2018年6月14日 (木)

陸軍飛行戦隊全部描いた

Hikousentai 
陸軍飛行戦隊の部隊概要と
イラスト、全部描上げました。
陸軍飛行戦隊は第1戦隊から第248戦隊までありますが
欠番等あるので、総数100ほどになります。
 
イラストだけでなく、部隊史とキャプション(説明書き)も
簡単に書こうと思ったのですが、思った以上に熱が入ってしまい
長く書いてしまい、時間がかかっています。
 
次は教導飛行師団と独立飛行中隊、錬成飛行隊に着手します。
夏コミまでには気合で完成させます。
   
陸軍飛行戦隊一覧

2018年1月17日 (水)

錬成飛行隊

Rensei1

第1錬成飛行隊/戦闘機隊(紺第520)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
相模にて一式戦、四式戦により錬成教育を実施
 
◆編成/昭和19年7月31日相模
◆復帰/昭和20年8月24日
  
◆歴代飛行隊長
内徳隆幸少佐、江原英雄少佐
 

第2錬成飛行隊/戦闘機隊(宙第521)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
一式戦により錬成教育を実施。
20年5月27日水原飛行場に移駐
 
◆歴代飛行隊長
高梨辰夫少佐、泊重愛少佐、渥美二郎少佐

(2)昭和19年7月22日
(3)京城
(4)
(5)昭和20年9月14日
 
第3錬成飛行隊/戦闘機隊(誠第522)
二式複座戦闘機(屠龍)
19年<2項より補足>6月15日八日市出発、6月24日台中着。
7月20日台中出発桃園着。二式複戦により特操第一期生の錬成教育を実施。
10月10日~10月17日間台湾並びに南西諸島に於ける防衛戦闘に参加。
12月23日転地訓練のため桃園出発同日彰化着。
20年5月21日桃園着20年3月26日~6月20日台湾並びに南西諸島に於ける天号航空作戦参加
歴代飛行隊長
山下美明少佐、杉本明少佐、永岡良一少佐

(2)昭和19年4月28日
(3)滋賀県八日市
(4)
(5)昭和20年7月19日
 
第4錬成飛行隊/戦闘機隊(羽第16634)
一式戦闘機(隼)
19年<2項より補足>6月15日新京出発6月18日三江省佳木斯着第七、八、九幹部候補生(転科)特別操縦見習士官第一期生等を一式戦により錬成教育を実施。
一部は9月18日浜江省平房着10月20日深井子に移駐、11月末北飛行場移駐、12月4日特別攻撃隊玄武隊編成出陣。
20年3月一部原隊より佳木斯に分遣。20年6月分遣隊佳木斯より老連に移駐
奉天に移動中、一部ハルピンにおいて終戦。主力は終戦と同時に
奉集堡に集合。隊長、林少佐以下要員三百名は捕虜でなく
軍人として処遇され、中国共産党軍が選抜した中国軍人に操縦、整備の教育を
牡丹江周辺にて実施。中国共産党空軍の発展に寄与。


歴代飛行隊長
石川貫之少佐、林弥一郎少佐


(2)昭和19年5月30日
(3)新京
(4)
(5)?
 
第5錬成飛行隊/戦闘機隊(隼第16635)
一式戦闘機(隼)、九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)、九八式直接協同偵察機、九九式軍偵察機
前記により錬成教育。
19年<2項より補足>6月26日空中部隊主力孫家飛行場出発6月27日南京大校飛行場着。
7月下旬一部を抗州飛行場に派遣、教育の準備。
9月下旬南京本隊に復帰、10月上旬一部を徐州に派遣。
20年1月26日徐州派遣隊は西郊派遣隊となる。
1月30日西郊派遣隊は南苑に到着。2月1日主力河北省揚村に到着
歴代飛行隊長
野口伍郎少佐、杉本明少佐


(2)昭和19年5月31日
(3)浜江省孫家
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第6錬成飛行隊/司偵、空第523
百式司令部偵察機(新司偵)
前記により錬成教育を実施
歴代飛行隊長
羽根俊平少佐、角田雄三少佐



(2)昭和19年7月31日
(3)兵庫県三木
(4)
(5)終戦。昭和20年9月3日復員
 
第7錬成飛行隊/司偵隊(昭第18432)
九七式戦闘機、九八式直接協同偵察機、三式戦闘機(飛燕)、九九式襲撃機
前記により錬成教育を実施
19年<2項より補足>7月14日高雄出発7月19日マニラ上陸デルカルメンに展開。
9月21日マニラクラークフィールド上空戦闘に参加。
10月17日マニラ港出発11月3日シンガポール上陸。ビルマタボイ飛行場に展開。
20年5月20日飛燕戦闘隊編成に着手、スマトラ島パレンバンに於て編成完結
歴代飛行隊長
内田源次郎大尉(戦死)、近藤明邦少佐


(2)昭和19年6月20日
(3)?東
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
第8錬成飛行隊/戦闘機隊(昭第18433)
四式戦闘機(疾風)
前記による錬成教育。
19年<2項より補足>8月シンガポールに移駐。
9月23日佛印サイゴンに移駐。20年1月13日第五飛行師団指揮下に入る。
8月1日サイゴンにて高戦闘隊編成。8月8日コンポンクーナンに移駐、
同地区にて反攻邀撃々破作戦に従事
歴代飛行隊長
中野猪之八少佐、仲光博文少佐

(2)昭和19年5月31日
(3)会寧
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
第9錬成飛行隊/戦闘機隊(富第11080)
一式戦闘機三型(隼)
前記による錬成教育。
19年<2項より補足>6月9日メイクテイラ出発、シンガポール経由7月スマトラ島ラハト着。
7月10日~12月15日同地に於て、反攻邀撃作戦に参加。錬成教育に従事。
20年1月25日パレンバン英機動部隊来襲邀撃戦闘。
5月28日ラハト発パレンバン着
歴代飛行隊長
勝村五郎少佐(戦死)、高野国彦少佐

(2)昭和19年4月30日
(3)ビルマ、メイクテイラ
(4)
(5)昭和20年9月2日
  
第10錬成飛行隊/戦闘機隊(空第524)
四式戦闘機(疾風)、一式戦闘機三型(隼)
前記により、錬成教育を実施。併せて京阪神地区防空哨戒に従事
歴代飛行隊長
三宅輝彦少佐、奥山清蔵中佐

(2)昭和19年11月30日
(3)京都府由良
(4)
(5)終戦、昭和20年9月3日復員
 
第11錬三式戦闘機(飛燕)
前記により特別操縦見習士官の錬成教育。
特別攻撃隊を編成、並びに北九州八幡地区防空哨戒に従事
歴代飛行隊長
山口栄少佐成飛行隊/戦闘機隊(空第525)


(2)昭和19年11月30日
(3)目達原
(4)
(5)終戦。昭和20年8月28日復員
 
第12錬成飛行隊/戦闘機隊(宙第526)
二式複座戦闘機(屠龍)、一式双発高等練習機
19年<2項より補足>10月9日群山に移駐、錬成教育を実施。
20年5月15日群山出発。5月17日新義州着、錬成教育
歴代飛行隊長
三浦敏威少佐、中井清少佐、田中芳蔵少佐

(2)昭和19年9月15日
(3)京城金浦
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第13錬成飛行隊/戦闘機隊(羽第16663)
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
19年<2項より補足>11月10日一部新京に移駐、20年4月5日主力新京に移駐。
錬成操縦訓練を実施。
7月20日主力公主嶺に移駐、一部孤店子に展開。
8月9日出動準備。20年8月10日空中勤務者を含む百数十名開原に移駐、
8月12日興安南省五叉溝方面に攻撃。8月13日トウ南にて戦車部隊を攻撃。
8月14日老爺廟および白城子北方にソ連機械化部隊攻撃のため進撃
歴代飛行隊長
田口長蔵少佐、大高勲少佐


(2)昭和19年9月15日
(3)満洲公主嶺
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第14錬成飛行隊/戦闘機隊(羽第16664)
一式戦闘機(隼)
歴代飛行隊長
野口久七少佐


(2)昭和19年8月20日
(3)満洲龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和19年8月20日
 
第15錬成飛行隊/司偵隊(昭第11092)
一式双発高等練習機、百式司令部偵察機(新司偵)
19年11月スマトラ島クアラに移駐編成完結。
錬成教育実施並びに英機動部隊の海上捜索警戒に任ず
歴代飛行隊長
佐藤繁雄少佐

(2)昭和19年11月30日
(3)マレークアラルンプール
(4)
(5)昭和20年6月30日
 
第16錬成飛行隊/(富第11095)
臨時編成
歴代飛行隊長
佐々木茂少佐

昭和19年7月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和19年11月復帰
 
第17錬成飛行隊/戦闘機隊(昭第11093)
一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
前記により特別操縦見習士官錬成教育の実施と共に警備に任ず。
19年<2項より補足>12月21日ボルネオ島ミリ上陸、同地の防衛に従事。
20年3月1日ミリ出発3月12日シンガポール上陸同地の防衛に従事
歴代飛行隊長
榊政行少佐、井上重俊少佐

(2)昭和19年10月3日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年9月5日
 
第18錬成飛行隊/戦闘機隊(昭第11094)
三式戦闘機(飛燕)
前記により錬成教育を実施。
20年4月スマトラ島パレンバンに移駐。
5月25日第七錬成飛行隊と共に飛燕戦闘隊を編成、パレンバンの防空に任ず
歴代飛行隊長
原強少佐、山下一助少佐、近藤明邦少佐

(2)昭和19年10月30日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月1日
 
第19錬成飛行隊/戦闘機隊(隼第17327)
一式戦闘機(隼)
前記により錬成教育実施。
19年<2項より補足>10月2日河北省唐山に前進。同地附近警備勤務並びに要員教育に従事。
10月14日~20年2月3日大場鎮派遣隊を編成。
19年12月1日~20年8月14日錬成教育を実施
歴代飛行隊長
下村義雄少佐

(2)昭和19年10月7日
(3)河北省南苑
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第22錬成飛行隊/戦闘機隊(羽第16664)
一式戦闘機(隼)
第十四錬成飛行隊を改編。
19年<2項より補足>10月3日公主嶺に移駐、11月5日本隊三十里堡移駐、分屯隊奉天省熊岳城に移駐、20年7月20日綏化へ移動、本隊分屯隊合流。
20年8月10日綏化より東豊に移駐。8月13日四平へ移駐
歴代飛行隊長
野口久七少佐、笠村諭少佐

(2)昭和19年8月20日
(3)龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第23錬成飛行隊/襲撃機隊(宙第527)
九九式軍偵察機
第十三教育飛行隊を改編。錬成教育を実施
歴代飛行隊長
西ヶ谷武夫少佐


(2)昭和20年1月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第24錬成飛行隊/重爆機隊(空第528)
(2)昭和19年12月31日
(3)浜松
(4)
(5)終戦昭和20年8月29日復員
 
第25錬成飛行隊/重爆機隊(宙第529)
機種記載なし
第五教育飛行隊を改編。熊谷稜威原飛行場に移駐。重爆の錬成教育を実施
歴代飛行隊長
大島良三少佐、桑原七郎少佐


2)昭和19年12月27日
(3)咸鏡南道宜徳
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第26錬成飛行隊/戦闘機隊(富第11097)
(2)昭和20年2月28日
(3)ジャワ島マラン
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第27錬成飛行隊/襲撃機隊(昭第11098)
(2)昭和20年2月28日
(3)マライケダー州ケチル
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
第28錬成飛行隊/重爆機隊(昭第11099)
(2)昭和20年2月25日
(3)マレーイポイ
(4)
(5)昭和20年8月15日

陸軍飛行戦隊一覧データベース

陸軍飛行戦隊のデータベースを作っています。
海軍航空隊の情報は充実しているのですが、陸軍飛行戦隊は
ほとんど検索しても出てこないので、興味を持って調べられた方の
きっかけになりたいと願っております。
 
陸軍の航空機運用は、歩兵の支援機関であり、古くは明治42年に発足した
気球研究会が始まりです。
 
固定翼機が活躍した大東亜戦争時の基本部隊編成を役割ごとに分けると
戦闘機隊・軽爆撃機(襲撃機)隊・重爆撃機隊・偵察機隊・輸送飛行隊があります。
海軍と比較して部隊が規模が小さい代わり数が多いのが特徴です。
陸軍の歩兵中隊をベースに考えるとわかりやすく、
陸軍飛行戦隊は3機~4機を一個中隊(飛行隊と呼ぶ場合も)として
第一から第三、第四中隊で一個の飛行戦隊となり、おおむね16機程度となります。
 
飛行戦隊以外に
師団司令部直轄飛行隊、独立飛行中隊、教育飛行隊、飛行学校、教導飛行師団、
航空廠等も揃えて参ります。
 
部隊名のみ記入し、概要と航空機のビジュアル等は
完成次第、追加して行きます。
 
ちょっと多すぎるので、ページを分けます。
部隊名など、文字検索の方法
(win)Ctrl+Fキーを同時に押すと画面右上にウインドウが現れ
ページ内部検索ができます。
(Mac)command+Fキーを同時に押すと画面右上にウインドウが現れ
ページ内部検索ができます。

1sentai 
飛行第1戦隊/戦闘機隊(威第8301)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆概略
日本陸軍最初の戦闘隊として最も古い伝統を誇る。
その前身は大正4年10月に所沢で編成された航空大隊で
気球一個中隊、飛行機一個中隊、材料廠より成る。
当初の使用機はモーリス・ファルマンであった。
ノモンハン事件では飛行第十一戦隊とともに活躍し、
大東亜戦争では一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」
を使用しニューギニア・大陸戦線を転戦したのち、
フィリピン決戦に全戦力を投入。通常任務のほか、
特攻隊を編成、戦力の全てを失った。埼玉県の高萩で戦力復帰し
第十飛行師団隷下で本土防空戦を行いつつ終戦を迎えた。
 
◆編成と復帰
昭和13年7月5日各務原において編成。
埼玉県高萩飛行場において復帰
 
◆部隊史
飛行第一連隊を改編。
14年6月1日満州孫家へ移駐、第一飛行集団隷下。6月21日満州徳伯斯へ展開。
7月2日満州採塩所へ展開、この間第二次ノモンハン事件に参加、第五飛行集団隷下。
10月10日孫家に帰還。
16年3月呂号特別演習参加。6月勃利にて警備。11月19日孫家出発、第三飛行集団隷下。
12月8日シンゴラ着マレー作戦参加、船団援護、泊地援護。
17年2月17日パレンバンに進出同地防空。4月7日レグ進出ビルマ作戦参加。
17年5月~7月三重県明野にて機種改変。8月第十二飛行団隷下、パレンバン進出同地防空。
17年10月3日ハノイ着、雲南、昆明攻撃参加。10月20日一部を二十一戦隊に転属。
18年1月9日ラバウル進出、ソロモン、ニューギニア、ガダルカナル作戦参加。
18年8月2日明野において機種改変、満州佳木斯へ展開。
11月内地に転進、千葉県柏着以後帝都防空に従事。
19年10月23日比島クラークフイルドに展開、第十二飛行団長の隷下に入り、レイテ総攻撃作戦参加。
19年11月7日戦力回復のため茨城県下館に帰還。12月27日ポーラックに進出、比島航空作戦参加。
20年2月台湾に移動。4月30日第十二飛行師団隷下、埼玉県高萩へ移駐、戦力回復。
地上残置隊はルソン島カガヤンにおいて臨時歩兵第二十四大隊(長は安倍大佐)に編入。
イザベラ州サンタクルーズ付近の討伐警備に任す。
20年9月2日停戦により武装解除、米軍収容所に入る。
 
◆歴代戦隊長
加藤敏雄中佐、原田文雄少佐、吉田直少佐、竹田金四郎中佐、
沢田貢少佐、松村俊輔少佐、橋本重治大尉、四至本広之蒸大尉
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

2sentai 
飛行第2戦隊/偵察機隊(威第11614)
◆仕様機種

九二式偵察機、九四式偵察機、九七式司令部偵察機、
九八式直接協同偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
飛行第二連隊を改編。
7月18日第六・七直協飛行隊を編成、第一飛行集団隷下。
18年8月31日チチハルに移駐、独立飛行第五十三中隊を編合、9月20日佳木斯へ移駐。
19年5月25日クラークに展開、海軍連合艦隊司令長官の指揮下に入り、
6月16日ペリリユウに前進、海上捜索。
19年7月9日クラークに帰還、第二飛行士団長の指揮下に復帰、ハルマヘラ方面、
比島航空作戦に参加、
機動部隊捜索、攻撃部隊誘導、戦果確認等に活躍。
11月21日第四航空軍司令官より感状授与。
20年1月12日戦力回復のため空中勤務者及び、基幹人員ヘイ東へ転進
(地上勤務者の大部は臨時歩兵第十五大隊及び航空通信隊編入)
2月16日第六航空軍司令官の隷下に入り、3月6日から逐次千葉県八街へ帰還。
3月24日福岡県蓆田(板付)に前進、飛行第百六戦隊、独飛第十九中隊、
第四独立飛行隊を指揮下に入れ(4月20日独飛第十九中隊を除き編合)、
菊水及び天号航空作戦に参加、沖縄方面養生作戦に任じた。
7月15日第十二独立飛行隊に改編復帰。
 
◆編成と復帰
昭和13年7月31日、各務原において編成
昭和20年7月15日、福岡において復帰
 
◆歴代戦隊長
沼田英治中佐、小林孝知大佐、今津正光中佐、沢井光二中佐、鈴木剛一少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

3sentai

飛行第3戦隊/軽爆・偵察・襲撃隊(誠第18967)
◆仕様機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、
百式司令部偵察機(新司偵)、キ百二双発襲撃機(五式双発襲撃機)
 
◆部隊史
飛行第三連隊を改編、第一飛行集団隷下。

17年3月青森県八戸に移駐。17年6月樺太落合飛行場に移駐。19年3月北千島占守島に移駐。
19年6月沖縄嘉手納に展開。10月台中に移駐、台湾防衛戦闘参加。
10月下旬クラークに展開、比島航空作戦参加、
11月20日戦力回復のため埼玉県所沢へ帰還、戦力再編成、第二十六飛行団隷下、
20年6月秋田県能代に移駐。
 
◆編成と復帰
昭和13年8月31日八日市において編成
昭和20年9月1日、能代復員
 
◆歴代戦隊長
東榮治大佐、志方光之大佐、鈴木京中佐、木村修一中佐(戦死)、鈴木武男少佐、並木好文少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

4sentai_2
飛行第4戦隊/偵察・戦闘機隊(天風第35001)
◆使用機種 
九四式偵察機、九五式戦闘機、九七式戦闘機、
九七式司令部偵察機、二式複座戦闘機(屠龍)
 
◆概略
北九州地区におけるB-29邀撃戦闘で著名な飛行戦隊。
夜間、対重爆撃機に対する邀撃に最も早くから着目し
鹵獲したB-17を目標機に使用して高高度戦闘訓練を実施。
二式複戦屠龍のほか、武装した百式司偵を加え、
成都から飛来するB-29梯団の邀撃任務に就く。
昭和十九年十二月には空対空体当たり専門の「回天隊」を編成したほか
フィリピンへ数名の特攻要員を送り出している。
  
◆部隊史
飛行第四連隊を改編、第一飛行集団隷下。

15年3月山口県小月に移駐。16年10月10日台南屏東に展開、防空及船団援護。
11月11日小月に帰還、第十二飛行師団隷下、北九州の防空に従事。
 
◆編成と復帰
昭和13年8月31日、芦屋において編成
昭和20年8月15日、小月において終戦
 
◆歴代戦隊長
近藤時習大佐、立松芳次郎大佐、林三郎中佐、岡本修一中佐、長野綱男少佐、
黒田武文少佐、阿部勇雄少佐、小林公二少佐、町田久男少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

5sentai

飛行第5戦隊/戦闘機隊(天鷲第15310)
  
◆使用機種
九七式戦闘機、二式複座戦闘機屠龍、五式戦闘機
 
◆概略
二式複戦「屠龍」を用いて
名古屋地区の本土防空戦で活躍したことで著名な戦隊。
二式複戦のほかに、終戦までに五式戦30機が配備された。
終戦の詔勅ののち
戦隊は18日未明を期して伊勢湾南方の米機動部隊に爆装した
五式戦二十五機で強襲する計画をたてていたが、情報が洩れ
飛行師団司令部の説得で中止された。
南方戦線では昭和19年5月
高田勝重戦隊長がビアク上陸の当日、ソロン・エフマン基地に
あった二式複戦、四機を爆装して出撃。海面から100メートルの
超低空飛行で敵駆逐艦を強襲し全機未帰還となった。
高田隊の壮挙は特攻の先駆けと称えられ南方総軍司令官から
感状を授与された。
 
◆部隊史
飛行第五連隊を改編し、第一飛行集団隷下となる。
14年6月千葉県柏に移駐。
18年7月マランに展開し、船団掩護と防空任務に服す。
18年5月27日高田勝重戦隊長は4機をもってピアクの敵艦船に突入。
19年9月愛知県小牧に移駐し、第二十三飛行団隷下となる。
 
◆編成復帰 
昭和13年8月31日立川において編成
昭和20年8月15日、清州で終戦

◆歴代戦隊長
近藤兼利大佐、恩田謙蔵大佐、小松原虎男中佐、
高田勝重少佐、松山武夫少佐、山下美明少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

6sentai

飛行第6戦隊/軽爆機隊(隼魁第9102)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式軽爆撃機、九八式軽爆撃機、九九式襲撃機
  
◆部隊史
飛行第六連隊を改編、第二飛行団隷下。
16年8月14日関特演のため朝鮮会寧に移動。10月18日満州佳木斯に移動。
18年8月東京城へ展開。19年1月31日支那に転用され編成改正。
5月19日中支南京へ展開。5月29日主力(本部主力及び第一・第三中隊)
白螺磯へ展開、長沙攻略作戦。衡陽攻撃に参加、
6月7日一部(本部の一部及び第二中隊)南支へ展開、衡陽攻撃に協力。
20年4月海州を経て朝鮮大邱へ展開、20年8月23日東京都調布へ移駐。
 
◆編成復帰
昭和13年8月31日平壌において編成
20年8月調布において復帰

◆歴代戦隊長
平田勝治大佐、佐藤吉直中佐、広田一雄中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

7sentai

飛行第7戦隊/重爆機隊(靖第21202)
◆使用機種
九三式重爆撃機、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)
四式重爆撃機(飛龍)
 
◆概略
陸軍重爆撃機隊として最も古い歴史を誇る。
浜松は陸軍重爆撃機の本拠地となった。
特筆すべきは昭和19年6月以降、海軍連合艦隊の指揮下に入り
四式重爆機「飛龍」が陸軍機としてはじめて雷撃訓練を実施した。
 
◆部隊史
飛行第七連隊を改編し、第一飛行集団隷下となる。

16年7月11日航空兵団長隷下に入り、関特演参加のため満州公主嶺に移駐。
17年9月第三航空軍指揮下に入りカリジヤチに前進、パンダ海方面海域の哨戒。
18年4月静岡県浜松に於て機種改変。18年8月ニューギニア航空作戦参加。
19年1月戦力回復のため浜松に集結。19年2月鹿児島県鹿屋に移駐。
19年2月22日編成改正、第一航空軍司令官の隷下に入り四式重爆撃機(飛龍)に機種改変。
19年6月海軍連合艦隊の指揮下に入り雷撃訓練。
19年10月比島クラークに展開、比島、沖縄航空作戦参加。
19年12月千葉県香取に展開、サイパン攻撃。
20年3月宮崎に集結、九州東方海面航空作戦及沖縄艦船攻撃に参加、第二十七飛行団隷下となる。
20年6月29日本部は兵庫県伊丹に、各中隊は公主嶺、福島県郡山、鳥取県美保、
三重県亀山基地に展開。
20年8月15日各中隊伊丹に集結。
 
◆編成復帰
昭和13年8月31日浜松において編成
20年8月15日伊丹において終戦

◆歴代戦隊長
塚田理喜智大佐、三成省三大佐、深井英一大佐、大西豊吉中佐、高橋猛少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

8sentai

飛行第8戦隊/司偵・軽爆隊(誠第9913)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
飛行第八連隊を改編、第四飛行団隷下。
16年3月30日臨時編成下令。16年4月15日台北に集結、南支方面軍司令官の指揮下に入り福州作戦参加。
4月29日屏東帰還。16年5月11日臨時出動下令支那派遣軍總司令官の指揮下に入り淅東作戦に参加。
5月27日屏東帰還。16年7月機種改編。12月8日~12月21日比島航空撃滅戦参加、
12月比島ツゲガラオに展開マニラ攻略戦参加。17年1月9日次期作戦準備のため屏東へ移駐。
1月22日ドムアンに展開、飛行第五師団隷下、ビルマ航空作戦参加、
バンコック、ミンガラドン、モールメン、トングーに基地前進。
18年8月岐阜に於て機種改編(九九式双発軽爆撃機)
18年11月タイに転進、ビルマ北方遮断作戦及びインパール作戦参加。
19年7月仏印プノンペン、クツクリ等に於て艦船及び飛行場攻撃に参加。
20年7月屏東に移駐、第八飛行師団に編入。
 
◆編成復帰
昭和13年8月31日編成
 
◆歴代戦隊長
山中繁茂大佐、本多三男大佐、塩田要中佐、釘宮清重中佐、肱岡直少佐、長屋勝重中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

9sentai

飛行第9戦隊/戦闘機隊(隼魁第9103)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗) 
 
◆概略
支那事変・ノモンハン事件以来、大東亜戦争終結まで
大陸戦線で敢闘を続けた戦闘機隊。昭和18年5月
明野で二式単戦に機種転換し東満の団山子飛行場へ移駐し
各地で空戦を重ねた。また、当初成都から出撃するB-29の編隊を
攻撃した。
 
◆部隊史 
飛行第九連隊を改編。
13年7月12日蒙古力に移駐。
18年9月9日牡丹江省団山子に移駐。
19年2~12月の間、支那に派遣され、安慶、新郷、漢口に展開。
19年中期、後期、中支航空作戦に参加。
19年12月8日~20年3月8日広東に前進、南支航空作戦ならびにと号作戦参加。
20年8月14日南京に展開。
 
◆編成復帰
昭和13年7月1日会寧において編成
南京において終戦
  
◆歴代戦隊長
難波清作大佐、秋田熊雄中佐、高梨辰雄少佐、役山武久少佐、平家輔少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

10sentai_2

飛行第10戦隊/偵察・軽爆機隊(誠第9624)
◆使用機種
九四式偵察機、九七式司令部偵察機、九八式軽爆撃機、百式司令部偵察機(新司偵)
 

◆部隊史
飛行第十連隊を改編、第二飛行集団隷下。
14年5月1日、ノモンハン事件参加。
16年7月28日第十独立飛行隊本部、独立飛行第七十、七十四、七十六中隊に改編。
18年6月10日ラバウルにおいて第十独立飛行隊、独立第七十六中隊を復帰し、
飛行第八十一戦隊より、一個司偵中隊を転入して戦隊再編成。
18年8月ニューギニア、ウエワクに前進、ニューギニア、東部・南部の捜索に任ず。
19年6月5日ミンダナオ島ダバオに展開。19年7月戦力回復のため千葉県下志津へ移動。
19年11月台北に展開、台湾及び南西諸島、航空作戦参加。
20年3月26日~6月20日天号航空作戦参加。
 
◆編成復帰
昭和13年8月31日嫩江において編成
台北にて終戦
 
◆歴代戦隊長
田副登大佐、白銀重二大佐、土田兵吾大佐、下村兵一中佐、新沢勉中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

11sentai

飛行第11戦隊/戦闘機隊(燕第8311)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)

 
◆概略
ノモンハンで勇名を馳せた陸軍戦闘機隊。
飛行第一戦隊と共にもっとも古い伝統を誇り
篠原弘道など数多のエースを輩出。大東亜戦争では
フィリピンでの激戦、本土防空戦に従事した。
11を象った電光マークは最もよく知られている。
 
◆部隊史
飛行十一連隊を改編。
14年5月13日第一次ノモンハン事件参加のため満州採塩所に展開。
14年10月20日より支那事変参加、南京、武昌、漢口において防空ならびに諸作戦に従事。
15年12月17日ハルピンに帰還。
16年6月関特演参加のため、満州勃利に展開、第三飛行集団隷下となる。
16年11月14日南方転進、フコク島クーカンに展開し船団掩護。
その後シンゴラ、パタニ、クワンタン、スンゲイバタニ、パトバハ、パレンバンと移動し、
マレー、ジャワ作戦に参加。
17年3月ビルマ派遣、レグへ展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
17年7月3日機種改編のため三重県明野に移駐。9月16日シンガポール帰還。
12月21日南東方面に転用されラバウルへ展開、ニューギニヤ方面の作戦に参加。
18年8月12日内地帰還。明野で機種改編後、ハルピンに移動し戦力回復。
12月17日中支武昌へ展開。一号作戦参加。
19年3月東京都福生に移動、四式戦に機種改編。10月宜蘭に前進し、台湾防空。
19年11月2日比島ポーラックに展開、捷一号作戦参加。
20年2月26日第六航空軍に編入。茨城県下館、埼玉県高萩にて戦力充実。
 
◆歴代戦隊長
野口雄次郎大佐、岡部貞中佐、杉浦勝次少佐、森下清次郎少佐、金谷祥弘少佐、溝口雄二少佐
 
◆編成/昭和13年8月31日ハルピン
◆復帰/昭和20年埼玉県高荻飛行場
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

12sentai

飛行第12戦隊/重爆撃機隊(誠第9122)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)
 
◆部隊史
飛行第十二連隊、第一大隊を改編、航空兵団隷下。
13年9月北支派遣、漢口攻略その他作戦、重慶、蘭州等奥地進攻作戦参加。第二飛行集団隷下。
14年2月公主嶺帰還。14年6月19日~7月14日ノモンハン事件参加。
16年8月北支派遣、重慶、蘭州に進攻。
9月23日広東へ展開、第三飛行集団隷下、プノンペンに前進、マレー航空撃滅戦参加。
12月25日ビルマ航空撃滅戦参加。
17年1月シンガポール攻撃、2月16日~3月16日北部スマトラ作戦参加。
4月24日ビルマ、ミンガラドンに展開、第二次ビルマ航空作戦参加。
9月10日武装改装のため内地帰還。9月20日現地に帰還。第七飛行団隷下。
17年11月18日ジャワ、スラバヤに展開、ジャワ周辺航空作戦参加。
18年5月レグー展開ビルマ航空撃滅戦参加、
19年7月15日比島、クラークに集結。11月4日ケンダリー、モロタイ攻撃。
20年1月11日比島マラバンに展開、戦力回復。此の間第二次濠北作戦、比島作戦参加。
20年7月10日第八飛行師団隷下、屏東に移動。
 
◆歴代戦隊長
原田宇一郎大佐、山本健児大佐、北島熊雄大佐、吉井宝一大佐、野本重男少佐、浜田益生少佐
 
◆編成/昭和13年8月31日公主嶺
◆復帰/ヘイトウ
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

13sentai

飛行第13戦隊/戦闘機隊(誠第11703)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式司令部偵察機、九七式戦闘機、
一式戦闘機(隼)、二式複座戦闘機(屠龍)、四式戦闘機(疾風)
 
◆概要
日米開戦とともに加古川で、阪神地区の防空任務を主として
編成された戦隊。京城派遣、室蘭防空ののち二式複戦に
機種改編し昭和18年3月、南方進出の命が下る。
B-17攻撃用として37ミリ戦車砲が搭載された機体を含め
フィリピンを経由しラバウルへ進出。空母「雲鷹」「沖鷹」
で横須賀を出港した部隊はトラック春島飛行場へ立ち寄った
のちラバウルへ進出し、主として対重爆機戦闘の要として
戦果を上げた。
 
◆部隊史
飛行第十三連隊を改編、第一飛行集団隷下となる。
16年12月8日~17年12月31日柏に移駐、帝都防衛。
17年3月二式複戦屠龍に機種改編。
18年5月11日ラバウルに展開、防空任務。ウエワクに前進、海上輸送掩護。
12月31日ハルマヘラ島ガレラに展開、対潜哨戒、船団掩護。
19年4月一式戦隼に機種改編。12月3日比島ポーラック進出、比島航空作戦参加。
20年3月15日サイゴンに移動、戦力回復。第八飛行師団隷下となる。
20年7月15日台湾屏東に展開。
 
◆歴代戦隊長
神谷正男大佐、近藤三郎中佐、立山武雄大佐、秋田熊雄中佐、
長野綱雄少佐、町田久雄少佐、中野和彦少佐、丸川公一少佐
 
◆編成復帰
昭和13年8月30日加古川
昭和20年8月15日ヘイトウにて終戦

◆戦死者・殉職者追悼
 

14sentai

飛行第14戦隊/重爆撃機隊(燕第9906)
◆使用機種
九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
 
飛行第十四連隊を改編、第四飛行団隷下。
15年7月海南島海口に展開。
16年4月福州上陸作戦のため台北へ展開、5月浙江作戦のため中支大場鎭へ転進。
5月下旬台湾嘉義帰還。
7月13日南部仏印進駐作戦のため海南島、海口に展開。8月30日嘉義帰還。
12月8日北部比島攻撃。12月16日香港攻撃、12月23日ルソン島、ツゲガラオに展開、比島作戦参加。
17年1月6日嘉義帰還。1月20日タイ・ドムアンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
5月1日機種改変のため浜松へ移動。6月26日マレー、ケチルに展開、
第七飛行団隷下、ビルマ周辺地区航空作戦参加。
18年3月1日ラバウルに展開ニューギニア、ソロモン航空作戦参加。
19年1月15日~3月チモール島、モロタイ島、パラオ島各飛行場に展開、対潜哨戒。
3月下旬~4月クラーク、アンヘレス飛行場に展開、輸送船団掩護。
7月~10月嘉義に於て海上哨戒。10月20日クラークフィールドに展開。
11月セレベス島・ピンランに展開、モロタイ島攻撃。12月22日ジャワ島、マランに展開。
20年1月16日機種改変のため福岡県新田原に移動。2月4日茨城県水戸へ移駐。
第十六飛行団隷下、20年5月群馬県新田へ移駐。
 
◆歴代戦隊長
弘中孫六大佐、井戸田勇大佐、遠藤操中佐、朝山小二郎中佐、吉田大八少佐
 
◆編成復帰
昭和13年8月31日嘉義
新田にて終戦
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
飛行第15戦隊/偵察機隊(威第8315)

◆使用機種
九四式偵察機、九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、
九八式直接協同偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
飛行第十五連隊を改編、航空兵団隷下。
13年9月23日北支作戦参加の為、南苑に展開、第二飛行集団隷下。
14年4月満州新京に帰還。6月27日ハイラルに展開、ノモンハン事件参加。
9月30日新京帰還。15年3月直協中隊支那方面派遣。16年3月編成改正、司偵二個中隊となる。
16年7月1日第二中隊広東へ展開、第二十五軍指揮下に入る。
7月29日戦隊を第十五独立飛行隊・独立飛行第五十、五十一中隊に改編。
19年1月31日新京に於て、第十五独立飛行隊本部、独立飛行第五十、五十一中隊を復帰。
19年5月比島クラーク進出、海軍第二十三航空部隊の指揮下に入り南東方面の捜索。
19年10月内地帰還、大阪府大正にて戦力回復、機種改変。
11月比島サンマルセリノに前進、レイテ方面捜索、比島航空作戦参加。
20年2月第三航空軍に転属、サイゴンに転進。
  
◆編成昭和13年8月31日新京
◆復帰 昭和20年5月 サイゴン
 
◆歴代戦隊長
安倍克己大佐(戦死)、山本辰雄大佐、中浜吾祐中佐、高橋勝夫中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

16sentai

飛行第16戦隊/軽爆撃機隊(隼魁第9142)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、二式複座戦闘機(屠龍)、四式重爆撃機(飛龍)
 
◆部隊史
飛行第十六連隊を改編、第二飛行団隷下。
14年7月17日~9月22日第2次ノモンハン事件に参加のため満州採塩所に展開。
9月26日海浪へ帰還。
16年11月30日台湾佳冬に展開。第5飛行集団隷下。
16年12月10日~17年1月11日アパリ・ツゲガラオに展開、北部比島作戦に参加。
17年3月~4月コレヒドール攻略作戦に参加。17年5月鉾田に於て機種改変。
17年6月北支彰徳に展開。17年7月~11月河南・湖南作戦に協力。
17年12月~19年6月武昌・漢口・南京・上海展開、各航空作戦に参加、地上戦闘に協力。
19年10月奥地進攻。20年1月~4月上海に移駐、地上作戦に協力。
20年5月朝鮮平壤に移駐。第八飛行団隷下。
20年6月一部をもって福岡県大刀洗を補給地として沖縄作戦に参加。
 
◆編成/昭和13年8月31日海浪
◆復帰/平壌
 
◆歴代戦隊長
下山琢麿大佐、大塚寅雄大佐、久米精一大佐、梁瀬建吾中佐、川守田庄次郎中佐、
甘粕三郎中佐、森桂中佐、佐藤三郎少佐、林正博少佐、佐藤大六少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

17sentai

飛行第17戦隊/戦闘機隊(誠第15351)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
 
◆概略
昭和19年2月、各務原で三式戦闘機「飛燕」をもって
編成。フィリピン戦線へ進出し戦闘を繰り返した。
フィリピンで全戦力を損耗した戦隊は回復の為
小牧へ帰還。名古屋地区へ飛来するB-29の邀撃任務に就く。
昭和20年3月、天号作戦発令とともに特攻隊を編成。石垣島へ前進。
慶良間列島沖の米艦船に対し第一次特攻攻撃を敢行した。
その後、第二次特攻隊、台湾に転進したのち第三次
特攻隊を編成出撃した。6月、台湾では唯一となる五式戦が配備されたが
操縦資料がなく、高田戦隊長自らが空輸者から要領を聞き教育にあたった。
昭和20年8月9日、ソ連が参戦の日、戦隊は内地転進の
命を受け、上海を経由し熊本の健軍飛行場へ転進する計画途中
終戦の詔勅を受けた。
 
◆部隊史
第二十二飛行団隷下。
19年3月~6月愛知県小牧に移駐、訓練および防空任務。
6月11日マニラに展開、マニラ防空任務。
19年10月ネグロス島へ展開、レイテ作戦参加。空中勤務者の大半戦死。
20年1月小牧に帰還、戦力回復。
20年3月5日台湾花蓮港に展開、台湾および南西諸島、天号航空作戦参加。
  
◆編成/昭和19年2月10日各務原
◆復帰/花連港
 
◆歴代戦隊長
荒蒔義次少佐、高田義郎少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

18sentai

飛行第18戦隊/戦闘機隊(天翔第19190)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
  
◆概略
昭和18年12月に三式戦「飛燕」をもって編成された
戦闘機隊。編成時は帝都防空任務を担う計画であったが
錬成が間に合わず、次第に戦力を向上した。大刀洗に
派遣し北九州防空任務に就いたのち、比島派遣が
下令され、アンヘレスへ進出した。レイテをめぐる航空決戦で
米艦載機との空戦、落下傘部隊の掩護、爆装し夜間の
船団襲撃等で敢闘するも、損耗を続けた。
一方で、小宅光男中尉以下の内地残置隊は第10飛行師団の隷下で
帝都防空にあたった。第六震天制空隊を編成。
小三中尉自身が体当たりし生還しB-29を撃墜した。
なお、18戦隊は59戦隊や244戦隊と並んで
もっとも早くに五式戦に機種改編が行われた。
フィリピン残置隊は機体を全耗したのち、ルソン島で
臨時歩兵第20大隊に配属。終戦時の生存者は僅かに6名であった。
 
◆部隊史
19年11月18日比島アンヘレスへ展開、同地航空作戦に参加。
12月10日ネグロス島バコロドに展開、レイテ航空作戦参加。航空機殆ど全滅。
20年2月千葉県柏に帰還、第十飛行師団隷下となる。20年5月千葉県松戸に移駐。
 
◆編成/昭和19年2月10日調布
◆復帰/松戸
 
◆歴代戦隊長
磯塚倫三少佐、黒田武文少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

19sentai

飛行第19戦隊/戦闘機隊(誠第15352)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
  
◆概略
昭和19年2月、明野飛行学校で
編成された三式戦闘機「飛燕」部隊。伊丹にて
3月、海軍零戦部隊とともに阪神地区の防空任務に就く。
5月、比島進出が下令され、マニラ・ニルソンへ進出。
米艦載機との空戦、海軍中攻隊の護衛、レイテ湾艦船
攻撃等を行い、次第に戦力全耗、瀬戸戦隊長は地上で敵機の
爆撃を受け戦死。遠藤正博中尉以下三機は、瀬戸内元戦隊長の
分骨を抱き特攻掩護に出撃したまま未帰還となった。
中司准尉も戦死。比島作戦中止とともに台湾へ転進し
同じく比島から転身した55戦隊生存者を編入し
戦力回復を図る。戦隊は僅かな稼働機をもって
練度の高い操縦者は爆装による艦船攻撃を、未成熟の
操縦者には特攻を命じ、沖縄に散った。
 
◆部隊史
第二十二飛行団隷下。
19年3月16日兵庫県伊丹に移駐、京阪神防空。6月2日マニラに展開。
19年8月アンヘレスに展開、船団掩護、防空および機動部隊攻撃。
19年10月ネグロス島ラカルロタに展開、航空総攻撃の出撃掩護。
11月8日戦力回復のため愛知県小牧へ帰還。
20年1月7日台中へ展開、一部特別攻撃隊としてアンヘレスへ展開。
1月8日敵船団に対し特攻直掩、全機未帰還。1月12日ツゲカラオ展開。
20年2月台中展開、沖縄方面敵艦戦への特攻攻撃。
6月21日花蓮港に展開、天号航空作戦に参加。
 
◆編成/昭和19年2月11日明野
◆復帰/花連港
 
◆歴代戦隊長
瀬戸六郎少佐、中島凡夫少佐、本田辰造少佐、吉田昌明大尉、
深見和雄少佐、栗山美春大尉
  
◆戦死者・殉職者追悼
 

20sentai
飛行第20戦隊/戦闘機隊(誠第18968)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆概略
昭和18年12月、伊丹において編成され
台湾へ転出した246戦隊のあとをうけて大正飛行場
(現在の八尾市柏原)に移駐。阪神地区の防空を務めつつ
錬成を行った。19年2月、20戦隊は北方軍に編入されたため
耐寒準備を行った後、千島へ進出した。
6月、台湾へ移駐し台湾防空任務に就く。
昭和19年10月、比島戦線への進出が下令され
ルソン島バンバンへ進出した。
万朶隊、八紘隊の直掩任務、高千穂空挺隊降下の掩護
を行う。丹心隊掩護ではP-38、16機のの妨害を排しつつ
丹心隊の特攻機6機全機を命中させた。昭和20年2月
台湾に戻った戦隊は一式戦隼三型に機種改編したが
南方空輸中の四式戦を無断で流用し、戦隊長が
憲兵隊に呼び出される一幕もあった。
沖縄決戦開始後は石垣島、宮古島を前進基地として
度々特攻隊の掩護を行い、損耗した。
7月末、沖縄飛行場へ強行着陸する計画が準備されたが
実現に至らぬまま終戦を迎えた。8月15日の夜には
操縦者の中には自決者もあり、沖縄へ突入しようという
空気もあったが、幹部の説得で平穏に帰した。
沖縄北飛行場に残留していた滝平次郎少尉以下、
地上勤務者は地上戦に移行し玉砕した。
 
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年12月6日大阪府柏原に移動、阪神防衛。
19年5月23日千島得撫島移駐。
8月25日南方転用のため台北へ展開、台湾および南西諸島防衛戦参加。
10月20日一部カロカンに展開、比島作戦参加。
12月20日戦力回復のため台湾の小港に移動し本隊と合流。
20年4月17日天号航空作戦参加。特攻攻撃を行う。
 
◆編成/昭和18年12月1日伊丹
◆復帰/小港
 
◆歴代戦隊長
山本五郎中佐、村岡英夫少佐、深見和雄少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

21sentai

飛行第21戦隊/戦闘機隊(誠第11050)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式複座戦闘機(屠龍)
  
◆概略
飛行第64戦隊の人員を基幹として編成された独立飛行第84中隊が
その前身である。64戦隊がノモンハン進出の折、南支方面の航空作戦
を担った。日米開戦後は、戦隊はハノイにあり、支那・ビルマ・比島と転戦し、
昭和17年末には、パレンバン等油田地帯に移駐し防空・船団護衛任務を行った。
B-24攻撃では、二式複戦の37ミリ砲装備機で空中分解させるなど、
威力を発揮したが、随行するP-51に苦戦し、牟田戦隊長が撃墜寸前
のところ、64戦隊の黒江大尉に救われたこともあった。戦隊主力はその後
台湾へ移駐。一部はパレンバンに残り、終戦を迎える。
 
◆部隊史
独立飛行第八十四中隊と飛行第一戦隊の一部をもって編成。
17年12月4日~18年4月パレンバン防空。
18年4月~19年1月マライ、ビルマにて船団掩護、ラングーン防空。
19年11月~12月セレベス島アムランに前進、モロタイ島攻撃。第八飛行師団隷下。
20年7月12日主力は台湾桃園へ展開。
  
◆編成/復帰昭和17年10月20日ハノイ
◆復帰/主力・桃園 一部スマトラ
 
◆歴代戦隊長
牟田弘国少佐、佐藤熙少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

22sentai

飛行第22戦隊/戦闘機隊(隼第18913)
◆使用機種
二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
 
◆概略
東京・福生の陸軍飛行実験部より派生した
初の四式戦闘機「疾風」装備部隊。尾翼に菊水を描いた
決戦部隊として、その期待は大きく
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊の至宝、岩橋譲三少佐を任命、
操縦者も老練の者を多く集め、虎の子としての
処遇が与えられた。満を持して大陸戦線、フィリピン決戦へと
送られたが、激戦の末、その多くが損耗し、終戦に至る。
 
◆部隊史
19年5月東京都福生より東京都中津に移動。
19年8月19日支那漢口へ展開、桂林作戦参加。
19年10月神奈川県中津へ帰還。
19年10月18日マルセリノへ展開、レイテ作戦に参加。
20年1月戦力回復のため中津帰還。
3月25日徐州に展開、第一飛行団隷下となり、同地区防衛に従事。
8月2日朝鮮京城に移駐。
  
◆編成/昭和19年3月5日福生
◆復帰/晋州
 
◆歴代戦隊長
岩橋讓二少佐、難波茂樹少佐、坂川敏雄少佐、上原重雄少佐、
神保進所少佐、北島栄一少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
  

23sentai

飛行第23戦隊/戦闘機隊(天翔第19026)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
 
◆概略
昭和19年10月、太田の中島飛行機で編成。新設された
11月、新設の印旛飛行場へ移駐した。
戦隊の一部は硫黄島へ進出し、海軍の指揮下に
編入。船団護衛、三号爆弾をもって海軍戦闘機とともに
米軍機を邀撃したが、全機消耗し印旛に帰還。
その後戦隊は戦力回復しB-29邀撃戦に従事。
その後は芦屋飛行場へ移駐し再びB-29邀撃任務にあたる。
終戦時の保有機は二式単戦約20機、一式戦三型約15機
のほか一式戦の特攻機(神鷲隊)18機であった。
 
◆部隊史
関東地区防空。
19年12月~20年1月一部硫黄島に派遣、掩護任務に服す。
3月29日福岡県芦屋に展開、北九州防空。4月12日千葉県印旙に帰還。
第十飛行団隷下。関東地区防空。
 
◆編成/昭和19年10月11日印旛
◆復帰/印旛
 
◆歴代戦隊長
藤田重郎少佐、谷口正義少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

24sentai

飛行第24戦隊/戦闘機隊(誠第9602)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第二飛行集団隷下

13年9月22日ハイラルに移駐。
14年5月12日~6月10日第一次ノモンハン事件に参加。
6月19日~9月15日第二次ノモンハン事件に参加。
16年12月5日屏東に展開、比島作戦参加。ビガン前進泊地掩護、航空撃滅戦。
12月16日ルソン島ラオアグに展開。
17年1月ハイラル帰還。明野にて機種改編。7月広東進出、夏季航空作戦参加。
18年5月ブーツに展開。ニューギニヤ航空作戦参加。
11年6月福岡県芦屋に移駐。戦力回復。
19年5月15日クラークに展開。ビアク島攻撃。比島航空作戦に参加。
20年1月台湾嘉義に移動、戦力回復。2月広東に展開。船団護衛と防空任務。
3月28日宮古島に進出。天号航空作戦に参加。
6月21日~8月15日台湾宜蘭に展開、同地防空ならびに戦力回復。
 
◆編成/昭和13年9月1日ハルピン
◆復帰/宜蘭
 
◆歴代戦隊長
松村黄次郎中佐、檮原(ゆすはら)秀見少佐、高橋武少佐、
横山八男少佐、佐田代正一少佐、庄司孝一少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

25sentai

飛行第25戦隊/戦闘機隊(隼魁第2387)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
独立飛行第十中隊を改編。
17年10月~19年3月漢口、南京にて要地防空および地上作戦協力。
4月運城、新郷に展開、河南作戦協力。
5月白螺磯(はくらぎ)に展開。湖南作戦協力および防空。
20年1月上海へ移動。2月南京へ移動。5月北京へ移動。
第一飛行団隷下。7月朝鮮水原に移駐。
 
◆編成/昭和17年10月20日漢口
◆復帰/水原
 
◆歴代戦隊長
坂川敏雄少佐、別府競少佐、松山武夫少佐、向谷克己少佐、金沢知彦少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

26sentai

飛行第26戦隊/戦闘・軽爆隊(誠第8399)
◆使用機種
九七式戦闘機、九七式軽爆撃機
九九襲撃機、一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
 
◆部隊史
第二飛行団隷下。
17年11月20日比島クラークに展開。
18年10月29日軽爆隊はニューギニヤ・ブーツへ展開。
戦闘中隊はパレンバン、ハノイ、アンダマンへ展開。
19年3月戦隊スマトラ、ゲルンバン集結。戦闘分科に改編。
10月10日主力比島に転進。レイテ航空作戦参加。12月戦力回復のため
三重県明野へ移駐。
20年3月シンガポールへ展開。ペトン残置隊と合流。
第八飛行師団隷下。7月6日台東に展開。所在の誠第二十六戦隊と合流。
比島残置隊は地上戦闘に参加。
  
◆編成/昭和17年10月2日衙門屯
◆復帰/台東
 
◆歴代戦隊長
島谷亨中佐、太田鉚吉中佐、坂口唯雄少佐、永田良平少佐
 

27sentai

飛行第27戦隊/軽爆隊(威第9123)
◆使用機種
九四式偵察機、九八式軽爆撃機、九九式襲撃機、二式複座戦闘機(屠龍)
 
◆部隊史
第二飛行集団隷下。北支方面地上作戦協力。
9月広東に展開。広東攻略作戦協力。
14年8月満州延吉に移駐。
16年2月1日広東に展開、福建省方面の作戦協力。7月南部仏印進駐、第三飛行集団隷下。
12月コンポンクーナン展開、開戦第一日占領直後のシンゴラ進出マレー作戦に密接に協力。
17年2月パレンバンに進出、ジャワ作戦に参加。3月テンガーに展開。
4月トングーに展開、ビルマ作戦に参加。10月22日延吉に帰還。
18年8月31日衙門屯に移駐。
19年7月9日ネグロス島サラビヤに展開。
20年2月戦力回復のため内地帰還。3月第六航空軍隷下に入り埼玉県所沢に移駐。 
 
◆編成/昭和13年8月1日石家荘
◆復帰/7月15日所沢にて復帰
 
◆歴代戦隊長
須藤榮之助大佐、広田豊大佐、櫻井肇大佐、
黒田久文中佐、田尻清少佐、高橋安夫少佐、後藤清敏少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

28asentai

28bsentai 
飛行第28戦隊/偵察・戦闘機隊(天翔第9160) 
◆使用機種
九七式偵察機、九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機
百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
第二飛行団隷下。
16年3月編成改正、司偵戦隊となる。
16年7月30日第二十八独立飛行隊本部、独立飛行第六十三、八十一中隊に改編。
19年4月温春に於て第二十八独立飛行隊本部、独立飛行第六十三、
八十一中隊は編成を解き第二十八戦隊を再編。
7月第一中隊を満州鞍山に派遣。
19年11月千葉県東金に移駐、機関砲装備百式司偵で高々度戦闘任務につく。
 
◆編成/昭和14年6月1日新京
◆復帰/昭和20年7月10日東金にて復帰
 
◆歴代戦隊長
北川潔水大佐、松沢恭平大佐、河村孝三郎大佐、上田秀夫少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

29sentai 
飛行第29戦隊/偵察・戦闘・司偵隊(誠第9163)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機、
九九式襲撃機、二式単座戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
  
◆部隊史
航空兵団隷下。
14年8月朝鮮会寧に移駐、ノモンハン事件参加。
16年3月編成改正により、軍偵、直協の戦隊となる。
16年7月29日、第二十九独立飛行隊本部、独立飛行第六十六、
八十七中隊に改編。8月北支中支各地で作戦に参加。
17年10月満州海林に展開。
19年2月5日第二十九独立飛行隊本部、独立飛行第八十七、
九十中隊を満州海林にて飛行第二十九戦隊(戦闘隊)に改編。
19年3月5日満州杏樹に移駐。19年7月台中に展開、台湾防空。
19年8月26日中支武昌に展開、8月26日~10月26日後期航空作戦に参加。
19年11月8日比島派遣、クラークに展開、第二次比島及び濠北作戦に参加。
20年3月15日台中に展開、3月26~6月20日天号航空作戦に参加。 

◆編成/昭和14年7月15日各務原
◆復帰/台中
 
◆歴代戦隊長
森本秀応大佐、光岡明中佐、川田武雄少佐、土橋正次少佐(戦死)、小野勇(大尉)
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

30sentai

飛行第30戦隊/襲撃・戦闘機隊(高第9198)
◆使用機種
九九式襲撃機、一式戦闘機(隼)、試作複座戦闘機
 
◆部隊史
第13飛行団隷下。
18年10月25日敦化移駐、戦闘隊に分科変更。
19年8月15日比島マナベラに展開、ネグロス島邀撃作戦に参加。
19年9月14日クラークに転進、同地防空。
19年10月台湾沖航空作戦参加。19年11月戦力回復のため大刀洗帰還。
20年1月6日ツゲガラオに展開、リンガエン湾作戦に参加。
20年1月24日台湾屏東に転進し戦力回復。
 
◆編成/昭和18年10月1日東京城
◆復帰/昭和20年5月2日?東にて復帰
 
◆歴代戦隊長
神崎清中佐、佐藤眞一少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

31sentai

飛行第31戦隊/軽爆・襲撃・戦闘機隊(威第9623)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式襲撃機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第一飛行団隷下。
13年8月~14年8月中支漢口攻略、広東攻略、海南島攻略、各作戦に協力。
14年8月満州嫩江に移動、ハイラルに於てノモンハン事件参加。第九飛行団隷下。
9月嫩江に移駐、第三飛行集団隷下。
16年12月4日仏印シエムレアに展開、第十五軍のタイ進駐に協力。
12月23日ビルマ・ピサンロークに展開、ビルマ作戦に参加。
17年4月27日マグエに展開。第十五次戡定作戦参加。
17年7月嫩江に帰還。17年10月18日満州敦化に移駐。九九式襲撃機に改変。
18年12月一式戦闘機(隼)に改変。
19年7月30日ネグロス島ファブリカに展開し、レイテ作戦、マニラ防衛戦に参加。
20年4月主力戦力回復のため内地帰還。
 
◆編成/昭和13年8月南苑
◆復帰/昭和20年5月30日シンガポールにて復帰
 
◆歴代戦隊長
高橋常吉大佐、佐藤正一大佐、長谷川正雄中佐、林順二中佐、加島誠輝中佐、西進少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

32sentai

飛行第32戦隊/軽爆隊(鏑第9142)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式襲撃機

◆部隊史
第二飛行集団隷下。
16年4月24日北支南苑に展開、第百号作戦参加。
5月20日満州杏樹に帰還。
19年2月22日北海道計根別に移駐、松輪島、占守島に前進、船舶掩護、対潜警戒。
12月比島ラオアグに展開、呂宋(ルソン)島航空作戦参加。
20年3月25日計根別に帰還、南千島方面哨戒及び対潜掃蕩
 
◆編成/昭和14年10月5日杏樹
◆復帰/計根別
 
◆歴代戦隊長
川上清志大佐、相京正夫大佐、宇佐神正捷少佐、岡村正義少佐、安原勤少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

33sentai

飛行第33戦隊/戦闘機隊(高第9144)
◆使用機種
九四式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
 
◆部隊史
第二飛行集団隷下。
14年8月28日平安鎮へ前進、ノモンハン事件参加。
17年9月1日広東へ展開、支那大陸航空作戦参加。
18年7月武昌に展開、支那十八年度中期航空作戦参加。
9月仏印ハノイに展開、支那十八年度中期航空作戦参加。
10月パレンバン展開、防空任務。
18年11月3日ビルマ、マウビに展開しビルマ航空作戦参加。
19年1月3日タイ、ドムアンに展開。2月ホランジアに展開しニューギニア航空作戦に参加。
5月シンガポール移動。戦隊再編。6月6日パレンバン展開、要地防空。
10月25日クラークに展開、比島航空作戦参加。
20年1月13日パレンバンに帰還、要地防空および戦力回復。5月15日メダンに展開。
 
◆編成/昭和13年8月1日杏樹
◆復帰/昭和20年6月20日メダンにて復帰
 
◆歴代戦隊長
青木正三中佐、原田潔中佐、水谷勉少佐、渡辺啓少佐、
福地勇雄少佐、山浦浩少佐、生井清少佐、勝田悦夫少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

34sentai

飛行第34戦隊/軽爆隊(洋第11051)
◆使用機種
九九式双発軽爆撃機

◆部隊史
独立飛行第八十二中隊を改編。第四飛行団隷下。
18年3月3日タイ・チェンマイに展開、第三十一号作戦参加。
6月25日アロールスターに展開。10月7日チエンマイに帰還しビルマ航空作戦参加。
19年2月9日ニューギニア・ホランジアに展開し同方面作戦参加。
同地戦闘に於て殆ど戦力を喪失、一部マニラに派遣。
19年7月31日残存部隊、ルソン島リバ・に展開。
8月20日同戦隊はニューギニヤに於て復帰。比島残存人員は飛行第二百八戦隊に転属。
 
◆編成/昭和17年10月15日プノンペン
◆復帰/昭和19年8月20日、ニューギニヤ

◆歴代戦隊長
田中祐晴中佐(戦死)
 
◆戦死者・殉職者追悼 

38sentai

飛行第38戦隊/司偵隊(鏑第19342)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年9月26日~10月24日カムチャッカへ隠密捜索。
18年11月3日北海道札幌に移駐。19年4月7日北海道帯広に移駐、
北千島占守島にて洋上捜索。
19年9月19日~10月10日アッツ島捜索。
19年10月24日クラークフイルドに展開、比島作戦に参加。
20年3月20日帯広に帰還。
比島移駐に当り一部帯広に残置されたる隊は
19年12月~20年3月千葉県八街に転地訓練。
20年4月帯広に帰還主力に合流。
 
◆編成/昭和18年4月15日樺太大谷
◆復帰/帯広
 
◆歴代戦隊長
木村拙郎中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼 

44sentai

飛行第44戦隊/偵察機隊(隼魁第2376)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、九八式軽爆撃機、九九式軍偵察機(九九式襲撃機)
 
◆部隊史
14年7月第三飛行団隷下。
飛行第三大隊と独立飛行第十八中隊と飛行第四十五戦隊より選抜されたる
人員機材に依り編成。
15年4月~7月宜昌作戦参加。
15年9月編成改正、独立飛行第十八中隊を再編転出させ、
独立飛行第十七中隊を編入、軍偵一隊、直協三隊となる。
9月5日中支漢口に展開。16年7月30日第二次長沙作戦参加。
11月30日広東に展開、香港攻略作戦参加。
17年8月杭州に展開淅かん作戦に協力。
18年2月南昌、蒲折に展開、江北殲滅作戦。
18年8月漢口に展開、中南支飛行場攻撃、揚子江船舶攻撃。
19年3月新郷に展開、京漢、湘桂作戦参加。6月漢口に帰還、粤漢作戦参加。
20年5月5日唐山に展開。6月1日主力朝鮮大田移駐。
軍偵中隊、第三直協隊は常州残置。 
 
◆編成/昭和14年7月漢口
◆復帰/大田
 
◆歴代戦隊長
森玉徳光大佐(ニューギニヤにて飛行団長で戦死)、大坪清大佐、
福沢丈夫中佐、広瀬茂中佐、沢山義治少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

45sentai

飛行第45戦隊/軽爆隊(威第10654)
◆使用機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、二式複座戦闘機(屠龍)、
キ百二双発襲撃機(五式双発襲撃機)(試作襲撃機)
 
◆部隊史
独立飛行第六中隊を改編、第三飛行団隷下。
13年8月~10月武漢作戦参加。
14年9月12日ハイラルに展開、第二次ノモンハン事件参加。
9月25日満州嫩江に移駐。
16年12月6日広東に展開、香港攻略戦に参加。
17年1月13日機種改変のため埼玉県所沢へ移動。
4月24日満州白城子へ移動。
18年1月22日ラバウルに展開、ガダルカナル作戦に参加。
5月ブーツに展開、ニューギニア作戦参加。
18年12月10日機種改変のため茨城県鉾田へ移動。
19年2月10日クラークに展開、船団掩護第三次比島戡定作戦、
濠北作戦、第三次ニューギニア作戦に参加。
8月20日ネグロス島タリサイに展開、同地に於て防空、
船団掩護、レイテ作戦に参加。
20年2月機種改変のため鉾田に移駐、第二十六飛行団隷下。
 
◆編成/昭和13年7月27日安慶
◆復帰/鉾田
 
◆歴代戦隊長
吉田定雄大佐、下田竜衛門大佐、土生秀治大佐、浜田竜太郎中佐、
佐内不二生中佐、高橋賢一少佐、竹下福寿少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
 

47sentai 
飛行第47戦隊/戦闘機隊(天風第34212)
◆使用機種
二式戦闘機(鍾馗)四式戦闘機(疾風)
 
◆概略
開戦から終戦まで鍾馗一筋で通したかわせみ部隊。
昭和16年11月立川の航空審査部で試作段階にあった
二式単戦「鍾馗」によって臨時編成された独立飛行第47中隊が
改編された。二式単戦は一式戦に慣れた操縦者には必ずしも
歓迎されなかったが、英空軍スピットファイアに対抗する新鋭機として
増加試作機9機をもって急遽一個中隊を編成し鍾馗の審査主任だった
坂川敏雄少佐を隊長として南方軍の直轄部隊に編入した。
隊名は赤穂義士にあやかって命名され、「新選組」あるいは
「かわせみ部隊」と呼ばれた。胴体には山鹿の陣太鼓を描いた。
以降、ビルマ戦線において重戦の威力を遺憾なく発揮した。
内地に帰還した独飛47中隊は飛行第47戦隊と改称され東京・成増飛行場に展開。
調布の244戦隊と並んで関東地区の防空の要となる。
第十飛行師団により震天制空隊に任命された47戦隊は鈴木、坂本曹長
永崎、見田伍長の四名を指名。体当たり機は武装・防弾装備を取り外し
高度110000メートルまで上昇可能となった。昭和20年1月9日の
B-29邀撃戦では震天制空隊による凄惨な体当たり戦となった。
隊員らは「ただいまより体当たり!バンザーイ!」との叫びを無線にのせて
次々突入。幸万寿美軍曹は成増飛行場上空でB-29に体当たりし
機体は四散。左外側エンジンを吹き飛ばされたB-29は黒煙を吐きつつ
脱落。真崎大尉の編隊によってとどめが刺された。
 
◆部隊史
第十九飛行団隷下年
18年10月3日成増に移駐。独立飛行第四十七中隊を編入。帝都防空。
20年3月第三十戦闘飛行集団長の隷下に入る。
20年5月9日宮崎県都城西に展開、天号作戦参加。
7月25日第十二飛行師団長の隷下に入り、山口県小月にて機種改編。九州防空。
 
◆編成/昭和17年5月30日柏

◆復帰/小月
 
◆歴代戦隊長

下山登令中佐、奥田暢少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

48sentai

飛行第48戦隊/戦闘機隊(隼魁第16618)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)
  
◆部隊史
第五航空軍隷下。第十二飛行団編入。
18年11月5日満州間島省・間島に移駐。
19年4月29日武昌に展開、九江上流航路掩護。
19年7月中支白螺磯。19年11月衝陽。19年12月漢口、南京。
20年5月土山鎮と転戦し、諸作戦続行。終戦とともに上海集結。
 
◆編成/昭和18年7月30日牡丹江
◆復帰/昭和20年8月15日、泰県
 
◆歴代戦隊長
松尾政雄少佐、鏑木健夫少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

50sentai

飛行第50戦隊/戦闘機隊(誠第9914)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)

◆部隊史 
16年11月26日台湾恒春に移駐、開戦にあたり比島攻略船団の掩護。第四飛行団隷下。
12月20日比島ビガンに展開、泊地掩護。
16年12月8日~17年1月7日マニラ攻略戦参加。
1月10日タイ・ナウンサワンに展開、ビルマ航空撃滅戦に参加。
17年4月埼玉県所沢にて機種改編。
17年5月モールメンに展開、ビルマ、印度、昆明、作戦参加。
18年10月へホに展開。
18年10月~19年6月印支空路遮断作戦、インパール作戦参加。
19年10月19日ビルマ、ミンガラドンに展開、インパール撤退作戦参加。
12月マウビに展開、ビルマ地上作戦協力。
20年1月サイゴン展開。
1月~6月同地にありて敵機動部隊攻撃、一部特攻隊となる。
7月主力台中に展開、第八飛行師団隷下。地上部隊主力は仏印残置。
残置部隊は第八錬成飛行隊に転属。
 
◆編成/昭和15年9月10日台中
◆復帰/嘉義
 
◆歴代戦隊長
吉田直中佐、牧野靖雄少佐、石川正少佐、新田重俊少佐、藤井辰次郎少佐、河本幸喜少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

51sentai

飛行第51戦隊/戦闘機隊(威第18424)
◆使用機種
◆部隊史
◆編成/昭和19年4月28日小月
◆復帰/下館

◆戦死者・殉職者追悼
  

52sentai

飛行第52戦隊/戦闘機隊(威第18425)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
19年5月7日福岡県芦屋移駐。
9月27日比島デルカメンに展開。ルソン島沖、台湾沖、
クラーク航空作戦参加。10月24日サラビヤに展開。
11月10日迄レイテ作戦参加。一部サルビヤに残置。
地上要員は大博丸、大彰丸にてデルカメンに向うも
10月26日バシー海峡にて雷撃を受け海没。
生存隊員は11月5日デルカメンに到着。
11月13日デルカメン残置の空中勤務者は千葉県下館に移動、戦力回復。
第十六飛行団隷下。帝都防空任務。20年7月東京都調布へ移動。
20年2月~4月整備員はレイナマルセデスに移動。
2月一部ツゲガラオに移動させるも空輸不能のため、
レイナマルセデス残置隊は第六、第七野戦補充隊に編入。地上戦闘参加。
20年9月18日アンケブロにて停戦。
サラビヤ残置隊は19年11月13日~20年1月23日
飛行第七十一戦隊、飛行第二百戦隊に協力。
9月2日サンパブロにおいて米軍に収容。
ツゲガラオ残置隊は20年2月アパリに移動。ラロー地区地上戦闘参加。
9月14日モンテンルパに収容。

 
◆編成/昭和19年4月28日防府
◆復帰/調布
 
◆歴代戦隊長
桑原信彦少佐、内徳隆幸少佐、沢山義隆少佐、坂内士郎少佐、高野明少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

53sentai

飛行第53戦隊/戦闘機隊(天翔第18426)
◆使用機種
二式複座戦闘機(屠龍)
 
◆部隊史
19年5月千葉県松戸に移駐、夜間防空先任。
20年千葉県藤ヶ谷に移駐、第十飛行師団隷下。
 
◆編成/昭和19年4月3日所沢
◆復帰/藤ヶ谷
 
◆歴代戦隊長
児玉正人少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

  

54sentai 
飛行第54戦隊/戦闘機隊(鏑第19272)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第一飛行団隷下。
16年12月2日中支漢口へ展開、武漢地区防空。
17年1月7日白螺磯に展開、戦場上空制空。
8月7日まで南京、杭州地区防空。第二次せ號航空作戦参加。
17年10月北海道千歳に移駐。18年1月帯広に移駐。
18年4月大阪大正に移駐。6月7日帯広帰還。
8月12日幌莚島に展開、一部残置。B~24邀撃作戦に参加。
19年2月29日第一中隊は独立飛行第24中隊に改編。
19年11月10日ネグロス島ファブリカに展開、レイテ航空作戦に参加。
20年5月戦力回復のため北海道帰還。
9月札幌にて主力は復員。幌莚島残置者は8月末ソ連に抑留さる。
 
◆編成/昭和16年7月26日柏
◆復帰/札幌9月主力復員

◆歴代戦隊長
島田安也少佐、黒川直輔少佐、竹田勇少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

55sentai

飛行第55戦隊/戦闘機(鷲第18427)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
 
◆部隊史
第十一飛行師団隷下。
19年5月25日愛知県小牧に移駐。11月18日比島アンヘレスに展開、
クラーク地区防空、
比島航空作戦参加。一部は小牧に残置。
20年1月3日マナブラに展開、同地区の戦闘に於いて全機喪失。
2月空中勤務者と基幹整備員ネグロス島脱出以後不明。
20年3月1日第十六航空地区司令官の指揮下に入り地上戦闘参加。
 
◆編成/昭和19年4月26日大正
◆復帰/伊丹
 
◆歴代戦隊長
岩橋重夫少佐、矢野武夫代理大尉、小林賢二郎少佐

 

56sentai

飛行第56戦隊/戦闘機隊(天鷲第18428)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)
 
◆部隊史
19年5月兵庫県伊丹移駐、阪神防空。
8月28日済州島に展開、同方面洋上撃滅戦闘参加。
11月15日第十一飛行師団隷下。伊丹に帰還、防空戦闘。
 
◆編成/昭和19年4月26日大正
◆復帰/伊丹
 
◆歴代戦隊長
古川治良少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

58sentai 
飛行第58戦隊/重爆隊(誠第9145)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機
 
◆部隊史
飛行第十二連隊第二大隊を改編。第二飛行集団隷下。
14年6月満州佳木斯に移駐。15年8月広東に移動、桂林等攻撃。
9月12日佳木斯に帰還。
18年2月スマトラ島メダンに展開、印度洋の哨戒、船団掩護。
18年7月支那大場鎭に展開、中期航空作戦参加。
10月メダンに展開、同地に在りて船団掩護。
19年6月20日独立飛行第三十一中隊を編成。
20年1月13日仏印コンポンクーナンに展開、
7月25日迄敵機動部隊攻撃、ビルマ敵基地攻撃、第八飛行師団隷下。
20年8月台湾草屯に移動。

◆編成/昭和13年8月31日公主嶺
◆復帰/草屯
 
◆歴代戦隊長
小川団吉大佐、滝昇大佐、高品朋大佐、坪内剛直大佐、辻本隼三少佐、中嶌隆弘少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

59sentai

飛行第59戦隊/戦闘機隊(天風第2377)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、三式戦闘機(飛燕)、五式戦闘機
 
◆部隊史
飛行第一連隊より編成。第九飛行団隷下。
13年8月満州、延吉に展開。9月安慶前進、漢口攻略作戦参加。
11月漢口に展開、ノモンハン事件参加。
15年広東に展開、仏印進駐作戦参加。
16年1月漢口に帰還。5月~10月機種改編のため東京都立川に移動。
第三飛行集団隷下。
12月7日コンポントラッシュに展開、第一撃参加、
マレー作戦に従事。
12月25日マレー・イポーに展開、
シンガポール作戦に参加。
17年1月クアラルンプールに展開、
パレンバン、スマトラ、ジャワ作戦参加。
3月10日バンドンに展開。5月マラヤンに展開、
小スンダ作戦参加。
18年2月ジャワにて防空任務。第三飛行団隷下。
6月20日~6月22日ポートダーウィン進攻。
7月11日ブーツ東に展開、ニューギニア作戦参加。
19年3月福岡県芦屋に移駐、戦力回復。3~10月北九州、阪神地区防空。
20年1月福岡県蓆田(むしろだ)に展開。北九州、京阪神地区防空。
2月芦屋に帰還。3月知覧に展開、沖縄地区航空作戦に参加。
第三十戦闘飛行集団隷下。6月芦屋に帰還。
 
◆編成/昭和13年7月1日各務原
◆復帰/芦屋
 
◆歴代戦隊長
今川一策大佐、土井直人中佐、谷村礼之助少佐、中尾次六少佐、福田武雄少佐、
佐藤猛夫少佐、本田辰造少佐、木村利雄少佐、西進少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

60sentai

飛行第60戦隊/重爆隊(威第2378)
◆使用機種
九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
 
◆部隊史
飛行第六大隊を飛行第六十戦隊に改編。第四飛行団隷下。
14年1月より支那運城へ前進、第三飛行集団隷下。重慶、蘭州、成都に進攻。
15年3月9日南苑に移駐。飛行第九十八戦隊第三中隊編入。
3月17日~4月28日南京、彰徳地上作戦協力竝に要地攻撃。
4月29日~9月4日漢口、運城第四次航空進攻作戦参加。
16年4月1日~6月20日仏印ハノイ基地。印、緬、支、遮断進攻作戦参加。
9月20日機種改変のため静岡県浜松に移動。12月5日プノンペンに展開、
マレー・ビルマ作戦参加。
17年3月6日クラークに展開、バタアン半島、コレヒドール攻撃。
5月16日器材整備のため浜松帰還。7月6日北満、拉林に移駐、同地警備。
18年2月20日アエルタワルに展開、印度洋哨戒。7月22日武昌に展開、
重慶、昆明進攻作戦参加。
9月19日ハノイに展開。12月17日メダンを経てヘホに前進、第二次昆明攻撃。
19年1月メダンに展開、2月11日ホランジアに展開、濠北作戦に参加。
5月マバラカットに移動、7月7日水戸に移駐、戦力回復。
8月24日南京に展開、中国奥地B29基地攻撃参加。10月11日浜松移駐。
20年2月硫黄島攻撃参加。第六航空軍隷下。
20年3月8日熊本健軍飛行場に展開、沖縄攻撃参加。
◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/熊本
 
◆歴代戦隊長
中薗盛孝大佐、田中友道大佐、小川小二郎大佐、花本盛孝大佐、
大岩三男中佐、渥美光少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
  

61sentai

飛行第61戦隊/重爆隊(誠第9604)
◆使用機種
九三式重爆撃機、九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)
 
◆部隊史
第二飛行集団隷下。
14年5月31日ハイラルに展開、ノモンハン事件参加。
16年11月~12月山下兵団上陸掩護のため一部仏印に出勤。
17年9月25日メダンに展開、印度洋哨戒。18年3月14日スラバヤに展開。
6月19日ラウテンに進出、ポートダーウイン進攻、
8月15日機種改変のため浜松に移動。10月13日ニューギニア島ワクデに展開、
19年3月25日迄第三次ニューギニア戦闘に参加。5月6日ナムレアに展開、ピアク、モロタイ攻撃。
10月16日機種改変のため浜松へ移動。
20年2月9日コンポンクーナンに展開、3月1日~7月10日反攻邀撃々碎作戦に参加。
7月16日台湾嘉義に展開、地上部隊主力シンガポールに残置
8月11日第三航空軍司令部に転属、一部コンポンクーナンに残置。
8月10日第四十五教育飛行隊に転属。

◆編成/昭和13年8月31日チチハル
◆復帰/嘉義

◆歴代戦隊長
志方光之大佐、三上喜一大佐、藤崎茂大佐、小川一郎大佐(殉職)、
八木斌中佐、堀川正三郎少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

62sentai

飛行第62戦隊/重爆隊(灘第9908)
◆使用機種
九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)
 
◆部隊史
飛行第三集団隷下。
16年12月6日カンボチヤ・クラコールに展開、マレー作戦第一撃参加。
12月15日タイ・ドムアンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
17年4月26日クラークフイルドに展開、パターン半島攻撃参加。
4月27日南京に展開、せ号航空作戦参加。
18年8月11日北海道帯広に移動。
12月22日第四十五戦隊南方先発のための人員器材をクラークに輸送、
19年1月13日静岡県浜松に帰還。2月20日スンゲイバタニ展開、ビルマ航空作戦参加。
5月28日サバニ島付近哨戒。8月19日シンガポールに展開。
7月1日~10月22日ニューギニア、セレベス、モロタイ、レイテ作戦参加。
スンゲバダニ残置者100名(その後の行動不詳)。
12月15日シンガポールに展開(同地残置者は200名。
20年3月5日ルソン島カガヤンに於て臨時独立歩兵第十五大隊に編入)
20年1月東京都福生で機種改変。2月西筑波に移動。第六航空軍隷下。
4月8日福岡県大刀洗に展開、沖縄作戦参加。6月西筑波に帰還。
 
◆編成/昭和16年11月14日帯広
◆復帰/西筑波
 
◆歴代戦隊長
波多野魁夫大佐(戦死)、大西洋大佐、堀場一雄大佐、芳賀政信中佐(戦死)、
石橋輝志少佐、新海希典少佐(戦死)、沢登正三少佐(戦死)、小野祐三郎少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
  

63sentai 
飛行第63戦隊/戦闘機隊(洋第15378)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第一飛行師団隷下。
18年4月25日北海道札幌及び苫小牧に移駐。9月第一中隊北千島幌莚に派遣。
19年1月14日ニューギニア島ウエワクに展開。
北千島派遣隊は2月28日ホランジアにて本隊と合流。
3月ホランジア展開、一部ウエワク残置。
19年1月16日~4月21日同地にて進攻、邀撃作戦。この作戦で飛行機全耗。
6月27日サルミに移動、途次戦闘により大部分は戦死。
19年7月25日サルミにおいて復帰。その後21年6月まで現地にて自活活動。
ウエワク残置隊は20年10月ポイキンにて武装解除。
21年1月19日神奈川県浦賀上陸復員。

◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/8月22日クラコール
昭和21年4月25日サンジャック出発5月4日大竹上陸復員
 
◆歴代戦隊長
原孫治少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

64sentai

飛行第64戦隊/戦闘機隊(高第9124)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、二式戦闘機(鍾馗)
 
◆部隊史
飛行第二大隊を改編。第四飛行団隷下。
13年8月中、支二套口に展開、漢口作戦参加。
12月広東に展開、海南島攻略作戦参加。
14年2月独立飛行第九中隊を編入。
14年8月5日満州ハイラルに展開。ノモンハン事件参加。のち、朝鮮東京城移駐。
15年1月8日広東に展開、同地防空、北部仏印進駐に協力。
16年9月1日一式戦に機種変更。12月3日第三飛行集団隷下。
南部仏印、フコク島に展開、船団掩護、マレー作戦参加。
12月25日ドムアン前進、ラングーン航空撃滅戦参加。
17年1月10日イポーに前進、シンガポール作戦参加。
17年2月カハンに前進、パレンバン作戦参加。
2月16日パレンバンに前進、ジャワ作戦参加。
3月26日チェンマイに展開。4月23日トングーに展開。
17年4月~20年4月5日アキヤブ、レグ、マウビ、ヘホ等にて
ビルマ周辺地区航空撃滅戦および反攻作戦参加。第三航空軍隷下。
20年5月バンコクに展開。7月13日クラコール集結。
8月22日クラコール。
21年4月25日サンジヤツク出発。5月4日広島県大竹上陸。復員。
 
◆編成/昭和13年8月1日彰徳
◆復帰/8月22日クラコール昭和21年4月25日サンジャック出発5月4日大竹上陸復員

◆歴代戦隊長
寺西多美弥中佐、横山八男中佐、佐藤猛夫少佐、加藤建夫少佐、
八木正己少佐、彰樂武世少佐、広瀬吉雄少佐、江藤豊喜少佐、宮部英夫少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  
 

65sentai

飛行第65戦隊/襲撃・軽爆隊(威第9104)
◆使用機種
九四式偵察機、九八式軽爆撃機、一式戦闘機(隼)、
二式複座戦闘機(屠龍)、九九式襲撃機
 
◆部隊史
飛行第九連隊と独立飛行第四中隊を改編、第二飛行団隷下。
14年9月9日ハイラルに展開、ノモンハン事件に参加。
16年8月満州敦化に移駐、
17年5月12日支那大場鎭に展開、淅かん作戦参加。
9月16日機種改変のため岐阜県各務原に移動。
10月23日朝鮮咸興に移駐、18年9月4日海浪に移駐。
19年7月7日ルソン島リパに展開、比島作戦参加(飛行機の大半損耗)。
20年1月2日戦力回復のため福島県原ノ町へ移動。
3月27日鹿児島県知覧に展開、第六飛行団隷下、沖縄作戦参加。

◆編成/昭和13年7月27日会寧
◆復帰/目達原
 
◆歴代戦隊長
藤塚止才夫大佐、寺田済一大佐、桑塚城中佐、椙村隆良中佐、
石原政雄中佐、吉田穆少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

66sentai

飛行第66戦隊/襲撃機隊(鷲第9150)
◆使用機種
九九式襲撃機
 
◆部隊史
17年4月29日満州間島省東盛湧に移駐。
17年10月27日三江省湖南営に移駐。
18年9月一部周水子に展開、対潜警戒。
19年7月8日ルソン島リパに展開。
19年9月~19年11月リパを基地としてレイテ作戦に参加。
20年2月戦力回復のため茨城県鉾田に移動。整備員リパ・クラークに残置。
20年4月鹿児島県万世に展開、第六飛行団隷下。
20年7月福岡県大刀洗に展開、沖縄作戦参加。
 
◆編成/昭和17年3月31日平壌
◆復帰/大刀洗

◆歴代戦隊長
小森田親玄大佐、田村重夫少佐(戦死)、藤井權吉少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

67sentai

飛行第67戦隊/襲撃機隊(誠第18969)
◆使用機種
九九式襲撃機、二式複座戦闘機(屠龍)

◆部隊史
第一飛行師団隷下。
19年4月千島へ移駐。主力得撫島東雲、一部天寧にて哨戒任務。8月28日沖縄に展開。
9月26日アパリに展開。10月24日ネグロス島バコロドに展開、レイテ作戦参加。
飛行機損耗の為、空中勤務者及び地上勤務者若干名はラオアグに残置。
20年2月27日ザンボアンガに移動。
  
◆編成/昭和18年2月25日八戸
◆復帰/昭和20年5月30日ザンボアンガに於て現地復帰
 
◆歴代戦隊長
佐藤辰男中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

68sentai

飛行第68戦隊/戦闘機隊(真第9151)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)

◆部隊史
第十四飛行団隷下。
17年4月ハルピンに移駐。12月23日機種改編のため三重県明野に移動。
18年4月24日ラバウルに展開、船団輸送作戦に参加。
8月11日ウエワクに展開、同地に於いて進攻作戦および船団掩護。飛行機大半損耗。
19年4月22日サルミに移動。5月一部ハルマヘラ島ワシレの防空。
19年8月20日サルミにおいて復帰。
 
◆編成/昭和16年7月29日会寧
◆復帰/昭和19年8月20日サルミに於て復帰
 
◆歴代戦隊長
下山登令中佐、木村清中佐、貴島俊男少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
  

70sentai

飛行第70戦隊/戦闘機隊(天翔第8370)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)
二式複座戦闘機(屠龍)日四式戦闘機(疾風

◆部隊史
第五飛行集団隷下。
17年9月満州杏樹に展開日対ソ作戦準備および満州重要都市防空。
19年2月25日千葉県松戸に移駐日東部地区防空。
8月4日南満鞍山に展開日同地防空。
11月8日松戸に移駐日第十飛行師団隷下日東部地区防空。
 
◆編成/昭和16年3月5日杏樹
◆復帰/杏樹
 
◆歴代戦隊長
江山六夫少佐、長縄克己少佐、坂戸篤行少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

71sentai

飛行第71戦隊/戦闘機隊(誠第18429)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)

◆部隊史
19年9月21日山口県小月に移駐。北九州防空。
11月14日比島デルカメンに展開。
12月上旬マナブラに展開日レイテ第二次総攻撃参加。
地上部隊は一部デルカメンに残置。
20年2月ボルネオ島サンダカンに展開。一部はネグロス島に残置。
20年4月1日クチン日サイゴン日ツーランを経て防府に移駐日第十二飛行師団隷下。
残置隊は20年9月2日停戦に伴い収容所に入る。

◆編成/昭和19年9月17日亀山
◆復帰/防府
 
◆歴代戦隊長
綾部逸雄少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

72sentai

飛行第72戦隊/戦闘機隊(威第18430)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
19年9月1日第二十一飛行団隷下日兵庫県伊丹に展開日阪神地区防空。
12月16日比島バンバンに展開日リンガエン上空戦闘。
ルソン東方船団攻撃日クラーク上空邀撃作戦参加。
20年2月1日レイナマルセデスに展開。
ルソン島残置部隊編成日アリタオ付近特別斬り込み作戦参加。
2月15日アパリに転進。3月2日カマルンガヤンに展開。
3月15地上整備要員内地輸送待機のためアパリに転進。
4月25日臨時歩兵第二十五大隊編成。第二中隊駿兵団長の指揮下に入る。
サンビセンテに展開。
5月15日アリタオ付近の地上決戦に参加。
20年5月30日部隊復帰。内地帰還予定人員8月15日ナトニンに集結。
9月2日戦闘行動停止。カビサヤンにおいて収容所に入る。
 
◆編成/昭和19年5月16日北伊勢
◆復帰/昭和20年5月30日部隊復帰
 
◆歴代戦隊長
津崎英介少佐、移野道雄少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

73sentai

飛行第73戦隊/戦闘機隊(威第18431)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第二十一飛行団隷下。
19年9月埼玉県所沢に移駐。
12月14日ルソン島マバラカット東飛行場に展開、
ルソン島航空作戦に参加、航空機全機損耗。
20年3月オロラに移動。
4月10日オロラ残留者臨時歩兵第二十五大隊に編入。
5月30日オロラにおいて復帰。
南方残置隊は20年9月2日戦闘停止、収容所に入る。 
  
◆編成/昭和19年9月17日柏原
◆復帰/昭和20年5月30日オロラに於て復帰
 
◆歴代戦隊長
三隈輝男少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

74sentai

飛行第74戦隊/重爆隊(威第9132)
◆使用機種
九七式重爆撃機、百式重爆撃機(呑龍)、四式重爆撃機(飛龍)

◆部隊史
第五飛行集団隷下。
17年12月~19年2月満州公主嶺にて警備。
一部を以って東京都立川-マニラ間の空輸業務。
19年4月7日北海道計根別に展開、千島、オーツク海、太平洋上哨戒。
11月15日デルカルメンに展開、レイテ作戦参加。
20年1月~2月嘉義空輸作戦。
20年4月熊本に移駐、第五飛行団隷下。地上部隊デルカメン残置。
7月樺太・落合移駐。8月12日松本移駐。
 
◆編成/昭和17年12月20日公主嶺
◆復帰/松本
 
◆歴代戦隊長
河島慶吾中佐、笹尾宏中佐、上沼利清中佐、丹波多四郎少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

75sentai

飛行第75戦隊/軽爆隊(輝第2379)
◆使用機種
九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機、キ102双発襲撃機(五式双発襲撃機)
 
◆部隊史
第三飛行団隷下、飛行第七大隊を改編。漢口作戦、
宜昌作戦協力及敵航空基地攻撃。
15年9月中支武昌に展開、淅東作戦、奥地進攻。102号作戦参加。
16年12月5日コンポントラツシユ展開、マレー作戦参加。
12月15日スンゲイバタニに前進、地上部隊協力、
シンガポール航空撃滅戦参加。
17年2月21日パレンバンに展開、ジャワ作戦参加。
3月2日カリジヤチに展開、バンドン攻略戦参加。
8月18日バンドンに展開。18年11月セレベス島アマハイに展開。
ハルマヘラ島、ニューギニア沿岸の哨戒船団掩護。
19年2月ホランジアに展開、マダン、ウエワク方面作戦参加。
3月アマハイに展開、西部ニューギニア作戦参加。
9月セレベス島アンベシヤに展開、ハルマヘラ島付近の戦闘に参加。
10月ボルネオ島サンダカンに展開、レイテ作戦参加。
12月リパに展開、比島作戦参加。
20年1月ツゲガラオに集結。3月機種改変のため茨城県鉾田に移動。
5月青森県八戸に移駐。
 
◆編成/昭和13年8月1日北京
◆復帰/八戸
 
◆歴代戦隊長
秋山豊次大佐、今西六郎大佐、小野門之助大佐、亀山主計中佐(殉職)
徳永賢治大佐、安岡光衛中佐、土井勤中佐、中川範治少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

77sentai 
飛行第77戦隊/戦闘機隊(翔第9625)
◆使用機種
九五式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第一飛行団隷下。飛行第八大隊を改編。
13年8月湖北省二套口に前進、漢口作戦参加。
14年6日南昌に移駐。9月満州龍鎭に移駐。第五飛行集団隷下。
16年12月20日タイ・ランバンに展開、ビルマ作戦参加。
17年6月朝鮮東京城に移駐。18年10月ビルマに展開、同地作戦参加。
19年2月ホランジアに展開、ニューギニア作戦参加。
19年8月20日ホランジアにおいて現地復帰。
 
◆編成/昭和13年7月30日南京
◆復帰/昭和19年8月20日ホランジアに於て現地復帰
 
◆歴代戦隊長
武田惣次郎大佐、川原八郎中佐、吉岡洋中佐、
森本重一中佐、松本邦男中佐、井上重俊少佐

◆戦死者・殉職者追悼
  

78sentai

飛行第78戦隊/戦闘機隊(真第9152)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
  
◆部隊史
第十四飛行団隷下。
17年4月8日満州孫家に移駐。
18年4月~6月三重県明野において機種改編。
7月2日ラバウル前進、ホランジアに展開。
7月22日ウエワクに展開、ニューギニア航空作戦参加。
19年3月ホランジアに移動。4月22日サルミに移動、飛行機全機損耗。
地上勤務者はウエワクに残置。
19年8月20日サルミにおいて現地復帰。残置者サルミにおいて終戦。
 
◆編成/昭和17年3月31日杏樹
◆復帰/昭和19年8月20日サルミに於て現地復帰
 
◆歴代戦隊長
安部勇雄少佐、高月光少佐、泊重愛少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

81sentai

飛行第81戦隊/司偵隊(高第2380)
◆使用機種
九七式司令部偵察機、百式司令部偵察機(新司偵)
キ102双発襲撃機(五式双発襲撃機)
 
◆部隊史
独立飛行第十六中隊改編。飛行第三集団隷下。
16年11月~12月プノンペン前進、マレー作戦準備捜索。
マレーに前進、ボルネオ、スマトラ、ジャワ上陸作戦の為の上陸点捜索。
17年3月ジャワに前進、濠北作戦、占領地戡定作戦参加。
マレー、スマトラ、西部ジャワ作戦参加。
7月ビルマに展開、東部印度、印度洋哨戒作戦に協力。
7月24日~11月30日第一次ビルマ地区航空撃滅戦。
7月24日~18年1月31日第二次ビルマ地区航空撃滅戦。
2月1日~4月30日第三十一号作戦協力竝に第三次ビルマ地区航空撃滅戦参加。
第三航空軍隷下、5月1日~9月30日ビルマ周辺航空作戦竝に地上作戦協力。
10月1日~19年12月15日反攻邀撃々碎作戦。
20年6月南部仏印に移動、ビルマ、アンダマン捜索、哨戒、地上作戦協力。 
 
◆編成/昭和19年9月20日彰徳
◆復帰/レグー
 
◆歴代戦隊長
柳本榮喜中佐、森正光少佐、岩崎正一中佐、鈴木正雄少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼

 

82sentai

飛行第82戦隊/司偵隊(隼魁第2383)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
第五航空軍隷下、漢口に於て独立飛行第十八中隊及び
独立飛行第五十五中隊を基幹として編成。
11月1日~12月31日 19年度後期航空作戦参加。
20年3月主力支那南京に展開、一部青島に派遣、
20年度第一期航空作戦参加。
20年6月朝鮮京城に移駐、第八飛行団隷下、第二中隊主力南京に残置。
 
◆編成/昭和19年10月31日漢口
◆復帰/京城
 
◆歴代戦隊長
出口敦少佐、奥村房夫少佐、真木洋大尉(南京派遣隊長)
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

83sentai

飛行第83戦隊/偵察隊(灘第11070)
◆使用機種
九八式直接協同偵察機、九九式軍偵察機、九九式襲撃機
 
◆部隊史
航空兵団隷下。
5月北支運城に展開、中原会戦に協力。
6月満州海林へ帰還。
7月29日第八十三独立飛行隊本部、
独立飛行第七十一、七十三、八十九中隊に改編。
19年3月31日ラングーンにて、第八十三独立飛行隊本部、
独立飛行第八十九・九十一中隊を飛行第八十三戦隊に改編。
4月15日ボルネオ島ラグアンに展開、
飛行第五十八戦隊長の指揮下に入り、同地付近の海上交通保護作戦に従事。
6月9日第五十八戦隊長の指揮を脱す。
6月9日主力はラグアンに展開、沿岸哨戒。
6月末一部ビルマ方面軍配属となり拉孟守備隊に空輸補給。
12月10日ネグロス島シライに展開、
12月10日~20年1月8日ネグロス島に在りて比島捷号作戦参加。
1月8日クチンに展開。
 
◆編成/昭和16年3月1日海林
◆復帰/昭和20年5月30日クチンにて復帰
 
◆歴代戦隊長
二田原憲次郎大佐、綾部節夫中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

85sentai

飛行第85戦隊/戦闘機隊(隼魁第8385)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
16年3月21日八面通に移駐。12月1日海浪に移駐。
18年7月広東に展開、夏季航空作戦参加。湘桂作戦参加。
19年2月漢口に移駐、武漢防空。
20年2月南京に展開、一部広東に残置。第一飛行団隷下。
5月30日朝鮮京城に移駐。広東残置隊は8月3日京城に移動し本隊と合流。
10月7日仙崎上陸復員。 
 
◆編成/昭和16年3月7日孫家
◆復帰/京城
 
◆歴代戦隊長
山本五郎中佐、斉藤籐吾少佐
  

87sentai

飛行第87戦隊/戦闘機隊(冨第8387)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)
 
◆部隊史
第五飛行集団隷下。
16年3月26日牡丹江省団山子に移駐。
18年5月22日千葉県柏に移駐。帝都防空。
12月ゲルンバンに展開、パレンバン防空。
19年5月メイクテイラに展開。第三航空軍隷下。インパール作戦参加。
5月27日ゲルンバン帰還、6月20日~8月一部スマトラ島タンジユンプーラに派遣。
20年3月8日タンジユンバトに移駐。7月チヤンギーに展開、シンガポール防空。
8月ダンジユンバトに帰還。一部チヤンギーに残置。
21年5月31日広島県大竹港上陸復員。
 
◆編成/昭和16年3月1日ハルピン
◆復帰/タンジユンバト
 
◆歴代戦隊長
新藤常右衛門中佐、山田邦雄中佐、中野猪之八少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

90sentai

飛行第90戦隊/軽爆撃機隊(隼魁第2381)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機
 
◆部隊史
飛行第九大隊を改編。第三飛行集団隷下。
13年8月~12月4日北支太原、運城、包頭にて第二期第三期粛清作戦、
ならびに第二次航空進攻作戦参加。
14年12月5日~15年7月31日北支路安、太原、石門、運城、包頭にて
地上作戦直接協力ならびに要地攻撃参加。一部を以って宜昌作戦参加。
8月1日~12月1日北支太原、南支広東、欽州にありて南支第一次作戦参加。
16年1月仏印ハイフォンに展開、地上作戦直接協力ならびに要地攻撃に参加。
6月21日~11月14日済南にて地上作戦協力、第102号航空作戦参加。
12月21日ハイフォンを経てスンゲイバタニに展開。
17年3月31日まで南支要地攻撃マレー作戦、南部スマトラ西部ジャワ作戦等に参加。
3月18日~4月24日クルアンにて占領地戡定作戦に参加。
4月25日広東に展開、地上作戦航空進攻作戦に従事。
7月28日南苑に展開。
17年後期18年前期・中期・後期各航空作戦ならびに地上作戦に直接協力。
19年2月19日徐州に展開、
19年前期航空作戦ならびに「ト」及び「コ」号作戦19年中期作戦参加。
19年8月11日~12月31日徐州、虹橋にて19年後期航空作戦参加。
21年1月1日~20年8月14日中支虹橋、
北支済南にて20年第一期第二期航空作戦、天一号作戦に参加。
 
◆編成/昭和13年8月1日南苑
◆復帰/虹橋・済南
 
◆歴代戦隊長
山瀬昌雄大佐、山口槌夫大佐、瀬戸克己中佐、三木了中佐
平松健二少佐、鈴木武男少佐
  
◆戦死者・殉職者追悼

 
教導飛行第95戦隊/重爆隊(満洲第950)
◆使用機種
百式重爆撃機(呑龍)
 
◆部隊史
第五飛行団隷下。
95戦隊に記載
 
◆編成/昭和17年12月18日鎭東
◆復帰/昭和19年1月30日拉林にて飛行第95戦隊と改称
◆戦死者・殉職者追悼
   

95sentai 
飛行第95戦隊/重爆隊(威第9132)
◆使用機種
百式重爆撃機(呑龍)
 
◆部隊史
教導飛行第九十五戦隊を飛行第九十五戦隊と改称。第五飛行団隷下。
19年2月16日茨城県鉾田に移動。4月26日北海道帯広に移駐、北東海上哨戒任務。
5月択捉島天寧移駐。8月11日計根別移駐。11月19日クラークに展開。
11月24日~12月31日第二次比島作戦参加。
12月14日菊水特攻隊に丸山義正大尉以下49名出動。
20年1月4日嘉義に移動、一部クラーク残置。
3月9日一部をマレーに派遣、一部をクラーク残置。4月帯広に移駐。
 
◆編成/昭和19年1月30日拉林
◆復帰/昭和20年5月10日帯広に於て復帰
 
◆歴代戦隊長
山本邦麿中佐、久保木巌少佐(戦死)、大沢進一中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

 

98sentai 
飛行第98戦隊/重爆隊(靖第21203)
◆使用機種
イ式重爆撃機(フィアットBR.20)、九七式重爆撃機、四式重爆撃機(飛龍)
 
◆部隊史
第四飛行団隷下。上海、王賓にて独立飛行第三、十五中隊を改編。
13年<2項より補足>11月10日漢口に移駐、奥地進攻作戦。
14年3月18日杭州に移駐、編成改正により
第三中隊を飛行第六十戦隊に転出。
7月10日奉天に移駐。14年11月敦化に移駐、機種改変。
15年3月改編により一個中隊増強。
8月海口を基地として桂林攻撃及び海上航法訓練。
15年10月敦化に帰還。16年8月南苑に展開、
運城を前進基地とし重慶、蘭州攻撃。
16年12月4日サイゴンに展開、第三飛行集団隷下、
船団掩護、マレイ爆撃、ラングーン航空撃滅戦参加。
17年1月10日マレイ、ケチルに展開、マレイ、パレンバン作戦参加。
3月タイ国ナコンサワンに展開、ビルマ航空撃滅戦参加。
8月装備改変のため一部岐阜に移駐。
9月タイ国ドムアンに展開、一個中隊をビルマ、タボイに展開、
12月マレイ・スンゲイパタニに移動、カルカッタ進攻。
一部をドムアンに残置。
18年5月ランバン移動、ビルマ航空撃滅戦参加。
10月スンゲイパタニに集結、カルカッタ爆撃戦参加。
19年2月鹿屋に移駐。2月22日海軍第五航空艦隊の指揮下に入る。
雷撃訓練。
6月豊橋海軍基地にて機種改変。7月鹿屋帰還。
10月10日~10月14日台湾沖航空作戦参加、部隊の全戦力を失う。
20年2月大刀洗に移動、第二十七飛行団隷下、
3月沖縄作戦参加のため大刀洗、
宮崎、鹿屋、新川、小松、大邱、郡山に移動或は展開。
7月1日第五航空艦隊の指揮を脱し、
第二十一飛行団司令部の指揮下に入り、主力児玉に移動
  
◆編成/昭和13年8月15日上海
◆復帰/主力・児玉
 
◆歴代戦隊長
服部武士大佐、吉田喜八郎大佐、林勇藏大佐、臼井茂樹大佐(戦死)、大阪順次中佐
楢崎五百刀中佐、前野榮吉中佐、松村靜馬中佐、高橋太郎少佐、宇木素道少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

101sentai

飛行第101戦隊/戦闘機隊(靖第18920)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第百飛行団隷下。
20年2月大阪府柏原に移駐。3月宮崎県都城東に展開。
5月熊本県隈之城へ移駐。6月東京都成増に移駐、戦力回復。
8月2日埼玉県高萩へ移駐。

◆編成/昭和19年11月10日北伊勢
◆復帰/高萩
 
◆歴代戦隊長
代永兵衛少佐、末永正夫大尉、坂本美岳少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
  

102sentai

飛行第102戦隊/戦闘機隊(靖第18921)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第百飛行団隷下。
19年11月10日宮崎県都城西に展開。
20年4月から6月沖縄作戦参加。6月末、東京都成増に移動。
洋上迷彩の施された機体が特徴。
 
◆編成/昭和19年7月25日北伊勢
◆復帰/昭和20年7月30日 成増にて復帰
 
◆歴代戦隊長
垣見馨少佐、林岩男大尉
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
  

103sentai

飛行第103戦隊/戦闘機隊(靖第18922)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
三重県北伊勢にて19年10月まで本土防空作戦に従事。11月兵庫県伊丹に移駐。
20年1月熊本県隅之庄に移駐、沖縄作戦に従事。2月28日鹿児島県知覧に前進。
3月鹿児島県徳之島に移動。3月下旬知覧に帰還。4月宮崎県都城に移動。
6月東京都成増に移駐、戦力回復。第百飛行師団隷下。
7月飛行第百二戦隊の人員、資材を転入して編成改正。8月兵庫県淡路島に移駐。
 
◆編成/昭和19年7月25日北伊勢
◆復帰/由良
 
◆歴代戦隊長
東條道明少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

104sentai

飛行第104戦隊/戦闘機隊(羽第18923)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第二航空軍隷下。
19年9月満州の奉天深井子。10月奉集堡に移駐、戦力整備。
11月鞍山移駐。第十五飛行団隷下、第二次編成完結。同地防空任務。
8月22日ソ連により武装解除。昭和製鋼所解体作業に従事。
 
◆編成/昭和19年8月15日小月
◆復帰/鞍山
 
◆歴代戦隊長
滝山和少佐、岡崎弥助少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
  

105sentai

飛行第105戦隊/戦闘機隊(誠第19102)
◆使用機種
三式戦闘機(飛燕)
 
◆部隊史
第八飛行師団隷下。
19年10月10日~17日台湾ならびに南西諸島防衛戦闘に参加。
20年3月24日台湾宜蘭に移動。4月主力石垣島に前進。
4月26日~6月20日天号作戦参加。8月15日宜蘭に帰還。
21年2月24日和歌山県田辺港に上陸復員

◆編成/昭和19年7月15日台中
◆復帰/宜蘭

◆歴代戦隊長
吉田長一郎少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

106sentai

飛行第106戦隊/司偵隊(靖第18924)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)
 
◆部隊史
第十二飛行師団隷下。
19年12月8日マニラに展開。
20年1月10日戦隊長以下10名ツゲガラオに移動。
19年12月~20年2月マニラ、マリキナ、ツゲガラオにて比島作戦参加。
20年1月下旬~2月台湾小港に集結。地上勤務者マリキナ残置。
第百六戦隊長以下4名宮崎県新田原へ移動。
他の台湾所在人員は飛行第二戦隊の指揮下に入る。
3月9日一部八街に集結。
20年3月26日福岡県蓆田飛行場に移動、沖縄作戦参加。
20年3月残置者は広島県宇品へ帰還。福岡へ移動。
 
◆編成/昭和19年10月24日各務原
◆復帰/昭和20年4月20日
 
◆歴代戦隊長
須子正雄中佐(戦死)
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

107sentai

飛行第107戦隊/防空戦闘・重爆隊(燕第18925)
◆使用機種
四式重爆撃機(飛龍)、キ109特殊防空戦闘機
 
◆部隊史
第五十一教育飛行団長の隷下に入り、内地防空。
20年6月朝鮮大邱移駐、朝鮮海峡哨戒。
 
◆編成/昭和19年11月10日浜松
◆復帰/昭和20年7月30日浜松に於て復帰 
 
◆歴代戦隊長
道盛清中佐、吉田大八少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

108sentai

飛行第108戦隊/輸送機隊(誠第19103)
◆使用機種
一式双発高等練習機、九七式重爆撃機二型
九九式双発軽爆撃機、百式輸送機(MC輸送機)

  
◆部隊史
第八飛行団隷下。
19年10月~12月主力を以って数次にわたり比島クラーク地区への輸送。
12月10日台湾塩水に移駐。
20年1月沖縄、新田原、上海、宮古島への空中輸送。3月台北に移駐。
3月26~6月20日台湾ならびに南西諸島における天号航空作戦参加。
20年5月26日第三中隊を基幹として飛行第百八戦隊爆撃飛行隊を編成。
7月1日主力は台湾樹林口に、一部は台湾彰化に移駐。
 
◆編成/昭和19年8月下旬嘉義
◆復帰/樹林口
 
◆歴代戦隊長
古川日出夫中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
飛行第109戦隊/輸送機隊(威第11091)
◆使用機種
百式輸送機(MC輸送機)、一式輸送機
 
◆部隊史
第三航空軍隷下。
19年11月15日スマトラ島バカンバルに移駐。
12月6日タイ国アロールスターに移駐、ビルマに対する人員資材輸送。
20年3月28日仏印フーミに移駐。
8月7日南方航空輸送部隊第一・第二輸送隊を編合。
 
◆編成/昭和19年10月8日シンガポール
◆復帰/仏印
 
◆歴代戦隊長
高梨稔中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

110sentai

飛行第110戦隊/重爆機隊(靖第19027)
◆使用機種
四式重爆撃機(飛龍
 
◆部隊史
19年12月7日教導航空軍隷下、静岡県浜松を基地としてサイパン攻撃。
20年2月第六航空軍隷下、東京都立川を基地として硫黄島に対する空輸。
2月浜松を基地として硫黄島周辺艦船攻撃。
3月福岡県大刀洗に前進、3月中旬~3月下旬沖縄周辺艦船攻撃。
第七飛行団隷下。4月熊本県隈之庄に移駐。5月23日義号作戦、沖縄中飛行場攻撃。
 
◆編成/昭和19年10月浜松
◆復帰/隈之庄
 
◆歴代戦隊長
草刈武男少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

111sentai

飛行第111戦隊/戦闘機隊(帥第34217)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機
 
◆部隊史
第二十三飛行団隷下。
20年8月13日愛知県小牧に移駐。
 
◆編成/昭和20年7月10日明野
◆復帰/小牧
 
◆歴代戦隊長
石川正中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

112sentai

飛行第112戦隊/戦闘機隊(帥第34218)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機
 
◆部隊史
第一航軍隷下。第二十三飛行団隷下。
鹿島灘の哨戒。
 
◆編成/昭和20年7月28日新田
◆復帰/新田
 
◆歴代戦隊長
擣原秀見中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

144sentai 
飛行第144戦隊/戦闘機隊(帥第34213)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
 
◆部隊史
16年9月東京都調布に移駐。11月飛行第二百四十四戦隊に改編。
 
◆編成/昭和16年7月30日豊岡
◆復帰/昭和16年11月、調布
◆戦死者・殉職者追悼
 

200sentai

飛行第200戦隊/戦闘機隊(威第19028)
◆使用機種
四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第30戦闘飛行集団隷下。
19年10月24日ルソン島ポーラックに展開し、レイテ作戦参加。
12月マバラカットに展開、一部ネグロス島に残置。
ルソン島航空作戦および特攻作戦参加。
20年1月31日台湾潮州に移動。地上勤務者はアパリに残置。
2月28日埼玉県所沢に移動。
 
◆編成/昭和19年10月12日明野
◆復帰/昭和20年5月16日所沢にて復帰
 
◆歴代戦隊長
高橋武中佐
  
◆戦死者・殉職者追悼
 

204sentai 
教導飛行第204戦隊/戦闘機隊(誠第11071)
飛行第204戦隊/戦闘機隊(誠第11071)
◆使用機種
九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第四飛行団隷下、同地にて教育訓練。
18年9月15日満州孫家に移駐。11月6日仏印、サイゴンに展開。
12月ラングーンに展開。カルカッタ、ケンスキヤ、チタゴン攻撃。
19年2月22日ラングーンにて人員を増強し、飛行第二百四戦隊と改称。
ビルマにおいて航空作戦、インパール作戦協力。
8月1日バンコックに展開。10月11日マニラに展開、比島航空作戦に参加。
12月15日戦力回復のため茨城県常陸に移動。地上勤務者クラークに残置。
20年2月28日サイゴンに展開、仏印作戦参加。
第八飛行師団隷下、4月一部台北に展開、沖縄作戦に参加。一部サイゴンに残置。
7月4日主力は台湾花蓮港に移動。台北展開組と合流し沖縄作戦参加。
21年3月5日主力は田辺港上陸復員。
マニラ残置隊はネグロス付近に残留所在部隊に協力。
20年9月2日停戦、収容所に入る。
20年8月10日サイゴン残置者は第百二十六飛行場大隊及び飛行第六十四戦隊に転属。
 
教導204戦隊
◆編成/昭和17年3月満洲・竜江省・鎭西
◆復帰/昭和19年2月22日ラングーンにて人員を増強し飛行第204戦隊と改称

204戦隊 
◆編成/昭和19年2月22日ラングーン
◆復帰/花連港
 
◆歴代戦隊長
田淵宗少佐、相沢寅四郎少佐、村上浩少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

206sentai 
教導飛行第206戦隊/軽爆・偵察隊(満洲第8326)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機
 
◆部隊史
白城子教導飛行団隷下。
16年3月下旬満州白城子に移駐。
 
◆編成/昭和16年3月1日新京
◆復帰/昭和16年7月23日臨時編成下令
 
◆歴代戦隊長
安西秋男中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
飛行第208戦隊/軽爆隊(靖第8328)
◆使用機種
九七式軽爆撃機、九八式軽爆撃機、九九式双発軽爆撃機
  
◆部隊史
16年<2項より補足>3月下旬トウ<さんずいに兆>南に移駐、
白城子教導飛行団の編組に入る。
第六飛行団隷下。18年2月12日トラツク島に展開、南太平洋作戦参加。
5月28日ブーツに展開、第二次ニューギニア作戦参加。
19年3月10日ホランジアに展開、一部ブーツに残置。第三次ニューギニア作戦参加。
4月3日飛行機受領のため嘉義へ移動、一部ホランジア残置。
4月マニラに展開、5月8日ダバオに展開。5月16日ガレラに展開。
7月リパに展開。8月20日リパに於て飛行第三十四戦隊の人員、器材を編入。
11月28日カロカンに移動。
20年1月10日ツゲガラオに移動。約200名マニラ地区に残置。
1月屏東に移駐。3月13日所沢に移動

◆編成/昭和16年3月31日牡丹江
◆復帰/昭和20年5月復帰
 
◆歴代戦隊長
於田秋光中佐、田中昇藏少佐、加島誠輝中佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
  

244sentai

飛行第244戦隊/戦闘機隊(帥第34213)
◆使用機種
九七式戦闘機、三式戦闘機(飛燕)五式戦闘機
 
◆部隊史
飛行第百四十四戦隊を改称。第十七飛行団隷下。内地防空専任。
19年3月第十飛行師団の編組に入る。
20年3月第三十戦闘飛行集団の隷下に入り、調布、浜松、鹿児島、八日市等にて
防空ならびに特別攻撃隊の直掩を行う。

◆編成/昭和16年11月調布
◆復帰/八日市
 
◆歴代戦隊長
泊重愛少佐、村岡信一少佐、藤田隆少佐、小林照彦少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 

246sentai

飛行第246戦隊/戦闘機隊(天鷲第19196)
◆使用機種
九七式戦闘機、二式戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)
 
◆部隊史
第十八飛行団長の隷下に入り、阪神地区防空。
一個中隊は北海道千歳に派遣。主力は兵庫県尾上に移駐。
18年12月主力は台湾屏東に派遣、台湾防空。
19年3月屏東に派遣の主力、大阪府柏原に移駐。
19年11月比島に前進、比島作戦参加。第十一飛行師団隷下。
20年2月15日大阪移駐。中部地区防空。
 
◆編成/昭和17年6月30日加古川
◆復帰/加古川
 
◆歴代戦隊長
宮本武夫中佐、石川貫之少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
 

248sentai 
飛行第248戦隊/戦闘機隊(洋第15389)
◆使用機種
一式戦闘機(隼)
 
◆部隊史
第十九飛行団長の隷下に編入。
17年8月15日福岡県芦屋に移駐、北九州防空。
10月25日ニューギニアに転用となり、ホランジアに展開。
11月30日地上勤務員主力の二百一名はてらごあ丸に乗船し呉出港。
土佐沖において敵潜水艦の魚雷攻撃を受け海没。
生存者五名。第二百四十八飛行場大隊に転属。
11月2日ウエワクに展開。ラム、マーカム河谷航空撃滅戦参加、
サラモア地上作戦協力。
ニューギニア島における各種航空作戦参加。
2月15日飛行第六十六戦隊より六十六名転入。
3月11アイタベ移駐。一部ウエワク残置。
3月15日ホランジアに移駐。一部アイタベ残置。その後全員戦死。
3月16日~8月19日ニューギニア島における各種作戦参加。
ホランジア、サルミ間転進作戦およびサルミ地区守備作戦参加。航空機全耗。
8月20ホランジアにて現地復帰。
19年7月25日空中勤務者は第一航空軍に、
その他の人員資材は管理官の定むる部隊に転属。
生存者は一部内地帰還。
他は所在の地点にて地上部隊の指揮下に入り、自活しつつ地上作戦に参加。
停戦後収容所に入る。
 
◆編成/昭和17年8月10日小月
◆復帰/8月20日ホランジアにて現地復帰
 
◆歴代戦隊長
牧野靖雄少佐、村岡信一少佐、黒田武文少佐
 
◆戦死者・殉職者追悼
 
集成飛行戦隊
◆使用機種
◆部隊史
◆編成/昭和20年1月ルソン島
◆復帰/昭和20年3月復帰

◆戦死者・殉職者追悼

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◆◆独立飛行隊◆◆
 
(1)第一独立飛行隊 司偵、帥第16631
(2)昭和19年4月30日
(3)敦化
(4)
(5)昭和20年5月15日平壌にて復帰
 
(1)第一独立飛行隊 司偵、帥第34219
(2)昭和20年6月
(3)八街
(4)
(5)8月15日八街
 
(1)第二独立飛行隊 重爆、帥第34223
(2)昭和19年10月31日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年2月浜松にて復帰
 
(1)第二独立飛行隊 司偵、帥第19029
(2)昭和20年7月18日
(3)大阪
(4)
(5)8月15日小牧
 
(1)第三独立飛行隊 司偵
(2)昭和19年1月
(3)温春
(4)
(5)昭和19年調布にて復帰
 
(1)第三独立飛行隊 重爆、帥第19030
(2)昭和19年10月31日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年6月熊本にて復帰
 
(1)第四独立飛行隊 司偵、帥第19031
(2)昭和19年10月31日
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年5月2日、鹿屋
 
(1)第十独立飛行隊 偵察、高第9640
(2)昭和16年7月28日
(3)嫩江(満洲)
(4)
(5)昭和18年6月10日
 
(1)第十二独立飛行隊 司偵、靖第11614
(2)昭和20年7月15日
(3)福岡(蓆田)
(4)
(5)昭和20年8月15日、福岡
 
(1)第十五独立飛行隊 司偵、威(信)第8315
(2)昭和16年7月29日
(3)新京
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
 
(1)第十六独立飛行隊 司偵、燕第18999
(2)昭和19年9月15日
(3)児玉
(4)
(5)昭和20年7月5日児玉にて復帰
 
(1)第十七独立飛行隊 司偵、帥第34214
(2)昭和19年9月15日
(3)調布
(4)
(5)昭和20年7月15日調布にて復帰
 
(1)第十九独立飛行隊 司偵、靖第21204
(2)昭和19年9月15日
(3)調布
(4)
(5)昭和20年7月30日調布にて復帰
 
(1)第二十一独立飛行隊 戦隊・爆撃、司第
(2)昭和14年7月6日
(3)廣東
(4)
(5)昭和17年10月15日ハノイにて復帰
 
(1)第二十八独立飛行隊 司偵、鷲第
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月温春にて飛行第28戦隊に復帰
 
(1)第二十八独立飛行隊 戦闘、帥第
(2)昭和20年7月15日
(3)東金
(4)
(5)8月15日、東金
 
(1)第二十九独立飛行隊 軍偵、栄第9163
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
 
(1)第三十八独立飛行隊 司偵、鏑第19342
(2)昭和20年7月10日
(3)帯広
(4)
(5)8月15日、帯広
 
(1)第八十三独立飛行隊 軍偵、司第9172 
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
 
(1)第二百六独立飛行隊 直協・対潜、靖第21201
(2)昭和16年7月23日
(3)白城子
(4)
(5)8月15日、海雲台
 
◆◆独立飛行中隊◆◆
 
(1)独立飛行第一中隊 対潜
(2)昭和19年7月20日
(3)海雲台
(4)
(5)昭和20年8月15日、海雲台
 
(1)独立飛行第三中隊 戦闘
(2)昭和7年2月
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和7年5月、事変終結により帰還
 
(1)独立飛行第三中隊 重爆
(2)昭和12年7月8日
(3)浜松
(4)
(5)昭和13年8月15日、王賓飛行場
 
(1)独立飛行第四中隊 偵察、満洲第691
(2)昭和12年7月15日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
 
(1)独立飛行第六中隊 偵察 
(2)昭和12年7月23日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
 
(1)独立飛行第七中隊 偵察
(2)昭和2年5月17日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和4年5月17日原隊復帰
 
(1)独立飛行第八中隊 偵察
(2)昭和6年9月19日
(3)平壌
(4)
(5)昭和8年6月17日、平壌
 
(1)独立飛行第九中隊 偵察
(2)昭和6年9月19日
(3)承徳
(4)
(5)昭和8年6月17日関東軍飛行隊飛行第10大隊に編入
 
(1)独立飛行第九中隊 戦闘
(2)昭和12年7月
(3)平壌
(4)
(5)昭和14年2月、彰徳
 
(1)独立飛行第十中隊 戦闘
(2)昭和6年9月19日
(3)平壌
(4)
(5)昭和8年6月17日関東軍飛行隊飛行第11大隊第4中隊に編入
 
(1)独立飛行第十中隊 戦闘
(2)昭和12年9月6日
(3)?東
(4)
(5)昭和17年10月20日、漢口
 
(1)独立飛行第十一中隊 爆撃
(2)昭和12年9月6日
(3)?東
(4)
(5)昭和13年7月27日、安慶
 
(1)独立飛行第十四中隊 戦闘
(2)昭和12年7月
(3)?東
(4)
(5)
 
(1)独立飛行第十五中隊 爆撃
(2)昭和12年9月28日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和13年8月15日、王賓
 
(1)独立飛行第十五中隊 戦闘
(2)昭和19年10月
(3)台中
(4)
(5)
 
(1)独立飛行第十六中隊 司偵
(2)昭和13年8月1日
(3)
(4)
(5)昭和16年9月20日、彰徳
 
(1)独立飛行第十六中隊 司偵、燕第18999
(2)昭和19年7月30日
(3)大阪
(4)
(5)昭和19年9月15日、児玉
 
(1)独立飛行第十七中隊 直協
(2)昭和13年8月1日
(3)
(4)
(5)昭和15年9月3日飛行第44戦隊に編入
 
(1)独立飛行第十七中隊 司偵、帥第34214
(2)昭和19年3月31日
(3)調布
(4)
(5)昭和19年9月15日、調布
 
(1)独立飛行第十八中隊 司偵、隼第2383
(2)昭和13年2月
(3)中国
(4)
(5)昭和19年10月31日、漢口
 
(1)独立飛行第十九中隊 司偵(防空)、靖第21204
(2)昭和19年7月30日
(3)小月
(4)
(5)昭和19年9月15日、小月
 
(1)独立飛行第二十中隊 輸送、威第15382
(2)昭和18年5月15日
(3)
(4)
(5)5月30日比島にて復帰
 
(1)独立飛行第二十三中隊 戦闘、誠第41
(2)昭和19年1月20日
(3)大刀洗
(4)
(5)9月2日花連港にて停戦
 
(1)独立飛行第二十四中隊 戦闘、誠第16500
(2)昭和19年2月29日
(3)広東
(4)
(5)8月15日宜蘭にて終戦
 
(1)独立飛行第二十五中隊 戦闘、羽第16682
(2)昭和19年8月25日
(3)鞍山
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
 
(1)独立飛行第三十一中隊 重爆、威第18902
(2)昭和19年6月20日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年5月30日比島復帰
 
(1)独立飛行第四十一中隊 襲撃・対潜、誠第16683
(2)昭和19年8月20日
(3)満洲
(4)
(5)9月2日宜蘭にて停戦
 
(1)独立飛行第四十二中隊 対潜、誠第19104
(2)昭和19年10月30日
(3)潮洲
(4)
(5)8月15日、台北
 
(1)独立飛行第四十三中隊 対潜、誠第19108
(2)昭和19年10月30日
(3)恒春
(4)
(5)8月15日、宜蘭
 
(1)独立飛行第四十四中隊 対潜、(冀)(台)第18970
(2)昭和19年6月10日
(3)郡山
(4)
(5)昭和20年6月23日、ケニンゴー
 
(1)独立飛行第四十五中隊 対潜、翼第18971
(2)昭和19年10月20日
(3)比島
(4)
(5)8月15日、比島にて終戦
 
(1)独立飛行第四十六中隊 対潜、誠第19170
(2)昭和19年10月20日
(3)東京
(4)
(5)9月2日、台湾にて停戦
 
(1)独立飛行第四十七中隊 戦闘
(2)昭和16年9月5日
(3)福生
(4)
(5)昭和18年10月3日、柏
 
(1)独立飛行第四十七中隊 対潜、誠第9910
(2)昭和19年10月20日
(3)台東
(4)
(5)昭和20年8月15日、台東にて終戦
 
(1)独立飛行第四十八中隊 対潜、誠第9911
(2)昭和19年10月30日
(3)花連港
(4)
(5)8月15日、台中にて終戦
 
(1)独立飛行第四十九中隊 対潜、誠第9912
(2)昭和19年10月30日
(3)台北
(4)
(5)9月2日、台北にて停戦
 
(1)独立飛行第五十中隊 司偵、隼第8350
(2)昭和16年7月29日
(3)新京
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
 
(1)独立飛行第五十一中隊 司偵、隼第8351
(2)昭和16年7月29日
(3)広東
(4)
(5)昭和19年1月31日、新京
 
(1)独立飛行第五十二中隊 軍偵、威第10655
(2)昭和16年7月29日
(3)白城子
(4)
(5)昭和20年9月16日、ヨネスにて解散
 
(1)独立飛行第五十三中隊 軍偵、翼
(2)昭和17年3月31日
(3)衙門屯
(4)
(5)8月31日、佳木斯
 
(1)独立飛行第五十四中隊 直協、隼魁第8354
(2)昭和16年7月23日
(3)白城子
(4)
(5)昭和20年8月15日、杭州にて終戦
 
(1)独立飛行第五十五中隊 司偵、隼第2386
(2)昭和17年3月31日
(3)ドムアン
(4)
(5)昭和19年10月31日、南京
 
(1)独立飛行第六十三中隊 司偵、鷲
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月、温春
 
(1)独立飛行第六十六中隊 軍偵・対潜、靖第9171
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年8月15日、海雲台
 
(1)独立飛行第七十中隊 司偵、司第9641
(2)昭和17年7月28日
(3)チチハル
(4)
(5)昭和20年8月15日、ジャワにて終戦
 
(1)独立飛行第七十一中隊 軍偵・戦闘、誠第9180
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和20年8月15日、一部アロールスターにて終戦
 
(1)独立飛行第七十三中隊 軍偵、司第9181
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和20年9月2日、ジャワにて停戦
 
(1)独立飛行第七十四中隊 直協・司偵、翔第9643
(2)昭和16年7月28日
(3)衙門屯
(4)
(5)昭和20年8月15日、ゲルンバンにて終戦
 
(1)独立飛行第七十六中隊 司偵、洋 高第9642
(2)昭和16年7月28日
(3)衙門屯
(4)
(5)昭和18年6月10日、ラバウル


(1)独立飛行第八十一中隊 司偵
(2)昭和16年7月30日
(3)温春
(4)
(5)昭和19年4月、温春
 
(1)独立飛行第八十一中隊 司偵、羽第9162
(2)昭和19年4月1日
(3)温春
(4)
(5)昭和20年8月15日、新京にて終戦
 
(1)独立飛行第八十二中隊 軽爆
(2)昭和14年7月6日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年10月15日飛行第34戦隊に改編
 
(1)独立飛行第八十二中隊 司偵
(2)昭和17年12月
(3)温春
(4)
(5)昭和19年10月29日内地帰還
 
(1)独立飛行第八十二中隊 司偵(防空)、天鷲第19529
(2)昭和20年2月25日
(3)大正
(4)
(5)昭和20年8月10日第28独立飛行隊に編入
 
(1)独立飛行第八十三中隊 軍偵、天風第19530
(2)昭和14年8月1日
(3)彰徳
(4)
(5)昭和19年7月25日、現地復帰
 
(1)独立飛行第八十三中隊 司偵(防空)
(2)昭和20年2月25日
(3)
(4)
(5)昭和20年7月30日
 
(1)独立飛行第八十四中隊 戦闘
(2)昭和14年7月6日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年10月20日、ハノイ
 
(1)独立飛行第八十四中隊 戦闘、翔
(2)昭和20年2月25日
(3)パレンバン
(4)
(5)昭和20年5月30日
 
(1)独立飛行第八十五中隊 司偵、鷲
(2)昭和17年秋
(3)温春
(4)
(5)昭和19年1月31日
 
(1)独立飛行第八十七中隊 軍偵、満洲
(2)昭和16年7月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
 
(1)独立飛行第八十九中隊 直協・軍偵、司偵
(2)昭和16年7月29日
(3)海林
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
 
(1)独立飛行第九十中隊 軍偵
(2)昭和17年4月
(3)太原
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
 
(1)独立飛行第九十一中隊 直協、(司)(高)(灘)
(2)
(3)
(4)
(5)昭和19年3月31日、ラングーン
 
(1)独立飛行第九十六中隊 直協
(2)昭和16年7月25日
(3)
(4)
(5)昭和19年2月5日、海林
 
(1)独立飛行第百一中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)調布
(4)
(5)昭和17年4月21日、調布
 
(1)独立飛行第百二中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)加古川
(4)
(5)昭和17年4月21日、加古川
 
(1)独立飛行第百三中隊 司偵
(2)昭和16年7月20日
(3)小月
(4)
(5)昭和17年4月21日、小月
 
◆直協飛行隊
 
(1)第一直協飛行隊 直協
(2)昭和13年8月31日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和14年5月30日、内地復帰
 
(1)第六直協飛行隊 直協、誠第171
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月20日、台東
 
(1)第七直協飛行隊 直協、誠第172
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月30日、花連港
 
(1)第八直協飛行隊 直協、誠第173
(2)昭和16年7月18日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年10月30日、台北
 
(1)東部軍直協飛行隊 直協、東部第125
(2)昭和17年12月30日
(3)柏
(4)
(5)昭和19年10月20日、東京
 
(1)中部軍直協飛行隊 直協
(2)昭和17年8月10日
(3)帯広
(4)
(5)昭和19年10月30日、恒春
 
(1)西部軍直協飛行隊 直協、西部第127
(2)昭和17年12月30日
(3)柏
(4)
(5)昭和19年6月10日、郡山
 
(1)北部軍直協飛行隊 直協、北部第89
(2)昭和17年5月30日
(3)
(4)
(5)昭和19年10月30日、潮洲
 
(1)朝鮮軍直協飛行隊 直協、朝第102
(2)昭和17年5月20日
(3)京城
(4)
(5)昭和19年10月20日、比島
 
(1)第八方面軍飛行隊 直協、剛第11254
(2)昭和20年4月15日
(3)ラバウル
(4)
(5)昭和20年8月15日、ラバウル
 
◆独立・直轄飛行隊
 
(1)砲兵協力飛行班 教育
(2)昭和18年頃
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年8月15日、銚子
 
(1)海燕第一飛行隊 対潜
(2)昭和20年5月25日
(3)広島
(4)
(5)昭和20年8月15日、蔚山
 
(1)海燕 対潜
(2)昭和20年8月1日
(3)新潟
(4)
(5)昭和20年8月15日、新潟
 
(1)北辰飛行隊 対潜
(2)昭和20年5月1日
(3)広島
(4)
(5)昭和20年8月1日、新潟
 
(1)関東軍第一航空写真隊、洋第9316
(2)昭和18年3月8日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
 
(1)第一写真作業隊、師第34224
(2)昭和20年7月20日
(3)
(4)
(5)昭和20年8月15日、終戦
 
◆輸送飛行隊
 
(1)航空本部(航空総監部)飛行班 輸送
(2)昭和14年5月
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月9日、所沢
 
(1)陸軍航空輸送部 輸送、師第34201
(2)昭和16年9月
(3)東京
(4)
(5)昭和20年9月4日、東京他
 
(1)陸軍航空輸送部 第一飛行隊 輸送、輝第4333
(2)昭和19年1月17日
(3)宇都宮
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第二飛行隊 輸送、威第4334
(2)昭和19年1月17日
(3)太田
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第三飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第四飛行隊 輸送、第4336
(2)昭和19年1月31日
(3)各務原
(4)
(5)昭和20年8月15日、浜松
 
(1)陸軍航空輸送部 第五飛行隊 輸送、第4337
(2)昭和19年1月31日
(3)小牧
(4)
(5)昭和20年8月15日、小牧
 
(1)陸軍航空輸送部 第六飛行隊 輸送、第4338
(2)昭和19年1月31日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年8月15日、八日市
 
(1)陸軍航空輸送部 第七飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)マニラ
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第八飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)マニラ
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第九飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
 
(1)陸軍航空輸送部 第十飛行隊 輸送
(2)昭和19年1月17日
(3)所沢
(4)
(5)
 
(1)特設第十三輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年10月3日
(3)
(4)
(5)
 
(1)特設第十五輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年10月3日
(3)
(4)
(5)
 
(1)南方航空輸送部 輸送、威第9326
(2)昭和17年9月15日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日、
 
(1)南方航空輸送部 第一輸送飛行隊 輸送、威第9326
(2)昭和19年11月30日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月7日
 
(1)南方航空輸送部 第二輸送飛行隊 輸送、信第1160
(2)昭和19年11月30日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月7日
 
(1)第一輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)昭和20年8月15日、嘉義
 
(1)第二輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)昭和20年9月2日、嘉義
 
(1)第三輸送飛行隊 輸送
(2)昭和16年7月16日
(3)満洲
(4)
(5)
 
(1)第七輸送飛行隊 輸送、師第9987
(2)昭和16年6月30日
(3)八日市
(4)
(5)昭和20年8月15日、各務原(主力)
 
(1)第八輸送飛行隊 輸送、師第18904
(2)昭和19年6月20日
(3)筑波
(4)
(5)昭和20年8月15日、立川
 
(1)第十一輸送飛行中隊 輸送、師第6611
(2)昭和16年6月30日
(3)新京
(4)
(5)昭和16年6月30日、ビルマ
 
(1)第十二輸送飛行中隊 輸送、師第9350
(2)昭和16年7月7日
(3)八日市
(4)
(5)昭和18年6月30日、昭南
 
(1)第十三輸送飛行中隊 輸送、師第18905
(2)昭和19年6月20日
(3)筑波
(4)
(5)昭和19年11月2日、岐阜
 
(1)第十四輸送飛行中隊 輸送、師第18906
(2)昭和19年6月
(3)西筑波
(4)
(5)昭和20年9月2日、坂戸
 
(1)第十五輸送飛行中隊 輸送、師第18907
(2)昭和19年8月20日
(3)唐瀬原
(4)
(5)昭和20年8月15日、松戸
 
(1)第百一輸送飛行中隊 輸送
(2)
(3)
(4)
(5)
 
(1)独立第二十輸送飛行中隊 輸送
(2)
(3)
(4)
(5)
 
(1)関東軍輸送飛行隊 輸送、羽第4335
(2)昭和20年8月9日
(3)新京
(4)
(5)昭和20年8月15日、新京
 
(1)第十四軍飛行隊
(2)昭和17年1月5日
(3)?東外
(4)
(5)昭和17年4月2日
 
(1)誠補充飛行隊、誠第19122
(2)昭和20年7月7日
(3)台湾
(4)
(5)昭和20年9月2日、台湾
  
◆教育・錬成飛行隊
 
(1)第百一教育飛行連隊 戦闘、東部第104
(2)昭和16年9月30日
(3)原ノ町
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百二教育飛行連隊 重爆、北部第74
(2)昭和17年4月31日
(3)八戸
(4)
(5)昭和19年2月25日
 
(1)第百三教育飛行連隊 偵察、中部第115
(2)昭和17年5月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百四教育飛行連隊 軽爆、中部第94
(2)昭和17年4月31日
(3)八日市
(4)
(5)昭和19年2月25日
 
(1)第百五教育飛行連隊 遠爆、中部第113
(2)昭和16年4月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百六教育飛行連隊 戦闘、西部第108
(2)昭和19年9月30日
(3)菊池
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百七教育飛行連隊 挺進、西部第110
(2)昭和16年9月30日
(3)菊池
(4)
(5)昭和19年2月25日
 
(1)第百八教育飛行連隊 戦闘、台湾第37
(2)昭和17年4月22日
(3)?東
(4)
(5)昭和19年1月15日
 
(1)第百九教育飛行連隊 重爆、台湾第38
(2)昭和17年4月22日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和19年2月25日
 
(1)第百十教育飛行連隊 司偵、中部第133
(2)昭和17年8月31日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和19年2月25日
 
(1)第百十一教育飛行連隊 戦闘、朝鮮第100
(2)昭和18年3月5日
(3)仙台
(4)
(5)昭和19年2月29日
 
(1)第百十二教育飛行連隊 戦闘、台湾第100
(2)昭和18年3月5日
(3)恒春
(4)
(5)昭和19年3月15日
 
(1)第百十三教育飛行連隊 軽爆、朝鮮第101
(2)昭和17年8月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百十四教育飛行連隊 戦闘、隼第15301
(2)昭和18年8月31日
(3)加古川
(4)
(5)昭和19年3月7日
 
(1)第百十五教育飛行連隊 司偵、隼第15302
(2)昭和18年8月31日
(3)各務原
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百十六教育飛行連隊 重爆、昭第1106
(2)昭和18年8月31日
(3)浜松
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百十七教育飛行連隊 戦闘、昭第11067
(2)昭和18年8月31日
(3)小月
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第百十八教育飛行連隊 戦闘、隼第15305
(2)昭和17年8月31日
(3)南京
(4)
(5)昭和19年3月31日
 
(1)第一練習飛行隊、治第18995
(2)昭和19年8月22日
(3)熊谷飛行学校、児玉分教場
(4)
(5)終戦
 
(1)第二練習飛行隊、昭第18996
(2)昭和19年10月30日
(3)マレー分散地(クラン、クアンタン、アロルスター、クアラカンサル、ポートセッテンハム)
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第三練習飛行隊、昭第18997
(2)昭和20年3月31日
(3)仙台
(4)
(5)昭和20年5月15日

(1)第五練習飛行隊 特攻訓練、羽第16675
(2)昭和19年12月15日
(3)綏中
(4)
(5)昭和20年8月20日
 
(1)第六練習飛行隊、紺第540
(2)昭和20年2月20日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年8月29日熊谷、八雲に於て復員
 
(1)第七練習飛行隊、空第541
(2)昭和20年2月20日
(3)京都府久世郡御牧
(4)
(5)昭和20年9月3日御牧飛行場にて復員
 
(1)第八練習飛行隊 空第542
(2)昭和20年2月20日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年9月3日
 
(1)第九練習飛行隊 宙第543
(2)昭和20年2月20日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年8月25日
 
(1)第一教育飛行隊 戦闘、空第230
(2)昭和19年3月31日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二教育飛行隊 重爆、昭第15314
(2)昭和19年3月31日
(3)リンガエン
(4)
(5)終戦レンバン島収容昭和21年5月17日同島出発5月29日名古屋港上陸、復員
 
(1)第三教育飛行隊 軍偵、昭第15315
(2)昭和19年3月31日
(3)リパ
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第四教育飛行隊 軽爆、紺第531
(2)昭和19年2月25日
(3)八日市
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第五教育飛行隊 重爆、中部第113
(2)昭和19年3月31日
(3)浜松第105教育飛行連隊を改称
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第六教育飛行隊 戦闘、台湾第36
(2)昭和19年3月31日
(3)台中
(4)
(5)昭和19年12月25日
 
(1)第七教育飛行隊 挺進、朝鮮第110
(2)昭和19年2月25日
(3)朝鮮咸興
(4)
(5)昭和19年12月25日
 
(1)第八教育飛行隊 戦闘、誠第532
(2)昭和19年1月15日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年7月6日
 
(1)第九教育飛行隊 重爆、台湾第38
(2)昭和19年2月25日
(3)嘉義
(4)
(5)昭和19年12月31日
 
(1)第十教育飛行隊 偵察、空第533
(2)昭和19年2月29日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十一教育飛行隊 戦闘、宙第534
(2)昭和19年2月29日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年8月20日
 
(1)第十二教育飛行隊 戦闘、昭第15316
(2)昭和19年3月31日
(3)デルカルメン
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第十三教育飛行隊 襲撃、朝鮮第161
(2)昭和19年3月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年1月15日
 
(1)第十四教育飛行隊 戦闘、隼第15301
(2)昭和19年3月7日
(3)南苑
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十五教育飛行隊 偵察、隼第15302
(2)昭和19年3月31日
(3)済南
(4)
(5)昭和19年12月31日
 
(1)第十六教育飛行隊 重爆、昭第11066
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島カリジャチ
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十七教育飛行隊 戦闘、昭第11067
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十八教育飛行隊 戦闘、隼第15305
(2)昭和19年3月31日
(3)南京
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十九教育飛行隊 戦闘、宙第533
(2)昭和19年3月31日
(3)朝鮮会寧
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十教育飛行隊 戦闘、台湾第42
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾花連港
(4)
(5)昭和19年12月31日
 
(1)第二十一教育飛行隊 戦闘、台湾第43
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾佳冬
(4)
(5)昭和19年12月31日
 
(1)第二十二教育飛行隊 戦闘、台湾第44
(2)昭和19年3月31日
(3)台湾潮州
(4)
(5)昭和19年11月
 
(1)第二十三教育飛行隊 軽爆、羽第15353
(2)昭和19年3月1日
(3)朝鮮宜徳
(4)
(5)横道河子に於て昭和20年9月2日停戦
 
(1)第二十四教育飛行隊 重爆、羽第15354
(2)昭和19年3月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年9月8日
 
(1)第二十五教育飛行隊 戦闘、羽第16615
(2)昭和19年3月31日
(3)遼陽
(4)
(5)昭和19年12月31日
 
(1)第二十六教育飛行隊 戦闘、羽第16616
(2)昭和19年3月10日
(3)満洲龍江省白城子
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十七教育飛行隊 戦闘、羽第16617
(2)昭和19年3月25日
(3)満洲錦州省興城
(4)
(5)昭和19年12月15日
 
(1)第二十八教育飛行隊 戦闘、隼第17303
(2)昭和19年3月31日
(3)河北省石家荘石門
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十九教育飛行隊 戦闘、隼第17304
(2)昭和19年3月7日
(3)河北省唐山
(4)
(5)昭和19年7月2日
 
(1)第三十教育飛行隊 襲撃、宙第536
(2)昭和19年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第三十一教育飛行隊 戦闘、威第10610
(2)昭和19年3月31日
(3)ルソン島デルカルメン
(4)
(5)昭和20年1月31日
 
(1)第三十二教育飛行隊 戦闘、富第15355
(2)昭和19年2月25日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年1月31日
 
(1)第三十三教育飛行隊 戦闘、威第15356
(2)昭和19年2月15日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年1月31日
 
(1)第三十四教育飛行隊 戦闘、昭第11068
(2)昭和19年3月31日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第三十五教育飛行隊 戦闘、岡第11069
(2)昭和19年3月31日
(3)シンガポール、臨時編成
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第三十六教育飛行隊 戦闘、昭第15357
(2)昭和19年2月29日
(3)朝鮮連浦
(4)
(5)昭和20年2月28日
 
(1)第三十七教育飛行隊 戦闘、治第15358
(2)昭和19年2月25日
(3)台湾?東
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第三十八教育飛行隊 挺進、昭第11099
(2)昭和19年2月29日
(3)比島タルラック
(4)
(5)昭和20年2月25日
 
(1)第三十九教育飛行隊 戦闘、紺第537
(2)昭和19年7月31日
(3)千葉県横芝
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第四十教育飛行隊 戦闘、空第538
(2)昭和19年4月8日
(3)連浦
(4)
(5)昭和20年9月3日
 
(1)第四十一教育飛行隊 重爆、宙第539
(2)昭和19年4月29日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第四十二教育飛行隊 司偵、羽第16642
(2)昭和19年7月31日
(3)満洲チチハル
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第四十三教育飛行隊 戦闘、威第10618
(2)昭和19年6月7日
(3)タルラック
(4)
(5)昭和20年1月31日
 
(1)第四十四教育飛行隊 戦闘、岡第11081
(2)昭和19年5月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第四十五教育飛行隊 司偵、岡第11082
(2)昭和19年7月31日
(3)マレー、スンゲイバタニ
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第四十六教育飛行隊 偵察、昭第11083
(2)昭和19年5月31日
(3)マレー、ケチル
(4)
(5)昭和20年1月31日
 
(1)第一錬成飛行隊 戦闘、紺第520
(2)昭和19年7月31日
(3)相模
(4)
(5)昭和20年8月24日
 
(1)第二錬成飛行隊 戦闘、宙第521
(2)昭和19年7月22日
(3)京城
(4)
(5)昭和20年9月14日
 
(1)第三錬成飛行隊 戦闘、誠第522
(2)昭和19年4月28日
(3)滋賀県八日市
(4)
(5)昭和20年7月19日
 
(1)第四錬成飛行隊 戦闘、羽第16634
(2)昭和19年5月30日
(3)新京
(4)
(5)?
 
(1)第五錬成飛行隊 戦闘、隼第16635
(2)昭和19年5月31日
(3)浜江省孫家
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第六錬成飛行隊 司偵、空第523
(2)昭和19年7月31日
(3)兵庫県三木
(4)
(5)終戦。昭和20年9月3日復員
 
(1)第七錬成飛行隊 司偵、昭第18432
(2)昭和19年6月20日
(3)?東
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第八錬成飛行隊 戦闘、昭第18433
(2)昭和19年5月31日
(3)会寧
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第九錬成飛行隊 戦闘、富第11080
(2)昭和19年4月30日
(3)ビルマ、メイクテイラ
(4)
(5)昭和20年9月2日
 
(1)第十錬成飛行隊 戦闘、空第524
(2)昭和19年11月30日
(3)京都府由良
(4)
(5)終戦、昭和20年9月3日復員
 
(1)第十一錬成飛行隊 戦闘、空第525
(2)昭和19年11月30日
(3)目達原
(4)
(5)終戦。昭和20年8月28日復員
 
(1)第十二錬成飛行隊 戦闘、宙第526
(2)昭和19年9月15日
(3)京城金浦
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十三錬成飛行隊 戦闘、羽第16663
(2)昭和19年9月15日
(3)満洲公主嶺
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第十四錬成飛行隊 戦闘、羽第16664
(2)昭和19年8月20日
(3)満洲龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和19年8月20日
 
(1)第十五錬成飛行隊 司偵、昭第11092
(2)昭和19年11月30日
(3)マレークアラルンプール
(4)
(5)昭和20年6月30日
 
(1)第十六錬成飛行隊、富第11095
(2)昭和19年7月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和19年11月復帰
 
(1)第十七錬成飛行隊 戦闘、昭第11093
(2)昭和19年10月3日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年9月5日
 
(1)第十八錬成飛行隊 戦闘、昭第11094
(2)昭和19年10月30日
(3)ジャワ島バンドン
(4)
(5)昭和20年8月1日
 
(1)第十九錬成飛行隊 戦闘、隼第17327
(2)昭和19年10月7日
(3)河北省南苑
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十二錬成飛行隊 戦闘、羽第16664
(2)昭和19年8月20日
(3)龍江省衛門屯
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十三錬成飛行隊 襲撃、宙第527
(2)昭和20年1月31日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十四錬成飛行隊 重爆、空第528
(2)昭和19年12月31日
(3)浜松
(4)
(5)終戦昭和20年8月29日復員
 
(1)第二十五錬成飛行隊 重爆、宙第529
(2)昭和19年12月27日
(3)咸鏡南道宜徳
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十六錬成飛行隊 戦闘、富第11097
(2)昭和20年2月28日
(3)ジャワ島マラン
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十七錬成飛行隊 襲撃、昭第11098
(2)昭和20年2月28日
(3)マライケダー州ケチル
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第二十八錬成飛行隊 重爆、昭第11099
(2)昭和20年2月25日
(3)マレーイポイ
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第一野戦補充飛行隊、司第9915
(2)昭和16年11月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第一飛行教育隊、中部第92
(2)昭和12年12月10日
(3)各務原
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第二飛行教育隊
(2)昭和12年12月10日
(3)平壌の飛行第6連隊にて本部及び2個中隊編成
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第三飛行教育隊、西部第99・空第571
(2)昭和12年12月10日
(3)台湾嘉義
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第四飛行教育隊、東部第102・紺第572
(2)昭和13年7月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第五飛行教育隊、空第573
(2)昭和13年7月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第七飛行教育隊、中部第98・空第576
(2)昭和12年12月10日
(3)満洲公主嶺
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第八飛行教育隊、空第539・中部第77
(2)昭和12年12月10日
(3)満洲牡丹江省海浪。第八飛行団隷下
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第九飛行教育隊、空第577
(2)昭和12年12月10日
(3)龍江省チチハル。第9飛行団隷下
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第十二飛行教育隊、紺第578
(2)昭和12年12月10日
(3)龍江省ハルピン
(4)
(5)昭和13年7月5日
 
(1)第一航空教育隊、中部第92・宙第570
(2)昭和13年7月5日
(3)各務原
(4)
(5)終戦昭和20年10月15日仁川港出発10月20日佐世保上陸10月23日復員
 
(1)第二航空教育隊
(2)昭和13年7月5日
(3)平壌
(4)
(5)昭和18年9月17日
 
(1)第三航空教育隊、空第571・西部第99
(2)昭和13年7月5日
(3)嘉義。第3飛行教育隊を第3航空教育隊と改称
(4)
(5)昭和20年7月18日
 
(1)第四航空教育隊、紺第572・東部第102
(2)昭和13年7月1日
(3)立川
(4)
(5)終戦昭和20年8月29日復員
 
(1)第五航空教育隊、空第573
(2)昭和13年7月5日
(3)大刀洗。第5飛行教育隊を第5航空教育隊と改称
(4)
(5)終戦昭和20年8月30日戦後処理業務に従事し復員
 
(1)第六航空教育隊、空第574・北部第79
(2)昭和15年9月1日
(3)福島県原ノ町
(4)
(5)昭和20年7月18日
 
(1)第七航空教育隊、空第576・中部第98
(2)昭和13年7月5日
(3)
(4)
(5)昭和20年7月18日
 
(1)第八航空教育隊、空第539・中部第77
(2)昭和13年7月5日
(3)牡丹江省海浪。第8飛行教育隊を第8航空教育隊と改称。
(4)
(5)昭和20年9月5日
 
(1)第九航空教育隊、空第577
(2)昭和13年7月5日
(3)満洲龍江省チチハル
(4)
(5)終戦業務を終え復員
 
(1)第十航空教育隊、誠第39
(2)昭和18年10月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年6月8日
 
(1)第十一航空教育隊、東部第103
(2)昭和16年3月1日
(3)茨城県水戸
(4)
(5)昭和18年9月17日
 
(1)第十二航空教育隊、紺第578・東部第111
(2)昭和13年7月5日
(3)満洲ハルピン。第12飛行教育隊を第12航空教育隊と改称
(4)
(5)終戦、復員
 
(1)第十三航空教育隊、師第579
(2)昭和19年1月10日
(3)新潟県高田南本町
(4)
(5)終戦昭和20年9月1日復員
 
(1)第十四航空教育隊、宙第580・西部第104
(2)熊本県菊池
(3)昭和19年1月24日
(4)
(5)終戦昭和20年10月23日釜山港出発山口県仙崎港上陸、復員
 
(1)第一航空軍教育隊、帥第581
(2)昭和17年12月3日
(3)岐阜
(4)
(5)終戦復員
 
(1)第二航空第一教育隊、羽第16613
(2)昭和18年8月15日
(3)吉林省公主嶺
(4)
(5)昭和18年8月15日
 
(1)南方軍第一航空教育隊、昭第11056
(2)昭和18年8月25日
(3)シンガポール
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)支那派遣軍第一航空教育隊、隼第1622
(2)昭和18年9月30日
(3)南京
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)岐阜第一航空教育隊、空第563
(2)昭和20年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)岐阜第二航空教育隊、空第564
(2)昭和20年2月25日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)奈良陸軍航空教育隊、空第565
(2)昭和20年2月25日
(3)奈良
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)立川陸軍航空教育隊、紺第561
(2)昭和20年2月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)所沢陸軍航空教育隊、紺第560
(2)昭和20年2月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)八戸陸軍航空教育隊、紺第562
(2)昭和20年2月25日
(3)青森県八戸
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
◆陸軍直轄飛行隊・研究飛行隊等
 
(1)陸軍航空本部、風第29651
(2)大正14年5月1日
(3)東京?町区隼町
(4)
(5)昭和20年11月30日、東京
 
(1)陸軍航空総監部
(2)昭和13年12月10日
(3)東京
(4)
(5)昭和20年4月18日
 
(1)陸軍航空技術研究所
(2)昭和10年8月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)第一陸軍航空技術研究所、風第29661
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部福生・出張所甲府
 
(1)第二陸軍航空技術研究所、風第29662
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所高山・岡谷
 
(1)第三陸軍航空技術研究所、風第29663
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部福生・出張所阿字ヶ浦
 
(1)第四陸軍航空技術研究所、風第29664
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、八王子
 
(1)第五陸軍航空技術研究所、風第29665
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所屋代
 
(1)第六陸軍航空技術研究所、風第29666
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、立川
 
(1)第七陸軍航空技術研究所、風第29667
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部青梅・出張所甲府・秩父
 
(1)第八陸軍航空技術研究所、風第29668
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部立川・出張所新潟
 
(1)陸軍飛行実験部
(2)昭和14年12月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)陸軍航空審査部、風第29653
(2)昭和17年10月15日
(3)福生
(4)
(5)昭和20年8月29日、本部福生・出張所京都・水戸・松本
 
(1)陸軍航空工廠
(2)昭和15年4月1日
(3)東京府北多摩郡昭和村(現昭島市)
(4)
(5)昭和20年11月14日、昭和村
 
(1)陸軍航空適性検査部
(2)昭和19年1月31日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年9月15日、調布
 
(1)多摩陸軍技術研究所、風第29669
(2)昭和18年6月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月27日、本部国立・出張所青梅・久我山・藤岡・上諏訪・関西
 
(1)南方軍航空技術部、司第9312
(2)昭和16年11月25日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)大本営航空通信保安長官部
(2)昭和17年9月1日
(3)東京(市ヶ谷)
(4)
(5)昭和20年9月13日、東京
 
(1)大本営野戦航空兵器長官部
(2)昭和12年11月20日
(3)東京
(4)
(5)昭和20年9月13日、東京
 
(1)大本営陸軍航空通信隊
(2)昭和17年8月
(3)東京
(4)
(5)20年3月

◆飛行学校 

(1)陸軍航空士官学校
(2)昭和13年12月10日
(3)豊岡
(4)
(5)昭和20年9月1日、豊岡
 
(1)仙台陸軍飛行学校
(2)昭和18年10月9日
(3)仙台
(4)
(5)昭和20年8月27日、仙台
 
(1)東京陸軍航空学校
(2)昭和12年12月1日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和18年4月1日
 
(1)東京陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和18年4月1日
(3)村山町
(4)
(5)昭和20年8月27日、村山町
 
(1)大津陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和18年4月1日
(3)大津
(4)
(5)昭和20年8月27日、大津
 
(1)大分陸軍少年飛行兵学校
(2)昭和19年5月15日
(3)大分
(4)
(5)昭和20年8月27日、大分
 
(1)陸軍航空学校
(2)大正8年4月15日
(3)所沢
(4)
(5)大正13年5月16日
 
(1)所沢陸軍飛行学校
(2)大正13年5月16日
(3)所沢
(4)
(5)昭和12年10月1日
 
(1)熊谷陸軍飛行学校
(2)昭和10年12月1日
(3)熊谷
(4)
(5)昭和20年2月
 
(1)宇都宮陸軍飛行学校
(2)昭和15年10月1日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和19年10月
 
(1)大刀洗陸軍飛行学校
(2)昭和15年10月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年2月
 
(1)岐阜陸軍飛行学校
(2)昭和15年8月1日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和18年4月1日
 
(1)下志津陸軍飛行学校
(2)大正13年5月17日
(3)千葉県千葉郡都村
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)明野陸軍飛行学校
(2)大正13年5月17日
(3)三重県度会郡明野村
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)明野陸軍飛行学校分校
(2)昭和18年8月1日
(3)茨城県那珂郡前渡村
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)浜松陸軍飛行学校
(2)昭和8年8月1日
(3)静岡県浜名郡神久呂村
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)白城子陸軍飛行学校
(2)昭和14年7月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)鉾田陸軍飛行学校
(2)昭和15年12月1日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和19年6月20日
 
(1)水戸陸軍飛行学校
(2)昭和13年7月1日
(3)茨城県那珂郡前渡村
(4)
(5)昭和18年10月9日
 
(1)陸軍航空技術学校
(2)昭和10年8月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和19年10月10日
 
(1)陸軍航空整備学校
(2)昭和13年7月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和18年8月1日
 
(1)立川陸軍航空整備学校
(2)昭和18年8月1日
(3)福生
(4)
(5)昭和19年6月30日
 
(1)所沢陸軍航空整備学校
(2)昭和18年8月1日
(3)所沢
(4)
(5)昭和20年2月25日
 
(1)岐阜陸軍航空整備学校
(2)昭和18年4月1日
(3)岐阜
(4)
(5)昭和20年2月25日
 
(1)陸軍航空通信学校
(2)昭和15年8月1日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年5月3日
 
◆教導飛行師団

(1)教導航空軍司令部、靖第19500
(2)昭和19年8月8日
(3)東京
(4)
(5)昭和19年12月26日
 
(1)下志津教導飛行師団、下志津陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)下志津
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)明野教導飛行師団、明野陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)明野
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)浜松教導飛行師団、浜松陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)宇都宮教導飛行師団、宇都宮陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)鉾田教導飛行師団、鉾田陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)常陸教導飛行師団、常陸陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月20日
(3)前渡
(4)
(5)昭和20年7月10日復帰
 
(1)教導飛行師団、風第1000
(2)昭和20年7月16日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年8月29日、宇都宮
 
◆教導飛行隊
 
(1)第一教導飛行隊、明野飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)明野
(4)
(5)昭和20年8月29日、明野
 
(1)第二教導飛行隊、常陸飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)常陸
(4)
(5)昭和20年8月29日、新田
 
(1)第三教導飛行隊、鉾田飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)鉾田
(4)
(5)昭和20年8月29日、那須
 
(1)第四教導飛行隊、浜松飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月29日、富山・三国
 
(1)第五教導飛行隊、下志津飛行隊
(2)昭和20年7月24日
(3)
(4)
(5)昭和20年8月29日、壬生
 
(1)第六教導飛行隊、宇都宮飛行隊
(2)昭和20年7月16日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年8月29日、宇都宮
 
(1)立川教導航空整備師団、立川陸軍航空整備部隊
(2)昭和19年6月30日
(3)福生
(4)
(5)昭和20年8月29日、福生
 
(1)水戸教導航空通信師団、水戸陸軍航空通信部隊
(2)昭和20年5月3日
(3)水戸
(4)
(5)昭和20年8月29日、水戸
 
(1)加古川教導航空通信団、加古川陸軍航空通信部
(2)昭和20年5月3日
(3)加古川
(4)
(5)昭和20年8月29日、加古川
 
(1)三方原教導飛行団、三方原陸軍飛行部隊
(2)昭和19年6月30日
(3)浜松
(4)
(5)昭和20年8月28日、浜松
 
(1)陸軍電波兵器練習部、東部第92
(2)昭和19年2月
(3)立川(多摩研)
(4)
(5)昭和20年8月29日、小平
 
◆航空廠
 
(1)陸軍航空本廠
(2)昭和10年8月1日
(3)東京
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)立川陸軍航空支廠
(2)昭和10年8月1日
(3)立川
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)大刀洗陸軍航空支廠
(2)昭和13年7月1日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)平壌陸軍航空支廠
(2)昭和11年4月1日
(3)平壌
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)?東陸軍航空支廠
(2)昭和12年4月1日
(3)?東
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)満洲陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)帯広陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)帯広
(4)
(5)昭和17年5月31日
 
(1)宇都宮陸軍航空支廠
(2)昭和16年6月1日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)大阪陸軍航空支廠
(2)昭和16年8月1日
(3)大阪
(4)
(5)昭和17年10月15日
 
(1)東京陸軍航空補給廠、師第34208
(2)昭和19年10月20日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月14日、立川
 
(1)大阪陸軍航空補給廠、師第34209
(2)昭和19年10月20日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年11月14日、大阪
 
(1)関東軍航空廠、羽第16680
(2)昭和20年5月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)立川陸軍航空廠、師第34202
(2)昭和17年10月15日
(3)立川
(4)
(5)昭和20年11月4日、立川・分廠の所在地柏・成増・相模・出張所の所在地熊谷
 
(1)各務原陸軍航空廠、師第34203
(2)昭和17年10月15日
(3)各務原
(4)
(5)昭和20年11月14日、各務原・分廠の所在地浜松・亀山・小牧
 
(1)大阪陸軍航空廠、師第34204
(2)昭和17年10月15日
(3)大阪
(4)
(5)昭和20年11月14日、大阪・分廠の所在地八日市・伊丹・加古川・出張所の所在地京都・明石
 
(1)大刀洗陸軍航空廠、師第34205
(2)昭和17年10月15日
(3)大刀洗
(4)
(5)昭和20年11月14日、大刀洗・分廠の所在地芦屋・下関・菊地・新田原・防府・福岡・知覧
 
(1)宇都宮陸軍航空廠、師第34206
(2)昭和17年10月15日
(3)宇都宮
(4)
(5)昭和20年11月14日、宇都宮・分廠の所在地八戸・出張所の所在地大田・新田・太田南
 
(1)平壌陸軍航空廠、師第34207
(2)昭和17年10月15日
(3)平壌
(4)
(5)昭和20年8月15日、平壌・分廠の所在地咸興・郡山・京城
 
(1)?東陸軍航空廠
(2)昭和17年10月15日
(3)?東
(4)
(5)昭和19年10月25日
 
(1)満洲陸軍航空廠
(2)昭和17年10月15日
(3)奉天
(4)
(5)昭和20年5月1日
 
(1)マニラ陸軍航空廠、威第15311
(2)昭和18年8月15日
(3)マニラ
(4)
(5)昭和20年3月現地復帰
 
(1)奉天野戦航空廠
(2)昭和13年7月
(3)奉天
(4)
(5)昭和15年4月1日
 
(1)第七野戦航空廠
(2)昭和15年4月1日
(3)威興
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第八野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)奉天
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第九野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)楡樹屯
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第十野戦航空廠
(2)昭和15年8月1日
(3)佳木斯
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第十一野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)四平
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第十二野戦航空廠
(2)昭和13年9月1日
(3)ハルピン
(4)
(5)昭和16年7月31日
 
(1)第十五野戦航空廠
(2)昭和13年5月15日
(3)北京
(4)
(5)昭和19年2月
 
(1)第十六野戦航空廠
(2)昭和16年4月12日
(3)広東
(4)
(5)昭和17年5月30日
 
(1)第五野戦航空修理廠、誠第19023
(2)昭和19年10月25日
(3)?東
(4)
(5)昭和21年3~21・12復員
 
(1)第六野戦航空修理廠、鏑第19250
(2)昭和17年5月31日
(3)帯広
(4)
(5)昭和20年8月15日
 
(1)第七野戦航空修理廠、靖第8316
(2)昭和16年7月31日
(3)咸興
(4)
(5)昭和20年10月7日、仙崎
 
(1)第八野戦航空修理廠、隼第8331
(2)昭和16年7月31日
(3)蘭崗
(4)
(5)昭和21年2月24日、佐世保

教導飛行師団データベース

下志津教導飛行師団
下志津陸軍飛行学校を改編、司令部、第一~第四教導飛行隊、教導整備隊、通身隊からなる。
19年11月以降特別攻撃隊(石腸隊、進襲隊)編成出陣、
20年5月海燕隊、北辰隊編成出陣、
20年7月第一、第二独立飛行隊編成
歴代師団長
古屋健三少将
 
明野教導飛行師団

明野陸軍飛行学校を改編、19年10月第三十戦闘飛行集団司令部、第二百戦隊編成出陣。
20年7月決号作戦準備のため第二十戦闘飛行集団司令部、第百十一。第百十二戦隊を編成
歴代師団長
青木武三少将、今川一策少将
  

400hamamatu 
浜松教導飛行師団
浜松陸軍飛行学校を改編、司令部、教導第一隊、教導第三隊、研究飛行隊を基幹とする、
19年10月教導第一隊から富嶽隊、第二独立飛行隊、教導第三隊から飛行第百十戦隊の作戦部隊を編成
歴代師団長
星駒太郎少将
 
宇都宮教導飛行師団

白城子陸軍飛行学校を改編、司令部、教導飛行隊、教導航測隊、教導整備隊からなる
歴代師団長
小川小二郎少将
 
鉾田教導飛行師団
鉾田陸軍飛行学校を改編、司令部、教導飛行隊、教導整備隊からなる。
19年10月21日陸軍最初の特攻隊、万朶隊を編成
歴代師団長
高品明少将
 
常陸教導飛行師団
明野陸軍飛行学校分校を改編、司令部、第一、第二教導飛行隊、教導整備隊からなる。
20年4月司令部は前橋、教導飛行隊は新田に移駐
歴代師団長
加藤敏雄少将

2017年11月 3日 (金)

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2017年8月20日 (日)

旧軍から自衛隊へ入隊した場合の階級(資料)

航空自衛隊は航空要員の充足計画として
航空準備室においては昭和29年度航空自衛隊定員6,738名の
充足計画を作成した。警備隊からの転官および一般公募によることとし
その基本計画は次の通り。
 
転官はパイロットの充足に重点を置き
保安隊から幹部650名、陸曹等2,500名、警備隊から
幹部160名、海曹等400名計約3,700名とする。
 
航空準備室では陸海からの転官希望者各個人に
綿密な検討を加え、特に士補等は各職種の定員を充足させることに
主眼をおいて選考を進め、昭和29年6月31日迄には一応の
転官要員3,717名を決定した。
 
陸からの転官については終始順調に進捗し
計画通り行われたが、海からの転官は海上自衛隊自体の
航空要員充足の必要性もあり、計画の約60%に
過ぎなかった。
 
昭和29年度末までの転官状況は次の通り。
保安隊(陸上自衛隊)から
幹部559名、空曹等2,574名、計3,133名
 
警備隊(海上自衛隊)から
幹部85名、空曹等253名、計338名
 
転官者以外に一般公募を行い、幹部570名、
空曹等約2,000名を補充する。
 
隊員の募集は
保安隊が担当し、幹部520名、空曹500名、空士1,500名を
採用することにした。主な募集条件、応募状況は次の通り。
 
一般公務員に準じた資格のほかに次の資格が定められた。
 
◆二佐
国家公務員11級、同相当者、旧軍において概ね
昭和17年12月1日以前の少佐任官者
 
◆三佐
国家公務員10級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年6月10日以前の少佐任官者
 
◆一尉
国家公務員9級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年6月10日以前の中尉任官者
 
◆二尉
国家公務員8級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年8月1日以前の少尉任官者
 
◆三尉
国家公務員7級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年7月31日現在の見習士官、準士官
 
◆空曹
短期大学卒業者、旧軍の判任官
 
◆二士
昭和4年10月9日-11年10月1日出生者
 
◆部隊職員
3級-10級
  
出典
自衛隊十年史(1961年)

2017年8月11日 (金)

零式艦上戦闘機ベクターデータ販売

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販売用のベクターデータの見本一覧です。
第一弾は「ゼロ戦」です。
 
自由に着色・加工・編集が可能なデータです。
 
価格ですが下記の通りで提供させて頂きます。
商用は全ライセンス付与です。
 
商用 ¥49,800-
▲プロモーション・宣伝・広告等での利用
▲グッズ製作(Tシャツ・マグカップ等) 
▲まとめサイト(キュレーションサイト)での利用 

▲アフィリエイトが付随するサービスでの利用 
  
非商用 ¥2,980-
〇個人ブログ・ウェブサイト素材としての利用

〇動画素材(youtube、ニコニコ動画など個人非商用アカウントでの利用)
〇発行部数1,000部以下の同人誌・趣味の印刷物

〇SNSのアイコン等
〇教育・講演、プレゼンテーション等

 
非商用購入
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TVT9DC
 
商用購入
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TWFVGP
 
こちらに続きまして
彗星や紫電改、震電、陸軍機、戦艦などもラインナップに追加していきます。
よろしくお願い致します。

2017年8月 8日 (火)

ゼロ戦の増槽大研究

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零戦のイラストを全種類描くにあたって
増槽も描いています。
 
増槽(ぞうそう。陸軍名称は落下タンク)
は長距離を飛行する際に取り付ける外部燃料タンクで、
中身が空っぽになったら、切り離し捨ててしまうタンクです。
 
増槽は型式が存在せず、機種によってバラバラなのです。
これだけ零戦がブームなのですが、増槽は
全然研究がされておりません!
専門書などを見ても多くが割愛されております。
 
私も本物をほとんど見たことがありません。増槽だけ展示してあるのは
万世特攻平和祈念館と筑波海軍航空隊記念館くらいでしょうか。
使用後捨ててしまうものですから、残っていないのは仕方ないのかもしれません。
図面も機体の一部としては見なしていないようです。
 
材質・塗装・形状・取り付け場所・支柱、すべてが
年代や機種によって全く、あるいは微妙に異なります。
 
全部は描ききれないので、まず、ゼロ戦に限って描くことにします。
ゼロ戦だけで主に三種類あります。このほかに現場で小加工して取付したり
したケース等、たくさんのパターンがあります。 
 
◆初期型胴体下330リットル(海軍機専用)
もっとも有名なのは真珠湾などで使用した21型の初期型。330リットル。
(彗星艦爆と兼用です。彗星艦爆は翼下に二個装着できます)
支柱にカバーが装着されています。主に52型で見られます。金属製。
 
◆後期型胴体用320リットル(海軍機専用)
次に後期型。形状がかなり細長くなります。主に52型甲以降に見られます。
「雷電」などにも同じものが使われています。
材質は木製に変更され、支柱も剥き出しになっています。
 
◆陸海軍統一型二型落下増槽200リットル×2
翼下に二個取り付けるタイプで「隼」「飛燕」「疾風」など
陸海軍で同じものを使っていました。
ゼロ戦は62型以降の零爆で胴体下に爆弾を取り付けた場合
翼下に二個となります。木製。

2017年7月27日 (木)

ベクターデータの販売

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イラストデータのライセンス販売を始めます。
 
今までは主に自分でグッズを製造していましたが
一度に数十万~百万単位でかかるので
マイナー機などはグッズ化にも相当な費用と覚悟が要りました。
大量のダンボールに囲まれて
袋詰めや在庫管理などで日が暮れてしまいます。
 
そこでベクターデータ(編集可能)のライセンスを販売して
自由に使って頂こうと考えています。 
 
見本を少しアップしました。販売するのは
今まで描いた飛行機と艦船全てです。
零戦は全ての形式が揃っています。
編集可能なので、カスタマイズやカラーリング、
自由なデザインが出来ます。
 
取材で全国各地に行くのでお金がかかります。
クラウドファンディングが流行ってますが、
どうしても身動きが不自由になりますし、責任の所在が曖昧となります。
今のところ、必要なお金は自分で調達するがモットーです。

2017年5月19日 (金)

航空自衛隊黎明期事故による殉職者

 
航空自衛隊黎明期に殉職され
その礎を築かれた方々のお名前を記します。
現在、航空自衛隊の黎明期を研究しており、何かお役に
立てればと検索データベースの作成に至りました。
 
航空自衛隊創設から昭和35年8月までですので
ブルーインパルス発足前となります。
 
左からお名前、階級※殉職後の特進階級です
事故発生日、出身地、事故の内容を記載しました。
  

鈴木光・2尉・昭和29年9月26日・北海道

東海林迪夫・2曹・昭和30年8月8日・岩手県
第1操縦学校所属T-34、連絡飛行中京都府日向町に墜落

土田忠夫・1曹・昭和31年2月6日・宮崎

平塚勝・3佐・昭和31年6月26日・神奈川
第二操縦学校所属T-6訓練中松島で空中衝突

竹内慶文・3佐・昭和31年6月26日・茨城

中田弘正・2士・昭和31年7月28日・長野

宇野進・3佐・昭和31年8月16日・愛知
臨時築城派遣隊所属T-33A、連絡飛行中宮城県松島海上に墜落

三木琢磨・2佐・昭和31年9月29日・愛知 三木琢磨大尉(海兵70期)
臨時築城派遣隊所属T-33A、
連絡飛行中ジョンソン米空軍(現在の入間)基地付近に墜落
米空軍ジョー・ライリー大尉(少佐)同乗殉職

玉利清治・防衛庁技官・昭和31年9月29日・鹿児島

谷嶋広美・1曹・昭和31年11月2日・長崎

指宿正信・1佐・昭和32年1月9日・鹿児島(海兵65期)
第二航空団所属F-86F、2機訓練中接触天竜川河口と遠州灘に墜落
指宿二佐殉職、S空将補ベイルアウト成功

五日市芳武・士長・昭和32年2月19日・岩手

後藤守正・2佐・昭和32年3月4日・福岡
臨時美保派遣隊所属定期便C-46、美保飛行場着陸時海上に墜落

岩本繁明・2佐・昭和32年3月4日・熊本 岩本繁明大尉(航士54期)

吉井富男・1曹・昭和32年3月4日・栃木

野村久光・1曹・昭和32年3月4日・東京

入山芳夫・1曹・昭和32年3月4日・茨城

高野衛・2曹・昭和32年3月4日・茨城

丸山好行・2曹・昭和32年3月4日・東京

古渡清文・2曹・昭和32年3月4日・茨城

高橋唯清・2曹・昭和32年3月4日・長野

岩本勇・3曹・昭和32年3月4日・大分

近藤実・士長・昭和32年3月4日・島根

河井重友・防衛庁技官・昭和32年3月4日・岡山

小川光昭・1尉・昭和32年5月20日・大阪
第2航空団所属F-86F、千歳へ移駐の際、苫小牧および千歳付近に
各1機墜落

小林照彦・2佐・昭和32年6月4日・東京(飛燕・244戦隊長)
第1航空団所属T-33A、離陸時の事故によって
火災発生消失

天野裕・2佐・昭和32年6月4日・新潟
〃小林機に同乗

肱岡勝雄・3佐・昭和32年6月13日・鹿児島
第2航空団千歳派遣隊所属F-86F、計器飛行訓練中苫小牧北方に墜落

中村博・2佐・昭和32年6月20日・神奈川(海兵71期)
第1航空団所属F-86F、夜間訓練中天竜川河口南方海上に墜落

時任二三夫・士長・昭和32年7月30日・宮崎

松本力・2佐・昭和32年9月30日・福岡
臨時築城派遣隊所属T-33A、訓練中飛行場東方海上に墜落

佐藤正・3佐・昭和32年9月30日・大分

吉田誠一・2佐・昭和32年11月16日・東京
第一航空団所属F-86F、訓練中高松市松島埋立地に不時着大破消失

酒井康夫・3佐・昭和32年11月21日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中浜名湖南方海上に墜落

岡野武雄・3佐・昭和32年12月26日・福岡
第二操縦学校臨時松島訓練隊所属T-6、航法訓練中山口県岩国沖に墜落

西川尚信・1尉・昭和32年12月26日・広島

鶴井平・1曹・昭和33年3月13日・愛知
第一航空団所属F-86F、訓練中爆発天竜川河口に墜落

田代孝・3佐・昭和33年4月6日・和歌山

新川久三・士長・昭和33年4月13日・福島

半田要一・3佐・昭和33年5月21日・群馬
第一航空団所属F-86F、2機、訓練中接触尾鷲市南東海上に墜落(要確認)

上田雄二・2曹・昭和33年5月21日・熊本
第二操縦学校分校所属T-6、訓練中宮城県田尻町付近に墜落(要確認)

倉原正典・1士・昭和33年6月24日・大分

大田忠敏・1士・昭和33年7月11日・山口

加治佐稔・1士・昭和33年7月24日・鹿児島

猪原瑞夫・2曹・昭和33年10月23日・熊本
第二航空団所属F-86F、訓練中北海道島松演習場に墜落

山川稔・1尉・昭和33年12月10日・長崎
第二操縦学校所属T-6、訓練中福島県箕輪山に墜落

中村俊英・1曹・昭和33年12月10日・鹿児島

諸隅武夫・3曹・昭和33年12月11日・佐賀

村上忠敏・1尉・昭和34年1月2日・大分

高橋光雄・士長・昭和34年3月11日・秋田

藤原敏之・1尉・昭和34年5月4日・岡山

土井幸信・2曹・昭和34年5月19日・東京
第三操縦学校所属T-33A、訓練中築城飛行場外に墜落

今石琢造・1尉・昭和34年6月5日・福岡
第一航空団所属、F-86F、訓練中松島飛行場に墜落

桐原健男・1曹・昭和34年7月3日・宮崎

坂本誘・3曹・昭和34年7月3日・山口

弘川勝信・2曹・昭和34年7月22日・佐賀
第16飛行教育団所属T-33A、訓練中宇部沖に墜落

渡辺昶夫・3曹・昭和34年8月17日・栃木

山本哲夫・3曹・昭和34年9月5日・栃木

藤田明・士長・昭和34年9月26日・茨城

鶴田茂・1佐・昭和34年10月5日・鹿児島
第二航空団所属F-86F、2機、訓練中空中接触
によって三沢沖に墜落

山本秀成・3尉・昭和34年10月5日・鹿児島

脇信良・士長・昭和34年11月30日・鹿児島

白善誠一・1曹・昭和34年12月23日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中静岡県安倍郡山中に墜落

吉田博昭・1曹・昭和34年12月24日・新潟
第四航空団所属F-86F、訓練中金華山沖に墜落

井島直次・技官・昭和34年12月30日・静岡

木暮辰雄・1尉・昭和35年5月9日・群馬

平原良彦・2尉・昭和35年5月24日・鹿児島
第14飛行教育団所属T-6、夜間訓練飛行中海上に墜落

米谷哲雄・1尉・昭和35年6月29日・北海道
第一航空団所属F-86F、射撃訓練中熊野灘に墜落

鈴木義英・1尉・昭和35年8月4日・東京
第一航空団所属T-33A、訓練飛行中愛知県下に墜落

三崎義信・1曹・昭和35年8月16日・熊本
第一航空団所属F-86F、2機、編隊飛行訓練中
空中接触によって遠州灘に墜落

2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年11月29日 (火)

青木中尉の雷電

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デジタルライブラリに新しく画像を追加しました。
青木中尉の雷電です。

2016年11月24日 (木)

中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い

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今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
 

◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
  
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。
戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
 
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
 
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
 
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
 
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
 
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして
実戦には上げてもらえなかった。
 
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
 
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
 
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
 
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
 
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。
そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
 
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
 
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
 
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
 
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と
呼ばれるようになりましたが、
 
その川西航空機で紫電改という
一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。
だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、
お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。

従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。
全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
 
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
  
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)

 
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
 
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
 
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
 
◆零戦52型丙、B-29との戦い
 
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
 
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
 
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては
敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
 
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。
相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
 
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。

 
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
 
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
 
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか

  
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
 
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。
映像というのはリングですね。
 
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
 
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
 
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、
最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、
わかるようになります。
 
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
 
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
 
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
 
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で
怖さはあんまりなかったですなあ。

篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね

 
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。

篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか

この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
 
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
 
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
 
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。

落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
 
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
 
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
 
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
 
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると
地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
  
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
 
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
 
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
 
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。
何もなくて帰ってくると。
 
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
 
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
  
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
 
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
 
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
 
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
 
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
 
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、
そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
 
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。
真正面がよく見えない
という感じがするからね。
あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
 
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
 
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。
そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。
我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
 
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
 
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
 
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事は
ありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
 
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。
非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
  
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
 
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
 
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
 
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
 
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、
これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
 
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
 
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。

篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
 
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
 
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
 
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
 
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
 
篠原
雷電の印象は如何ですか
 
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、
ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。
操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルを
もらったんですがね。
 
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
 
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
 
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
 
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
 
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
 
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
 
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
 
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。

 
◆8月16日の特攻隊編成
 
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
 
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
 
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、

「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
 
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
 
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
 
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と
高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
 
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
 
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
 
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら
予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
 
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
 
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。
だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
 
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
 
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから
40機の特攻隊を編成したわけです。
 
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、
整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから
諦めんでいい。後に続いて来い」
 
そう言ってなだめたんですけどね。
それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
 
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
 
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが
「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、
それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
 
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
 
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
 
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
 
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
 
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
 
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
 
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
 
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
 
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
 
何の憂慮もありませんでした。
 
つづく
 
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し
対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
  
  
模型製作
神雷工房様
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

Photo_3

零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年10月 3日 (月)

雷電 伊藤進中尉機

雷電 伊藤進中尉機

雷電のパイロット、工藤稔さんにインタビューさせて頂いた際、
お借りしたお写真です。
分隊長の伊藤進中尉機と工藤稔さん。
「撃墜マークをたくさん描いた分隊長機で撮ったほうが迫力があると思って」
とのお話し。厚木海軍航空隊でのショット。ヨD-152号機です。

初公開かな。雷電の細かい部分まではっきり解る貴重な写真です。 
  
こうしてみると大きな飛行機ですね。
インタビュー内容は現在執筆中です。

2016年8月28日 (日)

笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊

紫電改

篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
 
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
 
Q、一番大きいのは馬力ですか。

A、そうですねえ。全然違いますね。
 
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
 

紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
 
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
 
A 
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。

紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。

Q、紫電改はよかったですか
 

ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
 
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
 
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
 
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
 
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
 
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
 

そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
 
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
 

紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
 
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
  
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
 

あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
 
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
 
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
 
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
 

一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
 
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
 
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
 
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
 
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
 
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
 
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
 
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
 
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
 
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
 
「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
 

そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
 
Q、真っ先に見つけるんですね

A 
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
 
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
 
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
 

そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
 
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
  
特攻についてのお話し
 
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
 

うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
 
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
 
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
 
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
 
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
 
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
 
Q、参謀というのは
 
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
 
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
 
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
 

そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
 
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
 
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
 
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
 
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
 
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
 
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
 
 
~笠井さん、戦友に会いに行く~ 
 

だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
 
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
 
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
 
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
 
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」

私は必ず言いますけれどね。
 
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
343海軍航空隊 全パイロッデータベース

2016年7月 4日 (月)

「雷電」パイロットへのインタビュー

Raiden

今週は「雷電」のパイロットだった方へインタビューを行います。
今回インタビューする方は、厚木の第三〇二海軍航空隊で
赤松貞明中尉の二番機を務め、B-29やP-51と空戦を経験されました。
(下記の動画4分33秒辺りで登場する指導役の搭乗員が赤松さんです)
 
最後の空戦では頭部に被弾、負傷し、片目の見えない状態で
不時着成功しました。「雷電」での不時着は難しく
事前に電話でお話しした際、
 
「雷電で不時着することは、これはもう殉職と同じですから」
と語ってくださいました。
 
「雷電」の着陸速度は87ノット(大凡時速162キロ)です。
ゼロ戦二一型の着陸速度64.5ノット(同119キロ)と比較しても
高速であることがわかります。この速度が着陸時における難度を上げ、
訓練時間の短い搭乗員には恐れられました。
速度だけの問題ではありません。雷電は翼面荷重がゼロ戦に比べて
恐ろしく低く、不安定な飛行機でありました。
 
とはいえ、戦後、「雷電」を鹵獲しテストした連合軍には好評価でした。
機体にトラブルを抱えず、きちんと訓練時間を重ねていれば
問題の無い着陸速度でした。
 
当時から「殺人機」「欠陥機」などと不名誉な噂が払拭できない
「雷電」ですが、数ある海軍戦闘機の中で
最も多くのB-29を撃墜した機体です。形はズングリムックリで
お世辞にもスタイルが良いとは言えませんが、
パワーだけは飛び抜けており、他を寄せ付けない
迫力がありました。そうした魅力から「雷電」に
根強いファンがいるのも確かです。
 
「雷電」について、今回は掘り下げて行きたいと考えています。
 
※画像は352空の雷電
 


YouTube: [日本軍] 局地戦闘機"雷電(らいでん)" Mitsubishi J2M"Jack"

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年5月 7日 (土)

模型製作代行「神雷工房」様のご紹介

52型と21型A4_2
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型・プラモデルの代行製作(委託製作)の神雷工房様のご紹介です。
  
当サイトでもお世話になっております神雷工房様は
リアルなゼロ戦模型の製作に特化したプロモデラーさんの工房であります。
ゼロ戦以外にも艦爆、艦攻、陸軍機など何でも製作OKです。
(写真は陸軍の四式戦疾風です。他にも未公開の作品がいくつかありますので
順次アップしていきます)
  
模型製作代行業者は他にもありますが、神雷工房様の特徴としましては

製作者が実際に多くのゼロ戦パイロットや整備兵の方と接してきましたので、
証言をもとにしたリアルな機体が製作可能なのはもちろんのこと、
なんといっても丁寧、親切なやりとりです。細かい仕様や色の好みなど

わからなければ史実に基づいたアドバイス、施工もしてくださいます。
 
予算などもやさしく相談に乗ってくださいますので
おすすめです。
 
詳しくは下記サイトをご覧ください。

神雷工房サイト
http://jinraikohboh.web.fc2.com/

神雷工房ブログ
http://jinraikohboh.blog.fc2.com/
 
  

今後、神雷工房様の模型を当サイトのコンテンツでも使用していきます。
(同一ページ内にクレジットを明記しますのでご参考下さい)
 

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Photo

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2016年5月 3日 (火)

青木義博中尉(稲妻の雷電) パイロットデータベース

青木義博中尉の雷電

青木義博中尉の雷電


稲妻マークが描かれた雷電、その格好よさから

プラモデルのパッケージなどにも描かれ有名な機体であるが
搭乗員の青木義博中尉の人物や戦歴について言及した資料は
殆ど残されていない。この頁では青木中尉の調査を重ね、少しずつ
完成に近付けていこうと考えている。

 
青木義博(あおきよしひろ)中尉は
予備学生11期出身で大学在学途中から海軍に入隊。
青木予備中尉とも呼ばれる。青木中尉の所属した
第352海軍航空隊は予備学生出身の指揮官が多い
特異な航空隊でもあった。
 
台南海軍航空隊時代
青木中尉の実戦は台南航空隊時代から始まる。

ここで記す台南海軍航空隊(以下台南空)は
南方へ進出した有名な台南空でなく二代目となる。
 
昭和18年4月に開隊した二代目台南空は
艦上機の実用機教程を担当する部隊に防空用の
乙戦隊(雷電)と丙戦隊(彗星)が必要となった。
台湾は陥落したマリアナに次ぐ決戦場のフィリピンの
後方基地にもかかわらず、実戦用ナンバーの航空隊が置かれていなかった。
(土地の名称がついた航空隊は訓練航空隊で、番号のみは実戦部隊となる)
 
台湾および北九州は、既に支那大陸の成都に配備されつつあった
超空の要塞B-29が爆撃可能な距離にあり、支那大陸南部からは
B-24の行動半径にも含まれた。そこで零戦のほか雷電の派遣が
決定された。
 
青木中尉、雷電との出会い~P-38との初空戦
昭和19年7月初旬、台南空の戦闘機隊分隊長だった青木中尉と
高橋茂上飛曹ら三名は厚木基地へ赴き雷電の講習を受ける。
講習終了後に鈴鹿基地へ移動し、雷電二一型3機を受領。
先ずは、この雷電3機を台湾へ空輸すべく鈴鹿基地を離陸した。
 
ところが、この内1機は鈴鹿で片脚が出ずに破損。
代機をもらったが、追浜と沖縄で1機ずつ破損したため
台南基地へ空輸できた雷電は1機のみであった。
この1機に青木中尉が搭乗し、台南で飛行訓練を行った。
 
昭和19年9月頃、青木中尉は、台南空で雷電の
訓練飛行中、大陸から飛来したP-38と遭遇、空戦に入った。
この空戦は青木中尉が急操作で横転降下したため
未決着に終わった。
 
同年10月中旬の台南沖航空戦で台南空の零戦隊は
邀撃戦に参加したが
青木中尉の雷電は出撃せずに終わった。※3
 
第352海軍航空隊へ
昭和19年12月下旬、台南空(二代目)が解散。青木中尉は台湾より
長崎県大村へ移動し、第352海軍航空隊乙戦隊第三分隊長となった。
 

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▲青木義博中尉と雷電

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▲昭和20年冬、青木分隊長機を背に針路を検討する予学出身搭乗者。
左から菊地少尉、山本少尉、星野少尉、金子少尉。
 
 

稲妻の雷電


▲小隊長機の稲妻マーキングは写真が残っていないので推定。
 
稲妻マークの雷電誕生

第352海軍航空隊乙戦隊では、青木分隊長の着任後
雷電にユニークな塗装を施した。分隊長機には2本、小隊長機には
1本の太い稲妻を胴側に描いた。※1
 
「雷電だから、稲妻でいこう」
と言い出した栗栖幸雄飛長(特乙一期)の発案とされる。
おしゃれな青木中尉はずいぶん気に入ったようだ。※1
 
昭和20年1月6日、大陸・成都基地より北九州へB-29が来襲。

第352海軍航空隊の主力、雷電隊はこれを迎撃したが
このとき青木中尉が出撃したかは不明。さらに
4月末より約三週間、第352海軍航空隊は雷電集成部隊
(他航空隊と協同した雷電隊)に編入されB-29邀撃にあたる。
稲妻マークのアイディアを出した栗栖飛長もB-29を一機撃墜している。
   
二本の稲妻が描かれた352-20号機は、青木中尉が搭乗する以前から
士官に主用されており、乙戦分隊長杉崎直大尉、先任分隊士の
沢田浩一中尉が搭乗し、青木中尉に引き継がれた。
 
青木中尉が稲妻マークを描いた機体に搭乗したのは

大村時代までで、鹿屋進出後は、目立ち過ぎを考慮したのか
明確な理由は定かでないが、稲妻マークなしの352-37号機に
乗り換えとなった。※2
 
昭和19年6月8日、第352海軍航空隊空乙戦隊は

岡本俊章大尉の指揮で鳴尾(兵庫県)へ後退。
搭乗員は第332海軍航空隊へ編入される。
岡本大尉は築城(福岡県)の203空に転じた。
 
このとき、青木中尉は航空神経症にかかる。
航空神経症は気圧調整の無い航空機で高高度の飛行を続けることにより
過度の気圧変化や酸素不足となり、頭痛、めまい、吐きけ、だるさ
記憶力減退、呼吸困難などの症状を引き起こす病。疾病により
青木中尉は夜戦隊付の身分で大村に残留。終戦を迎えた。

 
青木中尉の戦後
下記サイト「旧軍戦史雑想ノート」様に依れば
青木中尉は復員時に大尉。生きて終戦を迎える。

 
戦後、海上自衛隊に入隊しヘリコプターに搭乗したが

昭和37年、事故によりヘリコプター事故により殉職したと記されている。
これを見て、海上自衛隊の事故記録を探ったが、当該の記録が
見当たらないので今後もよく調査を続けることにする。
※4
 
戦中は雷電でB-29邀撃に身を挺し、戦後国の為に殉じた青木中尉を
忘れない。
 

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追記!こちらの本
『局地戦闘機「雷電」―海軍インターセプターの実力』の中に
青木中尉ご本人が書かれた手記が掲載されています。
昔、丸に掲載されたもののようです。
興味がある方はぜひ!

 
出典
※1渡辺洋二著『異貌の海鷲局地戦闘機「雷電」』284頁
※2『世界の傑作機No.61海軍局地戦闘機雷電』70頁
※3同53頁
※4旧軍戦史雑想ノートhttp://ameblo.jp/pico3298/entry-10000309129.html

2015年6月10日 (水)

原田要さんの話(5)紫電改よりも零戦21型が一番だった

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
篠原Q、原田さんは海軍のほとんどの飛行機にお乗りになっていますね

 
ええ、雷電や紫電改も乗ったし、みんな乗りました
大型の九六陸攻も乗っています。
 
Q、雷電や紫電改は如何でしたか
 
雷電だめ、紫電改もだめですよ。
ゼロ戦だって52型だの丙型だの、みんなダメですよ。
 
アメリカのB-29には届かない。向こうが1万メートルで
紫電改が後ろにつくとロケットを発動しちゃう。サーっと置いていかれる。
それで最後にB-29に対処するにはこれしかない(秋水の模型を手に取る)
この秋水はロケット機ですから1万メートル迄3分。1万4千メートル迄でも
4分程度で上がっちゃうんです。
それで30ミリを両翼に備えています。
これなら絶対に大丈夫、
B-29なんかへっちゃらだというんです。
 
そのかわりパイロットの養成が大変で、その頃になると、
アメリカの
グラマンが攻撃に来ていたから内地では訓練できないから、
霞ヶ浦から
千歳へ配属になって、パイロットの養成をしなさいと
言われました。
 
Q、プロペラの飛行機で一番良かったのはなんですか
 
プロペラの飛行機で一番良かったと思えるのは私は最終的に
零戦の21型。佐伯航空隊で初めて乗りました。
 
それまで九六式艦上戦闘機だったのですが
この九六戦も堀越さんのグループが開発した戦闘機ですけれど
九六戦は行動半径が短い、攻撃兵器が貧弱でした。
 
Q、ゼロ戦(21型)を佐伯航空隊で初めてご覧になって如何でしたか
 
初めて見た零戦は格好良かったですね。私がこれに乗れるのかと。
九六戦と違って、ゼロ戦は随分大きいという印象を受けました。そして
脚が入ってしまう。骨組みが強化してありますし
翼内から20ミリという強力な
弾が撃てる。加えてプロペラの圏内からは
九六戦と同様に7ミリ7も撃てる。
300リッターの増槽タンクの他に
翼内、胴体に燃料をたくさん積める。10時間
以上飛んで大型機を
掩護できるんです。エンジンはダブル式になっている。
これが出来てね、すごい飛行機だなあ、と思っていたんです。
 
Q、ゼロ戦と九六戦を乗り比べて違いましたか
 
ええ、だから操縦が重くて大変だろうと思って、初めてゼロ戦に乗ってみた。
そうしたら誠に軽い。九六戦より自由がきく。素晴らしい飛行機だなあ、と
思いました。九六戦と全然違う。
 
Q、21型が一番良かったのですね。
 
 
日本の零戦として一番長い間、戦ったのが21型だと思います。
守る、攻める、安心感、三拍子揃っていた。
初恋の飛行機ではないかな。
 
素晴らしい飛行機だなぁ。これがいわゆる一番
武士の気持ちに近い、そのまんま合う飛行機だと思いました。
 
私達はゼロ戦に乗っていれば「絶対に負けないんだ」という自信

持っていました。そして、そのゼロ戦に掩護される爆撃機や
攻撃機も
「ゼロ戦がついているなら大丈夫だ」という安心感がありました。
 
ただ、世界中からどんなに驚かれるような零戦でも最終的には悲劇になる。
アメリカの方もF4FがF6Fに、
どんどん新鋭機が開発される。飛行機だろうが
人間だろうが
最初の功績に甘んじていると大変な事になります。
 
ゼロ戦はその後、エンジンの馬力を上げたり翼を短くしてみたり、排気管を
単排気管にしてみたりと、少しずつ良くはなっているんだけど
21型が一番良かったですね。
 
だから最終的に私が飛龍(※1)から飛び上がったのも21型ですよ。
飛龍の飛行甲板で、最後にひとつ寄せ集めの飛行機ができたんです。
私は飛行長のすぐそばで助手をしていたからすぐお前上がれって言われて
ああ、今頃こんな時に、よく21型あったなと。結局は信頼があったから
最後に寄せ集めの飛行機が21型で出来たんじゃないかなと。
恵まれています。
 
つづく
  
※1飛鷹かも?
 

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21型と52型の違いについてはこちら
 

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-------------- 

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改


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2015年1月31日 (土)

雷電戦闘機の戦い

01

雷電(局地戦闘機)

▲雷電局地戦闘機/昭和20年 厚木飛行場・第302海軍航空隊
赤松中尉搭乗機(二一型)
 

局地戦闘機【雷電】一一型(J2M2)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分38秒
最高速度/596km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,348kg 全備重量/3,210kg 燃料搭載量/420L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/160kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×4 爆弾30kg×2
正式採用/昭和19年10月? 生産機数/155機
 

局地戦闘機【雷電】二一型(J2M3)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分50秒
最高速度/611km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱280機 高座海軍工廠50-80機
 

局地戦闘機【雷電】三三型(J2M5)諸表
発動機/三菱「火星」二六型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/8000m/9分45秒
最高速度/614km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年--月 生産機数/30-40機

青木義博中尉の雷電
▲第352海軍航空隊青木義博中尉機

02

雷電とは 
局地戦闘機「雷電」は海軍がインターセプター(迎撃機)の必要性に
早くから着眼し、零戦に次いで開発が進められた戦闘機である。
設計開発は三菱重工。堀越二郎博士をリーダーとして
零戦とほとんど同じ研究チームで昭和15年頃から行われた。
開発には多くの困難が伴い、正式採用は昭和19年10月となった。
開発元である三菱重工による量産のほか、高座海軍工廠でもライセンス
生産を行い、総計400-500機が完成したといわれる。
昭和19年末より実戦配備された。
 
雷電は零戦とまったく性格の異なる戦闘機で
その大馬力をもって、高高度で侵入する敵爆撃機(のちのB-29等) 
を捕捉し、強力な火力を持って一撃離脱で撃墜するという
主旨で生まれたため、空戦には不向きとされた。
また航続距離も短いため、基地上空の防衛に徹するとされた。

03

雷電の評価
「雷電」は多くの殉職者を出した殺人機、欠陥機と呼ぶ者も多い。
元搭乗員に雷電について質問すると、開口一番に「あれは欠陥機じゃ!」
と述べるなど、その評判は決して良いとは言えない。
 
殉職事故
試験飛行の事故と欠陥の解明
昭和18年5月16日、正式採用前のテスト飛行で早くも事故が発生した。

帆足大尉の搭乗した2号機が離陸直後に墜落、大炎上し殉職。
20mほどの高度から突然機首下げ姿勢に移り、そのまま畑に墜落したという。
 
同年、鈴鹿飛行場で三菱の柴山操縦士が雷電10号機で離陸。
脚を入れた直後に操縦桿が強く前へ引かれ、またも機首下げ姿勢となった。
操縦桿を戻そうにもびくともせず、とっさに脚を下げてみると嘘のように
操縦桿は動いた。原因は9月に判明した。
尾輪のオレオ式緩衝装置が
曲がって、脚上げ時に右昇降舵を連結する
軸管に干渉しその圧迫で
操縦桿が下がったことが判明した。
尾輪支柱の湾曲と、支柱と昇降舵
連結管との隙間の少なさが問題であり
クリアランスを多く設けることで
解決した。
 
昭和19年8月2日
堤光臣上飛が厚木周辺の畑へ墜落。雷電一一型は
訓練中、水平試姿勢での背面キリモミに陥り裏がえしのまま
回転しながら高度を失ってゆき脱出不可能のまま地面へ激突した。
 
昭和19年12月15日
302空、入江大尉の雷電から「エンジン不調、降着する」との電話(無線)あり
飛行場へ滑り込んできた。脚が出ていないので赤旗を持った搭乗員たちが
降着地点へ走って行った。(赤旗とは脚が出ていないので着陸をやり直せの
合図。当時は脚を出し忘れたまま着陸する事故が多かったため、これを
専門に見張る地上員を配置した)
赤旗を見た雷電はエンジンを一杯かけて
着陸をやりなおすために
旋回をはじめたが、エンジンがとまったとみえて
スーッと相模原空の格納庫の向こうへ落ちていった。
 
これを目撃した、雷電隊のエース寺村中尉は
「なぜエンジン不調なら着陸をやり直さず、脚の出ていないまま

滑り込ませなかったのか。そうすれば完全に助かっていたのに。
エンジン不調で滑り込んでくる飛行機に赤旗を振って
やり直しを命じるやつがあるか」と憤った。
 
このほかに、昭和19年12月一ヶ月に4、5回、
新任搭乗員の事故が相次いだ。機体の不調を告げる電話連絡が
あったものの未帰還となったケースでは原因の究明もできず
単純に操縦技術未熟故の事故として片づけられてしまった。
 
その噂は瞬く間に広がり雷電は殺人機、あるいは欠陥機などと
呼ばれ、多くの搭乗員の忌み嫌う存在となった。
 
岩本徹三の雷電評価
「大型機を攻撃するなら良いが空戦では零戦に劣る」

昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、
零戦と比較し次のような感想を述べている。 
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかも
しれないが、敵の戦闘機相手では零戦に劣る」 
 
美濃部正大尉の雷電評価 
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」
彗星夜戦隊「芙蓉隊」で有名な美濃部大尉(のち少佐)は
20年5月に302空で零夜戦、月光の第二飛行機隊長を務めており
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」と
雷電乗りに皮肉な大声を浴びせた。
 
 

04

羽切松雄中尉の雷電評価
「そうだ!雷電なら勝てる!」
横須賀海軍航空隊テストパイロットであった羽切松雄中尉は
当初、雷電を失敗作と考えていたが徐々にその必要性を
感じるように至った。以下は新兵器実戦記より引用しながら書く。
 
「雷電はとにかく零戦と違って若い搭乗員では乗り切れまいということを感じた
それ以降、雷電はあらゆる方向からけちをつけられ、この飛行機はダメだと
いう結論になった。
スピードは出るけれど航続距離が短い。全速で1時間半
だから、
これは空戦には向かない。(この回想は昭和18年頃と推測)
三菱は既に量産に入っていたが、雷電は海軍の飛行機としては
失敗作であると私たちは思っていた。
 
零戦 vs 雷電
しかしそのころ、前線ではすでに零戦は苦戦していた。
P-38が出ていたしF6Fも出ていた。そこで前線から盛んに
雷電と、雷電の出現を
待ちこがれていた。しかし我々は前線へ送っても
空戦がやれるかどうか首をひねった。
対零戦の空戦をやってみると
雷電には空戦フラップがついていても零戦とそれほど差がない。

確かに雷電は上昇力とスピードに秀でていたが
そのほかにはとりどころがなかった。やがて厚木に302空ができ
雷電隊が編成された。若い搭乗員の事故が絶えなかった。
これは決して雷電が悪いのではなく、雷電の性能が悪いのだと
私たちは言っていた。
雷電の空戦フラップは単機空戦をやりながらGを
かけてゆき
それが2G、3Gになるとひとりでに出てくるようになっていた。
翼面荷重を大きくするから旋回半径を小さくすることができたがお慰み程度
しかなかった。
 
ソロモン進出後、零戦に乗って毎日激しい空戦を繰り広げているうち
にふと雷電を思いだした。「そうだ!雷電なら勝てる!」
敵の戦闘機は零戦より遥かに優秀であって米軍機は一撃離脱が
確立されつつあった。
そのため零戦は多くが奇襲でやられ

敵機には追い付けない。どうにもならなかった。これに対応できるのは
雷電だと気付いた。
雷電の上昇力をもってすれば急激に高度を
とることができるので上から降ってこられることも少なくなり、逆にこちらから
降っていくチャンスも多くなる。
逃げる敵にも追いつける。敵は現在
単機空戦を避けるのであるから、空戦性能への物足らなさは
このさい問題にならない。それに雷電には20mm×4という
重武装がある。雷電の航続距離の短さも基地の上空戦では欠点とはならない。

 
いままでになかった重戦闘機「雷電」
以上が羽切松雄中尉の回想であるが、考察するに
零戦が手足を動かす如く、非常に乗りやすい飛行機だったため
ようやく飛べるようになったばかりの搭乗員では
雷電を乗りこなすのは難しかったのではないだろうか。
着陸時の視界は狭く、速度も速い。翼面荷重も高いので
零戦のように操縦も容易ではない。
 
戦後、雷電を鹵獲しテストした米軍によると離着陸時の視界が若干悪いと
されたが、それ以外は良好で、着陸時の速度もさして問題にならず
傑作機と称された。テスト時の測定基準が日米では若干ことなるものの
最高速度も671 km/hと大幅に増大し(高オクタン燃料によるものか)
P-51に匹敵するスピードが出ることを証明した。
 
日本と欧米では戦闘機の設計思想も違う。米P-51の着陸速度も
雷電と大差がなく、ごく通常ということだろう。少なからず
日本の搭乗員がそれまで(零戦)と全く違う重戦闘機、雷電に慣れていなかった
というところが要因のひとつとして少なからずあると感じる。
大戦末期では老練の搭乗員も少なく、事故も比例して多くなる。
  

05_2

雷電は傑作機だ

もっとも多くのB-29を撃墜
一方で、もっとも多くのB-29を撃墜したのは、零戦でなければ紫電改でも
ない。雷電である。
 
雷電の欠点も次々改善され、
高高度においても油温度は下がらなくなるし
高高度における機銃の不発もほとんどなくなった。さらに発動機のシールドを
完全にして雑音の防止に努め、空中線は折り返しその短さを補った。
滞空時間を長くするために、その巨大な胴体内に増槽をつけてしまった。
 
電話(無線)も良好で、地上からの受信はもちろんのこと
送信も感度良好であった。雷電のコールサインは雷で
「こちら雷十一番、空戦に入る、こちら雷十一番、空戦に入る」
と逐次地上と僚機への伝達を行った。
雷十一番とは、雷電隊一分隊一小隊一番機を示す。
高度3000メートルを越えると酸素マスクへ酸素が供給される。 
 
302海軍航空隊と雷電隊

第302海軍航空隊は内地空襲避け難しと感じられるようになった
昭和19年の春、横須賀航空隊において編成されてその後厚木飛行場へ
移った隊であった。
司令は小園大佐。飛行長は水上機出身の西畑中佐。
司令や飛行長のいる302空の司令部は横須賀にあり、厚木基地は
その派遣隊があり、飛行隊は全部
厚木にいた。厚木派遣隊長は
山田少佐であった。
 
302空は三飛行隊より成り
第一飛行隊は雷電2個分隊、零戦1個分隊
第二飛行隊は月光2個分隊、銀河1個分隊
第三飛行隊は彗星2個分隊、これに各整備分隊と
兵器整備分隊が付属されて編成されていた。

月光は初めから夜間戦闘機であるがほかの銀河、彗星、零戦は
ここで斜銃を取り付けて
夜間戦闘機として使用した。
厚木の夜間戦闘機隊は月光、彗星、銀河、彩雲、零戦の猛者で
雷電隊は航続距離が短く帝都上空の邀撃のみであったが
夜戦隊は名古屋まで邀撃可能だった。
雷電隊は滑走路の広い木更津基地も合わせて運用した。
302空の雷電は少なく、50機近くある中に完備状態で実戦に
使えるのは半数ほどにすぎなかった。
雷電隊編成は以下の通り。
 
雷電第一分隊長、寺村純郎中尉
雷電第二分隊長、赤松貞明中尉
 

05_3

高度一万メートルの景色
雷電隊のみが見た世界
 
雷電隊第一分隊長の寺村純郎中尉は次のように記している。
以下、東京空戦記より引用
 
一万メートル上空は静寂そのもので
さびしいさびしい世界である。

垂直の視界は良いので海岸線がはっきり見える。
眼下に相模湾の波打ち際が白い線となって見え
江の島や三浦半島が見え、遠くには九十九里の海岸
そして関東平野の緑、その周辺の山々、その山々の間に
一際そびえ立つ富士、さながら正確緻密に作られた箱庭
を見るようなものであった。

猛烈な西風が吹いているので機首を西に向けて
飛んでいるときのほうが多い。
飛んでいるのであるが、飛んでいる気持は少しも無い。
計器の速力は160節近く出ていても、付近には何もなく
地上の目標は一万メートルの遠くにある。
江の島上空一万米も小田原上空一万米も
地上を見る感じは大差がない。
空中にただ浮いている感じである。
特に旋回している間などは空中の一点で
飛行機の翼が静かに傾いて機首がゆっくり回っていく
ような感じしかしない。実に静かである。

さびしいさびしい世界である。
手も足も最小限度の動きしかしないで
じーっとしている。動けば寒さが身にしみこむ
とでもいうように段々風防のガラスが曇ってくる。
手で拭いても駄目である。こうして来るか来ないかわからない
B-29を待っている一時間は全く長いものであった。

引用おわり
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

06

◆坪井庸三中尉
唯一F-13(B-29の単機偵察型)を撃墜した雷電搭乗員
南方帰り、水戦出のベテランで単機侵入のB-29を撃墜した
唯一の搭乗員。
雷電でB-29、4機、F6Fを3機撃墜。
 
昭和19年12月3日
午後2時から一時間半にわたり数十機ずつ梯団になり、富士山の北方を
廻って帝都上空へ侵入せしB-29
約70機を捕捉し犬吠埼上空で
このうちの一機を撃墜。
 
昭和20年2月12日、
F-13を犬吠埼上空で撃墜
F-13はB-29の偵察機バージョンで単機高速で日本上空に侵入する。
爆撃任務と異なり、機体も軽く単機で逃げ回るため、これを捕捉して
撃墜に至るのは不可能といわれた。
(B-29爆撃編隊は一度爆撃コースに入ると進路変更しない)
  
2月16日、F6Fを2機、千葉県茨城県上空で撃墜
2月17日、F6Fを1機、千葉西方で撃墜。
 
4月1日、F-13と刺し違え戦死。
賑やかな昼食だった。わあわあ騒いでいるうちに
「雷電隊一コ小隊発動発進」の令
が来た。
「忙しいこっちゃ」と昼飯を食っていた
坪井大尉が飯を半分食ったまま
立ち上がって落下傘バンド
をつけはじめた。飯を食い終わっていた寺村が
「おい坪さん、俺がかわろうか、もう飯はおわったから」というと
手を振り振り「いいよいいよ」と言いながら出ていった。
それが坪井最後の姿となった。
 
坪井は単機のB-29を捕捉し得意の直上方より一撃し
B-29の後方をかわると同時に敵弾によって機は火を吐き、機と運命を
共にした。
指揮所には食べ残した昼飯が彼の帰りを待っていたが。

 
◆赤松貞明中尉
日本海軍のエース・雷電でP-51を撃墜

雷電隊第二分隊長
 
おおよそ350機を撃墜(うち
支那事変中243機、太平洋戦争ではおおよそ
百数十機)し
世界記録保持者と戦後も自負した海軍のエース。
零戦、雷電双方でP-51を撃墜した唯一の搭乗員である。
 
雷電でP-51を撃墜
赤松の自伝日本撃墜王によると空戦の模様は以下のとおりである。
終戦間際、
敵の大編隊が東京をあらしまわってゆうゆかえってゆくとき
赤松は送り狼で追いかけていった。城ケ島の真上を敵は真っ黒な編隊で
帰って行った。
味方は赤松を先頭に雷電5機。その後ろから零戦が5機
ついていった。
大編隊の殿を敵は必ず二機のP-51が交互に警戒してゆく。

赤松はこのうちの一機の後から隠れてつけていった。敵機の真後ろというのは
敵の廻る方へ廻るほうへととつけていって常に相手機の死角の中に入って
いることをいう。
真後ろと真下は敵から見えないのでその方向に隠れ隠れ
してつける。
そして頃はよしと思うころ有利な位置定めて突如P-51を射撃。
そのうち敵の燃料タンクから火を噴き、火だるまになって墜落していった。
 
もう一機のP-51が友軍のやられたのを見て垂直旋回で
廻り込んできて敢然と赤松機を攻撃。赤松はすでに全弾撃ち尽くしており
逃げるわけにいかないので(追いかけてくる)反対に敵機の方向に向かって
弾を撃たせ、そのうちに振りきって逃げた。
 
唯一、赤松は
「雷電は良い飛行機だ。ただもう少し燃料がつめたらな」と語っている。
 

関連記事
赤松中尉の戦後
 

◆寺村純郎中尉
雷電でB-29、F6Fを撃墜

海兵71期・302空雷電隊第一分隊長
昭和20年、2月10日銚子上空でB-29を撃墜。

寺村中尉の回想~東京空戦記より

実際の事をいうと雷電にのらねばならぬと決まったときは
少々うんざりした。今まで乗っていた零戦と比べ
雷電は悪評嘖々たるものがあった。

だが私たちがその雷電の離着陸訓練をはじめ
編隊飛行、特殊飛行、空戦訓練と進んでいった頃には
もう雷電は私たちにとって赤の他人ではなくなってしまう。
殺人機だということまで誇りになるのだ。

ドングリに翼をつけたような無様な恰好までが
ほほえましく感じられる。
猛牛が突進するように滑走路を走ってゆく姿も
まんざらすてたものではない。

寧ろ人の嫌がる雷電の搭乗員であることを
誇りにする気持ちであった。雷電の日本一を誇る
上昇力や速力、火力その他重武装を自慢にした。
敵機を一機おとすごとに桜のマークを描いた。
整備員たちは自分の受け持ちの飛行機の座席の前に
小さな神棚を作って武運を祀ってくれた。
座席の前の計器盤にはあちたこちらから
送られたマスコットがぶらさがっていた。
空襲の旅にそのマスコットと一緒に飛びたった。
 

07

8月15日の雷電隊出撃
寺村中尉は次のように回想する。
   
8月14日
「どうやら無条件降伏らしいんだ」
その言葉を初めて聞いた寺村は悲しみと憤りを覚えたという。
部長以上は一週間も前から司令から
その情報を知らされていたというのだ。
 
302空の夜戦隊が可動全機で銚子沖の敵機動部隊に薄暮攻撃を決行したのは
2、3日前。
無事に帰ってきたものはほとんどなく大きな犠牲を払った。
雷電隊も茂原から出撃する特攻隊の直掩に出るように命じられたのも
2、3日前だった。
特攻隊の援護では身を持って特攻機を守らねばならず※
寺村は今度こそ最後だと覚悟を決めていた。
 
※雷電は航続距離の短さから最後まで特攻機に使用されることはなかった。
しかし特攻隊の掩護といっても、特攻隊を見送って自分らだけは帰ることは
出来ない。敵機に体当たりするなど、概ね自分も死にに行くようなものである。
  
多くの搭乗員が終戦を控えながら、数日前に戦死した。
その舞台裏がこれである。寺村は
馬鹿にするなと怒鳴りたくなったという。
司令は徹底抗戦の構えを崩さず、全海軍部隊に降伏反対の電文を発進
するのだという。
 
寺村は無性に腹立たしく、寂しく酒をガブガブ飲んで酔いつぶれて寝てしまった。
 
15日
朝方、従兵が何度もおこしに来た。
 
「分隊長グラマンの空襲です!」

「なあに笑わせるな。今日日本が降伏しようというのに
なにが空襲だ、ほっとけほっとけ」
 
寺村はまたうつらうつらと眠りにはいった。
 
「分隊長、雷電発進です!」
 
「何、発進だ!ふざけるな!日本は負けたんだ!」
 
ふてくさって毛布の中に潜り込んでそしてまたうつらうつらと眠ろうとしていた。
そのとき雷電の爆音が響いた。
 
「しまった!」
 
かれは急いで飛行服を着て指揮所へとんで行ったが
すでに遅かった。雷電4機、零戦8機が離陸した後だった。
いままでどんなに飛行機が少ない日でも寺村は一番機として離陸できた。
そして最後の戦には乗り遅れてしまった。

 
このとき出撃した蔵本中尉は
「今日は絶対に生きて帰ってこない」
そう言って数少ない雷電を奪うようにして飛び立った。
まだ幼さの残る丸顔が印象的だった。
蔵本中尉はF6Fと空戦に入り不利な体勢から
これが最後の出撃と敢然とグラマンへ突撃した。
 
もうひとり、雷電で飛び立った
先任士官は寺村よりふたつ年下で
「早く雷電に乗せてくださいよ。そして分隊長の列機体にしてくださいよ。
分隊長を先に死なせませんよ」
そう言うのが口癖だった。零戦でP-51と戦い足に弾を受けて
びっこをひいていた。念願の雷電に搭乗し飛び立った。
 
そして二人とも帰らなかった。
これは8月15日の午前中のことである。
 
 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

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▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

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高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

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零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

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▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

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▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

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作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年4月14日 (月)

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2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


最後までご覧くださりありがとうございました。
 

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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月18日 (土)

ゼロ戦Tシャツ

ゼロ戦Tシャツデザインを一新し、再入荷しました。
僅かですので早めにお求めください。
 
「この色とサイズが欲しい!」という要望はたいへん
ありがたいのですが
毎度少ロッド生産ですので一種類でも売れてしまうと
しばらくお作りすることができません。何卒お許しください。
 
また、商品を置いてくださる小売店様も探しております。 
お気軽にご連絡ください。

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ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)

2014年1月12日 (日)

岩本徹三の戦後2

以前、書きました岩本徹三の記事
貴重なコメントを頂きましたので
紹介させて下さい。(勝手にすみません)
 
以下、旅好きなおっさん様のコメントより

-------------------

ちょっと岩本さんの故郷、島根県益田市に
旅してきました(生まれは樺太です)
 
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場を
ちょこっとのぞいたりしてきました。工場は戦後を忍ばせる
古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと
勤めていたのかと思うと少し悲しかった。
 
地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという
情報があり 電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に
墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を
見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 
 
----------
 
以上です。
旅好きなおっさん様、貴重なコメントをどうもありがとうございます。
私も近くを通った折にはお墓参りしたいと考えています。

2013年11月13日 (水)

日本の戦跡一覧

日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新

Map_3

地図の拡大版はこちら  

 
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
 
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。

 
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。 


◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。

◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺

◆宇都宮飛行場

◆洞窟戦車工場(那須烏山市) 

 
◇茨城県
◆予科練平和記念館

◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
 
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
 
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
 
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
 
◇千葉県
◆房総半島戦跡群

◆館山航空隊地下壕

◆「震洋」基地

◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。 

◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
 
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
 
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
 
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
 
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
 
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む

◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
 
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。

◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。

◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。

◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。

◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。

◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
 
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
 
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
 
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
  
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。

◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
 
◆由良要塞
 
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。 
入場無料。
 
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
 
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
 
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
 
◆番外編~素晴らしい四国
 
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
 
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
 
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
 
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ) 
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
 
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
 
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
 
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
 
◆大村海軍航空隊

◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
 
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
 
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非 
 
◆知覧特攻平和会館
 
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)

知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。 
 
◆神雷部隊「桜花」別杯の地

桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。 
 
◇沖縄県
◆南部戦跡

2013年7月24日 (水)

岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

関連記事
岩本徹三の戦後その2

赤松貞明中尉の戦後

岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース 



出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。



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【原田要さんの話】
(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
(2)南京攻略戦掩護とパネー号爆撃事件
(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗って
(6)関行男大尉の教官を務める
(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

【紫電改パイロット笠井智一さんのお話】
零戦と中部太平洋戦線
紫電改と第343海軍航空隊

【「翔鶴」「隼鷹」零戦隊パイロット増山保雄さんのお話】
航空母艦への着艦・発艦方法を語る(動画)

【一式陸攻搭乗員天野さんのお話】
(1)一式陸攻のイロハ(クルーの役割)
(2)東京初空襲とミッドウェイ海戦
(3)ソロモン海戦水面スレスレでの雷撃敢行

【飛燕パイロット竹田五郎さんのお話】
高度1万メートル「飛燕」「五式戦」B-29との空戦(1)
高度1万メートル「飛燕」「五式戦」B-29との空戦(2)

【中島又雄さんのお話し】
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