2021年6月 4日 (金)

飛行第29戦隊 四式戦闘機「疾風」台湾邀撃

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サンテグジュペリ最後の飛行

サンテグジュペリ 飛行機

サンテグジェペリの乗機、P-38の偵察機型F5-B。
白い機体には自由フランス軍のラウンデル(識別表)
 
サンテグジェペリは1944年5月、ドイツ占領下のフランス偵察のため
連合国となったイタリア・ボルゴ(ボローニャ)飛行場を離陸。
地中海上で消息を絶つ。
連合軍によるフランス・パリ解放まであと3ヵ月のところであった。

2021年5月 8日 (土)

都城飛行戦隊

飛行第102戦隊

飛行第102戦隊(飛行第百二戦隊)は都城飛行場を拠点とした
四式戦闘機部隊。
 
昭和19年7月、戦闘機隊の総本山、明野の分教飛行場である北伊勢飛行場にて
編成が開始された、飛行第101戦隊、102戦隊、103戦隊の全て疾風を主力とする
三個飛行戦隊から成る、同時に誕生した三兄弟の戦隊で都城を拠点に
九州全域の飛行場を移動し、本土防空戦、沖縄方面への強襲、制空戦闘、
喜界島を拠点とした特攻機の護衛に従事。稼働機が尽きるまで制空権を失い
熾烈極まる沖縄本島への反復攻撃を繰り返した。

零戦四二型 / 零戦42型

零戦四二型、零戦42型

◆存在したゼロ戦42型
零戦42型は一言で述べるならば、21型が52型にアップデート
される際に製造された21型と52型を繋ぐ為の試作機である。
 
52型の試作機が42型で量産型を52型と呼称する。21型と42型が
同じ製造番号で存在し52型が量産体制に入った頃には42型という
名称は抹消されている。これには諸説あるが、以下の図面記した
ように、42型と52型はデザインが異なるので、前例通り単純に
モデル番号を変更した説と量産機が42型では語呂が悪いので
52型と改めた説がある。
 
しかし乍ら、彗星艦爆などは43型が存在するし、試作・計画機とは
いえ紫電改は42型が存在する。 海軍機は僅かなデザインの変更でも
型式番号を変更していることから、零戦42型がそのまま量産機名称
となったと仮定しても不思議ではない。

零戦四二型、零戦42型◆なぜ零戦42型は完成機であるにも関わらず抹消されたのか
もちろん、零戦21型に次ぐ代表的なモデルである52型が仮に
42型として大量に投入された場合、連日の空戦で命のやり取りを
している搭乗員からは、語呂が悪いからやめてくれ、とクレームが
来ることは容易に想像がつくことも理解できるが。
 
次に、零戦42型とはどんな構造の機体だったのについて
述べて行こう。先だって、この記事に関しては調べるきかっけを
くださり、出典元を教えて下さった144ヒコーキ工房様に心より
御礼を申し上げます。ありがとうございます。
 
◆零戦42型のデザインについて
大きな変更点としては22型の翼端を450mm短縮し形成した。
(52型は500mmの短縮)それから、排気管脇の耐熱板が未完成
だった事から本機から採用された推力式単排気管は最下部のみ
機体の炎燃防防の為で80mm延長されている。他にはフラップや
補助翼が変更が繰り返されている。
 
零戦42型については、まだ謎が多い機体なので
この記事もアップデートを前提にご覧いただければ幸いである。

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出典
Scale Aviation Vol.22 / 2011.11
参考
144ヒコーキ工房

2021年5月 2日 (日)

P-51K

P51

0系新幹線

0系新幹線
戦後、GHQは我が国に航空機の研究と製造を禁止した。
翼を失った飛行機野郎達が再集結して
新幹線を作り上げたのは実に有名な話である。
 
びゅわーんびゅわーん走る。
そう、新幹線こそ当時から現在に至るまで
わが国の繁栄と力強さの象徴である。

2021年4月23日 (金)

Stuka!Stuka!Stuka!

Stuka

Junkers Ju 87 Stuka

2021年4月21日 (水)

キ201「火龍」

キ201火龍

キ201「火龍」(かりゅう)は日本陸軍が開発・試作が行われた
ジェット戦闘襲撃機である。海軍のジェット特殊攻撃機「橘花」と
異なり、機体デザインは中島飛行機が担当し、Me262を参考に
三角形の胴体断面を採用したがMe262よりさらに一回り大きい。
  
「火龍」のエンジンは静止推力908kgの石川島飛行機製作所
(のちの石川島播磨重工、現IHI)ネ130を二基搭載し
最高速度は852km/hで航続距離は、980km(なおMe262は最高
速度869km/hと殆ど同速度、航続距離は1,050kmである)
 
武装は ホ5機関砲20mm二門とホ155-Ⅱ機関砲30mmを二門の
合計四門であった。全備重量は7,000kgで実用上昇限度は
12,000メートルであり、大口径の火力を用いてB-29を撃破する
目的が主となる運用計画とした。
 
試作機1号機は昭和20年12月に完成予定で群馬県の中島飛行機
太田製作所で制作が進められていたが、完成の雄姿を拝む事なく
終戦を迎えた。