2012年9月 6日 (木)

最後に飛び立った滑走路へ(ペリリュー飛行場)

さて、テレビでは放送しませんでしたが
パラオではご遺族をペリリュー島の戦跡にも案内致しました。
その中でも是非ともお連れしたかったのがこちらです。

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「久光おじさんが最後に飛び立った場所でお参りして行こう」

ペリリュー基地の滑走路です。大部分がジャングルに帰しましたが
現在も滑走路一本が辛うじて残っています。
ご遺族の方々はここでも手を合わせいました。

帰国してから、ご遺骨の行方を調べる日々です。ご遺骨は不時着地点の近くに
一度仮埋葬された後、掘り起こされて、身元不明のままガスパンの慰霊碑に
移されました。島民によるとエプソン大統領の時代、日本と結ばれた
遺骨帰還事業で身元不明のまま日本へ帰ったということです。

現地で調査しましたが、当時の記録が残っておらず、受け取った側つまり
日本の厚生省頼みとなりました。現在、ご遺族とともに調査を進めております。
援護局の職員さんがテレビをご覧になっていたらしく、話もうまく進み
とても丁寧に対応してくださっています。

以下は私の現在の推測と今後の展望ですが、身元不明のまま最終的には
千鳥ヶ淵へ行き着いたのではないかと考えております。

ご遺族の気持ちとしては最終的に埋葬された場所へお参りすることなのです。
今回のパラオ旅行の前にも、お墓にお骨が無いので、代わりにせめて
ゼロ戦の小さな部品か現場の石ころだけでも持って帰りたいという
お申し出がありましたが、これはパラオの法に触れてしまいますので
断腸の思いでお断りしなければなりませんでした。
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2012年9月 2日 (日)

恐竜の生き残りか!?パラオオオトカゲ

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アンガウル島にはここでしか見ることのできない生き物が多く
棲息しています。

特にホタルが見事です。日が暮れてから間もなく、滑走路東側の
道を歩くと見ることができます。日本のホタルと違って白い光を
放ちます。パラオでホタルが見られるのはアンガウル島だけです。

そして何といっても驚くのがこの「オオトカゲ」です。

アンガウルでこいつを初めて見たとき
一瞬「恐竜の生き残りか!?」と錯覚するほどの衝撃でした。
パラオオオトカゲと言って、多いなものは
1メートル50センチくらいになります。元々はインドネシア産で
ネズミ駆除のため持ち込まれたと言われています。
大きいので、のっしのっしと、一見鈍重そうな印象ですが、実は正反対。
とても俊敏で「ガサガサガサ!!!」と逃げ足が物凄く速いのです。
木登りも上手です。このオオトカゲも苦労してカメラに収めました。
戦争中は兵隊さんの食糧にもなったそうです。
大きいので食べごたえがありそうです。

2012年8月13日 (月)

パラオ人の証言~幻の楽園

  

幻の楽園
もしタイムマシンがあったなら、私もそんな美しく夢のような街を歩いてみたい。
これは私が現地でパラオの年配者にインタビューして制作した動画で
ご覧の通り日本語がベラベラである。そんな南洋一の繁栄を極めた
コロールも
昭和19年3月末の空襲で楽園は灰燼に帰した。
  

日本統治時代のコロール 
▲昭和18年頃のコロールの街

 
戦争の話をする前にパラオと日本の関わり合いについて
是非記しておかねばならない。
 
日本委任統治時代~欧米植民地との違い
日本による統治は欧米の植民地政策と如何なる点が異なったか
ある年配パラオ人男性もまた当時を回想して次のように語る。
 
「日本時代の学校教育は、ひとりひとりに責任という概念を与えてくれた。
それはとても重く厳しいものだったけれど、私は嬉しかった。」
 
海に囲まれた小さな南の島で、近代化とは無縁なれど独自の文化で平和に
暮らしていたパラオ人。
日本の統治によって、近代化をもたらしたことが
彼らにとって果たして
幸せだったかどうかはさて置き、時は乱世にあり
近代国家との
接触は避けては通れない道であった。彼らはいずれかの国に
属することを
選ばなければ、生き残れなかった事は確かだ。
 
パラオは長きにわたりスペイン帝国、次いでドイツの植民地であった。
ドイツが第一次世界大戦で敗れた後、国連決議により日本の委任統治が
認められ、正式に日本の一部となった。
 
こうして日本の国土となったパラオであるが日本は貧しい国である。
大国アメリカのように彼らに分け与えられる食料など無い。
そこで彼らパラオ人に学問を広め、自ら働いて食べる術を教えたのである。
何より武力での支配は長続きしないことを我々日本人は知っていた。
 
日本統治時代にはパラオ各地で様々な産業が発達し、日本人とパラオ人が
共に汗を流し
自立の道を歩んでいた。仲良く平和に暮らしていたのである。
  
 
戦争の渦中へ

押し寄せる戦争の渦中において、一部分のみを切り取って彼らが虐げられたと
言われてしまえば、その事実は決して否めないが、それが悲しくも戦争の本質で
あるし
パラオ人を守り、最大限の保護に努めたのもまた事実である。
我々は防人であった。
 
パラオ真の独立は如何なるべきか 
日本が戦争に敗れ、アメリカ支配に移行すると、過多ともいえる経済支援に
よって日本の築いた産業はたちまち衰退しパラオ人は働くことをすっかり
忘れてしまった。パラオ人自らがもっとも輝いた日本時代を「良い時代」と
懐かしむお年寄りは多い。
 
1994年にパラオはアメリカ領からの独立を果たしたが
事実上、国家経済はアメリカ(次いで日本、台湾)の援助に依存しており、
真の独立とは言い難い。未だ道半ばであるパラオのために
再び日本が果たすべき役割は非常に大きい。
 

日本統治時代のコロール

 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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パラオ地図

▲枠内をクリックするとそれぞれの地域に拡大されます
 
パラオ地図フリー素材(無料)配布中

 

カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

誇り高きサムライここに眠る パラオの零戦

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パイロットの調査
ここはパラオ本島中部(現在のアルモノグイ州)
翼を横たえて眠る零式戦闘機、その経緯は長らく不明であったが
ここに記す出来事から68年を数えた今、ようやく概要が明らかとなった。
 
機体は第261海軍航空隊所属 吉田久光(上等飛行兵)と判明した。
長崎県現在の島原市出身、19歳。
 
1944年(昭和19年)3月31日のパラオ大空襲で米機動部隊の艦載機F6Fが
150機以上が来襲。 第261海軍航空隊(通称虎)指宿正信大尉指揮する戦闘
機隊の 零式戦闘機28機がペリリュー基地より邀撃。 この日の編成で、第一中
隊三小隊四番機として出撃したのが吉田上飛兵で、吉田機は空戦により未帰還
となっている。
 
不時着を目撃した住民の証言
島民の証言を照合すると、機体は被弾した後、旋回しながら降下、不時着した。
三名の島民と日本軍人、朝鮮人軍属(いずれも人数不明)が現場に急行したが
機体は間もなく、爆発炎上した。 操縦席から搭乗員を救出し、手当を試みたが、
重度の全身火傷と外傷により 間もなく息を引き取った。
 
遺体は島民の手により機体近辺に埋葬された。
島民は戦後もこの出来事を忘れず
「ヨシダの遺骨を日本へ帰してやりたい」と言っていたことから
篠原が調査に着手、平成24年8月、不時着から68年を経てようやく
概要が判明、遺族による迎えが実現した。
 
261空は原隊を鹿児島に置く、サイパン基地進出中の航空隊。
3月30日パラオ空襲を受け(パラオ近海へ展開中の米機動部隊へ攻撃の
522空彗星隊12機の護衛を261空の戦闘機隊55機が担った)パラオ上空へ
向うも 会敵せず、ペリリュー基地へ着陸。翌31日、再度の空襲によりペリリュー
からの 迎撃に至るこの空中戦により同部隊28名のうち准士官以上2名、下士
官兵18名 合計20名の搭乗員が自爆または未帰還となった。
 
戦地から姪宛てに手紙を書いている。これは一部である。

吉田久光上飛兵、戦地から姪宛ての便り
(但し、旧字を現代文字に改めた。文中の二十一歳は数え年)
 
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前略 スミエ、達者で何よりだ。俺も相変わらずだ。安心してくれ。
この間、母の写真が届いた。欲を言えばお前たちのも貰いたかった。
家に帰って母の老いたる姿で淋しくなった。だけど元気だけは人に
敗けられないようだった。姉さん達が近所に居られる。
非常に心強く わしも心配していない。

敵米国の反攻も猛烈だ。今年こそ決戦の秋。 このとき、飛行兵として
初陣する。
叔父の喜びを察してくれ。 四月に帰郷した所以もわかるだろう。


花は桜木戦闘機乗りは 若い命も欲しみやらぬ
花はつぼみのニ十才で散るも 何の、国の為、君の為
と言う歌がある。
 
俺も今年二十一才(満19)になった。 欲しい命は遠くに過ぎた。
お前たちが待つのはニュースだけだ。 帰郷の際、姉さんの子供たちが
紀興やサチエに至るまで「叔父さん叔父さん」と 送ってきた姿を思い
浮かべて感無量だ。この可愛い弟や妹を 立派に育ててくれ。
 
一番俺の心細いのは、兄さんが体が弱い事だ。俺が帰ったとき
休んで居られたが、お前から体に気を付けられるように充分すすめてくれ。
兄が病気などされると内も困るけど横道も困るからね。
 
俺のことは何もかも忘れてくれ。
 
自由の効かぬお前であるけど、戦地より親助兄さんが帰るまで
老いたる母の面倒を見てやってくれ。 駅にて頼んだ通りだ。頼むぞ。
だけど母には話してくれるな。 ますます寒くなる折柄、お体を大切に。
 
敬具 スミエ様へ 叔父より
 
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昭和18年の年末、吉田上飛は一度帰郷している。
皮の飛行服に飛行帽姿で突然玄関に現れたので驚いたと
友人は回想する。 そしてこのように言い残している。
 
「敵が三機くらい、束になってかかってきても全て撃墜してみせる自信がある
先ず一番機を落とせばいいのだ」
 
大晦日の晩には母が久光のために年越しそばを作った。
しかし、どこを探しても久光が見当たらない。
彼は別れの挨拶をすることなく 黙って静かに消えたのだった。
それが家族や友人に見せた最後の姿となった。
 
三か月後の昭和19年3月31日、パラオ上空において散華した。
どんなに技量が優れていようとも 歴然たる戦力差は到底埋められるもの
ではない。 私たちは忘れてはならない。 護国に身を奉げた彼らは誇り高き
サムライであった。

Photo 
吉田久光飛長
 

2012年8月12日 (日)

日本語が語源となったパラオ語

パラオ語を覚えましょう。パラオ語は日本語が語源となった単語が
だいぶ訛ったものも含めて900~1000あるとも言われます。

▲ダイジョーブ(大丈夫)モンダイナイ(問題ない)

一番よく使う便利な言葉。場合によってはダイジョーブだけで
会話がなりたってしまう場合も。

▲ツカレナオース(ビールを飲むこと)
アジダイジョーブ(美味しい)ベントー(弁当)

解説するまでもなくそのままです。
ツカレナオース?「飲みに行こうぜ」

▲オキャクサン(お客さん)
シューカン(習慣)トチダイチョー(土地台帳)

▲ダイトーリョー(大統領)センキョ(選挙)
アブラ(ガソリン)ヒコーキ(飛行機)

パラオ語は「N」つまり「ん」ではじまる言葉が多く独特の発音。
物凄い早口で喋っている印象があります。こんにちはは「アリー」
ありがとうは「メスーラン」

その他、日本人の人名が人気で、現在の若いパラオ人でもその傾向が
見られます。一例ですが

■定番の名前
タロウ、ジロウ、アケミ、ハルコ

■日本人姓を名前にした例
タナカ、エンドウ、カトウ、

■敬称までつけた例
モガミサン、タニグチサン

■著名人にちなむ
ロギサン(乃木大将)キンタロー等

2012年7月24日 (火)

「私達も一緒に戦わせて欲しい」アンガウル玉砕戦

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◆アンガウルの戦いを、どうか忘れないでください。


これだけの兵力差がありながら約1ヶ月間もの間、
抗戦を続けたアンガウル島守備の宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言えます。

私は生まれも育ちも栃木の宇都宮で、その縁あって
パラオでの慰霊を続けています。近所にも遺族がお住まいです。

ペリリュー島ばかりが目立つけれど、アンガウル島の戦いも
どうか忘れないでください。

◆ペリリュー島では民間人の犠牲者がゼロだったと
美談の如く、流布されていますが、間違いです。ペリリュー島でも
疎開せず隠れていた島民がおり、犠牲になった島民の方が存在します。
さらには「わたしたちも戦わせてほしい」と島民が
申し出たといった逸話も、やはりアンガウルが発端です。

◆昭和19年10月19日、そのアンガウル島で最後の突撃間際に島民と
松澤豊中尉(砲兵第二中隊小隊長、長野県出身)の間で交わされた会話が
あります。
次のようなものでした。

島民「わたしたちも一緒に戦わせて欲しい」

松澤中尉「皆さんは日本人でないのに今までよく協力してくれました。
我々軍人は祖国日本の為に死なねばなりません。皆さんはその必要は
ありませんから投降して米軍の保語を受けなさい。これは後藤隊長の厳命です」


◆米軍による投降勧告は9/25以降続けられていたが
10月に入り、今まで糧秣搬送、陣地監視に協力していた
島民の投稿が出てきた。(松澤中尉のすすめなどあり)
10/9まで168名(栄養失調150名)投降した。※

※栄光の五九聯隊246頁より


◆以下資料
アンガウル玉砕戦

■アンガウルで上陸戦が開始されたのはペリリュー上陸の二日後、
9月17日であった。
上陸したのは米陸軍第81師団の2コ連隊、砲兵4コ
大隊(50門)戦車1コ大隊(M4戦車
50輌)基幹の約21000名で日本守備隊
(兵站等含む総勢1200名)の20倍の大兵力であった。

日本守備隊はアンガウル島でも複郭陣地に潜みゲリラ戦を展開し、徹底抗戦した。

■10月19日、守備隊長後藤少佐は最後の斬り込みを敢行。守備隊は玉砕し
アンガウルの組織的戦闘は終結した。これだけの兵力差がありながら
約1ヶ月間もの間、抗戦を続けた宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言える。

アンガウルでの戦没者 陸軍1144名、海軍6名 合計1150名
米軍の戦死260名戦傷1354名

ペリリュー玉砕戦

■上陸戦は昭和19年9月15日に開始された。
アメリカ軍戦力は第一海兵師団24234名、予備隊として陸軍第81師団
19741名。総勢48140名

重機関銃1436挺、火砲迫撃砲から榴弾砲など729門、ロケットランチャー180門、
戦車117輌。

これに対し、日本軍守備隊は9838名。主要兵器は機関銃58挺、
13ミリ対戦車砲から
105ミリ曲射砲まで火砲200門程度、軽戦車17輌。

兵力で比較すると四倍、機関銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍であった。

さらに、沖合を取り巻く艦船や艦載機により、ペリリュー島へ対する事前の砲爆撃は
熾烈を極め、艦砲射撃で3490トン、空爆で507トンもの爆弾が投下されていた。

■海兵隊を率いるリュパータス少将はこの圧倒的優勢を楽観視し
戦闘は二日ないし三日で
終わるであろうと予想した。しかし、日本守備隊は
水際作戦で海兵隊に大打撃を与え、
上陸後も複郭陣地を利用したゲリラ戦を展開。

この戦いで水戸第二連隊全部隊、高崎第十五連隊(内、第二大隊、第三大隊)
海軍(応急)陸戦隊が玉砕した。

■11月24日16時、守備隊長の中川大佐は、玉砕を告げる電文
『サクラ・サクラ』を連送し、自決。

これをもって守備隊の組織的戦闘は終結し、米軍は事実上のペリリュー島
占領を達成した。

■この後もなお抗戦を続けた将兵が存在した。最後の34名が澄川道男少将の
説得、
命令解除によりようやく戦闘を中止したのは降伏から2年を経た
昭和22年4月28日であった。

■アメリカ軍の戦死傷者は8844名(戦死1684名)でさらに錯乱や精神異常を
訴える者が続出した。

2012年7月21日 (土)

マルキョクの朝鮮人慰霊碑-パラオにもあった捏造問題

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マルキョクにある朝鮮人慰霊碑へ行ってきました。
※韓国人慰霊碑」と刻まれていますが、当時、朝鮮半島は現在の
ように南北に分断される前で、当然、現在で言うところの北側の
方々も居たでしょうから、朝鮮という表現を用いることに致します。

私が訪れたこの時も、韓国人観光客がツアーの途中で立ち寄っていました。
日本の慰霊碑と違い、除草が行き届いていますね。日本の慰霊碑は本島
(ガスパン等)にありますが日本人が慰霊に訪れることなく草が伸びる一方です。
日本と韓国の認識の違いがはっきりと出ていますね。

さて、この慰霊碑、碑文は立派なのですが・・・
ひとつ、問題があります。

犠牲者の人数なのです。

この戦争によって朝鮮人が犠牲になったのは事実ですが、
慰霊碑に刻まれている人数が事実と異なり、あまりに多すぎるのです。

この点は日本の立場から事実に基づき、しっかりと抗議しなくてはなりません。
韓国といえば最近では慰安婦問題で記念館を建設したり、それがアメリカ本土に
まで及んだりと問題となっていますが・・・

実はパラオでも同じ問題があるのです。

2012年7月17日 (火)

パラオ人による斬込隊編成

パラオの戦いでパラオ人(民間人)の犠牲者が少なかった理由は、先ず運が良かったことです。

(民間人の犠牲100~200人と推測される。ベラウナショナルミュージアム資料より)

 

1944年(昭和19年)3月の空襲を受けたパラオの日本守備隊は

ペリリュー、アンガウル両島の島民の多くを、バベルダオブ(パラオ本島)へ疎開させました。

 

※それでも、アンガウルには僅かに島民が留まりました。一方、ペリリュー島は一人残らず疎開

したと伝えられていますが、実際はこちらも僅かに残っていたと推測されます。

 

その後、軍と軍属のみとなった両島で上陸戦が始まるのですが、この両島上陸作戦

(通称ステイルメイト・ステイルメイト2作戦)で大痛手を被ったアメリカ軍は、パラオ本島の

上陸を諦め、兵糧攻めを企てます。よって終戦まで疎開先であったバベルダオブ島(パラオ本島)

で白兵戦が行われることはありませんでした。

 

原則的に、日本軍が民間人に戦闘を強要することはあり得ません。

パラオの場合、司令部が本島にありましたから、命令系統が良く行き届いたこと

が、まずひとつ、それで民間人の犠牲を抑えられたのと、何といってもアメリカ軍が攻略を諦めた点に

あります。

 

決戦の準備を整えていた司令部を含むパラオ本島の部隊は、このアメリカ軍の兵糧攻めによって、

戦わずして4800人以上の兵が餓死、または病死しています。

 

パラオ人の中には自ら「私達も一緒に戦わせてほしい」と願い出るものが居りました。

しかし、軍はこれを一切認めることはありませんでした。戦争末期には本島で

「パラオ人斬込隊」が編成されますが、実戦に至ることなく終戦を迎えました。

この斬込隊、日本軍の軍規の大原則、民間人を巻き込んではならないという点からすれば

あり得ない事で、一部の軍規に反する将校が企てたか、あるいはパラオ人有志によって自ら結成したか

いずれかでしょう。

 

パラオ地図

2012年7月14日 (土)

無罪と無実は違う

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パラオ・ペリリュー島にこんな慰霊碑がある。
戦争博物館(海軍弾薬庫跡)の隣だ。
  
「ひろしま・祈りの石の会」という団体が作ったもので
世界中に同じものを建てているようだ。
 

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これだけは少々場違いな気がしてならない。 
米国は原爆投下の大義として「戦争の早期終結」を主張する。
確かに、広島と長崎への原爆の投下によって戦争は早く終わった
かもしれない。 
 
しかし、原爆投下が無差別大量虐殺であることに何ら変わりない。
アメリカは間違いなく大罪を犯した。
ただ、裁かれることがなかっただけだ。
 
無罪と無実は違う。
 
パラオに限っていえば歴史上、侵略戦争云々とは関係ない。
国連から統治を委任された、正式な日本の国土であった。
アメリカが戦争で奪いにきたものだから、国土を守るために血が流れた。
ただそれだけだ。
 
戦後、アメリカの事実は無罪となり、日本の無実は有罪となった。
 
戦争は悲惨だと、目を瞑ってはいけない。
誰だって争いなんか好まない。日本人はみんな穏やかで清らかだ。
だけど目を瞑っていたらナイフを持った奴が背後から近付いてくるかもしれない。
 
どうか、みんな一緒に考えてほしい。

2012年7月 8日 (日)

新しく出てきた待避壕

つい最近のことです。
ジャングルが切り開かれ、大きな待避壕が姿を現しました。
艦砲射撃や空爆、そして火炎放射で丸裸になったペリリュー島も
いまでは緑が蘇り戦跡も多くがその姿を覆い隠しています。
  

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しかし、まだまだ目に触れず、 隠れている壕が多くあるのです。
ご遺骨はもちろんですが、 土日を除いた毎日、不発弾処理も続けられています。
 

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反対側を撮影したところです。壁面に多くの弾痕があります。
分厚く重い鉄の扉を開いてみました。中は真っ暗で、瓶や遺品が
散乱していました。 ご遺骨を踏んだらいけませんので、入口から
覗いただけで中へ入ることはしませんでした。
 

2011年11月25日 (金)

対戦車決死隊 M4シャーマン戦車

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この戦車は アメリカ陸軍81師団第710戦車大隊A中隊第一小隊所属で
昭和19年10月18日、航空隊員救出の任務を遂行中に日本工兵隊が
埋設した改造地雷(元は航空爆弾)に触れ 爆発横転した。
 
戦車には通常の乗員5名に加え、案内役の大尉一名の 計6名が搭乗中で
この地雷攻撃により大尉を含む5名が戦死。 戦車長が唯一生還した。
キャタピラーは横転したさいの衝撃で 外れ、数十メートル先に転がっている。
コルセア機の翼は、要救助者の機体か。翼のシンボルは戦後長らく
地面に接しており、日焼けを避けられたことから現在でもうっすらと
確認できる。

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この画像と直接の関係はないが、ペリリュー戦では以下のような
戦法も用いられていた。 米軍はこの戦いに戦車を次々と投入した。
海兵隊は機動力に優れる水陸両用戦車。 次いで陸軍の主力は装甲の
分厚いM4シャーマン戦車である。 いずれにしても、上陸間もなくの
飛行場争奪戦で、日本戦車隊は全滅し 生身の兵隊で太刀打ちすることは
不可能であったが戦車にも弱点はあった。
 
守備隊が敢行した戦法は自爆だった。 数名で構成された決死隊の先鋒が
戦車に飛び込みキャタピラーに爆弾を貼り付け、爆破切断し、各坐させる。
どんな強力な戦車でもキャタピラーを切断されると身動きが取れなくなった。
次に地雷を抱えた工兵が戦車の腹底に潜り込み、地雷諸共に自爆する。
腹底の装甲の薄さに目を付けたのだ。 この戦法を敢行すれば必ず死ぬが、
敵も死ぬ。 捨て身の攻撃であった。
 
ペリリュー飛行場を横断するM4戦車(従軍カメラマンによる撮影)
その下のカラーは写真は戦後に撮影されたもの。
 

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ハネムーンビーチ(パープルビーチ)追記

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ここは海を南側に面したハネムーンビーチです。

かつてはパープルビーチという米軍の作戦名で呼ばれましたが
今ではハネムーンビーチと呼ばれます。

オレンジビーチと異なり、リーフは無く外洋に面しています。
そのため波が高い日がほとんどです。

当初はこの砂浜からの米軍上陸も想定され、日本守備隊は防備を厳にしましたが、
最後まで上陸戦が行われることはありませんでした。
 
追記・先の台風で砂浜は削られてしまったとの情報があり
現在確認中です。

ペリリュー戦争博物館(海軍弾薬庫跡)

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この建物は日本海軍の弾薬庫跡で
現在は戦争博物館として使われています。
 
中には日米それぞれの火器や写真などがゴロンと無造作に
展示がされています。基本的には閉まっているので、見学したい
場合は事務所かダイビングショップなどを通じて管理人に連絡を
とってもらい、開けてもらう必要があります。
 

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大山(おおやま)Bloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)

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ペリリュー島・大山(おおやま)の山頂です。 ちょうど
海兵隊が上陸した激戦のオレンジビーチを一望します。
 
大山はペリリュー島最高峰ですので、遮るものは何もありません。
ここまで登ると島の要所を一望できます。 そして、例えば晴れた日でも、
遠くに南洋特有の真っ黒いスコールの雲が蠢いていて
これから襲来することなどがわかります。
 
この山を中心とし、麓にかけ広がっているのが
複郭陣地(ふっかくじんち)で中川大佐率いる第二連隊
最後の戦場となった場所です。
 
米軍側はBloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)
「鼻血まみれの峰」と名付け、現在に至ります。

モニュメント自体は占領直後に建てられたもので
岩肌には占領記念の米軍工兵隊のメダルが埋め込まれています。
 
晴れた日には南10キロの位置にアンガウル島が望めます。
 

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▲10キロ先に望むアンガウル島


中山の麓に眠る短砲と水陸両用戦車「LVT-A1」

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中山の短砲
ペリリュー島、中山(なかやま)麓に眠る短砲です。
正式名称「海軍短二十糎砲(短20cm砲/たんにじゅうせんちほう)
もともとは艦船用でしたが、陸揚げされ据え付けられました。
度重なる空襲で周りを守り囲む岩盤を削られましたが
最後まで持ちこたえ、現在でも原型を維持した状態で見ることができます。
 

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▲占領直後の中山短20糎砲(昭和19年)

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すぐ近くには、守備隊の弾薬庫洞窟や米軍による
日本人捕虜収容所の鉄柵跡と 水陸両用戦車が残されています。
 

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米軍 水陸両用戦車LVT-A1(アムタンク)

この水陸両用戦車は米第一海兵隊の

LVT-A1でこのシリーズの戦車はアムタンクと呼ばれ、ここペリリューはもちろん
クエゼリンをはじめ、ガダルカナル、アリューシャン奪還、マリアナ、沖縄など
多くの太平洋戦線で用いられ上陸支援に大いに活躍しました。
37mm砲と250馬力エンジンを備えたこのLVT-A1は
510輌が生産されています。 
 
アムタンクを迎え撃った日本軍速射砲兵の回想
これを迎え撃った、日本軍元守備隊(速射砲隊)の方のお話によると
M4戦車は固かったので徹甲弾を用いて擱座させるのがやっとであったが
このLVTは装甲が薄いので、一発で撃破できたと回想していました。
狭い通路に一列になっているところ、先頭の戦車を狙うと大混乱となり
弾薬が尽きるまではずいぶん、持ちこたえたというお話でした。
 
なお、ここにあるLVT-A1の右舷後輪は今でもベアリングが生きていて
手で回すことができます。戦車の反対側(左舷)スペースを挟んで茂みの中が
捕虜収容所跡で現在も鉄柵が残っています。
 
第一海兵隊最悪の日~アムタンクの上陸戦

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2011年11月11日 (金)

将校の法務死(BC級戦犯)とB-24爆撃機

ここではパラオでの法務死
いわゆるBC級戦犯裁判について記しておきます。

ただし裁判は戦勝国にものであり、
判決は、必ずしも公正無私ではないことを前提とします。

米軍爆撃機から脱出し捕虜となった搭乗員一名をコロールの高射砲隊で処刑、そして
英国人、スペイン人(いずれも宣教師とされる)をスパイと見なし処刑した事件があります。
これらに関係した遺体は現在でも捜索が進められていますが発見に至っておりません。


戦後、グアム海軍軍事法廷で裁かれた将校は以下の通りです。

一、英国人スパイ処分事件

指名/階級/罪状(備考)

味岡 操 /憲兵准尉/25年(後自決)
山田 清 /憲兵曹長/25年

二、米国捕虜ならびに英国人スペイン人スパイ事件に関連して起訴

中村 数夫/憲兵大尉/絞首刑(後終身)
小久保千尋/憲兵曹長/絞首刑

三、米国捕虜一名を高射砲隊にて処分

小市 広栄/陸軍大尉/25年
勝山 広爾/陸軍中尉/25年
小野瀬一郎/陸軍少尉/25年
市川 与吉/    /25年(10年減)
山本 一治/    /25年(10年減)
杉本 武治/    /20年(8年減)
石山 善蔵/    /20年(8年減)
一宮 正雄/    /20年(8年減)
横山 国寿/    /20年(10年減)
玉木  忠/    /20年(10年減)
尾崎 按敏/    /20年(10年減)

四、第三国人であるスペイン人スパイ処分事件

藤谷 義男/     /15年(5年減)
川口 和平/     /15年(8年減)
岡村銀太郎/     /15年(10年減)
江里  茂/     /15年(3年減)
日高金之助/     /15年(3年減)
岩本 春吉/     /15年(3年減)
中村 次郎/     /15年(3年減)
伊藤 光之/     /15年(10年減)
内田 文雄/     /15年(3年減)
安藤 一郎/     /15年(無罪)

五、パラオ島陸軍集団軍司令部事件
1、憲兵隊の英国人及びスペイン人処分事件
2、憲兵隊をして米国捕虜三名を処分せしめたる事件
3、高射砲隊捕虜一名処分事件

井上 貞衛/陸軍中将/絞首刑(後終身)
多田 督知/陸軍大佐/4年

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ところで私は『遠い日の戦争』という吉村昭の著書を読みました。
この小説はフィクションではありますが、当時の時代背景をよく参考にして綴られており、
B-29から落下傘降下した飛行士の処刑に手を貸してしまった男が
戦後、裁かれることを恐れ名前を変え逃亡を図る内容です。

都市上空から大量の焼夷弾を落とし、女子供まで区別なく殺戮したB-29
しかし、落下傘降下して生きていれば、捕虜として保護しなくてはならない
その思いが葛藤となり描かれています。

そして、これがコロールの爆撃に使われたB-24リベレーター

「解放者」という名の爆撃機です。

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アンガウル島には遺棄されたプロペラや回転銃座などが

いまでも残っています。

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2011年11月10日 (木)

朝日村のパイナップル工場

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旧朝日村鳳梨工場跡
大正15年、南洋庁が初めてこの一帯を訪れ実地調査を行った際、
辺りはガルミスカン川に沿う湿地帯と密林に覆われ、未だ人跡未踏の地であった。
 
昭和7年に福島県出身の宍戸佐次郎がはじめて鳳梨栽培に着手。
その後、南洋殖産公司社長の「羽生兵四郎」が缶詰事業に着眼し
 
昭和12年にパイナップル加工工場を設立。躍進を果たした。
設立後2、3年の全盛期は常時従業員数60名で稼働する。
 
昭和13年8月
北海道旭川市出身の開拓民が多くを占めたこの集落を
旭を転じて「朝日の昇る如く」その意味も含めて「朝日村」と名付けられた。
朝日村の開拓以来、バベルダオブ島には
清水村、瑞穂村、大和村と呼ばれる入植地が相次いで誕生した。
 
この間、開拓民は大変な努力と苦労を経て村の発展に尽力。
昭和13年から昭和17年にかけて朝日神社建立、医療機関完備、次いで
尋常小学校、郵便局、駐在所などが設置され
113世帯、705人が暮らしていた。(昭和15年調査)
 
※鳳梨(ほうり)パイナップルの当時の名称

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▲パイナップル工場の機械を作動し、缶詰を圧着するために用いたボイラー
 
朝日村のパイナップルについて

朝日村産のパイナップルは大きく
甘く美味であったという。品種はスムースカイエンで
沖縄出身の16、17歳くらいの女工が製造に従事した。
殊に芽の部分を螺旋状に切り込みを入れ取り除く作業は
機械には不可能で、手間を要した。パイナップルは
輪切りにされ、五枚入り一個の缶で出荷された。
 
このほか規格外や形が崩れたものをクズパインと称して安価で出荷。
コロールでも手軽に食べることができた。
 
昭和18年頃になると鉄資源である缶が不足し
パイナップルはジュースに生成したほか、発酵させてパイン酒を作った。
 

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パイナップル工場の道路を挟んで反対側に彗星の残骸がある。
この機体は
 
昭和19年3月21日に付近へ不時着した

第一二一海軍航空隊所属の二式艦偵(彗星)で
雉一号機と推定される。機体は大破したが
搭乗員は無事であった。(篠原現地調べ)

2011年10月13日 (木)

「彗星」のプロペラ盗まれる

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パラオ本島(バベルダオブ島)ですが、日本の統治時代には入植地として
それぞれ、朝日村、清水村、大和村、瑞穂村、という名の4つの村がありました。

ここは、その内の旧朝日村付近、
現在のアルモノグイ州です。

小川の側に残るのは、艦上爆撃機「彗星」のエンジンです。
水冷型ですから、鼻先がシャープな一一型か一二型、搭載のものです。
翼の一部も残っています。

日本の飛行機も、制空権を取られる前はこの上空を飛んでいたのですが、
どういった経緯でここにエンジンが残るのかはわかっていません。
ちょうど近くで道路工事をしていた地元の方がいたので、お話を伺ったところ
米軍の飛行機だと勘違いしていました。

道路を挟んだ反対側にはパイナップル加工工場の跡があります。

プロペラが三枚ありますが、これは2010年5月に撮影したもの。

そしてこちらもご覧下さい。
以下は約一年後の2011年6月に撮影したものです。

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プロペラが切断されています。
おそらく、何者かが盗んで鉄屑業者に売ってしまったのでしょう。
切断した際に出た鉄粉がまだ残っていて、ごく最近の犯行だと推測されます。

残る一枚も刃の跡があり、途中で断念したのでしょう。

これは由々しい事態です。

しかし、これも我々日本人の戦争に対する関心の薄さが招いた事件に他なりません。
ダイビングばかりでなく、こうした貴重な戦跡にも関心を向けることで、しっかりと
保護を要請していれば、パラオ当局もきちんとその価値を認識し、防げたことでしょう。

とても残念な事件です。

2011年9月18日 (日)

パラオ国旗の由来

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パラオの国旗は、日章旗を真似たという説があり、論じられていますが

以下、ベラウ・ナショナル・ミュージアムの資料によると以下の通りです。

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パラオの国旗は黄金に輝く満月が青空を背景に浮かぶものである。
パラオの全ての島の人々は月に伝統的、感情的親近感を抱いている。
満月は地球の周期的活動の頂点であると同時に祝い事に最適な時を表す。
 
満月はパラオ人の結束と運命の象徴として輝いている。青い背景は長きに
渡った外国の権威が我々の土地から去ったことを象徴している。
満月は
あたたかさと静寂、平和、そして国内の統一を示すものである。
 
この国旗はアルモノグイの第二伝統首長であるブラウ・スケボン氏が
デザインしたもので
1980年に多くの候補の中から選ばれたもの。
ベラウ国立博物館のインタビューに
答えるスケボン氏は旗に込められた
思いを次のように語りました。
 
「パラオには満月の日は一ヶ月の中で最も縁起のよい日だとする言い伝え
があります。
つまり満月の日は物事を始めるのに最適な日なのです。また
旗の色にも意味があります。
青い背景は太平洋を表すと共に、私たちを
植民地統治した国々、スペイン、ドイツ、
日本、アメリカの影を表しています。
そして黄色は健康と反映を表しています。
ですからこの旗は、私たちはかつて
植民地支配下にあったけれど、今は繁栄し強くなって独立するんだということ
を表しています。
また、満月を少し左寄りにしたのは、旗が風にはためいたとき、
ちょうど満月が中央に見えるように
工夫したものです。」

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日章旗を真似たなんてことは、一切書いていないのです。
スケボン氏もそれを否定しており、一体どこから日章旗の説が出てきたのか謎です。
 
「日章旗のマネしたんですか?」などという質問は
パラオの人たちに失礼ですから、くれぐれもやめてもらいたいのですけれど。
ネット右翼の人たちには困ったものです。
 
パラオの月、それも満月は美しいものです。
パラオの人たちは満月にそれはそれは特別な感情を持っているのです。
せつなる思いが込められています。

2011年9月 9日 (金)

アンガウル島にカラオケ屋がオープン

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アンガウル島にカラオケ屋がオープンし、話題を集めています。

私はまだ実際に入っていないので、曲目や利用方法、デンモクはあるのか、などなど、

詳しくは書けないのです。どなたか確かめに行ってきてくれませんか。

 

兎角、オープンして島民に話題になっているのは確かですから

「カラオケハウス」と言えば通じるはずです。

 

※写真はアンガウル島、西港。

2011年9月 6日 (火)

おじさん島とセブンティアイランド

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航行は続きます。見えてきたのは「おじさん島」です。

おじさんが仰向けで寝ている姿にそっくりなので、おじさん島です。

本当ですってば。

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こちらはセブンティアイランドです。

パラオがテレビや雑誌、旅行会社のパンフレットなどで紹介される際など、

よく、このセブンティアイランドの写真が使われます。しかしここは

タイマイの産卵場所でもあり、航行を含め、島周辺海域への立ち入りは禁止になっています。

遊覧飛行ツアーで上空から見ることはできます。

2011年8月28日 (日)

ベントー

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お昼ちょうどに出たので、お腹が空いてきました。

ペリリューまではまだまだ時間がかかります。でも心配いりません。ダイジョーブ(パラオ語)です。

 

定期船に乗るときは弁当が要らないのです。(こんなことを本気で書いたら怒られそうですが)

なぜなら、乗り合わせた他のオキャクサン(パラオ語)がいろいろとくれるのです。

今日もドリンクやビールに始まり、菓子、ベントー(パラオ語)

シャコのサシミ(パラオ語)を貰ってしまいました。ありがとうございます。

丁寧にお礼を述べていただきました。特にサシミは実に美味しゅうございました。

 

※今回はパラオ語を四つ紹介しました。「ベントー」はそのまま、弁当のことです。

「サシミ」は刺身、「オキャクサン」はお客さん、「ダイショーブ」は大丈夫という意味です。

 

私のような、なりの外国人は、定期船の中でも目立ちます。

船は退屈なので、乗客が必ず話しかけてきます。

ベントーのお礼に、日本の話など、すると、とても喜ばれます。

パラワンは日本の話に興味津々なのです。

 

ここで、くだらないバカ話をしても大いに結構なのですが、自身が日本人であることを

忘れてはなりません。この船の中で、私は日本代表なのです。

日本人らしく相手を尊重して礼儀正しく振舞うよう心がけています。

 

ただ、気をつけてもらいたいのは、よくハッパ(マリファナ)をすすめてくる輩がいることです。

その場合はもちろん毅然とした態度で断りましょう。

カジキ

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ブリッジに掲げられているのはアンガウル州旗。

ロックアイランド内の航行は続きます。

 

海は穏やかですが、エンジンの大きな音がウォンウォン体にまで響きます。

排気管の位置が悪く、排気ガスの匂いが散らずに船内を漂い、これがけっこう堪えます。

 

・・・ん?何やら、船尾のほうが騒がしい。

直後、ストンとエンジンが止まりました。海上で故障かと思い、焦りました。

 

しかし、そうではなかったのです。事の正体は

船尾に垂らせれた釣り糸が、ピンと張り、それが右へ左へ暴れ始めたのです。

それを引く屈強な男性がいます。こんな形で釣りをしているとは予想外でした。

定期船ですから、定められた本来なら航路を航行しなければならないのですが

(それが最短距離でもあります)魚の多い海域を選んで大回りしているのです。

 

長い格闘の末、ついに往生したか、釣り上げられたのはでっかいカジキ!!

周りは歓声を上げています。鋭い角が光っていましたが、それが危険らしく

真っ先に切り落としていました。

 

キャプテンがそれを見届けるとエンジンを始動し、また穏やかな航行を再開しました。

ふたたび釣り針にエサがつけられ、船尾から海に垂らされました。
 
次へ

2011年8月27日 (土)

ブリッジへ

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階段を上って、ブリッジ(操舵室)へやってきました。お邪魔します。

この船のキャプテンです!

定期船は、気軽にブリッジへ行けて、出入りも自由なのであります。

ブリッジ内には長椅子が据え付けてあり、そこで横になって

グーグー寝ているオキャクサン(パラオ語)もいました。キャプテンの隣では

おばさんが何か食べてますね。

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眺めが最高です。潮風を浴びて気持ち良い。

ペリリューまではリーフ内を航行するので、ほとんど揺れません。

水面を見てください。凪いでいます。

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両舵、前進強速~!よ~そろ!!

 

そうだ。唯一揺れるのは、観光客のスピードボートが側を追い抜いて行くときです。

スピードボートがかき分けた波がうねりとなって、やってきて、こちらの横っ腹を叩きつけます。

 

スピードボートならペリリューまで1時間。

この定期船はのんびり、ゆっくり、3時間かかります。
 
次へ

抜錨

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時刻は12時ちょうど。いよいよ抜錨です。

画面右側に停泊している船が後を追って出航するペリリュー行き、
いま私が乗っている船がアンガウル行きで、岸を離れたところです。

※紛らわしいので一応記しておきます。
私が乗っているのはアンガウル行きの船ですが、日によって途中ペリリューに寄るので
今回はそれを利用してペリリューで降ろしてもらいます。

■定期船スケジュール
ペリリュー行き、週に2往復(14時出航)
アンガウル行き、週に1往復のみ(12時出航)
いずれも片道5ドル
(2011年6月現在)

ですから、定期船のみでアンガウルへ行きたい場合は最低でも一週間の滞在が必要
なってしまいます。
それに加えて、最近はいずれの船もエンジンの不調を抱えていて
欠航や延期になることも珍しくありません。

ああ、そうだ。この船には
救命胴衣が無いので、泳げない方は覚悟を決めましょう。
 
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2011年8月25日 (木)

マラカル波止場

ここはマラカルの波止場です。ここからペリリュー、アンガウルへの定期船が出ています。

運賃は片道5ドル。

スピードボートも良いのですが

ローカルが集う定期船に乗って楽しむのも醍醐味です。

出航前の様子です。たくさんの物資を積みます。これはぜんぶビール。

パラワンはビールが大好き。

これはバドライトですけど、日本の「アサヒ」も人気ですよ。

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こんなお客さんも。

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出航前の波止場はとても賑やかです。

用はないけど見にくる人も多くいます。

荷物の隙間に設けられた座席に座って、出航を待ちます。わくわく。
 
次へ

2011年8月21日 (日)

ノースドッグの子供たち

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ペリリューのノースドッグで遊ぶ子供たちです。

学校が終わったあと、暑い日はいつもここで海に飛び込んで遊んでいます。

 

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激戦のオレンジビーチ

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81師団モニュメント(千人墓地)の位置から海岸に
下りてきたところが
オレンジビーチにあたる。

オレンジビーチの由来
オレンジビーチの名の由来は上陸した海兵隊のコードネームで
長い砂浜を区切って、オレンジ1から3、ホワイト1、2と各隊が受け持ったため
上陸地点がそのままビーチの名前として残っている。
北方がホワイトビーチである。
 
戦闘で浜が血に染まり、オレンジビーチとなったというのは
名の由来としては俗説であるが、血で染まったのは事実は間違いない。
 

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Dデイ概要
9月15日のDデイ(ドックデイ/上陸戦当日の意)では

海岸線北側よりホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3
と上陸部隊毎に区分けされた名称がそのまま残る。
 
上陸部隊は水陸両用戦車を先頭に、海兵第一、第五、第七連隊の
五個大隊からなる総員4500名が上陸、さらに三個大隊が加わり、
最終的には8000名の部隊が上陸したが、猛烈な水際からの反撃に、
上陸第一波はほとんど全滅し、退却。その後の波状攻撃で辛くも
橋頭堡を確保したが上陸戦を含む初期の戦闘で師団戦力の60パーセント超
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)を失った第一海兵師団は
事実上壊滅した。第一海兵師団はもっとも歴史が古く、
歴戦精鋭を誇るが
現代に至るまで師団が壊滅した例はこのペリリュー戦のみである。
 
ノルマンディー作戦を超える死闘
また、ペリリュー島上陸作戦時における上陸部隊の死傷率は
ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチを越える激しさであった。

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▲画面やや左でステッキを携えているのがルパータス少将。

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▲埋葬後のオレンジビーチ

  
米陸軍81師団のモニュメントがあるこの近辺は

オレンジ2にあたり、上陸戦後、多くの十字架が砂浜を埋め尽くし
戦死者の多さに埋葬作業が追い付かない状態であった。


十字架はあらかじめパヴヴ島で工兵隊が制作し名目上、船のバラストとして
輸送されたが実際に数多くが埋葬用に使われる運命となった。
敷地の北側には残る建物の跡は教会の壁である。

 

戦闘経過
昭和19年9月15日
長きにわたる熾烈なペリリューの戦いがここに開始された。
上陸したのは海兵隊の中で最も著名かつ歴戦の
精鋭第一海兵師団(ファーストマリーン)で、兵を率いるルパータス少将は
この戦いは2、3日で終わるだろうと訓示を述べた。
2か月以上に及ぶ、泥沼の戦いになると、だれが予想したであろうか。

 
執拗な艦砲射撃と空爆により、ペリリュー島のジャングルを焼き払い
丸裸した米海軍は、まさか日本兵が生き残っているとは予想していなかった。
 
中川大佐率いる水戸歩兵二連隊ならびに
高崎歩兵十五連隊の群馬県片品村出身の28歳、千明(ちぎら)武久大尉
がこれに応戦した。どの兵も大陸戦線からの古強者ばかりで
火器の扱いも、戦場での肝の据わり方も、当時の最精鋭だったと言っても
過言でない。精鋭同士の対決であった。
 
今まで静まり返っていた海岸線から日本兵が現れ、いっせいに火を噴いた。
今までの艦砲射撃は日本守備隊にほとんど損害はなく、彼らは深く掘り下げた
壕に息をひそめていたのだ。
 
・天童砲兵隊の神業
山岳部の陣地からは、こちらも精鋭天童砲兵隊の砲弾が発射され
上陸用舟艇に正確に命中。火柱が上がった。
天童砲兵隊の陣地は山岳部のくぼみにあり、直接の照準はできない。
放射線状に上陸部隊を狙ったものと推測される。 
 
第一海兵隊の全滅
これに混乱したのが第一海兵隊だった。
「ジャップは死んではいない!」
 

ペリリュー島オレンジビーチ08

▲海岸線に釘づけになる第一海兵師団
 

猛烈な水際からの反撃に、上陸部隊は
次々に撃破され、師団戦力の60パーセント超を失い
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)
事実上の全滅判定が下された。
米国海兵隊が全滅した例は後にも先にもない。
ペリリューの戦いのみである。
 
米軍にも陸海軍のそれぞれプライドがあり、陸軍81師団に応援を要請するまで
時間を要してしまったのも一因ではある。
 
沖までリーフが形成されており、遠浅の海岸の波はとても静かな砂浜である。
画面奥がホワイトビーチ。
 
米軍側から見たペリリュー島上陸戦
水陸両用戦車隊の死闘を見る

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2011年8月19日 (金)

アフリカマイマイと寄生虫

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アフリカマイマイです。

その名の通り、アフリカが原産ですが、1935年(昭和10年)日本移民が

食用を目的としてパラオに持ち込み、旧朝日村(現在のアルモノグイ辺り)で養殖を始めました。

しかし、川の氾濫で逃げ出し、ガルミスガー川流域に広がり

やがてパラオ全域に繁殖しました。

 

植物や果物への食害がひどく、駆除されましたが、絶滅できず現在に至ります。

コロールの市街地でもよく見かけます。(特に雨の夜に多い)

 

気をつけたいのは、『広東住血線虫』という恐ろしい寄生虫を持っていることです。

 

戦時中、食べるものがなく、このカタツムリで命を繋いだ兵隊さんがいるので

命の恩人とも言える一方で、生煮えを食べた兵隊さんは、寄生虫にやられて亡くなりました。

 

船坂弘著『ペリリュー島玉砕戦』によると

「我慢できずに生煮えで食べた者は、どういう訳か、脳をやられて死んだ」と記してあります。

広東住血線虫は、人間に寄生すると、脳へ進入し、死に至ります。

 

同様にネズミもこの寄生虫を持っていますから、気をつけてください。

もし、触れてしまった場合は、よく手を洗いましょう。

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

ペリリュー飛行場1

▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

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▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

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▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

ペリリュー飛行場4 
▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

ペリリュー飛行場5

▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

ペリリュー飛行場6

ペリリュー飛行場7

ペリリュー飛行場8

▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

ペリリュー飛行場9

米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

ペリリュー飛行場10

ペリリュー飛行場11

 

なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
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メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月16日 (火)

半旗

3月11日の震災と大津波の日、私はペリリューに居りました。

1週間ぶりにコロールへ戻ってテレビをつけると

原発上空からヘリコプターが水を撒いている映像を見てびっくりしました。

パレイシアホテルの半旗です。

ここだけでなく、3月11日以降しばらくの間は民間、役所問わず街中の旗は全て半旗でした。

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街頭で通行する車に募金を呼びかける高校生です。

多くの車が止まって募金してくださいました。本当にありがたいです。

恩を忘れてはいけません。

IMGP6308

ブルドーザーは戦車より脅威

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ペリリューで、ゲリラ戦を以って抵抗を続ける守備隊にとって
戦車とと同じか、それ以上に恐れる兵器が、このブルドーザーでした。

ブルドーザーは、戦車が通る道を切り開き、飛行場をあっという間に整備します。

そして、最も恐ろしいのは、壕に潜む守備隊を生き埋めにしたのです。

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守備隊が投降勧告に応じなければ、掃討する、
それも白兵戦をやらねばなりません。

しかし、頑なに抵抗する守備隊に対して、掃討部隊も相当な犠牲を
強いられることになります。

犠牲を最も減らすには、このブルドーザーを用いて、
戦わずして壕の中の守備隊を生き埋めにしてしまうのが作戦でした。

ガラスマオの滝と戦跡史跡探索

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ガラスマオの滝へ行ってきました。
オプショナルツアーが一般的ですが個人行っても問題ありません。
行く場合は滝への入口で、5ドルの入州税のみ支払いましょう。
 
ジャングルを流れる川をザブザブと歩いて行きます。
とても涼しげです気分が良いです。滝までは入口から40分くらいでしょうか。
歩く速度で個人差があります。
 
滝のすぐそばに行けます。打たれることもできます。
肩に重くのしかかり、けっこう痛いですけど。
日本人のオキャクサンここにくるとみんな
シュギョウといってあぐらをかくのが恒例だそうです。
 
滝までの道のり
 

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ケーブルカーのレール跡が残っています。
これは日本統治時代の名残です。
ガラスマオで採掘されたボーキサイト(アルミの原料)をトロッコで運んだ跡です。
機関車も残っています。 この石がボーキサイト。これがアルミになり
最終的に飛行機の材料となります。
 

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ようやく川に出ました。涼しくて気持ちが良いです。
ここから先は腰まで水につかって歩くので、濡れても良い恰好で。

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川の途中にあります小さなダムのようなところは
これもボーキサイト産業の名残。洗鉱(せんこう)場です。
 
泥や土にまみれたボーキサイトの原石をここで
綺麗に洗い流します。
 

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これは水神様の祠(ほこら)です。「水天宮」と刻まれています。
70年以上前の当時から、ここに鎮座しています。

水上様をお祀りすることで、作業の安全を祈ったんですね。
 
ちょっとだけ川の上流へ寄り道したところにあるのですが
これを見つける人はすくないだろうなぁ。歴史あるものだから
ツアーで紹介すればいいのに、と思います。
 

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約30分のトレッキングで滝へ到着。
パラオといえば、海もいいけど
ジャングルもいい!
 
このスケールは必見!

日本の観光地では滝つぼで
滝に打たれる経験など
まずできないでしょう。
  







 
ボーキサイト積載場跡へ
さて、来た道を戻りまして、ボーキサイトの遺構を見学していきましょう。
 
ガラスマオの集落を抜け、海を目指します。
レンタカーは日本の中古車マーチ号。
 

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どんどん走って突堤の先端まで行きましょう。道沿いに

コンクリートの基礎が並んでいます。これはなんの跡だろう?
 

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何か見えてきました。
 

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でーん!!!!
 
これはさきほど、ガラスマオの滝で見たボーキサイトの鉱石が
ここまでコンベアーで運ばれ船に積み込まれるところです。
 
道沿いに点在していたコンクリートの基礎は
コンベアーの支柱でした。
 
およそ70年前。戦前から戦中にかけて
我々日本人の先輩方が南洋開拓で一生懸命汗を流し、頑張っていた

その遺構です。
 

アルミの村
ガラスマオ一帯はかつてボーキサイト採掘により賑わった。
 
昭和13年、南洋アルミニウム鉱業株式会社によって着手された
ボーキサイト(アルミニウム原料)の採掘はガラスマオ鉱区において
年産3万トン、翌昭和14年は8万トンを採掘するに至り
アンガウル島の燐鉱とともにパラオの主要産業として
祖国の繁栄に寄与した。
 
現在でもその跡を工程順に見ることができる。
採掘場から採取されたボーキサイトの鉱石は
ガソリン機関車(合計10台)に牽引されたトコッコ(合計550台)で
銑鋼場へ運ばれる。精鉱後、ベルトコンベアーで貯鉱場に運ばれ
波止場から船積みされ内地へ輸送された。
敗戦とともに消滅したボーキサイト産業であったが現地に
おける埋蔵量は600万トンとも推定され、現在に至っても
パラオ共和国の有効な鉱物資源として活用可能である。
 
※このほかアルマテン鉱区が稼働したが
付近に海軍砲台(アルマテン砲台)があったため
昭和17年7月に稼働を中止した。

 

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さて、帰りながらまた別の遺構を見学していきましょう。
 

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これはコンパクト道路沿いに残る機関砲陣地跡。
14師団の主力はペリリュー島で第二連隊が玉砕した後も
パラオ本島決戦に備えていましたが、大痛手を食らった米海兵隊は
直接対峙を避け、本島を兵糧攻めにし、終戦まで孤立させました。
この兵糧攻めより、4800名以上の兵隊さんが飢えと病気により
亡くなっています。
   
この機関砲陣地はかなりわかりにくい場所にあるので、
ガイドに聞くのが一番です。 

 

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バベルダオブのコンパクト道路を通って帰ります。途中
世界一、人口が少ない首都といわれる
マルキョクの国会議事堂がポツンと丘の上に立っています。
 
 
以上、
ガラスマオには多く日本統治時代の歴史がつまっています。
当時に思いを馳せてみると何倍も味わい深いものになるでしょう。

2011年8月12日 (金)

ペリリュー天野戦車隊 九五式軽戦車「いづも」

ペリリュー島の天野戦車隊九五式軽戦車について

ペリリュー島に残る九五式戦車

▲ペリリュー島に残る九五式戦車「いづも」
 
◆天野戦車隊・概要

天野隊長率いる九五式軽戦車17輌は9月15日午後の飛行場攻防戦で
米海兵隊第一、第五連隊と対峙し玉砕した。

戦車は車輌同士の識別を容易にするため砲塔の側面に白いペンキで
ひらがなでそれぞれ名前が記されていた。 天野戦車隊長は「さくら」であった。
青森県出身の田中指揮小隊長車は「むつ」 、岩手県出身の高橋小隊長は
「きたかみ」 そのほか「もがみ」「ふじ」など それぞれ小隊長や車長の郷土に
ちなんだ名をつけた。 現在残るこの戦車は「いづも」と推定されている。
※篠原調べ
 
◆天野戦車隊の戦法
天野隊長から事前に通達された戦法は、二車両ごとの行動を徹底し
米M4戦車に対しては徹甲弾を用いて二車両同時にキャタピラを狙い、
擱座させる。砲塔は装甲が厚いから絶対に撃ってはならない。
 
さらに戦車一両につき市岡大隊と七中隊所属の二個分隊が
跨乗歩兵となり敵陣へ突撃するというものであった。
 
◆実際の戦闘経緯~勇猛果敢に敵陣へ突撃
米海兵隊との戦力差は圧倒的であった。 海兵隊はバズーカ砲
(対戦車砲で貫通力がある)を用いて 日本戦車をたちどころに撃破した。
これに加えM4戦車3輌が 支援を行った。
 
しかし日本戦車隊は良く統制が取れた動きを見せ、生き残った車輌は、
ひるむことなく、跨乗歩兵とともに、勇猛果敢に前進した。 被弾した戦車は
炎を上げ煙の尾を引きながらもスピードを落とさず前進を続け、敵陣に突撃した。
 
戦車は敵陣の只中でついに傾き、停止したが戦車兵は その場で車載機銃を
斉射した。 擱座して燃え上がる戦車からハッチを開けて脱出する戦車兵がいたが
海兵隊が火炎放射を浴びせると戦車兵は燃えながらついに倒れた。
かくして敢闘するも全車輌が撃破され 天野戦車隊は玉砕した。
 
残存兵力も歩兵部隊に合流し水府山および中の台附近にて
9月21日ごろまでに全員戦死した。
 

ペリリュー戦車隊 
▲飛行場で擱座した天野戦車隊所属九五式戦車「むつ」
奥には海軍の「彗星」が見える。

 
◆九五式軽戦車諸表
乗員3名、重量7.4トン、全長4.3メートル、全幅2.07メートル
三菱製ディーゼルエンジン出力110~120馬力、最大時速40km/h(~45km)
37ミリ戦車砲一門、九七式7.7ミリ車載重機二搭載。、装甲 砲塔および車体の
前面とも12ミリ。
 
◆操縦
乗員三名のうち右側に操縦士が座り二本の操縦桿で操縦に専念する。
左側は銃手で7.7ミリ車載機銃による射撃、無線機の取り扱いを行う。
中央上部砲塔が車長の定位置。 小隊長は戦車長として戦車砲や車載重機に
よる射撃実施、小隊間の連絡、さらに戦車隊長(天野)は各小隊を掌握して
手足の如く指揮しなければならない。

無線機は周波数一定の水晶発振器による電信と電話の両方が可能だったが
各人が何役もやらねばならず戦車兵は何れも優秀だった。
 

ペリリュー島の戦車



 
濃硫酸バッテリー ジーゼルエンジン発動には強力な力が必要で
12ボルト180アンペア級のバッテリーを四個取り付けてあるが
バッテリーは湿気と暑さに弱くすぐに電圧が降下するので
明けても暮れても予備バッテリーとかわるがわる充電した。
 
 
◆見学にあたってのお願い
ペリリュー飛行場の攻防戦で奮戦した九五式軽戦車です。ペリリュー島戦跡
一日観光で必ず見学する定番ですが、どこまでガイドが説明しているでしょう。
敵の集中砲火を浴びた、この九五式軽戦車は、その薄い装甲故に大破し
生き残った戦車兵は脱出するも、更なる弾幕の中に 投げ出され、手足は
四散し火炎放射器で焼かれ、黒焦げになって転がっています。 
 
そんな惨状を知ってか知らでか、若い日本人観光客が笑顔で戦車との
記念撮影にいそしんでいます。 ただの見世物となってしまった戦車。
現地の年配パラオ人や 戦争経験者は嘆き悲しんでいます。
どうか英霊の気持ちを忘れないでください。
 
  
戦車隊部隊史
 
昭和19年
3月 5日 満州勃利に於て第14師団戦車隊として編成完結 
3月28日 大連港より東山丸 能登丸に分乗し征途に就く 
4月28日 コロール島に兵器人員の揚陸完了 ガスパン村に移駐 
5月16日 ペリリュー島に派遣 歩兵第2連隊長の指揮下に入る 
中の台附近に陣地構築 出撃訓練に従事 
9月15日 島南部より米軍上陸 反撃命令により出撃 飛行場附近に於て
敵と遭遇 良く敢斗せるも戦車隊主力壊滅 9月21日 残存兵力は歩兵部隊に合流
水府山および中の台附近にて前進を阻止 敢斗せるも全員玉砕
九五式戦車17両を基幹 通称 照4363部隊 天野国臣隊長以下128名戦死

2011年8月11日 (木)

千明隊トーチカ

ペリリュー島南部/千明大隊トーチカ

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不死身の日本軍小要塞
小要塞とも呼べるこの巨大トーチカは、南部地区隊の高崎十五連隊第一大隊
千明武久(ちぎらたけひさ)大隊長の陣地内にあり、鉄筋コンクリート厚さ
1.5メートル以上、銃眼口の開閉式鋼鉄は厚さ30ミリと、艦砲射撃も効果はなく
75ミリ戦車砲も跳ね返された。
 
地下に設けられた出入り口により 火炎放射は役にたたず中の日本兵は
事実上不死身に近かった。 日本守備隊は、当初米軍の上陸地点をここ
南地区と予想し、最重要拠点として 強固な陣地を構築していた。
 
実際の戦闘では第七海兵連隊に背後を突かれる形となったため陣地の威力を
充分に発揮できなかったが、千明大隊は敢闘し上陸部隊に大打撃を与えた。

 

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千明大隊長と若き精鋭、高崎十五連隊
千明大隊長は群馬県片品村出身の28歳で、配属部隊と合わせて750名を
指揮し、上陸戦当日にはオレンジ3上陸部隊の右翼を叩き、北方に
追いやったことで上陸後の海兵隊に大混乱を生じさせたほか、上陸後も
アンパンと呼ばれる地雷を用いて抱いて敵戦車の腹下に潜り込み自爆する
戦法を用いて敵戦車を擱座させた。
 
千明大隊長は最前線で指揮中に銃弾を受け16日未明に戦死。
部隊は群馬県出身者が最も多く次いで長野、栃木、茨城出身と、いずれも
20代前半の現役兵であった。
 
米海兵師団に水際で大損害を与えたのは有能な指揮官である千明大隊長と
部下の 高崎十五連隊第一大隊が歴戦の精鋭でこそ成し得た結果であろう。

陥落
この小要塞は最終的に、 勇敢な海兵隊爆破班が煙幕を利用し、 死角を突いて
少しずつ這うように接近、 壁に直接爆薬を設置して爆破、陥落させた。
千明大隊長戦死後も大隊は戦闘を継続したが 18日までに玉砕。
海兵隊は東海岸へ進出した。
 

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ガイド
中に入ることもできます。入って、トーチカ内側から海を見てみてください。
兵隊さんがどんな気持ちだったか、少しだけわかるかもしれません。
 
千明大隊長について
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓へ

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

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干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

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シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年8月 7日 (日)

パラオの自動車事情 酷使される日本車

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この国には、信号機がひとつもありません。

 

パラオの自動車事情について、思いついた事を少し書きます。

私自身が実際にハンドルを握り、走って感じたことであります。

 

まず、旅行会社やダイビングショップの観光窓口でレンタカーを借りたい旨を伝えても

きちんとした会社であれば「あまりおすすめできない」と言われるでしょう。

それは、パラオの自動車事情のいいかげんなところにあります。

街で見かけるのは、一世代前(平成一桁台の年式)の日本車が多いのですが

 

「とりあえず走りさえすれば良い」といった感じで、サスペンションが片方オシャカになったのか

大きく傾いても頑張って走っていたりします。

 

外装が朽ちているのは仕方ないことですが、ひどいものになるとヘッドライトやテールライトが

丸ごと無くなった車も見かけます。レンタカー会社の車も中古の右ハンドル日本車が

目立ちます。(最近になって、ヒュンダイの新車を仕入れ始めたようですが)

 

日本車は、その頑丈さ故に酷使されていますが、いつかは壊れます。

大切に修理し続けて使う心がけは見習いたいところで、自動車も天命全うするのは

良いのですが、突然、ブレーキが効かなくなったら大変です!

 

夜は特に危険で酔っ払い運転は日常茶飯事であります。

 

そもそも、右側通行で右ハンドルが多いのは危険ですし、とても不都合です。

たとえば光軸をめいっぱい反対側に向けても限度があります。

その他にもいろいろと目に見えない問題点があるでしょう。

自動車に詳しい方ならおわかりと思います。

 

そうだ。シートベルトもしなくて良いのです。

安全運転に対する意識も低いので、常に自衛を心がけ走っています。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

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ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

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これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。