2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

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零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年7月17日 (日)

旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所(稚内市)

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◆「ニイタカヤマノボレ」や「硫黄島決別電文」を中継した海軍通信所
北海道稚内市の戦跡を見学する。

この赤レンガの建物は海軍さんの通信所で
昭和6年に開設。
海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所と呼称した。
平屋の送信所施設、そして隊舎を備えた大規模な施設で
当時は鉄塔のアンテナが立っていた。それらを周囲の樹木に隠蔽されるように
なっている。現在でも周囲は深い森で、その面影は残したままだ。
 

有名な電文「ニイタカヤマノボレ」は、ここから択捉島、単冠湾の
南雲機動部隊へ中継された。真珠湾攻撃の歴史がここ稚内にもある。
 
その他には昭和20年、3月17日の硫黄島玉砕の際、最後の突撃および決別
電報を栗林中将から傍受するなど、最北の無線基地として
重要な電文連絡を行った歴史的価値の高い戦跡・史跡である。
 
◆深い森の中から突然現れる廃墟群
近年、赤レンガの老朽化が激しく、積雪により屋根は崩壊している。
現在は危険のため、立ち入り禁止となっており
見学にはガイドを伴う事前予約が必要。
 

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事前予約し、稚内市のガイドさんに
門を開けてもらい、中へ入る。

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深い森の中を進んでいくと、突然、目の前に廃墟群が現れる。
異世界へ迷い込んだような、
この雰囲気は当時のままだ。
 
◆所在地・アクセス
北海道稚内市声問村
稚内空港から道道121号線を南におよそ3キロ
恵北集落へ入り、1119号線を左折して間もなく
入口がある。
 
◆見学の問い合わせ先 
教育委員会教育部教育総務課
稚内市中央3丁目13番15号
総務管理グループ
23-6518(直通) 文化振興グループ 23-6056(直通)
 

2016年7月14日 (木)

猿払電話中継所跡

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猿払電話中継所跡
宗谷岬から南におよそ30キロ、
猿払村の浜猿払(漁港)付近に
猿払電話中継所跡が残されている。
  
この場所から五本の海底ケーブルが
樺太、真岡まで伸びており、北海道と樺太を繋ぐ中継拠点であった。
現在も海底ケーブルは残され、
ここ猿払では、埋め込まれた一部を見ることができる。

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昭和二十年、八月十五日、終戦。その五日後の二十日。
ソ連軍が樺太は真岡(まおか)に上陸を開始した。
民間人をも無差別に殺傷するソ連軍の進攻に対し、
日本軍守備隊ならびに取り残された民間人は徹底抗戦を
貫き玉砕した。
 
その際、真岡郵便局に交換手として勤めていた、若き女性9人が
いた。女性たちは北海道との通信を保持するため、自主的に残ること
決断し、最後の瞬間まで通信を続けた。
 
女性たちは刻々と迫るソ連軍の進攻に対し、最後まで
職務を全うし、ある者はソ連軍の攻撃で戦死、
そして、郵便局のすぐそばまでソ連軍が迫ると、残った者は全員
青酸カリで自決する。北海道、内地へ向けて行った
最後の通信が、ここ猿払の石碑にも刻まれている。
 
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
 
その最期の声を伝えたケーブルの一部がこれである。

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ここ猿払の海岸から、いまは異国となった樺太の望み、
殉じた九名の女性たちに哀悼の意を捧ぐ。

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猿払電話中継所跡へのアクセス
国道238号線から浜猿払の漁港・集落方面へ入る。
漁港の北側、「海王食品」に面する道を挟んだ反対側にある。
 

2015年9月29日 (火)

一式陸攻を見学(河口湖自動車博物館)

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。
ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が
見学できる場所です。現在、胴体と尾翼の修復まで終わり
残りは主翼のみとなりました。格納庫の隅に展示してあります。
 
一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、ゼロ戦と並んで
先の大戦の主戦力となりました。それにしても、
 
75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した
日本は凄い。それらを必死に支えた国民の底力に敬意と
感謝を表する次第であります。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ 
 
河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し
見学できる。それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。
8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも
かかわらず、多くの人が訪れていた。 
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館 
 
いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。
ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。三脚、自撮り棒は
もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み
禁止。i-padも禁止。
 
なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか?
こういう理由らしい。

一式陸攻 河口湖自動車博物館 

館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、
携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。私は
実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。
 

一式陸攻 河口湖自動車博物館


それにしても大きい。 

まずは機首の風防から見てみよう。
この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので
風防越しに内部が細部までよく見える。とても興味深い。
内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが
これだけでも満足。
   
風防に使われている。
アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。

 

一式陸攻 河口湖自動車博物館

 
▲一番前(ドーム型の先端)は爆撃手が座る。爆撃手の席は
よく見える。写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり
細部まで非常に緻密に復元されている。
 
爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、
床はアクリルの透明張りだ。
特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より
窓が多くなっており
良く視界が確保されている。
 
一式陸攻の水平爆撃
一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、
爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると
翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より
爆撃する。これを合図に、後続の機が続く。よって
一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。
単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による
網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。
 
戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を
卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。
戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。
 
地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって
7000メートル程度。地上目標は動かないから優秀な爆撃種が
一番機に乗っていればそれでよかった。
 
問題は艦船の爆撃である。
敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて
3000-4000メートルで行われた。これは対空砲火を避ける以外に
敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。
これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを
突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを
与えられない。
 
戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。
戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで
3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は
すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。
こればかりは運であった。優秀な爆撃手ともなると敵艦の
ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか
見極めたという。
 
一式陸攻の雷撃
一式陸攻の最も最初の活躍といえば
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの
レパルスの撃沈が有名である。
雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し
大凡30度の角度で入水。この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。
敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても
20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。
理想的な高度とされた。
 
ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの
超低空で飛行した。これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで
しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば
敵の弾は当たらないという考えであった。それで敵艦に突っ込んで行って
魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では
回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。
そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る
戦法に切り替えたのである。結果的にこのほうが被弾率は少ない。
 
しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや
並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか
かわせない。プリンス・オブ・ウェールスでは
腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。
さすがは伝統のロイヤルネイビー。敵ながらあっぱれと思ったそうである。
 
その後、ニューギニアに進出し、連日のように
連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると
一式陸攻の消耗は激しくなった。
 

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▲その右上が操縦席。
高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、
全体の配置などはよくわかる。全て復元が終了した暁には
ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。
 
一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要)
主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。
主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の
日本の飛行機だからそういう並び。
 
一式陸攻は原則、7人乗りである。
・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。機銃兼任)
・射爆員(爆撃・雷撃手。操縦員兼任の場合あり。機銃兼任)
・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任)
・電信員(機銃を兼任)
 
電信、偵察は兼任するケースが多い。大戦初期においては
7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。
 
これに編隊の指揮官や同乗者が加わると
8名~10名になる場合、また、戦争末期で
副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。
 
一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか?
よろしければ以下もご覧ください。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ 
  
(一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り
兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている)
 
主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。
後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり
そちらが機長となっている場合もある。
 
これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで
真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば
「操縦員は操縦に専念してればいい。後席の偵察員が見張りや
航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と
語っている。
  

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▲操縦席の風防を開けたところ。
これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。
 
内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は
諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも
色々な説がある。
 
機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。
 

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▲鮮やかな日の丸。入口のハッチがある。
 
誰がなんと言おうと、美しい。
鮮やかな日の丸に感激する。格納庫の中で最も兎角
目を引くのだ。白い縁取りがまたそれを際立たせている。
一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。
この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し
主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は
サンライズに思える。
 
一式陸攻の生存率
一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの
一式陸攻の任務は
敵陣へ攻め入ることが殆どの為、
脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる
ケースがほとんどであった。
 
一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為
一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。
敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、
護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。
とにかく、回避行動はとれない。 
 
戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを
聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく
滅多にお目にかかる機会はない。幸運中の幸運が重なり
生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが
終戦までに戦死している。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
  

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▲この機体はヤップ島のジャングルから回収されたもので
翼の付け根から後ろが完全なオリジナル。前方は図面に基づいて
復元された。
 

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▲バラレ島の一式陸攻
復元の際に参考にされたバラレ島に残された
一式陸攻一一型。 
 
関連記事
硫黄島の一式陸攻

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▲20ミリ動力銃塔。
 
電動の20ミリ銃塔。
敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。
敵戦闘機に捕捉された場合、
通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に
飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。
 

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▲上面の機体色と下面の灰色の境目が
グラデーションになっている。
実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて
いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。
 

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▲銘板
ステンシルで刻印された銘板。
復元機は第761海軍航空隊(龍)の機体である。
第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・
ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で
一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。
最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。
 
航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって
ペリリュー島玉砕戦に参加。中川州男大佐とともに
玉砕した。土田喜代一氏は第761海軍航空隊の
地上見張り員だった。
 
関連記事
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)東京初空襲
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦

 
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テニアン島へ行こう
帝国海軍ペリリュー航空基地跡へ行く
土田さんの天皇陛下拝謁
中川大佐玉砕の地へ
  

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▲主翼の断面を見ることができる。
 
復元が完了してしまえばこの部分は見られない。貴重である。ゼロ戦同様
主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に
アルミ合金が貼ってある。
 
一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。
このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと
言われているが、ちょっと待ってほしい。
 
ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから
日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。
それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。
当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。アメリカと戦争してみて
はじめてそれが不利なこととわかったのだ。

 

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館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに
掲示されていた。何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に
復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。
 

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一式陸攻の尾翼上部には「桜花」が吊り下げられていた。
桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し
切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。
私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。 
 
関連記事
桜花の胴体に日の丸がなかった理由
神雷部隊「桜花」別杯の地へ
鹿屋航空基地資料館
桜花カタパルト基地跡へ

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▲貼り付けられた桜花の説明文。
私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。
桜花は桜花だ。
 

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一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。
ここは日本で唯一ゼロ戦二一型を展示しているところでもある。
 
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骨格も展示されている。骨格が見られるのも全国でここだけ。
ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。
 
後ろは第263海軍航空隊(豹)のゼロ戦五二型
 

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こちらは一式戦闘機「隼」
ジュラルミン地剥き出しで、その鈍い輝き、質感などがよく見てわかる。
みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。
資料としての価値は最高に高いのだが。写真ではわかりにくいから
ぜひ足を運んでみてください。隼の後ろには戦意高揚のため
印刷されたポスターが展示されている。こういったものも非常に貴重。
まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。
 
関連記事
知覧~ある特攻隊員と少年の実話「少尉と隼」
 

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ここはエンジンの展示も素晴らしく、保存状態も良い。
これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40

「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。
細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも
充分に見る価値がある。後ろにあるのがこのエンジンに搭載された
過給器(スーパーチャージャー)だ。
 
関連記事
航空機に見る陸海軍の確執

Db601

  
このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で
保存されれている。誉エンジンは素晴らしい。誉エンジンを
搭載した機体はいずれも優秀だ。
「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。
 

2015082710420000 
機体は細部までよく観察できるようになっている。
あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが

頼むからやめてください。そういうことをするから制約が
増えてしまうんですってば。
 
オレオ式の脚。うーむ・・・。75年前とは思えないほど良い仕事してる。
まさに芸術作品だ。 
 

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青色塗装は腐食防止用塗装。
海軍機に多く見られる特徴だ。
本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが
それでも腐ることは腐る。白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが
それだ。可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。
 
後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で
当時はそんな呼び方は存在しなかった。
 
写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと
薄い色だ。工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて
ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。すなわち
ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が
空けた青色と説明すればわかるだろうか。
 

 
航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。
 
歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。
どれも素晴らしかった。また来ようと思う。
カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。
 
一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが
展示スペースが確保できず探しているそうだ。
来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。
 

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2015年6月24日 (水)

沖縄・喜屋武岬で戦没者を想う

喜屋武岬(沖縄)

 

はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
 
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。

 
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で
野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
 
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
 
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。

自分ひとり、闇の中、 
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
------------------------------ 
 
◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
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彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
彗星ファイスタオル試験販売中

Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

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◆◆◆

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2015年6月15日 (月)

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵 フリー素材

 

戦艦大和・武蔵のフリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
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2015年5月30日 (土)

どうしても「疾風」グッズを宇都宮で売りたい

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大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
 
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
  
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
 
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

2015年5月 3日 (日)

中島飛行機ロゴマーク

中島飛行機ロゴ

中島飛行機のロゴを復元作成しました。(著作権失効済意匠)
中島飛行機は終戦とともに解体され幻となった航空機会社です。
その恐るべきマスプロ力によって帝国陸海軍の兵器製造を担い
国家繁栄に大きく寄与しました。
 
しかし夢幻の如く、
戦後、これを恐れたGHQは財閥の解体と、航空産業の一切を禁止し
惜しくも中島飛行機はここに消滅します。以後、富士重工業(スバル)や
日産自動車などへ技術や人員が引き継がれました。原則的に中島飛行機と
富士重工は別の組織ですが、その歴史を調べてみるととても面白いものです。
 
中島飛行機の開発・生産能力は日本一でした。
代表的な零式戦闘機は三菱重工の開発した飛行機ですが、

中島飛行機がライセンス生産を行い、最終的には三菱を大幅に
超える生産数を誇りました。しかもこの間に、四式戦闘機を四千機以上、
大型重爆、水上機なども並行して生産していたので、そのマスプロ力は
強大なものでした。
 
中島飛行機宇都宮製作所では糸川英夫博士の一式戦闘機「隼」をはじめ
四式戦闘機「疾風」、百式重爆「呑龍」など多くの機体が生産されました。
※四式戦闘機は宇都宮と太田の二カ所で製造されましたが
昭和20年2月の太田空襲で太田製作所は大きな損害を受けました。
 
宇都宮ではこれを回避すべく、四式戦闘機のエンジン工場を
宇都宮大谷地区の地下へ移しましたが、機体の組み立ては地上で行いました。
~地下工場へ行ってみる
 
昭和20年7月の宇都宮空襲で生産は大幅に落ち込みましたが

それでも終戦まで稼働し、終戦時にも宇都宮製作所の生産ラインには
ピカピカの武装された四式戦闘機が乗っていたそうです。
  
生産の背景には女子挺身隊(女子学生)の活躍など
多くの国民の心血が注がれたことは特筆すべき点であり
決して忘れてはならない事実であります。
 

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中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ホワイト)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ホワイト)
 
 
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中島飛行機ロゴ

中島飛行機ロゴ

2015年1月 6日 (火)

硫黄島へ行くには

硫黄島

 
「硫黄島への行き方」

「硫黄島へ行きたい。どうやって行ったらいいのか?」
といった旨の問い合わせをメール等でよく頂きますので
この場を持ちまして回答とさせて頂きます。
 
硫黄島は全域が海上自衛隊と航空自衛隊の基地です。
従って一般の方の上陸は禁止されています。
米国は戦跡ツアーなども行っているようですが
ここでは日本人が渡航する手段について記述します。
 
建設業者等を除いて、一般の方が渡航するには
厚生労働省が行う遺骨収容事業への参加が一般的です。
厚生労働省は毎年、硫黄島の遺骨収容(遺骨収集)事業へ
参加する団体の公募と選定を行っており、先ずはそれら
いずれかの団体への加入が必須となります。
なお現在、個人での応募は廃止となりました。
 
平成26年度、公募で選ばれた団体は以下の7団体です。
 
一般財団法人日本遺族会
硫黄島協会
小笠原村在住硫黄島旧島民の会
NPO法人JYMA日本青年遺骨収集団
NPO法人国際ボランティア学生協会
公益財団法人大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会
 
詳しくは厚生労働省のホームページに記載がありますのでご覧ください。
なお単純に「硫黄島へ行きたいから入会希望」という理由での加入は
いずれの団体も断っており、加入の際は、それぞれ本来の主旨に
合った活動に尽力・従事することが前提となります。
 
また派遣日程の都合上、 最低でも10日間から14日程度仕事を
休める方に限られます。
 
硫黄島は携帯電話やスマホも圏外で、インターネットやEメール
通話はもちろん、内地や家族との連絡は緊急時を除いて原則できません。
 
節水実施中は一日のシャワー時間が5分に限定されるなどの条件が
つく場合もあります。持ち込める荷物も最低限に制限されます。
 
渡航前には身辺調査があり、前科の有無、その他不適切と見なされた
場合は渡航できません。 特に最近はそういったふるいにかけているにも
関わらず観光気分で入島してしまう者が多く、条件が厳しくなりつつあります。
原則的に撮影禁止でカメラ・携帯・スマホの持ち込みは厳しく制限されます。
 
興味本位や観光でなく、目的は戦没者供養と遺骨の収容にあります。
中には「せっかく行ったのにまったく島内観光やら写真を撮る機会がなかった!」
と怒り狂ってクレームをつける人もいるのですが、ぜひ原点に返って頂きたいと
思います。
 
上記は、当サイト独自の見解です。記載内容はあくまで参考で
免責事項と致します。渡航希望の各位におかれましては
厚生労働省または各公募団体に直接お問い合わせください。

2014年10月13日 (月)

千明武久少佐の墓所へ

群馬県片品村にある千明大隊長のお墓参りに行ってきました。
 
いつもの事ながら、行き当たりばったりの旅でしたが

無事、お墓を探し当てて、大隊長にご挨拶ができました。
 
栃木県側からは奥日光のさらに奥、戦場ヶ原を抜けて
標高1800メートルの金精峠を越えて群馬県片品村へ。
もうじき雪がふるので今を逃すと冬季閉鎖されてしまい、
来年の初夏まで栃木県側からのアクセスは出来なくなってしまいます。
 
峠を越えて片品村へ下って行くと、千明少佐の故郷の集落があります。
誠に感慨深いものがあります。ここが千明少佐の菩提寺
龍滄院です。場所は群馬県片品村東小川2900

 

Imgp0823 

お寺さんなので、お墓がたくさん並んでいるのですが
ご住職に尋ねると親切に教えてくださいました。
武人のお墓にはこのような傘がついていることが多いです。
 
千明武久大尉はペリリュー島の水際攻防戦で
アメリカ海兵隊を全滅に追い込んだ歴史上唯一の部隊の大隊長です。
高崎15連隊第三大隊こと 千明大隊は精鋭猛者揃い、千明大隊長は
付属部隊を含む750名余りを率いて、海兵隊二コ連隊に対し敢闘、散華しました。
昭和19年9月16日未明。 行年28歳。
 
ペリリュー島の千明隊長陣地へ

 
※西地区の富田大隊も同様
 

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Imgp0820

 
ペリリュー島南部地区守備隊
高崎歩兵第十五連隊第三大隊長
千明武久(ちぎら たけひさ)大尉※戦死後少佐
 
墓碑謹書
履歴 正八位勲六等功六級 近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として
大正6年4月15日片品村鎌田にて出生 片品小学校を経て群馬県立
沼田中学校に進み在学中文武の秀才 剣道部主将として県下に
其の勇名を馳す そして県下大会に於いては優勝全国大会に進出
昭和10年4月陸軍士官学校第56期生として入校
昭和15年同校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任を経
昭和19年2月満州国斉々哈爾(チチハル)より南方へ出陣
同年9月16日大隊長としてペリリュー島に於て散華す
行年二十八歳

義介謹書

2014年8月 8日 (金)

坊津の美しい海と悲しい歴史

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▲坊津・丸木浜 
 
鹿児島県・坊津(ぼうのつ)へ行ってきました。

海の美しさは沖縄と比べても遜色ないものでしょう。
上画像は「丸木浜」です。
 

Imgp9441

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▲坊津・馬込浜 

こちらは、さらに奥へ行ったところにある
「馬込浜」です。砂のきめ細かさは屈指です。
穏やかなので小さな子供を連れての海水浴にも最適です。
 

Imgp4871 

戦艦大和と坊津
坊津といえば、戦艦大和が沈んで2日後くらいから
大勢の水兵の遺体が流れ着いたと伝わっています。
 
現地民が浜に埋葬し、階級章からわかった氏名をもとに
墓標をつくり戦後数十年は立っていたのですが、現在ではその位置も
わからなくなってしまいました。
 
米軍のパイロットの遺体も多く流れ着いて埋葬されたそうです。
これを知ったアメリカ人は感涙したそうですが
現地民にしてみればとにかく腐敗臭がひどく、
埋めるしかなかったと、いった理由からでした。
 
馬来丸慰霊碑
上は陸軍の兵隊が乗っていた輸送船「馬来丸(マレー丸)」の慰霊碑です。
坊津沖で被雷し、沈没。山岡少佐以下37名は自力で泳ぎ
ここへ上陸しましたが、力尽きました。
 
恵比寿様の埋葬跡
砂浜近辺の茂の中には、祠(ほこら)のようなものや
四角く結界を張った跡など昔、兵士を埋葬したと思われる
痕跡が残っています。

 
水死体はその姿から恵比寿様と呼ばれ
発見した漁師さんや地元の方々が埋葬してくれたのでした。
流れ着いたご遺体の数は相当なものだったでしょう。
 
しかし今や過疎化が進み、当時を知る方は
ほとんどいません。

林喜重大尉の紫電改~折口を守った神様

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折口の浜に眠る林喜重大尉の紫電改
鹿児島県阿久根市折口浜の浅瀬に一機の紫電改が眠っています。
第343海軍航空隊、林喜重大尉の機体です 。
 
林大尉最後の戦い~B-29へ捨て身の攻撃
昭和20年、4月24日、B29の編隊が阿久根を空襲。
余勢をかって、ここ折口まで 爆弾を投下しました。
現在、折口駅がありますが ちょうど線路を挟んで南にあたる
阿久根側は焼けたのですが 折口側は無事だったのです。
 
折口だけが焼けなかった理由
B-29が折口の爆撃進路に入ったとき
一機の紫電改が突っ込んできました。343空、林大尉の機体でした。
林大尉はB-29直上より、一撃攻撃を加えると、さらに反復して執拗に
食いつきました。 これにひるんだB-29は爆弾を全て捨てると、
遁走にかかりました。
 
林大尉の紫電改も被弾し、満身創痍でしたが
B-29に最後の一撃を加えると、ついにB-29は煙を吐きました。
おかげで折口の町はは焼けなかった。
 
「だから、わしらは林大尉は神様だと思っている」
住民はそう語り、そのとき林大尉が放った薬莢を
大切に持っていました。
 
増槽タンクが落ちなかった
林機は増槽タンクが故障により切り離せず、つけたまま戦ったそうです。
空戦後、大尉は沖へ不時着を試みましたが増槽タンクが抵抗となり
着水と同時に おおきく前のめりに突っ込み、頭がい骨骨折により
戦死しました。 この慰霊碑は林大尉を荼毘に付した場所に建てられています。
 
この話は鹿児島在住の私の友人が折口で取材して まとめた話です。
ある日、戦史研究者がやってきて、この話をしたそうです。
そして、特に許可した覚えはありませんが、この話ほぼそのままの形で
雑誌「丸」に掲載されました。 器の大きい友人は「まあ、よか」ということに
して、特に何も言いませんでした。
 

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林大尉の慰霊碑へ
野球場のフェンス奥へ入っていきます。
 

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見えてきました、地元の有志が清掃してくれていて
綺麗です。
 

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林喜重大尉(戦死後少佐)碑文
 

松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか
 
▼再現作画(推測)

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天狗鼻望楼台「バルチック艦隊見ユ!」

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天狗鼻望楼台へ

薩摩川内市の天狗鼻にある
天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい) へ行ってきました。
かなり外れた場所にあるので時間がかかりますが見る価値は充分にあります。
 
川内原発からさらに西へ、 車一台がやっと通れる細い林道を走ること30分
車をとめて、さらに山道を20分歩きます。
この望楼台には歴史の重みがあります。
 
ここから対馬沖へ向かうバルチック艦隊を監視
ここから北上するバルチック艦隊を監視していたのですね。
その後、有名な日本海戦で東郷元帥率いる連合艦隊と
対峙します。
 

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保存状態の良い110年前の建造物!! 
それにしても、明治33年に完成、運用されたということは
110年以上前の建造物ということになりますが
レンガ造りの望楼台はこんなにも頑丈で、感動しました。
木も腐らないんですね。

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展望がよく気持ちが良いです。猫の横顔に似た岩があります。

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こちらは潜水艦に似た岩。岩場で漁をしています。

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薩摩川内市・天狗鼻望楼台(てんぐばなぼうろうだい)概要
ここ天狗鼻は、北は天草、南は野間岬、西は甑島(こしきじま) が望める
見晴らしの良い場所で、江戸時代にも見張り台が置かれていたと
いわれています。明治28年(1895)の日清戦争終了後に日本海軍は
国内の要所に沿岸防備のための望楼台 を設けました。
ここ天狗鼻に設置されたのもそのひとつで 日露戦争時には海軍兵が常駐し、
バルチック艦隊の北上を監視していました。 鹿児島県内には
ここ天狗鼻(常設)、下甑島の釣掛崎(仮設)佐多岬(常設)三か所設置され、
現存するのはこの天狗鼻のみです。 また国内で現存するのは、
ここ天狗鼻と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
竣工明治33年3月30日、運用開始同年8月20日 廃止明治38年10月19日
(日露戦争終結による)佐世保鎮守府所属 海上監視、通信、気象観測を担う。
望楼手ほか4人(戦時中増員)

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2014年6月12日 (木)

鹿児島空港(陸軍国分第二飛行場)

柏木由紀

柏木由紀


















鹿児島へ行ってきました。

こちらは空港内にありました、先日のAKB総選挙で第三位の
柏木由紀(本物)鹿児島出身だそうです。
 
今回のAKB総選挙(2014)、中国ファンからの大きな
組織票があったようです。(産経ニュース)
なんだ、実際の国政選挙となんら仕組みが変わらないじゃないか。
とんだ皮肉ですが、中国のファン獲得のため、
今後、動くメンバーも出てくるかもしれませんね。
恐ろしい。 
 
さて、パラオ・グアムの記事もまともにアップしていないのに

すみません。ペリリュー島の現状とラストコマンドポストなど、
書き直したいのですが資料が
たまっております。
 
こちら鹿児島空港
戦中は陸軍国分第二飛行場でした。
特攻隊も出撃しています。
 

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鹿児島空港は比較的大きな空港です。現在、日本各地の都市への
便のほか、奄美、種子島など離島へのコミューターが頻繁に
離着陸を行っています。けっこういそがしい空港です。
 

レフューラー(リフュエリングカー)

レフューラー(リフュエリングカー)







 



燃料給油車(レフューラーもしくはリフュエリングカーともいう)が
忙しく動き回っています。ここのレフューラーは全国比較しても
特にかっこいいんですよ。もう一台、出光仕様もありますが撮り損ねました。
 
空港内には無料の資料館があります。B747のエンジンから入ります。
変わった展示が多く、飛行機好きなら垂涎ものです。早く到着しても
2時間はあっという間に過ごせるでしょう。
 



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2014年4月14日 (月)

紫電改Tシャツ

紫電改Tシャツ再入荷しました。
 

Ist0

Ist02

Tde

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魂を込めて描き上げました。
B-29の爆撃から日本を守った松山の343空モデルです。
よろしければご覧ください。
  
紫電改アマゾン販売ページ(ネイビー)へ
紫電改アマゾン販売ページ(ブラック)へ
 
また「こんな機種があったら欲しい!」というアイデアも引き続き募集しています。

飛行機でなくでもOKです。先日は
「陸軍ものが少ないので欲しい」といったご意見を頂戴しました。
 
お待ちしております。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年2月 4日 (火)

山本五十六記念館

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前回ブログの続です。長岡の
山本五十六記念館を見学しました。
実はここは夏にも来たことがありますが二度目です。
 
館内は撮影禁止なのでこれはパンフレットです。慰霊団がブーゲンビル島の
墜落現場から持ち帰った山本座乗の一式陸攻の左翼と実際に
座っていた座席が展示されています。
 
そのほかには山本直筆の書や手紙、愛用品などが展示されており
ひとつひとつじっくりと拝んできました。 
 

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受付兼土産物店で買い求めた「常在戦場」の書、コピー品。
館内にはこの書の実物展示があり、拝んでいると山本五十六の覚悟
が伝わってくると同時に歴史の一部に触れられたようで感慨無量。
 
五十六記念館では、このほかにも素晴らしい
五十六グッズを(五十六カレーや「やってみせ~」の色紙など)多数
揃えて皆様のお越しをお待ちしております。 
 
受付の方は、見学者がわたしひとりだったこともあり
熱心にガイドしてくれまして、一式陸攻左翼帰還の
ビデオまで見せてもらいました。
 
次に車で5分くらいのところに墓所があるので
お参りに行きました。
 

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山本の墓所、長興寺(ちょうこうじ)です。
駐車場あります。しかし
この時期は雪でズブズブであります。
 

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正面が山本五十六のお墓です。冬に来たのは初めてです。
この状態では戒名しか読み取れませんが、夏であれば
墓石の下のあたりに「山本五十六」と刻まれていますので
迷いません。


なお山本のお墓は東京の多磨霊園にもあります。
 



新潟にきたついでに柏崎刈羽原発広報センターを見学。
私は原子力関連施設を見学するのが好きなのです。
原発近くに来ると必ず見学します。
 
原発の可否はともかく、科学や機械、そしてなにより
重厚長大なものが大好きなのです。 

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日本海を拝んで帰りました。
冬には珍しいベタ凪ぎの日本海です。
佐渡が見えます。

 


2014年2月 3日 (月)

三國峠を越えて新潟へ

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山本五十六のお墓参りと記念館見学の続きです。
 
水上より三國峠を経て日本海側へ抜けました。ここから越後の新潟県。
トンネルを抜けたら荒れた天候を覚悟していたのですが
こんなにも穏やかで
拍子抜けしました。得難いことであります。
 

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迫力の書体。どなたが書いたんだろう。
昭和32年開通と記されている。
 
延々、下って行きます。 
湯沢のスキー場近くです。
 

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日本海側の冬は雪との戦いです。昔と比べれば
除雪機能は進化しましたけど、それでも冬の間、
ひたすら耐え忍ばねばなりません。
雪国の方は本当に辛抱強い。
太平洋側の我々には想像できない困難さがあります。
 

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南魚沼市へ入ると、有名な「雪国まいたけ」の工場があります。
大規模です。
 

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長岡の山本五十六記念館に到着。
つづく。



2014年1月30日 (木)

冬の日本海

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冬の日本海です。
 
先日、長岡へ山本五十六記念館見学ならびにお墓参りへ行ってきましたので
近日アップします。これはその帰りに眺めた日本海の夕日です。

 
冬の日本海がここまで凪いでいるのは実にめずらしいんです。
運が良かった。
 
冬の天気は、日本海側と太平洋側ではまるで違います。

太平洋側に住む人たちは毎日、お天道様を拝んでいるのが
当たり前の生活ですが、谷川岳から北側、つまり
新潟の冬と言えばどんより常に曇っているか、雪または時化です。
生活は雪との戦いであります。
 
日本列島改造論/田中角栄
日本列島改造論で知られる越後出身の政治家

田中角栄の言葉を思い出します。
 
「谷川岳の山を切り崩して、関東とつなげてしまえばいい。
日本海からの湿った風は東京へと流れるだろう。なに?
出た大量の土砂はどうするかだって?佐渡と新潟の間を埋め立てて
陸続きにしてしまえばいいんだ。そうすれば東京まで真ッ平だ!」
 
 
陸続きにはなりませんでしたが、
田中角栄が谷川岳にトンネルを掘って高速道路と新幹線を通すまでは
それは大変な生活をしていましたのが激変したのです。
 
その佐渡島が沖に見えます。

2014年1月18日 (土)

長崎造船所などを世界遺産へ推薦

◆政府が長崎造船所などを世界遺産へ推薦
 
政府は17日の閣議で、8県の施設で構成する
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口関連地域」を
ユネスコの世界文化遺産に推薦することを了解した。
2015年の登録を目標に推薦書を提出する。
 
ユネスコが今年夏から秋に現地調査に入り
同年開催の世界遺産委員会で登録の可否が決定する。
 
推薦の名目は重工業を発展させ
日本が初めて産業国家としての地位を確立した
「世界史的意義」を強調した。
 

◆韓国は「強制労働時代の施設」と反対
これに反対しているのが韓国で
「対象施設の一部は植民地時代に強制徴用された朝鮮人が
働かされた経緯がある」との意向を示している。
 
これに対し、文部科学省下村大臣は
「今回の推薦は1910年までの産業遺産としての普遍的価値に
注目している。
日本が徴用を行ったのは1944年以降の話で、個別の問題」
とコメントした。
 
記事元と推薦施設一覧
http://www.mlit.go.jp/common/001003803.pdf
 

◆推薦予定の長崎造船所第三船渠
(1905)明治35年建設
 
◆同上ジャイアントカンチレバークレーン
(1909)明治38年建設
 

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去年夏に行ってきました三菱重工長崎造船所
戦艦武蔵の故郷
もご覧ください。
 
ここからは私の感想を記して置きます。
 
韓国の反対は非合理です。
機械は機械で、それ以上でもそれ以下でもありません。 
純粋な機械、建造物だからこそ残す価値は高いと考えています。
 
私は日本人ですが、たとえばB-29。
B-29を単なるメカとして見たとき、当時の飛行機としては
洗練されたものがあり、技術、世界情勢を顕著に反映しており
歴史家にとっては実にニュートラルな
対象であり、研究対象として価値の高いものです。
 
エノラ・ゲイを保存することに対して、もちろん日本人として
あまり良い気持ちはしませんが、決して反対はしません。

2013年12月29日 (日)

飛行場が無い小笠原の急患対応

小笠原には飛行場がありません。
 
内地への唯一の交通手段は定期船
「おがさわら丸」で25時間かかります。
 
幻の小笠原飛行場
「戦時中は洲崎に軍用飛行場があった」と、当時
小笠原で働いていた方が教えてくれました。お話によれば
一式陸攻が滑走路いっぱいを使って離発着したそうですが
記録によれば小笠原の飛行場は小さいものだったので、軽量の
戦闘機を運用するくらいが精一杯で
大型の一式陸攻を飛ばすにはだいぶ無理があります。

  
一式陸攻の謎
それにしても、なぜそんな話が生まれたのか疑問です。
実は、戦後しばらくの間、滑走路近くに一式陸攻の残骸が残されておりました。

(現在は撤去されています)
 
もしかしたら機体トラブルか被弾などで

やむをえず不時着を敢行した事があったのかもしれません。
それでないまぜになっている可能性があるなと感じました。
 
夢のある話だとは思います。
 
急患発生時の対応
さて、話を現代に戻して、もし
小笠原の住民に急患が発生した場合、
海上自衛隊に協力を要請することとなります。
 
要請を受けた海自は硫黄島基地に待機中のヘリコプターを
父島へ派遣します。急患を乗せたヘリは、一旦硫黄島基地へ
Uターンし、基地で飛行機に乗り換えて、内地へ向かいます。
この場合、東京までの合計所要時間は3時間ですが
仮に、父島から東京から直行しても、ヘリは速度が遅いので
4時間もかかってしまいます。Uターンしても
飛行機に乗り換えたほうが1時間も早く到着するのです。
 

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ひとつ合理的な手段があります。
V-22オスプレイの運用です。V-22オスプレイは現用ヘリより
スピードが速いので、内地へ直行することが可能です。
 
災害時やその他緊急時にも役立つでしょう。
自衛隊にオスプレイ導入の動きがあるので
近い将来実現するかもしれません。
 
最後に蛇足ながら
船で25時間かかるから価値があるし、世界遺産の
自然も残っている。この先も飛行場は作らないほうが
小笠原にとっていいのかもしれません。





2013年11月13日 (水)

日本の戦跡一覧

日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新

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地図の拡大版はこちら  

 
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
 
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。

 
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。 


◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。

◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺

◆宇都宮飛行場

◆洞窟戦車工場(那須烏山市) 

 
◇茨城県
◆予科練平和記念館

◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
 
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
 
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
 
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
 
◇千葉県
◆房総半島戦跡群

◆館山航空隊地下壕

◆「震洋」基地

◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。 

◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
 
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
 
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
 
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
 
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
 
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む

◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
 
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。

◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。

◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。

◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。

◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。

◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
 
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
 
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
 
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
  
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。

◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
 
◆由良要塞
 
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。 
入場無料。
 
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
 
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
 
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
 
◆番外編~素晴らしい四国
 
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
 
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
 
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
 
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ) 
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
 
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
 
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
 
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
 
◆大村海軍航空隊

◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
 
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
 
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非 
 
◆知覧特攻平和会館
 
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)

知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。 
 
◆神雷部隊「桜花」別杯の地

桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。 
 
◇沖縄県
◆南部戦跡

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷資料館 地下空間 栃木県宇都宮市 中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場

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採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

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地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジン部品が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

大谷採石場跡(大谷資料館)06

大谷採石場跡(大谷資料館)07

 

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大谷採石場跡(大谷資料館)11

大谷採石場跡(大谷資料館)12


ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

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大谷採石場跡(大谷資料館)15

大谷採石場跡(大谷資料館)16

大谷採石場跡(大谷資料館)17

▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。

宇都宮の大谷採石場跡(巨大地下空間)その1

宇都宮 採石場 大谷資料館 巨大地下空間
中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場を行く
 

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栃木県宇都宮市の巨大地下空間大谷採石場の特集です。
※戦時中は中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場
 
採石場跡へ入る前に周辺も素晴らしい景色と史跡がありますので
まずそちらを散策します。
 

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大谷石の採石は現在も行われており、採石や加工会社が軒を
連ねています。加工がし易く使い勝手の良い大谷石は
ここ宇都宮で採石、加工され全国へ出荷されています。
 

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採石して切り開いた道路です。地層がはっきりとわかります。
現在、建設の主役はコンクリートとなり、石が用いられる機会も
少なくなりました。大谷石の最盛期である昭和初期から中期にかけて
ここ石の街大谷は繁栄を極めましたが、現在は人口も減り静かです。
 

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平和観音を拝観します。なむなむ。
日本最大の磨崖仏(※まがいぶつ 石を掘り削ってつくった大仏様)で
です。この通路も迫力があります。
 
なお、この辺りは
ジブリのアニメ映画「茄子2 スーツケースの渡り鳥」のシーンにも
登場し、美しく描かれています。
 

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大仏様のお顔付近まで階段で登ってこられます。
景色も良いのでぜひエクササイズ兼ねて登りましょう。 
 

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大谷寺(おおやじ)を見学します。
大谷寺はせり出した崖の下に建てられたといにしえのお寺です。
ここには日本最古といわれる(なんと1200年前)
磨崖仏が掘られています。弘法大師の作と伝えられています。
中は撮影できないので、パンフレットを載せました。
 
大谷へ来たらぜひ訪れると良いでしょう。
こちらの千手観音を拝観すると1200年分の時空を体感
でき、言葉で表せない感動が味わえます。
それにしても我々の一生は実に儚いものであります。 
 

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お庭も素敵です。
背後の山は御止山といって、昔は宮様しか入ることができませんでした。
現在は庶民も登れます。
 
ではいよいよ大谷資料館(採石場跡)へ向かいます。
 

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到着しました。
砂利道を抜けた先が駐車場です。
 
駐車場入り口に展示されているレトロなボンネットトラックは必見。
 

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トラックの搬入口。
中からここからの光が見えますので、覚えて置いてくださいね。
ひんやりした空気が流れてきます。
 
それからカフェとお土産屋さん、無料休憩所などが揃っています。
※木曜休み
 

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受付のおねえさん(ときどきおばちゃん)から
入場切符を買い求め
いよいよ中へ入ります

八甲田山雪中行軍隊の足跡を辿る旅

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またやってきました。今度は夏に。
八甲田山 雪中行軍遭難資料館です。
まさにこの資料館の前の道(現在県道)を第五連隊が行軍して
八甲田山へ向かいました。
 

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▲冬と比べた写真です。


この先、田茂木野村があって、小峠、大峠と続きます。
幸畑の陸軍墓地には無料のボランティアガイドの方がいらっしゃり
こまかく説明して頂きました。
 

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▲幸畑陸軍墓地(資料館裏)夏の様子

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▲冬にも行ってきました。同じ場所です。
 
少し背の高い墓石は下士官、手前が兵卒のお墓です。
中央に並ぶのが将校のお墓で、見学者は自分だけだったのですが
丁寧に全て墓石の立ち止まって、一人一人の経緯を説明して頂きました。
ボランティアガイドの方の博識に驚くとともに
丁寧さに本当に感謝致します。
 
さて、行軍隊の遭難事件から今年で110年(平成24年現在)になります。
100年までは慰霊祭を催し遺族がお参りに来ていたのですが
それも真冬に墓石に積もった雪を掘り起こす困難さと
高齢化のため現在は行われておりません。
 
現在では陸上自衛隊が雪中訓練途中に立ち寄り清掃慰霊を行います。
ところで、山口少佐は物語では悪役になっていますが
映画が完成した折、実際の人柄と違うという指摘が随分あったようです。
しかしあくまでフィクションである旨を説明し決着させました。
さらに山口少佐の死因について、映画では病室で拳銃自殺していますが
病院に拳銃を携行することは出来ず、凍傷にかかった 左手で
こめかみを打ち抜くことはできなかったとも言われております。
 
日露戦争を控えて不祥事や揉め事を抹消したいという
軍部の思惑から 毒殺されたといった説もあり、真相は現在でも
不明のままです。 第五連隊の雪中行軍隊210名のうち199名が亡くなり
生き残った将兵も重度の凍傷を負って手足を切断の後遺症が残りました。
五体満足だったのは、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の三名のみでした。
一番元気だったのが倉石大尉でした。
東京でゴム長靴を買い求めた
倉石大尉でしたが、ゴム長は単に
当時ハイカラでお洒落なものだったようです。
これのおかげで 凍傷を防げたのは偶然でありました。
 
倉石大尉は黒溝台会戦で戦死しているので 雪中行軍遭難者の墓地とは
分けて右隣の敷地に墓石があり 階級も少佐に特進しています。
資料館を見学するとわかるのですが、雪山では僅かな距離なのに
方向を見失い 一日中彷徨した後、同じ場所に帰ってきてしまうんですね。
本当に雪山の恐ろしさを感じます。 今回は夏だったので、
行軍隊が辿った道を一通り見ることができました。
 

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▲冬の八甲田山

 

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▲ここが馬立場です。 仮死状態で発見された後藤伍長の象があります。


十和田湖まで足を延ばし 奥入瀬渓谷を走って参りました。

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▲冬の同じ場所

竜飛岬も行ってきました。 日本屈指の強風の町です。 

大きな風車の羽根。 竜飛岬から北海道を望む。
ボタンを押すと大音量で『津軽海峡冬景色』が流れます。
それから青函トンネル資料館です。 体験坑道ケーブルカーで
海底トンネルまで降りることができました。
扉の向こうは電車が走っています。

高台の碑は青函トンネル工事殉職者の慰霊碑です。

こちらは青函トンネル入口公園です。 ずいぶん手前にあるのですね。ここから潜って、出口は北海道です!

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往復1600kmの強行スケジュールでしたが
今回は夏なので 景色が存分に楽しめました。

厳冬の陸奥六県を巡る

前日夜の天気図では等圧線の間隔が狭く、ずいぶんと荒れているようでした。
積雪の為、東北道の一部が通行止めです。

しかし、この機会を逃すと次はいつになるかわかりません。
もし、降雪著しいようであれば青森まで行かず、手前で妥協して
観光するという判断で見切り発車しました。

宇都宮を午前三時に出発し、仙台を通過する午前6時頃
ヘッドライトを消灯、天候はまだ曇りで、雪の気配なく速度はそのまま
順調に進み、道程半分の古川を過ぎる頃、この先の除雪が完了し通行止め
解除されたとの情報がビーコンに入りました。

午前9時、一関から黒い雪雲が迫り、白いものが舞うようになり
これがいよいよ吹雪となって路面も真っ白になったのは
松尾八幡平を過ぎ、東北道最高地点の竜ヶ森トンネル前後。
フォグランプを点灯させると、ここからは速度を半分以下に落として
ノロノロ進みます。

ところが八戸道は入り、太平洋側へ出るとお日様がこんにちは!
路面も乾いた状態。距離は近くても場所や地形によって
全然違うのですね。驚きました。ふたたび速度を上げると
終点の三沢へ向かい11時に到着しました。ここまで8時間、
休憩無しで一気に走り切りました。

■三沢航空科学館
YS-11とゼロ戦を見学しました。

■六ヶ所村
六ヶ所村には原燃の再処理工場がありますが、併設された資料館を見学できるのです。
14時に到着、30分見学しました。プルサーマルや使用済み核燃料
の廃棄行程を再現した大規模な施設です。もちろん全て模型ですが
実物大に出来ており、工場見学のようなものです。
綺麗な女性がガイドしてくれて、すべて無料です。

■酸ヶ湯温泉
17時までに八甲田山麓にある酸ヶ湯温泉に到着しなければなりません。
六ヶ所~青森は除雪されており、快適に進むことができましたが
八甲田山に向かい標高が上がるにつれて急激に
積雪が増してきます。
ノロノロと走行し、日帰り入浴の
営業時間ギリギリで
酸ヶ湯温泉に到着しました。
ここにはひば千人風呂という体育館くらいの広さに大きな湯船の

混浴があって、木造の内湯はとても風情ある素晴らしい温泉でした。
山奥まで来た甲斐があった!
すっかり暗くなった雪山をノロノロと下り、この日は青森市街に宿泊します。

■八甲田山雪中行軍遭難資料館と第五連隊ゆかりの地
今回の一番の目的であった幸畑の八甲田山雪中行軍遭難資料館をじっくりと見学します。
朝9時からなので、ちょうどその時間に参りました。
自分以外、誰もいない。大きな立体地図があって遭難の経緯を
とてもわかりやすく検証することができました。行軍隊は1、2キロにも満たない地帯
をグルグル一日歩いた末、前日の露営地に戻ってきてしまうなど、冬山の恐ろしさを
実感しました。それから行軍隊が着ていたコートを試着することができます。(背嚢もセットであります)
もちろん着てみました。とても薄くて、ぜんぜんあたたかくない!
行軍隊の苦労を知り、涙が滲みます。

資料館の裏側が雪中行軍隊のお墓です。
しかし墓石は頭まで雪に埋もれており

手前で黙祷するだけでした。
また夏にきちんとした形で慰霊に訪れたい。

県道をこの先、もう数キロ山へ向かって進むと田茂木野村があります。
遺体安置所があったところで、現在はリンゴ園、小さな祠(ほこら)が残っています。

小峠から先は自動車冬季通行止めです。今回は装備が
薄い上、仲間もいないので
無理はしないで、ここで引き返します。
ただし馬立場付近は、迂回して行く
ことができるので、先に見てきました。
また夏に来たいと考えています。

■竜飛岬
竜飛岬へ向かいます。青森の市街地を出る前に、
国道4号線の終点を見てから
青森ベイブリッジを渡りました。
街を出ると津軽海峡線の貨物列車と並走しながら、陸奥湾岸道路を走ります。

外ヶ浜までは平坦で真っ直ぐな道の上雪もなく快適で、
そこから先は岬まで切り立った断崖の上を縫って行きます。
点在する漁村集落を通り過ぎ

竜飛岬は津軽海峡からの強風吹き荒れ、飛ばされそうな勢いでありました。
『津軽海峡冬景色』の石碑があり、赤い釦を押すと同曲が大音量で
流れます。大音量と噂には聞いていたので、少しは構えていたのですが
予想以上に大きな音だったので驚きました。誰もいなかったので思う存分
津軽海峡冬景色を歌いました。風に飛ばされそうになりながら。

北海道を望みます。はるばる自宅から陸路でやってきて今、眼前に
北海道が在る。繋がっていることを実感し感動が込み上げて参ります。

海底トンネル資料館を見学しました。この寒い時期、他に客はいなくて
受付の方が暇そうでした。

青函トンネル工事殉職者の慰霊碑に黙祷。

青函トンネル入り口公園に立ち寄ります。
ここが青函トンネルの入り口。列車はここから海底へ潜り出口は
北海道なのだと想像すると、また感動が込み上げて参ります。

岩木山を見上げながら広大な田園の津軽平野を走り
鰺ヶ沢から日本海へ抜けます。五能線と海岸を並走、
この辺りで名物犬わさおくんが軽トラックの荷台に乗って
走っているところを偶然に目撃しました。千畳敷を通過する頃
日本海に夕日が沈み、強風吹き荒れ春まだ遠い冬の日本海。
誰もいないが、そういった風情が好きです。

■不老不死温泉
黄金崎不老不死温泉へ到着。竜飛で30分間の見学時間を除くと7時間走りっぱなしでした。
ここはシングルのベッドルームがある温泉宿です。
しかし、宿の計らいでアップグレードしてくださり、同じ料金で広い和室に
通してくれました。嬉しいのですが一人では広すぎてなんだか落ち着かない。

ここで楽しみにしていた海沿いの混浴露天風呂に入りました。
吹きさらしで、とても寒いのですが眺めだけは最高です。
ここまで海に近い温泉は全国でも稀かもしれません。
北海道の知床にも似たような温泉がありましたが、それ以来かもしれません。

左手に白神山地の山々、右手に激しい波砕けて真白く泡立つ日本海に挟まれ進みます。
能代から内陸へ、田園地帯を抜け北秋田、大館を経由し十和田ICから帰路東北道へ。

■天童
しかし、そのまままっすぐは帰りません。8時間休憩無しで走り続け
村田JCから山形道へ折れ、天童を目指します。
天童はラフランス(洋ナシ)と将棋で有名な町です。
将棋が好きな方なら、駅前の将棋資料館や街頭の詰将棋、巨大駒のオブジェなど
実に楽しめるところです。とくに将棋資料館の摩訶大大将棋に驚かされたり
駒のひとつひとつ、芸術的書体を眺めていると、本当に美しく飽きず
街頭詰将棋の前に立っていると「それ、わかりますか?」と通りすがりの地元の方に
話しかけられたり、楽しいところでした。天童公園は桜の名所で、これが満開になる頃
甲冑を纏った駒たちを、やぐらの上のプロ棋士が動かし、対局を行う人間将棋が催されます。

公園には巨大な将棋盤とそれを上から見やすいように観覧席が設けてあり
春にまた訪れたいと思いました。

■帰路
16時30分に帰路に着きました。天童から自宅まで残すは260kmです。
ところが福島西-本宮12km2時間の震災復旧による工事渋滞。福島西で一旦高速を降り
一般道を迂回するものの、こちらも大混雑で抜け出すのに2時間半かかりました。
天童から休憩無しで走破し、23時に自宅へ到着しました。

■タダだったので
3月いっぱい東北の高速道路がタダだっていうのでツーリングを
強行しましたが、東北の春はまだ遠く、どこへ行ってもお客さんは少なかったという印象です。
お気に入りの演歌を流しながら冬のみちのくを旅するのも、これはこれであじわいあるものですが
被災地の観光活性化策としては中途半端すぎますし、一般のお客さんは雪道は敬遠するでしょう。
春からタダとはいかなくても割引など適用してくれたら良いと思うのですがどうでしょう。

■総走行距離1785km(内高速1134km一般道651km)
使った燃料188リットル
平均燃費9.4km-最後の渋滞と積雪がなければもっと伸びたはず。
乗車合計時間35時間半(一日あたり11時間半)

宇都宮 - 三沢 - 六ヶ所 - 酸ヶ湯温泉 - 青森
0300 1130 1400 1700 1900
1230 1430 1730

青森 - 八甲田 - 竜飛岬 - 不老不死温泉
0830 0900 1300 1830
1100 1330

不老不死温泉 - 白神山地 - 大館 - 十和田IC - 仙台 - 天童 - 福島西 - 本宮 - 宇都宮
0700 - - 1030 1300 1500 1830 2100 2300
- - 1630 - -

 

三日間で東北六県を走破しました。
総距離は1785kmです。(内高速1134km一般道651km)
使った燃料は188リットルで平均燃費9.4kmでした。
乗車時間は35時間で一日あたり11.6時間運転したことになります。
三沢~六ヶ所村~青森~八甲田~竜飛岬~白神山地~十和田~仙台~天童~福島の経路でした。

概要は以下の通りです。

■八甲田山
雪中行軍遭難資料館(幸畑陸軍墓地)見学・慰霊
その他、第五連隊ゆかりの地を訪れる。

■三沢航空科学館
特別展示のゼロ戦とYS-11の見学

■六ヶ所村
原燃PRセンター見学

■竜飛崎 (青森)
海底トンネル資料館見学
海底トンネル入口公園に立ち寄る

石碑の前で『津軽海峡冬景色』を唱歌。

対岸の北海道を見る。
(見るだけ)

■不老不死温泉、酸ヶ湯温泉に立ち寄る。
(いずれも混浴)

■天童将棋資料館の見学(山形)
天童の街探索、街頭の詰将棋を楽しむ。

写真は八甲田山麓にて。

2013年10月 5日 (土)

呉軍港と戦艦大和の街

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歴史の見える丘
呉海軍工廠の戦艦大和を建造したドックが現在でも残っている。
「大和のふるさと」と記された工場が大和を建造したドック跡で
戦後、埋めたてられたものの、現在も工場として利用されている。
  
西側一帯の工場群は日新製鋼呉製鉄所で、
当時は呉海軍工廠製鋼部であった。
 
※旧呉海軍工廠は戦後、石川島播磨重工業(IHI)呉工場となった後
現在はジャパン マリンユナイテッドが所有している。

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日本一、潜水艦を近くで見られる公園
「アレイからすこじま」は日本一潜水艦を近くで見られる公園。

道路を挟んだ反対側は当時からのレンガ造りの倉庫が並ぶ。
 
呉鎮守府
毎週土曜、日曜は護衛艦の一般公開を実施するほか

呉鎮守府(現、海上自衛隊呉地方総監部庁舎)の建物見学もできる。
 

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呉の街は今も昔も海軍さんの街だ。
佐世保や横須賀など、海軍さんの街を一通り見てきて
感じることだが、ここ呉が一番好きだ。
 
海沿いを散歩すれば潮風が心地よく、景観も
歴史的建造物が数多く、ちょっとした時間旅行
をしているようで楽しい。
 
呉軍港から引き継ぐ、大和も入渠した大ドックは
健在であり、空にそびえる大迫力のクレーンや工場群が
異世界のようであり、潜水艦がすぐ目の前に浮かんでいる。
 
ここ呉の特徴は、それらが市民生活と隣り合わせで
密着している点にある。
買い物帰りのおばちゃんが両手に
買い物袋をさげて歩いているし、
子供だって無邪気に遊んで
いるし、学校帰りの女子高生に、
ちゃんとヤンキー兄ちゃんだっている。
 
坂道が多く、迷うこともあるけど、丘の上から見える海は
とっても気分がいいし、
道は綺麗に整備されているので
窮屈に感じることはない。

 
とにかく、呉は街全体の雰囲気が明るく、居心地が良いのである。
何度訪れても飽きない。


 
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大和ミュージアムのガイドはパーフェクト

てつのくじら館が凄い

呉海軍墓地

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そのほか関連記事
 
戦艦武蔵ドックへ(三菱重工長崎造船所)
 

佐世保海軍工廠(佐世保重工業)


柱島と戦艦陸奥

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連合艦隊柱島泊地
ここは瀬戸内海。中央に見えるのが柱島(はしらじま)です。

連合艦隊の泊地があったところです。
 
波も静かで、民家も少なく、東に呉軍港、西に徳山の大燃料庫を備え
大艦艇の停泊に最も適していたことから 
長門とはじめとした連合艦隊の歴代旗艦が投錨し、作戦の立案から
前線部隊の指揮を行いました。
 
山本五十六は、ここ柱島に停泊中の長門艦上で真珠湾攻撃成功の
電文を受け取ったとされています。
 
あの戦艦大和も武蔵もここに投錨していたのです。
そして、ここから最後の出撃をし、二度と帰ってきませんでした。
 
※柱島自体には軍事施設はありません。島の沖合に
「旗艦ブイ」と呼ばれる艦を係留するためのブイがあり
呉への直通電話線が通じていました。
 
この写真は山口県周防大島から撮影したものです。
周防大島は柳井市と橋で繋がっており、自動車でも往来が容易です。
その周防大島の先端へ走るにつれて、柱島が見えてきます。
 
島は東西に長く、橋から先端までは自動車でも1時間かかりますが
とても景色の素晴らしいところで、穏やかな時間が流れています。
※頻繁にネズミ取りやってます!スピードは控えめに! 
 

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▲島へ渡る大島大橋
 
島の東端にあるのが「陸奥記念館」です。
 

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戦艦「陸奥」謎の爆沈
戦艦「陸奥」は昭和18年6月8日、正午すぎ

柱島の南、約2kmの海上に停泊中、原因不明の大爆発を
起こし、一瞬にして沈没。
 
この当時、陸奥の乗員は、1321名それに加え
艦務実習のため乗り合わせていた予科練習生と教官153名
合計1474名が在艦でした。
 
戦友、遺族による「陸奥会」の調査によればこの内、
生存者はわずかに100名(負傷者39名含む)で
(さらに、戦後まで生き残った陸奥の乗員は60名)
三好輝彦大佐(海兵43期)を含むほとんどの乗員が殉職したと
伝えられています。
 

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▲引き揚げられた陸奥の副砲、艦首、スクリューが展示されています
 

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▲慰霊碑の向こうに浮かぶ柱島と陸奥の眠る海
 
陸奥の眠る海
柱島の南側に連なる島は、手前から福良島、長島、続島の三島で

続島には焼き場が設けられ、連日漂着する遺体を収容、荼毘に付されました。
重油で海は黒く染まり、沈没から一年以上経過しても
岩に染みついた色は落ちず、辺りの漁場は壊滅し海草も貝も
全て死んでしまったのです。
 
長らく秘匿された沈没の事実
陸奥は国民に広く親しまれた戦艦で、その存在は日本の国そのものでした。

その陸奥が、戦わずして内地の海で原因不明の爆沈をしたことが、万が一
知れ渡れば、国民の失望と混乱を招くことは必至であり、海軍の名誉をも
大きく失墜させるので、海軍はこの事件の秘匿に徹底しました。
 
乗員の家族からは
「何度手紙を出しても返事が返ってこないのでおかしい」
といった問い合わせが相次ぎましたが、海軍の担当者は
胸が痛くなるのを覚えながらも、それらを全て黙殺し
手紙のすべてを焼却していたのです。 
 
「戦死であれば広報が来るはずだが、それもなく行方が一向にわからない」
そんな疑問を拭いきれない、ある予科練習生の父親は
「息子に何か事故でもあったのか」と、直接霞ヶ浦の航空隊を
訪ねたものの、「そんなことはない」と聞かされ家に帰ったのでした。
その嘘は、艦長の三好大佐の家族にさえも例外ではありませんでした。
 
「陸奥は健在である」 
 
そう振舞い続ける海軍でしたが、国民を
騙し続けることは既に苦しく、遺族にようやく知らされることと
なったのですが、それは事故から9ヶ月後の昭和19年3月で、広報には
「作戦中、西方海上に於いて殉職せり」と簡単に記されたに過ぎませんでした。
 

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沈没の原因

陸奥爆沈の謎は、現在でも完全に解明されていませんが
三式弾の自然発火説、爆雷誤爆、スパイ工作による説、あるいは
潜水艦の魚雷による攻撃など様々な原因が考えられたのですが
おおむね否定されてきました。

 
ある人物による放火説
乗員のいじめによる自殺、現在でも可能性が高いと考えられているのが、

特定の人物による放火説で、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、
容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから
この人物が火薬庫に侵入し、放火した可能性があり、
生き残ったある元乗員は

 
「爆沈した時、彼がやったのだと、直感しましたよ」

と述べているほか、別の乗員は

「間違いなく彼が放火ものだと確信していますが、この頃、彼が
生きているんじゃないかと思うようになってきましたよ」
 
とも証言しており、事実、容疑者である二等兵曹の船室をダイバーが
捜索したのですが、彼ひとりだけ、遺体が発見されることはなかったのです。
 
その二等兵曹は、公には戦死と発表されましたが、実際の安否は
現在も謎のままです。
 

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重油で黒く染まった海も今ではすっかり元の姿を取り戻しました。
そればかりでなく、海底40メートルに沈む陸奥が魚の隠れ家となり
以前より増して魚がよく獲れるようになったといいます。
 

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▲陸奥記念館屋外展示のPS-1飛行艇
 
陸奥記念館には引き揚げられた部品の一部や乗員の遺品、絶筆
資料などが多く展示されています。

海が美しく、とても静かなところです。
 
「陸奥記念館」アクセス
山口県大島郡周防大島町伊保田2111−3
なぎさパーク、なぎさ水族館併設
一般420円 小中学校210円
9:00~16:30開館、無休
館内撮影禁止
 

2013年10月 4日 (金)

回天基地(大津島)

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山口県周南市(旧徳山市)大津島の戦跡
人間魚雷「回天」基地を訪れた。
 
徳山港よりフェリー「新大津島」で40分、高速船「鼓海Ⅱ」で20分。
(画像はフェリー)どちらも料金は変わらず、およそ2時間おきに
交互に出ている。瀬戸内海の島々へ渡る航路は他にも多くあり、ここ
徳山港が拠点。新幹線の徳山駅からも歩いてすぐで、アクセスは良い。
車で行く場合は、朝一番の便か午前中の便であれば、波止場となりの
無料駐車場が空いている可能性が高い。満車の場合は離れた
有料駐車場を利用する。
 
波止場の券売機で「馬島行き」を求める。
大津島はもともとふたつの島が数百年前に繋がった
細長い島で、フェリーは「馬島」と「刈尾」、二ヵ所の波止場を巡るが
どちらも同じ大津島の波止場である。
 

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徳山の大プラント群を見ながら進む。
この辺りは屈指の工場夜景スポットで、地元のツアー会社が
工場夜景クルーズや、普段は立ち入ることのできない
工場内の夜間見学ツアーなどのプランを実施している。

なお、徳山は連合艦隊の燃料補給基地であり
東は柱島泊地と、呉軍港である。
 
フェリーに乗っているのは釣り人が数人。穏やかな瀬戸内海を進み
大津島馬島港へ到着。波止場には「回天の島」という大きな看板と慰霊碑。
回天発射基地跡と回天記念館は、波止場から歩いて5分ほど。
 

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遠くに回天発射基地が見えてきた。
 

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途中、断崖があるので、トンネルを抜けて発射基地へ向かう。
このトンネルは当時つくられたもので
回天はトロッコでこのトンネルを通り、発射基地へと運ばれた。
また、回天搭乗員もこのトンネルを通り訓練、また出撃した。
 
見学客は自分だけ。
釣竿を背負ったおじさんが何の歌かわからないけど鼻歌を歌いながら
トンネルのずっと先のほうを歩いて行くのがわかった。
 
これは空襲を監視するための横穴。

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長いトンネルを抜けて、回天発射基地へ到着。
 
同じように、回天搭乗員は、このトンネルをくぐったのか
と思うと、こんなに悲しいことは無い。
 
※注(発射訓練はここで行われたが、実際の出撃は沖合に停泊する母艦(潜水艦)
に一旦乗り込み、出撃。目的の戦域で切り離されて発進する)
 

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なんと、透き通った綺麗な海だろうか。
回天を海面へ降ろすためのクレーンの跡が残っている。
(白いフェンスの支柱のあたり、タコ足のような形をした部分)
 
大津島は通常魚雷の発射場として昭和14年に建設されたが
昭和19年9月から、人間魚雷「回天」の搭乗訓練および出撃基地となった。
 

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この縦穴から回天艇に乗り込む。
 
飛行機の特攻隊なら、機体トラブルで、あるいは
自分の意志で帰ってくることも可能であろう。
しかし、回天艇は一度、出て行けば、何があろうと
脱出は不可能で、二度と帰ってくることはできない。
 

次に

回天記念館へ向かう。
小中学校の敷地は回天搭乗員の宿舎などがあった。
現在も当時の壁や点火調整室などの建物が残る。
 

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回天記念館を見学する。記念館への道の両側には桜の木、そして
両側の石板には戦没者のお名前と出身地が刻まれている。
 

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館内は回天の資料と
回天搭乗員の遺影、遺書が展示されている。
 
見学者は他におらず、受付の年配男性が、たったひとりのために
入場切符を売ってくれて、中に入った。
 

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回天の内部セット。映画『出口のない海』で使われたもの
以前、この内部に入らせてもらったことがあるが(現在は見るだけ)
とても表現しきれない、閉塞感と絶望感があった。
 
外は潜望鏡で僅かに見えるだけ。
 
搭乗員はこれから突入すべき敵艦の予想進路と
速度を計算し、進む。仮に失敗しても
脱出はできず、再度計算し直し、突入しなければならない。
飛行機と違って、何があっても生きては帰れない。
絶対に命はないのである。 
 

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帰りのフェリーの時間を計算して波止場へ戻る時間となった。
 
記念館を出て、回天坂を下る。見学客は誰もいないのだけど、回転坂の
桜の落ち葉は綺麗に掃かれていて、ほうきをもった年配の女性が
「ありがとうございました」と言ってくれた。
 

三菱重工長崎造船所 (戦艦武蔵ドック)

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戦艦「武蔵」を建造したドックが現在でも残っている。
一号艦(大和)は呉海軍工廠で建造されたが
同型の二号艦(武蔵)は民間会社である三菱がここ長崎で建造した。
  
「今の話はだれにも言わないでおくれよ
おれが話したなんてことがわかるとまずいから」
 
そう言った老人の眼はおびえていた。
もう戦争は遠くの昔に終わっているというのに。
長崎の街はすり鉢の底のような形をしている。 四方を山々に囲まれ
海を見下ろせるところに、三菱重工長崎造船所がある。
 
第二号艦(戦艦武蔵)は秘匿に徹して建造が進められた。
 
建造中の目隠しとして、棕櫚(しゅろ:漁で使う縄)をドッグ上部より
スダレのようにたれ下げたが、それでも造船所を見下ろしたり建造中の
船について話題にあげたりした者はスパイの 疑いをかけられ、憲兵隊に
捕まり執拗な尋問を受けた。 いつしか、その存在は「お化け」と
噂されるようになった。
 
軍が買い占めた棕櫚の量は膨大であり、市場から棕櫚が消えた。
それもまた「お化け」の噂の一端となる。
 
長崎の住民は皆おびえていた。 史上異様と言える、その建造過程で
心血を注いだ三菱の技術者と工員、そして何も知らない、否、 決して
存在を口にしてはならなかった「お化け」の噂。
 
戦艦武蔵誕生の歴史がここにある。
 

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「女神橋」より望む長崎の街 

帝国海軍針尾送信所

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「ニイタカヤマノボレ」発信の塔
佐世保市の市街地を離れ、長崎へ向かって国道を南へ走ると
突然、大きな三本の塔が見えてくる。不気味とも神秘的ともとれる
とにかく、突然異世界に迷い込んだような印象の、この三本の塔は
およそ90年前に建設された「海軍針尾送信所」の跡である。

  
世界の歴史が動いた、真珠湾攻撃の日
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が、ここから発信されたと伝わる。
  
通信塔は、大正11年(1922)、旧海軍によって建設されたもので
塔の高さは136メートル、塔のまわりが38メートル、
間隔は300メートルあり上空から見ると正三角形に並んでいる。
写真では伝わりにくいが、突然、この塔が目の前に現れると驚く。
 

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国道202号線沿いの西海橋公園から望む通信塔。
無料駐車場、展望台あり。橋は通行無料。 
 
住所:長崎県佐世保市針尾東町
西海橋公園

佐世保海軍工廠

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旧佐世保海軍工廠
現在は佐世保船舶工業(SSK)改め佐世保重工業のドックで
大型タンカーなどの建造、海上自衛隊艦艇の建造、保守
アメリカ海軍の艦艇の保守を行っています。
 
「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」誕生の佐世保海軍工廠
佐世保海軍工廠は、多くの駆逐艦、巡洋艦誕生の地であり、
「赤城」「加賀」の近代化改装もここ佐世保で行われました。
 
そのほか、大戦末期には晴嵐を搭載した潜水空母とも呼ばれる
伊四〇〇型潜水艦の「伊-四〇二」を建造、
航空母艦「伊吹」「大鷹」「笠置」の艤装もここ佐世保で行われました。
 
工廠内に残る赤レンガ
SSKの敷地からアメリカ海軍佐世保基地の敷地にかけて
当時の赤レンガの素敵な建物が残っています。道路から良く見えます。
 
私はアメリカさんの基地内にカメラを向けすぎてスパイと
疑われるのは面倒なので、撮影しませんでした。すみません。
 

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佐世保の護衛艦。
佐世保みなとIC入口近くに観光用駐車場があり
そこへ車をとめて、この海岸付近を散策できます。
画面左奥がSSKドック。

 

佐世保鎮守府

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旧海軍佐世保鎮守府
現在の海上自衛隊佐世保地方総監部です。
 
唯一、面影を残すものといえば門の前に立つ
佐世保鎮守府開庁当事に
植えられたという楠の木(くすのき)です。

セイルタワー(海上自衛隊佐世保史料館)

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海上自衛隊佐世保史料館(通称セイルタワー)です。
七階建てで、全てが展示フロアー。最初に
七階までエレベーターで上がって下りながら見学します。
 
航空機や艦船など、模型が多数
大ジオラマが魅力

ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力です。
展示品が多く、じっくり見学しようと思えば時間がかかる施設なのですが
これといった目玉はありません。
  

そのかわり航空機や艦船の模型が多用されており、例えば
東郷艦隊がまるごと、ジオラマになっていたり、海軍の名機が
飛行編隊を組んでいる様子など、大型のジオラマで再現されているので、
模型や艦船、飛行機などが好きな人は嬉しいかもしれません。

 
七階展望室からの展望
 
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、
またアメリカ海軍の艦艇を一望できます。
 
セイルタワー(海上自衛隊佐世保史料館)アクセス
長崎県佐世保市上町114-2
開館は9:30~17:00(入館は16:30まで)
入館無料
毎月第3木曜日・12月28日~1月4日休館
無料駐車場あり
団体で訪れた場合はガイドが案内します。
 
一階に小さな土産物店あり

2013年10月 3日 (木)

万世特攻平和祈念館

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有名な子犬を抱いた少年飛行兵の写真です。
この飛行兵は荒木幸雄さんという方で
群馬県桐生市出身の陸軍少尉、17歳です。
 

子犬を抱いて、自分の飛行機に爆弾を取り付けている
様子を見ている、といわれています。
 
昭和20年、5月27日
荒木さんはこの写真が撮影された直後、陸軍特別攻撃第72振武隊として
沖縄へ出撃、戦死しました。
(第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵でした)
 

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知覧を訪ねたのなら、ぜひとも万世も
 
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが

同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
今回は、そちらの、あまり知られていない
万世特攻平和祈念館
へ行って参りました。
  
こちらは知覧と比べると規模は小さいのですが
展示内容は決して引けを取らないものです。
 
万世飛行場は吹上浜をならした急造の飛行場で
荒木さんが出撃したのは、この万世飛行場だったのです。
荒木さんの遺書、遺品は二階フロアに展示してあります。

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▲海軍零式三座水上偵察機
本来、海軍の飛行機はここ陸軍の記念館にはミスマッチであるが、
吹上浜の沖から引き揚げられたのでその縁もあり、展示していると、
新人ガイドさんの話。
なお、この機体の搭乗員三名は無事生還、
その経緯も記してあります。

 

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▲慰霊碑自体は沖縄の方角を向いているが
搭乗員は東を向いている。これは再会を誓った九段の方角だという説
もうひとつは鹿児島は日本の西端なので、故郷の方角すべてを
向いているという説があります。
 

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▲ベテランのガイドさんに案内して頂き、飛行場跡へ。
この側溝の板は当時からあり、画面右側が飛行場滑走路跡。
 

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▲駐機場。荒木さんの写真の背景には松林が写っているので、
現在もそのまま松林である、記念館からこの辺りのどこか駐機場で撮影したの
ではないか、
という説があります。
 

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 飛行場跡は直線道路。
 

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特攻隊員の方々が、この神社を通りがかりに
ちょうど桜の花が咲く頃だったので、その枝を持って
コクピットに飾った。その桜の木は今はないのですが、
神社の石柱は当時のまま残されています。 
 

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飛行場跡地の海浜公園から吹上浜を望む。
 
万世特攻平和記念館 アクセス
鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3
大人300円、小人200円
9:00~16:30(閉館17:00)
無休(12月31日~翌1月1日休)

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

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 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
 
一度は訪れておきたい場所です

  
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが
同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
 
今回は、そちらの、あまり知られていない

鹿屋資料館へ行って参りました。知覧からは鹿児島湾を挟んで
大隅半島側。交通の便が悪いところにあるので
なかなか見学者が来ないのかもしれません。

 
しかしながら、こちら鹿屋も
決して知覧に引けを取らない資料館です。
 
鹿屋は海軍の特攻基地として
もっとも多くの海軍特攻機が出撃しました。
二階フロアには鹿屋から出撃した
海軍搭乗員の遺影(集められる限り全て)と遺書が展示してあります。
 
敷島隊から梓特別攻撃隊、神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで
資料、展示も充実しています。

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▲戦艦「比叡」の錨、海上自衛隊のUS-1A(おおとり)
紫電改、天山のプロペラなど、屋外展示も多数。
なお資料館二階には吹上浜沖から引き揚げられたゼロ戦五二型が
展示されています。なお、

世界唯一の二式大艇はここにあります
 
余談
敷地内の食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」がとても美味しくて
びっくりした。おすすめです!
 
アクセス 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
鹿児島県鹿屋市西原3丁目11−2
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
年末年始(12月29日~1月3日)を除く毎日開館
入館無料
個人でも申し出ればガイドが案内します

ゼロ戦、二式大艇など各種グッズを扱った土産物店、
海軍カレーが食べられる食堂あり

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

神雷部隊「桜花」別杯の地

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海上自衛隊鹿屋航空基地から少し離れたところに
神雷部隊「桜花」の碑がある。
 
慰霊碑には山岡荘八の書で神雷部隊「桜花」別杯の地、である旨と
建立の経緯が記されている。なお、ここから近くの
鹿屋航空基地資料館には神雷部隊「桜花」に関する遺品、資料が数多く
展示されている。
   
 
アクセス
鹿児島県鹿屋市野里町4219
朝日神社となり

大刀洗平和記念館

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マーシャル諸島タロア島より帰還した零戦三二型
大刀洗(たちあらい)平和記念館のゼロ戦です。

マーシャル諸島タロア島から里帰りし修復された機体です。
珍しい三二型。
 
大刀洗~陸軍の特攻基地としての歴史
ここ大刀洗は陸軍の航空基地があり

戦争末期には特攻隊が出撃した地でもあります。
館内にはここ大刀洗から出撃した特攻隊員の方の遺書、遺影などが
展示されています。
 
幻の戦闘機「震電」
また、九州飛行機が製造した幻の戦闘機「震電」が終戦直前に
蓆田飛行場
(現在の福岡空港)で飛行した経緯もあり
「震電」の展示に力を入れており
資料も豊富でした。
 
B-29のオブシェ
ゼロ戦の上、天井に金網のようなものが見えますが
これはB-29のシルエットのオブシェです。翼とエンジンの形がわかるでしょうか。
大きさ比較のためだそうです。

なお、館内は撮影禁止
ただしゼロ戦のみ撮影可能で九七戦闘機は禁止。
ゼロ戦も九七戦闘機も区別つかない人が多いのに
これは混乱すると思う。
 

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▲現在も残る営門と、道路を挟んだ反対側はユニークな大刀洗駅。

大刀洗平和記念館アクセス
福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
 
入場料
大人500円 高校生400円 小中学生300円
入館時間、午前9時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日は年末年始 (12月29日~1月3日)
 
各種ゼロ戦グッズの売店あり
 
館内撮影禁止
(ただしゼロ戦のみ撮影可能。九七式戦闘機は禁止)

大村海軍航空隊跡

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大村海軍航空隊の跡地です。

掩体壕が公園の遊具となって残っていました。
ここ大村海軍航空隊は海軍屈指の大航空隊で、空技廠があり
また、松山の第343海軍航空隊(剣)の拠点でもありました。
 

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司令部壕は現在慰霊塔となっています。

 

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沖合に浮かぶ長崎空港です。
海軍大村航空隊の飛行場跡地は現在の海上自衛隊大村航空基地です。
長らく民間と共用でしたが、現在、民間機の滑走路は全て沖合に移転し
民間機独自で運用されています。
 
長崎空港という名称ですが大村市にあります。
長崎県は縦に長い県ですので、地元の人は「大村の空港」とか呼びます。


2013年10月 2日 (水)

永遠の0ゼロ(映画のセット)

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大分県宇佐市がこのたび開設した
「宇佐市平和資料館」で映画永遠の0(ゼロ)の撮影に使われた
ゼロ戦(レプリカ)が見学できます。
 
このゼロ戦は、映画の撮影が終了した後、宇佐市が1000万円で
購入し、ここに展示しているものです。
 
鉄板を貼り付けたレプリカなので、実物のゼロ戦と比べると
ずいぶんと重い質感がありました。

入場は無料。

宇佐市は旧海軍宇佐航空隊の掩体壕などが現在でも残り
戦跡を観光の目玉にして行く構えの様です。
 
展示のほとんどは映画のセットですが
桜花の風防ガラスなど、一部だけ貴重な資料もあります。
レプリカ機の尾翼番号(第721海軍航空隊)は神雷部隊のものです。
 

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これは映画の撮影に使われたコクピットのセットです。
「岡田くんの汗が染みこんでいるから、
ファンの女性は喜ぶんじゃ
ないでしょうかね!うへへへへ」と、市の担当者。
 
アホか!

でも、実際に座れるのは良いアイディアだと思います。もちろん座らせて
もらいました。「思ったより狭いでしょう」と言われましたが、
身長175センチの私の印象では、広くはないけど、狭くもない。
そんな感じでした。
 

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こういった実際に体感できるセットはありがたいです。
隙間をぜんぶ埋めてあるんですね。
 

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宇佐市平和資料館 アクセス
宇佐市大字閤440-5
火曜日定休(祝日の場合はその翌日)および年末年始12/9-1/3
9時~17時(入場は16時30分まで)

老若男女入場無料

宇垣纏 8月15日特攻の碑

昭和20年(1945)8月15日
 
玉音放送の後、ここ大分飛行場より、宇垣纏中将の命により
1番機操縦中津留達雄大尉をはじめとし、宇垣自身を含む
11機、総員23名搭乗の彗星が神風特別攻撃隊として沖縄へ出撃した。
(うち3機は不時着)いわゆる終戦後の「宇垣特攻」であるが
 
彗星隊が飛び立った地に、戦没者全員の名が刻まれた
慰霊碑が残されている。 

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大分飛行場は戦後、民間飛行場を経て
現在は野球場や各種スポーツ設備を備えた
大洲総合運動公園となった。
  
慰霊碑は現在も生花が供えられ
綺麗に維持されている。

 
アクセス:大洲総合運動公園
大分市青葉町1番地
慰霊碑はテニスコート西側、芝生の広場一画にある

中川州男大佐の墓所

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ペリリュー島守備隊長中川大佐のお墓が
出身地である熊本県熊本市にあります。
 

熊本の市街地を見渡せる岡の上に
小さな墓碑群があり
その一角に中川大佐のお墓はあります。
 
また、この辺りは西南の役(西南戦争)で亡くなった著名な方の
お墓もあり、歴史を学ぶ方は一度、訪れておくのもよいかもしれません。
 

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だいぶわかりにくい場所にあり、随分と迷いました。
近くに大型霊園があり、そちらと勘違いしがちです。
中川大佐の墓碑は、そちらの大型霊園とは別の場所にあり
霊園の名称等は特にありません。
 
お墓は地元の方が、定期的に清掃をしてくださっているようで
とても綺麗になっていました。 
 
中川州男大佐(戦死後中将)墓所
アクセス
熊本県熊本市立田山貯水池付近
住所、墓所名は不明
 
立田貯水池入口に駐車し(車はここで行き止まり)奥へ歩くと
墓碑群が見えてくる。急な階段(を下りずに)手前を右へ折れ
20メートルほど歩くと、中川大佐の墓がある。
 
近くに小峰墓地があるが、こちらではないので間違えないようにする。
なお、小峰墓地は、原爆慰霊碑、先の大戦の慰霊碑ほか西南戦争の
戦没者が眠っている。
 

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中川大佐自刃の地・ペリリュー島ラストコマンドポストへの旅
はこちら

2013年10月 1日 (火)

芸予要塞

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国家存亡の危機を迎えた明治の日本
十九世紀末、西欧諸国の植民地拡大競争は激しくなり
その矛先は世界各地に向けられた。 日本にとっての最大の脅威は
帝政ロシアだった。ロシアは冬でも凍らない港をと、南満州へ進出し、旅順に
軍港を築くとともに極東艦隊を派遣、黄海を手中に収めた。
 
ロシア海軍の進出は、いよいよ直接日本に向けられることとなった。
そして、まさにここ瀬戸内海は要衝であった。 いよいよ日本は国家存亡の
危機を迎え ここ小島に、芸予要塞の一端を構築する。
 
極めて保存状態の良い110年前の戦跡
明治35年(1902)に完成した要塞であったが
明治38年(1905)年、日本は旅順攻略ならびにバルチック艦隊を撃滅し
日露戦争に辛勝。 結果的に小島の要塞が役立つことはなかったが、
要塞に据え付けられていた28cm榴弾砲、2門が旅順攻略戦に
持ち出され、活躍した。現在も非常に保存状態がよく、100年以上前の
戦跡としては極めて稀である。
 
28cm榴弾砲
小島には6門が据え付けられたが
明治37年(1904)日露戦争の勃発により うち2門が旅順要塞の攻略に送られた。
この28cm榴弾砲は NHKドラマ「坂の上の雲」で撮影に用いられたセットで、
撮影終了後 松山市が譲り受け、しばらく松山城で展示されていたが
現在は今治市が譲り受け、ここ小島に渡った。▼
 

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▲芸予要塞(げいよようさい)小島(おしま)へはフェリーで渡る。

フェリーは今治の波止場を出港すると、瀬戸内海に点在するいくつかの島を
巡り、ふたたび今治の波止場へ帰ってくる。
背景は今治造船
 
乗客は、我々のほかには釣り人が数人と、郵便屋さんが
乗っていた。郵便屋さんのフットワークはどこへ行っても軽い。
通勤電車のような感覚のこのフェリーにひょいっと乗り、あっという間に
島の港へ接岸すると、のんびり釣竿を背負った人たちを追い越して
幸先よく手紙を配って行く。
 

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▲探照灯(サーチライト)跡。
戦跡巡りの権威である、S方氏の案内で小島芸予要塞を巡る。
島は周囲3キロほどなので、2時間もあれば全部見学できる。
島には画像のような周回歩道があり、潮の香りと風が心地よい。
釣り人が目立つ。
 

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▲円形の基礎は砲台の跡
放射線を描いて着弾するので、海からは見えない構造。
 

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要塞は役目を終えた後、爆撃演習の標的として
利用された。その際の爆撃で崩れた跡が残る。

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若い人は皆、島を出て行ってしまったのか、民家には空き家が多い。
島の人口は30人。遠くに望む、近代的な来島海峡大橋。
 

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弾薬庫
 

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これは「ハンミョウ」という昆虫。いままで
図鑑でしか見た事がなく、珍しかったので撮った。
瀬戸内海の島々に生息しているようだ。
人が道を歩いていると、進行方向を促すように飛翔するので
別名「道教え」とも呼ばれる。 

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海を見ながら波止場へ戻る。
110年前の歴史を感じ、また自然も素晴らしく綺麗な島だった。
 
芸予要塞小島(げいよようさい・おしま)
アクセス
愛媛県今治市波止浜観光港より
小島行きフェリーで5分。

紫電改~最後の戦闘機

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愛媛県愛南町の「紫電改」を見学しました。
 
一見した感想は「大きいな」と感じたことです。
ゼロ戦より一回り、大型で迫力があります。重戦闘機紫電改。
昭和20年、この紫電改もB-29やグラマン戦闘機と大空戦を
繰り広げていたのでしょう。思いを馳せました。紫電改を知っている方も
知らない方も一見の価値あり。
 
この紫電改は
昭和53年11月に、久良湾に沈んでいるのが発見され
翌年引き揚げ作業が
行われました。館内にはこの機体の搭乗員だったと
推測される第343海軍航空隊(剣)、
六名についての展示があります。

 

紫電改の沈む久良湾

▲紫電改が沈んでいた久良湾です。
南レク宇和海展望タワーより撮影。 
 
※碇義朗著『紫電改の六機』によれば、着水時の状況、
座席の位置などから考えて小柄な、米田伸也上飛曹か、とくに可能性の高いのは
武藤金義少尉と推測されているが、確定的な証拠が無いかぎり、
状況推測だけで断定することは避けねばならないと記されている。
 
※また、当該機体を「撃墜した」と証言する元米海軍戦闘機搭乗員
アプルゲート(アップルゲート)氏の主張であるが、
紫電改で戦った戦友たちによれば

「武藤少尉がまともに空中戦を行って、負けるはずがない」
「もし、落とされたとするなら、流れ弾か機体トラブルによるものであろう」
との見解もある。
 
「紫電改展示館」見学は無料。紫電改を見学できるのは、日本ではここだけ。
紫電改関連グッズを豊富に取りそろえた土産物店があります。
 

第343海軍航空隊

▲松山基地を再現したジオラマです。
なお、松山空港周辺には343空の使った掩体壕が残っており
そちらも見てきました。第343海軍航空隊航空基地跡
 

 

▲紫電改展示館の屋外にはこのような遊具もあり
尾翼には343と刻まれています。それにしてもF-4に似ている。
 

▲これは見なかったことに・・・。

紫電改
 
愛南町も素晴らしい目玉があるのですから、もっと町おこしに利用すれば
よいと思います。 まずは熟練ガイドの養成は必須。
 

紫電改05

 
アクセス
紫電改記念館(南レク内)
住所:愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1  馬瀬山頂公園内
 

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空母信濃に着艦した艦上戦闘機「紫電改」
 


零戦雷電震電

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烈風(改)紫電改

今治造船とバリィさん

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今治造船の艤装工場です。
今治造船は国内トップを誇る造船会社で、ここ今治のほか
伊予西条と丸亀にも工場があります。
大型船を多数、建造しています。
 

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船を造っています。
後ろの高架は来島海峡大橋です。ここから広島の尾道まで通じています。
 
そしてこちらは今治のローカルキャラクター
「バリィさん」です。
 
2011年、ゆるキャラグランプリにて、クマモンに敗れ2位に甘んじる
2012年、ゆるキャラグランプリにて、ついに優勝を獲得。
2013年、PRに十分な知名度を得たとして不出馬を表明。
 
身長150cm、体重150kg、胴回り150cm
性格はのんびりしているが、今治弁を話すせいで少しきついイメージがある。

今治名物の焼き鳥がモチーフで 
頭に乗っているのは来島海峡大橋、
ハラマキは名産の今治タオルを表したもので、持っているのは船。
 
ゆるキャラが生まれた背景には、今治でなければならない理由がありました。
今治は名産品が多く、瀬戸内海に面しており、とても良いところです。


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2013年9月29日 (日)

素晴らしい四国

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高知竜馬空港周辺の掩体壕を見たついで、西へ10km走り
桂浜から土佐湾を望みます。
 

四国は素晴らしいところでした。何と言っても
人柄が素晴らしい。お遍路さん文化があるのか
どこへ行ってもあたたかいおもてなしを
受けることができました。お遍路さんといえば
心に傷を負っている人も少なくない。そんな人たちを
あたたかく迎え入れてくれる精神は素晴らしいです。


ただ、唯一、残念だったことがあります。
香川のウドンを食べ損ねたことです。


わが栃木も世界遺産だと喜んでいるけれど、
きちんとお客さんをおもてなしできているのか疑問です。
どうもおごりがあるように感じます。四国を見習うべきです。

 

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高知航空隊の掩体壕

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海軍高知航空隊が使った掩体壕が多く残されています。

 
※掩体壕(えんたいごう)
飛行機を敵の爆撃から守るためのコンクリート建物。
盛り上げた土にコンクリートを直接流し込んで作った。
模型は松山の第343海軍航空隊のもの。

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▲大型掩体壕

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掩体壕は現在の高知竜馬空港周辺に点在しています。

第343海軍航空隊(剣)松山航空基地跡

第343海軍航空隊(二代目・剣)の基地は愛媛県の松山市にあり
拠点を鹿児島の鹿屋、国分、長崎の大村に置いた。
松山基地は現在の松山空港である。

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▲松山空港
 

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▲掩体壕
 
掩体壕(飛行機を爆撃から守るコンクリートの建物)
ご主人の許可を頂いて写真を撮らせてもらった。
掩体壕が車庫として利用されている。
現在は、住宅地やコンビニとなっているが
当時はこの辺りまで飛行場の一部だったことがわかる。
 
紫電改や彩雲が格納されたのだろうか。
 

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▲掩体壕
 
こちらは納屋として利用されている。
コンクリートの建物、しかも掩体壕ともなれば相当頑丈であるので
解体は容易ではない。

そういえば、以前、桜花の発射基地跡
訪ねたときも、コンクリートのカタパルトの土台はそのまま残されていた。
※桜花の基地を建設する際、軍に土地を接収され、戦後は返還されたものの
土地の境界線が有耶無耶になり、コンクリートの解体作業を自治体へ要請するも
資金を出し渋っているそうだ)
 

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こちらも掩体壕。分厚いコンクリートと
飛行機を収納していた形がはっきりわかる。
 

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篠原 直人 Profile
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