2017年7月25日 (火)

ペリリュー 楽園のゲルニカ


大人気漫画
『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の作者であります
武田一義先生と意見交換を実施させて頂きました。
 
武田先生は拙著『パラオ戦跡を歩く』をご覧くださり
極力、ありのままの事実を作品に
盛り込みたいとのお考えで一致しまして
いよいよ、物語の終盤をお描きになっています。
 
武田一義先生の『ペリリュー 楽園のゲルニカ』原画展が
7月28日(金曜日)より茨城県笠間市の筑波海軍航空隊記念館で行われます。
ぜひ足をお運びください。 
 
筑波海軍航空隊記念館お知らせページ
http://www.p-ibaraki.com/1545 
 
筑波海軍航空隊記念館TOPページ
http://www.p-ibaraki.com/

2017年5月31日 (水)

渋谷の大盛堂書店

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渋谷のスクランブル交差点の先にある
大盛堂書店。
 
創業者は船坂弘氏である。
 
船坂氏は
栃木県西方村(現在の栃木市)出身。
宇都宮五十九連隊第一大隊砲兵隊軍曹。
パラオ・アンガウル島玉砕戦の生還者。
アンガウル島の日本軍守備隊将兵1200名、玉砕戦で
生還した十数名のうちの一人である。
 
戦後は、この渋谷の一等地に大盛堂書店を開業し
書店の経営と並行して、多くの著書を残した。
 
船坂氏が残したかったもの、それは著書を読めば解る。
船坂氏は、著書の出版に際して、戦友遺族の家を一件一件
訪ねて回り、一人一人、漏れることなく、戦没者名を刻んでいった。 

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大盛堂書店は繁盛し、著書も売れた。
 
船坂氏はその資金で、アンガウル、ペリリュー、ガドブスの各島に
自費で慰霊碑を建立。そして今日に至る遺骨収集隊の先駆けとなった。
 
ところが、
戦争が終わって、誰が予想したであろう豊かな時代が訪れると、
人は欲深くなるのだろうか。
 
私心を捨てて、戦友の弔いに尽くす船坂氏とは対照的に
それを妬む者が現れた。

「本で大儲けして」 
「たかが軍曹のくせに」
「ペリリューの事など知らないくせに」
 
船坂氏はこんなバッシングにも負けず
生涯を戦友の慰霊に捧げた。
 
慰霊とは何か。まずは感謝と祈り
そして、誰がどこでどのように戦って死んだのか
記録に残すことではないだろうか。
 
船坂氏はまさにそれを戦後、貫き通した人物であった。
 
この話は本には載っていないけれど
船坂氏と、戦後の混乱期を
知る人物から取材して聞いて回った話だから
私は、少しだけならこうして書ける。 
 

大盛堂書店、今は船坂氏のご長男が経営されている。
 
スクランブル交差点を行き交う人の群れの中で、
こんなに人は多いけれど、
そんなことを考えているのは、たぶん私だけだろうと思う。

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渋谷の街は再開発が進んでいる。

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スペイン坂を上り切ったところに
A.D.2019とAKIRA金田のバイク。
西暦2019のネオ東京。
SFの世界もすぐそこか。
  
時代は過去から現在、未来へと繋がってゆく。
  

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関連エピソード
三島由紀夫と船坂弘の関孫六三本杉

2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年11月17日 (木)

パラオ本島(バベルダオブ島)の零戦52型甲

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオ本島(バベルダオブ島)沿岸に眠る零戦52型甲です。
地元の方には昔から知られていましたが、最近になって
公になってきたようです。 
 
写真は撮影されたM様承諾のもとお借りしています。
 
この零戦は零戦52型甲で三菱製であります。
零戦52型と比べると武装と防備が強化されたモデルとなっています。

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戦域の部隊配備状況から推測すると、
第201海軍航空隊、第261海軍航空隊第263海軍航空隊
第265海軍航空隊などがあげられますが、 私は
アイライを拠点にしたパラオ局地戦闘機隊の
第343海軍航空隊(初代隼)が確立として高いのではないかと
考えています。

2016年11月10日 (木)

くろがね四起 ジャングルに眠る

くろがね四起(九五式小型乗用車)

バベルダオブ島のジャングルを探索中
伝説の名車「くろがね四起」を発見しました。
フロントグリルとガーニッシュの形が特徴的です。

 
くろがね四起(正式名称:九五式小型乗用車)は
東急くろがね工業(現在の日産工機)が開発し
昭和11年~19年まで製造された純国産の四輪駆動車(4WD)でありました。
エンジンは1.2リッターから1.4リッターで33馬力(3300回転時)でした。
(80年後の現代における最新の軽自動車が0.6リッターで64馬力です)
 
くろがね四起は昭和19年までに4000台が製造されたとの記録が
残っています。大量生産の技術が乏しかった日本です。
自動車の生産台数としては少ない数でありますが
オートバイの陸王と並んで最も有名な自動車です。
  
帝国陸軍で正式採用されたくろがね四起は
各地で活躍しました。
ここバベルダオブでも自動車部隊がありましたし
伝令や将校の移動などにおいて活躍したものと考えられます。
 

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Photo

こちらはタミヤ模型の軍用カラーなので一見地味にも見えますが
広く民間にも使われていたなら、ポルシェやフォルクスワーゲンなどと
並ぶ、とてもお洒落でかっこいい車だったに違いありません。
 
くろがね四起は、その役目を全うして、ジャングルの中、静かに眠っていました。
世界の覇者であった大日本帝国時代の名残です。

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九四式六輪自動貨車(九四式トラック)

▲そして、こちらはいすずの九四式六輪自動貨車。通称九四式トラック。
このあたりには自動車がたくさん残されています。
  

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▲この車種だけがわかりませんでした。
フロント(ボンネット?)の溝が特徴的です。

2016年11月 7日 (月)

完売の見込みです

お陰様で
拙著『パラオ戦跡を歩く』の在庫が残り僅かとなってきました。
今すぐに売り切れることはないでしょう。しかしこのペースで試算致しますと 
半年程度での完売が予想されます。
諸々の事情により、第二版の予定は今のところございませんので
何卒ご容赦願います。

2016年11月 1日 (火)

九五式軽戦車(バベルダオブ島)

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Photo 
バベルダオブ島の九五式戦車を見に行ってきました。
 
この九五式戦車は昨年、ババルダオブ島のシャングル奥地で
発見されたばかりです。全部で六両以上が確認できました。

11月24日に編成された郡司三好大尉の師団直轄戦車隊と
推定されます。
 
郡司戦車隊は、ペリリューで玉砕した天野戦車隊の補充部隊として

編成され、そのままバベルダオブ島で終戦を迎えました。 
 
武装解除の際、米軍への引き渡しを拒み
隠密裏に土に埋めたものと思われます。

砲塔は失われていますが、内部の様子は当時のまま
保存されていました。周囲にはこの戦車のほかに
軍用車両が数多く眠っておりました。
 

当時の第十四師団編成表がこちらです。

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弾倉が確認できます。発掘してから雨ざらしなので
水がたまっています。

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こちらも水たまりのように見えますが、同じ戦車の天蓋です。
 
パラオで撮った写真は
たくさんあるので少しずつアップしています。

2016年10月 6日 (木)

映画をやります

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ペリリュー島の戦いを描いた映画
『追憶』が来月公開されます。
 
こちらの映画で一部デザインを
担当させて
頂きました。
 
よろしければ映画館でご覧ください。
 
どんなデザインを担当したかは
ぜひエンドロールまで見てください(笑)
 
『追憶』公式サイトはこちら

2016年9月26日 (月)

日本の中古車パラオで第二の人生

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パラオで走っている9割の車が右ハンドルの日本の中古車です。
右ハンドルで右側通行はちょっと運転しにくいですが、慣れればまあなんとか。
しかしヘッドライトの光軸も日本仕様のままです。
調整に限度があり、対向車は眩しい状態です。
非常にモンダイです(モンダイはパラオ語で意味もそのまま)
 
興味深いのがナビで、搭載の純正ナビをそのまま使うと
データ横浜付近が表示されます。
こんなジャングルの中なのに不思議です。
 
パラオの東経は134度で、岡山県と同じ辺りですが
北緯は7~8度ですのでこういった現象が起きます。

2016年9月19日 (月)

パラオのお葬式

アンガウル島に渡ったら、ちょうどお葬式の準備にぶつかってしまい
島民の方々は忙しい最中でした。そんな中、島民の方々には
本当にお世話になりました。
 
パラオのお葬式は、日本のお葬式とはだいぶ違います。
日本の場合ですと、ご不幸があると
夜中でも電話がかかってきて
翌日か翌々日にお通夜、告別式と、慌ただしく済まされてしまいます。
 
パラオの場合、準備期間が長いのが一番の特徴です。
ご不幸があってから、お葬式まで
短くても数週間から長い場合は2ヶ月もかかります。
この間、街中にお葬式の宣伝ポスターなどを貼ったり
遠方の親戚(グアムなど)に連絡して仕事を休む段取りをします。
もちろん豪華な料理やお酒の用意もします。
 
この間、ご遺体は病院の冷蔵室で保管されています。
 
なぜ、こんなにも準備期間をとるのか、それは
一人でも多くの参列者を集めるためで、すなわちお香典の額を
少しでも増やしたいという思いからです。パラオでは
お香典の習慣と金額が兎角、重視されています。
 
お香典は受け取るや否や早速開封され、
その場で発表されます。ラジオでも大々的に放送されます。
高額なお香典を出した方は評判が上がります。

良いとか悪いとか、言いたいのではなくて、そういう文化なのです。
 
お葬式では大音量で音楽を流し、お酒や料理が
振舞われます。はじめて目にした方は
それがお葬式だとは気付かないと思います。
 
パラオは女系社会ですので、
結婚の際は男性側が女性のお家へ多くの贈り物を
する習慣があります。とにかく結婚するとなると
男性側の負担は大きく、それをお葬式のお香典で取り返そう、
という考えもあります。
故人が生前の借金をお香典で返済した
という話も聞きます。

2016年9月18日 (日)

中国の影響著しいパラオ

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パラオ・コロールの街がチャイナタウンのようです。(平成28年9月中旬に撮影)
街も殺到する中国人観光客であふれ、パラオ特産の
シーフード(特に蟹)も全て中国系レストランが
買い占めてしまうため、価格が高騰し品薄状態になっています。
 
どこへ行っても中国人のお客さんが多い!
 
バベルダオブ島には次々中国資本によるコテージが
建設されています。
 
また、バベルダオブにはこれまた中国資本がゴルフ場を建設予定で、
パラオに大きな変革の波が押し寄せてきています。
 
パラオと中華人民共和国は国交がありません。パラオは
台湾(中華民国)を国家と認め、親密な関係を築いてきました。
 
数年前、中国の密漁船とパラオ沿岸警備隊による
銃撃戦により双方に死者が出ており、関係は
冷え込んでいましたが、経済的な結びつきは
増加の一途です。
 
パラオは外国人の土地の所有は認められていませんが
地主や地方政治家に多額の金額を提示し土地の供与で
開発を推進しています。

 
これに危機感を持って接するパラオ人も多いのですが
お金に目がくらんで前が見えなくなっているパラオ人も
多いのも然りです。
 
純粋なパラオ人の人口は一万人。世界の規模から
考えれば、経済的面から乗っ取ってしまうのは簡単なのです。

あるパラオ人は言いました。
「大きな建築物が見たいなら、日本でもアメリカでも行けば良い。
ここはパラオ。ありのままの大自然が一番の観光資源だと、
全然わかってない。みんなお金大好き。だから私、ゴルフ場建設と
徹底的に戦います」
 
美しい海と緑さえあれば、観光客のわがままに
媚びる必要は無いのです。パラオ本来の良さがどんどん失われている。

パラオ人はどうか目を覚ましてほしいと思います。

2016年9月16日 (金)

パラオ遺骨収集 第二次調査派遣隊

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パラオ第二次調査派遣隊は、
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会が主体となり
平成28年9月5日から14日迄の10日間
の日程を消化し無事帰国しました。
 
今回はペリリュー島・アンガウル島の両島へ分散して会員が
派遣されました。ペリリュー島は本隊4名で、厚生労働省職員が3名
随行、このほか現地の通訳1名、パラオ共和国文化省芸術文化局の職員1名。 
アンガウル島は本隊2名、通訳1名、厚生労働省職員なし、
文化省芸術文化局の職員1名の合計四名でした。
 
私はアンガウル隊でした。アンガウルは29年振りの遺骨収集となりました。
 
なお、水戸二連隊ペリリュー島慰霊会では
こうした遺骨帰還事業に参加頂ける方を募集しております。
もちろん旅費は日本国政府が負担します。
 
今後、遺骨収集の事業は新法人に移行しますが、
実際に派遣されるのは、それぞれの戦域でノウハウを持つ
戦友遺族会会員がメインとなるでしょう。
  
派遣先は、先ずは硫黄島となります。硫黄島で経験を積まれた方を
選抜し、外地(パラオ)へ派遣しております。
 
日本国を代表して行くので、気合が入ります。
今回は、島北西部の複郭陣地における
遺骨調査を実施しました。

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複郭陣地へのアクセスは、ジャングル内の道路を通行可能にする
ところから始まります。頻繁に現れる倒木を一本一本切断し
道を通行可能にしていきます。島民の方々の協力が必要です。
 

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青池側からのアクセスは特に困難を極めました。
台風に伴う倒木によって、日当たりがよくなったジャングルは
草が急激に成長し、茂みが深く深くなる為です。これらを蛮刀で
伐採して進むのですが、1分間で2、3メートル前身するのが
やっとの状態です。

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ガジュマルの根を切断して先へ先へ進む様子です。
ジャングルの踏破は、経験したものにしか理解できない
難しさがあります。地図上では僅かな距離も、時間がかかる上、
真っ直ぐ進むことすらままならない。こうした地形は
迂回するうちに方向がわからなくなります。GPSとコンパスを
確認しながら進みます。

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不発弾を踏まないように注意して進みます。
艦砲射撃で不発だった、巡洋艦クラスの砲弾。
こういった物が数多くあります。 

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地表骨は落ち葉が蓄積し発見は不可能なので、
岩場の窪みなどを重点的に捜索します。
 
ジャングルではアカムシと呼ばれるダニが棲んでおり、
これが地面から靴をつたって這い上がってきて主に足を刺します。
実はこれが一番厄介なやつです。
 
経験上、このアカムシにはある程度の潜伏期間があり、刺された直後は
なんともないものの、数日経過してから猛烈な痒みが発症し、
体質にもよりますが2週間ほど、痒みが残り、跡も消えません。
 
蚊のように目に見えるものでないので、
虫よけスプレーが必須ですが、それでも刺されます。
雨だったり、湿地帯で足を濡らしたりすると刺される確率が
さらに高くなります。
 
パラオではマラリアは確認されていませんが、デング熱があるので
注意は必要です。特に免疫が弱くなっているときは
リスクが大きくなります。
 

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青池からの進入が難しかったので、今度は反対側(海側)からの
進入を試みます。二荒山の麓から、山へ入っていきます。

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ここから入っていけそうということで
割合、高低差の少ない個所を選びます。

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先程のような茂みは少ないものの、
隆起珊瑚岩が剃刀のようにシャープです。
叩くとカンカンと高い音がする。
 
数年前、足を踏み外して、この隆起珊瑚岩に刺さり、
頸動脈を切って大出血した方がいるという事故の報告も
聞いています。血が全然止まらず、傷跡は消えません。
足を踏み外さないよう特に慎重に進みます。
 

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二荒山の陣地近く。
登ったり降りたりしながら複郭陣地内部へ。
 
地表骨は少ないので、
洞窟を探します。洞窟であれば、骨はそのまま残っている
可能性が高いので、今回の目標は先ず、洞窟を見つけることでした。

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左で駄目なら戻って右へ進みます。山岳部は三次元の大迷路で、
ルートを選ぶセンスがあるとのこと。
この辺り、パラオ人の現地ガイドはさすがであります。  

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隆起珊瑚岩は内陸部へ進むにつれて尖った部分が風化し
丸くなってきます。とはいえ油断は禁物であります。

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多くの場所にクレバス(大穴や亀裂)があります。
深さは数メートルから十数メートルにも及び、これを茂みが覆い
隠していることもありますので、よく見て足場を確認します。

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ガジュマルを足場に岩場を上り下りします。
 

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ようやく開けた場所に出ました。
ここが複郭陣地内部です。遺留品が多く、戦闘した形跡があります。
玉砕地点も近く。
大小の洞窟も発見し、中を捜索します。

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ここが二荒山鍾乳洞か?
大きな洞窟は何か所かあったのですが、
どれが二荒山鍾乳洞か、特定はできませんでした。
 
二荒山鍾乳洞とは、パラオ人の民間人が身をひそめていた洞窟で
最後の玉砕前、そのパラオ人たちが日本軍守備隊に
 
「我々も戦わせてほしい」と
願い出たという逸話が残っている事で有名です。
主にインターネットなどでは
ペリリュー島での出来事として語られていますが、それは誤りで
もともとは、ここアンガウルであったお話しです。
そして残念ながら、パラオ人の犠牲者もペリリュー島、
アンガウル島ともに出ています。
 

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ジャングルから出てきました。
これは米軍が建てた「解放記念碑」
 
残忍な日本軍によって戦争に巻き込まれ、
虐げられたパラオ人が、正義の米軍によって救出された、
という場所を記念するものであります。
 
正義とは、長い歴史の中で常に戦勝国によってのみ
作られ、語られてきました。
 
真実はどうだったかというと、
戦後、ペリリュー島、アンガウル島にも
米軍が進駐。アメリカ領土となります。ところが、アンガウルの島民議会では
「日本時代のほうが良かった。日本の統治に戻してもらおう」
という決議が下された事実があります。
 

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アンガウル滑走路を走って宿泊地に戻ります。
 
今回は多くの遺骨を発見したほか、
個体性のあるご遺骨として頭蓋骨も見つかりました。
今後の帰還事業に繋げたいと考えております。
ご遺骨の写真掲載は控えますが、日本へ帰ることを
願って、七十年以上も我々を待っていた戦没者の姿は
涙なしには語れません。
 
拙い文章で恐縮です。南方における遺骨収集がどんなものか
写真だけでも内容が伝われば幸いです。

2016年8月 9日 (火)

パラオの電話帳に記載された人名が興味深い

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パラオの電話帳が手元に一冊あると便利だからと
仲間にお願いしたら、現地で貰ってきてくれました。
 
これで一冊でパラオ全国民の電話番号と住所を網羅しています。
パラオの人口は1万強ですから、これ一冊で足りるのです。
 

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パラオは海の国なので、満潮干潮の時刻と、月齢が書かれています。
お月様はパラオ国旗にも描かれている通り、パラオの人々にとって、
特別な存在で、信仰の対象ですので、とても重要視される訳です。
 
そして、何といっても興味深いのが人名です。
日本時代の名残で、日本由来の人名が多いです。

A4全てファーストネーム(名前)です。
サトーさん、タナカさん、サクライさん、ナカムラさん、ヤマモトさんなど、
親しかった日本人から取ってつけたのがはじまりだと云われています。

A4xイチローさん、ジローさん、サブローさん、シローさん、

A4f_2イシドーローさん(石灯籠の意)、キンタローさん、など。
 
ほんの一部を紹介しました。これだけでも、日本人との繋がりの深さが
理解できると思います。日本人とパラオ人は80年前から本当に
仲が良かったんですね

2016年2月 7日 (日)

昭和14年 横浜-パラオ間に実在した空の定期便

1

  
昭和14年、パラオはサイパンとともに

最も早く内地からの定期航路を結びました。
運航スケジュールはこちらの記事で書いた通りです。
  
昭和14年といえば77年も前のことです。
旅客船と比べれば運賃は割高でしたけれど、一般のお客さんも
この飛行艇に普通に乗れたのです。
どれだけ壮大な事を実施していたか、
ビジュアル化しました。
 
この飛行艇は
海軍では九七式飛行艇ですが、民間での名称は
川西式四初飛行艇と言いました。運用したのは大日本航空株式会社です。
カラーリングはジュラルミン剥き出しの銀色で
「綾波」号など、パーソナルネームが存在しました。
開戦とともに、飛行艇は海軍に事実上徴用され、運命を共にしますが

戦争が始まるまでは南洋の楽園と内地を結ぶ夢の定期便だったのです。

2015年12月11日 (金)

ペリリュー島のラストサムライ(1)

A4

ペリリュー島のラストサムライ
永井敬司さんのお話(1)
 
今回は水戸歩兵第二連隊の元軍曹の永井敬司さんにお話を伺った。
永井敬司さんは昭和19年9月のペリリュー島で上陸戦から
昭和22年まで終戦を
信じず戦った。
 
何回かにわけて書くことにします。永井敬司さんは93歳。
水戸歩兵第二連隊第二大隊(富田少佐指揮)本部付。
一万人の将兵が玉砕したペリリュー島で生還した
日本軍
正規兵34名の中の一人。
 

Q.篠原
ペリリュー島の戦いについてお伺いします。

A.永井さん
私は昭和19年の9月15日の上陸戦から
その前から随分艦砲射撃はあったんだけども、
いわゆる中川州男大佐が戦死したとされる11月24日までと、
その後、終戦を信じず、昭和22年までペリリュー島で
戦いました。生き残ったのは我々34名だけです。

Q.篠原
戦友の最期の姿は覚えていらっしゃいますか。

A.永井さん
みんな真面目に死んでいきましたよ。
それこそ純粋な気持ちでね。「天皇陛下万歳」といってね。

Q.篠原
最期は「お母さん」と叫んだのではないのですか。

A.永井さん
そんな女々しいのはいなかったですよ。いないいない。
そんなのいないかんね。嘘だかんね。私らの第二連隊は
よく訓練されていたから。少なくとも私の見た限りはね。
最後はやはり「天皇陛下万歳」です。
だいたい、22歳から23歳くらいの年の兵隊が多かった。
年長者でも25歳くらいです。そういう若い人たちが大勢、大勢
本当に真面目に死んでいったんです。太平洋の防波堤たれということでね。
あなたはその年齢で、そういうことが出来ますか。


Q.篠原
富田少佐の最期は自決だったのですか?

A.永井さん
自決じゃないですよ。富田少佐の最期は突撃です。
私は大隊本部にいたから見ていました。
一日目のイシマツ、イワマツ陣地(オレンジビーチ)の戦いで、
二日目に私らが到着したときは、死体が累々だった。
米軍の死体もね。南地区隊の高崎連隊の千明大隊長が頑張ってくれて、
大打撃を与えたんですね。

当初は富田大隊長が自決しようとしたんですけど、
周りが止めたんです。「大隊長、自決より突撃をしましょう」とね。
それで、富田大隊長は軍刀をスっと抜いてね、
「それでは」と言って敵陣に斬り込んで行きました。
それが大隊長を見た最後でした。

同時に無傷だった天山の砲兵陣地から掩護射撃がありました。
富田大隊長は、その友軍の援護射撃の中を突っ込んでいきました。
もしかしたら、その爆風でやられたかもしれない。熾烈なものでした。
それが二日目の夕方くらいだったかな。

Q.篠原
国の為に真面目に死んでゆく、という概念が
我々戦後世代にどうやったら少しでも理解できるでしょうか。

A.永井さん
こればっかりは当時を生きていないと難しいんじゃないですか。
私は昭和22年まで終戦を信じず戦いました。

そのことを某新聞社が「手を上げて投降した」と書いたんです。
そこで私はその新聞社と大ゲンカになりましてね、
最後まで記事を取り下げなかった。
これは私だけの問題ではないんですよ。
真面目に死んでいった戦友たちの名誉の問題でもあるんです。

死んだ戦友たちの・・・名誉の問題なのですよ。

昭和22年に澄川少将の命令解除を受けて
我々はようやくジャングルから出てきました。

そこでアメリカ軍の司令官が言ったんです。
「あなた方は捕虜ではありませんよ。捕虜というのは
戦争中に捕まった兵隊を指すのだから、もう戦争が終わって
立派に任務を遂行したではないですか」と
アメリカ軍の司令官がそう言ってくれたんです。

それなのに某新聞社は手を上げて
捕虜になったなどと・・・・私らは、死んだ戦友は
国のために最後まで戦ったんです。

Q.
アメリカ軍と戦って、アメリカ兵に
どういった感情を持っていましたか。

A.永井さん
憎らしいということはなかったですね。アメリカ兵の
死体を見ると、みんなまだ若いんですよ。私らと同じようにね。
この人たちにも祖国アメリカには恋人や奥さんや、家族がいる。
そう思うと、かわいそうになりましてね。
だけど、やらなきゃやられてしまうから戦いました。

 
つづく
 

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2015年12月 7日 (月)

『緑の島のお墓』をミシェルさんに歌って頂きました

私のサイトをご覧くださり、歌ってくださいました。
嬉しい限りです。募集内容はこちらです。
まだまだ多くの方が歌ってくださることを願っています。
 
今回の唄はプロ歌手のミシェルさんです。
よろしければお聴きください。
 


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲ミシェルさん歌唱

緑の島のお墓 
YouTube: 緑の島のお墓
 
▲ピアノソロ・久保亜未
こちらは伴奏用です。ぜひ唄をつけてお送りください。 

2015年8月12日 (水)

天皇陛下ペリリュー島訪問の裏話その2

陛下がパラオを訪問された時のエピソードです。
ペリリュー島の西太平洋戦没者慰霊碑へ陛下が到着する前
参列者に向けて、宮内庁職員から次のような通知がありました。
 
「もし、雨が降った場合ですが、参列者の方々は必ず、雨具を身に
着けるようお願いします。陛下は、参列者(国民)の一人でも雨に濡れているのを
ご覧になると傘をお使いになることを、固く辞退なさいます。ですから、
何卒、お願いします」
 
当日は好天に恵まれましたが、そういったエピソードがあったことを
ここに記しておきます。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
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2015年7月30日 (木)

軍隊の無い国パラオ

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世界には色々な事情を抱えた国があるということを伝えたい。
 
画像は「コンパクト・ロード」。パラオ本島を一周する総延長78kmの
初めての舗装道路。台湾(中華民国)の援助によって建設された。
パラオは台湾(中華民国)を国家として認めている。
台湾の援助額と親密さはこの道路が証明している。
 
対照的に中華人民共和国とは国交が無い。
一昨年には同国の密漁船と銃撃戦を展開して双方に死者が発生した。
パラオは小国なので沿岸警備隊も充分に機能していない。EEZと領海侵犯を
行う中華人民共和国の密漁船が問題になっているが、必死の抵抗を
見せている。
 
独立を決断したパラオ
パラオは世界でも珍しい軍隊の無い国家である。
1978年に米国領より独立を宣言し、8回に渡る住民投票の末、
92年、米国領からの独立を国民自身の手により決断した。
ただし、ビキニ環礁(隣国マーシャル)の核実験でパラオ国民の核に対する
反感は非常に厳しいものとなっており、パラオには非核条約があり続ける。
 
独立後も安全保障を米国軍に委ねるパラオは依然として
強大な軍事力を持つ米軍と核兵器の傘下にあるという、矛盾が生じる。
よってこれを棚上げする形で独立が決定した経緯を持つ。
 

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独立できなかったグアム
ついでなので、隣のグアムに目を向けてみよう。世界中で米軍による
パワーバランスが働いていることを忘れてはならない。
 
グアムには、米軍の大航空拠点がある。グアム島の面積は
淡路島と同じ程と仮定して、このうち米軍基地が占める割合は
現在およそ33%。オキナワから海兵隊が移転すると47%に増大する。
グアム島の半分は基地になる。グアムは米国領だが、住んでいるのは
チャモロいう現地人で、大統領選の投票権すらない。
その負担は計り知れない。
 
関連記事
幻のチャモロ共和国~なぜグアムは独立できなかったのか

2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。

2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月 9日 (土)

プルメリア(エリライ)

プルメリア

プルメリア

プルメリア

プルメリア

パラオのプルメリアは美しい。プルメリアは英名であり、
パラオ語では「エリライ」と称する。
 
木によって形や色が違う。上の写真2枚はアンガウル島で撮影した
エリライで、近くにある木だが形がかなり異なる。次の二枚は
ペリリュー島の小学校近くで撮影した。
 
プルメリア(エイライ)はキョウチクトウ科に属する植物で高さ5メートルほどの
木に咲く。木の高いところは届かないが、枝下の花なら充分観察できる。
パラオの花は白から黄色が多く、ピンクの割合が少々。
(そういえばグアム島ではピンクが多かった印象を受ける)
ただし乳汁は有毒なので注意が必要。
 
気に入った花があれば、立ち止まって観察してはどうだろうか。
 

プルメリア

 

2015年5月 2日 (土)

パラオのジュゴンの伝説

ジュゴン

 
パラオに生息するジュゴン 

パラオはミクロネシア唯一のジュゴン(人魚)の生息地で
その数は200頭前後と推測されている。
 
パラオ全域の大堡礁の礁湖(ラグーン)内深所に生息し夜間、礁草の浅所へ
餌を食べにやってくる。 餌は海草のアジモ、アマモ類で、これを一日に
数十キログラムを食べなければならない。
 
ジュゴンは沖縄以南、東南アジア、オーストラリア沿岸、パラオに分布し
体長3メートル、体重400キロ、非常におとなしい性格で臆病なため
海上で遭遇できるケースは滅多になく ほとんどの場合、航空機より
目撃されている。目撃地点はマラカル港周辺、バベルダオブ島の
西岸ガラスマオが 多く、そのほかマラカル港外東やアルミス水道東、
カイシャル周辺でも 目撃例がある。
 
絶滅が危惧される存在に
飛行機による発見頭数は 1978年に34頭、79年に15頭、83年に17頭、
84年に58頭 91年に26頭と、減少傾向にあり絶滅が危惧されている。
※倉田洋二博士による調査
 
パラオの法律では捕獲は禁止である。 しかし古くからの伝統を受け継いで
いる部落では現在でも食用に捕獲している。 数年前、バベルダオブで
ジュゴンが捕えられたとの報告を受け 調査チームが現場に急行すると、
海岸には骨だけとなった ジュゴンが残されていた例もある。
 
そのほか神聖視し食用を禁じる部落も存在したり、神に供えてから処理
しないと災いが おこるとされる部落など、多様である。
 
捕獲には呼吸の為、浮上してきたところを 狙うか、餌場に網をかけて
待つ方法があるが 滅多に捕獲できない。非常に美味である。
 
人魚の悲しい伝説
神話にも登場するジュゴンに対するパラオ人の関心は極めて深くジュゴンの
第一頸椎(オレウル)はアンガウル・カイシャル を除く男子の酋長のみの着用が
許された神聖なアクセサリーである。 このようにパラオではジュゴンに多くの
伝説(人魚の悲しい伝説が有名)神話、タブーなどが存在し部落によって違いは
あれど、いずれも特別な存在として崇められている。
 

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

2015年4月28日 (火)

パラオでジンベエザメを見られる確率

パラオでジンベエザメを見たい!というリクエストをするダイバーさんが
いるので、書いておくことにした。ジンベエザメ所望で旅行を
計画されている人の参考になれば幸いです。
 

ジンベエザメとパラオ

 
ジンベエザメはパラオも回遊しているが
結論からいうと、かなり難しい。自他ともに認めるサメマニアで
パラオも経験豊富な現地のダイビングガイドに尋ねたところ
「2000本近く潜って一度見られるくらいの確率じゃないかな?」
とのこと。
 
しかしジンベエザメがパラオを回遊していることは事実のようで
他のショップで同じことを尋ねたところ、運よく何度も目撃している
インストラクターが居た。それでも2、3年の滞在中での
話だったけれど。
 
「ジンベエザメと泳ぎたいならモルディブとか、オーストラリアへ行った方が
いいよ!パラオは豊富な種類の魚を楽しむところだから」
 
ということでした。もしジンベエと遭遇できたなら
かなりの幸運といえよう。
 
水族館のジンベエザメはいつでも見れるが、水槽の中だし窮屈そうだ。
もちろん私もパラオでジンベエザメを見たことはない。
一度、一緒に泳いでみたい。
 

2015年4月25日 (土)

アンガウル慰霊碑の現状

アンガウルの慰霊碑をアンガウル島の方々(パラオ人)が
ほぼ独力で直してくれました。今回、天皇陛下はペリリュー島を
訪問されましたが、アンガウル島の住民も慰霊碑もしっかり修復して
くれていました。
 
ペリリュー島の慰霊碑は厚労省の管轄なので日本政府が修復して
くれましたが、アンガウルは民間扱いされてしまい
日本国政府は
関与できないと断られてしまってます。一方で
栃木県知事の福田富一さんは
「アンガウルで叔父が戦死している」と言って
県民にアンガウルの戦いを周知
させるとともに10万円を私費で寄付してくれました。

   
今回の修復は

アンガウル島のパラオ人の独力で修復を成し遂げました。
重機もないのにあの大きな下野観音を、どうやって持ち上げたのか
わかりませんが、ふたたび綺麗な慰霊公園が完成しました。
本当にパラオ人の創意工夫と、底力にただただ、敬服と感謝です。 

こんなに尽力してくださっているのに日本人が無関心すぎて恥ずかしい。
 
また続報が入り次第写真付きで

掲載します。

2015年4月23日 (木)

パラオ・ペリリューの戦いにおける民間犠牲者について

パラオ・ペリリュー島の戦いにおいて民間人(パラオ人)の犠牲者は
いなかった(ゼロ)とネットを中心に美談として広がっているが、残念なことに
実際のところは死者が出ている。戦没者名簿には島民の名前が
記されている上、実際にペリリュー島から逃げず、戦争が終わるまで
隠れていたという証言も私は現地で聞いた。
 
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Photo▲ペリリュー北のガラカヨ(現在のカープ島)で米軍将校に救出されたパラオ人家族。
 米兵からキャンディーを受け取る様子(上)家族はこの後軍医の診察を受けた(下)
 昭和19年9月

 
しかし日本陸軍としては、当初から島民の命を救うべく強制疎開を最優先
事項として実施したのは事実である。日本陸軍は原則、民間人を戦闘に
巻き込まないのが鉄則であり、軍規である。そんな陸軍の
懸命な策あっても、疎開の船に乗り遅れたり、故郷を離れることを拒んだ
島民も存在した。そのため一人も漏らさず、というのは残念ながら
達成できずにいた。
 
そして皮肉にも疎開先であるパラオ本島(バベルダオブ島)で
米軍の銃爆撃を受け、命を落としたパラオ人も多かった。
これは天皇陛下もパラオ訪問時に言及されている。
 
「バベルダオブで米軍機の機銃掃射を受けて父が死んだ」などの
悲惨な戦争証言がパラオ人の間で根強く残っているが
これはもちろん、米兵による非戦闘員への虐殺行為であり、
重大な戦争犯罪として立件されるべきなのだが、裁かれることは無かった。
 
当時、 どれくらいの島民を疎開させる必要があったのだろうか。
昭和18年6月末の統計によると、当時
ペリリュー島の人口は日本人が160人、パラオ人が899人、朝鮮人1人
アンガウル島は日本人が1325人、パラオ人が754人、朝鮮人が539名
であった。
 
アンガウル島のほうが人口が多いのは良質な燐が採掘できたからで
ペリリューにも燐鉱はあったが、規模は小さかった。朝鮮人のほとんどは
燐鉱採掘の従事者である。
 
朝鮮人軍属の戦死
ペリリュー島においては、上陸戦が行われる前の昭和19年
トンネル掘削や飛行場整備のための朝鮮人軍属が動員されていた。
この朝鮮人軍属を臨時の歩兵として北部守備隊に編入し、ペリリュー
戦を展開したので、それで戦死した朝鮮人は民間人の死亡あたらないのか、
見解がわかれるところだ。朝鮮人は正規の日本兵と異なり
配属の指揮官によるところが大きいが、戦闘を強いられず
米軍に投降した例も多い。
 
パラオ人の戦死
ペリリュー島に限ればおよそ900名の民間人を
疎開させる必要があったが、これを拒んだり、疎開船に乗れず
島に残った者、数名が戦死した。アンガウル島はもっと多い。
最後一隻の疎開船が上陸戦までに間に合わず、犠牲と
なってしまった。

2015年4月19日 (日)

ジェリーフィッシュレイクの危機

ジェリーフィッシュレイク

ジェリーフィッシュレイク

 
ジェリーフィッシュレイクはパラオの
世界遺産ロックアイランドのマカルカル島に存在する
汽水湖で
その極めて限られた自然条件から、発生した二種類のクラゲが
棲息している。ゴールデン・マスティギアスと、オーレリアムーン
ジェリーフィッシュであるが、いずれの
のクラゲは刺す力を持っていない。
 

ジェリーフィッシュレイク


深さ30メートルの湖のおよそ15メートル以下は猛毒が湧き出ているが
(無酸素層における硫化水素)水面を泳ぐぶんには害はない。湖は
地下三か所のトンネルで海と繋がり、塩分濃度を保っている。この猛毒域に
存在するトンネルのため、古代より生物が海と湖をと一切行き来すること
なく現在に至る。
クラゲは太陽を求めて湖内を回遊するので天候によって
群れの位置が異なる。
 
ジェリーフィッシュレイクと同様の条件でクラゲの生息する汽水湖が
ロックアイランド内に2ヶ所存在するが自然保護の名目から、観光客が
訪れることが可能なのはここのみである。
  

ジェリーフィッシュレイク

▲水面に浮かぶクラゲの群れが確認できる。画面上中央はシュノーケリングで
 観察を楽しむ観光客

 
ジェリーシッシュレイクの危機
ジェリーフィッシュレイクは
1982年にナショナルグラフィックという雑誌で紹介されて以来有名になり
1985年から一般的な観光地となった。
 
ジャリーフィッシュレイクを訪れるには
専用のパーミッド(許可証)が必要となる。
10年前は無料であったが2015年現在、多くの観光客が殺到している
ことから、100ドルを支払う必要がある。
ツアーに参加申し込みをすればツアー会社が用意してくれる。
 
特に近年は中国、韓国からの多くの観光客が訪れるようになり
湖の水質悪化が懸念されている。私がみたところ
ジャリーフィッシュへ向かう検問所前の桟橋には

桟橋が足りないくらいの観光客が、湖への順番待ちで
何十人~百人くらい並んでいる。その光景は

ゾッとする。数年前は多くても10数名程度であった。
 
クラゲは非常にもろいのでフィンで触れるだけでも死んでしまう。
これにパラオ側は危機感を募らせて値上げに踏み切ったのだろうが
観光客は増える一方であった。世界でここだけなのだから金を払っても
見たいという欲求であろう。しかし制限しないと貴重な生態系が

失われてしまう。対策は急務である。
 

ジェリーフィッシュレイク

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
パラオ地図

▲枠内をクリックするとそれぞれの地域に拡大されます
 
パラオ地図フリー素材(無料)配布中

 

カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

パラオの伝説巨大シャコ貝

イノキアイランドとガルメアウス島との間にある
シュノーケリングポイントをクラムシティと称する。
 
ここには我々人間の時代を遥か凌駕する推定年齢100~200歳とも
いわれる直系1~2メートルの
巨大シャコ貝が棲んでおり、その貝が
閉じる迫力ある様子などをシュノーケリングで
観察することができる。
 

Koed0027

  
シャコガイはいくつか種類があるが、ダイビングやシュノーケリング中に
何度も目にとまる、水底で青い光を放つシャコ貝の姿は美しく

神秘的である。ストーリーボードにも描かれパラオでは最も身近な存在
ともいえる。神話に登場するほか、刺身で食しても美味である。
現地語でも同様に「サシミ」と呼ぶ。
  
パラオ神話ではパラオ諸島は巨大シャコ貝から誕生したウアブ
がアンガウルで育ち、子供の姿のままみるみるうちに巨大化し
それを恐れた島民が焼き殺してしまい、前進に炎を
ウアブはアンガウル以北に
倒れ込んだ。そのとき飛び散った体のあちこちがペリリューから
ロックアイランドの数々の島となり、上半身と頭は
バベルダオブ(パラオ本島)に姿を変えたと伝わっている。
 
ここに棲むあまりに巨大化し動けなくなったシャコ貝ははるか古代より
パラオの海を見守ってきたことであろう。ここクラムシティではそんな歴史
の一端に感じることができる。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2015年3月15日 (日)

戦艦武蔵のパラオ離脱

戦艦武蔵が話題になっているので、私はパラオで武蔵を目撃した
という人物にインタビューしたことがあるので資料と照らし
合わせながら少し書く。(ぜんぶは書ききれない)
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、遠くから見ていた。かき分けた

海水がサンゴ礁に乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「でかくてたまげたね。アラカベサンの山よりでかかった」

 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため
パラオは騒然とした。
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。連合艦隊司令部はコロールの
陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の海軍司令部に置かれた。
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。
 
「我々勤労奉仕団に混じって、飛行場作るのを手伝ってくれた」
 
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ滑走路を完成させるに至った。
これが現在のパラオ国際空港である。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との報せを
受けた連合艦隊福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると
大慌てで武蔵以下艦隊を直ちにパラオ港外へ待避させることを下令。
 
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで
1分40秒かかる。これが全速航行時ならば 1.4キロも走って
しまう計算になる。
 
パラオ・コロール泊地から外洋に出るには唯一「西水道」
を経由せねばならない。最少幅110メートル、8.5キロに
及ぶ西水道は出口付近で直角に折れ、複雑かつ急速な潮流に
より通行を困難なものにした。満潮時の他は絶対に離脱不可能である。
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、かき分けた海水がサンゴ礁に
乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「武蔵が転進した後、コロールでは31日の夜、大型の飛行機の音が聞こえた。
確か2機だったと思う。(※記録では3機目が着水しているが)低いうなるような
音だった。

一旦、静まり返った後、夜明け前に離陸していった」
 
これは二式大艇のエンジン音だったと推定される。
のちの海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)である。

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。

中川大佐と村井少将と伊藤海軍少将

村井権治郎少将、ペリリューへ
ペリリュー島守備隊の総司令官が陸軍の中川州男大佐であったのは

周知であるが、中川大佐より階級が上の村井権治郎少将
追ってペリリュー島へ派遣される。
 
通例であれば上級の村井少将が指揮権を掌握するが
ペリリュー島の戦いにおいては中川大佐が最高司令官として
戦うことを決定し、師団の方針とした。
 
これが疑問だと尋ねられることが多いので
村井少将がペリリュー島でどのような役割を担ったのか、
ここで述べたい。師団の方針は次のようなものだった。
 
「村井少将を戦術顧問としてペリリュー島へ派遣する。
指揮権は中川大佐が持ち、村井少将はあくまで中川大佐の
補佐・相談役に徹する」
 
中川大佐は国際派として知られ陸軍大学を出たばかりで、
その頭脳と有能さは陸軍でも屈指であった。
十四師団長の井上貞衛中将はこれをよく知っており
激戦が予想されるであろうペリリュー島へ
中川大佐を派遣することで最大の働きを期待したのだった。
 
中川大佐はゆくゆくは将官として活躍が望まれていたが
それ以前に南方への出征、ペリリューでの玉砕した。
 
要塞構築の専門家・村井少将 
片や、村井少将は要塞構築の専門家であったので
ペリリュー島の陣地構築において手腕を発揮した。
 
中川大佐はもとより司令官というよりも、参謀タイプであり
大佐がほとんど口を開かない寡黙な人物だったのに対し、
それよりだいぶ年配の村井少将は人情味あふれる明るい
性格であったと
伝わっている。二人でちょうとバランスが取れて
いたとも取れるが、
このあたりのやり取りは『天皇の島』に
詳しく書いてあるので
見てほしい。
 
海軍への牽制か?陸海軍の対立
特筆すべきは、村井少将が後から派遣されたという点である。
少将が要塞構築の専門家であるなら、なぜ最初から中川大佐と
共にペリリュー島に渡らなかったのだろう。
 
元来パラオ・ペリリュー島は海軍の島であるため
海軍の権限が非常に大きく、東洋一と称される
飛行場を有した。航空隊要員(整備兵)や
建設設営隊が多くを占め、陸戦部隊をほとんど持たなかった。
 
僅かに海軍の陸戦隊(根拠地隊)が高角砲等を備え守備を担っていたが
米軍パラオ進攻の公算大と判断した大本営は
ペリリュー島守備の必要性を急務とし、大陸から
陸軍部隊(14師団)を急遽、ペリリューへ派遣したのが昭和19年4月。
戦いの始まるわずか半年前であった。
 
海軍航空隊の壊滅と陸軍部隊の到着
3月31日のパラオ大空襲でペリリュー島の海軍航空隊は壊滅し
補充された航空隊も徐々に消耗。
マリアナ沖海戦後にはほとんど全滅し、
以後、フィリピン、本土決戦に備えて、戦線の後退、および航空機の
温存に伴いパラオ飛行場は事実上放棄された。
 
一方、ペリリュー島へ到着した陸軍はこの間、大山麓を中心に広がる
山岳地形を
利用し、大変な努力の末、500~700あまりにおよぶ
洞窟陣地から構成される複郭陣地を構築し決戦に備えた。
 
パラオ地区の最高司令官は誰か?
ペリリュー島を含むパラオ地区の最高司令官は
海軍第30根拠地隊司令の伊藤賢三海軍少将
ペリリュー島は西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵海軍大佐が最高階級であった。
 
(西カロリン航空隊が結成された頃には稼働する航空機は
ほとんど残っておらず、西カロリン航空隊という部隊名称は
ほとんど名目上といったところである)
 
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ
この時点でペリリュー島には
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ。
 
そこで陸軍は村井少将のペリリュー派遣で、中川大佐の後ろ盾とし
海軍への発言力を強める狙いもあったと充分に考えられる。
陸軍は陣地構築のための資材を海軍に提供してもらえず苦労した。
陸軍兵士の回想によれば「何度も何度も海軍も頭を下げてお願いして
建設資材を提供してもらった」と記録されている。
 
陸軍と海軍壕の違い
陸軍の陣地と海軍の陣地を比べてみれば
現在でも違いがはっきりわかる。陸軍の陣地はツルハシなどつかった
手掘りで、
急ごしらえの壕だったのに対し、海軍はもとより立派な壕を
有していた。
 
代表的なところでいえば、水戸山陣地はもとより頑強な海軍壕で
南興村付近のトンネル構築のプロ(海軍軍属)が構築した陣地であった。
天井も高く敷板が敷いてあり、
発電機を備え、空調設備(エアコン)まで
あったという
証言もある。
 
陸軍は大山を中心とする複郭陣地で、すべて急造の天然洞窟を利用するか
手掘りした壕である。
戦術や兵隊の指揮など、関係する要因は他にも
あるので
一概には言えないが、それにしても海軍壕は早くに陥落し
陸軍壕は玉砕まで長く持ちこたえた。皮肉な結果となった。
 
村井少将と中川大佐の意見対立
籠城戦の継続に伴い、村井少将と中川大佐で
戦略意見の対立が目立つようになる。
 
中川大佐は一日でも長く戦って
米軍の進攻を阻止するという信念を持っていた。であるから
「各々の命は大切に」し、持久戦に徹せよと部下に命じた。
 
2014年、ペリリュー戦がフジテレビで地上波のドラマになった。
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』という題目だったが
  
この中川大佐の提唱した「命を大切に」という願いは本来であれば
戦略上の概念であったのだが、何故か現代風にねじ曲げられて
「個人個人の命はかけがえのない尊い大切なもの。生きて日本に帰ろう」
という価値観に塗り替えられて放送されてしまった。残念でならない。
 
ここで倫理上どっちが正しいか、という議論はさておき
まがりなりにもペリリュー戦の歴史をなぞったドラマであるなら
極めて不正確で誤った描写だと言いたい。少し脱線した。
 
玉砕を求める村井少将
これに対し、村井少将の立案した作戦は
飛行場付近の米軍陣地に突撃をかけ、玉砕するというものであった。
 
水が無いのである。
村井少将水筒のエピソードについて書く。
10月初頃、ペリリュー戦は中盤となり既に守備隊は籠城戦に移行。
『天皇の島』では村井少将と部下のやりとりを次のように描写している。
村井少将の人柄を感じるエピソードだ。以下『天皇の島』136頁より
 
----------
壕内は静かだった。敵のマイク放送も聞こえない。
村井少将は軍刀を抱きかかえ、岩壁にもたれて眼を閉じていた。
栗原曹長は拳銃の手入れをしていたが、そういえば
村井少将の拳銃の調子が悪く、修理するつもりだったのが
敵上陸にまぎれて忘れていたことを思い出した。
 
「閣下、閣下、拳銃の手入れを致しますから」
そっとひざをゆすると村井少将は「おう、おう」と
相変わらずのニコニコ顔で目を覚ましたが首を振った。

「いや、栗原、わしには拳銃はいらん。使うことも
ないじゃろ。それよりも喉が渇いた。水を一杯くれんか」
「水ですか」と、栗原曹長は当惑げに岩壁にたてかけた水筒を振り返った。
水には難儀をしていた。もともとペリリュー島には
水源地が少ない。
 
中央台地群で利用できるのは天山の西、
第二大隊第四中隊の
守備範囲で第四中隊長・川又広中尉の名をとった
「川又水源地」と
南征山の東にある池ぐらいのものであった。
だが、川又水源地は既に
敵中にあり、一文字壕から間近に見える
池も近付きにくい。夜、敵の照明弾、
サーチライトをぬって
水を汲みに行くのだが、ときに敵弾に倒れる。
 
「水汲みで死ぬのも立派な戦死だ」と中川大佐ははげましたが
やはり小銃片手に死ぬのと水筒を抱いて射殺されるのでは
兵の気迫は異なる。自然に水汲み志願者は減り、今では毎日訪れる
スコールを砲弾の薬莢に受け、あるいは
洞窟の岩壁にしたたり落ちる
わき水を水筒にためて
喉の渇きを凌いでいる状態だった。
 
「おう、こりゃあすまんことをいうた。あとでいい。あとで・・・」
栗原曹長の様子に村井少将は右手をあおぐようにふりながらそう言った。
しかし老齢の少将の望みである。洞穴内にぼんやりとうずくまり
あるいは横になっていた兵たちがあちらこちらで起き上がり水筒を振り
飯盒を鳴らして水を集め始めた。
 
「いいんだ。もういいんだ」
少将からみれば兵たちはわが息子にひとしい若さである。
その子供たちがとぼしい水を差しだす。少将は声をつまらせ、夢中で
「いい、いい、お前、飲め」と水筒を押し戻し
飯盒をおさえた。
 
-----------

 
引用おわり
 
「最後に水が飲めるなら死んでもいい」
  
いずれにしても死ぬのだから、部下の兵士をこれ以上
もう苦しませたくないというのが村井少将の心持であろう。
これを拒否しなければならない中川大佐の心中
辛いものであったに違いない。
 
ペリリュー戦終結~ラストコマンダーは誰か? 
11月24日、中川大佐と村井少将は自決し
日本軍守備隊による組織的戦闘は終結。
米軍はのちにペリリュー島占領を宣言する。
 
ここで米軍は日本軍の最高指揮官の遺体を確認するのが
通例であるが、ペリリュー島を陥落させた米陸軍81師団は
当初、伊藤海軍中将をペリリュー島の最高指揮官と見込んでおり
遺体の捜索にあたったが、発見に至らず、のちに
中川大佐と村井少将が最高指揮官であることが
捕虜からもたらされた情報により判明、結論付けられた。
 
それもそのはずで伊藤賢三海軍中将は
コロール(あるいはバベルダオブ)から指揮を行っていたのである。
ペリリュー島で海軍応急陸戦隊を率いたのは西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵大佐で、玉砕している。
 
パラオ本島も玉砕の準備
誤解を招かないよう書いておく。
当然ながら、井上師団長をはじめ陸軍14師団主力と伊藤海軍中将も
ペリリュー島陥落の後は、コロール・パラオで決戦があるものと覚悟して
いたからパラオ本島の防備を
厳とし、死ぬ覚悟はできていた。
 
ペリリュー・アンガウルで大痛手を被った米軍は結果としてパラオ本島の
攻略を断念し
終戦まで兵糧攻めに徹することになるが、この間
バベルダオブとコロールは米軍の
執拗な空襲によって戦死者、
病死・餓死者が続出し、その合計は4800名以上となった。
(犠牲者の多くは昭和21年の復員中にも含まれる)
 

陸軍の井上師団長は昭和20年終戦後、米護衛駆逐艦「アミック」を
多田参謀長とともに訪れ、降伏文書に署名、その後は
グアム軍事法廷でいわゆるBC級戦犯の容疑者
とされ、死刑判決を受けた。(ただし判決は戦勝国による一方的な
もので必ずしも公正無私でないことを断っておく)
井上中将はのち終身刑に減刑、釈放され
復員したが、昭和36年10月、
病により死去した。
 
伊藤海軍中将は生きて終戦を迎えたようだが
その後の消息は不明である。

2015年3月11日 (水)

3.11 そのときパラオでは

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私は日本人としてパラオの方々に心からお礼を申し上げたいです。
2011年3月11日、東日本大震災当時、パラオに居りました。
 
コロールの街頭では子供たちが募金を呼び掛けてくれていました。
そして行きあうパラオ人の誰もが、私を日本人と知るなり
「あなたの家族は大丈夫か?」と尋ねてくれました。
 
官庁はもちろん、民間施設もほとんど全てがしばらくの間、
街中が半旗でした。

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私は計画停電が終了したころ、日本に帰ってきたので
その頃の苦労を知らず、地震の恐怖も体験していませんでした。
私の出来ることといえば、なんだろうと考えました。
そうだ、このブログを通じて伝えることだ。 
 
残念なことに、これらの善意はほとんど日本では報道されることは
ありませんでした。だからここで一人でも多くの日本人に
パラオ人の善意を伝えたいのです。
  
日本人の多くはパラオという国がどこにあるか知らない。
でもパラオ人は全員日本を知っている。パラオと日本は
最も大切な友人であり歴史上の盟友でもあるから。
 
パラオの人口は一万人強ですが、国民一人当たりに占める寄付金の金額は
世界屈指でした。100ドル札を躊躇なく募金箱に入れてくれるのです。
だから、日本政府は貴重なお金を無駄にしてはいけないと感じました。 
 
私の故郷は福島の隣、栃木です。
内陸故に津波被害はありませんでしたが、地震で死者が出ましたし
私の実家も一部が崩れました。
 
ですが、多くのパラオ人が声をかけてくださって
「家族は大丈夫か?」との言ってくださった。その心遣いに
本当に涙が出ました。改めて感謝申し上げます。
 
※この写真を撮ったのは3月25日です。

2015年3月 8日 (日)

アンガウル玉砕戦

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「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ。自分だけ死に損なって
戦友にどんな顔をしたらいいか・・・申し訳なくてね。」
 
パラオ・ペリリュー・アンガウルの玉砕戦で生還した
倉田洋二氏は語る。
 
倉田氏と私は、パラオが注目される以前から
個人的な付き合いをさせて頂いていたが、
今までは倉田氏本人に迷惑がかかると思い、ほとんど
書かなかった。しかし今年こそ出すべきと思って少しずつ思い出や
やってきたことを書いていこうと思う。倉田氏との
思い出は、とにかくたくさんありすぎて
書ききれないので、まずは概要だけ記す。

多くはビールを飲みながら倉田氏本人から私が直接聞いた話なので、
本には載っていない。取材とよべるものでもないので荒削りで申し訳ない。
 
倉田氏が徴兵後配属されたのはパラオ・アンガウル島。ペリリュー島の南
10kmに位置する島は、ペリリューと同様の激戦地で
後藤丑雄少佐率いる宇都宮五十九連隊歩兵一個大隊(第一大隊)と
兵站あわせておよそ1200名が守備、米一個師団を相手に
一ヶ月間もの間、抗戦を続け玉砕した。生還者は原則いないという概念で
考えてよいが、負傷、最後の突撃に参加できず、生き残った兵士は50名である。
 
倉田氏は昭和19年、パラオ・南洋庁勤務中に現地召集を受け
陸軍第14師団(照)五十九連隊第一大隊、日野中尉指揮する
砲兵隊に配属、同年9月17日の上陸戦でアンガウル島日野中隊は
47mm速射砲を構え、上陸進攻する米軍と対峙した。
 
「死ぬのは怖くなかったよ。とにかく一生懸命だったからね」
 
アンガウル島に上陸したのは米陸軍第81師団で、上陸後も
複郭陣地に籠城する守備隊に苦戦を強いられた。
 
狭い山道を先鋒部隊である米戦車群は一列で進撃するほかなく、
倉田氏所属の日野砲兵隊はその先頭車両に狙いを定め撃った。
先頭車両を擱座され、さらに後部の車両を撃破された米戦車隊と
随行歩兵は行き場を無くし大混乱に陥った。
 
「最初は互角の戦いができたよ。LVT(水陸両用戦車)は装甲が薄いから
簡単に破壊できた。M4戦車はそれよりかは少し頑丈だったけど
徹甲弾を打ち込んで撃破できた。むこうも身動きが取れないから
撃った弾はほとんど命中した。」
 

Imgp7616

▲倉田氏が実際に使っていたと推定される47ミリ速射砲。アンガウル島西港付近。
 

「だけど弾は限りあるから、なくなったらおしまいだ」
 
中隊は弾を撃ち尽くすと、速射砲を捨てて複郭陣地の奥深くへ
後退して徹底抗戦の構えを取った。険しい山岳地形を活用し、
狙撃、手榴弾で戦った。すでに中隊は散開し生き残った兵士で
最後の一兵まで戦う覚悟であった。
 
アンガウルの籠城戦では水の確保が最重要であり、
水を求めて青池(サロメ湖)まで決死隊で下らねばならない。
米軍との直接対峙では優位性を保ったが、この水汲みで戦死した者が
多かった。また生き残った兵士で夜間斬込隊を編成し、ほとんどは
生きて帰らなかった。
 
「ジャングルの中で一列になって進んだんだけど、上官が、
倉田、進まんか!進まんか!といってケツを叩くんだけれども
進まんかと言われても、前が進まないんだからしょうがないんだ」
 
10月中頃、倉田氏は迫撃砲を受け、半身不随の重症、
身動きが取れなくなった。後藤大隊長は
動けるもの(およそ150名)を集め、最後の訓示ののち
敵陣に最後の突撃をし、玉砕した。これでアンガウル島における
組織的戦闘は集結し、米軍による占領が宣言された。
 
関連記事
後藤大隊長の最期
 
倉田氏はその後、壕内で一ヶ月間身動きが取れず、
それでも生存者数名で陣地の死守を遂行しつつあった。
11月3日、米兵が戦利品を探しにやってきたところを
発見されたが、その米兵は生き残っていた日本兵に驚き
逃げ出した。
 
まもなく米兵は仲間を引き連れ掃討戦にやってきた。
戦友の高木上等兵が手榴弾戦の末、戦死した。
「下園、手榴弾をくれ!」
絶叫した高木上等兵の最後の言葉が今も忘れられないという。
 
正月を迎える。
すでにアンガウル戦終結から2jヶ月。
「いつか連合艦隊が援軍にくるから」と本気で信じていた。
パパイヤの根やヤモリ、米軍からかっぱらった食糧で食いつなぐも、
栄養失調になりつつあり餓死は時間の問題であった。
アンガウルからペリリューへ泳いで渡ることを決断。
共に居た沖縄の兵士が山原出身で泳げなかったため、
筏を作り、数名で夜の闇をついて脱出を試みたが
アンガウル海峡の潮の流れは速い。やがて力尽きて
西港付近へ流し戻された。
 
ふたたび複郭陣地に籠城し、米軍の食料を奪うべく
夜間出撃。その際、歩哨線のアンテナ(鉄条網)に引っかかり
沖縄兵士二名と中山二等兵が戦死した。
 
倉田氏もいよいよ最後と観念したが、撃たれなかった。
米兵が物珍しげに集まってきた。米軍MPの尋問を受け、
ペリリュー島捕虜収容所へ送られる。ここで船坂軍曹と再開する。
下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等とも再会。
「倉田!生きていたのか!」と
たいそう驚いたという。ペリリューからヤップ、ウルシー、
グアム、ハワイ、米本土ポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経て
ウィスコンシン、アイオワのクラリンダー口外のP.Wキャンプへ入る。
終戦の後の昭和20年11月、横浜港に入り浦賀の
銃砲学校で復員した。
 
そしていまふたたび戦友の御霊を守るべく
倉田氏はパラオ島で暮らしている。
 
私はパラオが注目されるずっと前に現地の
倉田氏の自宅へ訪ねていき、初めて会って話をした。
そして幾度となくお世話になり現在に至る。
 
徒然なるままにまた、かけることは書ける範囲で書く。
 
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アンガウル島へ行こう

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 3日 (火)

パラオ地図(フリー素材配布中)

パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

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▲パラオ諸島

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▲ペリリュー島
 

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Photo_8

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------
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2015年3月 1日 (日)

ペ島の桜を讃える歌 (歌唱・御堂諦)

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
作詞:オキヤマ・トヨミ,ジョージ・シゲオ/作曲:トンミ・ウエンティ
歌:御堂 諦/ピアノ伴奏:久保 亜未
ペリリュー島」在住のパラオ人が日本人のために作ってくれた曲で
現在も歌い継がれています。
 
ペ島の桜を讃える歌
以前、こちらのサイトでボーカルを探していたのですが、
プロのナレーターの方が引き受けてくださり歌っていただきました。
歌唱は御堂諦さんです。素晴らしい歌声に感激しております。
ぜひお聴きください!私の企画がここまで大きくなるとは思いませんでした。
嬉しい限りです!
 
久保亜未さんによるピアノソロ(音源)はこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=0JKEuDxvNhQ
 
 
▼『緑の島のお墓』は引き続きボーカルを募集中です。
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/01/post-65a6.html

https://www.youtube.com/watch?v=8Ey434yLfKk

2015年2月21日 (土)

国家運営の縮図

Imgp8187

 
写真は世界一田舎といわれるパラオの首都マルキョクにある
国会議事堂。
 
当時はドイツやアメリカへ留学する友人を羨んでいた。

自分は何故こんな場末へ来てしまったんだろうと後悔した。
今はその考えは逆転した。パラオでよかったと。
私はアポなしで大統領に会いに行ったこともある。
小国だからこそ国家の運営に関してほとんど全ての分野ついて
把握することが容易だったし、それは大国の縮図でもあったので
短時間で多くの事柄を学ぶには好都合だった。
アメリカ留学には真似できまいと思った。
 

パラオの人口は現在およそ2万と考えて良いが
そのうち純粋なパラオ人(主としてカナカ族)は
7割で、残り3割をフィリピン人、バングラディシュ人が
占める。パラオ人の年間収入が3万ドルにも満たない家庭でも
フィリピン人のメイドを雇っている。フィリピン人の賃金は安い。
 

パラオの国家財政はアメリカ、日本、台湾(中華民国)から多額の
援助で成り立ち国民の殆どはその金で暮らしている。
 

中国(中華人民共和国)とは仲が悪いので国交が無い。
一昨年、カヤンゲル環礁の北で中国船の密漁船と
銃撃戦をやって双方に死者が出た。
世界でも珍しい軍隊の無い国である。
ただし有事の際の軍備は米軍が担っている。
 

外国人の扱いについて書く。外国人は原則
帰化(パラオ国籍の取得)はできない。たとえば日本人が
パラオ人と結婚しても国籍は日本のままである。
 

現地でビジネスをしようと考えても、外国人が
不動産を所有することは認められていないので
土地や建物の名義人をパラオ人にする必要がある。
だから会社が大きくなってしまったところで
丸々乗っ取られてしまったり、名義を提供するといって
多額の詐欺に遭う事例が殊に多い。一応の
法治国家と雖も、賄賂文化も根強く残っている。
 

一方、労働者はどうか。
外国人の就労ビザは2年単位で発行されるが、これも条件が厳しい。
現地で就職先が決まって、その会社でうまくいけば良いのだが
もし途中で辞めてしまうと、向こう2年は他の会社では働けないという
制限つきだ。(実質、移籍ができない)2年間も無職で過ごさなければ
ならないのは無理に近い。だから大抵は帰国してしまう。
 

ここまで読んで
「すいぶん外国人に厳しいんだなぁ~。だから発展しないんだよ」と
安易に思う人は甘い。この対応は国家として至極当然といえる。
 

人口1万人強しかいないのだから
外国人に利権を与えてしまったら、国家そのものの
乗っ取りなど容易い。乗っ取りを企む第三国が
国策として外国人を送り続けたらパラオ乗っ取りは
赤子の手をひねるようなもので数年もかからないだろう。
 

冒頭にこれは大国の縮図でもあると書いた。だから日本も同じだ。
外国人差別は良くないが、日本は日本人のものであるから
国家主権は是が非でも守らなければならない。
日本もしっかり危機感を持ってほしいと思う。

2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、
中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に搭乗する。
従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。ただし、指揮官
(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと証言されるが
これは、特に改造を施したということではなくて、指揮官クラスがべらぼうに
コンディションの良い機体を占有していた、という意味合いではなかろうか。
 
一方、整備員は担当する機体が決まっており、
それぞれの担当機を責任を持って整備した。零戦の尾翼等に
〇〇一整曹などと整備担当長の名が記されれいるのはこのため。
 
その他項目一覧

なぜゼロ戦と呼ぶのか 零戦は無敵だったのか
零戦のパイロットになるには 零戦操縦方法
零戦の撃墜王(エース)は誰か
零戦の色(カラーリング)について 機体はいつから緑?
零戦21型と52型の違い
  

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

Photo_36

零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

03_2

なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

07_2

ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)


Imgp1010

模型製作代行は「神雷工房」へ

2015年1月30日 (金)

バベルダオブ島地図

パラオ本島バベルダオブ島地図

▲地図をクリックすると拡大されます

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ペリリュー島地図

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2015年1月17日 (土)

日本統治時代のコロールの街

日本統治時代のコロールの街

昭和17~18年頃のコロールの街です。
当時のモノクロ写真は少し残っていますが、カラーですと
印象がよく伝わってきますね。美しい街並みです。
 
この絵は南洋神社と合わせて
最近、古物屋さんから大枚はたいて手に入れた絵葉書です。
この絵の中の世界へ行ってみたいです。この絵柄が好きで好きで
ずっと眺めています。
 
タイムマシンに乗ってみたい方はこちらの動画もご覧ください。
パラオ人の証言~幻の楽園

2015年1月13日 (火)

南洋神社

南洋神社

 
官幣大社・南洋神社は昭和15年、コロール島アルミズ高地に
創建された南洋群島総鎮守たる神社である。
 
南洋神社の建立
人々が営むところには必ず神社が建立される。
大正8年にはじまった南洋統治で、南洋全体での日本人の人口は7万人を
超えたが、中でも 一番の繁栄地コロールに神社が無かった。
 
そのため政府は神武即位紀元二千六百年記念行事の一環として
延べ九万坪にも及ぶ広大な境内を有する神社創建に至った。
祭神は天照大神である。かくして南洋神社は人々の心の拠り所となった。
  
祭神:天照大神
社格:官幣大社
鎮座地:コロール島アルミズ高地
境内地:約九万坪
造営費:33万1千円
造営期間:昭和15年2月-10月(9ヶ月)
鎮座日取:昭和15年11月1日
 
本殿・祝詞殿・神饌室・祭器室・渡殿・拝殿・渡廊・神饌所
祭器庫・玉垣・神塀・神橋・荒垣・神門・手水舎・鳥居・社務所
斎館・儀式殿・倉庫

上奏書 南洋神社を創立し官幣大社に列格の件

南洋群島は大正8年帝国の委任統治下になって二十余年 群島開発の業著しく進展し
いまや在住邦人7万を超え
南方の経済的発展の前進基地たるのみならず実に国防上
の要衝として重要なる地位を占め
五万の島民また聖恩に浴して福祉大に増進せらる
神武即位紀元二千六百年にあたり南洋神社を建立す
拓務大臣小磯國昭 昭和15年2月1日
米内光正内閣総理大臣 昭和15年2月6日

 
南洋神社の消失 
昭和20年、コロールに進駐してきた米軍によって 南洋神社は焼かれ、
境内とほとんどの建造物は跡形もなく消失した。
 

パラオ人による再建
その後長らく神社跡は放置されていたが、1997年、パラオ人が神社跡の土地を
購入し個人邸宅の敷地となった。 その折、神社消失の経緯を忍びなく思った
邸宅の主が、旧神社の本殿・拝殿があった辺りに祠を再建し守ってくれている。
 
当時の南洋神社そのものの建造物としては 石段と参道沿いの石灯籠などが
僅かに残っている。
 
実際に行ってみよう
では、実際に行ってみよう。現在は個人の邸宅の敷地内にあるので
必ず許可を取ってからお邪魔しよう。気軽に参拝させてくれる。
  

20100206_300

20100206_299

一度は消失した南洋神社。しかし
パラオ人が再建してくれた。こういった思いには
日本人として本当に嬉しく、涙がこみ上げてくる。
 
実際にはご祭神は移されているので正式に認められた神社ではないのだが
なんとかならないだろうか。ここの主人も全くの無償で祠を建て、毎日掃除を
してこんなに綺麗に守ってくれている。手ぶらで行くのが申し訳ないくらいだ。
 
正式に神社としてふたたびご祭神を祭るとか
(私は専門家ではないので難しいことはわからないが)
南洋神社の御朱印を設けるとか(超貴重なパワースポット)
もっと日本人に来てもらう方法を考えられないだろうか。
 
神社を再建してくださったパラオ人の方には心から感謝します。
本当にありがとうございます。


◆◆

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2015年1月11日 (日)

緑の島のお墓(追記/ボーカル募集)

この曲は、ペリリュー島在住のパラオ人、ウエンティ夫妻が日本人の為に
作って
くれたものです。慰霊に訪れる日本人が減った今もペリリュー島の
島民
たちは緑のお墓を守ってくれています。
  
どんなメロディーか知りたいというご意見があり
今回、ピアニストの久保亜未先生に演奏して頂きました。
(原曲を細かに再現しました)
パラオ人の優しさが込められています。ぜひお聴きください。
 

緑の島のお墓
YouTube: 緑の島のお墓

▲ピアノソロ・久保亜未


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲歌唱・ミシェルさん
 
 
Photo

 
緑の島のお墓

 
作詞:アントニオ・ウエンティ
作曲:トンミ・ウエンティ

 

遠い故郷から はるばると
お墓を参りに ありがとう
緑のお墓の  お守りは
ペ島にまかせよ いつまでも

 

海の中にも 山の中
ジャングルの中にも 土の中
英霊よよろこべ 安らかに
一緒に暮らそよ とこしえに

 

ペ島の願いはただひとつ
日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ
知らせておくれよ 祖国まで

 

伝えておくれよ 祖国まで
父母兄弟 妻や子に
僕らは緑の 島暮らし
涙をおさえ さようなら
涙をおさえ さようなら
  

大きな歌詞カードはこちらからダウンロード

Imgp2841  
 
ボーカル募集します
ペ島の桜を讃える歌と合わせてCDに2曲を収録しました。
またボーカル(歌ってくださる方を募集しています)
音源を希望される方はお問い合わせください。
※非営利企画です。
 

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
 こちらは御堂さんに歌っていただきました。
『ペ島の桜を讃える歌』

 

ペ島の桜を讃える歌

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)


ペ島の桜を讃える歌
YouTube: ペ島の桜を讃える歌(ピアノソロ)

この曲はペリリュー島在住のパラオ人が日本兵の武勲を讃える
ためつくってくれた曲です。
パラオ人が作ったという点に歴史上
非常に意義深いものがあります。 

 
 
ペ島の桜を讃える歌
作詞:オキヤマ・トヨミ、ジョージ・シゲオ
作曲:トンミ・ウエンティ
 


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ 

オレンジ浜を血で染めた
兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島はすべて墓となる
 

小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾撃ち尽くし食料(しょく)もない
 

将兵(へいし)は桜を叫びつつ
これが最後の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し
 

日本の桜は春一度
見事に咲いて明日は散る
ペ島の桜は散り散りに
玉砕れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
 

今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
 

平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る
 

どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗びし
あつい涙がこみあげる
 

戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
 

2014年10月24日 (金)

ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

_20090715_0139_1

 
米軍側より見る ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

LVTまたはLVT(A)は上陸用舟艇または水陸両用戦車の名称である。

海兵隊では主に水陸両用装軌車両の略で
アムタンク(AMTRAK)または
アムトラック、(AMTANK)と呼ばれた。
 
ペリリュー上陸歩兵は全てアムトラックへ乗車
米第二海兵師団は1943年11月のタラワ攻略で
3000名を超える死傷者を出した。 タラワではアムトラックが
不足したため日本軍の銃火の下で サンゴ礁を歩いて上陸
しなければならなかったことが原因と考えられる。
第一海兵師団はこの戦訓から ペリリューでは突撃歩兵は
全てアムトラックに乗車し上陸することになっていた。
 

_20090715_0260_1▲ペリリュー島Dデイ。最終支援射撃を行う米艦船と上陸部隊。
 

_20090718_0918_1_1▲母艦であるLSTより出撃する米第一海兵師団とLVT

 
出撃から強襲揚陸まで

アムトラック・タンクは母艦であるLSTより出撃し
海岸から4000ヤード(3.6キロメートル) のラインで集結、
陸波を構成する。海岸線まで 時速7.2キロメートルで進撃し
およそ30分の距離であるが、上陸直前は極めて脆弱である。
 
「畜生!ジャップは無傷だ!」
もっとも、第一海兵師団は既に艦砲射撃で壊滅した海岸陣地に
日本兵が無傷の状態で潜んでいることは知らず
水際での反撃は全くの想定外であった。このため
海兵隊史上、極めて多大な犠牲を払う結果となった。
 
艦砲射撃を行った
J.B.オンデンドルフ海軍少将は
「ペリリュー・アンガウル両島に対する艦砲射撃は上陸前に
3,490トン、じ後3,359トン、
合計6,849トンであり、その効果に関し
上陸時の砲爆撃は当時最も完全で従来の如何なる支援より優れている
と思ったが
日本軍の掩蔽した火砲がLVT(A)に射撃開始したときの
私の驚きと残念さはどうであったかは想像されると思う」とのちに回想している。
 

_20090715_0141_2_2▲ペリリューの海岸を目指すLVT(A)4群

 
直撃弾で真っ直ぐに轟沈
LVTは装甲の薄さから、日本守備隊の放つ榴弾は脅威であり
徹甲弾においては過大ともいえる破壊力であった。 これらの直撃を
受けた車輛は兵員の逃げ出す間もなく水深の深い場所では真っ直ぐに
轟沈した。 浅瀬では燃え上がり、海兵隊員は火だるまとなりこぼれるように
海に落ちていった。

_20090718_0898_1_1

_20090718_0858_1_1▲ペリリュー島海岸を目指すLVT群。海岸より4000ヤード(3.6キロメートル)より
時速7.2キロメートルで進撃し砂浜到達まで30分を要した。
 

60輌が撃破された上陸戦
9月15日のDデイ(上陸戦)では 日本軍守備隊の熾烈な射撃により
60輌が上陸前に撃破されたとされる。(※1 
 

_20090718_0831_1▲LVT(A)4パーソナルネーム「レディラック」は最後まで生き残り
現在もペリリュー南部のジャングルにひっそりと眠っている。
 

陸上においての威力
しかし陸上においてのアムタンクは支援射撃や歩兵の盾として
絶大な威力を発揮し アムトラックは補給物資の輸送に重宝された。
この任務は危険を伴うものであり操縦士たちは飛行場までの運転を
パープルハートラン (名誉負傷賞へのひとっ走り) 山岳地帯への運転を
シルバースターラン (銀星章へのひとっ走り)と呼んでいた。
 

_20090715_0129_1▲ガドブス島掃討戦で火炎放射を行う様子

 
ペリリュー島での功績は大
どの操縦士も自分が何回運転したのか、あるいは車両を 何度修理したのか
わからなくなっていた。 彼らの忍耐力を維持していたのは奇跡とも
いえるほどであった。 操縦士はアムトラックが撃破されると所属する
トラクター大隊に戻らずその場で戦闘歩兵として最前線に留まる者もいた。
 
水陸両用車両は終始多大な犠牲を払ったものの
強襲揚陸での使用は当時最も優れた戦法であったし、犠牲の
多くは艦砲射撃の誤算からくるものであった。
結果として、その功績は大きく、ペリリュー戦で不可欠な存在で
あったのは確かである。
 
※1)日本側資料によると(防衛省戦史叢書)上陸戦当日に撃破された車両は少なくとも
60輌以上と記されている。
米軍公式記録では26輌のみとされている。 この数の相違は
多くのアムトラックの車長が水深の深い場所で完全に水没したような状況でなければ
撃破判定に異議を唱えたためであると考えられる。

 

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▲LVT4 上陸用舟艇
通称「アムトラック」 ペリリュー上陸戦で主力であった強襲揚陸艇。
クルー3名で兵員30名が輸送可能であった。 カタログ上の速力は
陸上32km/h、海上12km/hで、このLVT4は6月のサイパン戦で
はじめて使用された。兵員の乗降口が後部に移り、海岸で下車の
さいの防護を高めた。 ペリリュー戦では全てが更新されず不足分は
乗降部が前方の旧式LVT2等で埋め合わせており それらに乗車した
海兵隊は不運であった。
  

Imgp5770

Imgp5771


Imgp7743

▲LVT(A)1 水陸両用戦車
アムトラックにM5A1スチュワート軽戦車の砲塔である37mm戦車砲と
30口径機銃同軸装備を 搭載し、装甲を強化した水陸両用戦車である。
Dデイではこのアムタンクが最前線で制圧射撃を行い、その1分後、
突撃部隊の歩兵を載せたアムトラックが上陸した。
 

Imgp5746

▲LVT(A)4 水陸両用戦車(手前)
火炎放射装甲車 火力を強化し、M8砲塔に75ミリ榴弾砲が搭載され
50口径機銃を砲塔後部に備えた。いくつかの車両ではこれに火炎放射器を
備え、内陸部における掃討戦で 絶大な威力を発揮した。
  
▲LVT(A)2 水陸両用装甲車(奥)
LVT-2を装甲化したタイプで 兵員18名が輸送可能であった。
 

南方地図

風邪で寝込んでおりました。
何もできず3日も費やしてしまいました。
季節の変わり目は要注意ですね。
  

Scan001

 
戦前の南方地図です。
大きなサイズはこちらからダウンロード

当時の日本はこの地図に表された通り、太平洋の覇者であり
いかに米国にとって脅威だったか窺い知ることが出来ます。
 
これらの領地領海は全て国連から統治を認可された
委任統治領で、戦争に勝って手に入れたものではありませんでした。
 
 
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(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗って
(6)関行男大尉の教官を務める
(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

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