将の心持であろう。
これを拒否しなければならない中川大佐の心中
辛いものであったに違いない。
 
ペリリュー戦終結~ラストコマンダーは誰か? 
11月24日、中川大佐と村井少将は自決し
日本軍守備隊による組織的戦闘は終結。
米軍はのちにペリリュー島占領を宣言する。
 
ここで米軍は日本軍の最高指揮官の遺体を確認するのが
通例であるが、ペリリュー島を陥落させた米陸軍81師団は
当初、伊藤海軍中将をペリリュー島の最高指揮官と見込んでおり
遺体の捜索にあたったが、発見に至らず、のちに
中川大佐と村井少将が最高指揮官であることが
捕虜からもたらされた情報により判明、結論付けられた。
 
それもそのはずで伊藤賢三海軍中将は
コロール(あるいはバベルダオブ)から指揮を行っていたのである。
ペリリュー島で海軍応急陸戦隊を率いたのは西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵大佐で、玉砕している。
 
パラオ本島も玉砕の準備
誤解を招かないよう書いておく。
当然ながら、井上師団長をはじめ陸軍14師団主力と伊藤海軍中将も
ペリリュー島陥落の後は、コロール・パラオで決戦があるものと覚悟して
いたからパラオ本島の防備を
厳とし、死ぬ覚悟はできていた。
 
ペリリュー・アンガウルで大痛手を被った米軍は結果としてパラオ本島の
攻略を断念し
終戦まで兵糧攻めに徹することになるが、この間
バベルダオブとコロールは米軍の
執拗な空襲によって戦死者、
病死・餓死者が続出し、その合計は4800名以上となった。
(犠牲者の多くは昭和21年の復員中にも含まれる)
 

陸軍の井上師団長は昭和20年終戦後、米護衛駆逐艦「アミック」を
多田参謀長とともに訪れ、降伏文書に署名、その後は
グアム軍事法廷でいわゆるBC級戦犯の容疑者
とされ、死刑判決を受けた。(ただし判決は戦勝国による一方的な
もので必ずしも公正無私でないことを断っておく)
井上中将はのち終身刑に減刑、釈放され
復員したが、昭和36年10月、
病により死去した。
 
伊藤海軍中将は生きて終戦を迎えたようだが
その後の消息は不明である。

2015年3月11日 (水)

3.11 そのときパラオでは

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私は日本人としてパラオの方々に心からお礼を申し上げたいです。
2011年3月11日、東日本大震災当時、パラオに居りました。
 
コロールの街頭では子供たちが募金を呼び掛けてくれていました。
そして行きあうパラオ人の誰もが、私を日本人と知るなり
「あなたの家族は大丈夫か?」と尋ねてくれました。
 
官庁はもちろん、民間施設もほとんど全てがしばらくの間、
街中が半旗でした。

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私は計画停電が終了したころ、日本に帰ってきたので
その頃の苦労を知らず、地震の恐怖も体験していませんでした。
私の出来ることといえば、なんだろうと考えました。
そうだ、このブログを通じて伝えることだ。 
 
残念なことに、これらの善意はほとんど日本では報道されることは
ありませんでした。だからここで一人でも多くの日本人に
パラオ人の善意を伝えたいのです。
  
日本人の多くはパラオという国がどこにあるか知らない。
でもパラオ人は全員日本を知っている。パラオと日本は
最も大切な友人であり歴史上の盟友でもあるから。
 
パラオの人口は一万人強ですが、国民一人当たりに占める寄付金の金額は
世界屈指でした。100ドル札を躊躇なく募金箱に入れてくれるのです。
だから、日本政府は貴重なお金を無駄にしてはいけないと感じました。 
 
私の故郷は福島の隣、栃木です。
内陸故に津波被害はありませんでしたが、地震で死者が出ましたし
私の実家も一部が崩れました。
 
ですが、多くのパラオ人が声をかけてくださって
「家族は大丈夫か?」との言ってくださった。その心遣いに
本当に涙が出ました。改めて感謝申し上げます。
 
※この写真を撮ったのは3月25日です。

2015年3月 8日 (日)

アンガウル玉砕戦

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「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ。自分だけ死に損なって
戦友にどんな顔をしたらいいか・・・申し訳なくてね。」
 
パラオ・ペリリュー・アンガウルの玉砕戦で生還した
倉田洋二氏は語る。
 
倉田氏と私は、パラオが注目される以前から
個人的な付き合いをさせて頂いていたが、
今までは倉田氏本人に迷惑がかかると思い、ほとんど
書かなかった。しかし今年こそ出すべきと思って少しずつ思い出や
やってきたことを書いていこうと思う。倉田氏との
思い出は、とにかくたくさんありすぎて
書ききれないので、まずは概要だけ記す。

多くはビールを飲みながら倉田氏本人から私が直接聞いた話なので、
本には載っていない。取材とよべるものでもないので荒削りで申し訳ない。
 
倉田氏が徴兵後配属されたのはパラオ・アンガウル島。ペリリュー島の南
10kmに位置する島は、ペリリューと同様の激戦地で
後藤丑雄少佐率いる宇都宮五十九連隊歩兵一個大隊(第一大隊)と
兵站あわせておよそ1200名が守備、米一個師団を相手に
一ヶ月間もの間、抗戦を続け玉砕した。生還者は原則いないという概念で
考えてよいが、負傷、最後の突撃に参加できず、生き残った兵士は50名である。
 
倉田氏は昭和19年、パラオ・南洋庁勤務中に現地召集を受け
陸軍第14師団(照)五十九連隊第一大隊、日野中尉指揮する
砲兵隊に配属、同年9月17日の上陸戦でアンガウル島日野中隊は
47mm速射砲を構え、上陸進攻する米軍と対峙した。
 
「死ぬのは怖くなかったよ。とにかく一生懸命だったからね」
 
アンガウル島に上陸したのは米陸軍第81師団で、上陸後も
複郭陣地に籠城する守備隊に苦戦を強いられた。
 
狭い山道を先鋒部隊である米戦車群は一列で進撃するほかなく、
倉田氏所属の日野砲兵隊はその先頭車両に狙いを定め撃った。
先頭車両を擱座され、さらに後部の車両を撃破された米戦車隊と
随行歩兵は行き場を無くし大混乱に陥った。
 
「最初は互角の戦いができたよ。LVT(水陸両用戦車)は装甲が薄いから
簡単に破壊できた。M4戦車はそれよりかは少し頑丈だったけど
徹甲弾を打ち込んで撃破できた。むこうも身動きが取れないから
撃った弾はほとんど命中した。」
 

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▲倉田氏が実際に使っていたと推定される47ミリ速射砲。アンガウル島西港付近。
 

「だけど弾は限りあるから、なくなったらおしまいだ」
 
中隊は弾を撃ち尽くすと、速射砲を捨てて複郭陣地の奥深くへ
後退して徹底抗戦の構えを取った。険しい山岳地形を活用し、
狙撃、手榴弾で戦った。すでに中隊は散開し生き残った兵士で
最後の一兵まで戦う覚悟であった。
 
アンガウルの籠城戦では水の確保が最重要であり、
水を求めて青池(サロメ湖)まで決死隊で下らねばならない。
米軍との直接対峙では優位性を保ったが、この水汲みで戦死した者が
多かった。また生き残った兵士で夜間斬込隊を編成し、ほとんどは
生きて帰らなかった。
 
「ジャングルの中で一列になって進んだんだけど、上官が、
倉田、進まんか!進まんか!といってケツを叩くんだけれども
進まんかと言われても、前が進まないんだからしょうがないんだ」
 
10月中頃、倉田氏は迫撃砲を受け、半身不随の重症、
身動きが取れなくなった。後藤大隊長は
動けるもの(およそ150名)を集め、最後の訓示ののち
敵陣に最後の突撃をし、玉砕した。これでアンガウル島における
組織的戦闘は集結し、米軍による占領が宣言された。
 
関連記事
後藤大隊長の最期
 
倉田氏はその後、壕内で一ヶ月間身動きが取れず、
それでも生存者数名で陣地の死守を遂行しつつあった。
11月3日、米兵が戦利品を探しにやってきたところを
発見されたが、その米兵は生き残っていた日本兵に驚き
逃げ出した。
 
まもなく米兵は仲間を引き連れ掃討戦にやってきた。
戦友の高木上等兵が手榴弾戦の末、戦死した。
「下園、手榴弾をくれ!」
絶叫した高木上等兵の最後の言葉が今も忘れられないという。
 
正月を迎える。
すでにアンガウル戦終結から2jヶ月。
「いつか連合艦隊が援軍にくるから」と本気で信じていた。
パパイヤの根やヤモリ、米軍からかっぱらった食糧で食いつなぐも、
栄養失調になりつつあり餓死は時間の問題であった。
アンガウルからペリリューへ泳いで渡ることを決断。
共に居た沖縄の兵士が山原出身で泳げなかったため、
筏を作り、数名で夜の闇をついて脱出を試みたが
アンガウル海峡の潮の流れは速い。やがて力尽きて
西港付近へ流し戻された。
 
ふたたび複郭陣地に籠城し、米軍の食料を奪うべく
夜間出撃。その際、歩哨線のアンテナ(鉄条網)に引っかかり
沖縄兵士二名と中山二等兵が戦死した。
 
倉田氏もいよいよ最後と観念したが、撃たれなかった。
米兵が物珍しげに集まってきた。米軍MPの尋問を受け、
ペリリュー島捕虜収容所へ送られる。ここで船坂軍曹と再開する。
下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等とも再会。
「倉田!生きていたのか!」と
たいそう驚いたという。ペリリューからヤップ、ウルシー、
グアム、ハワイ、米本土ポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経て
ウィスコンシン、アイオワのクラリンダー口外のP.Wキャンプへ入る。
終戦の後の昭和20年11月、横浜港に入り浦賀の
銃砲学校で復員した。
 
そしていまふたたび戦友の御霊を守るべく
倉田氏はパラオ島で暮らしている。
 
私はパラオが注目されるずっと前に現地の
倉田氏の自宅へ訪ねていき、初めて会って話をした。
そして幾度となくお世話になり現在に至る。
 
徒然なるままにまた、かけることは書ける範囲で書く。
 
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アンガウル島へ行こう

2015年3月 7日 (土)

ルパータス少将とペリリューの戦い

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▲9月22日ペリリュー島西において第一海兵師団長ルパータス少将(右)と
第三水陸両用軍団長ガイガー少将(左)

◆ウイリアム・ヘンリー・ルパータス少将
Major general William H. Rupertus
 
1889年11月14日生まれ ワシントンDC出身。
1944年9月 アメリカ第一海兵師団師団長
ペリリュー戦当時55歳。
 
◆米第一海兵師団副師団長時代
中国駐留から始まった30年を超える海兵隊のキャリアを持つ
ルパータスは第一海兵師団の副師団長としてガダルカナルの作戦を経験。
1943年のニューブリテン島攻略作戦では師団を勝利に導いた。
 
前、第一海兵師団師団長で、のち海兵隊総司令官ヴァンデグリフト大将の
個人的な友人であり 精力的で高い能力を買われ、師団が太平洋に向かう
船上で第一海兵師団副師団長に抜擢。 ヴァンデグリフは弟分の彼を
いつの日か海兵隊の司令官に抜擢するつもりであろうと 噂されていた。
 
◆部下からの評価
ルパータスは気分屋で部下に対する態度をころころ変えることから
その能力に対しては懐疑的であったと伝わっている。この気分者気質は
中国駐留時代に猩紅熱で妻と娘を亡くしたトラウマに起因しているのでは
ないかと考える者もいたが、いずれにせよ、この時点で 部下からの信頼が
厚いと言えるものではなかった。
 
一部の者は陰で彼をRupe the Stupe(馬鹿なルパータス)とか
Rupe the Dupe(間抜けなルパータス)と呼び捨てていた。
また別のものは彼がソロモン諸島攻略で受賞した海軍十字勲章や
グロスター岬上陸作戦で受賞した 殊勲十字勲章がそれに値する
活躍をしたと思えないと考えていた。
 
◆米第一海兵師団長へ昇格・ペリリュー島攻略作戦へ
ヴァンデグリフト大将の後を継いで第一海兵師団師団長へ昇格した
ルパータスはペリリュー島攻略作戦(ステイルメイト2作戦の一部)
に命じられる。
 
ガダルカナルに近い演習地パヴヴ島でペリリュー島攻略の模擬演習の折
アムトラックから飛び降りた際足首を骨折。完治しないまま
ペリリュー島へ出撃することとなった。
 
◆ルイス・チェスティ・プラー大佐とルパータス
このときルパータスは
ルイス・チェスティ・プラー大佐(第一海兵連隊長)の
テントを訪れ
次のように告げた。
 
「ルイス、今度のペリリューは君のためにお膳立てしたようなものだよ
うまくやれば将軍だ。もう一個海軍十字勲章をもらってそれに准将の
階級章も一緒にな」
 
この言葉に対し一個連隊の兵士の命を預かるプラーは不安を募らせた。
プラーが海兵隊に入隊したのは彼の連隊のほとんどの部下が
生まれる前の
1918年で三度の海軍十字勲章の受賞歴があった。
積極的、活力があり歯に衣着せぬもの言う性格でかつ疑問の余地が
ないほど勇敢であった。
彼の足にはガダルカナルで負傷したさい
日本軍の
弾丸の破片が刺さったままだった。彼はいかなる場においても
絶対に引かない男であると皆が信じていた。
そのプラーにしてもルパータスの楽観主義には不安を感じていた。
 
プラーはペリリュー戦当時45歳。勇猛果敢そのもので連隊長でありながら
ホワイトビーチ(オレンジビーチの北)の最前線で戦った。
攻撃は最大の防御と呼べるべく海兵隊を象徴する男であった。
プラーといえば次のようなエピソードが有名である。
はじめて新鋭兵器の火炎放射器を見たプラーは
「それで?銃剣はどこに着けるんだ?」と真剣な表情で尋ねたという。
 
プラーの連隊は最も戦死者が多かった。
ホワイトビーチに上陸したプラー率いる第一連隊およそ3000名のうち
1748名が戦死した。
 
橋頭堡を確保し、内陸部に進攻したさい、各小隊長の生き残りをカウントするよう
命じ、その報告を耳にし、生存者の多さにプラーは
「ふざけるな!野外学習のピクニックの点呼じゃねえぞ!」
と憤ったという。
 
アメリカ軍といえば人命を尊重すると思われがちであるが
こういった指揮官と部隊もあったのである。
 
ペリリュー戦における上陸戦橋頭堡の確保はプラーと第一連隊の
功績が大きいが、その代償はあまりにも大きいものだった。
最初からその不安は数値で裏付けされており通常、安全に上陸作戦を
敢行するためには
防御側が1に対して攻撃側に3の兵力が必要であると
言われていた。

ペリリュー上陸戦時において第一海兵師団の作戦兵力は
17490名、加えて増援要員として10994名がいたので
総員は28484名であった。単純に比較すれば3対1で理想的である。
ただしこれは表面的なもので
この28484名のうち、実際の戦闘歩兵は
9000名であった。
残りは近代的上陸作戦を支援するための専門要員であった。
 

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▲ルパータス少将(左)とロウ・ウォルト中佐(右)ペリリュー島前線指揮所において

 
◆「Three days Maybe Two」(2日か3日で終わる)
ルパータスはDデイ(上陸戦)前、
「次の戦いでは若干の死傷者は出るだろう」
と素直に認めたうえで「しかしつぎの作戦は短期間で終わるのは間違いない。
すぐに終わる。大変な戦いだが、素早く終わる」「三日間、もしかしたら2日かも
しれない」
「ぜひ、ペリリュー島の日本軍最高司令官のサムライ軍刀を自分の
ところへ持ってきてくれ」と話をしめくくった。
 
この言葉に参謀は「あれは本当に根拠があって話したのではない。
檄を飛ばしたにすぎない」
と当時を回想している。しかしルパータスの
楽観的な見通しは瞬く間に
師団に広まってしまった。
「三日、たぶん二日間。大変だがすぐ終わる」
 
◆海兵隊のプライドが崩壊した日・ペリリュー
またペリリュー島で多くの犠牲者を出した背景には
これに加え様々な要因が重なる。
第一海兵師団は海兵隊史上もっとも古い伝統の精鋭部隊で
2000年代の現在においても中東などで戦っている。
この第一海兵師団、そして海兵隊史上でも唯一
師団が全滅した例がペリリューの戦いである。アメリカ海兵隊が
全滅したのはあとにも先にもこれ一度きりだ。
 
海兵隊の作戦は海兵隊のプライドで
他部隊の支援を求めない。これが多くの犠牲を払う結果となった。
 
◆陸軍81師団の支援要請を断る
このとき第一海兵師団の後方に控えていた米陸軍第81師団もまた
精鋭であった、第一次大戦でフランスでの戦闘に参加した歴史を持つが
第二次大戦での経験はなかった。しかし装備も訓練も十分であり今回の
戦闘にも十分対応できるものと考えられた。
 
師団長はポール・ミュラー少将、51歳で第一次大戦のフランスで戦い、
銀星証を二度授与されていた。
後にダグラスマッカーサーも彼を
「素晴らしい人材」と評価した。
 
その陸軍の精鋭81師団の任務はペリリューが完全に制圧されたのちの
アンガウルの上陸であった。当初海軍はアンガウルを先に攻略するよう
主張したが、同島を攻撃中に
ペリリューへ援軍を送られる恐れがあったため
計画は撤回された。
 
ルパータスは第81師団が上陸部隊として洋上待機するのではなく
単なる海兵隊の予備部隊として後方待機するという
事実をすりかえる形で実現されることになってしまった。そして
ペリリュー島が確実に掌握されるまで81師団はアンガウル島を
攻撃しない点についても合意された。(実際には2日後の9月17日に
アンガウル上陸を決断するのだが)
  
◆ロイ・ガイガー少将とルパータス少将
ルパータスはペリリュー攻略に際してロイ・ガイガー少将に協力を求めた。
第三水陸両用軍団長・ロイ・ガイガー少将は
攻略作戦のころには
年齢が60歳近く。ルパータスとは階級が同じであったものの
指揮権は実質ルパータスが掌握した。
ガイガーの専門は航空作戦であったが大規模な陸上戦闘における指揮
についても一定の経験を持っていた。屈強な体格と
決して笑顔を見せないその鋭い眼光と常に手放さない
葉巻から、まさに海兵隊の中の海兵隊として畏敬の念を集めていた。
 
グアム攻略作戦がピークを迎えていた8月15日まで
ガイガーは自分が第三水陸両用軍団の指揮を取るとは予想せず、
今回の作戦について
グアム島やサイパン島での戦闘経験とは全く
異なるものであると判断しており、ルパータスの楽観主義は場違いでは
ないかと考えていた。
ガイガーはルパータスの支持者ではなかったが
差し当たって口を挟むのは控えた。作戦は第三水陸両用軍団が了承し
海兵隊司令部と
正式作戦となった。  
 

03_2

▲左からウォルト中佐、ルパータス少将、ガイガー少将。ペリリュー島前線指揮所において
 

◆予想しなかった持久戦
ガダルカナル、サイパン、テニアン、グアムの戦いでは
日本軍の万歳突撃を待つことによって米軍は勝利を収めたが
徹底した持久戦はペリリューがはじめてであり、ルパータスもまた
万歳突撃による戦闘の早期終結を予想していた。 
 
待ち受ける日本陸軍第14師団の
井上貞衛中将は中部太平洋地区に赴任する直前、参謀長の
多田督知大佐を伴って
東条英機首相兼軍需相を訪問。
パラオ諸島の防衛について話し合いその方法は単純明快
「最後の一兵まで戦う」というものだった。
 
そこで井上はもっとも有能な部下、中川州男大佐率いる水戸二連隊を
ペリリュー島に派遣し要塞構築の専門家である村井少将を顧問として送り込んだ。
一方、アンガウル島は飛行場がなかったのでペリリュー島ほど重要視されず
宇都宮五十九連隊一個連隊が駐留していたが
パラオ本島決戦に備え、このうち二個大隊を引き揚げさせ
後藤丑雄少佐の一個大隊を残して持久戦に徹せよと命じ
玉砕させた。もちろん、パラオ本島で指揮をとっていた井上中将自身も
パラオ本島決戦を見込んで自らも死ぬ覚悟であったが
実際にはペリリュー・アンガウルの両島玉砕で大損害を
被った米軍はパラオ本島の攻略を断念し、終戦まで
兵粮攻めに徹した。
 
こうしてルパータスの予想は裏切られ、ペリリュー・アンガウルが
凄惨な上陸戦と長期間に渡る泥沼の戦いに発展するのは周知の通りである。
  

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米軍側より見る ペリリュー島上陸戦

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オレンジビーチの死闘

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▲オレンジビーチで部下を弔うルパータス少将(画面やや左。ステッキを持つ人物)
このとき既に憔悴しきっていた。
 

◆憔悴するルパータス
ルパータスは消衰しきっていた。
師団参謀のハロルド・ディーキン中佐は、作戦中盤
ベッドに座り両手で頭を抱え込み絶望視しているルパータスを目撃した。
その姿にディーキン中佐は大きなショックを受けたという。
 
10月5日にハリスが師団司令部を訪ねたところ
ルパータスが泣いていた。
「ハリス、俺はもう限界だ。俺の最高の二個連隊が壊滅してしまった」
さらにルパータスは
「ハリス、俺は君に全ての権限を委譲するつもりだ。だが今は
ここだけの話にしておいてくれ」
と告げた。しかし最後までルパータスから指揮権が委譲されることはなく
のちに第一海兵師団が壊滅し陸軍81師団に作戦を引き継ぐまで
ルパータスは泥沼の中で激を飛ばし続けたという。
ルパータスは気丈を装いつつ、混乱と絶望の中にあった。
 
◆ルパータスのその後
ペリリュー撤退に伴い、第一海兵師団長の任を解かれたルパータスは
ペリリュー作戦功労勲章を授与しヴァンデクリフト大将から
海兵隊学校校長のポストを与えられたが、事実上の更迭に近い。

第一海兵師団長の後任にはペドロ・デル・ヴァレ少将が任命されたが 
師団の再建には時間を要した。そのため硫黄島の戦いには参加せず、
ペリリューに次ぐ戦場は沖縄となる。
 
ルパータスはペリリュー戦に関する記録を一切残さず
ペリリュー戦からわずか4ヶ月後の1945年3月26日
日本の降伏を待たずに心臓発作でこの世を去った。


◆最後に
米軍側からの視点でまとめたが
決してルパータスにペリリュー戦の責任を押し付けるものではない。
第一海兵師団の多くは20代前半の若者であった。ペリリューから
生還しても兵士の多くはPTSDに悩まされ、自殺する者も居た。
戦死した若き兵士には妻や恋人、両親や兄弟も居たであろう。
ルパータスは結果として多くを部下を死なせてしまったが、
日本軍の作戦転換、そして多くの不運が重なったことと、ペリリューでの
海兵隊の敗北には様々要因の重なりがあったのだ。
しかし乍らこれだけは決定的と呼べる敗因、それは驕りである。
 
ペリリュー島占領の対価は高いものとなった。
米第一海兵師団は最終的な死傷者数を6526名とした。
そのうちの戦死者は1252名であるが、これは戦場において
即死した兵士のカウントであり、病院船に運ばれて死亡した数は
戦死にカウントされない。一方、掃討戦を引き継いだ陸軍81師団の
死傷者は1393名であった。さらにこれとは別にアンガウル島の戦闘で
334名が戦死し843名が負傷した。
 
単純な比率で換算はできないが、
ペリリュー・アンガウルの戦いはノルマンディーや硫黄島より激しく
ひどい戦いと評価される。
 
硫黄島では米軍3個師団がおよそ18000名の日本軍守備隊を
追い詰めたのに対し、ペリリューでは米軍1個師団
が中川大佐指揮の日本兵およそ10000名との対峙、2ヶ月以上の抗戦、
 
さらにアンガウル島では後藤少佐指揮する守備隊1200名に対し
米軍一個師団が上陸し、一ヶ月徹底抗戦を行った。
 
日本軍は太平洋の防波堤となって一日でも長く本土進攻を
阻止したのであった。
 
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2015年3月 3日 (火)

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

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▲パラオ諸島

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▲ペリリュー島
 

W

D

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2015年3月 1日 (日)

ペ島の桜を讃える歌 (歌唱・御堂諦)

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
作詞:オキヤマ・トヨミ,ジョージ・シゲオ/作曲:トンミ・ウエンティ
歌:御堂 諦/ピアノ伴奏:久保 亜未
ペリリュー島」在住のパラオ人が日本人のために作ってくれた曲で
現在も歌い継がれています。
 
ペ島の桜を讃える歌
以前、こちらのサイトでボーカルを探していたのですが、
プロのナレーターの方が引き受けてくださり歌っていただきました。
歌唱は御堂諦さんです。素晴らしい歌声に感激しております。
ぜひお聴きください!私の企画がここまで大きくなるとは思いませんでした。
嬉しい限りです!
 
久保亜未さんによるピアノソロ(音源)はこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=0JKEuDxvNhQ
 
 
▼『緑の島のお墓』は引き続きボーカルを募集中です。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/01/post-65a6.html

https://www.youtube.com/watch?v=8Ey434yLfKk

2015年2月21日 (土)

国家運営の縮図

Imgp8187

 
写真は世界一田舎といわれるパラオの首都マルキョクにある
国会議事堂。
 
当時はドイツやアメリカへ留学する友人を羨んでいた。

自分は何故こんな場末へ来てしまったんだろうと後悔した。
今はその考えは逆転した。パラオでよかったと。
私はアポなしで大統領に会いに行ったこともある。
小国だからこそ国家の運営に関してほとんど全ての分野ついて
把握することが容易だったし、それは大国の縮図でもあったので
短時間で多くの事柄を学ぶには好都合だった。
アメリカ留学には真似できまいと思った。
 

パラオの人口は現在およそ2万と考えて良いが
そのうち純粋なパラオ人(主としてカナカ族)は
7割で、残り3割をフィリピン人、バングラディシュ人が
占める。パラオ人の年間収入が3万ドルにも満たない家庭でも
フィリピン人のメイドを雇っている。フィリピン人の賃金は安い。
 

パラオの国家財政はアメリカ、日本、台湾(中華民国)から多額の
援助で成り立ち国民の殆どはその金で暮らしている。
 

中国(中華人民共和国)とは仲が悪いので国交が無い。
一昨年、カヤンゲル環礁の北で中国船の密漁船と
銃撃戦をやって双方に死者が出た。
世界でも珍しい軍隊の無い国である。
ただし有事の際の軍備は米軍が担っている。
 

外国人の扱いについて書く。外国人は原則
帰化(パラオ国籍の取得)はできない。たとえば日本人が
パラオ人と結婚しても国籍は日本のままである。
 

現地でビジネスをしようと考えても、外国人が
不動産を所有することは認められていないので
土地や建物の名義人をパラオ人にする必要がある。
だから会社が大きくなってしまったところで
丸々乗っ取られてしまったり、名義を提供するといって
多額の詐欺に遭う事例が殊に多い。一応の
法治国家と雖も、賄賂文化も根強く残っている。
 

一方、労働者はどうか。
外国人の就労ビザは2年単位で発行されるが、これも条件が厳しい。
現地で就職先が決まって、その会社でうまくいけば良いのだが
もし途中で辞めてしまうと、向こう2年は他の会社では働けないという
制限つきだ。(実質、移籍ができない)2年間も無職で過ごさなければ
ならないのは無理に近い。だから大抵は帰国してしまう。
 

ここまで読んで
「すいぶん外国人に厳しいんだなぁ~。だから発展しないんだよ」と
安易に思う人は甘い。この対応は国家として至極当然といえる。
 

人口1万人強しかいないのだから
外国人に利権を与えてしまったら、国家そのものの
乗っ取りなど容易い。乗っ取りを企む第三国が
国策として外国人を送り続けたらパラオ乗っ取りは
赤子の手をひねるようなもので数年もかからないだろう。
 

冒頭にこれは大国の縮図でもあると書いた。だから日本も同じだ。
外国人差別は良くないが、日本は日本人のものであるから
国家主権は是が非でも守らなければならない。
日本もしっかり危機感を持ってほしいと思う。

2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年2月10日 (火)

硫黄島

硫黄島01

硫黄島04

01

 

02

硫黄島の風景(摺鉢山を望む)です。
 
まだまだ掲載していない戦跡や写真が多くあるのですが
仕事の合間に作業していると時間があっと言う間です。
 
これも以前、二、三年前に描きかけて放置状態だった硫黄島の地図です。
掲載できる部分は限られるのですが、グーグルマップと米国の戦跡ツアー
向けガイドブックを
参考に描きました。飛行場の位置を簡単に記してあります。
戦後70年の節目にもあたり、今一度、太平洋の防波堤となった
硫黄島将兵の功を日本人として心に刻んでおきたいものです。
 
硫黄島は殺風景なイメージがあるかもしれませんが
初めて訪問した際、緑が多く、群青色の海も相まって
美しい島という印象を受けました。
 
硫黄島は半砂漠でその割合は図で示した通りです。 
砂浜は黒く、海は一気に深くなっています。
栗林中将が最後に居た壕は島の北東部にあたります。

硫黄島地図

以下にもレポートと写真を掲載しましたのでご覧ください。

硫黄島/蒼穹の旭日旗

硫黄島 遺骨収容

摺鉢山の星条旗

硫黄島を守備する自衛隊員

硫黄島帰還報告・英霊に奉げ銃

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島 海軍医務科壕と白旗を掲げた軍医

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島・栗林壕(兵団司令部壕)

北硫黄島

南硫黄島

硫黄島へ行くには