2016年11月24日 (木)

中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い

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今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
 

◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
  
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。
戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
 
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
 
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
 
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
 
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
 
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして
実戦には上げてもらえなかった。
 
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
 
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
 
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
 
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
 
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。
そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
 
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
 
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
 
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
 
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と
呼ばれるようになりましたが、
 
その川西航空機で紫電改という
一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。
だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、
お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。

従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。
全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
 
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
  
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)

 
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
 
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
 
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
 
◆零戦52型丙、B-29との戦い
 
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
 
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
 
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては
敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
 
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。
相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
 
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。

 
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
 
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
 
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか

  
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
 
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。
映像というのはリングですね。
 
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
 
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
 
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、
最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、
わかるようになります。
 
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
 
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
 
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
 
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で
怖さはあんまりなかったですなあ。

篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね

 
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。

篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか

この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
 
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
 
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
 
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。

落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
 
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
 
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
 
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
 
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると
地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
  
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
 
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
 
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
 
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。
何もなくて帰ってくると。
 
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
 
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
  
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
 
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
 
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
 
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
 
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
 
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、
そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
 
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。
真正面がよく見えない
という感じがするからね。
あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
 
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
 
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。
そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。
我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
 
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
 
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
 
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事は
ありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
 
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。
非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
  
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
 
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
 
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
 
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
 
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、
これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
 
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
 
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。

篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
 
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
 
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
 
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
 
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
 
篠原
雷電の印象は如何ですか
 
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、
ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。
操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルを
もらったんですがね。
 
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
 
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
 
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
 
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
 
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
 
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
 
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
 
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。

 
◆8月16日の特攻隊編成
 
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
 
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
 
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、

「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
 
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
 
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
 
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と
高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
 
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
 
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
 
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら
予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
 
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
 
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。
だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
 
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
 
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから
40機の特攻隊を編成したわけです。
 
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、
整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから
諦めんでいい。後に続いて来い」
 
そう言ってなだめたんですけどね。
それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
 
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
 
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが
「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、
それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
 
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
 
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
 
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
 
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
 
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
 
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
 
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
 
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
 
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
 
何の憂慮もありませんでした。
 
つづく
 
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し
対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
  
  
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

Photo_3

零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年9月 1日 (木)

紫電改パイロットのお孫さんにお目にかかる

Imgp1108

  
大阪で第343海軍航空隊の搭乗員のお孫さんにお会いしてきました。

おじいさんは紫電改のパイロットで、中尉さんだったそうです。
ご本人は十数年前に亡くなっているのですが、このお孫さん(三十代)は
小さいころから、おじいちゃんに戦争の話をよく聞かせてもらったそうで、
実に細かいところまで覚えてくださっていて
大変興味深く聞かせて頂きました。
 
特に特攻直掩の話は、
「直掩隊で引き返すとき、特攻機のコクピットを直視できなかった」
など、感極まるものがあり、
よくぞ、覚えていてくれた!という印象であります。
※特攻直掩は343以前の航空隊かもしれません
 
上官にも嫌われるのを覚悟で積極的具申を行い、
たいへん部下に慕われたそうです。
終戦直後には自決しようとする部下を必死で制止し
「若い自分たちが日本を立て直すんだ」ということを真剣に解かれたそうです。
 
こうした話が若い世代に伝わっていくことを期待しています。
その他にも、軍隊ならではの笑い話なども多くありました。
パイロットといっても様々で、
おじいさんはざっくばらんな方だったようです。
 
本当は機体に撃墜マークを描きたかったが、紫電改が共有機だったのと
海軍の慣例に基づいて、控えていた・・・などなど、
たくさんのお話を伺ってきました。
 
またお会いして続きを伺いたいと思います。

2016年8月28日 (日)

笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊

紫電改

篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
 
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
 
Q、一番大きいのは馬力ですか。

A、そうですねえ。全然違いますね。
 
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
 

紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
 
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
 
A 
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。

紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。

Q、紫電改はよかったですか
 

ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
 
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
 
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
 
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
 
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
 
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
 

そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
 
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
 

紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
 
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
  
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
 

あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
 
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
 
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
 
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
 

一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
 
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
 
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
 
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
 
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
 
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
 
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
 
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
 
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
 
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
 
「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
 

そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
 
Q、真っ先に見つけるんですね

A 
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
 
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
 
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
 

そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
 
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
  
特攻についてのお話し
 
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
 

うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
 
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
 
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
 
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
 
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
 
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
 
Q、参謀というのは
 
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
 
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
 
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
 

そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
 
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
 
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
 
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
 
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
 
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
 
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
 
 
~笠井さん、戦友に会いに行く~ 
 

だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
 
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
 
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
 
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
 
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」

私は必ず言いますけれどね。
 
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
343海軍航空隊 全パイロッデータベース

笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊

篠原Q、第263海軍航空隊(豹部隊)についてお伺いします。
 
A、笠井智一さん
あの頃はペリリューにおりました。
ペリリューは割合大きな飛行場だったんですよ。
それが随分空襲で叩かれるようになって戦死者も増えました。
これではいかんというのでガドブスへ移動したんですよね。
 
Q、263(フタロクサン・通称豹部隊)では
笠井さんと、杉田さん、他にはどなたが 生き残りましたか。
 

日光安治上飛曹(甲飛10期・のち343紫電改部隊へ)
井上武二飛曹(東京)、久留米出身で 263の先任搭乗員しとった、
一木利之さんていう方、 ほとんどおりませんね。※1
 
Q、263(豹部隊)は甲飛の10期が多いですね。
 

そうです。263空には大方40名足らず甲飛の10期が居りました。
それはね、昭和18年の11月20日に徳島での延長教育が終わって、
203空へ転勤したんですけどね 徳島で延長教育をやっとる中で
甲飛10期は300人ぐらいおったんですよ。
そん中でね、第一級選抜が37、8人で一番最初に卒業ということになって、
その一番最初に卒業した奴が263空へ配属になったんですよ。
だから集合写真でも写真見たら誰かだいたいわかりますよ。
 
Q、263の同期の方は同じ年の方が多いのですか。
おおむね17歳くらいですよね。
 

そうです。だいたいね、一番古い奴が大正13年生まれ、
一番多かったのが大正14年生まれで、私たちは15年生まれ ですから。
しかし、あの時分は年齢なんか全然関係なかったですからね。
 
Q、分隊長の輪島由雄中尉はかなり古い方ですよね。
 

ああ、これはもう、そらあんた操練の18期かなあ。
 
Q、34歳ですね。
 

そうそうそうそう。輪島中尉、 あら、もう実直な大人しい人でね、
この人は支那事変から乗っとるからね。 もう一人、生き残った人で
松山出身の 磯崎千利さんという人が、30歳位やったですよ。
この人は輪島さんより二期後輩で。 戦後、病気で亡くなられたんですよね。
 
Q、輪島中尉もベテランですけれど戦死されましたね。
 

そうやなあ。 あれがあんた、2月22日かな。輪島中尉が戦死したのが。
 
Qテニアンの邀撃戦で、輪島中尉を含む11機が未帰還です。
 

そうそう。テニアンの邀撃戦。
あのとき充分に戦闘態勢を整えていとったらそんなに負けへん。
ところが着陸寸前に襲われたとか。 戦闘態勢が全然悪かったからね。
それで亡くなった。

輪島中尉はね、機銃無しで敵を2、3機落とした。
敵機を追いかけて。(激突させて)そういう話も残っとるんですよ。
そんな話を知った人はおらんでしょうなあ。
 
Q、3月31日にパラオ大空襲があって随分損害が出ましたけれど
 

そのときは私はグアムにおった。 そして私達も戦闘に
参加さしてくれと、言うて 玉井司令にお願いに行ったんだけども
お前たちはまだグラマンと空中戦出来る技量やない、と。
お前たちがそんなところへ空戦に行ったら片っ端からみな落とされてしまう。
もっと訓練して、そいでやれと。 いうことで戦闘に参加させてもらえなかった。
 
ほいで3月31日にペリリューで263空の基幹搭乗員や古い連中が
殆ど戦死したから、これからは10期のお前たちが空戦できるか
どうかわからんけれども空戦に参加せい、言われてペリリューへ送られた。
 
Q共同した第261海軍航空隊(虎)第343海軍航空隊(隼)
ついてお聞きします
  

その時分に中部太平洋の主戦力は普通の戦闘機隊で、
261空と263空と265空と三飛行隊あって、
そいで、局地戦闘機隊で343空と、341空と二つの航空隊があった。
 
戦闘機隊は頭文字が2なんですよね。 それで局地戦闘機隊が3なんですよね。
だから343ですからね、紫電の局地戦闘機隊だったんですよね。
343(隼)で甲の10期。だから、徳島を、二次、三次に卒業した奴が
343(隼)の搭乗員でね。 僕らは263ですからレイセンね。※2
 
それからあとは艦爆隊が4、艦攻隊が5でしたかな。 中攻隊が7でしたかな。
そいから水上機は9で。 こういう航空隊番号でみな、仕分けされとったんですよね。
 
昭和19年の3月22日にサイパンとテニアンが敵の機動部隊に
木端微塵にやられてですよ、 261(虎部隊)がサイパンに基地で、
私たちはグアムが基地でね。 サイパンからグアムまでレイセンで
40分ぐらい飛んだんでしょうかね。 普段の訓練なんかは一緒に
なりませんけれども、しかし 総合訓練でね、サイパンの虎と
グアムの263(豹)と、 一緒になって訓練した経験はあるんですよ。
 
あの時分はね、まだそんなに切羽詰った戦争の感じは
無かったと思うんですが、そのとき空襲に来よって 私の同期で、
九州出身で初代の343空の隼部隊の隊員がおったんですが
あれがペリリューで司令のとこへ行って
「司令、レイセンに爆弾をワイヤーで固定してくれ」と。
「わしはそれで敵の船へ体当たりへ行くから」言うた奴が居りましてね、
それが特攻のはじまりになったみたいなんやな。
 
Q、関大尉の前ですか
 

うん、関大尉のずっと前。
 
Q、行ったんですか
 
いや、その時は司令が許可せなんだな。
しかし最後はフィリピンで特攻で死にました。
 
あの人はもう死んだかなあ261でね、甲の8期で なんちゅうひとやったか。
サイパンで敵が上陸したときにね まだ日本の兵隊がおると思って
不時着して 生き残ったのがおるんですよ。
 
Q,粒針さんですか。戦後は航空自衛隊で その後民間機で。


そうそう。粒針さん。 甲の8期だとぼくらより2つぐらい年上ですわ。
2つ3つ上ですわ。261の生き残りですね。
 
Q、その後、201空へ統合されますね。


玉井浅一さんいう人が居りましてね、
その時期にはもう第一航空艦隊(一航艦)の各飛行隊は消耗して
飛行隊としての機能が出来なくなった。 それでぜんぶ解散して201空に
統合されたんです。
 
あれは昭和19年の6月頃でしたかな。皆201空に統合されて、
そいで311(サンヒトヒト)飛行隊と301(サンマルイチ)飛行隊と
305と306と、こんだけの飛行隊ができましてね。 しかし内地から
補給に来る人も居りましたが、もう顔も知らんし 同期生か、
そんなんもう全然わからん人も居りましたけどね。 私はそこで306飛行隊に
編入されたんですよ。
 
Q、異例なエピソードがあったとか


あの時分に搭乗員はみな、丸刈りじゃないといかんかったですよ。
それが、201空では、搭乗員は不時着したときに毛があったほうが
怪我せんから 頭伸ばしてもええぞーと。お達しが出ましてね。
そんなお達しの出た部隊はおそらく他に無かったと思います。
 
Q、それは下士官でもですか?


そうそう。下士官でも。それがね、変な話やけども、
そんな油(整髪料)も何も無いわけですよ。無いから
飛行機用の機械に使う油を。あれをガーって頭にかけてね(笑)
 
Q,指宿兄弟のエピソードを教えてください
19年の11月にフィリピンから内地に帰って横須賀へ降りたときに、
指宿正信少佐(兄)と、 もうひとり古い人が二人で出迎えてくれてね
指宿さんが、「おお、お前263か」 「そうです」いうたら
「おー、よう帰ってきたなあ」いうてね。
 
そして、弟の指宿成信さんが少尉で甲の2期でしたかな。
343空で戦闘301でしたな。
 
Q、指宿成信少尉(弟)は生き残って戦後は?
 

病死されたよね。昭和25、6年じゃないでしょうかね。
だから兄貴の指宿少佐よりも先に死んじゃって。
 
Q、お兄さんは昭和32年に殉職されましたね。
 

わたしはあの時に新聞記事見て、びっくりしたんですよ。
あの指宿大尉が事故で亡くなった?とね。その新聞記事がどっかに
残っとるはずなんですがね。 F86Fで亡くなったんでしたな。
編隊飛行中に空中接触で亡くなられたいう話は聞いとるんです。
私は航空自衛隊で殉職された先輩たちの記録を 皆もっとるんです。
誰が、いついつ、どこで亡くなったいうね。
甲飛の10期のよく知った奴が築城かどっかでね。
これも事故で殉職したんですよ。
 
Q、航空自衛隊創設時のお話を聞かせてください。
 

航空自衛隊のジェット戦闘機の部隊ができるというときに
源田実さんから、私に電話がかかってきたんですよ。
「お前、来い」と。いうて。
そいで、よっしゃ、いったろ、とは思っとったんだけれども
願書を送ったら、私が試験を受ける資格が無かった。
その当時は、戦時中に準士官以上。それか大学出以上でなければ
受験資格はないという事やったんで。 それで私は源田さんにすぐに
「私は受験の資格がないから受験しませんと」伝えたら
「えー、そうか」いうて、源田さん驚いていたけどな。
 
それから二年後ぐらいに、予科練出でも航空自衛隊の
ジェット戦闘機の部隊に行けると決まりが変わりましてね。
 
(2)へ続く
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
※1、杉田庄一、日光安治は343空で戦死。
※2、笠井氏は零戦を一貫して「レイセン」と称した。

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年3月22日 (火)

第三四三海軍航空隊(彩雲隊)杉野さんのお話

元三四三海軍航空隊第四飛行隊(奇兵隊)で彩雲に
乗っていた杉野さんにお話を伺った。
 
杉野富也さんは福岡県三池郡出身。
予科練乙種の18期(土浦海軍航空隊)出身で
第343海軍航空隊偵察第四飛行隊(奇兵隊)へ配属。
「彩雲」に搭乗し電信員を務めた。邀撃戦でエンジン不調、引き返す。
その後ペアが爆撃で負傷の為、鹿屋で待機中終戦を迎える。
戦後は海上自衛隊で飛行艇搭乗員と教官を務める。
 
Q、彩雲は誉エンジンですが
 
A、杉野氏
あいつはよくなかったですねー。
 
Q、故障が多いということですか。
 
A、杉野氏
ええ。
 
Q、予科練では乙の18期ですね。
 
予科練(乙18期)では適性検査といって
敵性を見るために四回操縦桿を握らせるんです。
それを土浦海軍航空隊で、水上機でやりました。
 
Q、同期の話をお伺いします。
 
A、杉野氏
乙18期の同期は実戦に出てきたのが昭和20年の4月頃ですからね。
同期でも偵察は半年したらもう実戦部隊に出てますからね。
訓練はナビゲーションとトンツーが出来ればいいんですから。
だから昭和19年10月11日に私らは実戦部隊に出て
私は教育部隊の班長になったんですけどね。
 
中島という同期が当時、百里原で九九艦爆の教官をやっていました。
片一方は同期でも練習生ですよ。同じ同期でも一方は教員で、
もう一方は練習生。バッターくらって、それが終わってようやく出てきたら
特攻で死んでるんですよ。随分違いがあるんですよ。
だから彼らは本当に可哀相だったですね。
 
横浜出身の同期は姫路航空隊を出て串良から九七艦攻で特攻行ったんです。
そいつがね、大きな爆弾を積んで離陸するとき先任搭乗員に
離陸の仕方を教えてもらって離陸したようなんですよ。
ようやく飛べる状態ですよ。先任搭乗員から「離陸はスピードがつくまで
操縦桿を押さえて引くな」というようなことを教えてもらったそうですよ。
 
愛知県小牧出身の土屋関男、これも同期ですが
松山の基地から出て行ったのが5月13日。
沖縄の偵察に行って帰ってこんかったですね。
あいつはまだ18くらいじゃなかったかな。子供みたいな顔しとったですよ。
 
◆零式練戦の特攻機を見送る
 
松山の基地で、実際に私がチョーク外して見送った零戦の練習機がありました。
4月の5日か6日かな。城山の桜が満開の頃に、4機編隊の
零式練戦が茨城の矢田部から松山へ飛んできたんですよ。これが同期の
藪田博二飛曹(大阪)と黒野義一二飛曹(兵庫)と吉永光雄二飛曹(鹿児島)と
川端三千夫二飛曹(和歌山)でした。※1
この四人の写真が護国神社の
神楽殿にあるんですよ。背の小さいのが藪田です。
四人で編隊組んで降りてきたんで私は
「おーいお前ら、基地移動訓練か」って聞いたんです。そしたら
「いや、今から鹿屋に行って特攻だ」と。
 
土地の名前がついている航空隊は練習航空隊なんですよ、
番号が実施部隊。だから矢田部で訓練終わったばかりで出て来てるんです。
それも零戦の練習機で。あいつらは・・・いつ死んだんかな。
 
◆同期の神雷部隊を見送る
島雄順次郎という一番仲の良かった奴が居るんですよ。
予科練と飛行練習生の半年と、レーダー講習の2ヶ月と
全部で1年半近くも私と同じ班で、一緒に飯食ったんです。
こいつが、予科練で体操のナンバーワンだった。
それが高知の練習航空隊で転勤命令受けてね、急いで出て行こうと
してたんですよ。私は
「島雄、ちょっと待て待て、とにかく慌てて出て行く必要ないよ。
夕方まで待てよ。俺外出して後免の駅まで送るから下宿で待ってて」
と言って止めたんです。後免の駅で2月1日手を握って別れるとき
 
「島雄、今度は俺が転勤しそうな感じがする。お互い長生きしようぜ。死ぬなよ」
って言って別れたんです。奴はそれからちょうど50日目の3月21日、
鹿屋から神雷特攻で死んだんです。一式陸攻の野中五郎さん。
あのときの神雷特攻で同期が9名戦死してるんですよ。
 
私は5月22日に鹿屋に行きましたからね。
ペアが爆弾で吹っ飛ばされて鼓膜破ってしまって
6月の初めから7月7日までフライトなしでしたから
航空弁当持って戦闘指揮所に居ました。
 
夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて、滑走路をいっぱいいーっぱい使ってね
上がっていくんですよ。ウワンウワンウワンウワンって(抑揚の大きな音)
本当にフルパワーでね。もういっぱいいっぱいで。ようやく離陸していくんです。
零戦が爆弾抱いて上がっていくのも見ましたけど、桜花抱いた一式陸攻は
可哀相だったですね。
 
◆鹿屋で同期の白菊特攻を見送る
それから白菊特攻で出ていった同期を
手握って鹿屋の基地で送ってやったんですよ。
白菊なんて本当に可哀相だったですよ。機上作業練習機で。
 
有賀康男一飛曹は岐阜(長野かも?)の奴でした。
これは優秀だったんですよ。偵11の同級生が「俺は小学校のとき
勉強から何から全て有賀に勝てなかったよ」って言ってました。
 
6月19日の夕方に戦闘指揮所に居りましたら
迷彩してある白菊が次々飛んできて降りるんですよ。
双眼鏡でパッと見たら高知のマークがついてるじゃないですか。
 
「わー高知の練習白菊隊が来た」ってその場ほったらかして走っ
て行って降りてきた白菊を途中で止めてねそしたら同期の奴が乗っとった。
熊本の杉村ちゅうのが。「乗っていいか?」って聞いたら「乗っていい」という
からドア開けたら500キロのマグロみたいな爆弾が座席の横にワイヤーで
くくってあったですよ。「信管抜いてあるから大丈夫」というんで
それに乗って待機所まで行ったんですよ。

そしたら「おおい、杉」と呼ぶので見たら有賀だったんですよ。再会です。
そこに基地の分隊士で教官だったミサワさんが来て
「杉、お前、何乗っとるか」というから「彩雲です」といったら
「おお、いい飛行機に乗っとるなあ」と喜んでくれてね。
 
有賀からは
「自分らは白菊で特攻に行くんだ」と聞いて
「こんなオンボロで?」と思いました。白菊はプロペラは桜の木で
出来てるって聞きました。翼はハンプで、帆かき船の帆。
あれに塗装してあるだけですよ。乗ったらボコボコ。胴体はベニア張り。
それに500キロ爆弾。翼にはぶら下げてなかったですね。
翼に250キロずつぶら下げたら翼がもたんかたんじゃないですかね。
だから、胴体の座席の横に500キロを積んだんだと思います。
 
翌朝、奴は「杉、先に行って待ってるぜ」って言って出て行ったですね。
これだけは忘れませんね。
 
有賀は、「ワレ突入ス」まで打ったんです。
駆逐艦か何かにぶちあたったんだそうです。
ミサワさんが米軍のラジオを傍受していて命中したのを
確認してるんですよ。奴は指揮官機だったから無線機を積んでいた。
 
それ以前の5月24日か25日に高知か徳島の白菊が、串良から特攻に
出てるんですけど(5月22日に、高知は鹿屋に、徳島は串良に)
私ら彩雲は同じ日に鹿屋に行ったけど待機所や時間が違うから全然
知らんかったですよ。あとで特攻に行ったのを聞きましたですけどね。
その時、飛び上がって1時間ぐらいしてからですね、生電、いわゆる
暗号に切り替えてない電報で
「お父さんお母さんさようなら」とか「お姉さんあとを頼む」
「〇〇さんお世話になりました」とか「みなさんによろしく」とかね、
1時間くらい生電が飛んだんだそうですよ。そのうちに
ヒ連送、ヒ連送というのは「ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」とかですね。
そういう暗号なんですよ。それでピタっと止まった。
この話はミサワさんの白菊特攻に書いてあります。
 
それから電信機はみんな降ろされて。だけど
有賀の奴は指揮官機だったから積んでいたんですよ。
でもね、本当に哀れですよ。
 
私は今でも毎年、高知の慰霊碑にはお参りに行きますけどね。
今年は有賀が出て行った6月20日に行きました。
もう私一人になりましたね、お参りに行くのは。
島雄と有賀の話は中学校でも小学校でも愛媛大学でも(講演会で)
どこへ行っても話すんですよ。
 
◆その他

Q、戦後海上自衛隊では飛行機乗られたんですか。

A、杉野氏 
ええ。PVに乗って、それから大村に行ってJRFグースゆうて
飛行艇ですね。それからPBYカタリナ、UF2、そこまで乗って地上勤務に
なりました。大村で地上の教官過程ができたんですよ。
トレーナー使って計器飛行の指導とか簡単なシミュレーターですね。
フードかぶって。そいつで計器飛行のやり方をしとったですね。
実際に教官配置でしたのは13年半ぐらいでした。
岩国に1年、宇都宮に行って、宇都宮3年。それから小月(山口県)に
行って9年。ここは海上自衛隊の練習航空隊があります。
最後は三佐にしてもらって、飛行隊長の下に飛行班長と飛行教育班長と
地上教育班長といて、私は地上教育を受け持ってました。
 
最後は下関におりましたが、計器飛行をやっていて
「これは敵性無しだから落とせよ」っていう防衛大出の人がいたんです。
危なかった。でもやめないからフライトの教官に、やめさせたほうがいいよって
言ったんです。結局、それが岩国の飛行艇で高知の檮原に激突して
11名全員殉職です。それが昭和53年の事故だったかな。
昭和53年のついの頃です。やっぱりついの頃には航空事故が多いんですよ。
視界不良でね。
 
それから覚えてるのが、山田さんっていう甲の1期の人やったけど
あの人がなんで死んだか不思議なんです。とても慎重な人でしたから。
海上自衛隊で最後は二佐だったかな。旧海軍時代は「東海」という
対潜、潜水艦用の急降下爆撃機に乗っていたみたいです。

木更津か豊橋の基地だったか。その前は、水上機だった。
戦争生き残って、海上自衛隊生き残って(定年退官)
その後、民間航空に行って、鈴鹿山脈のどこかに突っ込んだ。
事故の原因がわからなかったんですが、おおむね黙って死ぬのは
山だということです。海の上だったら何とか電波を出します。
だけど突然山に衝突したら電波出す間もないから、黙って死んだときは
だいたい山を捜せばいいよってことですね。
慎重な人だったから本当に不思議です。

  
 
※1
藪田二飛曹、川端二飛曹、吉永二飛曹は昭和20年4月29日
鹿屋より出撃戦死。黒野二飛曹は同年5月11日出撃戦死。

2016年2月 5日 (金)

紫電改と第343海軍航空隊覚え書き

紫電改
 
この頁では主に紫電改の機体そのものと
部隊の運用について記していきます。模型製作等の
参考にしてください。搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 
◆紫電改の塗装

紫電改の塗装(カラーリング)は当時の日本海軍機の標準に従い、
機体上面と側面は艶のある暗緑色で塗装されていた。海軍さんから
「塗装はこういう風にやんなさいよ」
と、メーカー側に一応に
指示はあるのだが
川西航空機、三菱、中島などで、それぞれ
違いが見られるのが興味深い。
 
関連記事
ゼロ戦の塗装はこちら
 
紫電改を製造した川西航空機の暗緑色は
やや青みが強いのが特徴だ。
機体下面は機種と尾部以外は地肌のままの無塗装で尾翼下の部分だけ
灰色、
またはアルミ色に塗装されていた。無塗装は大戦後期から末期に
見られる塗装で、
生産を急ぐため、費用と時間を省くためだったと
伝わる。
 
◆紫電改の日の丸の描き方
紫電改の日の丸(マーキング)は胴体と両翼に描かれた。
胴体の日の丸は直径85センチ。白フチがあり、白縁の幅は
75ミリであった。
戦闘301整備科分隊士亀田金夫少尉の
回想によると、
白い縁は日の丸の赤が鮮明に見え過ぎるので
消せという指示が出たことがあるという。
一方、主翼上面の日の丸は直径110センチで
下面は直径1メートル。いずれも白縁は無い。※1
いずれにしても塗装や日の丸のマーキング、カラーリングは
機体によって差があり
一様ではないことを断っておく。
 
◆尾翼の機番号と専用機について
垂直尾翼に描かれた機番号について記す。
第343海軍航空隊では各飛行隊を区別するため尾翼にA、B、Cの
三種類の番号をマーキングした。
Aは戦闘301、Bは戦闘407、Cは戦闘701を意味する。 
専用機は原則、飛行隊長と分隊長のみで
それ以外の搭乗員は出撃の都度、あてがわれた飛行機に搭乗した。
鴛淵孝大尉の例を見てみよう。鷲淵大尉は白二本帯の飛行機を
使うことが多かった。戦闘701整備科では鷲淵大尉が出来る限り、
この専用機に搭乗できるよう整備努力した。
戦闘301の佐藤精一郎上飛曹は
「出撃のたびに飛行機が変わり同じ飛行機に乗ったことは一度もなかった」
と戦後回想する。※2
 
 
紫電改
 
◆機体の帯について
胴体の帯は飛行隊長機は二本、分隊長は一本が入っていた。
昭和20年3月19日の松山上空の大空戦以降
各飛行隊が同年4月10日以降、戦闘301飛行隊長
菅野直大尉の発案によって描かれたようである。
菅野直大尉の帯は黄色であり、これは
機体識別を容易にする目的のほか、菅野大尉は
 
「黄色を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ」
整備科先任分隊士加藤種男中尉(機関53期)に語ったという。※3
戦闘701と戦闘407では白であった
分隊長以外の搭乗員が例外的に帯入りの機体を使ったこともある。
昭和20年5月17日、戦闘407の石塚光夫少尉が
哨戒機掃討任務で戦闘407と戦闘701の12機を率いて出撃したときは
市村分隊長のB-25号機に搭乗している。石塚少尉はこの飛行隊の
指揮官であるし、
稼働機の不足により、必ずしも飛行機が
揃わなかったことから
許容されたこともあろう。
※4
 
また、分隊士の本田稔少尉は
「私の飛行機は決まっていて帯が入っていた」
と回想し、戦闘407では少し事例が異なっていた可能性がある。
※4
 
昨今までプラモデルのパッケージや塗装指示書に鷲淵大尉の機体は
「赤」とされている場合が多いが、赤帯は
誤りの可能性が高い。
現在では鷲淵大尉は最後まで「白」だったという説が最有力となっている。
赤帯はどの飛行隊にも存在せず目撃者も居ない。どの段階で
プラモデルのパッケージが赤帯になってしまったのか不可解である。
 
昭和20年7月24日の豊後水道上空の空戦で米空母
サンテンハシントVF-49戦闘飛行隊
のジャック・A・ギブソン中尉が
鷲淵大尉の白一本帯の
機体を目撃している。このとき鷲淵大尉は
C-13号機であったが、整備が間に合わず、、分隊長の一本帯の機体に
搭乗した可能性も考えられる。
※5
 
◆林喜重大尉機(B-30号機)の謎
林喜重大尉のB-30号機については不明確な点がある。
林大尉が昭和20年4月11日、最後の出撃でB-29を撃墜し
、阿久根折口に不時着戦死した際に搭乗したとされる
紫電改はB-30号機といわれているが、翌5月16日の
哨戒機邀撃編成表では戦闘407飛行隊の高木由男飛長が
同じ記番号の紫電改に搭乗している。
 通例であれば、飛行隊長と分隊長以外が
林の専用機である白い二本帯の機体を使う事はない。
出撃直前に機体不調等により急遽搭乗を変更する場合など
可能性があるが、真実はわからない。
 
◆日の丸の中の数字
戦闘301のみ、訓練の際、識別のため
石灰で描かれたというが真相は謎が多い。
菅野直大尉のA-15号機は鹿屋進出時に描かれたもので
最後の出撃となった空戦ではA-24号機に搭乗している。
いずれも黄色のニ本帯の機体である。
 
◆通信について
源田大佐が飛行機も通信機も良いものを全部持って行ってしまった
との避難もあるが、実際はどうなのか343空では機上無線電話の
改善に力を入れ
米軍の交信を傍受できるほど明度が向上していた。
従来の日本機の機上無線は雑音がひどく使い物にならない
といった報告が多かった。
重いだけで役に立たないからと
降ろしてしまっていた程だ。

この原因は通信機の性能の問題と言うより
エンジンのスパークプラグにシールド(鎧装)が施されて
いなかったため、空電が発生し
雑音のもとになったといわれる。
特に大戦後期の飛行機製造過程においては、無線はもとより
エンジンの電気系統のアース(絶縁)不良が著しく
紙で巻いただけの絶縁がはがれ、電線が短絡(ショート)し
トラブルになったケースが多々ある。343空ではアース(絶縁)から改良し
空対地、空対空ともに電話連絡が良好となった。
空中状態がよければ400キロ離れても交信できた。
 
無線は原則全ての紫電改に搭載したが
飛行隊長、各区体調のみが送信でき、列記は「受信」固定し
よほどの事がなければ
喋らない。
空中で互いに目視できる範囲であれば
極力手、指信号を使う。
 
通信は最も重要な戦法のひとつであるが戦闘中、
上下を問わず喋りまくる
米軍と大きく異なるところである。
 
加筆中。
 
搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 

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出典
※1『源田の剣』605頁より
※2同607-608頁より
※3渡辺洋二『重い飛行機雲』
※4『源田の剣』607-610頁
※5同609頁

2016年1月25日 (月)

第343海軍航空隊搭乗員データベース

紫電改
 
検索などで、ここへ辿り着いて欲しいと願い、紫電改の
第343海軍航空隊(剣)搭乗員データベースを作成しました。
記せる限りの搭乗員名を書き出しました。空欄は調査中です。
 
三四三空隊史をもとに
揃う限りの資料(記事の最後参照)を参考にしましたが
食い違いなどがある場合、新しい情報、実際の証言
総合的に信憑性が高いと判断されたほうを採用しています。
 

紫電改

 
第343海軍航空隊「紫電改」搭乗員一覧 
 
戦闘301飛行隊(新選組)[戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘301 菅野直 大尉 海兵70 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘301 井上伊三郎 中尉 予11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S19.3.19
戦闘301 橋本達敏 中尉 海兵72 鹿児島 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 武藤金義 少尉 操練32 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘301 中袴田哲郎 少尉 予13   紫電改空輸のため松山基地着陸時殉職 S19.12.29
戦闘301 指宿成信 少尉 甲2 大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘301 武谷繁 上飛曹   紫電改空輸中鳴尾にて殉職 S19.12.20
戦闘301 酒井哲郎 上飛曹 甲10   松山基地にて訓練中殉職 S19.12.27
戦闘301 飯田一 上飛曹 甲10   松山基地にて訓練中殉職 S20.1.1
戦闘301 日光安治 上飛曹 甲10 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S19.3.19
戦闘301 横島敏 上飛曹 乙16   松山基地にて訓練中殉職。 S20.4.10
戦闘301 青山芳雄 上飛曹 甲10 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 新里光一 上飛曹 甲10 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 杉田庄一 上飛曹 丙3 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。離陸中戦死 S20.4.15
戦闘301 起田厚 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着殉職 S20.5.4
戦闘301 桜井栄一郎 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘301 桐山輝雄 上飛曹 甲11 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘301 常石米保 上飛曹 乙17 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘301 佐藤精一郎 上飛曹 甲10   鹿児島上空P-51と戦闘負傷 S20.5.28
戦闘301 見上英司 上飛曹 甲11 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.2
戦闘301 富杉亘 上飛曹 丙7 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 加藤勝衛 上飛曹 甲9 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 米田伸也 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘301 須崎重雄 上飛曹 丙11 大村 敵大小機邀撃戦。九州上空戦死 S20.8.8
戦闘301 久保典義 一飛曹 丙11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘301 西村誠 一飛曹 甲11 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 大森修 一飛曹 甲11 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 三ツ石幹雄 一飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 浅間六郎 一飛曹 甲11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘301 清水俊信 一飛曹 丙11 国分 B-29邀撃。出水上空にて戦死 S20.4.21
戦闘301 森山作太郎 一飛曹 丙15 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘301 石川武 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 富田広利 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 〆本俊夫 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘301 宮沢豊美 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。戦死 S20.4.15
戦闘301 今井進 二飛曹 丙15 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24

  
戦闘407飛行隊(天誅組) [戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘407 林喜重 大尉 海兵69 国分 B-29邀撃戦。折口に不時着水。戦死 S20.4.21
戦闘407 林啓次郎 大尉 海兵70 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘407 嶋幸三 大尉 海兵71 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 服部敬七郎 大尉 機関52 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦傷 S20.8.8
戦闘407 大塩貞夫 大尉 海兵72 大村 敵機邀撃。佐世保上空付近にて戦死 S20.8.12
戦闘407 川端格 中尉 海兵72 大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘407 会津清吉 中尉 予13 大村 大村基地において試飛行中殉職 S20.7.30
戦闘407 石塚光夫 少尉 操練22 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 相沢忠義 飛曹長 乙16 松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.16
戦闘407 大原広司 飛曹長 操50   戦傷ののち八月城崎海軍病院にて戦傷死 S20.5.14
戦闘407 中島満夫 上飛曹 乙16 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 石田貞吾 上飛曹 丙6 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 田中勝義 上飛曹 丙3 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 山川市郎 上飛曹   大村 白菊にて飛行中事故により小倉付近不時着負傷 S20.5.4
戦闘407 大関常雄 上飛曹 丙6 大村 敵飛行艇邀撃。対馬南方付近にて戦死 S20.5.16
戦闘407 磯川質男 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘407 礎未男 上飛曹 乙16 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘407 石井正二郎 上飛曹   大村 九州南方空域において敵戦闘機と交戦。戦死。 S20.7.2
戦闘407 野間清爾 上飛曹 乙12 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.2
戦闘407 益本栄 上飛曹 甲10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 久多見政行 上飛曹 甲9 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 原田和彦 一飛曹 甲11 松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.8
戦闘407 狐塚守雄 一飛曹 甲11 松山 松山基地にて戦闘飛行訓練中殉職 S20.3.10
戦闘407 竹島治彦 一飛曹 甲11 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 四枝一男 一飛曹 甲11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 宮本清 一飛曹 乙15 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.3
戦闘407 成瀬一丸 一飛曹 丙15 大村 敵機邀撃。九州南空域にて戦死 S20.7.2
戦闘407 溝口憲心 一飛曹 乙15 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘407 信田時正 二飛曹   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 羽藤博之 二飛曹   出水 出水基地にて訓練中負傷 S20.1.5
戦闘407 浅井善二 二飛曹 特丙11 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 粕谷欣三 二飛曹 特乙1 大村 B-29邀撃。大分県上空にて戦死 S20.5.5
戦闘407 星野瑛 二飛曹 特乙1 大村 敵飛行艇邀撃。女島付近にて戦死 S20.5.17
戦闘407 西本宣之 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 久世龍郎 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘407 原利治 飛長     紫電空輸中兵庫県山中にて殉職 S20.2.19
戦闘407 斉木世一 飛長 特乙1 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 中谷美弘 飛長   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘407 松村育治 飛長   松山 松山基地において訓練中負傷 S20.3.28
戦闘407 西鶴園栄吉 飛長 特乙1 鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 小竹等 飛長   鹿屋 九州上空制空戦。喜界島上空にて戦死 S20.4.16
戦闘407 小間孫七 飛長   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4

  
戦闘701飛行隊(維新隊) [戦死傷者]
機種/紫電改

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘701 鷲渕孝 大尉 海兵68 大村 敵機邀撃戦。豊後水道上空にて戦死 S20.7.24
戦闘701 松崎国男 大尉 海兵71 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 木下一周 大尉 予備10 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 上島逞志 大尉 海兵72 大村 敵大型機邀撃。哨戒中B-24と交戦戦死。 S20.7.9
戦闘701 渡部幸博 中尉 海兵72 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 保井博久 中尉   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘701 岸本操 少尉   松山 松山基地にて訓練中負傷 S20.3.5
戦闘701 松場秋夫 少尉 操練26 松山 敵艦載機邀撃。空戦により負傷 S20.3.19
戦闘701 石川広 上飛曹   松山 松山基地にて戦闘訓練中殉職 S20.3.1
戦闘701 石川菊一 上飛曹   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 遠藤司郎 上飛曹 甲7 松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19
戦闘701 広留四郎 上飛曹 丙12 大村 敵飛行艇邀撃。女島付近にて戦死 S20.5.17
戦闘701 山田武夫 上飛曹 甲10 大村 艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘701 船越二郎 上飛曹 乙14 大村 敵艦載機邀撃。鹿屋上空戦死 S20.6.2
戦闘701 柳沢孝 上飛曹 甲9 大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘701 佐久間昂 上飛曹 甲10 大村 九州南方空域において敵戦闘機と交戦。戦死。 S20.7.2
戦闘701 高橋斌 上飛曹 甲11 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 豊原清志 上飛曹 丙12 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦死 S20.7.5
戦闘701 初島二郎 上飛曹 甲9 大村 艦載機邀撃戦闘。豊後水道上空戦死 S20.7.24
戦闘701 駒走俊雄 上飛曹   大村 大村基地にて試飛行中殉職 S20.7.31
戦闘701 吉岡資生 上飛曹 甲10 大村 敵戦爆連合邀撃戦。南西諸島上空戦死 S20.8.1
戦闘701 田浦与樹男 上飛曹 丙10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 横堀嘉衛門 上飛曹 甲10 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 村山力 一飛曹   松山 敵艦載機邀撃。空戦により負傷 S20.3.19
戦闘701 箕浦信光 一飛曹 丙15 大村 敵飛行艇邀撃。宇久島付近にて戦死 S20.5.15
戦闘701 土屋進 一飛曹   大村 南西諸島上空制圧。同島付近にて戦死 S20.6.22
戦闘701 吉田広義 二飛曹 丙15 鹿屋 敵艦載機邀撃戦。喜界島上空戦死 S20.4.12
戦闘701 藤木喜久男 二飛曹   大村 索敵制空任務中、喜界島上空で空戦。戦死 S20.5.4
戦闘701 森川勝 二飛曹   大村 敵艦載機邀撃戦。鹿屋上空にて戦死 S20.5.28
戦闘701 村元幸雄 二飛曹   大村 敵艦載機邀撃戦。都城上空にて戦死 S20.6.10
戦闘701 佐藤輝一 二飛曹 丙16 大村 P-51と交戦。西彼杵半島上空にて戦傷 S20.7.5
戦闘701 油田末治 二飛曹 特乙1 大村 敵機邀撃。九州上空にて戦死 S20.8.8
戦闘701 和木逸夫 飛長   松山 敵艦載機邀撃戦。瀬戸内海西部戦死 S20.3.19

 
偵察第4飛行隊(奇兵隊)[戦死者]
機種/彩雲

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
偵4 高田満 少尉 乙6   哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 遠藤稔 上飛曹 甲10   哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 景浦博 上飛曹     哨戒中敵大編隊に遭遇。敵機に体当たり戦死 S20.3.19
偵4 土居定美 一飛曹   松山 飛行訓練中殉職 S20.5.8

 
戦闘第401飛行隊(極天隊) [殉職者]
機種/紫電

所属 氏名 階級 期別 発進 概要 日付
戦闘401 村田義雄 少尉   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.15
戦闘401 山口米夫 飛曹長   松山 鳴尾へ要任務飛行中道後付近にて不時着殉職 S20.5.18
戦闘401 菊地暹 上飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.3
戦闘401 中根明雄 一飛曹   松山 松山基地にて飛行訓練中殉職 S20.6.8
戦闘401 吉川由夫 二飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.16
戦闘401 白浜勝 二飛曹   徳島 徳島基地にて飛行訓練中殉職 S20.4.27
戦闘401 吉田政雄 飛長   松山 松山基地にて飛行訓練中殉職 S20.3.25

 
戦闘301,401,407,701,偵4飛行隊 [生存者または安否不明者]

所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘301 松村正二 大尉 海兵71    
戦闘301 中西健造 中尉 海兵72    
戦闘301 磯崎千利   操練19    
戦闘301 沢田壮児 中尉 予13    
戦闘301 馬渕良作 中尉 予13    
戦闘301 田中弘 中尉 予13    
戦闘301 柴田正司 飛曹長 甲3    
戦闘301 笠井智一 上飛曹 甲10    
戦闘301 佐藤精一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 桜井栄一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 浜崎勇 上飛曹 甲10    
戦闘301 増田富雄 上飛曹 甲10    
戦闘301 宮本芳一 上飛曹 甲10    
戦闘301 村木一郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 田中安太郎 上飛曹 甲10    
戦闘301 田中昿 上飛曹 甲10    
戦闘301 亀井鉄心 上飛曹 甲10    
戦闘301 依田興一 上飛曹 甲11    
戦闘301 大坪通 上飛曹 甲12    
戦闘301 原田英次 上飛曹 甲12    
戦闘301 大西秋義   甲14    
戦闘301 堀光雄 飛曹長 乙10   戦後全日空機長
戦闘301 近藤福吉   乙12    
戦闘301 野口八郎   乙12    
戦闘301 西岡俐   乙12    
戦闘301 藤井実   乙16    
戦闘301 宮崎勇 飛曹長 丙2    
戦闘301 鹿野至 上飛曹 丙3    
戦闘301 駒場三郎 一飛曹 丙13    
戦闘301 沖本堅 一飛曹 丙14    
戦闘301 山田牧一 一飛曹 丙15    
戦闘301 吉原真人 一飛曹      
戦闘301 有馬潔      
戦闘301 半田正一      
戦闘301 吉田健一      
戦闘301 横山友一 上飛曹 丙12    
戦闘301 今村末治 飛長 特乙1    
戦闘301 伊沢秀雄 飛長 特乙1    
戦闘301 田村恒春 飛長 特乙1    
戦闘301 仲睦愛 飛長 特乙1    
戦闘301 姫井治 飛長 特乙1    
戦闘301 深山喜一 飛長 特乙1    
戦闘301 桜井和彦 飛長 特乙1    
戦闘301 中川外喜雄 飛長 特乙1    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘407 光本卓雄 大尉 海兵70    
戦闘407 市村五郎 大尉 海兵71    
戦闘407 速水経康 大尉 海兵71    
戦闘407 服部敬七郎   機関52    
戦闘407 成瀬二郎 中尉 予13    
戦闘407 山田肆郎 中尉 予13    
戦闘407 高牟礼春雄 中尉 予13    
戦闘407 沢田万吉   操練56    
戦闘407 島川正明   操練56    
戦闘407 本田稔 少尉 甲5    
戦闘407 篠田英悟   甲8    
戦闘407 高橋弘 上飛曹 甲10    
戦闘407 伊奈重瀬 上飛曹 甲10    
戦闘407 森正 上飛曹 甲10    
戦闘407 中尾秀夫 上飛曹 甲10    
戦闘407 中野敏 上飛曹 甲11    
戦闘407 松井秀雄 上飛曹 甲11    
戦闘407 平山成徳 上飛曹 甲11    
戦闘407 久保久市 上飛曹 甲11    
戦闘407 山本富夫 上飛曹 甲11    
戦闘407 田中利男 上飛曹 乙11    
戦闘407 下鶴美幸 上飛曹 丙2    
戦闘407 小高登貫   丙10    
戦闘407 石井正臣   丙12    
戦闘407 青柳茂 一飛曹 丙15    
戦闘407 大沢重久 一飛曹 特丙11    
戦闘407 松本美登 一飛曹 丙15    
戦闘407 大東好美 飛長 特乙1    
戦闘407 高木由男 飛長 特乙2    
戦闘407 蓮井光義 飛長 特乙2    
戦闘407 来本昭吉 飛長 特乙2    
戦闘407 松村育治 飛長 特乙2    
戦闘407 山口伯三郎 飛長 特乙2    
戦闘407 井上修 飛長 特乙2    
戦闘407 谷口実徳   予生1    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘701 山田良市 大尉 海兵71    
戦闘701 向井寿三郎 中尉 海兵72    
戦闘701 大村哲哉 中尉 海兵72    
戦闘701 藤田征郎 中尉 海兵73    
戦闘701 松場秋夫 少尉 操練26    
戦闘701 坂井三郎 少尉 操練38    
戦闘701 岡野博 飛曹長 操練54    
戦闘701 松本安夫   操練55   202出身
戦闘701 岸本操   予13    
戦闘701 瀬木春雄   予13    
戦闘701 佐々木原正夫   甲4    
戦闘701 塩野三平   甲7    
戦闘701 小野正盛 上飛曹 甲9    
戦闘701 小野正夫 上飛曹 甲10    
戦闘701 高橋良生 上飛曹 甲10    
戦闘701 古積康雄 上飛曹 甲10    
戦闘701 三宅淳一 上飛曹 甲10    
戦闘701 渡辺久光 上飛曹 甲11    
戦闘701 藤田宏治 上飛曹 甲12    
戦闘701 村中一夫 少尉 乙6    
戦闘701 鹿島考幹 上飛曹 乙16    
戦闘701 村山力   乙17    
戦闘701 開出正憲   乙17    
戦闘701 福長薫   乙17    
戦闘701 杉滝巧 上飛曹      
戦闘701 中村佳雄 上飛曹 丙3   302空より
戦闘701 安楽光男 上飛曹 丙4    
戦闘701 八木隆次 上飛曹 丙6    
戦闘701 木村勉 上飛曹      
戦闘701 栗田徹 一飛曹 丙15    
戦闘701 西元久男      
戦闘701 丹羽良治 二飛曹 特乙1    
戦闘701 菊地道治 二飛曹 特乙1    
戦闘701 杉田寿男 二飛曹 特乙1   B-29邀撃落下傘降下
戦闘701 田代政行 二飛曹 特乙1    
戦闘701 山田稔彦 飛長      
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
戦闘401 豊田光雄 中尉 操練12    
戦闘401 普川秀夫   操練    
戦闘401 淺川正明 大尉 海兵69    
戦闘401 豊田光雄 大尉 操練12    
戦闘401 加藤忠 中尉 海兵73    
戦闘401 外海信雄 中尉 海兵73    
戦闘401 五十嵐準一 中尉 海兵73    
戦闘401 狭間俊雄 中尉 海兵73    
戦闘401 伊藤暢英 中尉 海兵73    
戦闘401 宮本幸久 中尉 海兵73    
戦闘401 新井田真 中尉 海兵73    
戦闘401 伊藤貞勝   予13    
戦闘401 伊勢芳美   予13    
戦闘401 新藤馨   予13    
戦闘401 塙明次郎   予13    
戦闘401 水田明友   予13    
戦闘401 山本一好   予13    
戦闘401 由本栄作   予14    
戦闘401 稲垣次男   15志    
戦闘401 呉林俊男   17志    
戦闘401 林俊治   16徴    
戦闘401 土山牧群   甲9    
戦闘401 糸井邦男   甲10    
戦闘401 丸谷益 上飛曹 甲11    
戦闘401 寺崎溢男 上飛曹 甲11    
戦闘401 岩本宗一 上飛曹 甲12    
戦闘401 内田陽樹 上飛曹 甲12    
戦闘401 上山高義 上飛曹 甲12    
戦闘401 中山義雄 上飛曹 甲12    
戦闘401 村上徹夫 上飛曹 甲12    
戦闘401 田誠之 上飛曹 甲12    
戦闘401 新谷悟 上飛曹 甲12    
戦闘401 東芳夫 上飛曹 甲12    
戦闘401 岡井玄房   乙16    
戦闘401 唐沢重善   乙16    
戦闘401 井上義明   乙17    
戦闘401 山崎岩敏   乙17    
戦闘401 井上悠雄   乙18    
戦闘401 小関武夫   乙18    
戦闘401 原文雄   乙18    
         
所属 氏名 階級 期別 発進 概要
偵4 橋本敏男 大尉 海兵66    
偵4 伊奈達郎 上飛曹 甲10    
偵4 井手今爾        
偵4 井上保郎        
偵4 飯塚英三        
偵4 伊藤三郎        
偵4 小倉啓志        
偵4 及川喜久男        
偵4 小沼洋        
偵4 川浪重年        
偵4 田中三也 飛曹長      
偵4 綱島正二        
偵4 安岡豊松        
偵4 松村雄        
偵4 福井正        
偵4 桜井良作        
偵4 結城幸志        
偵4 宮尾幸夫        
偵4 妹尾義人        
偵4 鈴木茂男        
偵4 鈴木保男        

 
343空の猛者たち
時間の許す限り調べて書いていきます。
 

◆久保典義一飛曹
丙種予科練11期
マリアナ沖海戦の生き残り。
第261海軍航空隊所属、ゼロ戦でパラオ大空襲のさい
(昭和19年3月)ペリリュー邀撃戦等、サイパン・アスリート基地を
拠点とし
マリアナ方面の戦いで活躍。あ号作戦を戦い抜き、
第261海軍航空隊解隊とともにフィリピンの第201海軍航空隊を
経て、第343海軍航空隊へ編入。
紫電改搭乗。
昭和20年3月19日敵艦載機邀撃戦で瀬戸内海西部戦死
 
松場秋夫少尉(343空指導的搭乗員)
紫電のエース。
大正三年生まれ。三重県出身。操練26期。
昭和11年空母「加賀」乗り組み、翌12年、日華事変勃発。
上海上空の空戦で
ダグラス偵察爆撃機を初撃墜。空母「龍驤」乗組みのち
内地勤務、横須賀鎮守府
直属301空戦闘601「雷電」搭乗。
(藤田怡与蔵大尉指揮)に所属。硫黄島進出の折、ゼロ戦でF6Fを
6機撃墜。
「紫電」の戦闘701所属後、台湾沖航空戦では紫電で
F6Fを4機撃墜。フィリピンの戦いに
参加。マバラカットに残る最後の
紫電4機のうちの
一機。ツゲガラオに移りリンガエン湾出動を経て
輸送機で台湾、そして第343海軍航空隊へ。このとき31歳。
飛行時間は3,700時間で、戦時において10年以上。
石塚少尉と並び飛びぬけた飛行経験を積んでいた。
源田大佐に見込まれ、着任後間もなく、全搭乗員を集め
2時間の講義を行った。
のち中尉。
 
◆石塚光夫少尉343空指導的搭乗員)
大正二年生まれ。操練22期。343空最年長格。
横須賀海兵団入団後、戦艦金剛乗り組み。機関員を務める。
操練卒業後「鳳翔」乗組み。霞ヶ浦海軍航空隊
教員-大村空-九六艦戦で
上海空輸任務従事。
14空-一空曹として広東攻略作戦参加-鈴鹿空
教員-
ゼロ戦でハノイ、昆明進出、敵戦闘機十数機を撃墜。
15年矢田部空-17年大分空-大井空-19年-神ノ池空-最後の艦隊航空隊
601空戦闘106飛行隊。
343空に編入した際は32歳。
愛称は「チャン」で隊員のお父ちゃんとして慕われた
飛行場に出没する野良犬を大事にし、虐めるととても怒った。
とても優しいお父ちゃんだったという。
昭和20年8月8日熊本上空で戦死。
 
◆指宿成信少尉(343空指導的搭乗員)
甲飛予科練2期出身。鹿児島県出身。
在フィリピンの戦闘401「紫電」隊基幹搭乗員であったが
第343海軍航空隊へ抜擢後、戦闘301飛行隊中隊長にして
指導的立場を担いつつ
紫電改で数々の空戦を戦う。
数名で白菊に乗り合い、紫電改を受領途中
事故により小倉付近へ不時着負傷。その後の安否不明。
兄は同じく海軍で戦闘機搭乗員の指宿正信大尉(赤城-261空-201空、
終戦時横須賀海軍航空隊で少佐)
兄弟揃って紫電改で実戦を戦った。
唯一の例である。
 
◆大原広司飛曹長(343空指導的搭乗員)
在フィリピンの戦闘401「紫電」隊基幹搭乗員。
第343海軍航空隊へ抜擢後、戦闘301飛行隊
指導的役割の搭乗員となる。
 
◆本田稔少尉(343空指導的搭乗員)
別記する。
 
◆下鶴美幸上飛曹(343空指導的搭乗員)
台南空(ラバウル進出前)-空母瑞鳳艦載機搭乗員。
南太平洋海戦に参加。
 
◆田中利男上飛曹(343空指導的搭乗員)
204空ブイン上空で被弾落下傘降下。瀕死の重傷を負い
漂流するも生還。
 
◆宮崎勇少尉(343空指導的搭乗員)
大正八年、香川県出身。丙2。水兵として艦隊勤務後、飛行練習生を
志願
卒業。252空ラバウル進出-343空。252空時代、空戦後に
手負いのヘルキャットを(VF-10フレッチャー・ジョーンズ少尉)
を発見したが反撃不可能とみてこれを逃したエピソードが残っている。
 
◆堀光雄飛曹長
乙10-
台南空(在ラバウル)-582空教員配置ののち
大村空-海南島三亜空で南寧攻撃に参加。
高雄空で台湾沖航空戦に参加。終戦までに飛行時間1700時間
撃墜11機。戦後全日空機長。
 
◆杉田庄一飛曹長(343空指導的搭乗員)
別記。
 
◆磯崎千利大尉
大正二年愛知県生まれ。四等水兵から大尉まで叩き上げで昇進した
人物。龍驤-加賀-12空-台南空-大村空-251空-204空-201空
302空-343空分隊長。飛行時間は4,000時間以上。
戦後、松山市でうどん店経営。
 

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紫電改
 
 
出典
『三四三空隊史』戦友遺族による手記
『源田の剣改訂増補版』ヘンリーサカイダ・高木晃治共著
『日本海軍のエース』ヘンリーサカイダ著
『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会
『日本海軍戦闘機隊改訂増補版』
『第三四三海軍航空隊戦闘詳報』防衛省所蔵

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改



2015年6月10日 (水)

原田要さんの話(5)紫電改よりも零戦21型が一番だった

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
篠原Q、原田さんは海軍のほとんどの飛行機にお乗りになっていますね

 
ええ、雷電や紫電改も乗ったし、みんな乗りました
大型の九六陸攻も乗っています。
 
Q、雷電や紫電改は如何でしたか
 
雷電だめ、紫電改もだめですよ。
ゼロ戦だって52型だの丙型だの、みんなダメですよ。
 
アメリカのB-29には届かない。向こうが1万メートルで
紫電改が後ろにつくとロケットを発動しちゃう。サーっと置いていかれる。
それで最後にB-29に対処するにはこれしかない(秋水の模型を手に取る)
この秋水はロケット機ですから1万メートル迄3分。1万4千メートル迄でも
4分程度で上がっちゃうんです。
それで30ミリを両翼に備えています。
これなら絶対に大丈夫、
B-29なんかへっちゃらだというんです。
 
そのかわりパイロットの養成が大変で、その頃になると、
アメリカの
グラマンが攻撃に来ていたから内地では訓練できないから、
霞ヶ浦から
千歳へ配属になって、パイロットの養成をしなさいと
言われました。
 
Q、プロペラの飛行機で一番良かったのはなんですか
 
プロペラの飛行機で一番良かったと思えるのは私は最終的に
零戦の21型。佐伯航空隊で初めて乗りました。
 
それまで九六式艦上戦闘機だったのですが
この九六戦も堀越さんのグループが開発した戦闘機ですけれど
九六戦は行動半径が短い、攻撃兵器が貧弱でした。
 
Q、ゼロ戦(21型)を佐伯航空隊で初めてご覧になって如何でしたか
 
初めて見た零戦は格好良かったですね。私がこれに乗れるのかと。
九六戦と違って、ゼロ戦は随分大きいという印象を受けました。そして
脚が入ってしまう。骨組みが強化してありますし
翼内から20ミリという強力な
弾が撃てる。加えてプロペラの圏内からは
九六戦と同様に7ミリ7も撃てる。
300リッターの増槽タンクの他に
翼内、胴体に燃料をたくさん積める。10時間
以上飛んで大型機を
掩護できるんです。エンジンはダブル式になっている。
これが出来てね、すごい飛行機だなあ、と思っていたんです。
 
Q、ゼロ戦と九六戦を乗り比べて違いましたか
 
ええ、だから操縦が重くて大変だろうと思って、初めてゼロ戦に乗ってみた。
そうしたら誠に軽い。九六戦より自由がきく。素晴らしい飛行機だなあ、と
思いました。九六戦と全然違う。
 
Q、21型が一番良かったのですね。
 
 
日本の零戦として一番長い間、戦ったのが21型だと思います。
守る、攻める、安心感、三拍子揃っていた。
初恋の飛行機ではないかな。
 
素晴らしい飛行機だなぁ。これがいわゆる一番
武士の気持ちに近い、そのまんま合う飛行機だと思いました。
 
私達はゼロ戦に乗っていれば「絶対に負けないんだ」という自信

持っていました。そして、そのゼロ戦に掩護される爆撃機や
攻撃機も
「ゼロ戦がついているなら大丈夫だ」という安心感がありました。
 
ただ、世界中からどんなに驚かれるような零戦でも最終的には悲劇になる。
アメリカの方もF4FがF6Fに、
どんどん新鋭機が開発される。飛行機だろうが
人間だろうが
最初の功績に甘んじていると大変な事になります。
 
ゼロ戦はその後、エンジンの馬力を上げたり翼を短くしてみたり、排気管を
単排気管にしてみたりと、少しずつ良くはなっているんだけど
21型が一番良かったですね。
 
だから最終的に私が飛龍(※1)から飛び上がったのも21型ですよ。
飛龍の飛行甲板で、最後にひとつ寄せ集めの飛行機ができたんです。
私は飛行長のすぐそばで助手をしていたからすぐお前上がれって言われて
ああ、今頃こんな時に、よく21型あったなと。結局は信頼があったから
最後に寄せ集めの飛行機が21型で出来たんじゃないかなと。
恵まれています。
 
つづく
  
※1飛鷹かも?
 

A4_11

21型と52型の違いについてはこちら
 

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-------------- 

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


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2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

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▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

07_2

ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

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零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

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▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

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▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

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作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

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2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年9月19日 (金)

第343海軍航空隊戦闘飛行隊編成

紫電改

 
作画に伴い以下の記事を更新しました。

折口を守った神様、紫電改の林喜重大尉
過去記事のビジュアル化を進めています。
 

Photo_2

 
第343海軍航空隊は 主力として紫電改(紫電二一型以降の愛称)
3個戦闘飛行隊を据えていました。
 

紫電改

菅野直大尉率いる戦闘301飛行隊は「新選組」
鴛淵孝大尉の戦闘701飛行隊を「維新隊」
林喜重大尉の戦闘407飛行隊は「天誅組」

そして彩雲偵察機を用いた
偵察第4飛行隊は「奇兵隊」 と呼ばれていました。
敵機に体当たりした「彩雲」~三魂之塔へ
 
このほか、徳島では紫電(一一型)を用いた
戦闘401飛行隊「極天隊」が控えていました。
 
第343海軍航空隊全搭乗員リスト

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

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2014年8月 8日 (金)

林喜重大尉の紫電改~折口を守った神様

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折口の浜に眠る林喜重大尉の紫電改
鹿児島県阿久根市折口浜の浅瀬に一機の紫電改が眠っています。
第343海軍航空隊、林喜重大尉の機体です 。
 
林大尉最後の戦い~B-29へ捨て身の攻撃
昭和20年、4月24日、B29の編隊が阿久根を空襲。
余勢をかって、ここ折口まで 爆弾を投下しました。
現在、折口駅がありますが ちょうど線路を挟んで南にあたる
阿久根側は焼けたのですが 折口側は無事だったのです。
 
折口だけが焼けなかった理由
B-29が折口の爆撃進路に入ったとき
一機の紫電改が突っ込んできました。343空、林大尉の機体でした。
林大尉はB-29直上より、一撃攻撃を加えると、さらに反復して執拗に
食いつきました。 これにひるんだB-29は爆弾を全て捨てると、
遁走にかかりました。
 
林大尉の紫電改も被弾し、満身創痍でしたが
B-29に最後の一撃を加えると、ついにB-29は煙を吐きました。
おかげで折口の町はは焼けなかった。
 
「だから、わしらは林大尉は神様だと思っている」
住民はそう語り、そのとき林大尉が放った薬莢を
大切に持っていました。
 
増槽タンクが落ちなかった
林機は増槽タンクが故障により切り離せず、つけたまま戦ったそうです。
空戦後、大尉は沖へ不時着を試みましたが増槽タンクが抵抗となり
着水と同時に おおきく前のめりに突っ込み、頭がい骨骨折により
戦死しました。 この慰霊碑は林大尉を荼毘に付した場所に建てられています。
 
この話は鹿児島在住の私の友人が折口で取材して まとめた話です。
ある日、戦史研究者がやってきて、この話をしたそうです。
そして、特に許可した覚えはありませんが、この話ほぼそのままの形で
雑誌「丸」に掲載されました。 器の大きい友人は「まあ、よか」ということに
して、特に何も言いませんでした。
 

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林大尉の慰霊碑へ
野球場のフェンス奥へ入っていきます。
 

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見えてきました、地元の有志が清掃してくれていて
綺麗です。
 

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D

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林喜重大尉(戦死後少佐)碑文
 

松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか
 
▼再現作画(推測)

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2014年4月14日 (月)

紫電改Tシャツ

紫電改Tシャツ再入荷しました。
 

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Tde

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魂を込めて描き上げました。
B-29の爆撃から日本を守った松山の343空モデルです。
よろしければご覧ください。
  
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紫電改アマゾン販売ページ(ブラック)へ
 
また「こんな機種があったら欲しい!」というアイデアも引き続き募集しています。

飛行機でなくでもOKです。先日は
「陸軍ものが少ないので欲しい」といったご意見を頂戴しました。
 
お待ちしております。

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月18日 (土)

ゼロ戦Tシャツ

ゼロ戦Tシャツデザインを一新し、再入荷しました。
僅かですので早めにお求めください。
 
「この色とサイズが欲しい!」という要望はたいへん
ありがたいのですが
毎度少ロッド生産ですので一種類でも売れてしまうと
しばらくお作りすることができません。何卒お許しください。
 
また、商品を置いてくださる小売店様も探しております。 
お気軽にご連絡ください。

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ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)

2013年11月13日 (水)

日本の戦跡一覧

日本各地の戦跡、平和資料館、零戦の見られる場所一覧
随時更新

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地図の拡大版はこちら  

 
◇青森県
◆八甲田山・雪中行軍遭難資料館
冬は大豪雪地帯だが通年営業。
雪中行軍で亡くなった兵士の墓が並ぶ。
夏は十和田湖へ至る八甲田の山々の緑が美しい。
温泉ファン憧れの「酸ヶ湯温泉」近く。
 
◆三沢航空科学館
十和田湖より引き上げられた陸軍練習機を展示
そのほか多数の航空機を展示。航空ファン必見。

 
◇新潟県
◆山本五十六記念館(長岡市)
ブーゲンビル島より慰霊団が持ち帰った一式陸攻の左翼、長官の座席を
展示。そのほか山本の多くの品を展示
近くの寺には山本の墓所があり、また
山本五十六公園には山本の生家が残されている。 


◇栃木県
◆四式戦闘機「疾風」地下工場その2
カッパドキアより凄い!採石場跡は世界最大級の巨大地下空間。

◆疾風地下工場(大谷資料館)外観とその周辺

◆宇都宮飛行場

◆洞窟戦車工場(那須烏山市) 

 
◇茨城県
◆予科練平和記念館

◇山梨県
◆河口湖自動車博物館
零戦二一型と零戦五二型を展示。ただし夏季のみ営業
現在世界唯一となる一式陸攻機を製作中。
 
◇長野県
◆松代大本営
長野県長野市。戦況の悪化とともに
大本営の移設を意図して掘り進められた壕。
当時の「徹底抗戦」という概念を理解できる。
 
◇東京都
◆靖国神社・遊就館
零戦五二型展示
 
◆小笠原戦跡
須崎飛行場(作成中)
 
◇千葉県
◆房総半島戦跡群

◆館山航空隊地下壕

◆「震洋」基地

◆「桜花」カタパルト基地
完成間際、終戦を迎えた陸上発射型桜花
カタパルト(発射基地)跡がある。 

◇神奈川県
◆横須賀鎮守府
 
◇静岡県
◆航空自衛隊浜松基地広報館(エアパーク)
ジェット戦闘機の操縦席に実際に座れるのは日本でここだけ。
ラダーを動かせる。その他歴代の自衛隊機多数をハンガーに
展示。航空ファン必見。零戦五二型。
 
◇愛知県
◆三菱重工小牧南工場史料室
三菱重工工場併設の資料館。見学は平日のみで要予約。
ロケット戦闘機「秋水」復元機のほか零戦五二型展示。
敷島隊の五機と秋水に携わった整備兵のお話し
 
◇京都府
◆舞鶴鎮守府
 
◇広島県
◆呉鎮守府
レンガ造りの呉鎮守府が残っており
週末は見学が出来る。
 
◆戦艦大和ドック(歴史の見える丘)
戦艦大和を建造したドックは現在も健在で
丘の上から望む

◆からすこじま公園
日本一、潜水艦を近くで見られる公園。
 
◆大和ミュージアム
呉の誇り、戦艦大和のテクノロジーを
紹介したミュージアム。零戦六三型展示。

◆てつのくじら館
退役した潜水艦を丸々、そのまま陸揚げ。
中を見学できる。実物の潜望鏡や潜水艦の操縦席に
座れ、舵を握れるのは全国でここだけ。

◆海軍墓地
呉の市街地を見下ろす丘に、先の大戦で
活躍した特務艦、駆逐艦から戦艦航空母艦まで
多くの戦没艦船の慰霊碑が並ぶ。

◆江田島
海軍兵学校の建物は現在も残る。

◇山口県
◆大津島・回天基地
人間魚雷「回天」の基地。徳山からフェリーで渡る。
透き通った海が実に美しい場所。

◆徳山プラント群
連合艦隊の燃料補給基地である
徳山の燃料庫は今も健在。西日本屈指のプラント群は
工場夜景スポットとして有名。各種夜景ツアーを催行。
 
◆柱島・周防大島の戦艦陸奥記念館
瀬戸内海の穏やかで青く美しい海が魅力。
柱島沖には戦艦陸奥が沈む。資料館は一見の価値あり。
 
◇愛媛県
◆楢本神社
(ならもとじんじゃ)
伊予西条は関大尉の出身地である。関大尉をはじめとする
特攻隊「敷島隊」の五人それぞれの慰霊碑は、
250kg爆弾を模した衝撃的なものだった。
 
◆小島・芸予要塞
フェリーで渡る。芸予要塞は110年までの
ほぼ原形をとどめた稀な要塞の戦跡。島の自然が美しく、
潮風が心地よい。復元された旅順攻城砲を展示。対岸は今治造船
  
◆松山第343海軍航空隊
空港周辺に掩体壕が点在する。

◆佐田要塞・未机湾(真珠湾九軍神の碑)
三机湾は別名東洋のパールハーバーと呼ばれる。
真珠湾に突入した特殊潜航艇九軍神が訓練を行った
場所として有名。伊方原発近く。
 
◆由良要塞
 
◆南レク「紫電改」
日本唯一「紫電改」の見学できる場所。
紫電改のほか343空搭乗員の遺品の数々を展示している。 
入場無料。
 
◆宿毛湾・宿毛泊地
戦艦大和の有名な写真はここで撮影された。
 
◇高知県
◆高知航空隊
高知竜馬空港周辺には掩体壕が点在。
 
◆三魂之塔
「彩雲」がエンジントラブルから帰還を諦め
敵機に体当たり、刺し違えた後、この地に墜落した。
慰霊碑とともに機体の一部が残されている。
 
◆番外編~素晴らしい四国
 
◇福岡県
◆大刀洗平和記念館
(たちあらい)陸軍大刀洗飛行場の歴史を紹介。
特攻隊の遺書を展示。零戦三二型を展示。
 
◇熊本県
◆ペリリュー島守備隊長中川大佐の墓所
 
◇大分県
◆大分飛行場跡(宇垣特攻の地)
現在は大洲運動公園。その一角に宇垣特攻の慰霊碑があり
彗星で散華した全員の名と経緯が記されている。
 
◆宇佐海軍航空隊(永遠のゼロ) 
映画「永遠の0ゼロ」で使われたゼロ戦のセットを展示。
また、航空母艦の甲板を再現し、自由に歩ける。
映画のセットであるが、ゼロ戦のコクピットに座って記念撮影が出来る。
桜花の風防ガラスを展示。
 
◇長崎県
◆佐世保鎮守府
レンガ造りの佐世保鎮守府は現在の海上自衛隊佐世保地方総監部。
 
◆SSKドック(旧佐世保海軍工廠)
潜水母艦「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」、など誕生の地。
 
◆セイルタワー
ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力。
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、アメリカ海軍の艦艇を一望。
 
◆大村海軍航空隊

◆海軍針尾通信所(巨大通信塔)
世界が動いたあの日「ニイタカヤマノボレ」発信の地。
丘の上から巨大な塔を異世界のような眺め。
 
◆三菱重工長崎造船所(戦艦武蔵ドック)
 
◇鹿児島県
◆万世特攻記念館
知覧を訪れたなら、こちらも是非 
 
◆知覧特攻平和会館
 
◆海上自衛隊鹿屋資料館(海軍特攻資料館)

知覧と合わせてこちらも一生に一度は見て置くべき場所。
特攻隊員の遺書を数多く展示。 
 
◆神雷部隊「桜花」別杯の地

桜花を抱いた一式陸攻の飛び立った場所。 
 
◇沖縄県
◆南部戦跡

2013年10月 3日 (木)

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

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 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
 
一度は訪れておきたい場所です

  
知覧の特攻平和会館は実に有名ですが
同じ鹿児島県内に、同様に特攻隊員の遺書を展示した
施設があります。鹿屋(かのや)と万世(ばんせい)です。
 
今回は、そちらの、あまり知られていない

鹿屋資料館へ行って参りました。知覧からは鹿児島湾を挟んで
大隅半島側。交通の便が悪いところにあるので
なかなか見学者が来ないのかもしれません。

 
しかしながら、こちら鹿屋も
決して知覧に引けを取らない資料館です。
 
鹿屋は海軍の特攻基地として
もっとも多くの海軍特攻機が出撃しました。
二階フロアには鹿屋から出撃した
海軍搭乗員の遺影(集められる限り全て)と遺書が展示してあります。
 
敷島隊から梓特別攻撃隊、神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで
資料、展示も充実しています。

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▲戦艦「比叡」の錨、海上自衛隊のUS-1A(おおとり)
紫電改、天山のプロペラなど、屋外展示も多数。
なお資料館二階には吹上浜沖から引き揚げられたゼロ戦五二型が
展示されています。なお、

世界唯一の二式大艇はここにあります
 
余談
敷地内の食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」がとても美味しくて
びっくりした。おすすめです!
 
アクセス 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
鹿児島県鹿屋市西原3丁目11−2
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
年末年始(12月29日~1月3日)を除く毎日開館
入館無料
個人でも申し出ればガイドが案内します

ゼロ戦、二式大艇など各種グッズを扱った土産物店、
海軍カレーが食べられる食堂あり

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

大村海軍航空隊跡

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大村海軍航空隊の跡地です。

掩体壕が公園の遊具となって残っていました。
ここ大村海軍航空隊は海軍屈指の大航空隊で、空技廠があり
また、松山の第343海軍航空隊(剣)の拠点でもありました。
 

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司令部壕は現在慰霊塔となっています。

 

Imgp3091

沖合に浮かぶ長崎空港です。
海軍大村航空隊の飛行場跡地は現在の海上自衛隊大村航空基地です。
長らく民間と共用でしたが、現在、民間機の滑走路は全て沖合に移転し
民間機独自で運用されています。
 
長崎空港という名称ですが大村市にあります。
長崎県は縦に長い県ですので、地元の人は「大村の空港」とか呼びます。


2013年10月 1日 (火)

紫電改~最後の戦闘機

紫電改01

紫電改02

紫電改03

愛媛県愛南町の「紫電改」を見学しました。
 
一見した感想は「大きいな」と感じたことです。
ゼロ戦より一回り、大型で迫力があります。重戦闘機紫電改。
昭和20年、この紫電改もB-29やグラマン戦闘機と大空戦を
繰り広げていたのでしょう。思いを馳せました。紫電改を知っている方も
知らない方も一見の価値あり。
 
この紫電改は
昭和53年11月に、久良湾に沈んでいるのが発見され
翌年引き揚げ作業が
行われました。館内にはこの機体の搭乗員だったと
推測される第343海軍航空隊(剣)、
六名についての展示があります。

 

紫電改の沈む久良湾

▲紫電改が沈んでいた久良湾です。
南レク宇和海展望タワーより撮影。 
 
※碇義朗著『紫電改の六機』によれば、着水時の状況、
座席の位置などから考えて小柄な、米田伸也上飛曹か、とくに可能性の高いのは
武藤金義少尉と推測されているが、確定的な証拠が無いかぎり、
状況推測だけで断定することは避けねばならないと記されている。
 
※また、当該機体を「撃墜した」と証言する元米海軍戦闘機搭乗員
アプルゲート(アップルゲート)氏の主張であるが、
紫電改で戦った戦友たちによれば

「武藤少尉がまともに空中戦を行って、負けるはずがない」
「もし、落とされたとするなら、流れ弾か機体トラブルによるものであろう」
との見解もある。
 
「紫電改展示館」見学は無料。紫電改を見学できるのは、日本ではここだけ。
紫電改関連グッズを豊富に取りそろえた土産物店があります。
 

第343海軍航空隊

▲松山基地を再現したジオラマです。
なお、松山空港周辺には343空の使った掩体壕が残っており
そちらも見てきました。第343海軍航空隊航空基地跡
 

 

▲紫電改展示館の屋外にはこのような遊具もあり
尾翼には343と刻まれています。それにしてもF-4に似ている。
 

▲これは見なかったことに・・・。

紫電改
 
愛南町も素晴らしい目玉があるのですから、もっと町おこしに利用すれば
よいと思います。 まずは熟練ガイドの養成は必須。
 

紫電改05

 
アクセス
紫電改記念館(南レク内)
住所:愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1  馬瀬山頂公園内
 

関連記事
空母信濃に着艦した艦上戦闘機「紫電改」
 


零戦雷電震電

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烈風(改)紫電改

2013年9月29日 (日)

第343海軍航空隊(剣)松山航空基地跡

第343海軍航空隊(二代目・剣)の基地は愛媛県の松山市にあり
拠点を鹿児島の鹿屋、国分、長崎の大村に置いた。
松山基地は現在の松山空港である。

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▲松山空港
 

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▲掩体壕
 
掩体壕(飛行機を爆撃から守るコンクリートの建物)
ご主人の許可を頂いて写真を撮らせてもらった。
掩体壕が車庫として利用されている。
現在は、住宅地やコンビニとなっているが
当時はこの辺りまで飛行場の一部だったことがわかる。
 
紫電改や彩雲が格納されたのだろうか。
 

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▲掩体壕
 
こちらは納屋として利用されている。
コンクリートの建物、しかも掩体壕ともなれば相当頑丈であるので
解体は容易ではない。

そういえば、以前、桜花の発射基地跡
訪ねたときも、コンクリートのカタパルトの土台はそのまま残されていた。
※桜花の基地を建設する際、軍に土地を接収され、戦後は返還されたものの
土地の境界線が有耶無耶になり、コンクリートの解体作業を自治体へ要請するも
資金を出し渋っているそうだ)
 

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こちらも掩体壕。分厚いコンクリートと
飛行機を収納していた形がはっきりわかる。
 

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2013年7月30日 (火)

紫電改と信濃

◆大和の姉妹艦にして
帝国海軍最後の超巨大空母「信濃」

 
先のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅したと思われたが
帝国海軍は不滅であった。
 
昭和19年11月11日、 東京湾に突然現れた超巨大航空母艦、
その名を「信濃」といった。 戦艦大和、武蔵に続き、三番艦として計画、
起工したはずの信濃は 戦局の変化に伴い、横須賀の海軍工廠で
造船過程の途中 航空母艦へ改造された、当時としては世界最大の
超大型空母である。何せ、土台が「大和」そのものであるから
その巨大さは計り知れない。
 
この頃になると国家総力戦を極め、信濃建造の裏側にも、軍需工場で
信濃の部品製造に働く 「女子挺身隊」と呼ばれた女学生の存在と犠牲が
あったことを忘れてはならない。

信濃に着艦した紫電改

艦上戦闘機「紫電改」
11月11、12日
完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。
その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが
「艦上戦闘機紫電改(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、のちの航
空自衛隊 ジェット戦闘機パイロットとなる人である。 同期には
南太平洋の韋駄天、重松康弘大尉がいる。
 
紫電改着艦テストの11日には、零戦や天山などの従来機の着艦テストが
終了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、とにかく、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
 
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
 
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
 
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
 
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
 
紫電改、信濃に着艦 「ゼロ戦よりやさしいと思った」
山本の紫電改ははじめにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行ったのち
いよいよ本番、
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
 
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である」
 
「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって
三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」
 
「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。
零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
 
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。
しかし信濃艦長
阿部大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を
出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
 
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
 
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
 
◆虎の子「流星」、「彩雲」
信濃には、この紫電改のほか、最新鋭の「流星」、「彩雲」が搭載される予定で
いずれも同日、信濃に着艦テストを完了している。

◆桜花とともに轟沈 
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
 
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月24日 (水)

岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

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岩本徹三の戦後その2

赤松貞明中尉の戦後

岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース 



出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。