2016年4月30日 (土)

迷彩零戦は存在したか

迷彩零戦

ハセガワから第261海軍航空隊(虎)の迷彩仕様零戦が販売されていたが
実際にこのようなカラーリングが存在したか、考察してみる。
上は完成見本。下に掲載した書物は
『世界の傑作機No.9零式艦上戦闘機22-63型』で、
(平成4年発行。絶版)第261海軍航空隊(虎)、第263海軍航空隊(豹)
零戦にはハセガワの模型と同様に迷彩が施されている。
 
中島飛行機で生産された機体は工場出荷時には単色であったが、
最前線基地であるペリリュー、大宮島(グアム)、サイパン、ヤップへ
派遣された後、激戦地であるが故に迷彩が施された、という推定だ。
 
第261海軍航空隊(虎)はサイパン島、アスリート飛行場を拠点に
そして第263海軍航空隊(豹)は大宮島(グアム)を拠点に連日
激しい戦いを展開し、絶対国防権の死守に努めていたが
マリアナ沖海戦で戦力の大部分を消耗、戦死した。
そこで生存していた僅かな搭乗員はを第201海軍航空隊へ編入。
フィリピンへ後退した。

迷彩零戦

箱絵も迷彩が施されている。

迷彩零戦

この二つの部隊の零戦は、以下の写真を参考にしたと思われる。
 

ゼロ戦鹵獲機

▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。
サイパン上陸後、米軍が撮影。
 
サイパン島アスリート飛行場には、米軍上陸時、保存状態の良い
ゼロ戦(第261海軍航空隊と第263海軍航空隊所属機)が多数残っており
米軍はこれを鹵獲。戦利品として、米国本土へ
持ち帰ることを決めた。
 
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰った第261海軍航空隊のうちの一機というのは
有名な話である。数年前、この零戦が所沢へ里帰りした折に、マスコミから
「あれは誰が乗っていた飛行機か?」と私へ問い合わせがあった。

ゼロ戦鹵獲機

▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。

ゼロ戦鹵獲機

▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。

ゼロ戦鹵獲機

ゼロ戦鹵獲機

こうして観察してみると、迷彩塗装が施されたゼロ戦のようにも見えるが
翼の日の丸に注目してほしい。モノクロ写真であれば、日の丸の
赤は、もっと濃い色に映る筈だ。そして、胴体の日の丸とは
濃さが違っている。
 
ここの海域は日米双方にとって、最前線であり、いつ奇襲を受けるか
わからない。敵味方の識別が現代のように出来なかった時代、
高高度から見れば、甲板にズラリと並んだゼロ戦、これは
まるで日本の空母である。誤爆でも受けたらたまらない。米軍は
大急ぎで鹵獲機の日の丸をシンナー等の溶剤で落としたのではないか?
だから日の丸が白く写っている。
 
そして、脱色した後、米軍の星のマークを描き入れたのだと思う。
もちろん、溶剤は日の丸だけでなく、機体の色も落とす。

よく観察すると、機体の迷彩というかマダラは
この溶剤がタレて、滲んでいるようにも見える。
(ならば、必要のない尾翼のほうにもなぜ溶剤をかけるのか?
これはこれで謎だが)

 
そして、日本側パイロットの証言だが
第263海軍航空隊で開隊から終焉まで戦った
笠井智一さんによれば、特に迷彩塗装は施されていなかった、
とのこと(篠原インタビューによる)
 

迷彩零戦


そういった具合で、第261海軍航空隊第263海軍航空隊

迷彩仕様の零戦は存在したのか?実際のところはわからないが
以上のように、証明するものがないし、矛盾点が存在することも確かである。
 
最後に申し上げたいのは
歴史の考察には色々な意見があるから面白いと思う。
そして、模型を作る際には、色々想像しながら楽しくやろう!
 
結論!自分の好きな色で塗ればいいと思う!!
 
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年4月27日 (水)

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の見学

零戦と秋水

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室で
零戦(ゼロ戦)と秋水を見学したので簡単にレポートする。
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、
名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、
三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。

 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 

名古屋の零戦と秋水

 
ここは観光施設でない。老若男女、国籍年齢を問わず
見学は可能であるが、あくまで三菱さん
のご厚意で
見学させてもらっているので、困らせるようなことや、我儘を言ってはいけない。
それでも電話対応から見学に至るまで、
三菱さんは
誠に丁寧に対応してくださり、頭が下がる一方であった。

 
史料室は格納庫一ヶ所をまるまる使っていて、
ゼロ戦と、秋水、MU-2の三機が展示されている。
 
まずは零戦から見学する。
 

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

 
もともと、この零戦はヤップ島に残されていた機体で、欠損していた部品は
ニューギニア等から回収してきたものと合わせてニコイチサンコイチで
復元された機体である。

 
ヤップ島、ということは
第261海軍航空隊(虎)第263海軍航空隊(豹)
第265海軍航空隊(雷)、第343海軍航空隊(隼)あたりが拠点にしていた
飛行基地であるので、ベース機は、このいずれかの航空隊の機体で
ある可能性があると小生
は推測する。展示機尾翼の機番号は未記入。
 
他の方のブログなどを拝見すると、
見学者が少ないときはコクピットに座らせてもらえるらしい。だが
この日はなんと、隣接する小牧基地でX-2(神心)の初飛行の前日だったので
見学者が多く、言い出せる雰囲気になかった。訪問日時を調整できる人は
暇そうな時期を狙うべき。
 
そういった事で、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
ゼロ戦はコクピットに座らせてもらえる日本で唯一の零戦。
三菱に感謝。もし、マナーの悪い者がいれば即座に中止になりかねない
極めてデリケートな計らいであるから、今後も続けてもらうべく、
着座の際は係員の注意をよく聞き、マナーに充分気を付けたいところ。
  
余談だが映画のセット(永遠のゼロで使用したもの)でよければ
大分県の宇佐に保存してあるので、こちらも検討されては如何だろう。
座って記念撮影もできる。詳しくはこちらの記事で→宇佐市平和資料館
零戦巡りの旅をしていて方々で零戦を見てきたが、この他には
海上自衛隊鹿屋航空基地資料館では座らせては貰えないが、
かなりコクピットまで迫れる上、係員が代わってコクピットの
操縦桿などを動かしたり、ラダーなどを動かしてくれた。

名古屋の零戦と秋水

美しいフォルムである。
 
零戦は三菱製と云われているが、厳密にいえば
三菱が機体を設計製造、エンジンを中島飛行機が設計製造した。

当時の日本の二大航空機メーカーだが、マスプロ力(総合生産力)に優れていた
中島飛行機は
三菱から設計図をもらって、ライセンス生産を行った。
 
海軍さんの命令によって、
三菱と、中島飛行機、両方の飛行機会社で造られたということになるのだが
結果的に終戦迄に中島飛行機がより多くの零戦を製造した。

 
ここにあるのはもちろん三菱製であるので
三菱製零戦の特徴がはっきりわかる。三菱製と思われる零戦は
靖国神社遊就館にある零戦と、大刀洗平和祈念館の三二型
浜松、あれも三菱製であるが、その他日本に現存する零戦は
ぜんぶ中島飛行機製のカラーリングだ。
 
塗装に関しても、当然、海軍さんから
「ゼロ戦の色はこの色で、こういう風に塗んなさいよ」と指示が
あったはずだが、こうして見比べるとケッコウ違いがあるのが興味深い。
  
以下は小生が解る範囲で描いた絵。
 

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 
  
機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い

 
いずれにしても、史料室の方は皆、とても良い方なので、
ゼロ戦マニアの方、あまり意地悪な質問はしないように!
見学態度は常に紳士的であれ。
 

画像使用についてのお願い

次に、秋水を見学する。

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

世界でたった一機の秋水。
 
秋水は国産初のロケット戦闘機で、機体、エンジンともに
三菱独自で開発したもの。よく秋水はドイツのMe163コメートのコピーだとか
云われるが、それは誤りで、ドイツ様からロケットエンジンの技術供与は
成功したものの、設計図をドイツから日本に持ち帰る途中、潜水艦とともに
沈んでしまったので、三菱の日本人技術者がイチから開発した。
 
唯一、参考にしたといえば、潜水艦が沈む前に先に飛行機で日本に
持ち帰られた
三面図のみ(単なるスケッチ)で、これをもとに
「ロケット戦闘機というものは、たぶんこうじゃ!」と独自に
三菱がエンジンから機体から全て開発してしまったのである。
この辺りの説明は、係員の方がよーくしてくれる。

 
B-29を撃墜すべく、開発された秋水。
ロケットエンジンなので、どんなに空気が薄くても

推進力が落ちず、高高度まで僅かな時間で上昇できる。
B-29の直上より一撃を加え、離脱するのだ。
 
ただし、秋水の燃料は3分で尽きるので、その後はグライダーとなり
基地まで滑空する。その間は、
もっとも脆弱になるのでゼロ戦が護衛
するのだ。秋水はゼロ戦とセットでの運用が不可欠であった。

 
小生は、この秋水の開発と初飛行に携わった元整備兵の方とご縁があり
当時の思い出を多く聞いていた。犬塚大尉のこと、初飛行で
支えていた翼を離して滑走路を飛び立っていったときのこと・・・
ここに少しだけ書いてある。昔書いた三流小説というか、
作文みたいなものなので稚拙で申し訳ない。
それでもぜんぶノンフィクションなので参考になれば幸い。
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」中野整曹の回想

 

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

 

犬塚大尉の搭乗した試作秋水は試作機カラーのオレンジ色(あるいは黄色)
だった。これは実戦機を模して塗装されているが、格納庫の蛍光灯との

兼ね合いもあり、写真ではなかなか再現できない色だ。展示機の秋水は
黄緑色に近いが・・・・とにかく実際に見学してほしい。
 

名古屋の零戦と秋水

名古屋の零戦と秋水

コクピットは外側から見学するのみ。
パイロットは酸素マスクをして乗り込む。
 
あの日の追浜飛行場、ロケットエンジンの陽炎と、
犬塚大尉の面影を感じる!

  

名古屋の零戦と秋水

施設内にはお土産を扱う売店がある。
ファンには垂涎に違いないグッズが揃っている。お小遣いが
いくらあっても足りないくらいだ。 

 
この売店は三菱の購買のような感じで、工場に勤める社員さんたちも
買いにきていた。帰省のとき、お土産を
買って帰るらしい。売店の方は
「今来た外国人さんはロッキードの人かな?」と言っていた。
さすが軍需産業。いろんな人が居る。
ここでは零戦はもちろん、なんといっても秋水のグッズ
ここだけだし、MRJのグッズは貴重。
  
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の見学でした。
 

◆アクセス

JR名古屋駅から「県営名古屋空港行きバス」に乗る。

「三菱重工南」停留所で下車。
片道700円(タクシーだと4000~5000円くらい)運航本数は1時間に
2、3本程度。名古屋高速の混雑状況に依るが約20分程度。
 
正門をくぐって
守衛さんの要るゲート方面へは進まず、正門入って右側の
「史料室」と書かれた
看板のある方へ進むと工場とは別に
史料室への入口があるのでこちらへ進む。
予約者名を伝える。
 

!間違いやすいポイント!
!市営バスではないので注意!
!「県営名古屋空港」は「中部国際空港」とは違います!
!名古屋空港まで行くと行きすぎです。ひとつ手前の三菱重工南で降りましょう!
 

見学申し込み先・電話番号はこちら
名古屋航空宇宙システム製作所史料室

磯部喜一憲兵曹長、最後の講演会のお知らせ

1274284_1005947669488619_2722741125

 
皆様は「憲兵」と聞くとどういった印象をお持ちでしょうか。
元憲兵で、98歳になります磯部喜一さんが最後の講演会を行います。
お話になる内容は以下の通りです。 
 
憲兵の仕事とは?
憲兵は軍事警察官ですので、原則として民間人を虐げるような事は
ありませんでした。
映画などでは「おい!貴様!」と、民間人を
見境なく捕える恐怖の存在として
描かれ、そのイメージがすっかり
定着してしまいました。実際の憲兵の仕事は
むしろ逆です。
軍人が民間人に対し、理不尽な行いをすれば、
その民間人を助ける
立場にあるのです。この、戦後生まれてしまった
大きな誤解を
解きたいと、磯部さんは仰っています。きっと憲兵に
対する
イメージが大きく
変わることでしょう。元憲兵でこれだけ明確に
お話しになれる方は他にいません。最後の機会です。
 
戦地での任務とは
戦地では現地人に変装し、身を挺した情報収集ならびにスパイ活動を
行いました。この辺りも詳しくお話しくださいます。 
 
今回をもちまして、最後の講演会となります。
ぜひ、ご参加ください。磯部さんはこれを最後にしたいと、
資料や話す準備をして待っています。磯部さんは 
一人でも多くの方に聞いて欲しいと願っています。
 
主宰
いむた伸一
 
日時
平成28年5月29日(日曜日)
13時受付開始
13時15分講演開始
 
  
場所
公益財団法人「偕行社」
東京都 千代田区九段南4-3-7 翠ビル
市ヶ谷駅より徒歩5分 
 
参加費
3000円程度(各自飲食等で前後します)
 
お問い合わせ・参加申し込み
篠原迄お願いします。お電話でもメールでもOKです。
電話番号、メールアドレスはこちら
なお、お配りする資料を準備する関係で
事前申し込みをお願いしております。
ご協力お願い致します。

2016年4月23日 (土)

飛燕戦闘機隊々歌完成

05

 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)

お陰様を持ちまして、
飛行第二四四戦闘機隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)が再現完成致しました。
この曲は、昭和20年に古関裕而さんが飛行第244戦隊を慰問された折に
作曲され
隊員の間で終戦迄歌われたものです。終戦間際ということもあり
正確な楽譜が見当たらず、苦労の末、再現したものです。
再生は上記のサムネイルをクリックして下さい。
 
楽曲の再現にあたって、元第244戦隊で実際に飛燕に
搭乗されていた
竹田五郎元大尉に協力を頂きました。
 
歌唱もプロの方にお願いしました。歌は御堂諦さんです。
飛燕が高度一万メートルを飛翔するような躍動感と
迫力、力強い歌声をぜひお聴きください。
 
メロディー再現、および演奏あたっては
音楽家の久保亜未さんにお願い致しました。
 
全ては上の方々の協力の賜物であります。
心より、御礼申し上げます。ありがとうございました。

後世に伝えていければと考えております。 
 
なお、御堂さんが自ら作成された動画には特攻機も映っております。
元来、この曲は
飛行第244戦隊の戦隊歌でしたが、飛行第244戦隊は
知覧へ移動後
特攻機の直掩も行いました。竹田氏は特攻機の直掩に度々出撃し
「喜界島上空で特攻機がバンクを振って別れて行く姿が忘れられない」
とのお気持ちを語ってくださいました。そういった全ての
「飛燕」そのものの歌として、飛燕戦闘機隊々歌として
聴いてくだされば幸いです。
 
作曲:古関裕而/作詞:南郷茂宏(昭和20年)
歌唱:御堂諦/編曲演奏:久保亜未(平成28年)
 
特別協力:竹田五郎元大尉(244戦隊飛燕隊)
企画:篠原直人
 
平成28年10月19日追記
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)は
昭和20年2月10日、古関裕而氏が飛行第244戦隊を
慰問した折、
作曲し贈られたもので、隊員の間で広く親しまれ、
NHKでも放送された。(放送日時不明)
 
飛燕が高度一万メートルを飛翔する姿を表現した
明るく力強いメロディーが特徴である。
なお、作詞は川崎航空機社員、南郷茂宏氏によるものである。
 
戦後、飛行第244戦隊出身者は、航空自衛隊
第一航空団初代飛行隊長小林照彦をはじめ、6名以上が
航空自衛隊で活躍。その黎明期を支えた。ゆえに
当楽曲は航空自衛隊とは極めて縁が深い。
 
譜面、歌詞の再現および保存は、飛行第244戦隊出身で
第14代航空幕僚長兼第12代統合幕僚会議議長である
竹田五郎氏協力のもと行った。
 
竹田五郎さんのお話し
高度1万メートルの戦い(2)


2016年4月22日 (金)

笠井智一さんへのインタビュー

Photo_2

 
今週は第三四三海軍航空隊で紫電改に搭乗されていた

笠井智一さんにインタビューをさせて頂きました。
 
こちらです
 
笠井さんは同期のみならず、戦友の方々の思い出をとても

大切にされており、お話の中で多くの戦友が登場しました。
戦友との思い出がメインですが、紫電と紫電改、乗り比べた
感想など、パイロット視点でのお話しも合わせて書いていきます。 
 
何篇かに分けて少しずつ書かせて頂きます。

拙サイトのようにアマチュアで零戦搭乗員の記事を書いている者も
少ないと思います。御見苦しい点などあるかと思いますが、
当時の若者が身を挺して日本の為に戦った事実を知ってほしいと
願っています。本に書いていない話もありますのでぜひご覧ください。
 
こちらです

2016年4月18日 (月)

涼風花先生

Imgp8882 
当方も応援しております、栃木県出身の書道家、涼風花先生が
シャンプーのイメージキャラクターをなさっています。普段はお仕事柄
和服が多いのですが、お洋服をお召しになったお姿もレアでまた麗しい。 
このシャンプーが置いてあるドラッグストア等で拝めます。
地元出身ということで、これからも応援して参ります。
 
以前、無理に頼み込んで「零戦」と「紫電改」の文字を書いてもらった
のは宝物です。

Project_zero 
私は明日から零戦搭乗員の取材で
名古屋と大阪へ行って参ります。

2016年4月16日 (土)

熊本大地震

この度の大地震で被災されました方々へ心より
お見舞い申し上げます。また亡くなった方に
ご冥福をお祈りいたします。
 
東日本大震災の際もそうだったのですが
何か自分にできることはないかと考えるのですが
テレビの前で見守る事しかできません。自衛隊や消防の方々の
活躍を見守りつつ、我々は通常通り、仕事をこなし、
何かできることがあれば
協力していきたいと考えております。

2016年4月 7日 (木)

ちょうど去年の今頃

ちょうど去年の今頃、桜が咲いてから、雪が降りましたね。
そのときの撮影した写真です。

Imgp8667 
今年は割合に温かい日が続いています。
 

Imgp8679 
最近では、空母瑞鶴の零戦隊でマリアナ海戦を戦い、生還された
藤本速雄さんにお会いしお話を伺いましたほか、
零戦で本土防空戦
(対B-29)を戦った中島又雄さんのお話なども伺いました。

記事をまとめていますので、もうしばらくしたらアップできると思います
 
依然、あちこち、取材に飛び回っております。

2016年3月28日 (月)

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(3)ソロモン海戦 マイナスを指す高度計

Koko_2


前回『一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)
東京初空襲』
の続きです。

 
ソロモン海戦での壮絶な様子を語って
くださいました。戦友の死という
扱い、さらにご高齢にもかかわらず
これだけの事を体力を振り絞って
話してくださるのは
大変な事だと
考えています。

重ねて感謝申し上げます。
 
最後は一式陸攻で
敵艦船に水面を超低空で接近し
雷撃を敢行するお話です。
 

Photo

 
◆ソロモン海戦出撃
ラバウルから一式陸攻24機編隊で出撃したんじゃ。
上みたら戦闘機が護衛してくれるし、下見たら、あの晩に
夜襲をかけた駆逐艦がシャーっと5、6隻行きよったよ。
 
「おー、日本はまだ優勢なもんじゃ」思ったで。
 
護衛の零戦は15機、来とった。戦闘機は速いんでな、
蛇行運動しながらついてきよった。
 
◆雷撃を敢行
いよいよ敵の船団が見えだしたらな、零戦が真っ先に増槽を放って
ドーンと反転して敵に突っ込むけんな。
敵の戦闘機に遭ったら
空戦せにゃならんからな。私らの一式陸攻は
雷撃するときは
編隊を解散して、一機ずつ。それぞれ目標決めてね。
 
Q、篠原
敵の対空砲火に飛び込んだのですね。
 
A、天野氏
歌の文句で「十字砲火」言うけどそんなもんじゃない。
・・・そんなもんじゃない。
敵艦船一隻だけでも高角砲を何十門、百門近く持っとるよ。
それが何十隻もあるんやからね。花火のようにボンボンボンボン撃たれるよ。
あれの中に飛び込んで行きよるけんの。何せ低空じゃから。
低空で突っ込みよるところ写真があったよなあ。それ見て。
その写真の中におったよ。

001

▲8月8日に米軍艦艇から撮影された有名な一枚。
天野氏はこの写真の中に居た。水面ギリギリを飛行する一式陸攻の高度は
10メートル以下に見える。天野氏によればラバウルの地上でゼロに補正した
高度計はこのときマイナスを指していたという。

 
Q、篠原
雷撃の前に被弾したのですか?
 
A、天野氏
いや、雷撃の前からボンボンボンボン弾はあたっとるよ。
それでも雷撃進路に入ったら一直線よ。もう。
 
戦闘用意になったらな、操縦員以外はみんな機銃配置につかにゃいかん。
前席に7ミリ7がひとつ。後方に三つ、上で四つ目で、尾部に20ミリ。
20ミリは大きいよ。両足でこうしてドーーーっと
撃つんやけどな。一発の弾丸がこんなに長い。
 
その時、私は一番前方に居って、偵察やりよった。
敵の機動部隊がおって、敵の戦闘機を撃たにゃいかん。
もうしょうがないけんドッドッドッド撃っていたら、機長の今村兵曹が飛んできて
 
「天野!交代しろ!」
 
言うて、私は嫌じゃったけど「はい」言うて交代しよった。
それで私は後ろに下がって、スポンソンについて
機銃を構えた。一式陸攻の機体の両サイドにガラスの半球があろう。
あれをスポンソンと言うのがあるんじゃが
私は右側のスポンソンに付いた。
そのガラスが半分ガッと開くんじゃ。開いたと同時に機銃がパッと出るん
じゃけん、機銃が出たらすぐにこれを撃てる
ようになっとるけん。
 
根上兵曹という電信員が左側で撃っていた。
じゃけん、私は右側の
7ミリ7の銃口出してドンドンドンドン撃ったよ。
すると向こうも撃ってきよる。
もう船はスレスレじゃから。
甲板から撃ってきよるアメリカの兵隊が
見えるじゃけん
 
◆被弾、ペアの戦死
それから魚雷落とした。落として間もなくこっちも
ドンドーンて撃たれて。
墜落した。
 
大火災よ。機体も折れた。ちょうど、ここ(翼の付け根)からこう折れた。
海面に墜落して、ちょうど自分の居ったところが折れてめくれあがってな
海水がガーっと入ってきたんよ。上は大火災よ。
左側の根上兵曹がドボーンと海に飛び込んだけんな、私もその後
すぐに飛びこんだ。飛び込んでから暫く主翼が浮いとった。
私は主翼に
つかまったんじゃ。
 
そこから操縦席をチラっと見たらメイン操縦員の酒井兵曹が
飛び出ようと窓開けよった。そしたら火がガーッと回って見る間に
顔もみんな焼けて溶けながら死んでしもうたよ。サブの操縦員は
早めに頭貫通銃創で首から血を流して死んどったよ。
操縦員二人とも
死ぬところ見た。
 
それから、さっき交代してくれた機長の今村兵曹は吹き飛んでしまって
影も形も無い。尾部で20ミリ撃ちよるのは、飛行服ひっかけたように
なって死んどる。
上で機銃撃ちよった多々良兵曹は、弾が直撃して
首から上がこっち
吹き飛んできたよ。だから、これも死んだ。
操縦員の二人と、機長と、
尾部で機銃撃ちよったのと、
五人の死に様見たよ。
 
私も機長が交代してくれなんだら死んどる。
 
本来であればね、機長は機長席言うのがあるんじゃ。
そこへ座っとって合図するだけでええんじゃけど、いざ戦闘という事に
なれば、そうはいかん。
真っ先に前部の機銃に飛んできよった。
 
それで、墜落して、電信員と私だけが生き残って、海へ出てみたら
敵の艦船が林のごとく居る。
反対側見たらソロモンの島が見える。
ここへ行ったら友軍いるか思って
泳いで行くか言うて。
そのとき私は負傷しとったけん、泳ぐたびに
血が流れて真っ赤じゃろ。
これをフカが見て寄ってきた。
こうガブっと。噛まれとったで。じゃけん
フカを抱き寄せてな、
蹴っ飛ばして浮き上がって。電信員の根上兵曹が
20、30メーター
むこう泳いでいきよった。
 
「天野ー!死ぬなよー!早くこいよー!」言うて。
 
こっちはフカと格闘で、そのうちによう水飲んで気絶してしもうたよ。
 
◆救助される
それで本当なら、死んどんじゃがな。
今、考えてみたらよう生きていたなと思うよ。ほんと。
 
気が付いたらな、アメリカの駆逐艦の医務室じゃった。
裸にされて、ベロベロ肌を剥がされるんじゃから気が付くわい。
微かに見えるのが敵さんの看護兵じゃろ。これはいかん(捕虜になる)
思うたけど、動けん、どうにもならん。
大怪我したら水が飲みたいんよ。水じゃ水じゃ言うたってわからんけんな。
ウォーターウォーター言うとったら水持ってきてくれたがな。
やっぱりパイロットはある程度は英語は単語ぐらい覚えとかないかん。
それでまた気を失って。
 
その次に気が付いたのが、もう何日たったか。
両腕ぜんぶ包帯しておってな、顔も全部包帯。
目の所と、口ちょっと開けてジュース飲ませてくれよったで。
港へ着いて、トラックの上に運んでくれた。それで病院行ったんよ。
病院来てベットあって、ここは何処じゃろうかー?思いよったら
ベッドのところにウエリントンって書いてある。陸軍の兵隊なら
わからんで。
 
私は全国の首都くらいは知っとったけんな。ウエリントンいうたら
ニュージーランドじゃないかなあ、と思ったら
案の定。ニュージーランドの
北の島じゃった。
三国同盟じゃけんな、捕まったイタリア人もきとる、
ドイツ人もきとったよ。
 
電信員の根上兵曹も隣のベッドじゃった。あれ?これは顔が焼けて
しもうて相違うなと思うたけど
声聞いたらやっぱり根上兵曹じゃった。
 
「根上兵曹ですかー?」と聞いたら「お前天野かー?」言うて。
寝とったけど。
そうやって話すもんじゃけん、別々にされた。
別々にされてから一週間か10日か経ったかなあ。

体調が良くなったと思いよる頃に今度は拷問じゃがな。
「どっから来たんじゃ?」「兵科はなんだ?」なんて色々聞くけど
私は「ノーノー」言うとった。「兵科?わかりません」言うて。
通訳もおるんやけど。
 
Q、篠原
電信員の根上兵曹も生き残ったのですね
 
A、天野氏
ええ。根上兵曹は顔だけ火傷だった。ドッドッドッド泳ぎよって。
二人とも引き上げられた。何故かと言うて、後で聞いたらな
アメリカの飛行兵もだいぶその辺に落ちとったんじゃと。
それで飛行服着てるの全部つまみあげたんで、助かったんじゃ。
 
二人とも内地へ帰ったよ。ほいじゃけん、あの人(根上兵曹)は
北海道出身やけん。顔をひどく焼いておる。電信員やけん、
飛行帽こうあげとったから耳まで焼いとったよ。それでも顔隠すわけに
いかんけん。
半月もしないうちに凍傷で死んでしもうたよ。
お父さんから死んだという
手紙があったよ。生きたと思って
喜んでおったのが、内地帰って半月もせずに
死んでしもうて。
 
私は両腕、顔面火傷、ならびにフカ噛跡。それが傷病名。
 
◆最後に
特攻隊は訓練をやる暇がないけん、一発で爆弾抱いて行って突っ込めやと。
我々の頃は特攻隊と違ってな、出撃一回や二回じゃいかん、
ドンと魚雷落としてまた戻ってこい。戻ってきたらまた行け、
戻ってきたらまた行け、その繰り返し。私らは一回や二回では
死なせてくれんのよ。死ぬまで何回でも行くんじゃ。
 
熟練者もだいぶおったんやけど殆どがソロモン海で死んでしもうた。
同期なんかみんな死んでしもうて、おりゃせん。
 
死ぬのは怖くなかったよ。いずれは死なにゃいかん。
死んだら国の為、靖国神社にお参り来てもらおう、
そう思ったら何も怖い事なかったで。
 
今は死ぬの怖いなあ(笑)何の為にもならんのに。
まあ、そうゆうことで、ようやった思う。
 
おわり
----------

天野氏の参加した昭和17年8月8日の雷撃戦について
 
昭和17年8月7日
夕刻、ラバウル・ブナカナウ飛行場に池田拡己大尉指揮する三沢海軍航空隊
第二中隊の9機が到着する。
 
池田大尉はプリンスオブウェールズとレパルスを撃沈したマレー沖海戦に
参加した搭乗員だった。
天野氏の搭乗機は9機編隊(一個小隊3機×3編隊で一個分隊9機)
の第一小隊二番機(池田大尉の二番機)で
機長・今村一飛曹、主操縦員・酒井二飛曹、副操縦員・山中一飛、
搭整員・多々良二整曹、電信員・根上二飛曹、偵察員・天野二飛
攻撃員・山口二飛。
 
昭和17年8月8日
二十五航戦司令部より雷撃による敵輸送船団攻撃が下令される。
攻撃部隊は、第四航空隊に前日、ブナカナウに進出していた
池田大尉の三沢海軍航空隊の第二分隊9機(この9機編隊の二番機/
第一小隊二番機が天野氏の搭乗機)が加わり全28機で出撃が決定する。
 
午前五時三十分、離陸開始。第四航空隊の一機が離陸時に尾輪を折損したため
出撃を取りやめとなる。また、進撃中、三機が機体故障により引き返した為
第四航空隊と三沢海軍航空隊合わせて24機となる。護衛には
零戦15機がついていた。
 
ムンダを過ぎる頃から警戒配置が命じられ、一式陸攻隊はイザベル島を
左に見ながらマライタ島まで前進。そこから南下してツラギ沖の輸送船団を
狙う予定だった。フロリダ島東端を通過した一式陸攻隊を不調だった米軍の
レーダーが捉えたのは輸送船団まで僅か5分のところだった。
ただちにCAPのF4F戦闘機が邀撃し一式陸攻4機が撃墜された。
 
午前九時五十分、
一式陸攻隊に突撃命令が下される。この写真は8月8日に米軍艦艇から撮影された
有名な一枚である。天野氏はこの写真の中に居た。水面ギリギリを飛行する
一式陸攻の高度は10メートル以下に見える。
 
天野氏によればラバウルの地上でゼロに補正した高度計はこのときマイナスを
指していたという。F4Fの追跡から逃れた一式陸攻は弾幕の中に突入、
魚雷を投下すると、戦闘区域の離脱を目指す。
 
攻撃が終了しラバウルに帰ってきたのは第四航空隊が3機、三沢海軍航空隊が
2機のみ。他に三沢海軍航空隊の1機が不時着大破した。攻撃に参加した
24機中、18機が失われる結果となった。第四航空隊は小谷仟(こたにかしら)大尉と
藤田柏郎大尉が戦死し、三沢海軍航空隊もマレー沖海戦に参加した
池田拡己大尉が戦死した。
 
出典・佐藤暢彦著『一式陸攻戦記』199-202頁
 
---------------
 
最後までご覧くださりありがとうございました。

  
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)東京初空襲
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
 
関連記事
実在する一式陸攻を見学に行こう

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(2)東京初空襲

Koko_2_3

 
前回
『一式陸攻搭乗員天野さんの話(1)

一式陸攻のイロハ』の続きです。
 
昭和17年、米空母ホーネットから
飛び立ったドゥーリットル隊による 
東京初空襲の報せに呼応し、
米機動部隊の索敵、ならびに雷撃で
出撃したお話からです。
 
 

Photo_2

◆米機動部隊を索敵雷撃
初陣は東京初空襲(ドゥーリットル空襲)の時じゃ。
東京がやられた言うのんでな、魚雷抱いて敵さんの機動部隊
探して飛んだんじゃ。
敵さんも一式陸攻がどのくらい飛べるか解っとる。
 
一式陸攻は航続距離がだいたい1500マイル。木更津からじゃったら大凡
サイパン迄。さらに、サイパンからラバウル行くのに丁度1500マイル。
行ったら帰らにゃならん。だから最大限が750マイル。
木更津から離陸して、三角航法で750マイル行って敵に遭わんから帰ってくる。
 
ところがあの時ね、着陸が夜じゃったけんな
私ら二番機じゃから、まず一番機が着陸するのを上空で
見て待っとった。ところが一番機が魚雷を抱いたままじゃけん、
着陸してドバーンといってしもうた。(着陸失敗炎上)
これはいかんゆうてな。私ら着陸やめて旋回しよったんよ。
 
そうしたら下からパッパッパッパッ、友軍が機銃撃ってきよる。
「えっ?」と思ってよく見よったらな、その機銃がモールス信号。
 
「カ・ス・ミ・ガ・ウ・ラ・ヘ・フ・ジ・チャ・ク・セ・ヨ」
 
私、それ見て機長に言うたんよ。
 
「機長!霞ヶ浦じゃー!」
 
「よーし、チャート持って来い!!」
 
そこに線引いてな、操縦は言うた通り飛ばすけん、
「〇〇度〇〇マイルー!」言うて
「はーい」とこうして回して。それで霞ヶ浦へ夜間着陸したんよ。
霞ヶ浦では実戦部隊で、しかも魚雷抱いたのが来たが言うて
同じ海軍兵とて大モテじゃったで(笑)
 
そうして、その帰りがまた大きな問題よ。あの時は、再度敵の
機動部隊追跡するから
「ガソリン満タンにせーい」言うて
離陸して、ここから索敵するぞいう時になって木更津から電報があって
「一旦木更津帰れ」と言うてきた。
 
これはガソリン満タンにしたところで、しょうがない。
みんな飛び立ってしまって。それで魚雷を落とす訳にもいかん。
しょうがないけん、東京湾の上空から大型機9機編隊で
ガソリンをダーっと出しよった。東京の市街地上空通りよったで。
当時、軍のやることは目をつぶっとったけん、今じゃったら大事で。
それで燃料空にして着陸したんじゃけどね。
 
その翌日や。軍令部はヘマばっかしよる。
東京を空襲した敵さんは、千島のさらに向こうにある
ダッチハーバーに帰ったんに違いないと言うて
また私らはガソリン一杯積んで、追っかけたんやけど、
居らんのが当たり前。敵さんは北上したんやない。南下したんじゃな。
 
結局あの部隊(ホーネット)は珊瑚海で撃沈はしたんやけどな
ヘマばっかりしよってからに。手を広げ過ぎてな、
あっち一個分隊、こっち一個分隊じゃ索敵にかからん。
 
一個分隊はだいたい9機編隊じゃ。
私は一小隊の二番機じゃから。どこへ行っても二番目に降りるんやな。
一式陸攻は3機編隊で一個小隊。3機、3機、3機の計9機編隊で
一個中隊(一個分隊)になるんやから。27機編隊が最大。普通じゃったら
9機編隊。
少ない時で3機編隊。私は先に着陸するけんな。海軍は
三点着陸ゆうて
サーッと前の車輪と尾輪とが三点に着地するように。
これがあまり慌てて早くしちゃろう思うたら前のめりになってとんぼがえりになる。
走り過ぎて滑走路オーバーすることもある。そんなことしよったら
母艦じゃとアウトよ。
 
東京初空襲の時は一式陸攻の他は殆どが戦闘機(ゼロ戦)やなあ。
向こうから来たら戦闘せにゃらなんなというんで。
戦闘機は高度6000くらいを木更津と東京間を待機しとった。
敵さんも敵さんじゃ。それを考えて低空で来たんじゃよ。
戦闘機の隙を突いて、横浜や東京に爆弾を落として
そのままスーっと、日本列島通り越して
上海のほうへ不時着した言うよ。
 
◆ミッドウェイ海戦
ミッドウェイへはウエーク島から雷撃に行ったよ。日本の機動部隊は
みんなやられてるんじゃが、
私ら一式陸攻はウエーク島からいっとんじゃけん。
あの時は敵に遭わんかってな、魚雷は抱いたまま使わんかった。
遭遇しとったら、やるかやられるか、わからんけど、戦果は無かったよ。
それでウエーク島へ帰ったんじゃけんな。
 
その後、サイパンに居る頃、ソロモンで4空がやられた、参加せい言うので
ラバウルへ飛んで行った。
 
つづき(ソロモン海戦へ)

 

2016年3月27日 (日)

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(1)一式陸攻のイロハ

Koko_2_3

一式陸攻の搭乗員だった
天野環さん(93歳)にお話を伺いました。

 
天野さんは三沢海軍航空隊、のちの
第705海軍航空隊で一式陸攻に
搭乗し、東京初空襲呼応、ミッドウェイ
海戦、ソロモン海戦に参加した方です。
 
インタビューに
快く応じてくださり、本当に感謝です。
一式陸攻で戦ったお話を、少しずつ
書かせて頂きます。
以下、天野さんの
お話です。

 

Photo_2

◆一式陸攻に乗るまで
私は最初は呉海軍工廠に努めよったよ。
そこで戦艦大和の一部を造っとった。
呉は日曜や祭日になると駆逐艦や巡洋艦から上陸した水兵が歩きよる。
それ見て「ああいう風な海軍の兵隊になりたいな」思うてな。
 

それでいずれ志願するんやったら飛行科がいい。
「飛行機に乗ったる!」と思うてな、呉で志願して呉の海兵団に入団したんじゃ。
海兵団入って、丙種予科練に合格たんじゃ。丙種予科練、丙飛と言うが、
予科練には甲飛、乙飛、丙飛と三種類あるんじゃ。その中でも丙飛が
一番戦死率が高い。
甲飛は当時の中学、今の高校じゃ。これを卒業した者が
志願して入ったのが甲飛。
乙飛は小学校卒業してから入る、いわゆる
少年航空兵じゃ。
 
そして丙飛。この丙飛と言うのが一番使い道がええんじゃ。
何故か言うたら、まずはそれぞれ所属の海兵団に入って
一般の兵隊、それぞれ専属の兵科を半年くらい経験してから
飛行科を志願したのが丙飛なんじゃ。
せやから、本当は丙飛が
一番優秀なんじゃ。
 
これは名前の付け方が悪いよ。何も知らん者は、甲乙丙言うたら
一番丙が悪い、ボロじゃと
思うもんね(笑)わしはその丙飛じゃった。
自分の名前よりは兵籍番號。今でも覚えとるよ。〇〇〇〇じゃ。
呉海兵団へ入団したのが大凡3900人。
そこから予科練行って
霞ヶ浦で練習生になったんよ。
 
霞ヶ浦でエンジンの分解組立や、基礎的な事を習って、今度は実際に
飛行機に乗るようになるんじゃが、これは岩国の航空隊じゃった。
あそこで初めて赤とんぼ乗り出したんよ。その頃に大東亜戦争が
始まったんよ。
敵の潜水艦が瀬戸内海に入りよった言うから、私らは赤とんぼに爆弾抱いて
飛びよった。
一番初めは九七練習機言うのが、あれ九〇やったか、
練習生が五人くらい乗れる練習機があって、それで瀬戸内海の上空
飛びながら射撃の訓練やら、
偵察の訓練やら、色々やっていくんじゃけどね。
 
飛行科はね危険加俸と言うのが付くんじゃな。今でも飛行機乗るには
住所名前書かにゃならん。
いつ墜落するかわからんから。汽車は無いでしょ。
飛べんかったらポトンと落ちよるんよ。だから危険加俸が付く。
その他には、朝方と、晩方の飛行。これにも付く。
朝は黎明(れいめい)飛行。晩が薄暮(はくぼ)飛行。
ちょうど日の暮れ方、明け方が危ないんじゃ。特に離着陸は。
だからこれも危険加俸が付く。
 
ただ飛行機に乗るだけではいかんのよ。上空で機上作業せにゃいけんのよ。
電信やったり、機銃をドンドンドンドン撃ったり、この撃つのがまた難しいんでな。
吹き流しを50メーター離れたとこから、撃ち込まなきゃならん。
あんまり前だと曳的機撃ってしまう。といって、後ろへやると弾が流れて
しまって当たらん。ほいで4、5人が乗って
いっぺんに打ち込むんよ。
弾の先に色付けて赤じゃ紫じゃ無色じゃ言うて。
誰が赤じゃ、紫じゃった
言うのは解っとるから、
吹き流し落として、赤がなんぼ、紫がなんぼ言うて
ヘタクソは何回でもやらされる。
 
それぐらいじゃ済まんよ。何も悪いことせんでもビンタくらいは軽い事。
バッターいうて最低10回。多い時は30回くらい。それでフラフラして倒れると
「貴様これくらいで」とひっぱっていって、またバーンと徹底的に気合
入れられるよ。
今の若い者じゃ、とてもじゃないが無理じゃ。
「逃げたい奴は逃げ!死にたい奴は死ね!」
言うて、
逃げて帰る訳にはいかん。万歳万歳で送り出されとるんけん。
今ならええよ。上官が酷か言うて帰ったら、上官のほうがやられるかもしれん。
昔はそんなもんじゃない。
 
しかも軍隊では一階級違っただけ天地の差があるんよ。
私はサイパンにおったときに非戦闘員に殴られたよ。
非戦闘員言うのは医官と、飯炊き。戦争しやせん。
 
それに私は殴られてな。それでも一階級上だからしょうがないのよ。
あそこでは私が一番若い兵隊じゃったから。食事当番じゃ。
一機ずつ索敵に出るんじゃから、敵の機動部隊見つけたら原隊に報告して
爆撃なり雷撃なり行かにゃならん。大型機じゃけん、私のペアが7人居る。
(海軍では同じ機体のクルーを三人以上でもペアと呼称した)
 
飛行から帰って、食事を取りに行った。そしたら食卓の兵隊が一等兵。
私は二等兵じゃ。「貴様、取りに来るのが遅いじゃないか」と言って
ボンボンボンボン殴られて。ほいやけど自分らのペアが待っちょるけん、
泣きながらでもご飯持って行って。わしは悔しかったよ。ほんまに。
操縦だった坂井兵曹が・・・ああ、坂井兵曹も後に死んだよ。
死ぬとこ見たよわしゃ。・・・その坂井兵曹がわしを見て
「天野、どうしたんだ、なんで泣いてるんだ」と聞く。
「こういう訳です」なんて言うたら次に行ったらまたやられるけんな、
わしゃ黙っとったよ。自分に言い聞かせたよ。
飯炊きに叩かれてどうすんじゃ!あんなもん非戦闘員じゃが!
戦をするのは我々ぞ!叩かれたくらいでどうすんのじゃ!そう思うてな。
 
Q、篠原
ずっと同じペアだったのですか?
 
A、天野氏
ええ、一式陸攻乗ってからずっと同じ。
東京初空襲、ミッドウェイ、ソロモン海戦で
皆戦死するまでずっと一緒。
一式陸攻の321号機じゃった。三沢海軍航空隊。
のちの第705海軍航空隊。300番台が攻撃機じゃったんよ。
 
一式の尾翼に番号が書いてあって上に白い直線が一分隊。
私は二分隊じゃけん真ん中の線じゃった。三分隊が線が縦になっとん。
私は321号じゃった。私は一小隊の二番機じゃったんよ。
 
◆一式陸攻のクルーとそれぞれの役割
Q、篠原
一式陸攻の搭乗員について教えてください。
 
A、天野氏
一式陸攻は7人乗る。操縦員がメインとサブで2人。
右の席がメインで左がサブ。偵察員もメインとサブで2人。
飛行機にもよるが私のとこは機長がメインの偵察員で
私がサブの偵察員で一番前の席におったけん
それと、電信員、搭発員(搭乗整備員)、射爆員、それで全員じゃな。
 
木更津辺りで訓練する時は、一式陸攻は一機ずつの着陸じゃったけど
零戦は小さい飛行機じゃから三機編隊で離着陸しよったで。
 
Q、篠原
操縦もされたのですか。
 
A、天野氏
操縦員が撃たれて死んだら、どうするんじゃ。
操縦も知っておかにゃ。一式乗りは何でもやる。
 
通信もですよ。専門の電信員はモールス信号を最低でも120以上。
それ以外の搭乗員でも100は打ったり受けたりせにゃならん。
トンツートンツートントン。それも知らんじゃったら飛行機乗れんよ。
電信員が死んだら自分がせにゃいかん。一式陸攻乗ったら、何でも
出来なきゃならんのよ。操縦が出来ません、電信が出来ませんじゃあ
通用せんのよ。
戦地へ行かせてくれん。出来るまで内地で一生懸命練習じゃ。
射撃もせにゃいかんよ。機銃ドッドッドッドッ撃つ。
 
Q、篠原
一式陸攻の操縦はどうのように行うのですか
 
A、天野氏
まず、計器はみんな英語になっとんじゃけんな。
パイロットも偵察員も皆、英語を習わされる。その計器を見ながら、
ボボボボ吹かしていったり、飛ばしていったりする訳や。
ハンドルはもう、これ(持ってるだけ)着陸のときだけちょっと難しい。
離陸したら自動操縦装置に切り替えて、例えばサイパンならサイパン、
〇〇度、〇〇マイルと、地図で見て南方へ行くんじゃったら
180度じゃろ。それ考えてな。高度三千なら三千に決めて、
それに合わせたらあとは自動操縦装置でも構わん。
 
操縦員は操縦専門以外に偵察を習っとかなきゃならんが
偵察員も操縦くらいやらなんだらいかん。
 
Q、篠原
兵器の扱いについて教えてください。
 
一式陸攻は30キロ爆弾じゃと12発。500キロで2発。
魚雷は800キロやから一本しか持てん。最大で1トン、プラス
200か300キロなら積んだ。30キロ爆弾を12、3発積んで
それを同時投下、あるいはタンタンタンと一個ずつ落とす。
艦船の場合は同時投下やな。照準器を見て
 
「爆撃用意(ばくげきよーーーい)」
「チョイ左、チョイ右」
 
言うて標的がレンズの十文字に重なってくる。
 
「投下用意(とうかヨーーーーイ)
 
言うてレバーを下げたら、レンズの都合で標的がいっぺんにサーっと
逃げるんじゃ。
実物が逃げるんじゃなくて(機体の速度に対して地上の
目標が静止しているため)
それで十文字の真ん中に丁度来るように操縦を。
うまいことうまいこと「チョイ右」「チョイ左」で合わせて
 
「ヨーソロー」「投下ヨーーーイ」「投下ーーー」
言うて落とすんじゃけどね
  
その訓練をサイパン島でやったよ。高度8000で。訓練で使うのは
煙硝爆弾。煙硝爆弾はガラスになっちょるから落ちたら割れて
煙幕がモクモクモクモク上がって、高度8000から見ても分かった。
 
今度、雷撃はね、大分の航空隊におった頃から、別府湾の沖でやりよったよ。
昼挟んで午前と午後とで交代して訓練やったよ。魚雷は一度放ったら
終わりやで、それで擬雷ゆうの使って。
ヒレが無いといけんのじゃ。
あれは強板言うてな、ベニア板。
強板があるから爆弾みたいに
そーっと落ちるんやがな。
そうやって色々やったよ。
 
一式陸攻で土佐沖の艦隊訓練にも参加しとる。木更津から土佐沖まで
飛んで行って、上空から
陸奥、長門が取り巻いて、その中でも
一番大きなのが大和じゃった。
空から見たよ。
「おお、あれが大和じゃ」言うて。
それでずーっと低空で飛んで、
雷撃訓練やったよ。
 
雷撃は実戦では三回行ったよ。東京初空襲の時(ドゥーリットル空襲)と
ミッドウェイ海戦と、ソロモン海戦。
爆撃より雷撃のほう絶対、命中率が
高いけんな。
魚雷抱いて敵の艦船のマストスレスレの高さで飛んで
だいたい1キロくらい手前で魚雷落とすんじゃけんな、ほいじゃが
飛行機のほうが魚雷よりちょっと速い。後を見よったら命中したの
すぐにわかるけんな。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)
東京初空襲

2016年3月22日 (火)

第三四三海軍航空隊(彩雲隊)杉野さんのお話

元三四三海軍航空隊第四飛行隊(奇兵隊)で彩雲に
乗っていた杉野さんにお話を伺った。
 
杉野富也さんは福岡県三池郡出身。
予科練乙種の18期(土浦海軍航空隊)出身で
第343海軍航空隊偵察第四飛行隊(奇兵隊)へ配属。
「彩雲」に搭乗し電信員を務めた。邀撃戦でエンジン不調、引き返す。
その後ペアが爆撃で負傷の為、鹿屋で待機中終戦を迎える。
戦後は海上自衛隊で飛行艇搭乗員と教官を務める。
 
Q、彩雲は誉エンジンですが
 
A、杉野氏
あいつはよくなかったですねー。
 
Q、故障が多いということですか。
 
A、杉野氏
ええ。
 
Q、予科練では乙の18期ですね。
 
予科練(乙18期)では適性検査といって
敵性を見るために四回操縦桿を握らせるんです。
それを土浦海軍航空隊で、水上機でやりました。
 
Q、同期の話をお伺いします。
 
A、杉野氏
乙18期の同期は実戦に出てきたのが昭和20年の4月頃ですからね。
同期でも偵察は半年したらもう実戦部隊に出てますからね。
訓練はナビゲーションとトンツーが出来ればいいんですから。
だから昭和19年10月11日に私らは実戦部隊に出て
私は教育部隊の班長になったんですけどね。
 
中島という同期が当時、百里原で九九艦爆の教官をやっていました。
片一方は同期でも練習生ですよ。同じ同期でも一方は教員で、
もう一方は練習生。バッターくらって、それが終わってようやく出てきたら
特攻で死んでるんですよ。随分違いがあるんですよ。
だから彼らは本当に可哀相だったですね。
 
横浜出身の同期は姫路航空隊を出て串良から九七艦攻で特攻行ったんです。
そいつがね、大きな爆弾を積んで離陸するとき先任搭乗員に
離陸の仕方を教えてもらって離陸したようなんですよ。
ようやく飛べる状態ですよ。先任搭乗員から「離陸はスピードがつくまで
操縦桿を押さえて引くな」というようなことを教えてもらったそうですよ。
 
愛知県小牧出身の土屋関男、これも同期ですが
松山の基地から出て行ったのが5月13日。
沖縄の偵察に行って帰ってこんかったですね。
あいつはまだ18くらいじゃなかったかな。子供みたいな顔しとったですよ。
 
◆零式練戦の特攻機を見送る
 
松山の基地で、実際に私がチョーク外して見送った零戦の練習機がありました。
4月の5日か6日かな。城山の桜が満開の頃に、4機編隊の
零式練戦が茨城の矢田部から松山へ飛んできたんですよ。これが同期の
藪田博二飛曹(大阪)と黒野義一二飛曹(兵庫)と吉永光雄二飛曹(鹿児島)と
川端三千夫二飛曹(和歌山)でした。※1
この四人の写真が護国神社の
神楽殿にあるんですよ。背の小さいのが藪田です。
四人で編隊組んで降りてきたんで私は
「おーいお前ら、基地移動訓練か」って聞いたんです。そしたら
「いや、今から鹿屋に行って特攻だ」と。
 
土地の名前がついている航空隊は練習航空隊なんですよ、
番号が実施部隊。だから矢田部で訓練終わったばかりで出て来てるんです。
それも零戦の練習機で。あいつらは・・・いつ死んだんかな。
 
◆同期の神雷部隊を見送る
島雄順次郎という一番仲の良かった奴が居るんですよ。
予科練と飛行練習生の半年と、レーダー講習の2ヶ月と
全部で1年半近くも私と同じ班で、一緒に飯食ったんです。
こいつが、予科練で体操のナンバーワンだった。
それが高知の練習航空隊で転勤命令受けてね、急いで出て行こうと
してたんですよ。私は
「島雄、ちょっと待て待て、とにかく慌てて出て行く必要ないよ。
夕方まで待てよ。俺外出して後免の駅まで送るから下宿で待ってて」
と言って止めたんです。後免の駅で2月1日手を握って別れるとき
 
「島雄、今度は俺が転勤しそうな感じがする。お互い長生きしようぜ。死ぬなよ」
って言って別れたんです。奴はそれからちょうど50日目の3月21日、
鹿屋から神雷特攻で死んだんです。一式陸攻の野中五郎さん。
あのときの神雷特攻で同期が9名戦死してるんですよ。
 
私は5月22日に鹿屋に行きましたからね。
ペアが爆弾で吹っ飛ばされて鼓膜破ってしまって
6月の初めから7月7日までフライトなしでしたから
航空弁当持って戦闘指揮所に居ました。
 
夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて、滑走路をいっぱいいーっぱい使ってね
上がっていくんですよ。ウワンウワンウワンウワンって(抑揚の大きな音)
本当にフルパワーでね。もういっぱいいっぱいで。ようやく離陸していくんです。
零戦が爆弾抱いて上がっていくのも見ましたけど、桜花抱いた一式陸攻は
可哀相だったですね。
 
◆鹿屋で同期の白菊特攻を見送る
それから白菊特攻で出ていった同期を
手握って鹿屋の基地で送ってやったんですよ。
白菊なんて本当に可哀相だったですよ。機上作業練習機で。
 
有賀康男一飛曹は岐阜(長野かも?)の奴でした。
これは優秀だったんですよ。偵11の同級生が「俺は小学校のとき
勉強から何から全て有賀に勝てなかったよ」って言ってました。
 
6月19日の夕方に戦闘指揮所に居りましたら
迷彩してある白菊が次々飛んできて降りるんですよ。
双眼鏡でパッと見たら高知のマークがついてるじゃないですか。
 
「わー高知の練習白菊隊が来た」ってその場ほったらかして走っ
て行って降りてきた白菊を途中で止めてねそしたら同期の奴が乗っとった。
熊本の杉村ちゅうのが。「乗っていいか?」って聞いたら「乗っていい」という
からドア開けたら500キロのマグロみたいな爆弾が座席の横にワイヤーで
くくってあったですよ。「信管抜いてあるから大丈夫」というんで
それに乗って待機所まで行ったんですよ。

そしたら「おおい、杉」と呼ぶので見たら有賀だったんですよ。再会です。
そこに基地の分隊士で教官だったミサワさんが来て
「杉、お前、何乗っとるか」というから「彩雲です」といったら
「おお、いい飛行機に乗っとるなあ」と喜んでくれてね。
 
有賀からは
「自分らは白菊で特攻に行くんだ」と聞いて
「こんなオンボロで?」と思いました。白菊はプロペラは桜の木で
出来てるって聞きました。翼はハンプで、帆かき船の帆。
あれに塗装してあるだけですよ。乗ったらボコボコ。胴体はベニア張り。
それに500キロ爆弾。翼にはぶら下げてなかったですね。
翼に250キロずつぶら下げたら翼がもたんかたんじゃないですかね。
だから、胴体の座席の横に500キロを積んだんだと思います。
 
翌朝、奴は「杉、先に行って待ってるぜ」って言って出て行ったですね。
これだけは忘れませんね。
 
有賀は、「ワレ突入ス」まで打ったんです。
駆逐艦か何かにぶちあたったんだそうです。
ミサワさんが米軍のラジオを傍受していて命中したのを
確認してるんですよ。奴は指揮官機だったから無線機を積んでいた。
 
それ以前の5月24日か25日に高知か徳島の白菊が、串良から特攻に
出てるんですけど(5月22日に、高知は鹿屋に、徳島は串良に)
私ら彩雲は同じ日に鹿屋に行ったけど待機所や時間が違うから全然
知らんかったですよ。あとで特攻に行ったのを聞きましたですけどね。
その時、飛び上がって1時間ぐらいしてからですね、生電、いわゆる
暗号に切り替えてない電報で
「お父さんお母さんさようなら」とか「お姉さんあとを頼む」
「〇〇さんお世話になりました」とか「みなさんによろしく」とかね、
1時間くらい生電が飛んだんだそうですよ。そのうちに
ヒ連送、ヒ連送というのは「ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」とかですね。
そういう暗号なんですよ。それでピタっと止まった。
この話はミサワさんの白菊特攻に書いてあります。
 
それから電信機はみんな降ろされて。だけど
有賀の奴は指揮官機だったから積んでいたんですよ。
でもね、本当に哀れですよ。
 
私は今でも毎年、高知の慰霊碑にはお参りに行きますけどね。
今年は有賀が出て行った6月20日に行きました。
もう私一人になりましたね、お参りに行くのは。
島雄と有賀の話は中学校でも小学校でも愛媛大学でも(講演会で)
どこへ行っても話すんですよ。
 
◆その他

Q、戦後海上自衛隊では飛行機乗られたんですか。

A、杉野氏 
ええ。PVに乗って、それから大村に行ってJRFグースゆうて
飛行艇ですね。それからPBYカタリナ、UF2、そこまで乗って地上勤務に
なりました。大村で地上の教官過程ができたんですよ。
トレーナー使って計器飛行の指導とか簡単なシミュレーターですね。
フードかぶって。そいつで計器飛行のやり方をしとったですね。
実際に教官配置でしたのは13年半ぐらいでした。
岩国に1年、宇都宮に行って、宇都宮3年。それから小月(山口県)に
行って9年。ここは海上自衛隊の練習航空隊があります。
最後は三佐にしてもらって、飛行隊長の下に飛行班長と飛行教育班長と
地上教育班長といて、私は地上教育を受け持ってました。
 
最後は下関におりましたが、計器飛行をやっていて
「これは敵性無しだから落とせよ」っていう防衛大出の人がいたんです。
危なかった。でもやめないからフライトの教官に、やめさせたほうがいいよって
言ったんです。結局、それが岩国の飛行艇で高知の檮原に激突して
11名全員殉職です。それが昭和53年の事故だったかな。
昭和53年のついの頃です。やっぱりついの頃には航空事故が多いんですよ。
視界不良でね。
 
それから覚えてるのが、山田さんっていう甲の1期の人やったけど
あの人がなんで死んだか不思議なんです。とても慎重な人でしたから。
海上自衛隊で最後は二佐だったかな。旧海軍時代は「東海」という
対潜、潜水艦用の急降下爆撃機に乗っていたみたいです。

木更津か豊橋の基地だったか。その前は、水上機だった。
戦争生き残って、海上自衛隊生き残って(定年退官)
その後、民間航空に行って、鈴鹿山脈のどこかに突っ込んだ。
事故の原因がわからなかったんですが、おおむね黙って死ぬのは
山だということです。海の上だったら何とか電波を出します。
だけど突然山に衝突したら電波出す間もないから、黙って死んだときは
だいたい山を捜せばいいよってことですね。
慎重な人だったから本当に不思議です。

  
 
※1
藪田二飛曹、川端二飛曹、吉永二飛曹は昭和20年4月29日
鹿屋より出撃戦死。黒野二飛曹は同年5月11日出撃戦死。

2016年3月20日 (日)

既存のフォントを改造してステンシルフォントを作る

Photo

 

「漢字のステンシルが欲しい!」というお問い合わせをよく頂きます。
 
英文なら無料のフリーのフォントも多いのですが
和文漢字(日本語)は高価で、ちょっとだけ使いたいけど
そんなに沢山は使わない、もしくは好みのデザインが無い!という場合に
使うのがこの方法。
 
当サイトでは
製作代行もしておりますので、お気軽にお問い合わせください!
お値段などはこちらです。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/05/post-a564.html


 

2016年3月13日 (日)

一式陸攻の操縦席より

Koko_2

元一式陸攻搭乗員、天野さんに
お話を伺った。
 
天野さんは三沢海軍航空隊で
一式陸攻に搭乗し、
ドゥーリットル空襲で
の索敵、のちミッドウェイ海戦に参加、
 
最後はラバウルから出撃し、水面
すれすれで
敵艦船に雷撃を敢行したが
対空砲火で被弾、機は炎上しながら墜落。
 
乗員7名のうち6名が戦死。天野さんは
炎上する機体から脱出し
唯一生還した。
 

Photo 
一式陸攻(中攻)の損耗率は非常に高い。
生還できたのは幸運中の幸運と言えよう、
「特攻隊は一度限り、だけどわしらはラバウルから出撃して死ぬまで
使われる」という言葉が印象的だった。
 
まずお借りしたこの写真は一式陸攻のコクピットで撮影した一枚。
天野さんが写っている側が主操縦席(右側)で、左側は
副操縦席となる。
 
一式陸攻は七人乗りで、原則、常に同じペア(同じ機体のクルーの意。
3人以上でもペアと呼んだ)で飛ぶ。天野さんもドゥーリットル空襲索敵の
初陣からミッドウェイ(ウエーク島発進)、ラバウル進出まで、いつも
同じ仲間と飛んだ。
 
一式陸攻の戦いを
少しずつ書いていくことにしよう。
 
一式陸攻については写真が多くあります。こちらをご覧ください。

2016年3月11日 (金)

零戦Tシャツ再入荷しました

当方でデザイン、販売しております
ゼロ戦Tシャツの再生産が完了しましたので
再販を開始致します。
 
どうぞよろしくお願い致します。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00LLCGKGO

http://www.amazon.co.jp/dp/B00LLD7NJ6

2016年3月 9日 (水)

みかんを知ろう

Imgp8810

Imgp8818

Imgp8824 
松山空港に設置されたみかんジュースの蛇口と
みかんジュースタワーです。

なんと蛇口が浮いている。からくりは実際に松山を訪れて見てください。
愛媛といえば、名物数あれど、その筆頭たるやみかんです。 
さて、まず断っておかねばならないのが、我々が一般的に
「みかん」と呼ぶ
こたつで食べるミカンは「温州みかん」という品種で
この温州みかん
に限れば和歌山県が生産量日本一です。
 
「いよかん」は伊予が産地の柑橘類の総称であり
愛媛から出荷される柑橘類は全て「いよかん」となります。
(グレープフルーツ等は除く)
こうした柑橘類を全て合わせると、愛媛が出荷量日本一となります。
その柑橘類というのがこちら。

Imgp8831

未だ名前のついていない品種もあります。
 
こちらは松山市大街道(おおかいどう)にある
みかん専門店。
 

2016030311070001

みかんといっても多様であります。
 

「彗星」ファイスタオルを製作しました

Photo

彗星フェイスタオルを製作しました。試験販売中です。
液冷型と空冷型の2パターンをラインナップしました。
マイクロファイバー製のタオルです。 
一枚2,290円です。
 
液冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY2XZZI

空冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY3672K

 
また小ロッドから製作可能ですので
製作希望の機種や絵柄がありましたらリクエストください。
10枚から納品可能です。
こちらに私の描いたイラスト一覧があります。

 
収益は当サイトの運営、取材費となりますので
ぜひよろしくお願い致します。

2016年3月 7日 (月)

元戦車兵の方へインタビュー

Imgp8838

 
元戦車の操縦士、上ノ山さんへのインタビューを行いました。
95歳の現在もお車の運転が上手で、神奈川から故郷の福井まで
自ら運転されるそうです。
 
今回は戦車の操縦方法も詳しく教えてもらいました。
操縦士は四本のレバーと、トランスミッション、アクセル、ブレーキ、クラッチを
操作し、機関銃も兼任します。競技会では師団で一位の成績を収めました。
「戦友はわし以外は皆死んだ」と壮烈な米M4戦車との戦車戦の
模様を語ってくださいました。
 
また続きはまとまり次第書きます。

2016年3月 5日 (土)

富士山を空撮

Imgp8782

Imgp8795

Imgp8748

Imgp8754 
一式陸攻の搭乗員だった方に会いに、飛行機で松山へ
行ってきました。高度一万メートルから写した富士山です。
縦長の写真は東京湾と三浦半島です。真ん中に
レインボーブリッジが写っています。

2016年3月 1日 (火)

捨てられなかった札束 濁流にのまれた慰安婦

23638393_m

戦友会でも慰安婦の話題になったことがあります。
もっと確信に迫る話しがあるのですが、今回は証言の一端を紹介します。
  
K曹長の話
「濁流を渡河する徹底路において、日本兵と一緒に逃げる女性(慰安婦)を見ました。
よく見れば頭の上に大きな荷物を乗せているんです。少しでもバランスを崩せば
濁流に飲み込まれて一貫の終わりですよ。それでも両手で必死に頭の荷物を
押さえているので、縄につかまることさえ出来ません。その荷物、
捨てろ!捨てろ!と叫んだんですが、女性は捨てませんで、今にも濁流に
流されそうでした。その頭に抱えている荷物、良く見れば、大量の
お金、札束(軍票の束)
なんです。慰安所で稼いだものだと思いますが、
死んでしまってはおしまいですから
何度も捨てろと言い聞かせました。
それでも聞かず、最後は濁流に呑みこまれて
いきました」 
 
Y上等兵の話
「当時、私の月の給料は戦時加算がついて24円50銭でした。
ところが、その慰安婦と呼ばれる女性たちは1万円も2万円も
持っていたことに驚きました。
 
いわゆる慰安婦はもとは貧困で身を売ることしかできなかった
家の娘がやむなく行っていた。このエピソードはとても悲しいものだが
稼いだお金を命がけで故郷へ持ち帰ろうとしていたものなのかも、しれない。


慰安婦についての証言はまだまだあります。
続きます。

2016年2月28日 (日)

ベトナム解放戦線(3) 国吉戦車中隊

 
昭和20年5月頃だったと思います。我々は戦車8両、部下50人の
独立中隊で、場所はミトーに居りました。
ホーチミンの解放軍の綺麗な女の子が何度も何度も誘いに来るんですよ。
長い黒髪でね、綺麗な女の子でした。その女の子が
「隊長さん、東京へ帰っても焼野原ですよ。一緒に戦ってここで暮らしましょう」
そう言って誘うんです。何度か行こうと思いましたけどね。我々の中隊からは
離隊者を出しませんでしたが、他の中隊からは随分居たようですね。
そのまま現地で所帯を持って現地に骨を埋めたとも聞いています。
 
やはり母親が気になりましてね。
戦って死ぬことは構わないんですが、ホーチミンの指揮下に入るということは
どこで死んだかわからないと、これは故郷の母親も困るだろうと
思いました。何度誘いにも来ましたが、断ると女の子はヒョロンへ
帰っていきました。
 
昭和19年10月頃の作戦命令で
我々の中隊はガダルカナルで玉砕する筈だったんです。
戦車は本来、戦車用の輸送船で運ぶんですが、その頃になると
輸送船はなく、駆逐艦で輸送してガダルカナルへ上陸することになったんです。
ところが、駆逐艦のクレーンでは戦車が4トンありますから
持ちあがらないんですね。何度やっても駄目で。そこでガダルカナル
行きは中止になりまして、命拾いをしたわけです。
 
それでビルマで終戦になります。終戦になって武装解除の段階になると、
またホーチミンの解放軍がやってきては誘うんです。
彼らにしてみれば戦争のやり方がわからないから、部隊単位で丸ごと
欲しがるわけです。戦車を欲しがったんです。
 
戦には負けましたが、ボロボロの戦車では恥ずかしいので
8両あった戦車は全て完全に整備して、ピカピカに磨いて
それで英軍に渡してやろうと、完璧な状態でした。
そうしたら、やってきた英軍が驚きましてね、同じ軍人だから
解るんでしょうね。ピカピカの戦車を見て、とても驚いていましたよ。
 

・・・・つづく
 
ベトナム解放戦線(1)
ベトナム解放戦線(2)

  
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2016年2月26日 (金)

英軍からの出前寿司

23638393_m

 

このエピソードは昭和19年後半、ビルマの
イラワジ会戦における前哨戦で、イギリス軍(以下英軍)
が苦肉の末遂行した「お寿司の出前作戦」について記す。
 
この頃、第二師団工兵中隊の水野大尉は川岸の陣地で
英軍と睨みあっていた。英軍も、この時期になると日本軍の強さを
周知しており、いかに損害を軽微に抑えるか頭を悩ませていた。
 
最もよく用いたのが飛行機を飛ばして日本軍陣地の頭上へ
ビラを撒く作戦である。水野大尉は回想する。
 
「その頃の日本は紙は貴重品でザラザラの茶色いものが一般的でした。
ところが英軍は真っ白で表面ツルツル、しかも手書きでなく活字ですよ。
それを大量に撒くんです。圧倒的物量だと感じました。拾ったビラには
しっかりとした日本語で『日本軍はガダルカナルで大敗北を喫し大本営は
降伏の準備を始めています。皆さんも戦争をやめて家族のもとへ帰りましょう』と
そんなようなことが書いてありました。戦意喪失を狙ったものでしょう」
 
英軍が最も恐れたのが日本軍による夜襲であった。戦争を原則パート
タイムで行う英軍・連合軍に対し日本軍は作戦とあらば時間や場所を
構わず行動する。英軍は寝込みを奇襲されるので、気持ちの休まる時を
与えなかった。兵士の損害は無論の事、英軍は恐怖に震えあがり
精神的に疲弊を重ねていた。
 
「私も一度先頭に立って夜襲をかけました」
水野大尉は夜襲の様子を回想する。
 
英軍とて無駄に兵隊を死なせたくはない。
しかし日本軍将兵はドイツ兵と異なり、降伏という概念を持たない。
英軍はさらに知恵を絞った。寿司作戦の実行である。
ある日、英軍は日本軍陣地に対し拡声器でけたたましく放送を始めた。
ややたどたどしさが目立つ日本語放送だった。
 
「勇敢なる日本軍将兵の皆さん、我々はあなた方の為にお寿司を作りました。
〇日の〇時〇〇分に、××の地点に置いておきますから、取りに来てください。
その間、我々は紳士協定に基づいて砲爆撃、攻撃は一切しません。これは
我々からの贈り物です。毒も入っていませんから安心してください。
暫く祖国の味を楽しんでください」
 
この放送にはBGMが付いていた。誰もが知る歌謡曲
『誰か故郷を想わざる』だった。遠いビルマの地で日本兵の郷愁を誘う。
放送は水野大尉の耳にも入ったが、水野大尉はいぶかしがるどころか、
気にもとめなかった。部下には無視しろと一言だけ伝えて済ませた。
 
「だけど、どこにもおっちょこちょい(勇敢?)な兵隊がいるものでね
その寿司を取りに行ってしまったんですよ(笑)」
 
見れば確かに寿司だった。本当に置いてある。英軍が現地で在り合せの
食材で作ったのだろう。皿の代わりに大きな葉の上に乗せられていて
うまそうだった。
 
「僕は食べなかったんだけど、おもしろいことをするなと思いましたよ。
部下が行っている間、シーンとしていたし、食った部下も大丈夫で、
本当に毒は入っていなかった」
 
頼んでもいない出前寿司だったが、
有難く頂戴したところで、日本軍は降伏しなかった。
英軍の努力は無駄に終わり、これ以降、昭和20年にかけて
泥沼の戦いに推移してゆくのだった。
 
ここはビルマの最前線。
英軍も日本軍もはるかなる故郷を思い、家族を思い、
誰とて殺し殺されたくはないだろう。互いに、努力を続けていた。
そんなエピソードのひとつを紹介させてもらった。
 
  
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月25日 (木)

硫黄島・ペリリュー島遺骨収集募集について

水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会では
硫黄島・ペリリュー島の調査・遺骨収集ならびに
会の運営に協力して頂ける方を募集しております。
特に昨今、会員の高齢化に伴い、若い方が少ない状態にあります。 
 
実施内容は以下の通りです。
 

1.硫黄島での遺骨収集
2.ペリリュー島での遺骨収集・調査

3.水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会の運営協力(事務等)
 
特に継続して会の運営に協力して頂ける方を募集しております。

先ずは平成二十八年度の慰霊祭にご参加ください。
よろしくお願い致します。
 
水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会公式ホームページ

2016年2月24日 (水)

厚木の名物親父

赤松中尉のゼロ戦

赤松中尉のゼロ戦 
ゼロ戦、赤松中尉機のデジラマを製作しました。
昭和20年、厚木飛行場の夏です。 

 
赤松中尉についてはこちらをご覧ください。

 
画像・記事の内容がよかったと思いましたらクリックをお願いします!

読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月23日 (火)

我が家の秘密基地

Imgp8435_2

Imgp8416

Imgp8428

Imgp8426

ゼロ戦のディスプレイ台が完成しました。
当時の面影をしっかり残しつつ、SF的ハンガーを
イメージして作ってみました。
スケールは上段の二機が1/48で
下の段が1/144の食玩シリーズです。

2016年2月22日 (月)

昔の新聞読み比べ

Cimg0272

 
図書館で昔の新聞を読むのが好きです。
現代人の我々は豊富な情報を瞬時に把握できるますし
今日までの歴史を知っていますが
当時の情報はラジオと新聞のニュースくらいしかありませんでした。
戦争相手のアメリカという国がどこにあって、どんな形をしているのかさえ
知らなかった日本人も多かったと思います。
 
新聞記事は日によって情報が推移していくので
興味深いものがあります。
昭和16年(真珠湾攻撃の年)ですと、大手は
同じ読売新聞、朝日新聞、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の三紙で
それぞれ、書き方も異なります。
やはり、朝日新聞が最も好戦的で過激な書き方をしているのが
読み比べると解ります。
 
画像に掲載したのは昭和19年のものです。





2016年2月18日 (木)

戦友会での会話

Shutterstock_190575140

 
K元大尉(94歳)

「もう私は94歳と、先は短いです。若くして散った戦友を思えば
こんなに長生きをさせてもらって、思い残す事無く、明日死んでもいいと
常に思っています。ただし、ひとつ、心配があるとするならば
この先の日本がどうなるか、見届けられないことですね。
最近、ニュースで目にしますように
南シナ海で緊張が増しています。戦友たちが守ってきた日本が、
この先、どうなるかと思うと、それだけが心配ですね。」
 
S元大尉(94歳)
「もし、また戦争があったら、どうしますか
この年で、また行きますか。私は戦争だけは絶対にもう嫌ですね。
若い世代が戦争の勇ましいところだけを知って、また同じことを繰り返さないか
とても心配しています。もし、また戦争になったら、
この際、卑怯者と呼ばれても構いません。震えてどこかに隠れていたいものです。
Kさん。あなたはどうですか」
 
K元曹長(97歳)
「戦後、日本は憲法九条という、理想的で素晴らしい憲法を作りました。
私は戦地で言葉で言い表せないような惨劇を見てきました。戦争は
金輪際繰り返してはなりません。

ですが・・・戦争に行けと、それが国の命令とあらば、行きます」
 
O元大尉(93歳)
「私も、行けと言われれば行きます」
 

A元少尉(96歳)
「私も行きます」
 
I元軍曹(93歳)
「私も自衛のための戦争なら致し方ないと思っています。侵略的戦争は
絶対にいけませんが、向こうから攻めてきたんなら、これは仕方ない。守るために
やるしかありません」
 
W元軍曹(92歳) 
「私はわかりませんが、これでもそれなりに国に尽くしてきたつもりです。
最近の若い者、特に80代は全くなっていません。
自分のことしか考えられない。自分中心に生きている。
同じ老人ホームでも80代はわがままが多すぎます。
あまりに自由すぎた戦後教育がいけなかったのか

もっと自分以外に尽くす気持ちを考えて生きるべきですね。
大勢の戦友たちが命を捧げて守ってきた日本は
どこにいったのか。戦後日本の繁栄は、戦争経験者が土台を築いた。
土台があってこそ、その上に若い人が乗っていることを
忘れないでもらいたい。」
 
----- 

戦友会で「もしまた戦争になったら」という話題になったときのことを
少し書いた。元士官も、兵卒も、戦争を自ら望むものは誰一人と
していない。武人の真の理想は平和なのだ。
しかし、理想を守ろうと、国家の安泰を揺るがす事態とあれば
立ち上がる、というのが大方の見解のようだ。
 
そして日本と言う国は多くの戦友が命と引き換えに
守ってきたものだと確信しているのだ。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています
  
戦史 ブログランキングへ

 

2016年2月17日 (水)

国吉大尉のジャワ攻略戦~待ち望んだ神兵の伝説

陸王(陸軍)サイドカー付き

 
戦友会でお世話になっている 国吉大尉(仮名とします。当作戦時、
階級は中尉)のジャワ島上陸の回想を書くことにします。
聞き取った内容をなるべく純粋に 記しました。資料となれば幸いです。 
 
国吉大尉の回想~ジャワ攻略

私は第二師団へ騎兵で入隊したのですが
大東亜戦争の時、既に機動力の要は自動車です。
馬からオートバイに乗り換えたので、騎兵連隊も呼び名が
変わり 捜索連隊となりました。
 
昭和17年3月、 
師団は開戦直後に海軍の掩護もあってジャワ島に上陸しました。
上陸前のことを覚えています。戦争に勝っている頃ですから、
何十隻もの輸送船が大船団を成して進んでゆく様は壮観でした。
「嗚呼、堂々の輸送船」 という歌がありますが、ああ、これが
堂々の輸送船かと思いましたね。 上陸後は陸王のオートバイ
(サイドカー付き)に乗って内陸へ進軍するのですが そのときの
運転士が震えあがってしまい、駄目なんですよ。それで私は
「代われ」と言って彼を側車に乗せまして、 代わりに私がハンドル
を握りました。 敵陣の中をブァーーーッツと走りました。
 
しばらく内陸へ走ると、道端に 豪州空軍の車両が停まっているんです。
これはどういうことなのか、 車輌の周りを調べていると、陰から 敵兵が
10人ばかりゾロゾロ出てきました。 我々が上陸してきたことは報されて
いたのでしょうが、逃げ遅れたのかもしれません。 バッタリ遭遇した
日本兵に敵さんも驚いたのでしょう。
 
「ジャアパニーズ???」 と大声で訊くものですから、私は
「イエス!!」と答えました。 そうしたら、あまりに至近距離だったもので
殴りかかってきて来て取っ組み合いになりました。
一対十ですよ。 そこで私は腰の軍刀を抜きまして、刀の紐が柄に
引っかかって、すこしもたついたんですが バサっと斬り倒しました。
一人をやっつけると あとは全員、いなくなっていました。
 
その後は地元の住民がよく協力してくれました。 自動車に乗って、
あっちこっち道案内してくれるんですね。 非常に親切でした。
当時、ジャワ島はオランダの植民地でした。 どうやら地元の住民は
「いつの日か自分たちと同じ顔の人間がやってきて 植民地から解放してくれる」
そういった言い伝え、伝説があったそうなんです。(※1) それを信じて待っていた
ようなんです。 肌の色、同じですからね。 食事も用意してくれて、非常に
好意的でした。 師団はジャワ攻略で勝利を収めていますが、私は 部下を
一人だけ失っているのを 忘れません。
 
回想以上。
 
(※1)「同じ顔の人間」と書きましたが、別の説もあって
「いつか自分たちと同じ肌の色、顔をした神がやってきて・・・」という伝説も
あります。そういった意味で「神兵」という表現も間違いではなさそうです。
  
ジャワ島は昭和20年、ふたたび戻ってきたオランダ軍との独立戦争に勝利し
新国家インドネシアが誕生する。
 
あれこれと思いつくまま、聞き取った回想記を書いています。
リクエストがあれば優先的に書きますので、「これの続きが知りたい」
と思う話があれば、ぜひリクエストをお願いします。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。 
 
画像の陸王(オートバイ)はイメージです。
 
途中になっているノンフィクション記事一覧
ペリリュー島のラストサムライ 永井敬司さんのお話(1)
ベトナム解放戦線 ベトナム独立をかけて   (1)
ベトナム解放戦線 解放戦線に加わる者たち (2)
水野中隊長の初陣 戦友の遺骨を抱いて
飛燕戦闘機隊 高度一万mB29との戦い 竹田五郎さんのお話(1)
撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない 原田要さんのお話(1)

 
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月13日 (土)

Me262 Lorin ラムジェット搭載機

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Photo_2

洗練するドイツ製ジェット戦闘機
Me262 Lorin ラムジェット機は、1945年

オイゲン・ザンガー博士によってデザインされた
ドイツ空軍、Me262のアップデートモデル。
本機は世界発のジェット戦闘機であるMe262のjumo004エンジン
に加え、翼上に直径1.15m、全長5.9mのローリンラムジェットを搭載した
4発機である。
 
スタンダード機であるMe262が高度6000における
最高速度が870km/hだったのに対し
Lorin ラムジェット搭載機は1万メートル迄
僅か6分(Me262は26分)で上昇し1070km/hの最高速度
が可能な設計であったが、ドイツの敗戦とともに幻の怪鳥となった。
  
日本製ジェットエンジンの黎明
その頃(1945年/昭和20年)、日本では、ドイツ本国から
ジェットエンジンの設計図と部品を持ち帰るべく
出港した潜水艦の到着を待ちわびていたが
いずれも撃沈され、最後まで日本に到着することはなかった。
 
そのため、中島飛行機小泉製作所(群馬県)では
100パーセント純国産のジェットエンジン「ネ-20」を開発していた。
このジェットエンジンを搭載した新型機を海軍では「橘花」
陸軍では「火龍」と称し、橘花は、終戦の数日前
木更津飛行場で初飛行に成功していた。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月 7日 (日)

Photo

 

零戦の新バージョンを描いています。(五二型甲)
下描きが出来てこれから着色なのですが、シルクスクリーンの
特性上、一色~二色で表現しなければならないので
せっかく描き込んだ細部が見えなくなってしまい惜しい
ところです。時間が許すならばリアルな絵をじっくりと描きたいです。

昭和14年 横浜-パラオ間に実在した空の定期便

1

  
昭和14年、パラオはサイパンとともに

最も早く内地からの定期航路を結びました。
運航スケジュールはこちらの記事で書いた通りです。
  
昭和14年といえば77年も前のことです。
旅客船と比べれば運賃は割高でしたけれど、一般のお客さんも
この飛行艇に普通に乗れたのです。
どれだけ壮大な事を実施していたか、
ビジュアル化しました。
 
この飛行艇は
海軍では九七式飛行艇ですが、民間での名称は
川西式四初飛行艇と言いました。運用したのは大日本航空株式会社です。
カラーリングはジュラルミン剥き出しの銀色で
「綾波」号など、パーソナルネームが存在しました。
開戦とともに、飛行艇は海軍に事実上徴用され、運命を共にしますが

戦争が始まるまでは南洋の楽園と内地を結ぶ夢の定期便だったのです。

1/700「蒼龍」

Dsc_0377_2a

Dsc_0375_2

Rさんが製作しました「蒼龍」です。
Rさんは私の模型の師匠でもあります。
 
以前、このサイトの素材に使わせてもらうということで
千葉県の工房まで撮影に参りましたが、その際に
公開しなかった画像を、せっかくなので公開します。
 
全長30センチくらいです。
1/700でここまで精巧に出来るのは
凄いことです。これだけの仕事をこなす集中力を
保てるのは才能としか呼べません。
 

Dsc_0385_2

Dsc_0380 

こうやって切り取って背景と重ねていきます。このようなコンピューターを
使ったジオラマ手法を「デジラマ」というそうで、最近は専門の雑誌もあります。
主にガンダムなどを高層ビルの間に立たせたりする技術などが紹介されています。
私の場合は大戦機をカラーで蘇らせることを目標としています▼
 

Dsc_0385_2_3


2016年2月 6日 (土)

重責

昨年は戦後70周年ということもあり、講演会など
お呼びがかかり、お話をさせてもらいました。
本当は喋るのは得意ではないんですけれど、ぜひ伝えたいことが
あるので拙いながらお話しさせてもらっています。
 
会場の舞台には
「篠原直人先生による講演」などど大きな
垂れ幕が準備してあって、本当に恐れ入ります。
大きな催し物だと、控室にお茶淹れ等、お世話をしてくれる人まで
付くという丁寧な対応に、感激していました。
 
控室には、国会議員の先生や自治体の長も来ていました。
控室に居ても、私はお茶汲みにしか見えません。
 
それで思ったのですが、
腰の低い人ほど、ベテランの議員さんが多いです。
もちろん政治手腕と選挙上手は全くの別物であることを
断っておかねばなりませんが、
お茶汲みでも、分け隔てなく気さくに
声をかけてくれる政治家はやはり、大物であり
連続当選している人物です。
 
新人政治家の方は名刺を交換してから漸く、
「いや~今日、講演される先生でしたか。失礼しました。
お茶を淹れてくれる人だと思っていました」
とあまりに露骨な言われよう、変わりようだったので
驚いてしまいました。

そういう人はほとんどが初当選の政治家で
先生、先生と呼ばれることで浮世を忘れてしまうのかもしれません。
本来、政治家というものは我々が選挙で選んでいるので
あまり偉そうにしてはいけない気もするのですが・・・。
 
さて、
先生と呼ばれる人にはいくつかの種類があり、その役割も多様です。
学校の先生、お医者さん、弁護士、政治家などが挙げられます。
どれも大変なお仕事ですが、最も重責を担い、失敗の出来ないのが
時代劇に登場する先生です。「先生、お願いします」と担がれ、
用心棒や刺客として、おおむね物語のクライマックスに登場します。
斬られたら終わりですから、とても重責です。
 
政治家の方々にもこれくらいの心持で職務を全うしてほしいと
心から願っています。
 
P.S
私はどこでも私は喜んでお話しをしに参ります。
ブログに書けない話ができます。

2016年2月 5日 (金)

紫電改は王道というか、やはり人気の飛行機ですので、押さえておかねばならない点ですが
私が本当に書きたいのは「雷電」でして、現在は「雷電」について元雷電搭乗員の方に
フォーカスして取材しています。

紫電改と第343海軍航空隊覚え書き

紫電改
 
この頁では主に紫電改の機体そのものと
部隊の運用について記していきます。模型製作等の
参考にしてください。搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 
◆紫電改の塗装

紫電改の塗装(カラーリング)は当時の日本海軍機の標準に従い、
機体上面と側面は艶のある暗緑色で塗装されていた。海軍さんから
「塗装はこういう風にやんなさいよ」
と、メーカー側に一応に
指示はあるのだが
川西航空機、三菱、中島などで、それぞれ
違いが見られるのが興味深い。
 
関連記事
ゼロ戦の塗装はこちら
 
紫電改を製造した川西航空機の暗緑色は
やや青みが強いのが特徴だ。
機体下面は機種と尾部以外は地肌のままの無塗装で尾翼下の部分だけ
灰色、
またはアルミ色に塗装されていた。無塗装は大戦後期から末期に
見られる塗装で、
生産を急ぐため、費用と時間を省くためだったと
伝わる。
 
◆紫電改の日の丸の描き方
紫電改の日の丸(マーキング)は胴体と両翼に描かれた。
胴体の日の丸は直径85センチ。白フチがあり、白縁の幅は
75ミリであった。
戦闘301整備科分隊士亀田金夫少尉の
回想によると、
白い縁は日の丸の赤が鮮明に見え過ぎるので
消せという指示が出たことがあるという。
一方、主翼上面の日の丸は直径110センチで
下面は直径1メートル。いずれも白縁は無い。※1
いずれにしても塗装や日の丸のマーキング、カラーリングは
機体によって差があり
一様ではないことを断っておく。
 
◆尾翼の機番号と専用機について
垂直尾翼に描かれた機番号について記す。
第343海軍航空隊では各飛行隊を区別するため尾翼にA、B、Cの
三種類の番号をマーキングした。
Aは戦闘301、Bは戦闘407、Cは戦闘701を意味する。 
専用機は原則、飛行隊長と分隊長のみで
それ以外の搭乗員は出撃の都度、あてがわれた飛行機に搭乗した。
鴛淵孝大尉の例を見てみよう。鷲淵大尉は白二本帯の飛行機を
使うことが多かった。戦闘701整備科では鷲淵大尉が出来る限り、
この専用機に搭乗できるよう整備努力した。
戦闘301の佐藤精一郎上飛曹は
「出撃のたびに飛行機が変わり同じ飛行機に乗ったことは一度もなかった」
と戦後回想する。※2
 
 
紫電改
 
◆機体の帯について
胴体の帯は飛行隊長機は二本、分隊長は一本が入っていた。
昭和20年3月19日の松山上空の大空戦以降
各飛行隊が同年4月10日以降、戦闘301飛行隊長
菅野直大尉の発案によって描かれたようである。
菅野直大尉の帯は黄色であり、これは
機体識別を容易にする目的のほか、菅野大尉は
 
「黄色を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ」
整備科先任分隊士加藤種男中尉(機関53期)に語ったという。※3
戦闘701と戦闘407では白であった
分隊長以外の搭乗員が例外的に帯入りの機体を使ったこともある。
昭和20年5月17日、戦闘407の石塚光夫少尉が
哨戒機掃討任務で戦闘407と戦闘701の12機を率いて出撃したときは
市村分隊長のB-25号機に搭乗している。石塚少尉はこの飛行隊の
指揮官であるし、
稼働機の不足により、必ずしも飛行機が
揃わなかったことから
許容されたこともあろう。
※4
 
また、分隊士の本田稔少尉は
「私の飛行機は決まっていて帯が入っていた」
と回想し、戦闘407では少し事例が異なっていた可能性がある。
※4
 
昨今までプラモデルのパッケージや塗装指示書に鷲淵大尉の機体は
「赤」とされている場合が多いが、赤帯は
誤りの可能性が高い。
現在では鷲淵大尉は最後まで「白」だったという説が最有力となっている。
赤帯はどの飛行隊にも存在せず目撃者も居ない。どの段階で
プラモデルのパッケージが赤帯になってしまったのか不可解である。
 
昭和20年7月24日の豊後水道上空の空戦で米空母
サンテンハシントVF-49戦闘飛行隊
のジャック・A・ギブソン中尉が
鷲淵大尉の白一本帯の
機体を目撃している。このとき鷲淵大尉は
C-13号機であったが、整備が間に合わず、、分隊長の一本帯の機体に
搭乗した可能性も考えられる。
※5
 
◆林喜重大尉機(B-30号機)の謎
林喜重大尉のB-30号機については不明確な点がある。
林大尉が昭和20年4月11日、最後の出撃でB-29を撃墜し
、阿久根折口に不時着戦死した際に搭乗したとされる
紫電改はB-30号機といわれているが、翌5月16日の
哨戒機邀撃編成表では戦闘407飛行隊の高木由男飛長が
同じ記番号の紫電改に搭乗している。
 通例であれば、飛行隊長と分隊長以外が
林の専用機である白い二本帯の機体を使う事はない。
出撃直前に機体不調等により急遽搭乗を変更する場合など
可能性があるが、真実はわからない。
 
◆日の丸の中の数字
戦闘301のみ、訓練の際、識別のため
石灰で描かれたというが真相は謎が多い。
菅野直大尉のA-15号機は鹿屋進出時に描かれたもので
最後の出撃となった空戦ではA-24号機に搭乗している。
いずれも黄色のニ本帯の機体である。
 
◆通信について
源田大佐が飛行機も通信機も良いものを全部持って行ってしまった
との避難もあるが、実際はどうなのか343空では機上無線電話の
改善に力を入れ
米軍の交信を傍受できるほど明度が向上していた。
従来の日本機の機上無線は雑音がひどく使い物にならない
といった報告が多かった。
重いだけで役に立たないからと
降ろしてしまっていた程だ。

この原因は通信機の性能の問題と言うより
エンジンのスパークプラグにシールド(鎧装)が施されて
いなかったため、空電が発生し
雑音のもとになったといわれる。
特に大戦後期の飛行機製造過程においては、無線はもとより
エンジンの電気系統のアース(絶縁)不良が著しく
紙で巻いただけの絶縁がはがれ、電線が短絡(ショート)し
トラブルになったケースが多々ある。343空ではアース(絶縁)から改良し
空対地、空対空ともに電話連絡が良好となった。
空中状態がよければ400キロ離れても交信できた。
 
無線は原則全ての紫電改に搭載したが
飛行隊長、各区体調のみが送信でき、列記は「受信」固定し
よほどの事がなければ
喋らない。
空中で互いに目視できる範囲であれば
極力手、指信号を使う。
 
通信は最も重要な戦法のひとつであるが戦闘中、
上下を問わず喋りまくる
米軍と大きく異なるところである。
 
加筆中。
 
搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ


 
出典
※1『源田の剣』605頁より
※2同607-608頁より
※3渡辺洋二『重い飛行機雲』
※4『源田の剣』607-610頁
※5同609頁

2016年2月 3日 (水)

1/144空母ジオラマ「飛龍」

1/144空母ジオラマ「飛龍」

▲1/144飛龍(ミッドウェイ海戦)が完成しました。 
170センチ×36センチの巨大な紙にインクジェットで印刷し
甲板の質感を出すため、マットラミネートでコーティングしました。
最後にコツコツ集めた食玩のゼロ戦(1/144ウイングクラブと
ウイングキットコレクションシリーズ)を固定して完成です。
 


▲プリントアウトする前のイラストはこちらです。
  

1/144空母ジオラマ「飛龍」

九九艦爆も並べてみましたが、真珠湾時の塗装であることと
数が多すぎてゼロ戦の滑走距離が足りないので
今回は二種類のみとしました。
  
甲板の半分も並べると目が回ります。
数が多ければいいというものでもないと
解りました。直掩中ということにして
ゼロ戦隊のみでもバランスよかったかな?と思います。

 
今後はイベント等で機会あれば展示しようと思います。
 
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  

 
1/144「飛龍」試験販売中!
http://www.amazon.co.jp/dp/B01BN7S1SQ

2016年1月30日 (土)

水野中隊長の初陣

昭和19年、ここはビルマの最前線。 それまで工兵中隊を率いてきた
中隊長の戦死によって、 急遽、派遣された新任の水野中隊長は、
陸軍士官学校を卒業した中尉と雖も実戦経験は無く、
歴戦の部下を指揮しなけらばならなかった。
 
最前線の戦局は士官と雖も解らない。参謀本部からは
「目前の敵を殲滅せよ」 それだけが下令されている。
部下たちは一様に思った。命を預けるには、あまりに頼りない中隊長だ。
それでも互いに命令とあらばやむなし。
真新しい軍服を纏って、水野中隊長の初陣である。
 
やがて戦闘に突入した。 敵から無数の銃弾が飛んでくる。
熾烈を極めんばかりの 修羅場である。中隊は全員、その場に伏せて
反撃の機会を伺う。 その弾幕の中で水野中隊長の部下は我を疑うような
光景を目にした。 水野中隊長が たったひとり、銃弾飛び交う真っ只中に
ヘルメットもせず、あの真新しい将校の軍服で中腰になり、背筋をピンと
伸ばして佇んでいるではないか。 これでは敵の格好の標的である。
 
この奇妙な様子を歩兵中隊で同期の橋本中尉が数十メートル後方から見ていた。
「おい!!水野!なにやってんだ!伏せろ伏せろ伏せろ!!」
助けに行くこともできず、 熾烈な銃声にその声はかきけされた。
 
この戦闘は日本が勝利を収め 奇跡的に水野中隊長も無傷であった。


・・・・・時は経って、平成27年
戦友会でも事ある毎この話題が出て尽きることはない。
 
「昨日のことのように思い出すよ。俺はあのとき水野はもうダメだと思ったよ。
勇敢だったなあ」
95歳になった橋本がコーヒーを片手に語りかける。
 
同じく95歳の水野が答える。
「あのときは戦死した前の中隊長の遺骨を抱いていたから 伏せられなかった
んだよ。でもあれで良かったんじゃないかな。 僕は鉄砲もほとんど撃ったことが
無いのに派遣されてきたばかりだったから部下にどうやって信頼してもらったら
いいか、考えていたんだ。 それで、戦死した前の中隊長の力を借りようと思ってね。
僕の命令なんか聞かなくていいからこの前の中隊長とともにみんな前進してくれ、と
いう思いを込めて遺骨を抱えて最前線に行ったんだよ。」
 
「こっちからの角度じゃ、遺骨を抱えているなんてまったくわからなかったな
何をやってるのか、全然わからなかった」
 
水野中隊はその戦闘以降、部下の信頼が一気にあがり 終戦まで生き残った。
戦友会での会話の一コマである。 これは単なる武勇のエピソードでなく
当時の若者たちがいかに、真面目に、国ために尽くしていたか
それを物語る重要な証言として書いた。 先の大戦で多くの若者が亡くなった。
きっと こういったエピソードは膨大な数が存在するのだろう。 その多くが語り継が
れることなく、命とともに消えて行った。


  
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のワンクリックによって当サイトをかろうじて消滅の危機から
救ってくださっています。

 
戦史 ブログランキングへ

続きを読む »

2016年1月25日 (月)

第343海軍航空隊搭乗員データベース

紫電改
 
検索などで、ここへ辿り着いて欲しいと願い、紫電改の
第343海軍航空隊(剣)搭乗員データベースを作成しました。
記せる限りの搭乗員名を書き出しました。空欄は調査中です。
 
三四三空隊史をもとに
揃う限りの資料(記事の最後参照)を参考にしましたが
食い違いなどがある場合、新しい情報、実際の証言
総合的に信憑性が高いと判断されたほうを採用しています。
 

紫電改

 
第343海軍航空隊「紫電改」搭乗員一覧 
 
戦闘301飛行隊(新選組)[戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘301 菅野直 大尉 海兵70 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘301 井上伊三郎 中尉 予11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S19.3.19
戦闘301 橋本達敏 中尉 海兵72 鹿児島 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 武藤金義 少尉 操練32 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘301 中袴田哲郎 少尉 予13   紫電改空輸のため松山基地着陸時殉職 S19.12.29
戦闘301 指宿成信 少尉 甲2 大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘301 武谷繁 上飛曹   紫電改空輸中鳴尾にて殉職 S19.12.20
戦闘301 酒井哲郎 上飛曹 甲10   松山基地にて訓練中殉職 S19.12.27
戦闘301 飯田一 上飛曹 甲10   松山基地にて訓練中殉職 S20.1.1
戦闘301 日光安治 上飛曹 甲10 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S19.3.19
戦闘301 横島敏 上飛曹 乙16   松山基地にて訓練中殉職。 S20.4.10
戦闘301 青山芳雄 上飛曹 甲10 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 新里光一 上飛曹 甲10 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 杉田庄一 上飛曹 丙3 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。離陸中戦死 S20.4.15
戦闘301 起田厚 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着殉職 S20.5.4
戦闘301 桜井栄一郎 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘301 桐山輝雄 上飛曹 甲11 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘301 常石米保 上飛曹 乙17 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘301 佐藤精一郎 上飛曹 甲10   鹿児島上空P-51と戦闘負傷 S20.5.28
戦闘301 見上英司 上飛曹 甲11 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.2
戦闘301 富杉亘 上飛曹 丙7 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 加藤勝衛 上飛曹 甲9 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 米田伸也 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘301 須崎重雄 上飛曹 丙11 大村 敵大小機邀撃戦。九州上空戦死 S20.8.8
戦闘301 久保典義 一飛曹 丙11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘301 西村誠 一飛曹 甲11 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 大森修 一飛曹 甲11 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 三ツ石幹雄 一飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 浅間六郎 一飛曹 甲11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 清水俊信 一飛曹 丙11 国分 B-29邀撃。出水上空にて戦死 S20.4.21
戦闘301 森山作太郎 一飛曹 丙15 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘301 石川武 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 富田広利 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 〆本俊夫 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 宮沢豊美 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。戦死 S20.4.15
戦闘301 今井進 二飛曹 丙15 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24

  
戦闘407飛行隊(天誅組) [戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘407 林喜重 大尉 海兵69 国分 B-29邀撃戦。折口に不時着水。戦死 S20.4.21
戦闘407 林啓次郎 大尉 海兵70 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘407 嶋幸三 大尉 海兵71 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 服部敬七郎 大尉 機関52 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦傷 S20.8.8
戦闘407 大塩貞夫 大尉 海兵72 大村 敵機邀撃。佐世保上空付近にて戦死 S20.8.12
戦闘407 川端格 中尉 海兵72 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘407 会津清吉 中尉 予13 大村 大村基地において試飛行中殉職 S20.7.30
戦闘407 石塚光夫 少尉 操練22 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 相沢忠義 飛曹長 乙16 松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.16
戦闘407 大原広司 飛曹長 操50   戦傷ののち八月城崎海軍病院にて戦傷死 S20.5.14
戦闘407 中島満夫 上飛曹 乙16 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 石田貞吾 上飛曹 丙6 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 田中勝義 上飛曹 丙3 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 山川市郎 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘407 大関常雄 上飛曹 丙6 大村 敵飛行艇邀撃。対馬南方付近にて戦死 S20.5.16
戦闘407 磯川質男 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘407 礎未男 上飛曹 乙16 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘407 石井正二郎 上飛曹   大村 九州南方空域において敵戦闘機と交戦。戦死。 S20.7.2
戦闘407 野間清爾 上飛曹 乙12 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.2
戦闘407 益本栄 上飛曹 甲10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 久多見政行 上飛曹 甲9 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 原田和彦 一飛曹 甲11 松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.8
戦闘407 狐塚守雄 一飛曹 甲11 松山 松山基地にて戦闘飛行訓練中殉職 S20.3.10
戦闘407 竹島治彦 一飛曹 甲11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 四枝一男 一飛曹 甲11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 宮本清 一飛曹 乙15 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.3
戦闘407 成瀬一丸 一飛曹 丙15 大村 敵機邀撃。九州南空域にて戦死 S20.7.2
戦闘407 溝口憲心 一飛曹 乙15 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘407 信田時正 二飛曹   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 羽藤博之 二飛曹   出水 出水基地にて訓練中負傷 S20.1.5
戦闘407 浅井善二 二飛曹 特丙11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 粕谷欣三 二飛曹 特乙1 大村 B-29邀撃。大分県上空にて戦死 S20.5.5
戦闘407 星野瑛 二飛曹 特乙1 大村 敵飛行艇邀撃。女島付近にて戦死 S20.5.17
戦闘407 西本宣之 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 久世龍郎 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 原利治 飛長     紫電空輸中兵庫県山中にて殉職 S20.2.19
戦闘407 斉木世一 飛長 特乙1 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 中谷美弘 飛長   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 松村育治 飛長   松山 松山基地において訓練中負傷 S20.3.28
戦闘407 西鶴園栄吉 飛長 特乙1 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 小竹等 飛長   鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 小間孫七 飛長   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4

  
戦闘701飛行隊(維新隊) [戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘701 鷲渕孝 大尉 海兵68 大村 敵機邀撃戦。豊後水道上空にて戦死 S20.7.24
戦闘701 松崎国男 大尉 海兵71 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 木下一周 大尉 予備10 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 上島逞志 大尉 海兵72 大村 敵大型機邀撃。哨戒中B-24と交戦戦死。 S20.7.9
戦闘701 渡部幸博 中尉 海兵72 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 保井博久 中尉   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘701 岸本操 少尉   松山 松山基地にて訓練中負傷 S20.3.5
戦闘701 松場秋夫 少尉 操練26 松山 敵艦載機邀撃。空戦により負傷 S20.3.19
戦闘701 石川広 上飛曹   松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.1
戦闘701 石川菊一 上飛曹   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 遠藤司郎 上飛曹 甲7 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 広留四郎 上飛曹 丙12 大村 敵飛行艇邀撃。女島付近にて戦死 S20.5.17
戦闘701 山田武夫 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘701 船越二郎 上飛曹 乙14 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.2
戦闘701 柳沢孝 上飛曹 甲9 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘701 佐久間昂 上飛曹 甲10 大村 九州南方空域において敵戦闘機と交戦。戦死。 S20.7.2
戦闘701 高橋斌 上飛曹 甲11 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 豊原清志 上飛曹 丙12 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 初島二郎 上飛曹 甲9 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘701 駒走俊雄 上飛曹   大村 大村基地にて試飛行中殉職 S20.7.31
戦闘701 吉岡資生 上飛曹 甲10 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘701 田浦与樹男 上飛曹 丙10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 横堀嘉衛門 上飛曹 甲10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 村山力 一飛曹   松山 敵艦載機邀撃。空戦により負傷 S20.3.19
戦闘701 箕浦信光 一飛曹 丙15 大村 敵飛行艇邀撃。宇久島付近にて戦死 S20.5.15
戦闘701 土屋進 一飛曹   大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘701 吉田広義 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘701 藤木喜久男 二飛曹   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘701 森川勝 二飛曹   大村 敵艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘701 村元幸雄 二飛曹   大村 敵艦載機邀撃戦。都城上空にて戦死 S20.6.10
戦闘701 佐藤輝一 二飛曹 丙16 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦傷 S20.7.5
戦闘701 油田末治 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 和木逸夫 飛長   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19

 
偵察第4飛行隊(奇兵隊)[戦死者]
機種/彩雲

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
偵4 高田満 少尉 乙6   哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 遠藤稔 上飛曹 甲10   哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 景浦博 上飛曹     哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 土居定美 一飛曹   松山 飛行訓練中殉職 S20.5.8

 
戦闘第401飛行隊(極天隊) [殉職者]
機種/紫電

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘401 村田義雄 少尉   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.15
戦闘401 山口米夫 飛曹長   松山 鳴尾へ要任務飛行中道後付近にて不時着殉職 S20.5.18
戦闘401 菊地暹 上飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.3
戦闘401 中根明雄 一飛曹   松山 松山基地にて飛行訓練中殉職 S20.6.8
戦闘401 吉川由夫 二飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.16
戦闘401 白浜勝 二飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.27
戦闘401 吉田政雄 飛長   松山 松山基地にて飛行訓練中殉職 S20.3.25

 
戦闘301,401,407,701,偵4飛行隊 [生存者または安否不明者]

所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘301 松村正二 大尉 海兵71    
戦闘301 中西健造 中尉 海兵72    
戦闘301 磯崎千利   操練19    
戦闘301 沢田壮児 中尉 予13    
戦闘301 馬渕良作 中尉 予13    
戦闘301 田中弘 中尉 予13    
戦闘301 柴田正司 飛曹長 甲3    
戦闘301 笠井智一 上飛曹 甲10    
戦闘301 佐藤精一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 桜井栄一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 浜崎勇 上飛曹 甲10    
戦闘301 増田富雄 上飛曹 甲10    
戦闘301 宮本芳一 上飛曹 甲10    
戦闘301 村木一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 田中安太郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 田中昿 上飛曹 甲10    
戦闘301 亀井鉄心 上飛曹 甲10    
戦闘301 依田興一 上飛曹 甲11    
戦闘301 大坪通 上飛曹 甲12    
戦闘301 原田英次 上飛曹 甲12    
戦闘301 大西秋義   甲14    
戦闘301 堀光雄 飛曹長 乙10   戦後全日空機長
戦闘301 近藤福吉   乙12    
戦闘301 野口八郎   乙12    
戦闘301 西岡俐   乙12    
戦闘301 藤井実   乙16    
戦闘301 宮崎勇 飛曹長 丙2    
戦闘301 鹿野至 上飛曹 丙3    
戦闘301 駒場三郎 一飛曹 丙13    
戦闘301 沖本堅 一飛曹 丙14    
戦闘301 山田牧一 一飛曹 丙15    
戦闘301 吉原真人 一飛曹      
戦闘301 有馬潔      
戦闘301 半田正一      
戦闘301 吉田健一      
戦闘301 横山友一 上飛曹 丙12    
戦闘301 今村末治 飛長 特乙1    
戦闘301 伊沢秀雄 飛長 特乙1    
戦闘301 田村恒春 飛長 特乙1    
戦闘301 仲睦愛 飛長 特乙1    
戦闘301 姫井治 飛長 特乙1    
戦闘301 深山喜一 飛長 特乙1    
戦闘301 桜井和彦 飛長 特乙1    
戦闘301 中川外喜雄 飛長 特乙1    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘407 光本卓雄 大尉 海兵70    
戦闘407 市村五郎 大尉 海兵71    
戦闘407 速水経康 大尉 海兵71    
戦闘407 服部敬七郎   機関52    
戦闘407 成瀬二郎 中尉 予13    
戦闘407 山田肆郎 中尉 予13    
戦闘407 高牟礼春雄 中尉 予13    
戦闘407 沢田万吉   操練56    
戦闘407 島川正明   操練56    
戦闘407 本田稔 少尉 甲5    
戦闘407 篠田英悟   甲8    
戦闘407 高橋弘 上飛曹 甲10    
戦闘407 伊奈重瀬 上飛曹 甲10    
戦闘407 森正 上飛曹 甲10    
戦闘407 中尾秀夫 上飛曹 甲10    
戦闘407 中野敏 上飛曹 甲11    
戦闘407 松井秀雄 上飛曹 甲11    
戦闘407 平山成徳 上飛曹 甲11    
戦闘407 久保久市 上飛曹 甲11    
戦闘407 山本富夫 上飛曹 甲11    
戦闘407 田中利男 上飛曹 乙11    
戦闘407 下鶴美幸 上飛曹 丙2    
戦闘407 小高登貫   丙10    
戦闘407 石井正臣   丙12    
戦闘407 青柳茂 一飛曹 丙15    
戦闘407 大沢重久 一飛曹 特丙11    
戦闘407 松本美登 一飛曹 丙15    
戦闘407 大東好美 飛長 特乙1    
戦闘407 高木由男 飛長 特乙2    
戦闘407 蓮井光義 飛長 特乙2    
戦闘407 来本昭吉 飛長 特乙2    
戦闘407 松村育治 飛長 特乙2    
戦闘407 山口伯三郎 飛長 特乙2    
戦闘407 井上修 飛長 特乙2    
戦闘407 谷口実徳   予生1    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘701 山田良市 大尉 海兵71    
戦闘701 向井寿三郎 中尉 海兵72    
戦闘701 大村哲哉 中尉 海兵72    
戦闘701 藤田征郎 中尉 海兵73    
戦闘701 松場秋夫 少尉 操練26    
戦闘701 坂井三郎 少尉 操練38    
戦闘701 岡野博 飛曹長 操練54    
戦闘701 松本安夫   操練55   202出身
戦闘701 岸本操   予13    
戦闘701 瀬木春雄   予13    
戦闘701 佐々木原正夫   甲4    
戦闘701 塩野三平   甲7    
戦闘701 小野正盛 上飛曹 甲9    
戦闘701 小野正夫 上飛曹 甲10    
戦闘701 高橋良生 上飛曹 甲10    
戦闘701 古積康雄 上飛曹 甲10    
戦闘701 三宅淳一 上飛曹 甲10    
戦闘701 渡辺久光 上飛曹 甲11    
戦闘701 藤田宏治 上飛曹 甲12    
戦闘701 村中一夫 少尉 乙6    
戦闘701 鹿島考幹 上飛曹 乙16    
戦闘701 村山力   乙17    
戦闘701 開出正憲   乙17    
戦闘701 福長薫   乙17    
戦闘701 杉滝巧 上飛曹      
戦闘701 中村佳雄 上飛曹 丙3   302空より
戦闘701 安楽光男 上飛曹 丙4    
戦闘701 八木隆次 上飛曹 丙6    
戦闘701 木村勉 上飛曹      
戦闘701 栗田徹 一飛曹 丙15    
戦闘701 西元久男      
戦闘701 丹羽良治 二飛曹 特乙1    
戦闘701 菊地道治 二飛曹 特乙1    
戦闘701 杉田寿男 二飛曹 特乙1   B-29邀撃落下傘降下
戦闘701 田代政行 二飛曹 特乙1    
戦闘701 山田稔彦 飛長      
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘401 豊田光雄 中尉 操練12    
戦闘401 普川秀夫   操練    
戦闘401 淺川正明 大尉 海兵69    
戦闘401 豊田光雄 大尉 操練12    
戦闘401 加藤忠 中尉 海兵73    
戦闘401 外海信雄 中尉 海兵73    
戦闘401 五十嵐準一 中尉 海兵73    
戦闘401 狭間俊雄 中尉 海兵73    
戦闘401 伊藤暢英 中尉 海兵73    
戦闘401 宮本幸久 中尉 海兵73    
戦闘401 新井田真 中尉 海兵73    
戦闘401 伊藤貞勝   予13    
戦闘401 伊勢芳美   予13    
戦闘401 新藤馨   予13    
戦闘401 塙明次郎   予13    
戦闘401 水田明友   予13    
戦闘401 山本一好   予13    
戦闘401 由本栄作   予14    
戦闘401 稲垣次男   15志    
戦闘401 呉林俊男   17志    
戦闘401 林俊治   16徴    
戦闘401 土山牧群   甲9    
戦闘401 糸井邦男   甲10    
戦闘401 丸谷益 上飛曹 甲11    
戦闘401 寺崎溢男 上飛曹 甲11    
戦闘401 岩本宗一 上飛曹 甲12    
戦闘401 内田陽樹 上飛曹 甲12    
戦闘401 上山高義 上飛曹 甲12    
戦闘401 中山義雄 上飛曹 甲12    
戦闘401 村上徹夫 上飛曹 甲12    
戦闘401 田誠之 上飛曹 甲12    
戦闘401 新谷悟 上飛曹 甲12    
戦闘401 東芳夫 上飛曹 甲12    
戦闘401 岡井玄房   乙16    
戦闘401 唐沢重善   乙16    
戦闘401 井上義明   乙17    
戦闘401 山崎岩敏   乙17    
戦闘401 井上悠雄   乙18    
戦闘401 小関武夫   乙18    
戦闘401 原文雄   乙18    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
偵4 橋本敏男 大尉 海兵66    
偵4 伊奈達郎 上飛曹 甲10    
偵4 井手今爾        
偵4 井上保郎        
偵4 飯塚英三        
偵4 伊藤三郎        
偵4 小倉啓志        
偵4 及川喜久男        
偵4 小沼洋        
偵4 川浪重年        
偵4 田中三也 飛曹長      
偵4 綱島正二        
偵4 安岡豊松        
偵4 松村雄        
偵4 福井正        
偵4 桜井良作        
偵4 結城幸志        
偵4 宮尾幸夫        
偵4 妹尾義人        
偵4 鈴木茂男        
偵4 鈴木保男        

 
343空の猛者たち
時間の許す限り調べて書いていきます。
 

◆久保典義一飛曹
丙種予科練11期
マリアナ沖海戦の生き残り。
第261海軍航空隊所属、ゼロ戦でパラオ大空襲のさい
(昭和19年3月)ペリリュー邀撃戦等、サイパン・アスリート基地を
拠点とし
マリアナ方面の戦いで活躍。あ号作戦を戦い抜き、
第261海軍航空隊解隊とともにフィリピンの第201海軍航空隊を
経て、第343海軍航空隊へ編入。
紫電改搭乗。
昭和20年3月19日敵艦載機邀撃戦で瀬戸内海西部戦死
 
松場秋夫少尉(343空指導的搭乗員)
紫電のエース。
大正三年生まれ。三重県出身。操練26期。
昭和11年空母「加賀」乗り組み、翌12年、日華事変勃発。
上海上空の空戦で
ダグラス偵察爆撃機を初撃墜。空母「龍驤」乗組みのち
内地勤務、横須賀鎮守府
直属301空戦闘601「雷電」搭乗。
(藤田怡与蔵大尉指揮)に所属。硫黄島進出の折、ゼロ戦でF6Fを
6機撃墜。
「紫電」の戦闘701所属後、台湾沖航空戦では紫電で
F6Fを4機撃墜。フィリピンの戦いに
参加。マバラカットに残る最後の
紫電4機のうちの
一機。ツゲガラオに移りリンガエン湾出動を経て
輸送機で台湾、そして第343海軍航空隊へ。このとき31歳。
飛行時間は3,700時間で、戦時において10年以上。
石塚少尉と並び飛びぬけた飛行経験を積んでいた。
源田大佐に見込まれ、着任後間もなく、全搭乗員を集め
2時間の講義を行った。
のち中尉。
 
◆石塚光夫少尉343空指導的搭乗員)
大正二年生まれ。操練22期。343空最年長格。
横須賀海兵団入団後、戦艦金剛乗り組み。機関員を務める。
操練卒業後「鳳翔」乗組み。霞ヶ浦海軍航空隊
教員-大村空-九六艦戦で
上海空輸任務従事。
14空-一空曹として広東攻略作戦参加-鈴鹿空
教員-
ゼロ戦でハノイ、昆明進出、敵戦闘機十数機を撃墜。
15年矢田部空-17年大分空-大井空-19年-神ノ池空-最後の艦隊航空隊
601空戦闘106飛行隊。
343空に編入した際は32歳。
愛称は「チャン」で隊員のお父ちゃんとして慕われた
飛行場に出没する野良犬を大事にし、虐めるととても怒った。
とても優しいお父ちゃんだったという。
昭和20年8月8日熊本上空で戦死。
 
◆指宿成信少尉(343空指導的搭乗員)
甲飛予科練2期出身。鹿児島県出身。
在フィリピンの戦闘401「紫電」隊基幹搭乗員であったが
第343海軍航空隊へ抜擢後、戦闘301飛行隊中隊長にして
指導的立場を担いつつ
紫電改で数々の空戦を戦う。
数名で白菊に乗り合い、紫電改を受領途中
事故により小倉付近へ不時着負傷。その後の安否不明。
兄は同じく海軍で戦闘機搭乗員の指宿正信大尉(赤城-261空-201空、
終戦時横須賀海軍航空隊で少佐)
兄弟揃って紫電改で実戦を戦った。
唯一の例である。
 
◆大原広司飛曹長(343空指導的搭乗員)
在フィリピンの戦闘401「紫電」隊基幹搭乗員。
第343海軍航空隊へ抜擢後、戦闘301飛行隊
指導的役割の搭乗員となる。
 
◆本田稔少尉(343空指導的搭乗員)
別記する。
 
◆下鶴美幸上飛曹(343空指導的搭乗員)
台南空(ラバウル進出前)-空母瑞鳳艦載機搭乗員。
南太平洋海戦に参加。
 
◆田中利男上飛曹(343空指導的搭乗員)
204空ブイン上空で被弾落下傘降下。瀕死の重傷を負い
漂流するも生還。
 
◆宮崎勇少尉(343空指導的搭乗員)
大正八年、香川県出身。丙2。水兵として艦隊勤務後、飛行練習生を
志願
卒業。252空ラバウル進出-343空。252空時代、空戦後に
手負いのヘルキャットを(VF-10フレッチャー・ジョーンズ少尉)
を発見したが反撃不可能とみてこれを逃したエピソードが残っている。
 
◆堀光雄飛曹長
乙10-
台南空(在ラバウル)-582空教員配置ののち
大村空-海南島三亜空で南寧攻撃に参加。
高雄空で台湾沖航空戦に参加。終戦までに飛行時間1700時間
撃墜11機。戦後全日空機長。
 
◆杉田庄一飛曹長(343空指導的搭乗員)
別記。
 
◆磯崎千利大尉
大正二年愛知県生まれ。四等水兵から大尉まで叩き上げで昇進した
人物。龍驤-加賀-12空-台南空-大村空-251空-204空-201空
302空-343空分隊長。飛行時間は4,000時間以上。
戦後、松山市でうどん店経営。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています
  
戦史 ブログランキングへ


 
紫電改
 
 
出典
『三四三空隊史』戦友遺族による手記
『源田の剣改訂増補版』ヘンリーサカイダ・高木晃治共著
『日本海軍のエース』ヘンリーサカイダ著
『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会
『日本海軍戦闘機隊改訂増補版』
『第三四三海軍航空隊戦闘詳報』防衛省所蔵

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改



2016年1月18日 (月)

艦載機量産中

Imgp0685

 
コツコツ買い集めた1/144スケール食玩のゼロ戦を量産しています。
完成次第、甲板に並べていきます。
 
最近は寒くて塗装ができないので、 彩色済みのキットを
組み立ててみました。 定番の1/48ゼロ戦は トミーテック製の
スケルトン機です。 かなりのクオリティでおすすめのキットです。
そのまま組んでも簡単でそれなりのものが出来上がりますし、
エナメルでウェザリングを施せば、かなりリアルな作品が出来上がります。

2015年12月11日 (金)

ペリリュー島のラストサムライ(1)

ペリリュー島のラストサムライ
永井敬司さんのお話(1)
 
今回は水戸歩兵第二連隊の元軍曹の永井敬司さんにお話を伺った。
永井敬司さんは昭和19年9月のペリリュー島で上陸戦から
昭和22年まで終戦を
信じず戦った。
 
何回かにわけて書くことにします。永井敬司さんは93歳。
水戸歩兵第二連隊第二大隊(富田少佐指揮)本部付。
一万人の将兵が玉砕したペリリュー島で生還した
日本軍
正規兵34名の中の一人。
 

Q.篠原
ペリリュー島の戦いについてお伺いします。

A.永井さん
私は昭和19年の9月15日の上陸戦から
その前から随分艦砲射撃はあったんだけども、
いわゆる中川州男大佐が戦死したとされる11月24日までと、
その後、終戦を信じず、昭和22年までペリリュー島で
戦いました。生き残ったのは我々34名だけです。

Q.篠原
戦友の最期の姿は覚えていらっしゃいますか。

A.永井さん
みんな真面目に死んでいきましたよ。
それこそ純粋な気持ちでね。「天皇陛下万歳」といってね。

Q.篠原
最期は「お母さん」と叫んだのではないのですか。

A.永井さん
そんな女々しいのはいなかったですよ。いないいない。
そんなのいないかんね。嘘だかんね。私らの第二連隊は
よく訓練されていたから。少なくとも私の見た限りはね。
最後はやはり「天皇陛下万歳」です。
だいたい、22歳から23歳くらいの年の兵隊が多かった。
年長者でも25歳くらいです。そういう若い人たちが大勢、大勢
本当に真面目に死んでいったんです。太平洋の防波堤たれということでね。
あなたはその年齢で、そういうことが出来ますか。


Q.篠原
富田少佐の最期は自決だったのですか?

A.永井さん
自決じゃないですよ。富田少佐の最期は突撃です。
私は大隊本部にいたから見ていました。
一日目のイシマツ、イワマツ陣地(オレンジビーチ)の戦いで、
二日目に私らが到着したときは、死体が累々だった。
米軍の死体もね。南地区隊の高崎連隊の千明大隊長が頑張ってくれて、
大打撃を与えたんですね。

当初は富田大隊長が自決しようとしたんですけど、
周りが止めたんです。「大隊長、自決より突撃をしましょう」とね。
それで、富田大隊長は軍刀をスっと抜いてね、
「それでは」と言って敵陣に斬り込んで行きました。
それが大隊長を見た最後でした。

同時に無傷だった天山の砲兵陣地から掩護射撃がありました。
富田大隊長は、その友軍の援護射撃の中を突っ込んでいきました。
もしかしたら、その爆風でやられたかもしれない。熾烈なものでした。
それが二日目の夕方くらいだったかな。

Q.篠原
国の為に真面目に死んでゆく、という概念が
我々戦後世代にどうやったら少しでも理解できるでしょうか。

A.永井さん
こればっかりは当時を生きていないと難しいんじゃないですか。
私は昭和22年まで終戦を信じず戦いました。

そのことを某新聞社が「手を上げて投降した」と書いたんです。
そこで私はその新聞社と大ゲンカになりましてね、
最後まで記事を取り下げなかった。
これは私だけの問題ではないんですよ。
真面目に死んでいった戦友たちの名誉の問題でもあるんです。

死んだ戦友たちの・・・名誉の問題なのですよ。

昭和22年に澄川少将の命令解除を受けて
我々はようやくジャングルから出てきました。

そこでアメリカ軍の司令官が言ったんです。
「あなた方は捕虜ではありませんよ。捕虜というのは
戦争中に捕まった兵隊を指すのだから、もう戦争が終わって
立派に任務を遂行したではないですか」と
アメリカ軍の司令官がそう言ってくれたんです。

それなのに某新聞社は手を上げて
捕虜になったなどと・・・・私らは、死んだ戦友は
国のために最後まで戦ったんです。

Q.
アメリカ軍と戦って、アメリカ兵に
どういった感情を持っていましたか。

A.永井さん
憎らしいということはなかったですね。アメリカ兵の
死体を見ると、みんなまだ若いんですよ。私らと同じようにね。
この人たちにも祖国アメリカには恋人や奥さんや、家族がいる。
そう思うと、かわいそうになりましてね。
だけど、やらなきゃやられてしまうから戦いました。

 
つづく
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ


 

Imgp0438

2015年10月21日 (水)

ベトナム解放戦線(2)

Shutterstock_145288972

 
前回からの続き

 
「ベトコンの軍隊に入隊してくれ!階級は二階級進級させる。
給料は倍出そう。奥さんを提供する。植民地解放の為に
戦っている。ベトコンに協力してくれ」
 
思いがけぬ敗戦の報せに不安定になっていた
日本軍に対し、誘いが何度も何度もやってきた。
 
ホーチミンの進撃
ハノイからはホーチミン将軍を盟主とした
越南独立同盟党がベトナム民主共和国の独立を宣言。
サイゴンに向かって進撃を開始した。
 
ベトナム独立運動は一般民衆をも刺激し
「打倒フランス」の雄叫びをあげ仏印全土へ広がって行く。
 

解放戦線へ加わる者たち
 
「決して軽拳妄動してはならぬ!」
連隊長の訓示も空しく、毎日のように離隊者
(解放戦線へ身を投じる者)が
続出した。
 
光橋中尉は戦争が終結した以上、部下をこれ以上
一人も死なせず日本へ連れて帰ることを決意していたが
ついに光橋中尉率いる五中隊からも離隊者が出る。
 

Nという兵隊が手榴弾を持って逃亡する。
Nは離隊の際、一度帰ってきて雨の降る晩にまた出て行ったという。
一個分隊でNを捜索に出た。
 

捜索中、揺り籠の女が居た。
女の視線が二階を気にするので
行って見ると、そこに案の定Nが居た。
 
「なんで国へ帰らないんだ。もう戦争はおわったんだぞ!」
 
「・・・おっかやん死んだから」
 
「そんな証拠どこにあるんだ!」
 
「・・・いや、もう弱かったから」
 
「そんなことあるか!故郷に帰るぞ!」
 
事なきを得て、Nをプノンペンに連れ帰った。
 
フランス軍を守る
8月15日をもって、サイゴンの捕虜収容所にあった
フランス軍は一転、一応の戦勝国となり
連合軍司令部となった。しかしもっとも弱かったのが
サイゴンの連合軍司令部であった。
サイゴンの市街地の中心に僅かなフランス軍、それを
ぐるりと英印軍が守り、それでもベトナム解放軍が破って来るので
さらに広域に渡って再武装した日本軍が警備にあたった。
 
フランス軍一個中隊(約200名)がベトコンに襲撃を食らって壊滅した。
警備のため、日本軍一個分隊(20名)が出動。彼らは日本軍
兵士の姿を目撃すると、ただちに攻撃をやめ、間もなく両軍による戦闘は
沈静化した。このほかにも各地で小競り合いが起きていたが
日本軍が出動するとピタリと止んだ。
 

ベトナム解放軍はメコン川にかかる橋の破壊工作を開始した。
それは徒歩で渡れるような小さな橋から、大きな鉄道橋も含まれていた。
破壊工作というのは、彼らは橋の橋脚や骨組みはそのまま残し、
踏み板のみを撤去してしまうのだという。
 
サイゴンの連合軍司令部からは、ベトコンの武装解除せよと
(ベトコンは武装解除に応じないからつまり彼らを撃破せよ、ということか)

命令が飛んでくる。それで解放軍のところへ一応は出動するのだが
友達だから、お互い戦いたくはないし、皮肉にも日本軍が戻った地域は
至って平穏そのものとなる。
 

メコン川の西側に光橋中尉の部下の分隊が取り残された。
部下の分隊は解放軍に包囲されている。
フランス軍からはベトコンを駆逐せよと

命令が飛んできている。彼らは日本軍と戦わない。
そのかわり徹底してフランス軍には抵抗したため
部下の分隊は戦わずメコン川の向こう岸で孤立している。
 
ベトナム解放軍へ告ぐ、日本人として最後の訴え
光橋中尉が出動し、橋を守る
解放軍兵士の士官と話をしたが
フランス軍の指揮下とあれば頑なに橋を通そうとしない。

 
彼らは要求を断り「帰れ帰れ」と言いながら、なぜか
あたたかい食事を用意してくれる。それでいてお互いに
「向こう岸へ通せ」、「嫌だ、絶対に通さん」と繰り返し
拳銃を突きつけあっている。
不思議な関係だった。ついに光橋中尉は決心する。
 

「お前ら!もう俺たちは戦争に負けて日本へ帰るんだから
独立するんならしっかりやらなきゃダメだそ!」
 
日本は戦争に負けた。それなのに、
2、3年すれば日本は再び強国になってベトナムに戻ってきてくれると
本気で信じていたベトナム民が多く存在したからだ。
 
「俺はもう話さんぞ!時間切れだ!向こう岸へ渡る!
お前らの好きなようにしろ!撃ちたければ撃て!」
 
光橋中尉は解放軍の士官にそう言い残すと、橋を渡り始めた。
向こう岸に残る部下を救うために。
 
ベトナム解放軍の士官と兵士は最後のセリフに圧倒され
黙って見ていた。
 
一方、アンコールワットの東側では、ハノイに近く
日本軍にも敵意をむき出しにして南下するホーチミン将軍と
氏木中隊が戦っていた。
 
つづく
 
また、少しずつ書きます。

2015年10月17日 (土)

那須塩原市での講演会

2015101611480000

 
今日は那須塩原市で講演会を行いました。
多くの戦没者ご遺族ならびに、那須塩原市長、国会議員の方も
お見えになりました。

  
しかし相手がどなたであろうと、私の気持ちは同じです。
是が非でも伝えたいことがあります。
  
大勢の前でお話しするのは苦手なのですが、
不器用なりに、想いを精一杯喋ったつもりです。

2015年10月12日 (月)

天皇陛下のアンガウル島拝礼

天皇陛下のペリリュー島・アンガウル島拝礼

にわかに信じられませんが、本当の話です。
私は天皇陛下のペリリュー訪問が決まったときから、
同様にアンガウルの戦没者も慰霊して頂きたいと
方々で何度も何度も訴えてきました。
 
その私の記事を、宮内庁の侍従か侍従長がご覧になって、
陛下のお耳に入ったとのことでした。

アンガウルの拝礼は「篠原さんがきっかけです」と
宮内庁の侍従の方が仰っていましたから間違いありません。
 
両陛下はペリリュー島の戦没者慰霊碑に菊の花を手向けられた後、
防波堤の方へ進み出てアンガウル島へ拝礼されました。
この、アンガウル島への拝礼は当初、予定になく
陛下のご意向で当日決まったことでした。
 
アンガウルで散った千二百余名の戦没者の方々の慰霊と
周知のため、私が少しでもお役に立てたなら、
よかったと思います。

2015年10月 1日 (木)

土田喜代一さん

土田喜代一

 
私の友人でペリリュー戦研究者のS氏が

福岡県にお住まいでペリリュー島玉砕戦生還者の
土田喜代一さんを訪ね、拙著『パラオ戦跡を巡る』をお渡し頂きました。
   
土田さんは昭和19年当時、海軍の第761海軍航空隊(龍)所属で
ペリリュー航空基地で地上
見張り員をしていましたがペリリュー島へ
取り残され、急遽、応急陸戦隊(大谷部隊)を編成。
陸軍とともに戦いました。
 
特筆すべき点は土田さんは終戦を信じず
昭和22年4月まで、およそ1年半も戦い続けたことです。
その詳細は様々な本が出ています。
 
土田さんからは多くの資料をお借りし、拙著の編纂に
多大なる協力を頂きました。土田さんが経験した
戦闘の詳細や終戦後の抗戦など、手記もお預かり
していましたので、それも拙著に盛り込もうと考えていたのですが
すっかりテレビやプロの作家さんに先を越されてしまいました。
 
土田喜代一氏
昭和18年1月10日佐世保海兵団志願入隊
同年4月、博多海軍航空隊へ入隊。 同年10月
横須賀見張り学校へ入校。同年11月、鹿屋海軍航空隊に転属。
第一航空艦隊・第761海軍航空隊(龍)へ転属。
一式陸攻二四型72機(ほか彗星・銀河など)を有する最新鋭部隊。
第一航空艦隊司令長官角田中将テニアン(天寧)玉砕
ペリリューで大谷龍蔵大佐指揮のもと海軍応急陸戦隊を編成。
玉砕戦を生還、なおも終戦を信じず昭和22年4月、澄川少将の
命令で武装解除に応じる。写真は新兵時に撮影したもの。
 

土田喜代一

 
土田さん、お世話になりました。ありがとうございます。
これからもお元気で。
 

澄川道男海軍少将

▲ペリリュー島に於いて終戦後もそれを信じず抵抗を続ける日本兵
(土田さん含む)に対し、説得、停戦命令を伝達すべく、作戦を練る澄川道男海軍少将。
左から二番目。
 

2015年9月29日 (火)

一式陸攻を見学(河口湖自動車博物館)

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。
ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が
見学できる場所です。現在、胴体と尾翼の修復まで終わり
残りは主翼のみとなりました。格納庫の隅に展示してあります。
 
一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、ゼロ戦と並んで
先の大戦の主戦力となりました。それにしても、
 
75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した
日本は凄い。それらを必死に支えた国民の底力に敬意と
感謝を表する次第であります。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ 
 
河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し
見学できる。それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。
8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも
かかわらず、多くの人が訪れていた。 
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館 
 
いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。
ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。三脚、自撮り棒は
もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み
禁止。i-padも禁止。
 
なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか?
こういう理由らしい。

一式陸攻 河口湖自動車博物館 

館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、
携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。私は
実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館


それにしても大きい。 

まずは機首の風防から見てみよう。
この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので
風防越しに内部が細部までよく見える。とても興味深い。
内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが
これだけでも満足。
   
風防に使われている。
アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。

 

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
▲一番前(ドーム型の先端)は爆撃手が座る。爆撃手の席は
よく見える。写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり
細部まで非常に緻密に復元されている。
 
爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、
床はアクリルの透明張りだ。
特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より
窓が多くなっており
良く視界が確保されている。
 
一式陸攻の水平爆撃
一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、
爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると
翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より
爆撃する。これを合図に、後続の機が続く。よって
一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。
単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による
網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。
 
戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を
卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。
戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。
 
地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって
7000メートル程度。地上目標は動かないから優秀な爆撃種が
一番機に乗っていればそれでよかった。
 
問題は艦船の爆撃である。
敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて
3000-4000メートルで行われた。これは対空砲火を避ける以外に
敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。
これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを
突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを
与えられない。
 
戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。
戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで
3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は
すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。
こればかりは運であった。優秀な爆撃手ともなると敵艦の
ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか
見極めたという。
 
一式陸攻の雷撃
一式陸攻の最も最初の活躍といえば
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの
レパルスの撃沈が有名である。
雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し
大凡30度の角度で入水。この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。
敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても
20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。
理想的な高度とされた。
 
ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの
超低空で飛行した。これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで
しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば
敵の弾は当たらないという考えであった。それで敵艦に突っ込んで行って
魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では
回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。
そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る
戦法に切り替えたのである。結果的にこのほうが被弾率は少ない。
 
しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや
並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか
かわせない。プリンス・オブ・ウェールスでは
腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。
さすがは伝統のロイヤルネイビー。敵ながらあっぱれと思ったそうである。
 
その後、ニューギニアに進出し、連日のように
連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると
一式陸攻の消耗は激しくなった。
 

2015082710460000_2

▲その右上が操縦席。
高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、
全体の配置などはよくわかる。全て復元が終了した暁には
ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。
 
一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要)
主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。
主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の
日本の飛行機だからそういう並び。
 
一式陸攻は原則、7人乗りである。
・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。機銃兼任)
・射爆員(爆撃・雷撃手。操縦員兼任の場合あり。機銃兼任)
・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任)
・電信員(機銃を兼任)
 
電信、偵察は兼任するケースが多い。大戦初期においては
7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。
 
これに編隊の指揮官や同乗者が加わると
8名~10名になる場合、また、戦争末期で
副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。
 
一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか?
よろしければ以下もご覧ください。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ 
  
(一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り
兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている)
 
主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。
後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり
そちらが機長となっている場合もある。
 
これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで
真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば
「操縦員は操縦に専念してればいい。後席の偵察員が見張りや
航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と
語っている。
  

2015082712040000

▲操縦席の風防を開けたところ。
これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。
 
内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は
諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも
色々な説がある。
 
機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。
 

2015082711460000

▲鮮やかな日の丸。入口のハッチがある。
 
誰がなんと言おうと、美しい。
鮮やかな日の丸に感激する。格納庫の中で最も兎角
目を引くのだ。白い縁取りがまたそれを際立たせている。
一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。
この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し
主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は
サンライズに思える。
 
一式陸攻の生存率
一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの
一式陸攻の任務は
敵陣へ攻め入ることが殆どの為、
脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる
ケースがほとんどであった。
 
一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為
一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。
敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、
護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。
とにかく、回避行動はとれない。 
 
戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを
聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく
滅多にお目にかかる機会はない。幸運中の幸運が重なり
生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが
終戦までに戦死している。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
  

2015082710480000 
▲この機体はヤップ島のジャングルから回収されたもので
翼の付け根から後ろが完全なオリジナル。前方は図面に基づいて
復元された。
 

2015082710370000

▲バラレ島の一式陸攻
復元の際に参考にされたバラレ島に残された
一式陸攻一一型。 
 
関連記事
硫黄島の一式陸攻

2

 

2015092021500000

▲20ミリ動力銃塔。
 
電動の20ミリ銃塔。
敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。
敵戦闘機に捕捉された場合、
通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に
飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。
 

2015082710530000

▲上面の機体色と下面の灰色の境目が
グラデーションになっている。
実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて
いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。
 

2015082710580001

▲銘板
ステンシルで刻印された銘板。
復元機は第761海軍航空隊(龍)の機体である。
第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・
ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で
一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。
最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。
 
航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって
ペリリュー島玉砕戦に参加。中川州男大佐とともに
玉砕した。土田喜代一氏は第761海軍航空隊の
地上見張り員だった。
 
関連記事
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)東京初空襲
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦

 
関連記事
テニアン島へ行こう
帝国海軍ペリリュー航空基地跡へ行く
土田さんの天皇陛下拝謁
中川大佐玉砕の地へ
  

2015082711520000 

▲主翼の断面を見ることができる。
 
復元が完了してしまえばこの部分は見られない。貴重である。ゼロ戦同様
主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に
アルミ合金が貼ってある。
 
一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。
このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと
言われているが、ちょっと待ってほしい。
 
ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから
日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。
それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。
当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。アメリカと戦争してみて
はじめてそれが不利なこととわかったのだ。

 

2015082711510000 
館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに
掲示されていた。何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に
復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。
 

2015082710520000 

一式陸攻の尾翼上部には「桜花」が吊り下げられていた。
桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し
切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。
私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。 
 
関連記事
桜花の胴体に日の丸がなかった理由
神雷部隊「桜花」別杯の地へ
鹿屋航空基地資料館
桜花カタパルト基地跡へ

2015092021440000 
▲貼り付けられた桜花の説明文。
私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。
桜花は桜花だ。
 

2015082710410000

2015082710490002

  
一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。
ここは日本で唯一ゼロ戦二一型を展示しているところでもある。
 
関連記事
 

2015082710490000

2015082711040000

2015082711050000 
骨格も展示されている。骨格が見られるのも全国でここだけ。
ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。
 
後ろは第263海軍航空隊(豹)のゼロ戦五二型
 

2015082712030000

2015092021410000 

こちらは一式戦闘機「隼」
ジュラルミン地剥き出しで、その鈍い輝き、質感などがよく見てわかる。
みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。
資料としての価値は最高に高いのだが。写真ではわかりにくいから
ぜひ足を運んでみてください。隼の後ろには戦意高揚のため
印刷されたポスターが展示されている。こういったものも非常に貴重。
まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。
 
関連記事
知覧~ある特攻隊員と少年の実話「少尉と隼」
 

2015082711080000


ここはエンジンの展示も素晴らしく、保存状態も良い。
これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40

「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。
細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも
充分に見る価値がある。後ろにあるのがこのエンジンに搭載された
過給器(スーパーチャージャー)だ。
 
関連記事
航空機に見る陸海軍の確執

Db601

  
このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で
保存されれている。誉エンジンは素晴らしい。誉エンジンを
搭載した機体はいずれも優秀だ。
「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。
 

2015082710420000 
機体は細部までよく観察できるようになっている。
あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが

頼むからやめてください。そういうことをするから制約が
増えてしまうんですってば。
 
オレオ式の脚。うーむ・・・。75年前とは思えないほど良い仕事してる。
まさに芸術作品だ。 
 

2015082711390000


青色塗装は腐食防止用塗装。
海軍機に多く見られる特徴だ。
本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが
それでも腐ることは腐る。白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが
それだ。可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。
 
後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で
当時はそんな呼び方は存在しなかった。
 
写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと
薄い色だ。工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて
ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。すなわち
ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が
空けた青色と説明すればわかるだろうか。
 

 
航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。
 
歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。
どれも素晴らしかった。また来ようと思う。
カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。
 
一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが
展示スペースが確保できず探しているそうだ。
来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ



2015年9月26日 (土)

さらば空中戦艦富嶽

富嶽 爆撃機

◆富嶽計画概要
  
富嶽(ふがく)は中島飛行機が開発を行った超大型重爆・戦略爆撃機で
またの名を空中戦艦「富嶽」と呼称した。富嶽を用いた富嶽計画は
中島飛行機創設者であり、大所長の中島知久平が考案、推し進めた唯一の
必勝戦策であった。
 
中島知久平は英米と真っ向勝負を挑んでも、勝ち目がない事を
戦前より繰り返し唱えており、
戦艦の建造競争は今すぐ
やめるべきだと主張。
 
いずれ必ずやアメリカの超重爆が日本本土に来襲し
焦土と化すであろう、それより先に、我が国が戦力の主力を航空機に据え
アメリカ本土の工業地帯の中枢を叩き、
撃滅。決戦を挑むことにより
早期講和を引き出すことが絶対条件と
捉えていた。
 
日本を離陸した富嶽は太平洋を無着陸で横断し、アメリカ本土を爆撃。
そのまま大西洋を横断しドイツ占領下のフランスへ着陸。給油後、日本へ
帰還する計画で
地球を東回りに一周することになる。
 
◆中島知久平の必勝戦策

昭和13年、中島知久平はどうしても戦争をやるなら、勝つためには
これしかないと、九十八
頁に及ぶ必勝戦策を書き綴った。
 
必勝戦策の第一章「大型飛行機出現による国防の危機」と題した
中島知久平は最も危惧すべき点として
「アメリカの開発中の超重爆が必ずや日本本土を焦土と化す」
と主張。B-29による本土爆撃をもっとも早くから予期した。
それであるから、それ以前に日本の超重爆が
米国中枢の工業地帯を
叩こうという作戦である。
いくら迎撃用の戦闘機を開発しても無駄で
あるから、その前に
全ての資材、国民の総力を結集し富嶽の製造に充てる
べきであると書かれている。
 
富嶽
 
◆富嶽空中艦隊でアメリカ本土を爆撃せよ
富嶽の発進基地はアメリカ本土に一番近い占守島として整備を進める。
時速200km/hのジェット気流に乗った富嶽は北太平洋を無着陸で
悠々飛行しアメリカ本土を爆撃。爆撃目標はアメリカ工業力中枢
ピッツバーグ重工業地帯である。敵の生産力の中枢を叩き潰す。
さらにニューヨーク、ワシントンを爆撃し戦意消失を図る。
アメリカ本土爆撃後はそのまま大西洋を横断しドイツ占領下の
フランスへ着陸。給油後、地球を東回りで一周し日本へ帰還する
 
空中艦隊には機関銃400挺を装備した護衛の掃射機も考案された。
他に20本の魚雷を積んだ雷撃機、兵員200名を乗せて運ぶ輸送機
タイプがあった。
マリアナへ出撃した別働隊はB-29に対し
空中砲撃戦を展開。
たちどころに撃破する。魚雷20本を抱いた
富嶽雷撃隊は
アメリカ機動部隊を捕捉。これを撃滅する。
 
◆アメリカ本土へ兵員を空輸・勝利せよ
 
こうして富嶽を500機1000機とアメリカ本土爆撃に投入し
最後は富嶽で大量の兵員を空輸し勝利する。
 

富嶽

▲左から「富嶽」、「一式陸攻」、「ゼロ戦」、比較。

 
◆富嶽の仕様
(カッコ内はB-29との比較)
 
翼長65メートル、胴体45メートル
(B-29の1.5倍から2倍の大きさ)
 
三点静止角度9度、主翼面積350平方メートル
最大翼弦9メートル、上反角3.5度
縦横比1対0.5、取付角6度
水平尾翼面積60平方メートル、垂直尾翼面積40平方メートル
胴体内燃料タンク容量4万2720リットル
翼面荷重457キログラム/平方メートル
馬力荷重5.3キログラム/馬力
自重67.03トン、爆弾積載量20トン(B-29/10トン)
全備重量160,000kg
 
上昇限度15,000m(B-29/10250m)
最高速度700km/h(B-29/550km/h)
航続距離18,000km(B-29/5,300km)
航続距離は機体の仕様から割り出すと16,000kmと短いが
成層圏のジェット気流を利用すれば20-30%伸びると考えられた。
 
エンジン
5000馬力を6発(B-29/2400馬力4発)
ダブルBH(陸軍名称ハ-219)空冷星形18気筒2500馬力を
前後に並べる。
すなわち富嶽は6発機であるがエンジンは
エンジンナセルに2基ずつ収め、計12基搭載と同様。
 
プロペラ
住友製直径4.8メートル6枚翅、あるいは4枚翅の二重反転プロペラ
 
富嶽は当初、最後の切り札という意味合いで「Z機」のコードネームを
付与されていたが
のちに富嶽と命名される。
 
◆中島知久平とは
中島知久平は明治17年生まれ
群馬県新田郡尾島町出身(現在の太田市)
中島飛行機の創設者である。
 
豪農の長男として生まれ育った知久平少年は後継ぎの最有力であった。
知久平少年は何度も中学進学を懇願したが、父は許さなかった。
その間にも知久平少年は友達から中学の教科書を借りては読み
漢字も習いに通っていた。しかし英語だけは
独学ではどうにもならない
ことに限界を感じていた。
 
どうしても勉強がしたい知久平少年はついに決心。ある夜、書置きを残して
密かに家出をしてしまう。
利根川の土手を沿って東京へ出て行くのだった。
 
「ぼくはどうしても勉強してりっぱな人になりたいのです。
そのために東京に行きます。ぼくのことは死んだと思って
あきらめて、探さないでください。ぼくがいなくなれば
お父さんもお母さんも手不足でこまるとおもいますが
弟たちがすぐに役に立つようになるのですから当分のあいだ
がまんをしてください。
また、悪いこととはおもいながらも、学資がいりますので
神棚にあがっているお金をもって行きます。さぞおこまりに
なるとはおもいますが、しばらく貸してください。一生懸命勉強して
はやくえらい人になり、何倍にしてもかならず返します。
勝手なことをして申しわけありません。どうぞ親不孝の罪を
おゆるしねがいます」
 
生まれて初めて東京に出た知久平少年は同郷の正田満の家を訪ねた。
正田は知久平の隣家で満は徴兵で東京の
第一師団歩兵第三連隊
(通称麻布三連隊)に入隊し
古参の軍曹になっていた。知久平少年の
熱意に圧倒された満は
「よし、お前の居所は誰にも知らせない。陸軍士官学校へ入ったら俺が
おやじに詫びてやるから、安心して勉強しろ」
と神田の下宿屋を紹介した。
以来、知久平少年は勉強机は石油缶で代用し、風呂は一ヶ月に一度。
床屋は三ヶ月に一度、
夏はふんどしひとつで過ごし、勉強した。
全ての時間を勉強に費やすため、一切アルバイトをやらず、
ケチケチ作戦で凌ぎぎった。下宿に布団はなく石油缶にもたれて
いつの間にか眠っている、そんな毎日だった。
 
満はそんな知久平少年を見かね、援助してやることに決めたが
下士官で安い給料だったので、好きなタバコも酒もやめて
できるだけ知久平少年と苦労をわかちあった。
 
陸軍士官学校へ入りたいという希望には知久平少年なりの
考えがあった。当時、ロシアが旅順と大連を租借して着々と東洋に
対する侵略の手を伸ばしていた。
ロシアからの脅威から日本を守るため、
身を捧げ
陸軍士官になるのが一番だと考えたのだ。
 
知久平少年は約一年半で中学卒業と同様の資格が得られる
専検に合格した。この頃になると、父に居所がバレてしまっていたが
その志を父は許していた。しかし父の希望で陸軍をやめて海軍に入るよう
説得される。海軍のトップエリートといえば海軍兵学校か海軍機関学校だが
知久平少年の望みは兵学校だった。
機関学校へ入った経緯について
知久平の甥によると
海軍機関学校の試験が11月頃で、兵学校は翌年春
だったので
機関学校は小手調べのつもりで受験し合格した。
父に相談したら「高望みをするものではない」といわれて兵学校受験を
諦めたと伝えられている。
 
海軍機関学校へ入学した中島知久平は、その4日前
ライト兄弟の初飛行を聞き「自分の将来はこれだ」と決めた。
海軍機関学校を恩賜の銀時計組(トップスリー)で卒業すると
直ちに飛行機を専攻しアメリカへ出張。日本人で3番目の操縦の
ライセンスを取得した。
 
帰国後、国産飛行船で1時間40分の滞空記録を樹立。
さらに海軍工廠で国産一号機を作り海軍の飛行機製造の第一人者となった。
また、世界最初の雷撃機を考案。これが将来の主力兵器だと断言。
戦艦金剛一隻で飛行機三千機が作れた時代に
貧しい日本が英米と戦艦の建造競争をすべきでない
と飛行機国防論を提出した。このとき海軍大尉。
 
◆海軍を辞め中島飛行機を設立
 
大正6年6月
飛行機国防論が無視されると、さっさと海軍を辞め
自分で飛行機を作るために中島飛行機を設立。
 
さっさと辞め、とは言っても海軍退官にあたって
中島知久平は「辞職の辞」と題して長文のあいさつ文を印刷して方々に
配布して回った。それは辞職届と呼ぶより
自らの
主張した「飛行機国防論」そのものであった。
 
「当時の超弩級戦艦『金剛』一隻の資材を分配し航空戦力に
充てるべきである。
欧米と戦艦同士の真っ向勝負すべきでない。
そして航空機には魚雷を携行すれば、その威力たるや
金剛より優れる」といった内容であった。
 
このとき、中島知久平の最も良き理解者であった
大西瀧治郎(当時は大尉)も中島の立ち上げる飛行機会社
に入るつもりでいたが、海軍に却下され始末書を書かされている。
そのかわり大西は資金集めに走り、海軍に残っては航空主兵論
戦艦無用論を繰り返し唱えた。
 
中島知久平は自らプロペラ一本一本を手で削る苦労を経て
陸海軍に純国産の主力機を納入する飛行機会社へ成長した。
民間会社である中島飛行機が三菱や住友などの大財閥を超える
大企業へ成長したことは
特筆すべき点である。
 
中島は故郷の群馬県尾島町へ戻り
両親の為に総檜造りの大屋敷を建設する。中島知久平邸は
ステンドグラスやシャンデリアなど細部にわたり豪華な装飾が施され、
部屋から見渡せる広い前庭や来客を迎える重厚な車寄せなど、
宮殿建築としての特徴が随所にみられ、近代和風建築を代表する
建造物として太田市の重要文化財に指定され、現在も見学可能である。
(現在の名称は太田市中島知久平邸地域交流センター)
 
◆富嶽計画の推進 
 
中島知久平という人物と中島飛行機の創設を簡単に記したところで
話を富嶽に戻そう。昭和17年
ミッドウェイでの敗退をいち早く知ったのが、
他ならぬ中島知久平であった。
このとき
東京・日比谷の市政会館に事務所を構え無線を傍受していた
中島は
民間人でありながら、軍部の関係者より情報に詳しかった。
 
ラジオからは挑発的な文言が流れる。
 
「勇敢な合衆国海軍はパールハーバーで騙し討ちをした
ジャップの空母四隻を沈めました。赤城、加賀、飛龍、蒼龍だと思われます。
アメリカはヨークタウン一隻を失っただけです。これで日本は当面
攻勢に出てこれないでしょう。山本五十六はハラキリをするのでは
ないでしょうか。今度は我々がバッターボックスに入る番だと
ニミッツ提督は
言っています。」
 
「なんだこれは!?大本営発表と全然違うじゃないか!」
 
「米国はどんな犠牲を払ってでもサイパングアムを取りにくる。しかし
それを阻止する機動部隊はない。
戦前、渡洋爆撃を禁止しろ、
渡洋爆撃は非人道的だと残虐性を主張してきた
ルーズベルトがB-29を
使って我が国を焦土と化す。
かくなる上は、対抗手段を取らざる得ない
やむにやまれず、
戦争とはそういうものだ」
 
そう言って自ら製本した必勝戦策を携え
次々と各界の要人を歴訪して回った。
一番最初に訪問したのは前首相の近衛侯爵であった。
 
必勝戦策に他ならぬ関心を示したのが、軍令部参謀で海軍大佐の
高松宮だった。
中島知久平の日記によると次のように書かれている。
 
「高松宮出殿下よりお召しあり。御殿にてZ機について詳細言上す。
なお、政治、戦争、社会問題について御下問あり。意見言上す。
有難き激励のお言葉あり。
恐懼退出す。また富嶽の進行につき
中間言上すべきことを
申し上げ、御嘉納ありたり」
 
もう上手に負ける事を考えるしかないと
言っていた高松宮は有利な講和のきっかけとして
期待していたのかもしれない。
 
中島は粘り強く説得を続けて回った。
「Z飛行機の決定の遅延一日が国家の運命に重大なる
結果を招来することは、論議の余地を存しない
ところであります。何卒、ご勇断の程を願うてやまざる
次第であります」
 
昭和18年秋
一番の難関は総理大臣で陸軍大臣兼軍需大臣、間もなく
参謀総長も兼任する東條
英機大将を説得することだった。
中島知久平は東條に対し「Z機以外に必勝の策があるのか」と詰め寄ると
東條は遂に
「敗戦思想は許されないが、必勝戦策とあればいいでしょう。
やってみなさい」と製作が決定した。
 
しかしこのとき既に日本は劣勢に転じていた。
 
昭和19年のはじめ、ようやく「富嶽委員会」が
東京の明治生命ビルの6階に設置された。中島委員長をはじめ
陸海軍の代表委員が集められ、
最高機密のため中島事務所とだけ
記された。
そしてこのときはじめてZ機名称が正式に「富嶽」と名付けられた。
一方、ピッツバーグ工業地帯では月産100機を目標にB-29の量産に
入っていた。
  
 
中島知久平は全国各地から若く優秀な一等技師を
群馬県小泉製作所内にある太田クラブに呼び集めた。
世にいう太田クラブ缶詰事件である。
 
当時、小泉製作所では零戦、銀河、月光、天山、彩雲、連山、橘花など
を製作しており、連日、工場から送られる銀河の爆音のもと
各技師達は3か月缶詰となって富嶽の設計に尽力した。
 

Imgp9936

 
次に記すのが富嶽設計メンバーである。
コメントも記す。
 
●吉田孝雄/小泉製作所所長
ゼロ戦、銀河など月産400機の
量産システムを構築した。
 
●反町忠男/試作工場長
戦後富士重工太田北工場長
 
「まあ、作ることは前に連山とか深山とかありましたから
大きな飛行機でも作る立場からは心配はしてません。
いっぺんに作るってことは致しませんから。
羽は羽でも分けるわけですね。前と後ろを繋ぐと方法があるんです。
大所長(中島知久平)は力強かったですね。とにかく設計陣は総力を
あげてこれをやれということですから、みんな感激しました。」
 
●小山悌/技師長
隼の設計メンバーとして名高い中島飛行機の至宝。
 
●太田稔/技師/脚油圧担当
ノモンハンで有名を馳せた九七式戦闘機を作った。
戦後富士重工顧問
 
「車輪は直径が一間以上、幅が50センチ。車輪が浮きますと
パイロットの操作なしに
油圧と空気圧を使いまして自動的に片側の車輪を
放りだすという構造にしたわけです。上昇が軽くなります。片側1トン
ずつで
約2トン軽くなります。離陸のときの重量がだいたい約150トンで
着陸するときは爆撃を済ませて燃料も使い果たしていますから60数トンと
半分以下になりますから充分安全に着陸機能を果たせる。
こういうわけです」
 
●松村健一/技師
通称マツケンとして名声を馳せた天才的設計者。
戦前既にB-29と同じサイズの深山を作り、目下四発攻撃機
「連山」を開発中であった。
 
●西村節郎/技師/エンジン艤装担当
決戦機と期待された四式戦闘機疾風を手掛けた。
戦後秋田県能代市長
 
「出来る出来ないではなくて、そううい事ををやらにゃいかんのやと。
やるとなったらそれ一筋。中島知久平さんていう方はそういう方でした。」
 
●小谷武夫/技師/エンジン設計部長
誉エンジンの開発者。
 
●田中清史/技師/エンジン設計担当
戦後東京プラント社長
 
「落ち着いて実験をやって発動機の形式を決める余裕はなかった。
それでその当時は一応はものにしておりました空冷星形発動機を
基礎型にとりまして、なんとかこれなら、という案が2、3出たんです」
 
●水谷総太郎/エンジン実験課長
戦後富士重工取締役
 
「このエンジンの模型を見まして、まとめるのが大変だと思いました。
問題はエンジンの冷却です」
 
●新山春雄/技師/艤装担当
戦後日産自動車顧問
 
「アメリカがB-29の生産を始めたと知久平さんの耳に入った
ものですから、このままじゃ日本は必ず爆撃される。もう全部の仕事を
やめて、知恵と材料を集めて
富嶽を作るんだと」
 
●渋谷巌/技師/主翼構造担当
戦後富士重工常務取締役
 
「富嶽は飛び上がると翼の先端が1.3メートルたわむんです。全備で
旋回すると5.4メートルもたわみます。構造材料も
当時はそれほど
剛性の高いものはありませんでしたので、
結局は非常にやわらかい
非常におおきな翼になったんです。
超々ジュラルミンを波板にしまして
外皮を貼ってくんです。
そういう剛性を持たせた翼を作ろうと」
 
●宮坂晋/技師/製図担当
連山、深山の飛行試験に立ち会う
戦後富士重工勤務
 
「当時、飛行機の製造は陸軍と海軍に別れていたものですから
陸軍、海軍からそれぞれ40名ずつ小泉製作所の三階に集められて
始められたんです」
 
●内藤子生/技師/空気力学担当
戦後東海大学教授・航空宇宙学
 
「富嶽は翼の大きさに比べて目方が非常に重いわけです
その比率は今日のジェット機と同じくらいの比率なんです。
こういうことを急速にやるには技師を集めて太田のクラブに
缶詰にしてやるのが一番敏速にやれるだろうということで」
 
●中村勝治/技師
戦後スバル自動車顧問
 
「中島さんて非常にデータ、情報を集めておられて、
当時日本でも第一人者でした。もしかしたら軍部より米国の情報
集めてたんじゃないかと思うんです。それらを分析した結果、
今のままではとてもダメだと。勝つ為にはこうしなきゃいけないと」
 
◆重なる難題と迫るアメリカの本土爆撃 
 
富嶽計画は昭和20年6月までに400機完成を
目指して進められた。機体のデザインは何とか完成し
問題だった冷却も、アイディアが考案された。最大の課題は排気タービンで
あったが
実験が継続されていた。成層圏を飛行するにあたり、当初は
気密服を着用し
気密部屋は作らない。従って食事、排尿の問題は
未解決とされていたが、もう少し進んだ段階になると気密室特別委員会が
結成され気密室の研究が進められた。
 
中島知久平はある日、富嶽計画に懐疑的だった役員に
「中島飛行機は金儲けのやめにあるのではない!軍のわからずやどもが
なんと言おうが国家が重大な危機に
直面している今やそれを傍観すること
ができるか!
これを打開すべく最も役に立つ飛行機を作って奉公せね
ばならぬのだ」
と説得。
 
工員たちには
「戦争が終われば富嶽は世界一周の遊覧飛行機になるんだよ」
と言って聞かせた。
 
そんな中、軍需相が命じていた「川西案による富嶽」の存在を中島知久平が
知り「競争している場合ではない、全く必勝戦策が理解されていない!」と
批判した。
 
◆大西滝治郎中将が富嶽計画の中止を伝える
 
大西滝治郎中将が中島を訪ね、
富嶽計画が中止されることを伝えた。
思えば開戦より遥かに前の昭和13年から戦略爆撃機の開発による
必勝戦策を説いて回ったにもかかわらず、昭和19年まで無視され続けた。
富嶽計画がもっと早くから着目されれば日本も焦土にならずに
済んだのかもしれない。
 
中島知久平最大の理解者である大西滝治郎が
成功法であった「富嶽」計画の中止を伝え、
特攻作戦を始めたとされるのは、
なんとも言い難い悲運であった。
 
各技師は元の工場へ戻された。いつ完成するかわからない飛行機よりも
いま出来上がる飛行機が一機でも欲しい。軍需相は中島飛行機を接収して
軍の直轄とするとともに攻撃機「剣」の生産を開始した。
 
10年、20年先の計画を立てられぬ軍部の石頭が、
日本の不幸はそこにあった。その致命的な欠陥を軍部は大和魂で
埋めようと多くの若い命が散った。
 
◆戦後
 
戦後はGHQにより財閥、および民間であっても
飛行機の製造の一切が禁止され、中島飛行機は解体した。
富嶽に関するもので残っているのは
三面図と富嶽製作日記と必勝戦策だけである。
中島知久平はA級戦犯指定を受けたが後に解除されている。
 
◆富嶽の残したもの
 
富嶽計画は中止となったが
その技術は今日の技術大国日本に脈々と受け継がれている。
戦後の日本の成長は、こうした技術者たちの努力の賜物であり
富嶽は姿を変え不死鳥のように蘇ったといえよう。
 
中島知久平は、晩年、親しい側近に次のようにもらしていたという。
 
「今の政治家の中には一年先はおろか、明日の事すら考えて
いないのがいる。政治家たるものは少なくとも五年先
十年先くらいのことを考えていないといかんな」
  

富嶽

  
出展
『さらば空中戦艦富嶽』碇義朗
『巨人中島知久平』渡部一英
NNN系列テレビ番組1979年
『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ



 
関連記事
 
四式戦「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所 
中島飛行機ロゴマークのダウンロード 
ブルーホーネットのアクロバット飛行

中島飛行機ロゴ

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

九九式艦上爆撃機 江草隆繁少佐機01

九九式艦上爆撃機江草隆繁少佐機02

Copyright Raimundo79 / Shutterstock.com

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

機体は艦爆の神様と呼ばれた江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機である。
江草隆繁少佐の九九艦爆は海軍の指揮官機の中でも
もっとも派手で知られる。イラストは真珠湾攻撃で蒼龍艦上の機体を
再現した。
 
帝国海軍で江草隆繁少佐と双璧を成すといえば
雷撃の神様と名高い、村田重治少佐である。
 
海軍搭乗員はいずれも頭の切れる人物ばかりなので
優劣を付けることは出来ないが、今回は江草少佐に登場頂くことで
帝国海軍の一端が垣間見えよう。
 
その江草少佐の戦いに、ぜひとも触れておかねば
ならない。江草少佐の戦いは『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』にもっともよく
記されている。これから紹介するエピソードは、ほんの一部分でしかないから、
何かの縁で、この派手なペイントの九九艦爆に興味を持ったなら
ぜひ、江草少佐の生き様を、本で読んで知ってほしいと願う。
 
◆江草隆繁少佐
 
明治42年9月4日生まれ。
真珠湾攻撃時31歳。
広島県芦品郡有磨村出身。海兵58期。
海軍艦爆操縦員。「艦爆の神様」
身長は166センチ前後と伝わっている。
当時としては平均より高く、がっしりとした印象だった。
 
江草を回想するとき、誰もが「冷静沈着」と評する。
先にも記した通り、海軍軍人なら冷静で頭のきれる者は
数多存在するがその中でも江草ほど頭脳明晰かつ冷静な
人物は居ない。そして武人であった。
 
◆小瀬本国雄一の回想
 
小瀬本は江草の部下として真珠湾攻撃に参加。
その後、マリアナ沖海戦では「彗星」に乗り換え
最後は第751海軍航空隊で「流星」に搭乗。艦爆一代で
生き抜いたが、昭和20年8月15日午前、木更津基地より特攻出撃した
人物である。
 
以下は昭和16年10月、富岡基地で訓練に励んでいた
小瀬本国雄一等飛行兵の回想である。
 
『艦爆一代/小瀬本国雄一』
『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』
『サムライたちの真珠湾/早瀬利之』
 
より引用しながら、ほんの一部分を書く。
小瀬本はもとより「加賀」乗り組みであった。
居心地の良い加賀から突然の蒼龍転属命令を受け
やや消沈しているところであった。荷物をまとめていたところ
爆音がするので滑走路に目を向けると
一機の九九艦爆が着陸するところだった。
 
◆「おかしな模様の飛行機ダナァ」
 
尾翼に「蒼龍」のマークが入っている。
胴体後部には濃緑の地に黄色のペンキで虎縞の模様が
一面に塗られている。変な飛行機だった。
 
九九艦爆から降りてきた士官は用をすませると
小瀬本のそばへやってきて「小瀬本か」と声をかけた。
思いのほか優しい声に小瀬本はちょっとびっくりした。
これが江草と小瀬本の出会いであった。
 
「荷物は飛行機に積んで一緒に行こう」
 
隊長がわざわざ迎えに飛んできてくださったのかと
思うと小瀬本の不満はいつの間にか消えていた。
小瀬本が同年兵一人一人と肩を叩き合って別れを
告げている間、江草は黙って待っていた。
 
「加賀」の艦爆隊員全員が見送りの位置に着いた。
江草は黙って見送りの人々に一番近い離陸線に
九九艦爆をつけた。無言の思い遣りに小瀬元は胸を熱くした。
 
九九艦爆は総員が帽を振る中、快晴の空へと舞いあがった。
江草は機内で家族のことや「加賀」での訓練状況を話し合った。
こうして小瀬元は「蒼龍」へ転任し江草の艦爆隊に編入された。
 
◆真珠湾攻撃
 
真珠湾攻撃で江草は
第二次攻撃隊の急降下爆撃隊総指揮官であった。
江草の率いる第二次攻撃隊急降下爆撃隊の九九艦爆は
総数78機。それぞれの母艦から発進し
「蒼龍」「飛龍」「加賀」「赤城」の順で編隊を組んだ。
濃緑色の地に虎の縞模様の入った指揮官機は
すっかりおなじみになっていた。
 
指揮官機のスピードは速すぎても遅すぎてもいけない。
編隊を混乱させてしまうからだ。
78機を引っ張る江草機は遠くからも視認が容易であった。
GPSの無い時代、編隊からはぐれることは死に直結する。
 
江草は操縦席の風防をいっぱいに開け
仁王立ちになり四方八方に目を配らせている。
これは江草の習慣で
風防に付着したゴミを艦船と見誤る恐れがあるためと言っていた。
  

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

▲真珠湾へ出撃する蒼龍艦上の江草隊 
 
第二次攻撃隊急降下爆撃隊第一中隊二十小隊は
次の通り
 
一番機(虎縞の九九式艦爆)
江草隆繁少佐/操縦
石井樹飛曹長/偵察
 
二番機
山崎武男二飛曹/操縦
遠藤正/偵察
 
三番機
川崎悟三飛曹/操縦
高橋亮一一飛曹/偵察
 
江草小隊の三機を先頭に九九艦爆78機が
大編隊で真珠湾へ向かう。
第二次攻撃隊は第一次攻撃隊の発艦後間もなく出撃。
 
午前3時23分、
飛行中の各機機上において「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)を
傍受した。
無線には華々しい戦果が続々と入ってくる。
第二次攻撃隊各機は「今度は俺たちの番だ」と指信号で成功を誓い合った。
 
午前4時10分、第二次攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬に姿を現した。
江草指揮の急降下爆撃隊は
オアフ島を右に見てカネオ飛行場へ近付いて行く。
 
江草隊がオアフ島上空へ到達したとき、高度は4000メートル
真っ黒い雲がたちこめていた。よく見ると雲では無く
敵の高角砲による猛烈な弾幕であった。湾内は見えない。
 
ようやく湾内の様子を視認すると
停泊中の戦艦何隻かは既に撃沈され、炎を上げ
重油を流し、真っ黒な煙があがっている。その間にも
爆風で翼が震え、対空砲火は以前熾烈を極める。
まだ江草指揮官機から「トツレ」(突撃体制とれ)が
下令されない。
 
・・・・まだか、まだなのか
すると江草機は大胆にも4000メートルという
リスキーな高さから大編隊のまま弾幕を突っ切って
湾上空を大きく旋回し、悠々と一巡した。江草指揮官機の行動は
第一次の戦果確認と第二次攻撃の目標の見極めであった
じつに冷静沈着であった。
 
江草機が小さくバンクを振る。ついに「トツレ」の下令である。
江草艦爆隊は瞬く間に編隊を解散し、一本棒の突撃陣形を形成した。
各機の感覚は最初は200メートル間隔だったのが50メートルまで
グングン縮めてプロペラの先端と尾翼が触れそうなほどである。
 
間もなく「ト連送」(突撃せよ)が発進され
江草を先頭に、急降下爆撃を開始する。
真っ赤なアイスキャンディーのような対空砲火の中を
果敢にダイブして行く九九艦爆。爆弾を投下すると、ダイブブレーキ
(急降下制動版)を展開する。
身体には13Gがかかり、引き起こしにかかる。
真っ赤な炎が上がった。命中。
 
後続の機体も次々とダイブし戦艦に爆弾を叩きつける。
米軍側の反撃体制が整い最も接近戦を行ったゆえ
江草隊は真珠湾攻撃に参加した隊の中で最も損害が大きかった。

最も損害が多かった江草艦爆隊
 
第一次攻撃の損害9機
(雷撃機5、急降下爆撃機1、戦闘機3)に対し
第二次攻撃は20機が未帰還。
 
この内、江草の急降下爆撃隊(九九艦爆)は
14機が未帰還となっている(戦闘機は6機)
九九艦爆は二人乗りなので28名が戦死ということになる。
 
川崎悟三飛曹と高橋亮一三飛曹ペアの
九九艦爆も炎に包まれ自爆した。
 
江草機も被弾していた。後部座席の石井樹偵察員が叫んだ
 
「被弾しました!燃料が漏れています!」
 
これは帰艦の見込みが失われたので自爆しましょうという石井の
訴えであった。
ところが江草は大声で
「飛ぶんだ!」と後席の石井に伝えた。
 
蒼龍へ帰還すると派手な虎縞模様の指揮官機は
予想通り敵の格好の目標となり穴だらけだった。燃料はカラだった。
 
真珠湾攻撃の一部を紹介したが
江草はこの後もジャワ沖、印度洋等で活躍し多くの連合軍艦船を撃沈した。
ミッドウェイで母艦を失った後、第521海軍航空隊へ転属となる。
 
昭和19年6月15日
第521海軍航空隊所属の江草は銀河に搭乗し、ペリリュー島を発進
マリアナ沖の機動部隊に雷撃を敢行し未帰還となった。
享年34。戦死後大佐に昇進。
 

▲黎明の蒼龍艦上。発進を待つ江草隊

 

2015年8月12日 (水)

天皇陛下ペリリュー島訪問の裏話その2

陛下がパラオを訪問された時のエピソードです。
ペリリュー島の西太平洋戦没者慰霊碑へ陛下が到着する前
参列者に向けて、宮内庁職員から次のような通知がありました。
 
「もし、雨が降った場合ですが、参列者の方々は必ず、雨具を身に
着けるようお願いします。陛下は、参列者(国民)の一人でも雨に濡れているのを
ご覧になると傘をお使いになることを、固く辞退なさいます。ですから、
何卒、お願いします」
 
当日は好天に恵まれましたが、そういったエピソードがあったことを
ここに記しておきます。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

71tv00nathl

81xyowyucil

71uuxrx26l

61lbp7tuwml

71hvx3x31ql

http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019


2015年7月30日 (木)

軍隊の無い国パラオ

19compactroad13

 
世界には色々な事情を抱えた国があるということを伝えたい。
 
画像は「コンパクト・ロード」。パラオ本島を一周する総延長78kmの
初めての舗装道路。台湾(中華民国)の援助によって建設された。
パラオは台湾(中華民国)を国家として認めている。
台湾の援助額と親密さはこの道路が証明している。
 
対照的に中華人民共和国とは国交が無い。
一昨年には同国の密漁船と銃撃戦を展開して双方に死者が発生した。
パラオは小国なので沿岸警備隊も充分に機能していない。EEZと領海侵犯を
行う中華人民共和国の密漁船が問題になっているが、必死の抵抗を
見せている。
 
独立を決断したパラオ
パラオは世界でも珍しい軍隊の無い国家である。
1978年に米国領より独立を宣言し、8回に渡る住民投票の末、
92年、米国領からの独立を国民自身の手により決断した。
ただし、ビキニ環礁(隣国マーシャル)の核実験でパラオ国民の核に対する
反感は非常に厳しいものとなっており、パラオには非核条約があり続ける。
 
独立後も安全保障を米国軍に委ねるパラオは依然として
強大な軍事力を持つ米軍と核兵器の傘下にあるという、矛盾が生じる。
よってこれを棚上げする形で独立が決定した経緯を持つ。
 

19compactroad06
 
独立できなかったグアム
ついでなので、隣のグアムに目を向けてみよう。世界中で米軍による
パワーバランスが働いていることを忘れてはならない。
 
グアムには、米軍の大航空拠点がある。グアム島の面積は
淡路島と同じ程と仮定して、このうち米軍基地が占める割合は
現在およそ33%。オキナワから海兵隊が移転すると47%に増大する。
グアム島の半分は基地になる。グアムは米国領だが、住んでいるのは
チャモロいう現地人で、大統領選の投票権すらない。
その負担は計り知れない。
 
関連記事
幻のチャモロ共和国~なぜグアムは独立できなかったのか