2015年1月30日 (金)

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2015年1月17日 (土)

日本統治時代のコロールの街

日本統治時代のコロールの街

昭和17~18年頃のコロールの街です。
当時のモノクロ写真は少し残っていますが、カラーですと
印象がよく伝わってきますね。美しい街並みです。
 
この絵は南洋神社と合わせて
最近、古物屋さんから大枚はたいて手に入れた絵葉書です。
この絵の中の世界へ行ってみたいです。この絵柄が好きで好きで
ずっと眺めています。
 
タイムマシンに乗ってみたい方はこちらの動画もご覧ください。
パラオ人の証言~幻の楽園

2015年1月13日 (火)

南洋神社

南洋神社

 
官幣大社・南洋神社は昭和15年、コロール島アルミズ高地に
創建された南洋群島総鎮守たる神社である。
 
南洋神社の建立
人々が営むところには必ず神社が建立される。
大正8年にはじまった南洋統治で、南洋全体での日本人の人口は7万人を
超えたが、中でも 一番の繁栄地コロールに神社が無かった。
 
そのため政府は神武即位紀元二千六百年記念行事の一環として
延べ九万坪にも及ぶ広大な境内を有する神社創建に至った。
祭神は天照大神である。かくして南洋神社は人々の心の拠り所となった。
  
祭神:天照大神
社格:官幣大社
鎮座地:コロール島アルミズ高地
境内地:約九万坪
造営費:33万1千円
造営期間:昭和15年2月-10月(9ヶ月)
鎮座日取:昭和15年11月1日
 
本殿・祝詞殿・神饌室・祭器室・渡殿・拝殿・渡廊・神饌所
祭器庫・玉垣・神塀・神橋・荒垣・神門・手水舎・鳥居・社務所
斎館・儀式殿・倉庫

上奏書 南洋神社を創立し官幣大社に列格の件

南洋群島は大正8年帝国の委任統治下になって二十余年 群島開発の業著しく進展し
いまや在住邦人7万を超え
南方の経済的発展の前進基地たるのみならず実に国防上
の要衝として重要なる地位を占め
五万の島民また聖恩に浴して福祉大に増進せらる
神武即位紀元二千六百年にあたり南洋神社を建立す
拓務大臣小磯國昭 昭和15年2月1日
米内光正内閣総理大臣 昭和15年2月6日

 
南洋神社の消失 
昭和20年、コロールに進駐してきた米軍によって 南洋神社は焼かれ、
境内とほとんどの建造物は跡形もなく消失した。
 

パラオ人による再建
その後長らく神社跡は放置されていたが、1997年、パラオ人が神社跡の土地を
購入し個人邸宅の敷地となった。 その折、神社消失の経緯を忍びなく思った
邸宅の主が、旧神社の本殿・拝殿があった辺りに祠を再建し守ってくれている。
 
当時の南洋神社そのものの建造物としては 石段と参道沿いの石灯籠などが
僅かに残っている。
 
実際に行ってみよう
では、実際に行ってみよう。現在は個人の邸宅の敷地内にあるので
必ず許可を取ってからお邪魔しよう。気軽に参拝させてくれる。
  

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一度は消失した南洋神社。しかし
パラオ人が再建してくれた。こういった思いには
日本人として本当に嬉しく、涙がこみ上げてくる。
 
実際にはご祭神は移されているので正式に認められた神社ではないのだが
なんとかならないだろうか。ここの主人も全くの無償で祠を建て、毎日掃除を
してこんなに綺麗に守ってくれている。手ぶらで行くのが申し訳ないくらいだ。
 
正式に神社としてふたたびご祭神を祭るとか
(私は専門家ではないので難しいことはわからないが)
南洋神社の御朱印を設けるとか(超貴重なパワースポット)
もっと日本人に来てもらう方法を考えられないだろうか。
 
神社を再建してくださったパラオ人の方には心から感謝します。
本当にありがとうございます。


◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2015年1月11日 (日)

緑の島のお墓(追記/ボーカル募集)

この曲は、ペリリュー島在住のパラオ人、ウエンティ夫妻が日本人の為に
作って
くれたものです。慰霊に訪れる日本人が減った今もペリリュー島の
島民
たちは緑のお墓を守ってくれています。
  
どんなメロディーか知りたいというご意見があり
今回、ピアニストの久保亜未先生に演奏して頂きました。
(原曲を細かに再現しました)
パラオ人の優しさが込められています。ぜひお聴きください。
 

緑の島のお墓
YouTube: 緑の島のお墓

▲ピアノソロ・久保亜未


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲歌唱・ミシェルさん
 
 
Photo

 
緑の島のお墓

 
作詞:アントニオ・ウエンティ
作曲:トンミ・ウエンティ

 

遠い故郷から はるばると
お墓を参りに ありがとう
緑のお墓の  お守りは
ペ島にまかせよ いつまでも

 

海の中にも 山の中
ジャングルの中にも 土の中
英霊よよろこべ 安らかに
一緒に暮らそよ とこしえに

 

ペ島の願いはただひとつ
日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ
知らせておくれよ 祖国まで

 

伝えておくれよ 祖国まで
父母兄弟 妻や子に
僕らは緑の 島暮らし
涙をおさえ さようなら
涙をおさえ さようなら
  

大きな歌詞カードはこちらからダウンロード

Imgp2841  
 
ボーカル募集します
ペ島の桜を讃える歌と合わせてCDに2曲を収録しました。
またボーカル(歌ってくださる方を募集しています)
音源を希望される方はお問い合わせください。
※非営利企画です。
 

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
 こちらは御堂さんに歌っていただきました。
『ペ島の桜を讃える歌』

 

ペ島の桜を讃える歌

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)


ペ島の桜を讃える歌
YouTube: ペ島の桜を讃える歌(ピアノソロ)

この曲はペリリュー島在住のパラオ人が日本兵の武勲を讃える
ためつくってくれた曲です。
パラオ人が作ったという点に歴史上
非常に意義深いものがあります。 

 
 
ペ島の桜を讃える歌
作詞:オキヤマ・トヨミ、ジョージ・シゲオ
作曲:トンミ・ウエンティ
 


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ 

オレンジ浜を血で染めた
兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島はすべて墓となる
 

小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾撃ち尽くし食料(しょく)もない
 

将兵(へいし)は桜を叫びつつ
これが最後の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し
 

日本の桜は春一度
見事に咲いて明日は散る
ペ島の桜は散り散りに
玉砕れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
 

今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
 

平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る
 

どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗びし
あつい涙がこみあげる
 

戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
 

2014年10月24日 (金)

ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

_20090715_0139_1

 
米軍側より見る ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

LVTまたはLVT(A)は上陸用舟艇または水陸両用戦車の名称である。

海兵隊では主に水陸両用装軌車両の略で
アムタンク(AMTRAK)または
アムトラック、(AMTANK)と呼ばれた。
 
ペリリュー上陸歩兵は全てアムトラックへ乗車
米第二海兵師団は1943年11月のタラワ攻略で
3000名を超える死傷者を出した。 タラワではアムトラックが
不足したため日本軍の銃火の下で サンゴ礁を歩いて上陸
しなければならなかったことが原因と考えられる。
第一海兵師団はこの戦訓から ペリリューでは突撃歩兵は
全てアムトラックに乗車し上陸することになっていた。
 

_20090715_0260_1▲ペリリュー島Dデイ。最終支援射撃を行う米艦船と上陸部隊。
 

_20090718_0918_1_1▲母艦であるLSTより出撃する米第一海兵師団とLVT

 
出撃から強襲揚陸まで

アムトラック・タンクは母艦であるLSTより出撃し
海岸から4000ヤード(3.6キロメートル) のラインで集結、
陸波を構成する。海岸線まで 時速7.2キロメートルで進撃し
およそ30分の距離であるが、上陸直前は極めて脆弱である。
 
「畜生!ジャップは無傷だ!」
もっとも、第一海兵師団は既に艦砲射撃で壊滅した海岸陣地に
日本兵が無傷の状態で潜んでいることは知らず
水際での反撃は全くの想定外であった。このため
海兵隊史上、極めて多大な犠牲を払う結果となった。
 
艦砲射撃を行った
J.B.オンデンドルフ海軍少将は
「ペリリュー・アンガウル両島に対する艦砲射撃は上陸前に
3,490トン、じ後3,359トン、
合計6,849トンであり、その効果に関し
上陸時の砲爆撃は当時最も完全で従来の如何なる支援より優れている
と思ったが
日本軍の掩蔽した火砲がLVT(A)に射撃開始したときの
私の驚きと残念さはどうであったかは想像されると思う」とのちに回想している。
 

_20090715_0141_2_2▲ペリリューの海岸を目指すLVT(A)4群

 
直撃弾で真っ直ぐに轟沈
LVTは装甲の薄さから、日本守備隊の放つ榴弾は脅威であり
徹甲弾においては過大ともいえる破壊力であった。 これらの直撃を
受けた車輛は兵員の逃げ出す間もなく水深の深い場所では真っ直ぐに
轟沈した。 浅瀬では燃え上がり、海兵隊員は火だるまとなりこぼれるように
海に落ちていった。

_20090718_0898_1_1

_20090718_0858_1_1▲ペリリュー島海岸を目指すLVT群。海岸より4000ヤード(3.6キロメートル)より
時速7.2キロメートルで進撃し砂浜到達まで30分を要した。
 

60輌が撃破された上陸戦
9月15日のDデイ(上陸戦)では 日本軍守備隊の熾烈な射撃により
60輌が上陸前に撃破されたとされる。(※1 
 

_20090718_0831_1▲LVT(A)4パーソナルネーム「レディラック」は最後まで生き残り
現在もペリリュー南部のジャングルにひっそりと眠っている。
 

陸上においての威力
しかし陸上においてのアムタンクは支援射撃や歩兵の盾として
絶大な威力を発揮し アムトラックは補給物資の輸送に重宝された。
この任務は危険を伴うものであり操縦士たちは飛行場までの運転を
パープルハートラン (名誉負傷賞へのひとっ走り) 山岳地帯への運転を
シルバースターラン (銀星章へのひとっ走り)と呼んでいた。
 

_20090715_0129_1▲ガドブス島掃討戦で火炎放射を行う様子

 
ペリリュー島での功績は大
どの操縦士も自分が何回運転したのか、あるいは車両を 何度修理したのか
わからなくなっていた。 彼らの忍耐力を維持していたのは奇跡とも
いえるほどであった。 操縦士はアムトラックが撃破されると所属する
トラクター大隊に戻らずその場で戦闘歩兵として最前線に留まる者もいた。
 
水陸両用車両は終始多大な犠牲を払ったものの
強襲揚陸での使用は当時最も優れた戦法であったし、犠牲の
多くは艦砲射撃の誤算からくるものであった。
結果として、その功績は大きく、ペリリュー戦で不可欠な存在で
あったのは確かである。
 
※1)日本側資料によると(防衛省戦史叢書)上陸戦当日に撃破された車両は少なくとも
60輌以上と記されている。
米軍公式記録では26輌のみとされている。 この数の相違は
多くのアムトラックの車長が水深の深い場所で完全に水没したような状況でなければ
撃破判定に異議を唱えたためであると考えられる。

 

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Imgp5749

▲LVT4 上陸用舟艇
通称「アムトラック」 ペリリュー上陸戦で主力であった強襲揚陸艇。
クルー3名で兵員30名が輸送可能であった。 カタログ上の速力は
陸上32km/h、海上12km/hで、このLVT4は6月のサイパン戦で
はじめて使用された。兵員の乗降口が後部に移り、海岸で下車の
さいの防護を高めた。 ペリリュー戦では全てが更新されず不足分は
乗降部が前方の旧式LVT2等で埋め合わせており それらに乗車した
海兵隊は不運であった。
  

Imgp5770

Imgp5771


Imgp7743

▲LVT(A)1 水陸両用戦車
アムトラックにM5A1スチュワート軽戦車の砲塔である37mm戦車砲と
30口径機銃同軸装備を 搭載し、装甲を強化した水陸両用戦車である。
Dデイではこのアムタンクが最前線で制圧射撃を行い、その1分後、
突撃部隊の歩兵を載せたアムトラックが上陸した。
 

Imgp5746

▲LVT(A)4 水陸両用戦車(手前)
火炎放射装甲車 火力を強化し、M8砲塔に75ミリ榴弾砲が搭載され
50口径機銃を砲塔後部に備えた。いくつかの車両ではこれに火炎放射器を
備え、内陸部における掃討戦で 絶大な威力を発揮した。
  
▲LVT(A)2 水陸両用装甲車(奥)
LVT-2を装甲化したタイプで 兵員18名が輸送可能であった。
 

南方地図

風邪で寝込んでおりました。
何もできず3日も費やしてしまいました。
季節の変わり目は要注意ですね。
  

Scan001

 
戦前の南方地図です。
大きなサイズはこちらからダウンロード

当時の日本はこの地図に表された通り、太平洋の覇者であり
いかに米国にとって脅威だったか窺い知ることが出来ます。
 
これらの領地領海は全て国連から統治を認可された
委任統治領で、戦争に勝って手に入れたものではありませんでした。
 
 
関連記事
グアムはなぜ独立できなかったか「幻のチャモロ共和国」
ミクロネシア三国の独立をかけた戦いと辛勝

2014年9月12日 (金)

遥かなるハトホベイ

Imgp2928

 
ハトホベイ州概要

ハトホベイ州はパラオ共和国の最南端に位置する州で
トビ島(トコベ島)とその東のヘレン環礁から成る。
北緯2度、パラオ諸島450kmに位置し
ヘレン環礁はアオウミガメ、オオシャコが多く
海鳥の大繁殖地である。
 
世界の果てのトビ島は
人口20名、面積は0.6平方キロメートル。
人種的には中央カロリン人に近い。
  
日本統治時代には燐鉱採掘のほか、鰹節やナマコ漁が主な産業であった。
戦時中は陸軍守備隊が配置されたが、終戦まで飢えに苦しんだ。
その終戦の知らせも、島へ届いたのはコロールよりはるかに後で
生き残った守備隊も帰還する術がなく、時間を要した。
 
現在は国境警備のレンジャーが僅かに配置されている程度で
物資補給のための定期船も一応あるが、丸三日かかるという。
 
「ハトホベイに飛行場を作ってくれ」
その、遥かなるハトホベイの州知事が2年ほど前、コロールを訪れ、
観光誘致にと、飛行場の建設を嘆願した。 
「これがそのイメージだ」と言って広げた図面には
島に十文字の滑走路が描かれている。
 
驚きの青写真
驚くべきは、その図面に、日本語で
「昭和15年」と記されていたことであった。どうも当時
日本海軍がペリリューに次いで計画した滑走路だったらしい。
とんでもないお宝と歴史の発見だった。
 
遥かなるハトホベイ 遥かなる昭和15年
観光が成り立つかはさて置き、
単純問題、ハトホベイへ飛行機を飛ばすのは可能なのか
現地のパイロットに尋ねると
「何もない洋上を長距離飛ぶので双発の飛行機でないと渡航は困難」
らしい。それにしても当時の日本はここに十文字の滑走路を造成し
本気で零戦を飛ばそうと計画していた。
 
遥かなるハトホベイと、遥かなる昭和15年の設計図。
感慨深い出来事であった。 
 
※写真はアイライ飛行場。イメージです。

2014年9月 9日 (火)

後藤大隊長のご遺族より

なんと、アンガウル島で玉砕した後藤大隊長直近の
ご遺族から連絡を頂きました。
私のブログを偶然見つけてくださり「とても驚いている」
との旨でした。ブログをやっていてよかったです。
 
関連記事

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう

2014年8月19日 (火)

ペリリュー戦の大義

ペリリュー戦と中川大佐を扱ったフジテレビのドラマ
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』
を見ました。非常に残念な内容でした。
 
ペリリュー戦の大義「生きて戦え」
ペリリュー玉砕戦の大義とは何か。
それは「生きて戦うこと」です。
 
米軍の本土進攻を一日でも食い止めるため、
バンザイ突撃など、玉砕を戒めるようペリリュー島の
守備隊全軍に通達がありました。それは飲み水も無く
じっと耐え忍ぶほかなく、死ぬよりつらいことだったでしょう。
 
ちょうど裏番組でやっていた「硫黄島からの手紙」で
栗林中将演じる渡辺謙は次の如く名セリフを残しています。
 
「我々の子供が日本で一日でも長く安泰に暮らせるならば、
我々がこの島を守る一日には意味があるんです」
 
この僅かなセリフが全てを説明してくれています。
 
ペリリュー戦でも同じです。玉砕を認めないという
硫黄島の戦法はペリリューを踏襲するものでありました。
 
戦後主観のストーリーへすり替わってしまった
それがテレビドラマでは
「個人個人の命は大事だから生き残ろう」という戦後主観の主旨に
見事すり替わって
いました。歴史的背景、戦史戦術の面からも
否、全てにおいておかしいのです。
 

非常に残念な結果となりましたが
パラオのペリリュー島を周知するという意味では
プラスだったのかな、と思います。

2014年8月12日 (火)

アルモノグイの零戦(吉田機)へ

Imgp3390

 
毎回、パラオを訪れた際は

ここへお参りします。
 
以前、プロペラが一本盗難に遭い、心配していましたが
私がご遺族をお連れして、テレビ放映されたのをきっかけに、
地主の方が以来、気にかけてくださっています。

本当にありがたい気持ちでいっぱいです。
除草作業も行われています。

 
戦死された吉田久光飛長に合掌。
 
吉田機不時着、戦闘の経緯はこちら

2014年7月29日 (火)

NHKでペリリュー戦の特集を放映

狂気の戦場・ペリリュー
~新発見フィルムが語る"忘れられた島"の現実~(仮)
 
と題してNHKがペリリュー戦の特集を放送します。
 
日時:2014年8月13日(水)
午後10時00分~10時50分
 
どんな内容になるか、不安80%期待20%です。
 
NHK公式ページへ 

2014年7月 7日 (月)

ミルキーウェイ・パラオ

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ミルキーウェイ・パラオ

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パラオ ミルキーウェイ03

パラオ ミルキーウェイ04

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ミルキーウェイ・パラオ


パラオ・ミルキーウェイは、ロックアイランドの岩盤から溶けだした

古代からの泥がこの一帯に流れ着き白くなった水域です。
 
真っ白な泥はきめ細かく、美容によいとされ
高価な化粧品などにも使われています。

 
ここへ来れば泥パックがタダで塗り放題です。
 
各種アクティビティ、オプショナルツアーの定番です。
申し込みはそちらから。白泥の持ち帰りはできません。
塗って乾かしたら、船上からダイブ。綺麗に落としてさっぱりします。
ダイビングや、カヤンゲル、ロックアイランドツアーで見る海も綺麗ですが
ここミルキーウェイは、また違った色、パラオの楽しみ方で、シュノーケリング
ツアーと合わせて楽しみます。
 
泳げなくてもライフジャケットがあるので大丈夫です。
ガイドが水底へ潜って泥をかき集めてきてくれます。
※お持ち帰りはできません 

この後ジェリーフィッシュレイクへ行く場合は
白泥が少しでも付着しているとゲートから先へ進めませんので注意しましょう。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

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パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

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ロックアイランド パラオの世界遺産は無限のブルーラグーン

ロックアイランド・パラオの世界遺産

ロックアイランド

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ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

パラオの海は世界一美しいと称され
その中でも世界遺産のロックアイランドは
言葉では表せない魅力があります。
 
海の色は一様ではありません。
マリンブルーとはいうけれど、ディープブルー、
エメラルド、グラデーションとなって彩られた
数えきれない無限のブルーがあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド 
マッシュルーム型の島は海水の浸食を受け、
いつかは崩れ落ちる運命にあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

 
戦跡調査ではじめてこのパラオへやってきたときは
足さえ一度も水に浸かることもしませんでした。
しかし今ではすっかりこの海に魅了されてしまいました。 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

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パラオの戦跡

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年7月 3日 (木)

アンガウル島へ行こう

アンガウル島 大神宮海岸

アンガウル島地図

アンガウル島の動植物

 
アンガウル島は ペリリュー島の南およそ10kmに位置する
人口170人ほどの小さな島である。 少ない日程で足を運ぶのは難しいが
独自の生物や自然環境が存在する魅力あふれた美しい島である。
 
アンガウル島はペリリューと並んで激戦の島であり
宇都宮五十九連隊第一大隊が玉砕している。
パラオの戦いで何かとペリリューばかり特筆されるが
ここアンガウルはペリリューよりさらに米軍を苦しめた島であった。
 

アンガウルの戦い 五十九連隊

 
33日間の徹底抗戦 われら太平洋の防波堤とならん
アンガウルを守備する日本軍は兵站、臨時編入を合わせてもわずか
1200名で これを攻略する米国陸軍第81師団の兵力は2万名を超えた。
加えて、空爆と艦砲射撃により 島は焦土と化したが、後藤少佐指揮する
宇都宮五十九連隊第一大隊は 徹底抗戦の構えを崩さず、実に33日間もの間
島を死守したのであった。これだけの兵力差がありながら 33日間も
持ちこたえた例は、戦史を調べても他にないだろう。
 
五十九連隊は大陸から転戦した歴戦の猛者揃いである。
兵士の大部分を栃木県の出身者で占めたが 長野や群馬、北関東の兵士もおり
指揮官、後藤少佐は長野の出身である。 そして臨時編入された沖縄の兵士
たちの犠牲も忘れてはならない。
 
最初から勝ち目はなかった。しかしアンガウルの戦いで散った英霊は
太平洋の防波堤となり 一日でも長く、米軍の本土進攻を食い止めたと
間違いなく言えるであろう。 アンガウルは我々日本人にとっては特別な島である。
 
「私たちも一緒に戦わせてほしい」~アンガウル玉砕戦へ

 
アンガウル島へ行くには

ステートボート(定期船)

ステートボート(定期船)

定期便(小型飛行機)

 
アンガウルへのアクセス
1、定期船
定期船が一週間に一度、コロールから出ている。所要時間は4時間。
帰りは一週間後となる。
 
定期船の旅はこちら
 
2、飛行機
最近、就航したPMC航空で来ることができるようになった。
アイライ国際空港からはわずか20分程度である。
月曜日と金曜日に発着するが、アンガウルの滑走路に直陸後、
すぐに飛びたつので、島を観光することはできない。そのため最低
4日間は滞在しなければならない。飛行機は天候によってフライトできない
場合があるのでリスクが大きい。
 
3、スピードボートチャーター
コロール、もしくはペリリューのダイビングショップ等で
船をチャーターする方法。ガソリン価格の高騰もあり
コロールから往復すると800ドル程度と高価。
なお、アンガウル海峡の波は高く、操船できるオペレーターも
限られる。
 

アンガウル港01

アンガウル港02




アンガウル港03

アンガウル港04

 
アンガウル港

アンガウルへ到着した。外洋がどんなに穏やかでも
アンガウル港内は穏やかである。写真の左右で全く海の表情が違う。
日曜日や学校が終わると、港で子供たちがよく泳いでいる。
 

M4シャーマン

M4シャーマン

M4シャーマン戦車

 
港の入口が非常に狭く、潮の流れが集中し大波となる。
ここを突破できず、船が出港できないことがある。
私も台風の直後、出港できず10日間、島に閉じ込められたことがあった。
 
港の入口には米軍M4シャーマン戦車が2、3輌、投棄されたままになっている。
今では防波堤代わりだ。砲塔は流され、大きなエンジンが見える。
 

アンガウルの港

 

州が運営する定期船は様々なものを島へ運んでいる生命線である。
食料やビール、家電製品や家畜、車も積める。
なお、人間の運賃は一人片道5ドルである。
一週間に一度、定期船が港へ入ると島中から人が集まってきて
港は一番の賑わいとなる。
港には戦時中に作られた陸揚げ用のスロープが残る。
 

ダウンタウン

ダウンタウン

ダウンタウン

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アンガウル島の市街地(ダウンタウン)
この辺りに住んでいる。人口が少ないので、みんな家族同然だ。
ストアと宿泊施設は2軒ある。ここでも日本の中古車が頑張っている。
 

アンガウル島

アンガウル島

タロイモの収穫(上)と
マーク2(チェイサー?)のオープンカー。小さい島なので
雨が降っても2、3分で家に到着だから、モンダイナイ(パラオ語)

この車、ガレージはなく、シートがかぶせてあるだけだった。
それにしても日本の中古車は頑丈だ。
 

アンガウル島・サイパン村

▲戦前のパラオ・アンガウル島の市街地(サイパン村と称した)
日本人とパラオ人、およそ2500人が暮らした。
  

アンガウル島は砂利道ではあるものの周回道路が整備されており、
車でもレンタル自転車でも、気軽に一周することができる。時間は
そんなにかからない。自転車でも3時間もあれば十分か。
では時計回りで見て行こう。

 

サキシマオカヤドカリ

アンガウル 大神宮海岸

サキシマオカヤドカリ

アンガウル島 大神宮海岸

大神宮海岸
ダウンタウンを出てまもなく、大神宮海岸に出る。
別名オレンジビーチとも呼ばれるこの海岸はアンガウル島にある
他の砂浜と比べても独特の色をしている。ここだけ海流の関係で
微生物の死骸が堆積して、このような色になるという。
 
大神宮海岸という名称は、日本統治時代に島の「アンガウル大神宮」という
鎮守様がこの海岸にあったことから。(アンガウル大神宮は南洋では最古と
なる大正時代の建立。なおコロールの南洋神社は昭和15年建立である。
昭和18年、島の燐鉱産業は繁栄を極め、2600人以上が
が島で生活していた。(内、日本人は1300人)
人の集うところに必ず神社は祭られる。
 
大神宮海岸と鎮守の森には、当時
白亜の灯台がそびえ立ち、それは美しいものだった。
 
この海岸では上陸戦は行われなかったが
米軍が占領後敷設した物資陸揚げ用の
レールの跡などが今でも残っている。
 
サキシマオカヤドカリ
この海岸で褐色のヤドカリを見つけられたら幸運だ。
サキシマオカヤドカリといって珍しい個体である。何かいいことあるかも。
臆病なので、そっと観察しよう。
 

ガジュマル

ガジュマルゲート
左右の道路脇からそれぞれ自生したガジュマルがちょうど
真ん中で結合している。周回道路沿いにあるので見逃さないようにしよう。
 

アンガウル大燐鉱 
アンガウル大燐鉱の遺構
昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
当時の島の人口は2,618人で、
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱 
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱(同じ辺りと思われる)

 
アンガウル大燐鉱詳細記事と写真

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(丹下灯台)
先に述べたように、当時、たいへんな賑わいだったアンガウル島。
採掘した燐鉱を船に積みむ大規模な施設があり、船の往来も
盛んだった。船に灯台は欠かせないものである。
 
灯台の外壁は白一色で青空に映え、実に見事な佇まいであったという。
その島民の自慢であった灯台も、艦砲射撃に破壊され、倒壊した。
私が居るところが灯台の折れた根本部分にあたる。

アンガウル灯台(丹下灯台)アンガウル灯台に登ろう(別記事へ)

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那須岬
五十九連隊は栃木県の郷土部隊であったので、島の方々に故郷の名前をつけた。
那須岬へ向かう道。ペリリュー島が見える、ここは景色も良いし
潮風が心地よい。那須岬には現在アメリカの建てたマリア像がある。
那須岬の沖はとくに潮の流れが激しく恐ろしいほどである。
 

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潮吹き穴
那須岬へ向かう途中の岩場に潮吹き穴がある。
温泉の間欠泉のように、海水が高く舞い上がり、霧となって散る。
大迫力であるが、これは独自の岩場の地形が生み出したもので
温泉とは全く異なる。(パラオに温泉や地震は存在しない)
ボフォオオオオという不思議な音がこだまする。
 

アンガウル島レッドビーチ

レッドビーチ
上陸戦の展開されたレッドビーチ。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここ極端に狭いレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙した。集中砲火を受けた米81師団は、橋頭堡の確保までに
大苦戦を強いられ、甚大なる損害を被った。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのだろうが、すっかり緑は蘇っている。
 
激しい戦闘で砂浜が血で染まったからレッドビーチという名が
ついた、というのは俗説である。米軍がアンガウル島攻略にあたって、
便宜上、レッドビーチと名付けたにすぎない。しかし、血で血を洗う戦い
が繰り広げられたのは確かだ。砂浜がそれはもう惨く赤く染まったことは
相違ない事実である。戦いで犠牲となった全ての将兵に合掌。
 
レッドビーチの戦い

ここからもう少し先へ行くとブルービーチだ。
 

04

散兵壕(さんぺいごう)
レッドビーチから間もなく、飛行機墓場の近くに散兵壕が残されている。
70年前、兵隊さんによって掘られたものだ。中へ入ってみると、深さは
175センチの私の背丈よりもある。ここに隠れて敵の上陸に備えた。
島の地層はほとんどが隆起珊瑚岩で、スコップがカツンカツンとすぐ
岩にあたってしまい、これだけの深さを掘るのは大変な苦労だったろう。
掘削したという表現が近いかもしれない。上陸戦の三か月前、
第31軍司令の小畑中将が視察に訪れ、陣地構築の遅れに対し
激を飛ばしたが、これだけ固い地盤を短期間に掘るのは
無理なものは無理である。元兵士はこの小畑中将の視察に
良い印象を持たなかったと記している。
 

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11

飛行機墓場
主に米軍機であるが、滑走路脇の茂みに
レイテ作戦に投入された多くの航空機が眠っている。
これはB-24(リベレーター)大型爆撃機のプロペラ。
四枚のうち一枚でほかの三枚も近くにある。
丸いのは回転銃座、機体の外板も散乱している。
 

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アンガウル島のコルセア戦闘機

 
F4Uコルセア戦闘機
こちらはF4Uコルセア戦闘機。先の大戦でもっとも優秀だったと云われる

米国海軍の名機である。この戦闘機はジェット戦闘機が主流になった頃の
朝鮮戦争でも並行して使われ、活躍した。日本側からみれば、非常に苦しめられた
悪魔のような機体であるが、純粋にメカとして考察すれば非常に良くできた
レシプロ戦闘機の究極の完成型といってもいい傑作機である。
この戦闘機もナパーム弾を用いたアンガウルの掃討作戦と、その後の
フィリピン方面の作戦に活躍した。
 

F4Uコルセア戦闘爆撃機

▲ナパーム弾を取り付ける海兵隊のF4Uコルセア戦闘爆撃機
(写真はペリリュー飛行場のもの)

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アンガウル滑走路
米軍の敷設した滑走路である。
日本軍はペリリューに東洋一といわれる大規模な飛行場を持っていたし
ガドブスにはゼロ戦専用の滑走路、さらにアイライにも大型機が
飛べる飛行場を整備した。アンガウルにも平坦な地があり
「飛行場適地」として備えていたものの、最後まで建設せずに終わった。
 
これに目を付けたのが米軍だった。米軍は
後藤少佐と最後の兵士達が立てこもる複郭陣地を除く
島の大部分を制圧し、ここに滑走を瞬く間に敷設し
同島に残る残存部隊の掃討爆撃と、レイテ(フィリピン)作戦の
足がかりとして大いに活用した。
 
この「飛行場適地」がなければアンガウルでの凄惨な戦いも
避けられたかもしれない。しかし米軍は是が非でも飛行場が欲しかったのだ。
 
それにしても多大な犠牲を払ってまで、パラオ・ペリリュー、アンガウル両島の
飛行場が必要であったのだろうか。サイパン・テニアン・グアムはすでに米軍は
手中に収め、同島からフィリピンを叩くことは充分に可能だった。
マッカーサーもニューギニア方面から陸路でフィリピン奪還を

進言した。ハルゼイ提督も無駄な犠牲を懸念し、パラオを取る必要ない、と
作戦に反対し続けた。これを是非ともという形で推し進めたのがニミッツである。

これは現在でも議論の対象として終わりが見えない。
 

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週に二回の定期便が来た。
飛行機は島の上空を大きく旋回し、着陸コースに入る。
これは島民に飛行機が来たことを知らせるのと同時に

自由気ままなアンガウル滑走路、滑走路の真ん中に
人が寝ていたりするので、
「今から着陸するからちょっとどいてくれ」の合図でもある。
 

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この建物がアンガウル空港のターミナル。
酋長がいま届いたばかりの新聞を読んでいる。
新聞は週に二回しか届かないから貴重だ。
 

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着陸すると、島中から人がやってくる。
着陸して、すぐにコロールへ戻ってしまうので、飛行機を待たせての
観光はできない。原則片道だけと考えたほうがいいだろう。
 
飛行機はデコボコの滑走路をものともせず、あっという間に
飛び立っていった。
  

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3

V

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アンガウル島鬼怒岬

鬼怒岬
アンガウルの最南端、鬼怒岬へ。
これも郷土の兵隊が名付けた名だ。当初、上陸部隊の米81師団は

この鬼怒岬を目指して沖合から前進していた。これに即座に対応すべく
陣地を持たない遊撃隊であり、島中尉率いる紅蓮疾風隊が
海岸に駆け付けたが、沖の上陸用船艇は全く動かなくなってしまった。
これは陽動作戦であった。島中隊が鬼怒岬に引きつけられている間に

81師団の本体は、レッド、ブルー両ビーチに上陸を開始した。
 
しかしアンガウル島は小さな島である。島中隊は陽動を解ると直ちに反転し
上陸戦の展開されている、ブルービーチへ向かった。
紅蓮疾風隊の名の通り、疾風の如くブルービーチへ急行すると
水際防御に加勢。米上陸部隊の上陸を許さず
勇猛果敢に戦った。この戦いで米軍は大隊長や大隊幕僚まで負傷し、

上陸部隊は壊滅。一旦、押し戻されてしまう。
 
「ブルービーチの死闘」続きはこちら

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沼尾少尉の鬼怒岬~妻との約束

 
※写真は台風前と台風後の比較。

この巴岬から鬼怒川岬にかけては沼尾隊の陣地であった。

指揮官、沼尾少尉は叩き上げの士官である。大陸からの転戦した
古強者であり、また部下の面倒見がよく、たいへん慕われたといわれている。
彼もまた太平洋の防波堤となって散る運命だった。 
 
沼尾少尉は内地に妻を残していた。少尉と妻には
次のようなエピソードがある。
「沼尾少尉、妻との誓い」

 
  

ブルービーチ

アンガウル島ブルービーチ

ブルービーチ
台風前に訪れたブルービーチ
米軍の敷設した物資陸揚げ用のレールが残る。
ここも激戦のビーチである。
 

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同じ場所とは思えない。
台風の高波で全てが流され瓦礫の浜になってしまった。

大木といえども根元から引き抜かれ倒れている。
 
 

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そう、この砂浜では激闘があった。70年前の9月、
何もかも燃えてしまったのだ。
戦争で焦土と化したシャングルが再生したように。
地で染まったこのビーチが美しい青を取り戻したように。

緑の息吹を感じる。きっとまた蘇るであろう。
 
ブルービーチの激闘へ
 

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アンガウル・ラストコマンドポスト
玉砕の複郭陣地へ
 
後藤少佐が玉砕し、最後までたてこもり徹底抗戦を行った
複郭陣地へ向かう。今回は特別な許可を得て
酋長と島民の協力で、複郭陣地へ進む。
 
後藤少佐の最期~アンガウル島のラストコマンダー
 

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台風の影響と、長年誰も足を踏み入れていないこともあり
道がなくなっている。
 

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倒木を切断したりしながら少しずつ前に進んだが、結局、複郭陣地の
入口すら行けなかった。今回は段取りだけにして
次回、出直そう。なんとしてでも最後の玉砕地で慰霊がしたい。
 
海ゆかばをうたう。
合掌。
 
平成28年9月追記
アンガウル島遺骨収集の旅へ行ってきました
  

私は戦史の専門家なので今回は慰霊目的であったが、
それ以外にもアンガウル島は魅力の多い島である。

白く光るホタルはここでしか見られない。
 
ぜひ足を運んでみては如何だろうか。
そして、ここへ来たら、アンガウルで玉砕し
太平洋の防波堤となった英霊の御霊にどうか
感謝の気持ちをわすれないでほしい。
 
あなた方のおかげで、いまの日本があります。

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D

D_2上から、左、右の順で
・シロアジサシ
仲良く2羽でいるところが多い。
 
・パラオオオトカゲ
パラオ最大のオオトカゲ。戦争中は食用になった。
美味らしい、今でも食べる気になれば食べられるそうだ。
 
・プルメリア
 
・椰子の実
 
・野生のグアバ
 
・ハイビスカス
 
・パパイヤ
青い実は間引く。間引いた実は千切りにしてサラダなどにすると旨い。
間引いてできた完熟の実はとても濃厚で甘い。その場合は虫に食われないよう
早めに収穫して追熟させるのが一般的。
 
・ゴールデンコプラ
パラオでもなかなかお目にかかれない黄金の椰子の実。
ジュースは濃厚。
 
・プルメリア
プルペリアはパラオの全域に自生するが、地域によって
花弁の色、形がまったく異なる。私はアンガウルのプルメリアが
一番綺麗だと思う。パラオ語ではエリライと称す。
 
 

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2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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A4

 

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ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。
 

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

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世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

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飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

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画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

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ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

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パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

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画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

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KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

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コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

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マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

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アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

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二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

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アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

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パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

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これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

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飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

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2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年4月 4日 (金)

KBブリッジ

KBブリッジ(パラオ)1

KBブリッジ(パラオ)2

KBブリッジ(パラオ)3

KBブリッジ(パラオ)4

KBブリッジ(パラオ)5

KBブリッジ(パラオ)6

KBブリッジ(パラオ)7

 
新KBブリッジ
KBはKoror-Babeldaob Bridgeの略であるが
正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge
ジャパン・パラオフレンドシップブリッジ(友好の橋)という。
 
2002年竣工。旧ブリッジ崩壊後、
日本の鹿島建設により再建された。
 
パラオ国際空港(バベルダオブ島)と最大の街コロールを繋ぐ橋であると同時に
バベルダオブ島の発電所と水源をコロール島へ供給する
パラオの国家生命線である。
 
通常、深夜便で到着し、同じく深夜便で出国する観光客は必ずこの橋を
経由する。暗闇の中その勇壮な姿を見る機会は少ないが
日本とパラオ友好のシンボルであるので、旧KBブリッジの
崩壊事故と合わせてその歴史に触れておきたい。
 
旧KBブリッジ(韓国製)の崩壊
旧KBブリッジは1977年に、韓国企業SOCIOにより建設された。
建設業者選定入札において、SOCIOは鹿島建設の半額の入札価格を
提示し落札している。
  
1996年9月26日木曜日
ちょうど二日前に行われた大統領予備選挙の開票作業が
進めらていたその日はごく普通の日であった。

夕方遅く
コロールガルミッド地区(旧ニッコーホテル付近) に住む住民によると
突然、ドーンという轟きとともに 電気が止まり、最初はダイナマイトか
何かが爆発したのかと錯覚したという。
 
「KBブリッジが落ちた!」
まもなく血相を変えた友人がそう言って飛び込んできた。
KBブリッジの見える裏山に登ると、かつて橋のかかっていた辺りに見えるのは
立ちのぼるもうもうとした 灰色の粉塵のみで、あるべき橋の姿は失われていた。
不幸にも崩落中に通行していた二名が海へ投げ出され死亡した。
 
◆クニオ・ナカムラは国家非常事態宣言を発令
水道、電気、電話線など、コロールで使用される ライフラインは
全てKBブリッジを通じて供給されていたので 崩落により、すべての
生命線を分断された。 クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。
ほどなく官民あげて不眠不休の復旧作業が始まるのである。
 
資材や重機も不充分なままであったが 事故から4日後、
まず橋の両岸に電線を建てて電気が確保された。
コロールの住民にとって切実なのは電気より水の確保であったが
アメリカ軍がすぐさま通信基地に備蓄していた非常用飲料水を提供し
日本やアメリカからの緊急援助も得て、海水淡水化装置も設置された。
またパラオ政府は消火用ホースを橋の両端に渡すことで 仮復旧を試み、
10月6日には朝夕二時間の限定ではあるものの 給水を確保した。
 
両岸の輸送体制も、民間の協力により 渡し船が就航するとともに
バージ船(ハシケ)を用いた 車両の輸送を開始した。
 
◆ヒロシマを引合いに出し国民を奮い立たせるナカムラ大統領
こうした官民一体必死の努力により 事故後10日ほどでとりあえず、
最低限の仮復旧は成った。 ナカムラ大統領は、事故の数日後
原爆の惨禍から立ち上がり今日の繁栄を築いた広島を引合いにだし
「この危機は国民をより強靭にする」と」鼓舞、
今回の危機への国民の対応が何よりの誇りであると称揚した。
 
またKBブリッジの崩壊はナカムラ大統領の再選に僅かながらも影響を与えた。
対抗馬のトリビオン候補が「一致団結してKBブリッジ崩壊の復旧に務めなければ
ならない。 こんなときに政争をしている場合ではない」として立候補を取り下げた。
これは「名誉ある撤退」とも賞賛された一方、現職ナカムラ大統領に
予備選挙で大差をつけられ、事実上決戦で勝ち目がないと悟ったことも大きい。
 
パラオ共和国独立への道筋をつけ その後も潤沢な資金を集め
パラオを活気付けるナカムラ大統領の手腕は 選挙前から広い支持を
得ていたものの、この事故と復旧により さらに求心力を高め、
次の四年間の指導力の根源となった。
 
二期目に入ったナカムラ大統領の最優先課題はKBブリッジの再建であった。
ここで資金と技術提供を求めたのが日本だった。 1997年1月に大統領は
日本を訪問しKBブリッジの再建を強く要請。 パラオのような小さな国に対しては
異例の23億円の無償資金供与が決まった。 かくして鹿島建設による
新KBブリッジ再建工事が着工、 旧ブリッジの土台を利用することも
検討されたが質が悪すぎたため 一からの作り直しとなった。
 
新KBブリッジの竣工
こうして2002年に竣工した新KBブリッジは
正式名称「Japan-Palau Friendship Bridge」と名付けられ
パラオ国民の生命線として根付いている。
 
なお、旧KBブリッジの瓦礫は現在も新ブリッジ真下に沈んでいる。
橋の下を流れるのは「アルミズ水道」である。
コロール側の橋の下は公園として整備されており、自由に立ち入ることができる。
ローカル憩いの場であり、朝や夕方は釣り人の姿が目立つ。
一画にはシャワーもあり 水も澄んでいるので、アルミズ水道側の深い箇所へ
近寄らなければ 泳ぐこともできる。
 
我が国の民といえば
山があればトンネルを掘り、谷があれば橋を架ける。
そんな土木技術を極めた日本製の橋である。
 
私がこの橋を渡るとき、運転していたパラオ人がこう言ったのである。
「頑丈な橋。日本人、ありがとうね」

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
パラオ地図

▲枠内をクリックするとそれぞれの地域に拡大されます
 
パラオ地図フリー素材(無料)配布中

 

カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年3月25日 (火)

ペリリュー、アンガウル

Imgp3287 

ペリリュー、アンガウルに滞在中です。
アンガウル島にてご遺骨を見つけましたので
帰国後、厚労省にデータを届け出ることにしました。
 
※(写真はペリリューの壕です)

2014年3月14日 (金)

パラオ全図

パラオ地図

▲パラオ全図
 
パラオ共和国ってどんなところ?
 

年配パラオ人は日本語ベラベラ(動画) 
ミルキーウェイ/古代から堆積した真っ白な泥 
勇壮のKBブリッジ(日パ友好の橋) 
世界遺産ロックアイランド/無限のブルーラグーン 
パラオの空を飛べ!セスナ機で空へ 
パラオ国旗の由来 
東日本大震災-そのときパラオでは 
日本語が語源のパラオ語 
ペリリューへ定期船の旅
ノースドックの子供達
2013年ペリリュー島の台風被害

 

パラオ・バベルダオブ島の地図

▲バベルダオブ島

ペリリュー島の地図

▲ペリリュー島

アンガウル島の地図

▲アンガウル島

2013年10月 2日 (水)

中川州男大佐の墓所

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ペリリュー島守備隊長中川大佐のお墓が
出身地である熊本県熊本市にあります。
 

熊本の市街地を見渡せる岡の上に
小さな墓碑群があり
その一角に中川大佐のお墓はあります。
 
また、この辺りは西南の役(西南戦争)で亡くなった著名な方の
お墓もあり、歴史を学ぶ方は一度、訪れておくのもよいかもしれません。
 

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だいぶわかりにくい場所にあり、随分と迷いました。
近くに大型霊園があり、そちらと勘違いしがちです。
中川大佐の墓碑は、そちらの大型霊園とは別の場所にあり
霊園の名称等は特にありません。
 
お墓は地元の方が、定期的に清掃をしてくださっているようで
とても綺麗になっていました。 
 
中川州男大佐(戦死後中将)墓所
アクセス
熊本県熊本市立田山貯水池付近
住所、墓所名は不明
 
立田貯水池入口に駐車し(車はここで行き止まり)奥へ歩くと
墓碑群が見えてくる。急な階段(を下りずに)手前を右へ折れ
20メートルほど歩くと、中川大佐の墓がある。
 
近くに小峰墓地があるが、こちらではないので間違えないようにする。
なお、小峰墓地は、原爆慰霊碑、先の大戦の慰霊碑ほか西南戦争の
戦没者が眠っている。
 

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中川大佐自刃の地・ペリリュー島ラストコマンドポストへの旅
はこちら

2013年8月26日 (月)

レッドビーチ(アンガウル島)

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アンガウル島、レッドビーチです。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙し、甚大なる損害を被りました。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのでしょうが
現在はパンの木など、多くの緑が茂り、海までせり出しています。

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※ブルービーチの戦いも参照
  
では、レッドビーチ近くに残る戦跡を見て回りましょう。
 

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 散兵壕と呼ばれる、塹壕が、当時のまま残っています。
兵隊さんが、シャベルで掘ったものです。
珊瑚岩は固く、これだけの深さを掘るには大変な苦労があったと
想像できます。土ではありません。岩です。
 

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これだけの深さがあります。
 

ペリリュー島、水戸山と千人壕

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▲水戸山と千人壕入口
 

◆水戸山陣地

水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は高度に要塞化されており
ビルの三階から四階建てに相当し文字通り一千名の兵力が潜んでいた。
そのため一度無力された陣地が何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか
上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し執拗な攻撃が加えられた。

◆トンネル工事のプロによる陣地構築
この洞窟陣地はガドブス飛行場建設で動員された炭鉱、土木建設関係者が

徴用された海軍軍属で編成された海軍第214設営隊と
トンネル構築のプロである海軍第三隧道隊が築いたもので
海軍の豊富な資材と海軍軍属の尽力に依るところが大きい。
床板を張り巡らせたほか、発電機、空調まで備え、
さらにこの水戸山の地下を貫いて南洋興発工場と連絡が可能であった。

陸軍は陣地構築において、海軍の協力を拒まれ、
人力による手作業に頼らざるを得なかった。
南部に構築された陸軍陣地との違いは歴然である。


◆混成部隊の戦いと統制の欠如
この陣地を有する北地区の守備を担うのは
独立歩兵346大隊で、兵員の大部分が海軍の航空要員や
土木従事の軍属であり、正規の陸軍兵士でないため戦闘能力と
統制が欠けていた。

それらをまとめる大隊長は予備役上がりの
引野通広少佐53歳であった。

◆水戸山陣地の玉砕

9月23日夕刻から戦車を伴い、浜街道を北進する
米軍に対し、引野大隊は地形を活かし反撃を試みるが
被害が続出。戦闘経験の浅い大隊は存分に
力を発揮できず、25日、中之台を南北から挟撃を受けた
大隊は大山付近に布陣する中川大佐との連絡系統を遮断された。

その後も洞窟陣地より抵抗を続けたが
10月2日、引野大隊長が戦死。北部守備隊はついに玉砕した。

米軍はその後も幾度となくこの巨大な水戸山陣地に対し掃討戦を行ったが
洞窟の全てを掌握し、最後の日本兵を倒したのは翌年2月のことであった。
 

◆戦闘経過

9月23日夕刻

米軍は浜街道を前進し
ガリキョク南方へ進出。
同地守備の独歩346大隊の前田中尉指揮する
第二中隊はツツジ、前田山陣地でこれを撃退。
前田山からの重火器の猛射を浴びせ阻止したが
米軍は戦車十数両と艦砲射撃支援のもとに
攻撃を再開

24日午後ツツジの一部が奪取された。
引野大隊長は予備隊を投入し浜街道沿いに逆襲を敢行し
陣地を奪回。夜襲を準備中敵に発見され集中射撃を受け
被害続出。

これに基づき、引野少佐は予定の計画に基づき
水戸山と中之台を確保することを決心した。

25日午後以降
米軍の新鋭一個連隊が進出し無線電信所を夕刻に奪取。
中之台を南北から挟撃。ついに北地区隊と中央山地に布陣する
第二連隊主力は遮断された。


9月26日、米軍は浜街道から水戸山西方を北進し
ガルコル桟橋付近まで切迫したが
これを待ち構えていた中村中尉指揮の第三中隊、
歩兵砲および砲兵中隊が反撃し敵を混乱に陥れたが
物量で押され
27日には水戸山の地下坑道陣地を除く大部分が
奪取され、10月2日頃、引野大隊長が戦死
北部守備隊は玉砕した。


◆ガイド
ノースドックで船をおりてすぐ、目の前に広がる山脈が水戸山です。
 
水戸山の麓に「千人壕」と呼ばれる長大な壕が残っています。

現在は、少しだけ中に入って見学することができます。 
(ただし、見学の際は必ずガイドとともに行動し、絶対に単独で
奥まで行かないでください。遭難の恐れがあります)

 
当時、ペリリュー島には燐を採掘する
南洋興発株式会社という民間会社がありました。
ペリリューの北部は南洋興発の拠点であり、南興村と呼ばれました。
この人たちは、トンネル掘削のエキスパートであり、故に長大な
地下要塞を築き上げ、ペリリュー島が
戦火に巻き込まれ、軍属として籠城することになりました。
 

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20100206_689_1

 ここでは引野通広(ひきのみちひろ)少佐
独立歩兵346大隊の指揮し、戦いました。
芸者久松の噂が生まれたところでもありますが
その真意はさておき、南部を守備した生粋の兵と
比較し、こちらは軍属を含む、臨時編成の混成部隊でしたので
引野少佐の指揮は極めて困難だったと推測されます。
 
引野少佐は予備役の期間が長く、直前まで内地で教練などを
務めていましたが戦局の悪化により、急遽最前線ペリリューへ
送り込まれました。このとき少佐は53歳。
 
引野少佐率いる混成346大隊は、南部より進攻する米軍を
果敢に食い止め続けるも
ついに10月2日、引野大隊長は戦死し、
米軍はペリリュー北部を制圧しました。
 
飯田義栄大隊長のおはなし

なお、最北端のガルコル波止場は
飯田大隊が逆上陸を敢行した地点です。
飯田大隊長は最後まで戦い抜き、中川大佐とともに玉砕しています。 
 
戦後(昭和44年)飯田義栄大隊長のお母様が慰霊に訪れ
「せがれのために、大勢の方が亡くなって申し訳ない」
と、涙しました。そのときの写真も残っています。

2013年8月 3日 (土)

大神宮海岸

Imgp7551_1

 
◆アンガウル島、大神宮海岸へやってきた。浜の名前は
画面左の森に、かつてアンガウル大神宮が鎮座したことから。
白亜の灯台は、艦砲射撃で倒され、今は見えない。
 
外洋に面しているので波は高く
米名はオレンジビーチと呼ばれる
アンガウル島の中でも特別、ここだけ砂浜の色が違う。
微生物の死骸が積もってこのような色になる故。
 
上陸戦が行われたのは、島の北側レッドビーチおよび
ブルービーチであり、この大神宮海岸での上陸はなかった。
ただし、米軍の物資揚陸用のレールなどが残っていて、
砂浜を歩く際は鉄の欠片に注意。それを除けば
いくら眺めていてもあきない、実に美しい砂浜である。
 

Imgp7546_1

 
潮風が、あまりにも心地よいので、足を波に洗われながら
砂浜の端から端まで、何往復もしてしまった
 

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Imgp7699_1

この浜にしかいない、真っ赤なヤドカリと遭遇できればラッキーだ。
「サキシマオカヤドカリ」といって日本でも小笠原に棲息する
天然記念物だ。
 
ヤドカリを探しながら、とても
気分が良いので何時間でも居てしまう。

アンガウル島の燐鉱

日本の飢餓を救ったアンガウル島の燐鉱
◆昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル燐鉱

▲今はジャングルに帰した、大コンベアー跡。
 
静かなアンガウル島にかつての大繁栄を見る
◆戦火に巻き込まれる以前(昭和18年)の

アンガウル島人口は2618人であった。
(内訳は日本人1325人 朝鮮人539人 パラオ人754人)※1
これはペリリュー島の1050人より多い。ペリリューには南洋興発
株式会社の採掘する
燐鉱が在ったがアンガウルよりずっと
規模の小さいものであった。

 

アンガウル大燐鉱アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱


◆当時、西港にはオートコンベア(燐鉱積込用桟橋)があり
(鉄製・積み込み能力 250トン毎時、1トン起重機×2)
  
そのほか、港湾施設として船舶係留用ブイ四個、
アンガウル灯台(別名丹下灯台)
東北港、東港にも桟橋があり舟艇の達着が容易であった。 

Imgp7230_1

▲リン積載場跡。
 
農作物の自給自足は、困難だったが
※2
豊かな燐鉱産業の対価により、パラオ本島より食糧を輸送していた。

Imgp7473_1

Imgp7738_2

▲殉職社員の碑。日付に注目。
 
西港に面する集落はサイパン村と呼ばれ
現在のダウンタウンである。ここには 郵便局、警部補派出所
(税関事務を取り扱う)、アンガウル医院、国民学校、公学校、
郵便局所属の無線通信所、南星寮、そしてアンガウル大神宮が鎮座した。
 
◆燐鉱は上陸戦直前まで操業が続けられ
間も無く作業員と住民はパラオ本島へ強制疎開、
玉砕戦ののち、米軍監視のもと民間人が戻り、採掘が再開された。

Imgp7540_1

▲アンガウルの小路を行く。沖にペリリュー島が見える。
 

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▲現在のアンガウル港。
M4シャーマン戦車が波に打たれる。 

Imgp7168__1

▲アンガウル港

Imgp7502_1

▲周回道路、ガジュマルの門。二本のガジュマルが道路脇から
生えて、中央で合体したもの。

Imgp7235_1

▲ジャングルに眠るM4シャーマン戦車

※1、戦史叢書中部太平洋陸軍作戦 45頁、55頁
※2、ドイツ人の持ち込んだサルが野生化し大繁殖した結果、

農地を整備しても全て荒らされてしまった。現在も状況は同じである。

2013年7月28日 (日)

三島由紀夫と船坂弘の関孫六三本杉

◆昭和45年11月25日
三島 由紀夫は森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を訪れ、
面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。
バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す
演説をした直後に割腹自決した。
楯の会事件とか三島事件などといわれる事件であるが
 
このとき、三島、森田の切腹、介錯に用いられたのが 
名刀「関孫六三本杉」である。
この関孫六三本杉は船坂弘からの贈り物で 次のような経緯がある。

◆昭和41年12月
アンガウル玉砕戦の生還者である船坂弘が、英霊の代弁者として
心血を注いだ『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』が書きあがり
出版する際、共に剣道の有段者であり、以前より親交があった
三島由紀夫より、同書に序文が寄稿された。
 
「何かお礼に差し上げたい」と申し出た船坂に対し
三島は「関孫六三本杉」を強く所望したという。
 
事件後、舩坂が警察署へ赴き 二人を介錯した関孫六を確認している。
 
◆昭和45年12月20日発売の 『朝日ソノラマ』
この中に事件現場を撮影した写真が掲載されている。
三島と森田の頭部が並べて置かれている衝撃的な写真だった。

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また、演説内容をすべて収録したソノシートも附属している。

2013年7月24日 (水)

パラオってどんなところ?

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パラオ共和国ってどんなところ?
世界一美しい海があり
日本時代の名残を体験できる。
パラオ国旗の由来は?

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パラオ国民は優しく、親日的
細かいことを気にしないおおらかな性格。

◆パラオ旅行の注意点
 
良くも悪くも南洋気質。みんな
おおらかである故、細かいところにこだわりイライラする人は
楽しめないかも。のんびりいきましょう。
 
グアムやサイパンのように整備されておらず
自然をありのまま受け入れられる人でないと楽しめない。
停電もしょっちゅう。
 
インターネットがダイヤルアップなので、ものすごく遅い。
ほぼ、使えないと思った方が良い。
 
その他 概要・日本統治時代からの歴史

■パラオの年間平均気温は摂氏27度。常夏の島で、北緯5~7度付近、経緯は134度と
日本の真南に位置する為、時差は無し。現在は飛行機で片道4時間半。

人口は21000人ほどで、そのうち70%程度がパラオ人で、他にはフィリピン人が多い。
日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている。

首都はパラオ本島のマルキョクへ遷都したが
実質、経済の中心地はコロールにある。

■言語は主にパラオ語であるが、
第二公用語として英語も使われる。

■西欧列強の時代、1885年にスペインの植民地となる。米西戦争に敗れたスペインは
1899年パラオをドイツに売却。以降ドイツの植民地となった。第一次大戦でドイツが
敗れると、1914年から国際連盟により日本の委任統治領となる。一時は南洋一の繁栄を
極めたが、大東亜戦争が始まると戦火の渦中となり、激戦の末、1945年に米軍が占領し
47年、同国による統治が開始された。他国統治から解放され「パラオ共和国」として
独立に至ったのは1994年のことで、日系のクニオ・ナカムラ大統領が就任した。

■日本統治当時、南洋群島全体の島民5万人に対し、日本人は8万5千人。
パラオには島民向けの公学校が26校あり、40歳以下の者はおおむね日本語を理解できた。
ガラスマオ、ガスパン、アイライ、アイミリーキのほか、瑞穂、清水、朝日、大和といった
和名の村があった。昭和18年の内訳は以下の通り。

■日本統治時代の学校は日本人向けの小学校と、日本語を母国語としない人向けの公学校と分けられ
学校教育の普及が当時の政策の重要課題だった。

■公学校は1915年(大正4年)に最初の公学校が建設されて以来、パラオには合計6つの公学校(コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュー
アンガウル、ガラスマオの各学校)が建設された。公学校は3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成されており
「本科」で優秀な成績を収めた生徒の多くは「補習科」に進学できた。

1915年から1935年までの21年間の間に、2242人が「本科」を卒業し、654人が「補習科」を卒業した。
当時のパラオにおける就学率は93%(1931年)で、南洋群島全体の平均就学率57%と比べても圧倒的に高い就学率を誇った。
「本科」「補習科」ともに国語(日本語)の時間が多く、カリキュラムの中の約半分の時間が割り当てられた。算数や実用種目も重視された。

補習科の卒業生の中で特に優秀だった生徒の中には、「木工徒弟養成所」に進学する者もいた。木工徒弟養成所は1926年に設立された、建築技術を
習得するための男子校で、毎年30人ほどが全南洋群島から選抜されて入学した。そのため、同校の生徒は「エリート」と考えられており、同校は当初
建築過程の専門校であったが、後に土木科や機械科が設置され、総合的な職業訓練校となった。
日本統治時代の後半になると、内地に留学して高等教育を受けることのできたパラオ人も少数ながら存在した。

■日本人向けには、尋常小学校から旧制中学校(および高等女学校)までが設置された。

■現地住民に対する処遇
呪術(モデクゲイ)の排除。徹底した取り締まりを行った。

パラオ人の中には志願によって日本軍に貢献しようとする人々があらわれ、それらは1942年に「資源調査隊」として約60名。1943年には
「パラオ挺身隊」として約30名が集まり、主にニューギニアなどへ派遣された。戦争末期には、「斬込隊」が結成されたが、実戦には至らなかった。

 



2013年7月22日 (月)

アントニオ猪木の島「イノキアイランド」

パラオの美しい海にイノキアイランドという島が浮かんでいる。
その名の通り、アントニオ猪木氏がオーナーの島で、正式名称である。

▼イノキアイランド 

イノキアイランド(ロックアイランド)
 
◆アントニオ猪木は、パラオがまだ無名だった頃より

熱心に足を運んでおり、それが縁となってパラオ政府より
友好の証として、この島をプレゼントされた。
 
イノキアイランドは美しいビーチのある島だ。
正式には猪木氏は島の名誉オーナーという形になっていて
島は猪木氏以外の誰でも使うことができる。
そのため、多くのダイバー船が係留され、それぞれがお昼休みを
のんびり過ごしている。
 

猪木氏本人も、頻繁に、お忍びでパラオにやって来てはこの島を訪れており
かくいう私も、パラオでアントニオ猪木と遭遇したことがある。
そのときはプロレス団体の後輩を引き連れてコロールの街で飲んでいた。
 
▼対岸に浮かぶ右側の島がイノキアイランド 
  
イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(パラオ)

Photo

▲イノキアイランドの位置

2

▲拡大図


◆2013年(平成25年)7月の参議院選挙で
アントニオ猪木が日本維新の会、比例区で立候補し
見事トップ当選した。
 
パラオで島をプレゼントされた話もそうだが、
猪木氏は外交に素晴らしく長けているのではないかと思う。
何せ、あの北朝鮮でも国賓扱いだ。
アントニオ猪木氏には、今後議員として拉致問題の解決に期待したい。
 


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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年7月 7日 (日)

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(別名丹下灯台)跡に登りました。
アンガウル灯台は日本時代の建築物です。
実に美しい白亜の灯台で、青空に映え、 往来する船にとって
不可欠な存在でありました。
 
Imgp7598▲アンガウル灯台(丹下灯台)倒壊して逆さまになっている。
 
故に、真っ先に狙われたのもこの灯台です。
アメリカの艦隊による艦砲射撃で 根本から折れて倒れ、
そのままになっています。 私が座っている辺りが根本なのですが
よく見ると灯台の窓が確認でます。また、写真ではわかりにくいのですが、
谷底は深く、逆さまになった灯台の高さに驚きました。
 
灯台への道程。
周回道路を逸れて、脇道へ入ります。
石段が残されています。ここをのぼって行きます。
(この石段が当時のものかどうかは不明) 石段の向こう側には
日本軍の兵器の残骸やビール瓶 各種弾薬の薬莢などなど、
多くの遺物が残っていました。
 
Imgp7601_1▲灯台へ向かう途中石段をのぼる
 
この辺りは当時、南洋最古の「アンガウル大神宮」という
立派な御宮様が鎮座し、住民の暮らしと海の安全を
守っていました。神社としてはコロールの南洋神社より古いものです。
当時は人口が2500以上もいたのですから 神社も自然と必要となったのでしょう。
※私有地なので、立ち入る際は必ず許可が必要。
 
現在大神宮は、ほぼジャングルに帰し、倒壊した石灯籠のみが残ります。
なお戦後に建設された「新・アンガウル神社」なら周回道路沿いにあり
いつでも参拝できます。
  
Imgp7203_1▲戦後場所を移して新しく建て直された「新アンガウル神社」
 
ジャングルの草木を慎重にかきわけて行くと
灯台の土台(の一部)が残っていました。
 
Imgp7569_1▲灯台の土台の一部。さらに上を目指す。
 
このハシゴ、足をかけても大丈夫だろうか?
ボロっと踏み抜いたら怖いので安全そうな足場を探りつつ、
さらに登って行きます。
 
最上部まで到着。薄暗いジャングルを突き抜けて
一気に広い空が広がりました。西港から巴岬、磯浜までよく見渡せます。
サンゴ礁の浅瀬と外洋の境目が地図のように望め
とても気分がよかったです。また、蒸し暑いジャングルを抜けて
ここまで来ると風が実に心地よく、 沖からやってきた波が、遥か眼下の
岩にぶつかって砕け轟きます。
 
Scan0052 
Imgp7582_1
Imgp7576_1
Imgp7579_1▲アンガウル灯台跡。現在の最頂部。 
 
アンガウル島の最高地点は標高60メートルの「大平山」であり、遮る
ものはありません。ジャングルが開けていた当時は360度の展望
だったことでしょう。 10km北にはペリリュー島も浮かんでいます。
昭和19年9月15日、ペリリュー島で上陸戦が始まりました。 海は
アメリカの艦隊で埋め尽くされ アンガウル島の守備隊はその様子を
こうして見ていたのでしょう。 そして二日後の
9月17日、アンガウル島でも上陸戦が開始されました。
 
今はアメリカの艦隊も無い平穏な海です。
海の無い野州(栃木県)出身の兵隊さんも、こうして はるか南の孤島まで
来て海を見ていたのでしょうね。 そして二度と帰れなかったのでしょう。
 
玉砕戦となり、水も渇き果てた死の淵で ふるさと栃木の、澄んだ雪解け水を
思い浮かべて その中に泳ぐメダカを見つけて
「ああ、こんな水の中にメダカが さぞや冷たかろう」 と、手でその水をすくう
仕草をしながら、口にはこぶ。 そんな幻想を見ながら、多くの兵隊さんが
死んでいったそうです。 ジャングルにはまだご遺骨が眠っています。
 
下るほうが難しく大変です。ふたたびジャングルへ 慎重におりて無事に帰りました。

2013年7月 4日 (木)

ブルービーチの激闘 島武中尉の戦い

_1
 
◆島中尉と紅蓮疾風隊
島武中尉(陸士55)は陸軍士官学校出の大男で
彼の率いる 第三中隊は、またの名を「紅蓮疾風隊」と称した。
 
島中隊は日々の訓練で島の周回道路を大行進するが
その様子を眺めていたアンガウル島の女性は皆、
彼に惚れて しまった。
 
島中尉の第三中隊は、かねてより特定の陣地を持たない
遊撃隊であった。 その為、アンガウル戦においての役割は
真っ先に熾烈な敵上陸地点の中へと飛び込むことだった。
 
▼島中尉が大行進したアンガウルの街道。沼尾少尉が玉砕した巴岬も近い  
Imgp7374_1

◆ブルービーチの激闘
昭和19年、9月17日
アンガウル島で上陸戦が始まる。民間人の多くが疎開した直後だった。

米軍との戦力差は歴然だった。 
戦艦1、重巡2、軽巡2、駆逐艦5以上による艦砲射撃および
航空機のべ1600機による銃爆撃に加え、ポール・J・ミュウラー少将
指揮するアメリカ陸軍第81師団(通称ワイルドキャッツ)一個師団
およそ二万一千名が上陸を開始した。
※1
 
最初に上陸用舟艇が姿を現したのはアンガウル島西の沖で
これを巴岬で見張っていた沼尾才次郎少尉(栃木県日光市出身)が
伝書鳩にて、大隊本部へ 「敵の上陸地点は西港なり」 と連絡。
ただちに島中隊が急行した。※2
 
島武中尉指揮の第三(反撃)中隊は165名。
星野善次郎少尉指揮の工兵第一小隊51名が配属されていた。
 
ところが敵の上陸用舟艇は、洋上に静止したまま 一向に上陸してこない。
これが陽動作戦だと気付いたのは正午頃であった。
島中隊はただちに反転して東港へ上陸中の米軍撃滅に向かうが
米上陸部隊はすでに上陸を開始。同日夕方までに 上陸二地点の
海岸線、それぞれ1000-1500メートルにわたって確保。 東北港
(レッドビーチ)地区では800メートル近く南部へ進出していた。
 
◆米上陸部隊の壊滅
島中隊が上陸を易々と許すはずがなかった。
東港(ブルービーチ)の上陸部隊は島中隊の猛烈な夜襲を受け
明け方の5時過ぎ、一旦海岸近くまで押し戻されてしまった。
押し戻されたのは歩兵321連隊第1大隊B中隊で、死傷者が続出。
大隊長をはじめ、大隊幕僚までが負傷し後送。
壊滅したB中隊は連隊予備のG中隊との交代を余儀なくされた。※1
 
その後、米軍はたちどころに中型戦車と水陸両用戦車十数両を動員、
さらに艦載機の銃爆撃も加えて島中隊を猛攻。
島中隊長は戦死し、中隊も10時頃まで抵抗したがついに玉砕した。

ここまでの抗戦が成せたのは
大陸より転戦せし精強五十九連隊の猛者と
島中尉の指揮ならではの戦い方があったに他ならない。
  

▼それぞれが対峙した東港。現在ブルービーチと呼ばれる場所である。
かつて血で染まったとは思えないほど美しく綺麗な砂浜である。
116angaur27 

▼満潮時
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▼米軍の敷設した物資陸揚げ用レールが残っている。

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▼ブルービーチに生えるパンの木のとまるシロアジサシ。
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※1、月刊沖縄社『徹底抗戦~ペリリュー・アンガウルの玉砕』 112-113頁
※2、船坂弘著『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』 33頁

2013年6月30日 (日)

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう
記事より~後藤丑雄少佐とアンガウルの落日



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ここはアンガウル島。ジャングルの周回道路を歩いてゆくと
開けたところに慰霊碑群があり※1
その一画に後藤丑雄少佐の墓がある。
 
20100206_838▲下野観音などの慰霊碑群(旧)
 
20100206_842▲米軍建立した後藤丑雄少佐の墓

 
◆後藤少佐と五十九連隊の最期
アンガウル島の守備隊長である後藤少佐は
明治42年生まれの35歳、 信濃の国、長野県の出身であった。
 
後藤少佐は昭和19年10月19日
最後に残った、重軽傷者含む100名の部下を集め、次のように訓令を述べた。
 
「本日の夕刻を待って、個別に敵の包囲を突破し、成功した組は
ふたたび島の中央・南星寮東側に終結する。そこから遊撃戦闘によって
敵の飛行場建設を妨害する
  
・・・君たちはよく闘った。各自の武運長久を心から祈る」 ※2
 
同日夜、後藤守備隊長以下、残存の五十九連隊総勢は
最後の斬り込みを敢行し、
ここにアンガウル守備隊は玉砕、
組織的戦闘は終結した。

 
なお、後藤大隊長の最期は次のようにも記されている。

「今夜12時を期して米軍に斬り込みを敢行する。全員玉砕を覚悟で
帝国軍人に恥じない行動を取るように」

 
そして最後に
 
「靖国神社で会おう。長い間の勇戦ごくろうであった」
 
と述べた。※3

◆後藤守備隊長の自刃

そして後藤大隊長が先頭で出撃、途中米軍の陣地を通過中に負傷。
「ここは日本の玄関だから遠からずして米軍が来るであろう。その時まで
頑張ってこの戦闘の戦訓、苦戦を伝えてくれ」
そう言い残し、自刃。皆、涙を流した。
 
思えば9月17日に始まった上陸戦は 後藤少佐指揮の徹底抗戦により
一ヶ月以上、米軍を苦しめた。米陸軍81師団の兵力、二万名
(戦車50輌含む)に対し兵站部隊など全てを
合わせても、わずか
1200名編成の五十九連隊が33日間も抵抗した記録は
類なきもので、
長きにわたる抵抗といえば、隣のペリリュー島(中川大佐指揮)が
有名であるが、兵力の比率からすればアンガウルの戦闘がはるかに
上回っている。

 
◆アメリカ軍が後藤少佐を手厚く埋葬する
アンガウル島をようやく制圧した米軍は 後藤少佐の
遺体を確認し、手厚く埋葬した。

※ペリリュー島の中川大佐と村井参謀も同様に、戦闘終結後 米軍の手により手厚く埋葬された。
二人の墓標は隣同士で その写真が米軍カメラマンによって撮影されている。
 
米軍によると、当初はこの戦死したコマンダーの身元がわからず一旦
「無名戦士の墓」としたが、のちに「守備隊長後藤少佐の墓」と 改められた。
   
Imgp4934◆後藤丑雄(ごとう うしお)少佐(准47)
第十四師団五十九連隊(宇都宮)第一大隊長
アンガウル島守備隊長
明治42年2月16日生まれ、長野県出身
昭和19年10月19日玉砕、享年35
戦死後二階級特進、大佐。

◆人物・人柄 
「有難う、お蔭様で」という温和な口調で実に人を引き付ける
徳の持ち主であった。

気品の保持と武徳の涵養(かんよう)、切磋琢磨に重きを置いた。
温厚な人柄であったが、パラオへ向かう途中、輸送船上で
召集に遅れた将校(隊長)に対し 
「将校が時間に遅れるとは何事である」
と意外にも大声一喝する場面もあった。
 
兎角、教育の機会を大切にし
部下思いの人であった。酒の席では得意の逆立ち踊り
南洋踊りらしきものも披露した。※4
 
上陸戦前、後藤少佐率いる第一大隊を残して
アイライへ転進する第三大隊。これに対して少佐は
「安島は引き受けました。なにとぞご安心ください」
と述べたという。
 
話は現代に戻る。
私はたったひとり、静かなアンガウル島のジャングルの小道を歩くとき、
風の音と共に、彼らの最後の突撃の絶叫か、英霊の声が
耳にこだまする錯覚を幾度も経験した。
 
※1、2012年の台風によって慰霊碑は壊滅し、再建中。 
※2、船坂弘『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』192頁より
※3、『栄光の五九連隊』252頁
※4、同253頁

Imgp7200アンガウル島のガシュマルの木

2013年6月29日 (土)

【ペリリュー島】ハネムーンビーチの台風被害

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ハネムーンビーチ(米海兵隊作戦名パープルビーチ)
台風で砂浜が流されてしまったようです。
現在被害状況を確認中です。

ハネムーンビーチの概要はこちら
 

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2013年6月28日 (金)

パラオ大空襲

パラオ大空襲
1944年(昭和19年)3月30日-31日
 
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パラオ大空襲は昭和19年3月30日から31にかけた
米機動部隊大編隊による大空襲。この空襲により
コロール市街地、パラオ軍港、艦船は甚大な被害を受け
また迎撃した海軍航空機と多くの搭乗員を失った。
 
一日目は合計十一波攻撃
のべ456機の艦載機が来襲、二日目は150機以上がコロールを銃爆撃し
街は焦土と化した。この邀撃戦により日本海軍戦闘機隊は敢闘するも
多くの航空機と搭乗員を失った。 なお、空襲前日、連合艦隊旗艦で
虎の子「武蔵」を含め艦船はパラオ港外へ退避し
司令長官の古賀峯一も空襲の合間を縫って飛行艇でダバオへ逃れることとなる。
(途中、低気圧に巻き込まれ行方不明となった)
 
パラオでは戦跡としてこのパラオ大空襲の傷跡を見ることができる。
 
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▲パラオ本島、アルモノグイの丘陵地帯に眠る零式戦闘機。
3月31日、パラオ大空襲邀撃戦において被弾不時着した
第261海軍航空隊所属の吉田久光機と判明した。

 
戦闘概要
 
■米機動部隊が攻めてくる
 
昭和19年2月、トラックを空襲により無力化された
日本海軍と連合艦隊司令部はパラオに拠点を後退させた。
3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る米機動部隊西進の報せがあり
東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには「数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を
三隊となって西進中」という報せがもたらされた。
 
3月28日早朝、南雲中部太平洋方面艦隊は「カロリン方面第一警戒配備」を下令。
増援部隊の要請を行い、各地航空戦力をペリリューに集結させた。
 
■連合艦隊司令部のコロール上陸
「武蔵」を逃がせ!空襲前夜
 
29日
10時46分、ペリリュー発進の索敵機より
パラオ南東380浬に米機動部隊の西進が確認された。
 
このとき連合艦隊旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他、附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港コロール泊地に投錨中であった。
古賀大将は「明朝、空襲の公算大なり」と布告、14時、武蔵を降り、
連合艦隊司令部を コロールに上陸させ指揮をとることとなる。
 
一方、虎の子の「武蔵」は大急ぎでパラオ港外へ逃れる。
パラオ港外へは狭い西水道を通過しなければならず、巨大な武蔵が
座礁せずに退避できたのは、まさに神業であった。無事、外洋に出た武蔵で
あったが、待ち構えていた米潜水艦の雷撃により、小破。
損傷は軽微であり、速力を落とさず内地へ帰還する。
 
■敵艦隊への先制攻撃失敗 
 
30日黎明(れいめい)
ペリリューの海軍航空部隊は陸攻機を用いて
米機動部隊に黎明(明け方)攻撃をかけるべく準備したが
午前3時00分、第761海軍航空隊の一、二番機が過重により離陸に失敗。
椰子林に突っ込んで炎上してしまった。
 
それどころか、先にやってきたのは米軍機だった。 テニアンから増援された
陸攻機も12機が銃撃を受け炎上、 順次発進を準備していた艦爆隊も
この奇襲により発進できずに終わった。
 
■敵大編隊!空襲警報発令
戦闘機隊、邀撃発進
 
5時30分、基地見張りから空襲警報発令。
これを受け、第201海軍航空隊のゼロ戦20機、第501海軍航空隊から
戦闘機5機を含む12機が邀撃に発進。 空襲の合間を縫って第121海軍航空隊(雉)
1機ほかが索敵に発進し、ペリリュー沖合の米機動部隊を発見した。
 
■米大編隊11波攻撃
456機による大空襲
 
米機動部隊の艦載機は第11次攻撃まで実施し朝6時から夕方まで、のべ
456機でパラオを襲った。 201空のゼロ戦は、邀撃した20機中、自爆未帰還9機、
大破9機、不時着2機と 消耗は甚大であった。501空は12機内、自爆未帰還が5機、
炎上7機 九九艦爆9機が焼失した。
 
※空戦戦没者後記載
 
そのほか在ペリリューおよびマリアナの陸攻隊は
機動部隊に対し強襲を仕掛けるが米記録によれば戦果はなかった。 (後述)
  
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▲ロックアイランドに沈む零式戦闘機(水深3メートル) 素潜りで撮影
(搭乗員名不明)  

 
■マリアナの戦闘機隊へ増援要請
 
30日午前、空襲の報せを受け、サイパン、アスリート飛行場展開中の
第261海軍航空隊(虎指宿正信大尉指揮 ゼロ戦32機と、グアム展開の
第263海軍航空隊(豹) 重松康弘大尉指揮 ゼロ戦25機 が合流し
パラオへ向け発進した。
 
なお、この際、敵艦隊に一矢を報いるべく
第523海軍航空隊の彗星強襲隊を12機を伴ったが
263空の戦闘機隊がグアム離陸の遅れにより(後述) 彗星隊とバラバラとなり、
同隊は護衛なくグラマン戦闘機の奇襲を受け 9機が未帰還となり、ペリリュー
到着したのは3機のみであった。
 
261空と263空の連合零戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、
さらに1機は ヤップに不時着(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明)
両隊はこの日は敵と遭遇せず、19時、ペリリュー基地へ到着した。
なお、着陸時爆弾孔により8機が破損した。
 
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▲現在のペリリュー飛行場。かつては東洋一の航空基地であり
多くの海軍機が離発着した。
 

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▲ペリリュー飛行場脇のタロイモ畑に残る零式戦闘機

■翌31日も度重なる大空襲
邀撃戦闘機隊の敢闘
 
6時20分頃、空襲警報が発令され
前日到着していた261空のゼロ戦28機、263空のゼロ戦15機が邀撃に発進した。
 
グラマン150機以上が来襲。
14時頃、艦載機の空襲は終わり 261空はグラマンF6Fを18機(うち不確実3機)を
撃墜したが未帰還20機、 重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機
(未帰還機を含め28機)の損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが
未帰還15機、炎上2機、大破1機の損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
※空戦戦没者後記載
 
この空襲により、コロール市街地および パラオ港湾施設、艦船、陸上部隊、航空隊は
甚大な損害を受けた。 (後述)
 
■飛行艇で逃げる長官
 
31日
19時、まだ空襲の炎が揺れる中、 大型飛行艇2機がアラカベサン飛行艇基地
着水した。 古賀長官と幕僚および連合艦隊司令部ダバオへ逃がすため
準備された機体である。
 
同機はサイパンから急遽派遣されたの第802海軍航空隊所属の
二式大艇であった。※また、ダバオに待機中の第851海軍航空隊所属の
二式大艇1機もパラオへ向け離水準備を行っていた。

21時30分、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。
二式大艇の機長は燃料補給を強く要請したが、参謀二人が

「その必要は無い。出発急げ」

と譲らなかったため、大急ぎで 離水準備が行われた。
21時35分、一番機に古賀長官、二番機に福留参謀長ら幕僚を乗せた
二式大艇はパラオ・アラカベサン水上基地を離陸した。
 
これが「海軍乙事件」である。二機はダバオへの飛行中、低気圧に
巻き込まれる。 古賀長官座乗の一番機は行方不明、
福留参謀長座乗の二番機は不時着水し 参謀長は命を繋いだものの、
フィリピンに上陸後、現地ゲリラに捕えられ 機密文書を奪われる運命となった。
 
福留参謀長の救出と機密文書の奪え返すため フィリピンの
陸軍一個大隊が動員される。福留は救出され戦後まで生きのびたが
最後までこの事件について語ることはなかった。
なお、古賀長官座乗の一番機は発見できず、のちに殉職とされた。
 
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▲アラカベサン島に残る飛行艇基地跡のスロープ。飛行艇を
「スベリ」と呼ばれる斜面へ陸揚げし、整備した。当時は屋根付き格納庫があった。
 
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▲米戦闘機の銃撃により沈んだ、第30根拠地隊附所属の零式三座水上偵察機と
天然の洞窟格納庫
(ハンガーケーブ)  カヤックツアーで見学可能
 
■海軍航空隊戦没者
 
■第201海軍航空隊(戦斗305飛行隊)
3/30、パラオ大空襲邀撃、20機出撃内9機未帰還
戦死者
 
林茂生中尉(海兵70),山下小四郎少尉(操17),鈴木新一上飛曹(操45)
國廣治雄上飛曹(甲6) 加藤定信一飛曹(甲8),深川隆義一飛曹(甲8)
和田正男一飛曹(甲8),服部一夫飛兵長(丙10) ほか一名
 
第261海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、28機出撃内20機未帰還
戦死者
 
岡佐古昌人中尉(海兵70),渋谷正雄少尉(学生11),二本森憲二上飛曹(操45)
大塚明一飛曹(甲8),井竜憲一二飛曹(乙15),古賀他四郎一飛曹(乙11)
高坂三郎一飛曹(甲8),林茂一飛曹(操55)児島猛二飛曹(丙11)
岩田増雄二飛曹(乙15),閏野護二飛曹(甲8),貝原良兼上飛兵(特丙11)
吉田久光上飛兵(丙11)
 
安否不明者
藤川史雄二飛曹,長谷登太郎飛長,中山正次二飛曹,杠勇男飛長,大谷敏男二飛曹
中尾隆美飛長,岡田盛樹飛長,紀田四郎二飛曹,興津健市飛長
 
第263海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
戦死者
 
武藤陳彦大尉(海兵70),島田義人予備少尉(学生11),西本彰吉上飛曹(乙10)
栗田勝司上飛曹(甲6),菊池武一飛曹長(甲1),長瀬正郎飛曹長(甲1)
芳野定俊一飛曹( ) 田渕武夫一飛曹(甲8),植田正治二飛曹(乙15)
矢鍋幸男上飛兵( ),小野敏春上飛兵(特丙11) 横池武治上飛兵(丙12)
下瀬卓上飛兵(丙12),神田秀雄上飛兵(丙12),進藤勝治上飛兵(丙12)
以上
 
■第501海軍航空隊(戦斗351飛行隊)
戦死者
 
山口友次郎大尉(海兵69),ほか四名
 
以下戦闘詳細
1944年(昭和19年)3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る
米機動部隊西進の報せがあり 東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を三隊となって
西進中という報せがもたらされた。 28日早朝、中部太平洋方面艦隊は
「カロリン方面第一警戒配備」を下令。 翌朝からのパラオ、メレヨン方面に対する空襲を
予測し、トラック、メレヨンを 基地とする索敵攻撃を指示するとともにマリアナ所在
航空兵力(陸攻)のペリリュー 増援を措置した。 当時、当該方面の海軍航空隊は
東カロリンおよそ180機 西カロリン(ペリリュー)約60機。 水上部隊は連合艦隊
旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港に停泊中であった。
 
■3月29日 空襲前日
【1046】頃、ペリリュー発進の索敵機よりパラオ南東380浬に米機動部隊の
西進が確認された。 連合艦隊は29日までの敵情により「機動部隊の攻撃は
30日に開始されるであろう」と判断したが 本攻撃が単なる機動空襲であるのか、
本格的攻略戦であるのか、判断は明らかでなかった。 連合艦隊は14時頃、司令部を
コロール陸上に移して作戦指揮をとるとともに 「武蔵」以下全艦隊を港外に退避させ、
また南西方面航空部隊および シンガポール方面の第三艦隊飛行機隊の比島、
西武ニューギニア方面集中準備を命じた。 パラオの第二十六航空戦隊は
29日米機動部隊に対し第一撃(薄暮攻撃)を加えた。
 
■3月30日
大空襲当日
【0300】 ペリリューより 761空、陸攻隊(接触3機、雷撃8機)過重により発進失敗。
1,2番機、椰子林に突入炎上、黎明攻撃出来ず。その他陸攻隊も発進前敵機動部隊の
奇襲を受け、艦爆隊の攻撃も 実施不可能となり、戦闘機は邀撃戦闘に転換。
26航戦の在ペリリュー兵力は46機を失った。 テニアンから増援の陸攻全機(12機)も
銃撃を受け炎上。
【0530】 基地見張りから警報 201空ゼロ戦20機、501空からは戦斗351飛行隊の
ゼロ戦5機含む 12機が発進、邀撃したが、逐次消耗。 この間、121空の艦偵1機、
751陸攻2機が索敵に発進。 (陸攻は0525)艦偵は0540敵機動部隊
「ペリリューノ210度40浬」と報告。 751空陸攻地上炎上5機 陸攻撃1機は発進後被弾、
ダバオに待避、他の一機は消息不明となる。
【0600-1730】 敵機動部隊による空襲 11次にわたり、のべ456機が来襲。
201空ゼロ戦、邀撃の20機中、自爆未帰還9機、大破9機、不時着2機 全機消耗。
戦果はF6Fを15機撃墜(内不確実3)TBF2機撃墜であった。 501空は12機内、
自爆未帰還5機、炎上7機、九九艦爆9機が焼失。 戦果は4機撃墜(内不確実2)であった。
【0910】テニアンより艦偵2機が索敵発進。
【0930】アスリートより261空32機(指宿隊)が発進 523空彗星隊12機が発進、グアムへ。
【1050】 261空、ゼロ戦隊グアムに到着(着陸時2機破損)直ちに燃料補給を行いこの間、
彗星は1時間待ち合わせた後、1220戦闘機隊の離陸を認め 進撃を開始。261戦闘機
30機、263戦闘機25機(重松隊)は1330集合。 遅れた理由は滑走路工事中のところへ
陸攻が突っ込み どけるのに時間を要した為。 彗星隊とは一時間の差があり、戦闘機隊
との合流はできなかった。 彗星隊は索敵中ペリリューの170度120浬においてグラマンの
奇襲をうけ 3機自爆、6機不時着未帰還、ペリリューに到着したのは3機で内1機は
着陸時破損、もう1機は漏洩燃料に着火焼失し、1機のみが残った。261空と263空の
ゼロ戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、さらに1機は ヤップに不時着
(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明) 索敵を実施したが会敵せず、
1900ペリリューに到着、着陸時爆弾孔により8機が破損 稼働機は全部で44機となった。
先行した艦偵は1801三群の米機動部隊発見を報告。 1機のみペリリュー到着。
もう一機は未帰還と推測される。 761空、陸攻隊の2機(1130)および横空の6機
(1215)がテニアンを発進。 内1機はエンジン不調となりペリリューへ向かったが
同地が炎上中のため ダバオへ不時着、他の一機は1925ペリリューの120度
125浬で雷撃、巡洋艦に命中 のちペリリューに帰着した。 755空の陸攻隊8機が
(接触2、雷撃6)が1230グアム発進。 1720、接触機が「空母2、戦艦2ソノ他十数隻
ヨリ成ル大部隊ヲ発見」と報じ 更に1850「空母ヲ含ム敵部隊見ユ」と報告したが二機
とも消息不明となった。 雷撃隊はペリリューの135度90浬の米機動部隊を1735発見
1835から単機ごとに 攻撃実施。巡洋艦一隻轟沈、戦艦一隻に魚雷一本命中、
その他一隻を炎上させたものと 認められたが、指揮官機以下3機未帰還となり、
3機がペリリュー、メレヨンに帰着した。 ※米記録によれば戦果なし
横空陸攻8機は1845米機動部隊を発見。1900攻撃開始。 大型船一隻炎上、
他の一隻に相当の損害を与えたものと認められたが 指揮官機が未帰還となり、
他はペリリューへ帰着した。 30日夜、ペリリューには別に横空陸攻10機、
523空彗星2機、121空艦偵1機が到着していた。
 
■3月31日
索敵機逐次発進
【0545】 761空、索敵機逐次発進。
【0550】空母を含む部隊をペリリューの61度100浬に発見した報告があったが
このとき攻撃兵力は523空の彗星1機のみで攻撃実施できなかった。
【0920】 第二索敵機は「ヤップ空襲ヲ受ク」と報じる。 第四索敵隊は
1000ヤップの150度80浬進行方向北の 米機動部隊を報告したが、第六索敵機
とともに未帰還となった。
【1220】および【1443】 761空陸攻2機は接触の為テニアンを発進。一直接触機は
1730 「ヤップノ205度163浬ニ於イテ空母ヲ基幹トスル大部隊進行方向西一八節」と報
【1320】および【1415】 横空陸攻は(接触2機、雷撃6機)テニアンを発進。
敵を発見せず4月1日 0040までにテニアンに帰着した(1機は未帰還) 一方、
グアムを基地とする755空も夜間攻撃を企図、一機が「1855空母ヲ含ム 敵部隊見ユ
空母2隻其ノ他ヤップヨリ20度160浬進行方向西」と報告
【1810】グアムを発進した755空(K701)接触機は「2110機動部隊ヲエウ島
(ウルシーの東8浬)ノ 320度145浬ニ発見」と打電、更に「敵ノ西ニ吊光照明弾ヲ
投下ス」と発信したがその後 消息を絶った。このほかに755空(K706)の雷撃隊も
攻撃に至らず引き返したものと 推定されたが一機は未帰還となった。 前日攻撃終了後
ペリリューに着陸した陸攻6機は (横空5機、761空1機)は未明テニアンに向け
出発したが 横空陸攻1機は敵戦闘機と交戦、自爆、その他2機は小破しテニアンに帰還した
 
■空襲、戦闘隊の邀撃
【0620】頃、空襲警報が発令され、前日到着していた 261空の甲戦28機および
263空の甲戦18機は邀撃に発進。 邀撃戦闘の状況は資料なく判然としないが
おおむね午前中には消耗したものと思われる。 この間、501空の彗星4機および
751空の陸攻4機がダバオからペリリューへ進出したが 彗星1機は着陸時破損、
1機は焼失した。
【1440】頃、艦載機の空襲はおわり 261空はF6Fを18機(うち不確実3)を撃墜
したが未帰還20機、重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機 (未帰還機を含め28機)の
損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが未帰還15、炎上2機、大破1機の
損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
■空襲終了後の被害状況
第30根拠地隊戦闘概報によると 施設焼失73棟、倒壊7棟、半壊20棟、一部焼失1棟、
計101棟
 
人員被害、附属艦艇、地上部隊総計、
戦死70名、重症65名、軽傷93名、行方不明18名、計246名
 
艦船沈没18隻(77,144総トン)、座礁3隻(6,832総トン)
その他兵器弾薬食糧等焼失,西水道およびパラオ港内に機雷投下
 
参考 海軍乙事件(吉村昭) 出典 戦史叢書13巻中部太平洋陸軍作戦、P78-80
戦史叢書マリアナ沖海戦 P203-209 戦闘機隊戦没者名は、日本海軍戦闘機隊
改訂増補版、海軍戦闘機隊史 (零戦搭乗員会編)防衛省戦史室所蔵各
戦闘機隊戦闘行動調書より作成。

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
Imgp4976_2

 
昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年5月19日 (日)

95歳のおばあちゃんと鬼怒岬

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戦史の調査で知り合った
95歳のおばあちゃんの話をします。

彼女の夫は陸軍少尉でアンガウル玉砕戦で戦死しました。
20代で未亡人となった彼女は、再婚す

ることもなく
この年まで畑仕事一筋で子供を育て、生きてきました。

最近は「早く夫が迎えに来ないかな」
といった言葉が絶えず、私も
なんと言葉をかけて良いのかわからずに、過ごしていました。

将校さんでしたのでお家からは機密書類が多く出てきました。
「自分が持っているより多くの方の役に立てれば」との申し出で
私は、それらを防衛省に寄贈する手続きを取りました。

先日、ようやく防衛省での受領が完了し
彼女のもとに感謝状が届きました。

写真は少尉が亡くなったと推測される砂浜です。戦争当時は
陸上にあったトーチカ(コンクリートの防御陣地のこと)も
長年の波の影響で、砂浜へ徐々に押し出されています。

遺骨は帰ってきていません。

私が撮ってきたこんな写真ですが、おばあちゃんは
夫の化身のように大切にしてくださっています。

とても悲しいけれど、深い愛の絆があるのだなと
感じました。
 

 
追記
この出会いから2年後の
2014年夏、おばあちゃんは亡くなりました。

2013年3月16日 (土)

南洋フルーツいろいろ

パラオには美味しい果物、フルーツがたくさんございます。

 
中でもどこの庭にも生えていて一般的なのがパパイヤなんですが
少々クセがあるので、好みがわかれるところです。
甘味はとても高いです。成長が早いのも特徴。
収穫の際にはまだ青いうちに棒でつついて落とし、追熟させます。
スーパーマーケットでも手に入りますが・・・そこらじゅうにあるので
ローカルの方たちはあまり買わないと思います。
 
実が大きくなるように様子を見ながら間引きをします。
間引いた未熟な実は捨てず、千切りにしてサラダにします。
葉っぱも大きいので魚料理のさいにお皿として使ったりと
捨てるところがありません。
 
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そしてこちらがバナナ。
同じく青いうちに収穫して追熟させます。
黄色くなるのを待っていたら虫に食われてしまうからです。
 
「轟沈」という唄の節で
『可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れて』
という歌詞が有名ですね~。
 
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最後にコプラの実です。
蛮刀で割って、中身のジュースを飲みます。
ココナッツの甘い味がします。街のストアーでジュース類と同じく冷蔵庫の中に
陳列されており購入できます。
 
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最後に割って実を食べます。この白い部分が果肉です。
甘くカロリーが高く、昔は貴重な栄養源でした。
 
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スコール

南洋のスコールは凄まじいものがあります。

戦闘中にスコールが来ると両軍ともに一旦中止したと
ペリリューの戦記にも記されております。
写真では伝わりにくいのですが、実際に初めて経験すると驚くでしょう。
 
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2013年3月10日 (日)

ペリリュー島の台風被害

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被害甚大です。二月中旬に渡航した仲間が写真を撮ってきてくれました。
島南端の平和記念公園の様子です。この場所のみ外洋に面しており
高潮による被害が甚大です。巨木すら根元からもぎ取られ流されていまっています。
さらに島内道路の各所が倒木により寸断された箇所が多く
慰霊碑の修理は厚生省の管轄ですが道路は管轄外です。
重機すら無いこの島ですから復旧のめどが立たない状況です。
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台風は島の東から接近し、北部の州事務所は30センチ冠水。ケイボーストアと
マユミインはキッチンと食堂の屋根が全て吹き飛ばされており、修復中です。
内陸部のジャングルも木々が倒れており歩行困難。
中山の東側は特にひどいものでした。
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島民は日本軍が築いた強固な洞窟へ避難していました。
今回幸いだったのはパラオにおいては人的被害が皆無だったことです。
(この台風はパラオからフィリピンへ進み、1800名以上の死者行方不明者が出ました)
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全てを外洋に囲まれたアンガウル島はさらに被害甚大
壊滅的との報告も入っています。

2012年10月31日 (水)

アルマテン砲台

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アルマテン海軍砲台
安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)
呉海軍造兵廠~明治36年~15サンチ速射砲

旧朝日村西に位置するアルマデン海軍砲台は、西水道を望む
高台に設けられ
トーチカに格納された砲が当時のまま残されている。
西水道は、外洋とコロール環礁内を繋ぐ交通の要衝で
最少幅110メートル、全長8.5キロに及ぶ狭水路であった。
 

アルマテン海軍砲台は、この狭水路に進入する敵艦艇に対し照準し
迎え撃つ構えであったが、
米軍はパラオ南端のアンガウルおよび
ペリリュー島攻略で大損害を受け
パラオ本島の攻略を中止。
兵糧攻めに徹した結果、砲台が活躍する機会なく終戦を迎えた。
 

海軍はこのほか、マラカル、アイライ、コイグルの各地に砲台を
設置し敵艦艇の侵攻に備えた。
 

※トーチカ格納の一門以外は戦後此処へ運ばれたもので
原型をとどめたものが三門と、解体され砲身のみとなった
二門が茂みに残されている。

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2012年10月17日 (水)

アンガウルの戦火に巻き込まれた少年

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アンガウル平和慰霊公園に建つ少年の像です。
芸術家の戸田和子先生の作品です。

先日、戸田先生の展覧会が宇都宮で開催され、その折
ご本人とお会いし、製作の経緯を伺って参りました。

アンガウルの戦火に巻き込まれ亡くなった実在の
民間人の男の子をモデルにしました。

戸田氏のお話によると当初は男の子一人をデザインしていたのですが、
とても寂しそうだったので、手に飛行機の玩具を持たせてみたのですが
それでも寂しそうだったので、背後にお姉さんを立たせたそうです。

そして「日本はどっち?」とお姉さんに尋ねているところです。
指差す先に日本があります。

写真は小玉氏(甲種予科練十二期)提供です。

2012年10月 6日 (土)

アンガウル島慰霊碑の除草作業

パラオの戦跡を調べるようになって随分と経ちましたが、まだまだ
書きたいことがたくさんあります。お見せしたい写真もたくさんあります。
決して出し惜しみしているのではなくて追い付かないのです。

資料も揃っていて、出版もしたいのですが、
自分一人で自宅で細々と作業しているものですから、なかなか進みません。
しかし少しずつではありますが、パラオ戦跡の現状をお伝えしたく
書いて参ります。

今回はアンガウル島平和慰霊公園の除草作業の様子です。

運よく船のエンジンが好調だったので単身、アンガウル島へ渡りました。
私は久し振りに訪れる日本人でありました。
船が波止場へ入港すると大勢の島民が集まりとても賑やか。もちろん
年配者で日本語を喋れる方が居て、暖かく迎えてくださいます。

早速、慰霊公園の様子を見に行きます。
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南の島には冬がありません。よって一ヶ月も放置すればご覧の通りで
英霊に申し訳ない・・・。兎角アンガウル島は交通の便が悪く
清掃などが行き届かないのです。

まず、雑草を片っ端から引っこ抜きます。
時間がかかりましたがなんとか終了し
コンクリートの土台には米松の葉がたまっていたので掃き掃除して、
慰霊碑を綺麗に拭いたら完了です。
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綺麗になりました。慰霊碑は画面右から

■少年の象

■砲兵隊慰霊碑

■船坂弘氏建立の慰霊碑

■下野観音象
(栃木県知事横山信夫1973年)

■守備隊長後藤丑雄大佐の墓
(無名戦士の墓から改め)

■アンガウル戦没者慰霊碑

■沖縄の塔

■各個人慰霊塔

の順に並んでいます。

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11.6angaur04

綺麗になったところでようやく慰霊ができます。

「これを兄貴に飲ませてやってくれ」

ご遺族から預かってきたお酒をお供えします。
栃木の地酒です。

おそらくここで散華されたのでしょう
激戦のレッドビーチにも注ぎました。
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熱帯低気圧が来ているのでだいぶ海が時化てます。まさかこの後
帰りの船が欠航になって10日間も島に閉じ込められるとは
この時点では思いもしませんでした。


つづく

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

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さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

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到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

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ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

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私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

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オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

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横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

マングローブの森_1
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

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これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

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これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

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クレーター_1
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 8日 (土)

パラオ国際空港

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パラオ国際空港
パラオ唯一の玄関口であるパラオ国際空港は

かつて日本海軍の飛行基地であった。
 
戦中、パラオには日本海軍の飛行基地が三か所存在し
昭和14年から既に運用中のペリリュー島、ガドブス島の各飛行場と併せて
昭和19年に完成したのがここアイライ飛行場である。
 
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。
 
アイライ飛行場の建設
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊(※1)し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と
海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。

建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間であったが
主に戦闘機の基地として運用された。
 
戦後、アイライ飛行場はアスファルトで舗装され、パラオ国際空港となった。
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
戦死した二名の中学生
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。
 
作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が喜び飛び出していくと
それは米軍機だった。彼らは米軍機の機銃掃射を受け死んだ。

 
気象条件が立地上極めて良好
この飛行場ははパラオ諸島の中でも気象条件が立地上
極めて良好なことから
航空機の発着に適している。
 

※1捕捉 

昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
パラオ、コロール泊地に投錨した。 海軍にとってパラオはトラックに次ぐ
南洋の最重要拠点であり トラック基地を空襲によって無力化された
連合艦隊司令部が ここパラオに後退したのであった。
連合艦隊司令部はコロールの陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の
海軍司令部に置かれた。
 
内地からの輸送船は敵潜水艦の雷撃でことごとく撃沈された為
物資と兵員の輸送を武蔵が担っていたのである。
横須賀からの 航海は大時化に見舞われ、これに伴った駆逐艦は破損。
随行の困難を極めた。 武蔵は嵐にびくともせず、スクリュー四軸のうち一軸
のみを回転させ 駆逐艦の速度に合わせ、最微速力運転を行った。
 
武蔵には甲板上まで物資が搭載されていたため、それらの大半が海へ
流出して しまった。前甲板には爆弾を積んでおり、兵士は嵐の中、危険を
おかして 全て海へ投げ捨てた。それにしても、かつて経験したことのない
波濤にも 動揺せず、速度も落とさず突き進む戦艦武蔵を、不沈艦として
の不動の信頼と 神秘的魅力を与える航海となった。
 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため、
パラオは一時 大騒ぎとなった。
パラオの環礁は浅く狭かった。 外洋に出るには最少幅110メートル、
8.5キロに及ぶ西水道を通らねば ならない。さらには口付近で直角に折れ、
複雑かつ急速な潮流により通行を 困難なものにした。
(武蔵は全長263メートル、幅38.9メートル) 満潮時の他は絶対に
不可能である。その為環礁内に係留したまま訓練も 行われず一ヶ月が過ぎた。
この間、武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船し
飛行場の整備に汗を流したのだった。
  
--------
資料 アイライ飛行場に展開したのは航空兵力は以下の通り。
 
第343海軍航空隊(隼)
第263海軍航空隊(豹)
第723海軍航空隊
第761海軍航空隊(竜)
 
なお、アイライ飛行場近くに湿地帯に撃墜された米軍機の翼が現在でも
突き刺ささったまま残っており、昭和19年の日付で落書きがされている。
「隼ハ強イ~撃墜セシ、憎キ敵ノグラマン」 この「隼」は陸軍の一式戦闘機
ではなく(パラオに陸軍航空機は無かった) 343空初代(通称隼)であると
推測される。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との情報が入る。
福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると大慌てで武蔵以下艦隊を
直ちにパラオ港外へ待避させりことを指示した。
この時点で満潮までは二時間 猶予なく、事態は逼迫を極めていた。
古賀峯一大将指揮する連合艦隊司令部をパラオ島陸上に一旦移し、
武蔵は港外に 待避。空襲が去った後、ふたたび入港し司令部を艦内に戻す
計画であった。 水道からの脱出は細心の注意が払われた。
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで1分40秒かかる。
これが全速航行時ならば 1.4キロも走ってしまう計算になる。
武蔵は港外へと無事待避したが、その日の空襲はなく、待ち受けていた
敵潜水艦の雷撃を受け船首を小破。損傷は軽微で艦の航行に支障をきたす
ものではなかったが、呉に回航して修理する運びとなった。
この三日後の3月30日、31にパラオ大空襲があり
同日夜の海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)が重なる。