2014年12月19日 (金)

指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

「まさかあのとき、親父が死んだとは思わなかったんだ。スイッチひとつで
簡単に脱出できると言っていたから・・・事故の報せは聞いていたが
まあ、親父のことだから大丈夫だろうと思って、家に帰ったら記者が大勢
押しかけていて、それで事の重大さを悟ったんだ」 

  
薩摩の武人・戦闘機パイロット指宿正信

最後まで空に生きた人であった。
昭和三十二年一月九日(1957年)航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機が
訓練飛行中、天竜川河口沖合に墜落。操縦士の指宿正信(いぶすきまさのぶ)
二佐が 殉職した。
 
指宿二佐は日本で初めてのジェット戦闘機操縦士の一人で、また先の大戦では
真珠湾攻撃から終戦までゼロ戦搭乗員として技量抜群で生き抜いた人物だった。
 
残念ながら指宿氏に関する記録はほとんど残っていない。 僅かな資料をもとに
調査を進めると指宿氏は海兵六十五期、鹿児島県南さつま市 (旧加世田市)出身
であることがわかった。戦後も第一線で戦闘機乗りを続け国に身を奉げて散った
武人の生き様を、僅かでも残すべきと考えここに記す。
 
指宿正信は南薩摩・加世田の出身であり海軍兵学校六十五期、 海軍兵学校を
主席で卒業、恩賜の短剣組であった。
弟、指宿成信少尉は海軍叩き上げの戦闘機パイロットで
兄弟揃って紫電改に搭乗し、のちに本土防空戦を戦うことになる。
(昭和20年、兄、指宿正信少佐は横須賀航空隊で飛行隊長として紫電改に搭乗。
弟、指宿成信少尉は第343海軍航空隊で紫電改に搭乗)
 
 

真珠湾攻撃
昭和16年12月、指宿大尉は真珠湾攻撃で空母赤城所属のゼロ戦隊分隊長を
務め、僚機の岩城芳雄一飛曹、羽生十一郎一飛曹とともに第一次制空攻撃隊に
参加。 ヒッカム飛行場を制圧し、敵戦闘機の迎撃を抑えた。
 
スピットファイヤと対峙
インド洋ではセイロン島・コロンボ空戦に参加。 英軍スピットファイアと交戦し4機
を撃墜した。このうち一機のスピットは不時着に成功し、敵パイロットはコクピット
より這い出したが、これを認めた指宿は 風防を開け手を振って上空を通過。
とどめをささなかったというエピソードが残っている。
 
ミッドウェーの敢闘
昭和17年5月のミッドウェー海戦では赤城の上空護衛を任務とし、合計8回に
渡り発艦を繰り返し 被弾し乍も敵機と果敢に交戦。TBD-1デヴァステイター1機、
SBDドーントレス1機、B-26マローダー2機(推定)を共同撃墜し、赤城防衛に尽く
したが、赤城は沈没、 指宿は海上に不時着、数時間の漂流の末、救助されたが
真珠湾以来、半年間に渡って僚機を務めた戦友、羽生一飛曹は行方不明となり
ついに帰らなかった。
 
翔鶴と南太平洋海戦
昭和18年8月、空母翔鶴乗り組みとなった指宿は、新郷英城大尉指揮のもと
南太平洋海戦を戦う。この間 幾度となく空の要塞、B-17フライングフォートレスを
迎え撃ったが そのほとんどは雲間に逃した。岩城一飛曹と協力し遂にB-17を
撃破したときは 岩城自らも被弾、火災となり鎮火できずにいた。帰還不可能と
悟った岩城は 指宿へ向かってニッコリ笑って敬礼すると自爆、南溟に散った。
 
指宿自身もその後の戦闘で被弾したが不時着、救助され生き延びていた。
 
第二六一海軍航空隊(虎)とマリアナ沖海戦
昭和18年末~昭和19年6月 玉井浅一中佐に協力して若き航空要員(甲種10期
の17~18歳が多かった)で、第二六三海軍航空隊(豹部隊)結成ならびに
指宿自身は二六一海軍航空隊(虎部隊)の錬成にあたり絶対国防権防衛を担う。
 
これらの航空隊は大宮島・サイパン島・天寧(テニアン)島・パラオ ペリリュー島を
転々とし空戦を重ねたが、消耗激しく 最後はマリアナ沖海戦で部下のほとんどを
失った。 指宿とその部下はサイパン島で運命を左右されることになる。
 
サイパン上陸戦を控え、生き残りの貴重な航空隊員は 潜水艦と輸送機にて順次
サイパンを脱出しフィリピンへ向かう。 これに特に優先順位等なかったと思われる。
脱出は僅かな差であった。 指宿は無事脱出しフィリピン、マバラカットへ。しかし
無念は261空の司令、上田猛虎中佐(海兵52期)や海軍の至宝ともいわれた
東山市郎中尉さえも いずれも戦闘機の操縦においては天才的技量を持ちながら、
サイパン島に取り残され地上戦に巻き込まれ手榴弾を持って戦い、玉砕した。
 
第二〇一海軍航空隊・特攻隊を志願・却下される
昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされる。
敷島隊の編成にあたり、指宿が特攻隊を 「辞退した」と書かれている戦記が多いが
これは事実と反する。
 
かれの脳裏に過るのは先に散った多くの若い部下の顔であった。決して忘れは
しない ニッコリ笑って敬礼し、煙を吐きながら編隊から離れていった、そして二度と
帰らなかった戦友のことを。 俺も必ず後に行くぞと誓った。
 
指宿は副長の玉井浅一中佐に自ら敷島隊の一番機として突っ込むと熱望したが
却下されてしまう。 代わりに白羽の矢が立ったのが関大尉であった。
 
「関が行くなら俺も行く!俺を一番にやってくれ!」
なおも食い下がる指宿の言葉に対し、玉井は告げた。
「貴様は真珠湾以来のつわもの。これからは指導する立場にあるので
作戦に参加させる事は出来ない。死なれては困る」
 
敷島隊の一番機を真っ先に志願したのは他でもない 指宿自身であった。
 
関もまた可愛い部下であった。 指宿は戦後、幾度となく関の墓参りに
愛媛を訪れている。
 
紫電改を駆り本土防空戦を展開
内地へ戻り横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、紫電改を駆り
B-29やP-51を邀撃。この頃既に階級は少佐となっていたが指宿は常に現役で
あった。そして生きて終戦を迎えた。
 
戦後、故郷鹿児島へ戻った指宿は子供たちを集め 自らの体験を語っている。
「こうして死にぞこない、おめおめと生きている」
と 寂しそうに言ったという。
 
航空自衛隊戦後初のジェット戦闘機F-86Fパイロット
最後まで空に生きた人であった。 指宿は航空自衛隊の黎明期を支える存在と
なった。 渡米。戦後初のジェット戦闘機F-86Fのパイロットとなった彼は全国各地で
教官として次世代を担う新人搭乗員の指導に明け暮れた。
 
事故~市街地を避けて海へ
昭和32年1月9日、突然の報せだった。指宿は浜松航空団F86Fで飛行指導中、
事故に遭う。不運な事故であった。 先頭を飛行する教官、指宿の機体が太陽と
重なり、後ろを飛行中だった訓練生の目を眩ませたのだ。
 
訓練機が指宿機に追突する形となり、二機は空中衝突、訓練生はその場で落下傘
降下し無事。機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため 人的被害は無かった。
一方、指宿の眼下には浜松の市街地が広がっていた。 指宿は民家への被害を
避けるため最後まで操縦桿を離さず、機体をコントロールし海上への離脱を図った。
  
「遠州灘まで引っ張る!」
それが指宿最後の言葉となった。 指宿は海上でベイルアウト(緊急脱出)の
レバーを引いたが 高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突。殉職した。
 
最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした指宿正信、42年の生涯であった。 
 
薩摩の武人が残した礎
「戦後は特攻を関大尉に命じて自分は逃げたんだと、長い間、誤解されて
卑怯者扱いをされて、辛かったろうな。これじゃあんまりだ」 
 
指宿氏のご遺族は語る。

 
ブルーインパルスの一番機が白い煙を引きながら大空へと吸い込まれて行く。
間違いなく、指宿が残した武人の志は今日日本の礎となって
現在も受け継がれている。
 
 
最後までご覧くださりありがとうございました。
 
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※記事は加筆訂正をする場合があります。
出展:261海軍戦闘行動調書
取材・調査:篠原直人
 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年12月10日 (水)

富安俊助中尉とエンタープライズ

◆実在した「永遠の0」宮部久蔵のモデル

映画『永遠の0』最後のシーンを見た私は即座に
これは実在した富安俊助中尉のエピソードとそっくりだ!
富安中尉をモデルにしたのではないか?そう確信した。
 
以下、ネタバレを含む。映画『永遠の0』ラストシーンで
宮部久蔵は特攻隊として爆弾を抱いて敵空母へ突入する。
遂に横っ腹に突入するという寸前、90度急上昇し、敵空母の直上から
機体を真っ逆さまにして甲板へ突っ込むという壮絶なものであった。
 
ここまでは『永遠の0』の内容であり、フィクションである。
-------- 
 
◆以下、ノンフィクション
以下はノンフィクション。富安俊助という実在した零戦搭乗員の物語である。
富安俊助中尉は私が運営を務める第二師団の戦友会でお世話になっている
元第二師団第二連隊の陸軍大尉、水足氏(陸士56期)のポン友(親友)であり
家も向かいだったということで、思い出話をよく聞いていた。
そのエピソードを紹介する。
 
  
◆富安 俊助(とみやす しゅんすけ)
大正十一年、長崎県に生まれ、まもなく東京へ引っ越した。幼少期

は「メバチ」のあだ名で呼ばれた。早稲田大学に進学、大学では柔道
部に所属した他、全てのスポーツに長けており、また音楽を愛した。
在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほどであった。
 
水足氏によれば「富安は兎に角、運動神経が抜群で、中学の鉄棒で
大車輪を何度もやっていた」という光景をよく覚えているそうだ。
 
昭和十七年九月、早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得卒業後

満州鉄道に就職したが、僅か一年後の昭和十八年九月、学徒出陣を受
け海軍へ入隊。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊へ配属され
僅かばかりの期間、訓練に励んだ。
 
◆鹿屋進出
昭和二〇年 四月二十二日
出撃を控え海軍鹿屋航空基地に移動。
 
◆神風特別攻撃隊「第六筑波隊」出撃
同年 五月十四日 午前五時三〇分
第六筑波隊の爆装零戦隊十五機は、五〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋飛行場を
飛び立った。滑走路の端一杯まで滑走して、ようやく機体が浮い
たという。
途中、一機がエンジントラブルで引き換えし十四機となっ
たが、同じく鹿屋を
発進した第十一建武隊第八七生隊第六神剣隊
の爆戦十二機と合流し、
合計二十六機となって南方の米機動部隊を目
指した。これを察知した機
動部隊はただちに迎撃隊を発進させた。特攻隊のうち
十九機が迎撃戦闘
機により撃墜され、六機が対空砲火によって突入前
に撃墜された。

◆富安機の突入
午前六時五十六分
戦友の犠牲のもと、ただひとり生き残った富安俊助中尉は、対空砲火
を避けて一旦雲に身を隠した。そして時折雲間から顔を出してはエン
タープライズの位置を確認しつつあった。一方のエンタープライズは
20分前からレーダーで富安機を捉えていたが、雲に隠れた富安機に
効果的反撃ができずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けた
瞬間、富安機は満を持して急降下突撃を敢行。エンタープライズは集
中砲火を浴びせたが、横滑りを駆使する富安機に致命弾を与えられぬ
まま、ついに懐への進入を許した。
 
そのまま横っ腹に突っ込むかと思
われた刹那、富安機は五〇〇キロ爆弾
を抱いたまま、一気に引き起こ
し、艦の真上へ上昇した。雲間から射した
日光を浴びてゼロ戦の腹が
輝いていた。富安機は一八〇度左旋回すると
揚力を抑えた背面飛行
のまま、艦直上より前部エレベーターに突入した。
突入時の衝撃によ
り前部エレベーターは上空およそ一二〇メートルまで
吹き上げられた
エンタープライズは大破し、沈没こそまぬがれたが、航空機の
運用は
不可能となり、戦線離脱を余儀なくされた。
 

富安俊助 
▲エンタープライズ直上より背面飛行のまま突入を敢行せし富安俊助中尉機
 

◆艦上で富安中尉を称える式典が行われる
エンタープライズ艦上ではこの攻撃で死亡した空母クルーの水葬を
行ったのち、別の式典が行われた。これは敵であった富安中尉を称え
る名誉式典で、同式典により富安中尉の遺体は米水兵と同様に手厚く
水葬された。
 
米本土へ回航されたエンタープライズは入渠修理のまま終戦を迎える。
修理完了後は兵員引揚船として僅かに運用されたが空母としての
戦線復帰は果たせぬまま除籍。「ビッグE」栄光の歴史に幕を閉じた。

富安俊助の突入後
▲富安機突入の瞬間。上空120mまで吹き上げられたエレベーターが確認できる。
戦艦ワシントンより撮影。
 

富安俊助の突入後のエレベーター 
▲突入直後のエンタープライズ甲板。消火活動を行うクルー。
 

◆犠牲となった特攻隊員
この攻撃で犠牲となった特攻隊員全員をここに記す。

以下昭和二十年五月十四日海軍鹿屋基地出撃。
機種はいずれも爆戦(爆装零式戦闘機)である。
氏名、出撃時の階級、出身都道府県、出身大学もしくは
予科練期別、生年の順。

  
第六筑波隊

富安 俊助  中 尉 東京 早稲田大 大正十一年生まれ

大木 偉央  少 尉 埼玉 宇都宮高農 大正十二年

大喜田久男 少 尉 徳島 日本大学 大正十年

小山 精一  少 尉 東京 中央大学 大正十年

黒崎英之朗 少 尉 福岡 慶応義大 大正十二年

時岡 鶴夫  少 尉 兵庫 京都帝大 大正十一年

藤田 暢明  少 尉 徳島 東京農大 大正十二年

中村 恒二  少 尉 茨城 早稲田大 大正十一年

高山 重三 少 尉  愛知 同志社大 大正十二年

荒木 弘   少 尉  愛知 東洋大学 大正九年

本田 耕一 少 尉 兵庫 法政大学 大正十一年

西野 実   少 尉  石川 拓殖大学 大正十一年

折口 明   少 尉  長崎 専修大学 大正十一年

桑野 実  少 尉  京都 慶応義大 大正十二年
 

第十一建武隊

楠本二三夫 中 尉 長 崎 久留米高工 大正十三年生まれ

日裏啓次郎 中 尉 東 京 法政大学  大正十年

花田 尚孝 一飛曹 北海道 飛練十二期 昭和二年

古田 稔  一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年

鎌田 教一 一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年


第八七生隊

藤田 卓郎 中 尉 愛 媛 拓殖大学 大正九年

橋本 貞好 一飛曹 富 山 乙飛十八 大正十五年

荒木 一英 二飛曹 新 潟 特乙三期 大正十五年


第六神剣隊

牧野 カイ 少 尉 石 川 明治大学 大正十二年

川野 忠邦 上飛曹 宮 崎 甲飛十期 大正十二年

淡路 義二 二飛曹 群 馬 乙飛十八 大正十四年

斉藤 幸雄 二飛曹 宮 城 乙飛十八 大正十四年
  

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富安俊助機

宮部久蔵機宮部久蔵機

 

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指宿正信大尉 空に生きた武人

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年12月 9日 (火)

戦闘機の設計思想

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高校生の頃、世界史の授業で担当教師が

「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。
それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説は誤りであることが分かった。
 
ゼロ戦の鹵獲
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
ここまでは事実である。
 
この機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 

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古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
ゼロ戦の弱点を突け
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反するものであった。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きであった。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れであった。
 
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは無残極まりないものであった。
 
日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
大戦後期、日本軍令部もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
  

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▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。
F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの
日本艦船を撃沈したといわれる。 
 
 

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年10月 4日 (土)

マリアナ沖海戦航空母艦一覧

翔鶴

瑞鶴

大鳳

隼鷹


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飛鷹

龍鳳

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千歳

千代田

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瑞鳳

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Photo_14

マリアナ沖海戦参加の第一機動艦隊、空母9隻の戦闘機隊一覧です。
このほかに基地航空隊として第61航空戦隊が主力として敢闘しました。
 
第一機動艦隊 第三艦隊・甲部隊/第601海軍航空隊
正規空母「翔鶴」(沈没)
正規空母「瑞鶴」(小破)
正規空母「大鳳」(沈没)
 
同・乙部隊/第652海軍航空隊
正規空母「隼鷹」(中波)
正規空母「飛鷹」(沈没)
軽空母「龍鳳」(小破)
  
第二艦隊 第三航空戦隊/第653海軍航空隊
軽空母「瑞鳳」
軽空母「千代田」(小破)
軽空母「千歳」 
 
第61航空戦隊参照
第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲強行偵察隊。テニアン、ペリリュー基幹
第261海軍航空隊(虎)ゼロ戦戦闘機隊。サイパン主基地
第263海軍航空隊(豹)ゼロ戦戦闘機隊。グアム(大宮島)主基地
第265海軍航空隊(雷)ゼロ戦戦闘機隊。パラオ・アイライ主基地
第321海軍航空隊、月光戦闘機隊、テニアン主基地
第343海軍航空隊(隼)ゼロ戦戦闘機隊、パラオ、グアム主基地
第521海軍航空隊(鳩)銀河爆撃隊、ヤップ基地
第523海軍航空隊、彗星艦爆隊、ペリリュー基地
第761海軍航空隊(龍)一式陸攻、彗星による強襲部隊。ペリリュー基地
第1021海軍航空隊、輸送隊。
 


 

2014年9月19日 (金)

ゼロ戦を描き直し中

02

ゼロ戦をより精密に描き直しているところです。
まずは定番の五二型を描きました。
 
これから六三型も描きます。六三型は五二型と比べると
スピンナーの大きさとエンジンカウルの形状が少し異なるのですが
以前描いた絵はほぼ、五二型そのまんまでした。
参考にした写真資料がそもそも間違っていたのです。
きちんと確認しないと駄目ですね。これから修正します。
 
機体色も中島飛行機の塗料を再現したつもりです。三菱の零戦より
すこし薄い緑色です。ひとつ前の記事で
「紫電改」を描きましたが、紫電改の塗料(川西系)は
一見おなじようでいてかなり青い色です。 
なんだか書いてる内容が久し振りに
オタクっぽくなってしまいました。
 

メカのデザインは時代背景を顕著に反映するので
実に興味深く、飽きることがありません。
 
 

2014年8月12日 (火)

アルモノグイの零戦(吉田機)へ

Imgp3390

 
毎回、パラオを訪れた際は

ここへお参りします。
 
以前、プロペラが一本盗難に遭い、心配していましたが
私がご遺族をお連れして、テレビ放映されたのをきっかけに、
地主の方が以来、気にかけてくださっています。

本当にありがたい気持ちでいっぱいです。
除草作業も行われています。

 
戦死された吉田久光飛長に合掌。
 
吉田機不時着、戦闘の経緯はこちら

2014年8月10日 (日)

流星(改)艦上攻撃機

流星(改)艦上攻撃機

流星を描きました。
逆ガルの翼が優美な日本海軍最後の攻撃機です。
連合軍では
その名もGrace(グレース)
 
艦上攻撃機「流星」(改)Tシャツアマゾン販売ページ(ネイビー)へ
(ブラック)
(ブルー)
 

流星Tシャツ

流星Tシャツ

流星Tシャツ

 

こちらもよろしくお願いします。
 
伊400と「晴嵐」神龍攻撃隊Tシャツ

 
三式戦闘機「飛燕」Tシャツ
 

局地戦闘機「震電」Tシャツ
 

零式艦上戦闘機五二型Tシャツ
 
「紫電改」第343海軍航空隊Tシャツ

 
飛行機シリーズ、ほかにもリクエストがあれば承ります。
これから、戦車や大和、武蔵の作業に取り掛かります。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年8月 3日 (日)

航空機に見る日本陸海軍の確執

先の大戦において、一番の敗因は圧倒的物量の差といえるが
それ以外をあげるとするなら、特に多方面で論じられているのが
陸海軍の確執が足かせになったことだ。
 
これは我が国の失敗の本質であり、当時から現在に至るまで
まったく改善されていない。
 
そこで今回は常にニュートラルな存在である機械という側面から
陸海軍の確執を、それらが招いた不効率、強いて言えば敗因を
見ていこう。

149

Jpg_3

Photo

この飛行機は陸軍が開発した三式戦闘機「飛燕」と
海軍開発の艦上爆撃機(夜間戦闘機)「彗星」である。
似たような形をしているのは同じエンジンを搭載しているため。
  

エンジンはメッサーシュミットBf109にも搭載された名機「DB601」で
ドイツのダイムラーベンツ社からそっくり技術のみを購入し、
図面をもとに国内で生産したものだ。これをライセンス生産と呼ぶ。
 
日本機では珍しい液冷エンジンを採用したこの二機は、いずれも
陸海軍の主力となり活躍したが、その開発経緯が実に不効率なものだった。
購入経緯は下記の図の通りである。

Db601
ダイムラー・ベンツ製DB-601エンジンは、当初日本海軍が
購入・採用した。これにならい、陸軍でも液冷エンジンの戦闘機を製造すべく
導入を決定した。当然、先に海軍が購入済みであるので
通常であれば海軍から技術供与を受けるのが最も効率よく
コストもかからないし、開発期間を短縮できるなど、技術面でのメリットも大きい。
 
しかし、日本陸海軍は仲が悪かった。
一応、海軍との間でエンジン供給に関して会合の機会をもうけたが、
うやむやとなってしまった。事実上の破談である。
そこで陸軍は、元祖であるダイムラー・ベンツ社にエンジン技術の購入を
求めた。これに対し、ダイムラー社は
 
「すでに日本海軍に売り渡してある。重複して売ることは
商業道徳に反するから、
海軍に供与を受けてはどうか」
と、丁寧にもアドバイスしてくれたのだが、陸軍はプライドが邪魔し
独自購入を進めた。
この失態はヒトラーの耳にも入り
「日本の陸海軍は仇同士か」と述べたという。
 

以上の経緯によって、同じエンジンであるにも関わらず、一から
陸軍、海軍で別々の開発、生産が行われた。
名称も陸軍では「ハ40エンジン」海軍では「アツタ(熱田)エンジン」と
異なったものになった。
 
陸軍の「飛燕」、海軍の「彗星」はそれぞれ別の道を歩み
戦争中盤~終盤にかけて、活躍したが、もし
陸海軍で技術交換し共同開発・製造を行っていれば
もっと効率よく完成度の高い飛行機が出来たのではなかろうか。
 
さらに、戦局が悪化し、エンジンが足りなくなったとき、
相互性がなかったため。同じエンジンであるが
互いに融通しあうことができなかった。

手痛いツケがまわってきたのである。
 
いずれにしても前線の兵には関係ないことである。
陸海軍上層部のちょっとしたプライドが大きな大きな足かせとなった。
陸海軍が仲良くやれば、もう少しマシに戦えたかもしれない。
 
現代における省庁間の縦割り行政と同じく
この国の失敗の本質は昔から変わらぬままだ。
そしていつも苦労するのは末端の人間である。
 
窮地に追い込まれた日本陸海軍は
ジェット戦闘機「橘花(海軍)」「火龍(陸軍)」で共同開発に踏み切るが
ときすでに遅し1945年8月のことであった。
 
ペリリュー島に残る「彗星」DB-601エンジン。
排気管(マフラー)だけが錆びることなく鈍く光る。

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2014年8月 2日 (土)

晴嵐と伊400(神龍特別攻撃隊)

02 

SFアニメのような設定ですが、70年も前に我が日本海軍が
実際に行っていたことです。浮上した潜水艦から
僅か2分間で飛行機を組み立て、発進が可能でした。

潜水艦「伊400」には特殊攻撃機「晴嵐」3機が搭載可能で
事前に暖められたオイルを機体に注入することにより
暖気運転を不要とし、浮上と同時に折りたたまれていた
ワンタッチ構造の翼を広げ、カタパルト射出が可能でした。

昭和20年8月17日、神龍特別攻撃隊は
パナマ運河破壊を敢行する目的で編成されましたが
その2日前、太平洋上で終戦を迎えました。

 
(詳しくは神龍特別攻撃隊を参照)


2014年7月29日 (火)

三式戦闘機「飛燕」

飛燕を描きました。
 

Photo

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こちらの絵柄「飛燕」Tシャツもamazonで販売中です
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Hien01

Hien02関連記事

航空機に反映される陸海軍の確執
 

Db601

飛燕と女子挺身隊

Photo

 
まだ途中ですが、エンジンの描き込みです。
この飛行機は女子挺身隊といって当時、16、7の女学生が作っていました。
それも良家の娘(俗にいうお嬢様)が多かった。
 
女学生がリベットを打ったり板金などするのです。
工場の力仕事と物凄い騒音、生活環境にまいってしまったり
ホームシックになる者が続出しました。
 
飛行機そのものの性能は、米軍の飛行機を上回る素晴らしい
ものであったのですが、そういった事情があり、
戦う前に故障してしまうことが多くありました。
それでも銃後でお国のためによく頑張ってくださったと
いくら感謝しても足りないくらいです。
 
女子挺身隊
じょしていしんたい
昭和19年以降に創設された、14歳以上25歳以下の女性を
集めて構成された勤労奉仕団。主に軍需工場などで作業に従事した。
 
昨今、いわゆる従軍慰安婦を差す言葉として本来の
意味とはかけ離れた使われ方をしている。
これは当然、全くの誤用である。
 
勤労奉仕の女子挺身隊と
多額の報酬を受け取っていたキーセン(売春婦)を
同じに呼んではいけない。これは直ちに抗議すべきである。
あまり書きすぎると記事本来の主旨から逸脱するので
またの機会にする。
 
飛燕と女子挺身隊の映像
 

川崎 三式戦闘機「飛燕」
YouTube: 川崎 三式戦闘機「飛燕」



2014年7月25日 (金)

飛燕と晴嵐

また絵を描いています。
もう少しで完成です。
 

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2014年7月10日 (木)

震電

要望があり震電Tシャツを商品化しました。
既にアマゾンで販売中です。
震電好きな方の熱烈なアイデアで実現しました。
 

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B_3

「震電」販売ページへ(ブルー)
「震電」販売ページへ(ブラック)

「震電」販売ページへ(ネイビー)

震電は大戦末期に九州飛行機が開発した
日本海軍の迎撃戦闘機(インターセプター)です。
主にB-29の迎撃を任務として運用が検討されました。
 
しかし、その登場が遅すぎました。革新的な高高度性能と
火力を備えていましたが、
初飛行は昭和20年8月3日のことで
実戦配備に至ることなく終戦を迎えました。
 
映画「スカイクロラ」によく似た機体が登場しますね。
 
商品化の要望がありましたらお寄せください!
  


 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年4月15日 (火)

テニアン島戦跡(3) 第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

 
前回からの続き

テニアン島の海軍航空隊司令部跡である。

この建物、ペリリュー島に残る西カロリン航空隊司令部
ものとまったく同じ構造、間取りをしている。 
 
昭和18年~19年にかけて
第一航空艦隊の司令部となった建物である。

第一航空艦隊基幹

第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲

第261海軍航空隊(虎)零戦五二型

第263海軍航空隊(豹)零戦五二型

第265海軍航空隊(雷)零戦五二型

第321海軍航空隊 夜間戦闘機「月光」

第343海軍航空隊(初代/隼)零戦五二型

第521海軍航空隊 陸上爆撃機「銀河」

第523海軍航空隊 艦上爆撃機「彗星」

第721海軍航空隊(龍)一式陸上攻撃機

第1021海軍航空隊 輸送機

 
それにしても
第一航空艦隊というと、紛らわしい呼び名だが航空母艦は無い
 
第一航空艦隊といえば、かつては真珠湾攻撃に始まり
太平洋やインド洋でおおいに
暴れ回った空母機動部隊であったが
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で四隻の主力空母を撃沈されて以来
一旦解体し、
再建なかばにあったのだ。強いて言うならば島を
一時的に不沈空母としての運用した
のである。
 
そのため、まずはマリアナ・パラオなどで地上基地航空隊を発足させ、
訓練の
後、完成予定の航空母艦に搭載させふたたび大海原へと繰り出す
予定であった。しかし、帝国海軍の意図は脆くも崩れ去り、ふたたびその
堂々たる空母艦隊の雄姿を見ること叶わなかった。 

第一航空艦隊司令部

 
昭和19年5月、米国機動部隊がいよいよマリアナへと
進攻を開始した。マリアナ沖海戦(あ号作戦)の始まりである。
第一航空艦隊は米機動部隊を迎え撃つ形で遊撃戦に参加したが
搭乗員の大部分は未だ訓練途中であったため、大損害を受けた。
この損害により再建の望みは遠のく結果となった。
 
昭和19年7月7日、南雲忠一第一航空艦隊司令長官はサイパン島
地獄谷付近で玉砕。サイパン島はまもなく陥落し
同島アスリート飛行場を失ったうえ、多くのパイロットが
島を脱出できずに地上戦で戦死した。
 
同年8月2日、テニアン島玉砕。
南雲中将の後任となった角田覚治中将も
地上戦で戦死。海軍屈指のテニアン島ハゴイ飛行場と
ここでも脱出に失敗した多くのパイロットを地上戦で失う。
最後まで飛行機を与えられなかった飛行兵たちはさぞ無念であったろう。
 
同年8月10日、大宮島(グアム島)陥落。
さらに航空拠点を失う。
 
こうして第一航空艦隊の再建は絶望的なものとなった。
皮肉にも最も飛行場整備に適していたテニアンは
アメリカ軍の占領後、B-29の最大拠点として整備されることとなる。 
 
残存の航空兵力はパラオ・ペリリュー島とフィリピン
各地へ転進したが、その後は特攻作戦へと進んでゆく。
  

第一航空艦隊司令部▲日本海軍ハゴイ飛行場駐機場跡。

 

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部


続く

2014年4月14日 (月)

紫電改Tシャツ

紫電改Tシャツ再入荷しました。
 

Ist0

Ist02

Tde

012

魂を込めて描き上げました。
B-29の爆撃から日本を守った松山の343空モデルです。
よろしければご覧ください。
  
紫電改アマゾン販売ページ(ネイビー)へ
紫電改アマゾン販売ページ(ブラック)へ
 
また「こんな機種があったら欲しい!」というアイデアも引き続き募集しています。

飛行機でなくでもOKです。先日は
「陸軍ものが少ないので欲しい」といったご意見を頂戴しました。
 
お待ちしております。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年2月 4日 (火)

山本五十六記念館

Scan0068

前回ブログの続です。長岡の
山本五十六記念館を見学しました。
実はここは夏にも来たことがありますが二度目です。
 
館内は撮影禁止なのでこれはパンフレットです。慰霊団がブーゲンビル島の
墜落現場から持ち帰った山本座乗の一式陸攻の左翼と実際に
座っていた座席が展示されています。
 
そのほかには山本直筆の書や手紙、愛用品などが展示されており
ひとつひとつじっくりと拝んできました。 
 

Imgp3317 
受付兼土産物店で買い求めた「常在戦場」の書、コピー品。
館内にはこの書の実物展示があり、拝んでいると山本五十六の覚悟
が伝わってくると同時に歴史の一部に触れられたようで感慨無量。
 
五十六記念館では、このほかにも素晴らしい
五十六グッズを(五十六カレーや「やってみせ~」の色紙など)多数
揃えて皆様のお越しをお待ちしております。 
 
受付の方は、見学者がわたしひとりだったこともあり
熱心にガイドしてくれまして、一式陸攻左翼帰還の
ビデオまで見せてもらいました。
 
次に車で5分くらいのところに墓所があるので
お参りに行きました。
 

Imgp6324

山本の墓所、長興寺(ちょうこうじ)です。
駐車場あります。しかし
この時期は雪でズブズブであります。
 

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正面が山本五十六のお墓です。冬に来たのは初めてです。
この状態では戒名しか読み取れませんが、夏であれば
墓石の下のあたりに「山本五十六」と刻まれていますので
迷いません。


なお山本のお墓は東京の多磨霊園にもあります。
 



新潟にきたついでに柏崎刈羽原発広報センターを見学。
私は原子力関連施設を見学するのが好きなのです。
原発近くに来ると必ず見学します。
 
原発の可否はともかく、科学や機械、そしてなにより
重厚長大なものが大好きなのです。 

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日本海を拝んで帰りました。
冬には珍しいベタ凪ぎの日本海です。
佐渡が見えます。

 


2014年1月26日 (日)

誓約~うけい~ / サネヨシ

A4de

  
サネヨシの「誓約~うけい~」というCDを紹介させて下さい。
 
今や貴重なアーティスト、サネヨシ。

歌詞の内容など無いに等しく、ほとんどファッション化してしまった昨今
の音楽界に一矢を報いています。
 
主観ではありますが、曲の感想を書いておきます。

よかったら買って聴いてみて下さい。
 

♯1『ラッパ譜~黎明のとき』
インストゥルメンタルはタイトルの通り
黎明(れいめい)を思わせるラッパの奏で
鎮魂や哀愁、または希望ともとれる、生き延びた昨日と
始まる今日への序曲。
 
♯3『敷島の大和の国』
御楯(みたて)となり、敵艦へ突入する特攻隊員の曲なのだが
これを聴くと故郷の山や海、そして家族の顔が思い浮かぶ。
穏やかなメロディーで守るべき美しい敷島の大和の国が見えるはず。
 
♯4『愛しき子よ(Albumver.)』
ある日、日本海の海岸で突然神隠しに遭ってしまった愛しいわが子の
帰りを髪が白髪になっても待ち望む、悲しい曲である。
事件の解決を早期に切に望む。
 
♯5『TVを消せ!』
とりあえずつけて見るテレビ。何気なく見るテレビ。いつの間にか
私たちはテレビに支配されている。目を覚ますためには先ずテレビを消せ!
 
♯8『誓約~うけい~』
生き残ったの特攻隊員の思いを表現した曲で
先に逝った戦友へ馳せる思いと、死に損なった
自らの戦後、苦悩の末に望んだ未来を美しいメロディーに乗せている。
 
歌詞の内容はロックシンガーにありがちな揶揄や皮肉、癖はまったく無く
ただ純粋に、真っ直ぐに伝えたいことのみを歌い上げた印象で聞きやすい。
 
ジャケットには「過激か?全うか」と、銘打ってあるが、
曲は優しく語りかけるような調子で、純粋に日本人にとって
大切にすべき気持ちを丁寧に書き起こしたものである。
 
ところでこの曲の最後の音、何を表現しているかわかりますか?

 

サネヨシ(秘密基地レコード)オフィシャルページ

2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


最後までご覧くださりありがとうございました。
 

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零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月22日 (水)

米軍に捕獲されたゼロ戦

ゼロ戦鹵獲機

▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。

 
サイパン島の激戦は有名ですが

同島にはアスリート飛行場と呼ばれる
帝国海軍屈指の航空拠点がありました。
 
太平洋デルタ地帯最後の攻防(昭和19年<1944>)
 
また、サイパンのほかには、大宮島※(グアム)、ヤップ、パラオな
ど三角地帯にいずれも大規模な滑走路を建設し
航空戦力を配置、太平洋の要となり、米軍と対峙しました。
 
※当時、日本占領時はグアムを大宮島<おおみやじま>と呼びました
 
昭和19年(1944)5月、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で
三角地帯の飛行場航空部隊は日本最後の空母機動部隊とともに
遊撃戦を展開し、多くの犠牲を払いました。その多くは若年の搭乗員でありました。
 
サイパン陸上戦で散った搭乗員
在サイパン第261海軍航空隊(虎)の至宝パイロット、東山中尉は、角田司令とともに
陸上戦隊に編入しました。海軍一の度胸と腕を持っていた東山中尉も
その最期は飛行機ではなく、陸上で玉砕したと伝わっています。
 
アスリート飛行場に残されたゼロ戦
ところが、サイパン・アスリート飛行場には
第263海軍航空隊(豹)第261海軍航空隊(虎)
状態の良いゼロ戦が多数残っており、これを
米軍が鹵獲(ろかく)してアメリカ本土に持ち帰っています。
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰ったうちの一機です。  
 
パイロット本来の持ち場である空で存分に戦えなかったことは
無念だったでしょう。上陸戦で瞬く間に飛行場を制圧され、
飛行機に近づけなかった可能性があります。
 

ゼロ戦鹵獲機

▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。

ゼロ戦鹵獲機

▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。

ゼロ戦鹵獲機

ゼロ戦鹵獲機

 
写真について
 
261空と263空の零戦は海軍機には珍しく迷彩色を
採用していたという説もあるが、これは誤りの可能性が高い。

モノクロ写真であれば翼の日の丸は通常黒に近い色で写るが
この写真はだいぶ薄い色に見える。溶剤などで、部分的に
塗装を落とし、日の丸を米軍の星のマークに
描きかえる直前の写真であり、それが迷彩のように見えたことから
間違った説が流れた可能性が高い。
 
敵の飛行機を戦利品として鹵獲した場合は直ちに国籍マークを
塗り替える必要があるうえ、上空から見ればまるで
日本の空母である。ここは太平洋の最前線。
誤認され爆撃でもされないよう、大急ぎで作業したのではないだろうか。
 

 

第263海軍航空隊の零戦五二型(指揮官機)をジオラマで再現してみた。
 
261空のゼロ戦に関しては
日の丸の白フチは現地で目立たぬよう黒く塗りつぶされていたが
263空は白のままだったようである。 
  

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2014年1月18日 (土)

ゼロ戦Tシャツ

ゼロ戦Tシャツデザインを一新し、再入荷しました。
僅かですので早めにお求めください。
 
「この色とサイズが欲しい!」という要望はたいへん
ありがたいのですが
毎度少ロッド生産ですので一種類でも売れてしまうと
しばらくお作りすることができません。何卒お許しください。
 
また、商品を置いてくださる小売店様も探しております。 
お気軽にご連絡ください。

03

Zerro

A4d

A4

T

01

amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)

2014年1月12日 (日)

岩本徹三の戦後2

以前、書きました岩本徹三の記事
貴重なコメントを頂きましたので
紹介させて下さい。(勝手にすみません)
 
以下、旅好きなおっさん様のコメントより

-------------------

ちょっと岩本さんの故郷、島根県益田市に
旅してきました(生まれは樺太です)
 
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場を
ちょこっとのぞいたりしてきました。工場は戦後を忍ばせる
古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと
勤めていたのかと思うと少し悲しかった。
 
地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという
情報があり 電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に
墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を
見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 
 
----------
 
以上です。
旅好きなおっさん様、貴重なコメントをどうもありがとうございます。
私も近くを通った折にはお墓参りしたいと考えています。

2013年11月21日 (木)

Zero&B-29

B29

 
最近はゼロ戦の絵を描いています。

ついでに同じスケールでB-29を描きました。

2013年11月13日 (水)

日本の戦跡一覧

日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新

Map_3

地図の拡大版はこちら  

 
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
 
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。

 
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。 


◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。

◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺

◆宇都宮飛行場

◆洞窟戦車工場(那須烏山市) 

 
◇茨城県
◆予科練平和記念館

◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
 
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
 
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
 
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
 
◇千葉県
◆房総半島戦跡群

◆館山航空隊地下壕

◆「震洋」基地

◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。 

◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
 
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
 
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
 
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
 
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
 
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む

◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
 
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。

◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。

◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。

◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。

◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。

◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
 
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
 
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
 
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
  
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。

◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
 
◆由良要塞
 
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。 
入場無料。
 
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
 
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
 
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
 
◆番外編~素晴らしい四国
 
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
 
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
 
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
 
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ) 
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
 
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
 
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
 
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
 
◆大村海軍航空隊

◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
 
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
 
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非 
 
◆知覧特攻平和会館
 
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)

知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。 
 
◆神雷部隊「桜花」別杯の地

桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。 
 
◇沖縄県
◆南部戦跡

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷採石場跡(大谷資料館)01

大谷採石場跡(大谷資料館)02

大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジンと機体が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

大谷採石場跡(大谷資料館)06

大谷採石場跡(大谷資料館)07

 

大谷採石場跡(大谷資料館)08

大谷採石場跡(大谷資料館)09

大谷採石場跡(大谷資料館)10

大谷採石場跡(大谷資料館)11

大谷採石場跡(大谷資料館)12


ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)14

大谷採石場跡(大谷資料館)15

大谷採石場跡(大谷資料館)16

大谷採石場跡(大谷資料館)17

▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。
  
------------------------------

 
【大谷地下空間に存在した戦闘機「疾風」工場と秘密基地計画】
(個別ページへ)

昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
 
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。

  
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
 
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
 
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
 
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。

04_2 
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)

  
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
 
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
 
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
 
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
 
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
 

01 
▲地下工場で製造された疾風の胴体
 
◆城山地下工場概要

城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
 
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。

当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。

なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
 
◆地下工場の総員と勤務体制
 
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
 

02 
▲地下工場で製造された疾風の主翼
  

◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
 

05 
▲岡本西小学校北端の滑走路より離陸する「疾風」(想像図)

 
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
 
出典

米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
 
US. National Archives and Records Administration

2013年10月 3日 (木)

万世特攻平和祈念館

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有名な子犬を抱いた少年飛行兵の写真です。
この飛行兵は荒木幸雄さんという方で
群馬県桐生市出身の陸軍少尉、17歳です。
 

子犬を抱いて、自分の飛行機に爆弾を取り付けている
様子を見ている、といわれています。
 
昭和20年、5月27日
荒木さんはこの写真が撮影された直後、陸軍特別攻撃第72振武隊として
沖縄へ出撃、戦死しました。
(第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵でした)
 

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知覧を訪ねたのなら、ぜひとも万世も
 
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが

同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
今回は、そちらの、あまり知られていない
万世特攻平和祈念館
へ行って参りました。
  
こちらは知覧と比べると規模は小さいのですが
展示内容は決して引けを取らないものです。
 
万世飛行場は吹上浜をならした急造の飛行場で
荒木さんが出撃したのは、この万世飛行場だったのです。
荒木さんの遺書、遺品は二階フロアに展示してあります。

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▲海軍零式三座水上偵察機
本来、海軍の飛行機はここ陸軍の記念館にはミスマッチであるが、
吹上浜の沖から引き揚げられたのでその縁もあり、展示していると、
新人ガイドさんの話。
なお、この機体の搭乗員三名は無事生還、
その経緯も記してあります。

 

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▲慰霊碑自体は沖縄の方角を向いているが
搭乗員は東を向いている。これは再会を誓った九段の方角だという説
もうひとつは鹿児島は日本の西端なので、故郷の方角すべてを
向いているという説があります。
 

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▲ベテランのガイドさんに案内して頂き、飛行場跡へ。
この側溝の板は当時からあり、画面右側が飛行場滑走路跡。
 

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▲駐機場。荒木さんの写真の背景には松林が写っているので、
現在もそのまま松林である、記念館からこの辺りのどこか駐機場で撮影したの
ではないか、
という説があります。
 

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 飛行場跡は直線道路。
 

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特攻隊員の方々が、この神社を通りがかりに
ちょうど桜の花が咲く頃だったので、その枝を持って
コクピットに飾った。その桜の木は今はないのですが、
神社の石柱は当時のまま残されています。 
 

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飛行場跡地の海浜公園から吹上浜を望む。
 
万世特攻平和記念館 アクセス
鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3
大人300円、小人200円
9:00~16:30(閉館17:00)
無休(12月31日~翌1月1日休)

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

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 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
 
一度は訪れておきたい場所です

  
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが
同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
 
今回は、そちらの、あまり知られていない

鹿屋資料館へ行って参りました。知覧からは鹿児島湾を挟んで
大隅半島側。交通の便が悪いところにあるので
なかなか見学者が来ないのかもしれません。

 
しかしながら、こちら鹿屋も
決して知覧に引けを取らない資料館です。
 
鹿屋は海軍の特攻基地として
もっとも多くの海軍特攻機が出撃しました。
二階フロアには鹿屋から出撃した
海軍搭乗員の遺影(集められる限り全て)と遺書が展示してあります。
 
敷島隊から梓特別攻撃隊、神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで
資料、展示も充実しています。

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▲戦艦「比叡」の錨、海上自衛隊のUS-1A(おおとり)
紫電改、天山のプロペラなど、屋外展示も多数。
なお資料館二階には吹上浜沖から引き揚げられたゼロ戦五二型が
展示されています。なお、

世界唯一の二式大艇はここにあります
 
余談
敷地内の食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」がとても美味しくて
びっくりした。おすすめです!
 
アクセス 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
鹿児島県鹿屋市西原3丁目11−2
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
年末年始(12月29日~1月3日)を除く毎日開館
入館無料
個人でも申し出ればガイドが案内します

ゼロ戦、二式大艇など各種グッズを扱った土産物店、
海軍カレーが食べられる食堂あり

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

神雷部隊「桜花」別杯の地

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海上自衛隊鹿屋航空基地から少し離れたところに
神雷部隊「桜花」の碑がある。
 
慰霊碑には山岡荘八の書で神雷部隊「桜花」別杯の地、である旨と
建立の経緯が記されている。なお、ここから近くの
鹿屋航空基地資料館には神雷部隊「桜花」に関する遺品、資料が数多く
展示されている。
   
 
アクセス
鹿児島県鹿屋市野里町4219
朝日神社となり

大刀洗平和記念館

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マーシャル諸島タロア島より帰還した零戦三二型
大刀洗(たちあらい)平和記念館のゼロ戦です。

マーシャル諸島タロア島から里帰りし修復された機体です。
珍しい三二型。
 
大刀洗~陸軍の特攻基地としての歴史
ここ大刀洗は陸軍の航空基地があり

戦争末期には特攻隊が出撃した地でもあります。
館内にはここ大刀洗から出撃した特攻隊員の方の遺書、遺影などが
展示されています。
 
幻の戦闘機「震電」
また、九州飛行機が製造した幻の戦闘機「震電」が終戦直前に
蓆田飛行場
(現在の福岡空港)で飛行した経緯もあり
「震電」の展示に力を入れており
資料も豊富でした。
 
B-29のオブシェ
ゼロ戦の上、天井に金網のようなものが見えますが
これはB-29のシルエットのオブシェです。翼とエンジンの形がわかるでしょうか。
大きさ比較のためだそうです。

なお、館内は撮影禁止
ただしゼロ戦のみ撮影可能で九七戦闘機は禁止。
ゼロ戦も九七戦闘機も区別つかない人が多いのに
これは混乱すると思う。
 

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▲現在も残る営門と、道路を挟んだ反対側はユニークな大刀洗駅。

大刀洗平和記念館アクセス
福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
 
入場料
大人500円 高校生400円 小中学生300円
入館時間、午前9時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日は年末年始 (12月29日~1月3日)
 
各種ゼロ戦グッズの売店あり
 
館内撮影禁止
(ただしゼロ戦のみ撮影可能。九七式戦闘機は禁止)

大村海軍航空隊跡

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大村海軍航空隊の跡地です。

掩体壕が公園の遊具となって残っていました。
ここ大村海軍航空隊は海軍屈指の大航空隊で、空技廠があり
また、松山の第343海軍航空隊(剣)の拠点でもありました。
 

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司令部壕は現在慰霊塔となっています。

 

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沖合に浮かぶ長崎空港です。
海軍大村航空隊の飛行場跡地は現在の海上自衛隊大村航空基地です。
長らく民間と共用でしたが、現在、民間機の滑走路は全て沖合に移転し
民間機独自で運用されています。
 
長崎空港という名称ですが大村市にあります。
長崎県は縦に長い県ですので、地元の人は「大村の空港」とか呼びます。


2013年10月 2日 (水)

永遠の0ゼロ(映画のセット)

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大分県宇佐市がこのたび開設した
「宇佐市平和資料館」で映画永遠の0(ゼロ)の撮影に使われた
ゼロ戦(レプリカ)が見学できます。
 
このゼロ戦は、映画の撮影が終了した後、宇佐市が1000万円で
購入し、ここに展示しているものです。
 
鉄板を貼り付けたレプリカなので、実物のゼロ戦と比べると
ずいぶんと重い質感がありました。

入場は無料。

宇佐市は旧海軍宇佐航空隊の掩体壕などが現在でも残り
戦跡を観光の目玉にして行く構えの様です。
 
展示のほとんどは映画のセットですが
桜花の風防ガラスなど、一部だけ貴重な資料もあります。
レプリカ機の尾翼番号(第721海軍航空隊)は神雷部隊のものです。
 

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これは映画の撮影に使われたコクピットのセットです。
「岡田くんの汗が染みこんでいるから、
ファンの女性は喜ぶんじゃ
ないでしょうかね!うへへへへ」と、市の担当者。
 
アホか!

でも、実際に座れるのは良いアイディアだと思います。もちろん座らせて
もらいました。「思ったより狭いでしょう」と言われましたが、
身長175センチの私の印象では、広くはないけど、狭くもない。
そんな感じでした。
 

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こういった実際に体感できるセットはありがたいです。
隙間をぜんぶ埋めてあるんですね。
 

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宇佐市平和資料館 アクセス
宇佐市大字閤440-5
火曜日定休(祝日の場合はその翌日)および年末年始12/9-1/3
9時~17時(入場は16時30分まで)

老若男女入場無料

宇垣纏 8月15日特攻の碑

昭和20年(1945)8月15日
 
玉音放送の後、ここ大分飛行場より、宇垣纏中将の命により
1番機操縦中津留達雄大尉をはじめとし、宇垣自身を含む
11機、総員23名搭乗の彗星が神風特別攻撃隊として沖縄へ出撃した。
(うち3機は不時着)いわゆる終戦後の「宇垣特攻」であるが
 
彗星隊が飛び立った地に、戦没者全員の名が刻まれた
慰霊碑が残されている。 

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大分飛行場は戦後、民間飛行場を経て
現在は野球場や各種スポーツ設備を備えた
大洲総合運動公園となった。
  
慰霊碑は現在も生花が供えられ
綺麗に維持されている。

 
アクセス:大洲総合運動公園
大分市青葉町1番地
慰霊碑はテニスコート西側、芝生の広場一画にある

2013年10月 1日 (火)

紫電改~最後の戦闘機

紫電改01

紫電改02

紫電改03

愛媛県愛南町の「紫電改」を見学しました。
 
一見した感想は「大きいな」と感じたことです。
ゼロ戦より一回り、大型で迫力があります。重戦闘機紫電改。
昭和20年、この紫電改もB-29やグラマン戦闘機と大空戦を
繰り広げていたのでしょう。思いを馳せました。紫電改を知っている方も
知らない方も一見の価値あり。
 
この紫電改は
昭和53年11月に、久良湾に沈んでいるのが発見され
翌年引き揚げ作業が
行われました。館内にはこの機体の搭乗員だったと
推測される第343海軍航空隊(剣)、
六名についての展示があります。

 

紫電改の沈む久良湾

▲紫電改が沈んでいた久良湾です。
南レク宇和海展望タワーより撮影。 
 
※碇義朗著『紫電改の六機』によれば、着水時の状況、
座席の位置などから考えて小柄な、米田伸也上飛曹か、とくに可能性の高いのは
武藤金義少尉と推測されているが、確定的な証拠が無いかぎり、
状況推測だけで断定することは避けねばならないと記されている。
 
※また、当該機体を「撃墜した」と証言する元米海軍戦闘機搭乗員
アプルゲート(アップルゲート)氏の主張であるが、
紫電改で戦った戦友たちによれば

「武藤少尉がまともに空中戦を行って、負けるはずがない」
「もし、落とされたとするなら、流れ弾か機体トラブルによるものであろう」
との見解もある。
 
「紫電改展示館」見学は無料。紫電改を見学できるのは、日本ではここだけ。
紫電改関連グッズを豊富に取りそろえた土産物店があります。
 

第343海軍航空隊

▲松山基地を再現したジオラマです。
なお、松山空港周辺には343空の使った掩体壕が残っており
そちらも見てきました。第343海軍航空隊航空基地跡
 

 

▲紫電改展示館の屋外にはこのような遊具もあり
尾翼には343と刻まれています。それにしてもF-4に似ている。
 

▲これは見なかったことに・・・。

紫電改
 
愛南町も素晴らしい目玉があるのですから、もっと町おこしに利用すれば
よいと思います。 まずは熟練ガイドの養成は必須。
 

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アクセス
紫電改記念館(南レク内)
住所:愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1  馬瀬山頂公園内
 

関連記事
空母信濃に着艦した艦上戦闘機「紫電改」
 


零戦雷電震電

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烈風(改)紫電改

2013年9月29日 (日)

高知航空隊の掩体壕

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海軍高知航空隊が使った掩体壕が多く残されています。

 
※掩体壕(えんたいごう)
飛行機を敵の爆撃から守るためのコンクリート建物。
盛り上げた土にコンクリートを直接流し込んで作った。
模型は松山の第343海軍航空隊のもの。

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▲大型掩体壕

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掩体壕は現在の高知竜馬空港周辺に点在しています。

第343海軍航空隊(剣)松山航空基地跡

第343海軍航空隊(二代目・剣)の基地は愛媛県の松山市にあり
拠点を鹿児島の鹿屋、国分、長崎の大村に置いた。
松山基地は現在の松山空港である。

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▲松山空港
 

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▲掩体壕
 
掩体壕(飛行機を爆撃から守るコンクリートの建物)
ご主人の許可を頂いて写真を撮らせてもらった。
掩体壕が車庫として利用されている。
現在は、住宅地やコンビニとなっているが
当時はこの辺りまで飛行場の一部だったことがわかる。
 
紫電改や彩雲が格納されたのだろうか。
 

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▲掩体壕
 
こちらは納屋として利用されている。
コンクリートの建物、しかも掩体壕ともなれば相当頑丈であるので
解体は容易ではない。

そういえば、以前、桜花の発射基地跡
訪ねたときも、コンクリートのカタパルトの土台はそのまま残されていた。
※桜花の基地を建設する際、軍に土地を接収され、戦後は返還されたものの
土地の境界線が有耶無耶になり、コンクリートの解体作業を自治体へ要請するも
資金を出し渋っているそうだ)
 

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こちらも掩体壕。分厚いコンクリートと
飛行機を収納していた形がはっきりわかる。
 

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250kg爆弾を模した敷島隊の碑

初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」五名の慰霊碑が
隊長の関行男大尉の出身地である、伊予西条市の楢本神社にある。
 
この衝撃的な慰霊碑は、五名がゼロ戦に抱いて飛び立った
250キログラムの爆弾そのまま模している。

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左側は戦艦「大和」の砲弾、右は「三笠」 
 
なお、境内には神風特攻隊記念館もある。
入場は300円。
 
私は以前、敷島隊の五機を整備した元整備兵の方に
お話を聞いたことがある。あわせて谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹の
回想も少し書いた。
 
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

伊予西条に慰霊碑があると聞いたので、以前から訪ねたいと
思っていたのが、ようやく、お参りができた。
 
関さんは、軍神として、またこのような形で顕彰され
関さん自身、それが嬉しいことなのかどうか、私には
知る術もないけれど、今日の日本のために命を奉げたことには
心から感謝します。
 
楢本神社
住所:愛媛県西条市大町1138
 
国道11号線から住宅街へほど500メートル入ったところにある。
慰霊碑と鳥居の前が駐車場。
隣が緑色の外装をした畳屋さん。

2013年9月28日 (土)

敵機に体当たりした「彩雲」 ~三魂之塔

四国カルスト天狗高原より夕日を望む

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経緯

昭和20年3月19日 午前7時45分頃
第343海軍航空隊の三人乗り偵察機「彩雲」が 飛行中、
エンジントラブルから敵機に捕捉される。
 
離脱は不可能と判断した彩雲は、この上空で敵編隊に突入、体当たりを
敢行したものである。 搭乗員は機長、高田満少尉、操縦、遠藤稔上飛曹、
電信、影浦博上飛曹の三名で 全員が戦死。四散した機体の破片は三つの
峰に散らばったが 遺体は墜落する様子を目撃していた住民によって収容された。
 
現在も「彩雲」の主脚、片方が残されている。
「三魂之塔」と刻まれた慰霊碑であるが
その経緯などは一切記されていない為 、偶然訪れた者は、
何の慰霊碑かわからないだろう。
 
場所
高知県高岡郡津野町芳生野、
四国カルスト天狗高原、天狗荘から県道48号線を
およそ5.5km下ったヘアピンカーブの内側にある。
狭く急勾配の道の途中にあるので 訪れる際は注意が必要。
 
探していたらすっかり暗くなってしまった。
 

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2013年8月22日 (木)

粒針 靖弘(上飛曹)海軍パイロットベース

粒針 靖弘 上飛曹
(のち菅原靖弘)
 
甲飛8期
 
20歳で第261海軍航空隊所属 零式戦闘機搭乗員。
昭和19年、4/18サイパン邀撃戦、4/22大宮島(グアム)へ空中転進の後
4/23大宮島上空邀撃戦に参加、5/27サイパン空中転進
 
あ号作戦に参加。最後はサイパン上空で敵陣へ落下傘降下。
捕えられるも、261空で生還した数少ない搭乗員の一人。
 
戦後、航空自衛隊ジェット戦闘機パイロットを経て
民間機フェリーパイロットとして世界各国を飛び回りYS-11を操縦。
アフリカの大統領機の機長も務めた。

2013年7月30日 (火)

紫電改と信濃

◆大和の姉妹艦にして
帝国海軍最後の超巨大空母「信濃」

 
先のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅したと思われたが
帝国海軍は不滅であった。
 
昭和19年11月11日、 東京湾に突然現れた超巨大航空母艦、
その名を「信濃」といった。 戦艦大和、武蔵に続き、三番艦として計画、
起工したはずの信濃は 戦局の変化に伴い、横須賀の海軍工廠で
造船過程の途中 航空母艦へ改造された、当時としては世界最大の
超大型空母である。何せ、土台が「大和」そのものであるから
その巨大さは計り知れない。
 
この頃になると国家総力戦を極め、信濃建造の裏側にも、軍需工場で
信濃の部品製造に働く 「女子挺身隊」と呼ばれた女学生の存在と犠牲が
あったことを忘れてはならない。

信濃に着艦した紫電改

艦上戦闘機「紫電改」
11月11、12日
完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。
その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが
「艦上戦闘機紫電改(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、のちの航
空自衛隊 ジェット戦闘機パイロットとなる人である。 同期には
南太平洋の韋駄天、重松康弘大尉がいる。
 
紫電改着艦テストの11日には、零戦や天山などの従来機の着艦テストが
終了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、とにかく、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
 
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
 
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
 
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
 
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
 
紫電改、信濃に着艦 「ゼロ戦よりやさしいと思った」
山本の紫電改ははじめにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行ったのち
いよいよ本番、
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
 
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である」
 
「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって
三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」
 
「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。
零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
 
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。
しかし信濃艦長
阿部大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を
出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
 
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
 
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
 
◆虎の子「流星」、「彩雲」
信濃には、この紫電改のほか、最新鋭の「流星」、「彩雲」が搭載される予定で
いずれも同日、信濃に着艦テストを完了している。

◆桜花とともに轟沈 
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
 
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月24日 (水)

岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

関連記事
岩本徹三の戦後その2

赤松貞明中尉の戦後

岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース 



出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月22日 (月)

ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年7月21日 (日)

神龍特別攻撃隊~晴嵐のパナマ運河攻撃

このひとつ前の記事で
第一御楯隊の零戦が国籍マークのみを残して
真っ黒に塗られたことを書きました。それで思い出したことがありました。
  
国籍マークを書き換えて米軍の星のマークに塗り替えた例がありました。
アメリカのマークをつけた飛行機で出撃するとは、
搭乗員の悔しさは堪えがたいものだったでしょう。少し紹介します。
 
 (第一御楯隊の場合は真っ黒に塗りつぶしたとはいえ国籍マークを
きちんと残しているので合法です)

Scan0053 
◆昭和20年7月、パナマ運河攻撃を意図して出撃した
潜水空母「伊400」搭載の特殊攻撃機「晴嵐」搭乗員
高橋一雄さんの手記が光人社から出ています。
『神龍特別攻撃隊~潜水空母搭載「晴嵐」搭乗員の手記』
この本は戦記ものの中でも屈指で、おすすめです。
 
潜水艦の中の生活、たとえば潜水艦の中ではネズミが棲みついていて
皆に親しまれ、ネズミがいることは非常に縁起がいいんだとか
(何故か?本の中に書いてあります)
なんといっても偵察機搭乗員としての、細かい描写は
実にに貴重かつ珍しいものです。
 
この手記の最後のほう、いよいよパナマ運河攻撃に際しての記述ですが
一部を引用します。以下引用。
 
「第六艦隊司令長官醍醐忠重中将の指示により諸君に金
三百円を渡す。明日より四日間、軍港内で特別休暇を許可するから
充分に鋭気を養ってくるように」
 
と、達せられた。当時私が少尉の本俸で、月百二十二円だから
三百円は相当な金額である。搭乗員一同で相談の結果、この世の別れだ
盛大に使ってしまおうと、衆議一決した。
 
7月17日、四日間の軍港内休暇が終って艦に帰ると、
格納筒から晴嵐を引き出し、日の丸を消して米軍と同じ
星のマークに描きかえている。誰の命令だと聞いても誰も知らない。
誰かの入れ知恵を司令が許可したのだろうが、これは国際法に違反するし
卑怯なやり方だ。敵戦闘機には絶対つかまらないと確信している
私は馬鹿らしく、情けない限り
 
しかし一少尉の私が上級者の決めたことに反論できず、
私の乗る一番機のプロペラスピンナーに、大きなハートに
一本の矢が突き刺さる絵を描き「一殺必中」と文字を付けて
それとなく反抗の意をしめした。
 
引用おわり
 
結果的にパナマ運河へ辿り着く前に終戦を迎えるのですが
このような逸話もあったのですね。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島摺鉢山山頂に
「第一御楯隊」ならびに「第二御楯隊」の慰霊碑がある。
御楯(みたて)とは天皇陛下の盾、すなわち祖国の盾という意味である。
 
第一御楯隊は昭和19年11月27日に、
第二御楯隊は昭和20年2月21日に
出撃、大戦果をあげ散華した。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑

 
第一御楯隊

第一御楯隊は第252海軍航空隊戦斗317の零式戦闘機12機
をもってサイパン島のアスリート飛行場に集結するB-29を
強襲、生還を前提とした攻撃隊であった。機体は識別用の国籍マーク
を除いて黒に塗られた。
 
この勇猛果敢な攻撃によりB-29炎上4、大破6の戦果をあげた。
強襲後はパガン島へ不時着、潜水艦で救出される作戦であったが
結果的に全機が失われた。
  
※なお、岩本徹三が第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと後に回想している。
 
零戦隊とは別に、戦果確認用に「彩雲」2機が、前日の26日には
先発隊として
海軍中攻機、海軍少尉搭乗の陸軍機、百式司偵が
出撃している。
このため、第一御楯隊の碑の左側面には
「陸軍重爆隊」右側面には「海軍中攻隊」と刻まれている。
彩雲一機は帰還した。
 
なお、山頂の慰霊碑とは別に
第一御楯隊が硫黄島からの出撃前夜に過ごしたトーチカが
自衛隊基地内に現在も残されている。
Photo

▲黒一色に塗られた第一御楯隊の零戦
 
第一御楯隊で散華した搭乗員は次の通り。

第一御楯隊
零戦11機、昭和19年11月27日
サイパン・アスリート飛行場強襲において散華

◆大村 謙次 中尉(静岡)
海兵72期・大正11年生・22歳

◆小野 康徳 飛曹長(香川)
甲飛3期・大正10年生・23歳

◆北川 磯高 上飛曹(福井)
甲飛13期・大正12年生・21歳

◆住田 広行 一飛曹(大阪)
甲飛11期・大正13年生・20歳

◆東 進 一飛曹(滋賀)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆加藤 正人 一飛曹(山形)
甲飛11期・大正11年生・22歳

◆司城 三成 二飛曹(大分)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆新堀 清次 飛長(東京)
特乙1期

◆上田 祐次 飛長(神奈川)
特乙1期

◆高橋 輝美 飛長(香川)
特乙1期・昭和2年生・17歳

◆明城 哲 飛長(京都)
特乙1期・大正15年生・18歳
 
第二御楯隊
 
第二御楯隊は昭和20年2月21日、第601海軍航空隊
天山、彗星、爆戦(爆装零戦)をもって編成された特別攻撃隊で
香取基地を出撃、八丈島で燃料補給後、硫黄島東南東海上の
米機動部隊に体当たり攻撃を敢行。航空母艦二隻に大損害を与えた。
搭乗員は次の通り。 

 
第二御楯隊
天山6機、彗星11機、爆戦6機、昭和20年2月21日
硫黄島周辺にて散華

◆村川 弘 大尉(新潟)
海兵70期・大正10年生・23歳

◆飯島 晃 中尉(長野)
海兵72期

◆桜庭 正雄 中尉(広島)
海兵72期・大正12年生・21歳

◆茨木 速 中尉(高知)
高等無線技術13期・大正12年生・21歳

◆佐川 保男 少尉(香川)
香川技13期・大正14年生・19歳

◆木下 茂 少尉(大阪)
関西大学13期・大正12年生・21歳

◆中村 吉太郎 少尉(石川)
中央大学13期・大正12年生・21歳

◆原田 嘉太男 飛曹長(鳥取)
甲飛2期・大正8年生・25歳

◆小島 三良 上飛曹(東京)
乙飛14期・大正12年生・21歳

◆石塚 元彦 上飛曹(山形)
甲飛9期・大正13年生・20歳

◆小石 政雄 上飛曹(神奈川)
甲飛9期・大正14年生・19歳

◆村井 明夫 上飛曹(大分)
甲飛9期

◆志村 雄作 上飛曹(山梨)
乙飛15期・大正13年生・20歳

◆岩田 俊雄 上飛曹(福井)
乙飛13期・大正13年生・20歳

◆青木 孝充 上飛曹(千葉)
丙飛10期・大正9年生・24歳

◆牧 光廣 上飛曹(広島)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆小松 武 上飛曹(高知)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆中村 伊十郎 上飛曹(千葉)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆窪田 高市 上飛曹(山梨)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小林 喜男 上飛曹(山形)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆幸松 政則 上飛曹(大分)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小山 照夫 上飛曹(香川)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆戸倉 勝二 上飛曹(三重)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆下村 千代吉 上飛曹(鹿児島)
乙飛16期

◆森川 博 一飛曹(京都)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆三宅 重男 一飛曹(岡山)
甲飛11期

◆池田 芳一 一飛曹(和歌山)
丙飛10期・大正10年生・23歳

◆大久保 勲 一飛曹(茨城)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆田中 武夫 一飛曹(滋賀)
丙飛10期・大正11年生・22歳

◆原田 章雄 一飛曹(熊本)
丙飛17期・大正11年生・22歳

◆稗田 一幸 一飛曹(福岡)
丙飛13期・大正13年生・20歳

◆鈴木 辰蔵 一飛曹(東京)
乙飛17期・大正14年生・19歳

◆伊藤 正一 一飛曹(宮崎)
乙飛17期・大正12年生・21歳

◆清水 邦夫 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆叶 之人 二飛曹(北海道)
甲飛12期・昭和2年生・17歳

◆信太 廣蔵 二飛曹(秋田)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆川島 茂 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正15年生・18歳

◆竹中 友男 二飛曹(兵庫)
乙飛16期・昭和2年生・17歳

◆長 与走 二飛曹(福岡)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆小山 良知 二飛曹(長野)
乙飛18期・昭和3年生・16歳

◆北爪 円三 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正11年生・22歳

◆和田 時次 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆岡田 金三 二飛曹(広島)
丙飛15期・大正10年生・23歳

◆水畑 辰雄 二飛曹(兵庫)
丙飛15期・大正13年生・20歳

◆川崎 直 飛長(宮崎)
特乙1期・大正14年生・19歳

 

 

2013年6月28日 (金)

パラオ大空襲

パラオ大空襲
1944年(昭和19年)3月30日-31日
 
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パラオ大空襲は昭和19年3月30日から31にかけた
米機動部隊大編隊による大空襲。この空襲により
コロール市街地、パラオ軍港、艦船は甚大な被害を受け
また迎撃した海軍航空機と多くの搭乗員を失った。
 
一日目は合計十一波攻撃
のべ456機の艦載機が来襲、二日目は150機以上がコロールを銃爆撃し
街は焦土と化した。この邀撃戦により日本海軍戦闘機隊は敢闘するも
多くの航空機と搭乗員を失った。 なお、空襲前日、連合艦隊旗艦で
虎の子「武蔵」を含め艦船はパラオ港外へ退避し
司令長官の古賀峯一も空襲の合間を縫って飛行艇でダバオへ逃れることとなる。
(途中、低気圧に巻き込まれ行方不明となった)
 
パラオでは戦跡としてこのパラオ大空襲の傷跡を見ることができる。
 
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▲パラオ本島、アルモノグイの丘陵地帯に眠る零式戦闘機。
3月31日、パラオ大空襲邀撃戦において被弾不時着した
第261海軍航空隊所属の吉田久光機と判明した。

 
戦闘概要
 
■米機動部隊が攻めてくる
 
昭和19年2月、トラックを空襲により無力化された
日本海軍と連合艦隊司令部はパラオに拠点を後退させた。
3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る米機動部隊西進の報せがあり
東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには「数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を
三隊となって西進中」という報せがもたらされた。
 
3月28日早朝、南雲中部太平洋方面艦隊は「カロリン方面第一警戒配備」を下令。
増援部隊の要請を行い、各地航空戦力をペリリューに集結させた。
 
■連合艦隊司令部のコロール上陸
「武蔵」を逃がせ!空襲前夜
 
29日
10時46分、ペリリュー発進の索敵機より
パラオ南東380浬に米機動部隊の西進が確認された。
 
このとき連合艦隊旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他、附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港コロール泊地に投錨中であった。
古賀大将は「明朝、空襲の公算大なり」と布告、14時、武蔵を降り、
連合艦隊司令部を コロールに上陸させ指揮をとることとなる。
 
一方、虎の子の「武蔵」は大急ぎでパラオ港外へ逃れる。
パラオ港外へは狭い西水道を通過しなければならず、巨大な武蔵が
座礁せずに退避できたのは、まさに神業であった。無事、外洋に出た武蔵で
あったが、待ち構えていた米潜水艦の雷撃により、小破。
損傷は軽微であり、速力を落とさず内地へ帰還する。
 
■敵艦隊への先制攻撃失敗 
 
30日黎明(れいめい)
ペリリューの海軍航空部隊は陸攻機を用いて
米機動部隊に黎明(明け方)攻撃をかけるべく準備したが
午前3時00分、第761海軍航空隊の一、二番機が過重により離陸に失敗。
椰子林に突っ込んで炎上してしまった。
 
それどころか、先にやってきたのは米軍機だった。 テニアンから増援された
陸攻機も12機が銃撃を受け炎上、 順次発進を準備していた艦爆隊も
この奇襲により発進できずに終わった。
 
■敵大編隊!空襲警報発令
戦闘機隊、邀撃発進
 
5時30分、基地見張りから空襲警報発令。
これを受け、第201海軍航空隊のゼロ戦20機、第501海軍航空隊から
戦闘機5機を含む12機が邀撃に発進。 空襲の合間を縫って第121海軍航空隊(雉)
1機ほかが索敵に発進し、ペリリュー沖合の米機動部隊を発見した。
 
■米大編隊11波攻撃
456機による大空襲
 
米機動部隊の艦載機は第11次攻撃まで実施し朝6時から夕方まで、のべ
456機でパラオを襲った。 201空のゼロ戦は、邀撃した20機中、自爆未帰還9機、
大破9機、不時着2機と 消耗は甚大であった。501空は12機内、自爆未帰還が5機、
炎上7機 九九艦爆9機が焼失した。
 
※空戦戦没者後記載
 
そのほか在ペリリューおよびマリアナの陸攻隊は
機動部隊に対し強襲を仕掛けるが米記録によれば戦果はなかった。 (後述)
  
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005_1_2 
▲ロックアイランドに沈む零式戦闘機(水深3メートル) 素潜りで撮影
(搭乗員名不明)  

 
■マリアナの戦闘機隊へ増援要請
 
30日午前、空襲の報せを受け、サイパン、アスリート飛行場展開中の
第261海軍航空隊(虎指宿正信大尉指揮 ゼロ戦32機と、グアム展開の
第263海軍航空隊(豹) 重松康弘大尉指揮 ゼロ戦25機 が合流し
パラオへ向け発進した。
 
なお、この際、敵艦隊に一矢を報いるべく
第523海軍航空隊の彗星強襲隊を12機を伴ったが
263空の戦闘機隊がグアム離陸の遅れにより(後述) 彗星隊とバラバラとなり、
同隊は護衛なくグラマン戦闘機の奇襲を受け 9機が未帰還となり、ペリリュー
到着したのは3機のみであった。
 
261空と263空の連合零戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、
さらに1機は ヤップに不時着(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明)
両隊はこの日は敵と遭遇せず、19時、ペリリュー基地へ到着した。
なお、着陸時爆弾孔により8機が破損した。
 
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▲現在のペリリュー飛行場。かつては東洋一の航空基地であり
多くの海軍機が離発着した。
 

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▲ペリリュー飛行場脇のタロイモ畑に残る零式戦闘機

■翌31日も度重なる大空襲
邀撃戦闘機隊の敢闘
 
6時20分頃、空襲警報が発令され
前日到着していた261空のゼロ戦28機、263空のゼロ戦15機が邀撃に発進した。
 
グラマン150機以上が来襲。
14時頃、艦載機の空襲は終わり 261空はグラマンF6Fを18機(うち不確実3機)を
撃墜したが未帰還20機、 重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機
(未帰還機を含め28機)の損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが
未帰還15機、炎上2機、大破1機の損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
※空戦戦没者後記載
 
この空襲により、コロール市街地および パラオ港湾施設、艦船、陸上部隊、航空隊は
甚大な損害を受けた。 (後述)
 
■飛行艇で逃げる長官
 
31日
19時、まだ空襲の炎が揺れる中、 大型飛行艇2機がアラカベサン飛行艇基地
着水した。 古賀長官と幕僚および連合艦隊司令部ダバオへ逃がすため
準備された機体である。
 
同機はサイパンから急遽派遣されたの第802海軍航空隊所属の
二式大艇であった。※また、ダバオに待機中の第851海軍航空隊所属の
二式大艇1機もパラオへ向け離水準備を行っていた。

21時30分、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。
二式大艇の機長は燃料補給を強く要請したが、参謀二人が

「その必要は無い。出発急げ」

と譲らなかったため、大急ぎで 離水準備が行われた。
21時35分、一番機に古賀長官、二番機に福留参謀長ら幕僚を乗せた
二式大艇はパラオ・アラカベサン水上基地を離陸した。
 
これが「海軍乙事件」である。二機はダバオへの飛行中、低気圧に
巻き込まれる。 古賀長官座乗の一番機は行方不明、
福留参謀長座乗の二番機は不時着水し 参謀長は命を繋いだものの、
フィリピンに上陸後、現地ゲリラに捕えられ 機密文書を奪われる運命となった。
 
福留参謀長の救出と機密文書の奪え返すため フィリピンの
陸軍一個大隊が動員される。福留は救出され戦後まで生きのびたが
最後までこの事件について語ることはなかった。
なお、古賀長官座乗の一番機は発見できず、のちに殉職とされた。
 
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▲アラカベサン島に残る飛行艇基地跡のスロープ。飛行艇を
「スベリ」と呼ばれる斜面へ陸揚げし、整備した。当時は屋根付き格納庫があった。
 
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▲米戦闘機の銃撃により沈んだ、第30根拠地隊附所属の零式三座水上偵察機と
天然の洞窟格納庫
(ハンガーケーブ)  カヤックツアーで見学可能
 
■海軍航空隊戦没者
 
■第201海軍航空隊(戦斗305飛行隊)
3/30、パラオ大空襲邀撃、20機出撃内9機未帰還
戦死者
 
林茂生中尉(海兵70),山下小四郎少尉(操17),鈴木新一上飛曹(操45)
國廣治雄上飛曹(甲6) 加藤定信一飛曹(甲8),深川隆義一飛曹(甲8)
和田正男一飛曹(甲8),服部一夫飛兵長(丙10) ほか一名
 
第261海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、28機出撃内20機未帰還
戦死者
 
岡佐古昌人中尉(海兵70),渋谷正雄少尉(学生11),二本森憲二上飛曹(操45)
大塚明一飛曹(甲8),井竜憲一二飛曹(乙15),古賀他四郎一飛曹(乙11)
高坂三郎一飛曹(甲8),林茂一飛曹(操55)児島猛二飛曹(丙11)
岩田増雄二飛曹(乙15),閏野護二飛曹(甲8),貝原良兼上飛兵(特丙11)
吉田久光上飛兵(丙11)
 
安否不明者
藤川史雄二飛曹,長谷登太郎飛長,中山正次二飛曹,杠勇男飛長,大谷敏男二飛曹
中尾隆美飛長,岡田盛樹飛長,紀田四郎二飛曹,興津健市飛長
 
第263海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
戦死者
 
武藤陳彦大尉(海兵70),島田義人予備少尉(学生11),西本彰吉上飛曹(乙10)
栗田勝司上飛曹(甲6),菊池武一飛曹長(甲1),長瀬正郎飛曹長(甲1)
芳野定俊一飛曹( ) 田渕武夫一飛曹(甲8),植田正治二飛曹(乙15)
矢鍋幸男上飛兵( ),小野敏春上飛兵(特丙11) 横池武治上飛兵(丙12)
下瀬卓上飛兵(丙12),神田秀雄上飛兵(丙12),進藤勝治上飛兵(丙12)
以上
 
■第501海軍航空隊(戦斗351飛行隊)
戦死者
 
山口友次郎大尉(海兵69),ほか四名
 
以下戦闘詳細
1944年(昭和19年)3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る
米機動部隊西進の報せがあり 東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を三隊となって
西進中という報せがもたらされた。 28日早朝、中部太平洋方面艦隊は
「カロリン方面第一警戒配備」を下令。 翌朝からのパラオ、メレヨン方面に対する空襲を
予測し、トラック、メレヨンを 基地とする索敵攻撃を指示するとともにマリアナ所在
航空兵力(陸攻)のペリリュー 増援を措置した。 当時、当該方面の海軍航空隊は
東カロリンおよそ180機 西カロリン(ペリリュー)約60機。 水上部隊は連合艦隊
旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港に停泊中であった。
 
■3月29日 空襲前日
【1046】頃、ペリリュー発進の索敵機よりパラオ南東380浬に米機動部隊の
西進が確認された。 連合艦隊は29日までの敵情により「機動部隊の攻撃は
30日に開始されるであろう」と判断したが 本攻撃が単なる機動空襲であるのか、
本格的攻略戦であるのか、判断は明らかでなかった。 連合艦隊は14時頃、司令部を
コロール陸上に移して作戦指揮をとるとともに 「武蔵」以下全艦隊を港外に退避させ、
また南西方面航空部隊および シンガポール方面の第三艦隊飛行機隊の比島、
西武ニューギニア方面集中準備を命じた。 パラオの第二十六航空戦隊は
29日米機動部隊に対し第一撃(薄暮攻撃)を加えた。
 
■3月30日
大空襲当日
【0300】 ペリリューより 761空、陸攻隊(接触3機、雷撃8機)過重により発進失敗。
1,2番機、椰子林に突入炎上、黎明攻撃出来ず。その他陸攻隊も発進前敵機動部隊の
奇襲を受け、艦爆隊の攻撃も 実施不可能となり、戦闘機は邀撃戦闘に転換。
26航戦の在ペリリュー兵力は46機を失った。 テニアンから増援の陸攻全機(12機)も
銃撃を受け炎上。
【0530】 基地見張りから警報 201空ゼロ戦20機、501空からは戦斗351飛行隊の
ゼロ戦5機含む 12機が発進、邀撃したが、逐次消耗。 この間、121空の艦偵1機、
751陸攻2機が索敵に発進。 (陸攻は0525)艦偵は0540敵機動部隊
「ペリリューノ210度40浬」と報告。 751空陸攻地上炎上5機 陸攻撃1機は発進後被弾、
ダバオに待避、他の一機は消息不明となる。
【0600-1730】 敵機動部隊による空襲 11次にわたり、のべ456機が来襲。
201空ゼロ戦、邀撃の20機中、自爆未帰還9機、大破9機、不時着2機 全機消耗。
戦果はF6Fを15機撃墜(内不確実3)TBF2機撃墜であった。 501空は12機内、
自爆未帰還5機、炎上7機、九九艦爆9機が焼失。 戦果は4機撃墜(内不確実2)であった。
【0910】テニアンより艦偵2機が索敵発進。
【0930】アスリートより261空32機(指宿隊)が発進 523空彗星隊12機が発進、グアムへ。
【1050】 261空、ゼロ戦隊グアムに到着(着陸時2機破損)直ちに燃料補給を行いこの間、
彗星は1時間待ち合わせた後、1220戦闘機隊の離陸を認め 進撃を開始。261戦闘機
30機、263戦闘機25機(重松隊)は1330集合。 遅れた理由は滑走路工事中のところへ
陸攻が突っ込み どけるのに時間を要した為。 彗星隊とは一時間の差があり、戦闘機隊
との合流はできなかった。 彗星隊は索敵中ペリリューの170度120浬においてグラマンの
奇襲をうけ 3機自爆、6機不時着未帰還、ペリリューに到着したのは3機で内1機は
着陸時破損、もう1機は漏洩燃料に着火焼失し、1機のみが残った。261空と263空の
ゼロ戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、さらに1機は ヤップに不時着
(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明) 索敵を実施したが会敵せず、
1900ペリリューに到着、着陸時爆弾孔により8機が破損 稼働機は全部で44機となった。
先行した艦偵は1801三群の米機動部隊発見を報告。 1機のみペリリュー到着。
もう一機は未帰還と推測される。 761空、陸攻隊の2機(1130)および横空の6機
(1215)がテニアンを発進。 内1機はエンジン不調となりペリリューへ向かったが
同地が炎上中のため ダバオへ不時着、他の一機は1925ペリリューの120度
125浬で雷撃、巡洋艦に命中 のちペリリューに帰着した。 755空の陸攻隊8機が
(接触2、雷撃6)が1230グアム発進。 1720、接触機が「空母2、戦艦2ソノ他十数隻
ヨリ成ル大部隊ヲ発見」と報じ 更に1850「空母ヲ含ム敵部隊見ユ」と報告したが二機
とも消息不明となった。 雷撃隊はペリリューの135度90浬の米機動部隊を1735発見
1835から単機ごとに 攻撃実施。巡洋艦一隻轟沈、戦艦一隻に魚雷一本命中、
その他一隻を炎上させたものと 認められたが、指揮官機以下3機未帰還となり、
3機がペリリュー、メレヨンに帰着した。 ※米記録によれば戦果なし
横空陸攻8機は1845米機動部隊を発見。1900攻撃開始。 大型船一隻炎上、
他の一隻に相当の損害を与えたものと認められたが 指揮官機が未帰還となり、
他はペリリューへ帰着した。 30日夜、ペリリューには別に横空陸攻10機、
523空彗星2機、121空艦偵1機が到着していた。
 
■3月31日
索敵機逐次発進
【0545】 761空、索敵機逐次発進。
【0550】空母を含む部隊をペリリューの61度100浬に発見した報告があったが
このとき攻撃兵力は523空の彗星1機のみで攻撃実施できなかった。
【0920】 第二索敵機は「ヤップ空襲ヲ受ク」と報じる。 第四索敵隊は
1000ヤップの150度80浬進行方向北の 米機動部隊を報告したが、第六索敵機
とともに未帰還となった。
【1220】および【1443】 761空陸攻2機は接触の為テニアンを発進。一直接触機は
1730 「ヤップノ205度163浬ニ於イテ空母ヲ基幹トスル大部隊進行方向西一八節」と報
【1320】および【1415】 横空陸攻は(接触2機、雷撃6機)テニアンを発進。
敵を発見せず4月1日 0040までにテニアンに帰着した(1機は未帰還) 一方、
グアムを基地とする755空も夜間攻撃を企図、一機が「1855空母ヲ含ム 敵部隊見ユ
空母2隻其ノ他ヤップヨリ20度160浬進行方向西」と報告
【1810】グアムを発進した755空(K701)接触機は「2110機動部隊ヲエウ島
(ウルシーの東8浬)ノ 320度145浬ニ発見」と打電、更に「敵ノ西ニ吊光照明弾ヲ
投下ス」と発信したがその後 消息を絶った。このほかに755空(K706)の雷撃隊も
攻撃に至らず引き返したものと 推定されたが一機は未帰還となった。 前日攻撃終了後
ペリリューに着陸した陸攻6機は (横空5機、761空1機)は未明テニアンに向け
出発したが 横空陸攻1機は敵戦闘機と交戦、自爆、その他2機は小破しテニアンに帰還した
 
■空襲、戦闘隊の邀撃
【0620】頃、空襲警報が発令され、前日到着していた 261空の甲戦28機および
263空の甲戦18機は邀撃に発進。 邀撃戦闘の状況は資料なく判然としないが
おおむね午前中には消耗したものと思われる。 この間、501空の彗星4機および
751空の陸攻4機がダバオからペリリューへ進出したが 彗星1機は着陸時破損、
1機は焼失した。
【1440】頃、艦載機の空襲はおわり 261空はF6Fを18機(うち不確実3)を撃墜
したが未帰還20機、重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機 (未帰還機を含め28機)の
損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが未帰還15、炎上2機、大破1機の
損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
■空襲終了後の被害状況
第30根拠地隊戦闘概報によると 施設焼失73棟、倒壊7棟、半壊20棟、一部焼失1棟、
計101棟
 
人員被害、附属艦艇、地上部隊総計、
戦死70名、重症65名、軽傷93名、行方不明18名、計246名
 
艦船沈没18隻(77,144総トン)、座礁3隻(6,832総トン)
その他兵器弾薬食糧等焼失,西水道およびパラオ港内に機雷投下
 
参考 海軍乙事件(吉村昭) 出典 戦史叢書13巻中部太平洋陸軍作戦、P78-80
戦史叢書マリアナ沖海戦 P203-209 戦闘機隊戦没者名は、日本海軍戦闘機隊
改訂増補版、海軍戦闘機隊史 (零戦搭乗員会編)防衛省戦史室所蔵各
戦闘機隊戦闘行動調書より作成。

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
Imgp4976_2

 
昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

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第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

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2013年6月20日 (木)

浜松広報館の零戦と尾崎伸也大尉

Dsc02567
 

航空自衛隊浜松広報館に零戦五二型(43-188号機)が展示されている。

この機体の歴史をさかのぼると、昭和38年、グアム島で発見され
日本へ返還輸送、復元されたものだ。
 
誰が乗っていたのだろうか?
展示機の説明書きにはこれといった記載が無い。
ただ書物によると、尾崎伸也(大尉)の搭乗機と推測される。
尾崎大尉は水上戦闘機出身の零戦搭乗員で
 
昭和19年5月25日、343空は、ビアク作戦発動とともにパラオ(ペリリュー基地)へ進出、
6月6日にはアイライ基地(現在のパラオ国際空港)へ拠点を移した。
 
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、敵戦闘機2機と交戦となり
1機を撃墜、もう一機に追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させたが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
それがこの機体だ。多くの観光客が訪れるが、かつて太平洋の空を席巻し
護国に命を奉げた尾崎大尉をはじめ、大空のサムライに思いを馳せる者は少ない。
 
Dsc02600
 
▲復元前、グアム島で発見された尾崎機 
 
この際なので
航空自衛隊浜松広報館(エアパーク)について触れておく。浜松は航空自衛隊発足の地で
航空自衛隊浜松広報館は、航空自衛隊に理解を深めてもらうための施設であり
巨大な格納庫には、歴代の多くの機体が展示されている。
飛行機好きにはよだれもののパークだ。
 
Dsc02614 Dsc02610
 
老若男女、入場無料だ。
 
※民主党による2010年度の予算編成で、目の敵にされ、約一年間
入場料をとっていたが、ふたたび無料化が実現した。現在は無料である。
 
エントランス前には、退役した初代ブルーインパルスF-86Fが迎える。
 
Dsc02573 Dsc02559
 
Dsc02554 Dsc02553
 
国産ステルス戦闘機の「心神」と政府専用機の椅子。
あまり知られていないが、政府専用機は航空自衛隊直轄の機体である。
 
この写真を友人に見せたところ 
「ふ~ん、なんかあほらしい」とコメントしていた。
でも、訪れる観光客は総理大臣の椅子に座って、みな満足そうな様子である。
確かに座り心地は良い。 
 
Dsc02580
 
三菱F-2戦闘機のプロトタイプであるXF-2。
 
Dsc02587_2
 
三菱F-1戦闘機。
 
Dsc02594_2
 
建物の隣は航空自衛隊浜松基地で、広大な滑走路を望む。
戦闘機の離着陸が見られる。なお、3階にある図書膣の資料は膨大で時間を忘れる。
 
20177135_1813290685_107large 20177135_1813290677_194large
 
なんといってもここの特徴は、実際の戦闘機のコクピットに座れるという点。
操縦桿を動かしたり、ラダーペダルを踏んだりできる。
F-1やブルーインパルスのT-2などにも搭乗できる。
 
本物の戦闘機に座れるのは日本ではここだけ!
おみやげショップも完備し、飛行機好きなら絶対に損はさせない
すばらしい施設である。

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2013年6月18日 (火)

海軍パイロットデータベース

尾崎伸也(大尉) 水上戦闘機出身。零戦戦搭乗員

343空飛行隊長。完成直後のアイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
へ移動しパラオ諸島全体の防空任務にあたる。
※昭和38年にグアムで発見され、浜松広報館に展示中の零戦(43-188号機)は
この尾崎大尉の機体と推測される。 
 
板谷 茂(少佐)戦闘機搭乗員
海兵57期。真珠湾攻撃では第一波制空隊総指揮官。
昭和19年6月、第51航空戦隊、第203海軍航空隊で北海道各地の基地
を渡り千島列島の警備にあたる。
7月24日、飛行中事故死。
 
岩城芳雄 (一飛曹)空母翔鶴航空隊戦闘機隊
甲種予科練2期。真珠湾制空隊。
ミッドウェイ海戦ではプロペラと翼タンクに13mm三発被弾も
小攻4(内共同2)、大攻3(内共同2)を撃墜。
赤城を失ったのち、空母飛龍に着艦。
昭和17年8月24日
翔鶴戦闘機隊(指揮官新郷英城大尉)
14小隊、分隊長、指宿正信大尉
2番機として母艦翔鶴の直掩にあたり交戦
自爆戦死
 

江馬友一(飛曹長)ベテランゼロ戦搭乗員。

最後は敵編隊第四波を休みなしで迎え撃って帰らなかった。
操練22期。第254海軍航空隊ほか
 
羽生十一郎 (三等飛行兵曹)
操練43期、零式戦闘機搭乗員
昭和16年12月、真珠湾攻撃に於いて赤城制空隊として出撃。
ポートダーウィン爆撃制空隊、コロンボ制空に参加。
ミッドウェー海戦。4時20分、第三直掩隊として発艦。
交戦後、行方不明。同日付戦死と認定。
 
長嶺公元(大尉)海兵68期、彗星偵察員。
千早少佐とともに強行偵察の功労者。
第121海軍航空隊(通称雉)第一分隊長ほか
 
永元俊幸(大尉)海兵69期、彗星操縦員。
零戦隊を率いてマリアナ沖へ出撃。未帰還。平成12年
第121海軍航空隊(通称雉)第二分隊長ほか
ペリリュー派遣隊
 
新郷英城(中佐)-のち航空自衛隊空将
海兵59期、ゼロ戦搭乗員-のち航空自衛隊ジャット戦闘機パイロット。航空自衛隊トップ
空母翔鶴飛行隊長として活躍。ヘンダーソン飛行場攻撃で
被弾不時着。一命をとりとめる。
戦後は航空自衛隊に入隊。ジェット戦闘機パイロット。
空将-航空総隊司令部幕僚長。

2013年6月17日 (月)

海軍航空隊一覧

Photo_3
パラオのペリリュー、ガドブス、アイライ各飛行場から出撃した航空隊史および
ペリリュー島で玉砕した海軍部隊を記載
■偵察隊

第121海軍航空隊(雉)

■水上飛行機隊

第30根拠地隊附飛行隊

 
■戦闘機隊
第201海軍航空隊

第265海軍航空隊(雷/狼)
第321海軍航空隊
 
■艦爆・艦攻隊
第513海軍航空隊
第521海軍航空隊(千歳空)
第523海軍航空隊(美幌空)
 
■陸攻隊
第732海軍航空隊
第751海軍航空隊
第752海軍航空隊
第761海軍航空隊(龍)
 
■飛行艇(派遣隊 第11、12偵察隊)
第851海軍航空隊
 
海軍陸戦隊
特設第33、35、38機関砲隊
第3通信隊(一部)
西カロリン航空隊ペリリュー本隊
第3隧道隊
第21魚雷調整班
第30建設部(一部)
第30工作部(一部)
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第214設営隊
南西方面海軍空技廠(一部)
 
順次更新