映画をやります
ペリリュー島の戦いを描いた映画
『追憶』が来月公開されます。
こちらの映画で一部デザインを
担当させて頂きました。
よろしければ映画館でご覧ください。
どんなデザインを担当したかは
ぜひエンドロールまで見てください(笑)
『追憶』公式サイトはこちら
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ペリリュー島の戦いを描いた映画
『追憶』が来月公開されます。
こちらの映画で一部デザインを
担当させて頂きました。
よろしければ映画館でご覧ください。
どんなデザインを担当したかは
ぜひエンドロールまで見てください(笑)
『追憶』公式サイトはこちら
ペリリュー島については昨年初めてYoutubeで見ました。私の父親は北ボルネオ島に飛ばされて散々な目に会った様です。
最後は3名だけでジャングルを逃げ迷ったそうですが、戦争の話は殆どしなかった父が言った事が2つだけ有ります。
島では補給も切れ、大隊からはぐれ、ただ単にジャングルを昼間は寝て、夜に動いたと言ってました。 食事には煙を出したら知られるの蛇や鉄砲で撃った鳥、時には犬、など食べた様で、食べれる物は大体何でも口にしたそうです。
蛇が一番柔らかく良かったようです。夕方に火を見えないように焚いて焼いて食べた様です。弾は食べ物の為に使って、昼間はジッとして、夜に動いた。でも3名のうち=全員マラリヤに侵されていた、最初に1人が父が川で服を洗っている間に自殺、2人目はチョットジャングルの奥に動物を探しに行った時に離れた隙に、自殺です。食べ物も殆どなく、マラリヤで体力が消耗されて根気がトコトン無くなっている時だったそうです。親父は絶対母親を面倒見る為に生きて帰ると心に強く決心をしてジャングルを逃げた様です。最後はオランダ兵に見つかり引き揚げ船に乗せられて日本に20年の秋に着いたそうです。引き揚げ船甲板で毎朝起きた時に支給される水は小さなボール一杯だけが顔を洗い身体も洗うだった水が足らなかったと言ったました、さて本文です。軍司令部は日本軍の太平洋岸への進出でアジアからの石油やゴム、その他の物資を国内に運び込んで日本に物資を豊富にするのが本望でした。、、が、昭和16年に戦争を想定して日本が何年戦えるかを計算した際に2年という数字が出たのは司令部もわかっていた筈です。にも関わらず、司令部の指令がいかにも間違っていないかの様に国民を欺き、国民を使い捨ての兵隊の様に死なせ、日本国を守る為に死ぬんだとまやかしを言って、国民を洗脳=思い込ませて、上手くだました。 その為に戦地での物資はアメリカが攻めてきた時から底をつき、弾薬は無い、飯は無い状態でよもや戦地の兵隊さんたちはコレでは日本は駄目かと思いしや、最後の一兵まで闘い日本を守る盾に為るなど、司令部は前線の兵隊を皆殺しにしたのです。 司令部は自分の戦略が間違いだったと絶対に思わせたくなかったし、開戦時期にはまさか特攻部隊なる物が出て全員玉砕など思いも寄らない状態になるなど考えなかった筈です。これはまさしく司令部の戦略ミスであり失敗でした。その失敗は多くの最前線での犠牲者を出し、食糧難、マラリヤ、十分な医療品もなく多くの負傷者が
無駄に死んで行きました。軍司令部の目茶目茶な計画は国民を最終的に原爆で死なせたり、東京の空襲で何十万と焼け死んでます。これら日本を狂わせた状態に連れ込んだ軍部は日本人をどん底まで突き落とし、ひどい結果を生みました。
戦地の兵隊さんは騙されて殺され=日本の盾と思い込ませて、散々な青春を無駄にして悲惨な戦地の思い出を生き残りの兵隊さんの脳裏に焼き残しました。 全てが間違いだった=ロシヤ艦隊に下手に負けていれば良かったと思います。
変な思い上がりがこの悲惨なる状態を算出してしまい、昭和の1905〜30年代は間違いだったと思うばかりです。
未だ未だ戦地で、またペリリュー島に残る遺骨に対して、軍部に騙させた兵隊さんが可哀想だと思うばかりです。
地獄の戦地と 亡き父が言ってましたが、あの地獄を2度と作らなで頂きたいと思います。 僕には彼らは無駄に死んで行った人達と思えて仕方ないのです。生き残って戦後の復興に働いて欲しかった。 戦争は地獄です=2度とない様に祈ります。
投稿: 紺谷 外義、 | 2017年3月 1日 (水) 03:42