2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

Photo_13

Raiden_2

Photo_14

Photo_16

261_3

56799416_p0_2_2

Imgp1010_2

56782187_p0_2

Photo_17

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

Photo

X_2

Photo_2 
十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

Photo_3

11_2

Photo_4 
零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

Photo_5

零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

Photo_13

二式水上戦闘機(二式水戦)

Photo_15

二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

Photo_5

K

Photo_6 

零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

Photo_9

ゼロ戦(零戦)32型/三二型

Photo_11

零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

Photo_16

ゼロ戦(零戦)22型/二二型

Photo_18

零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

Photo_20

ゼロ戦(零戦)52型/五二型

Photo_22

零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

Photo_23

ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

Photo_27

零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

Photo_28

ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

Photo_30

零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

Photo_31

ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

Photo_33

零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

Photo_34

ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

Photo_36

零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

Photo_39

ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

Photo_41

零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

Photo_42

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

Photo_44

零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

03_2

なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

04_2

搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

07_2

ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

Photo_8

宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

Photo_19

航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
記事の内容に満足されましたらクリックをお願いします!
読者の方々のワンクリックによって当サイトをかろうじて消滅の危機から
救ってくださっています。

 
戦史 ブログランキングへ

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

D

2015年1月20日 (火)

烈風改

烈風(改)戦闘機

烈風(改)

  

烈風(改)三菱A7M3-Jは
零戦の後継機として堀越二郎がリーダーを務める
三菱重工開発チームで試作中であった艦上戦闘機「烈風」を
陸上基地で運用すべく大規模に構造変更が施された機体である。
 
この頃の空戦は旋回性能よりスピードが勝敗のほとんどを決し
ドッグファイトは既に時代遅れであった。よって烈風は零戦の
後継機と雖も、その設計思想は大きく異なるものであった。
大馬力を活かした一撃離脱戦法の「雷電」にやや近いものがあるが
必ずしも雷電を踏襲したとも言えず、極限までデザインされた翼で
空力を生かし、さらなる運動性能の向上を目指した。
 
烈風をさらに進化させた烈風(改)はこれまでにない重武装、大馬力を備えた
重戦闘機で、局地戦闘機本来の本土邀撃任務のほか、零戦を超える長大な
航続距離を誇り、250kg爆弾二発が搭載可能で進攻作戦にも運用可能であった。
烈風改はレシプロ戦闘機としての限界、洗練を極めた。
 
海軍は機動部隊の再建をかけて空母信濃の完成に至り、天城、葛城なども
呉のドックで艦載機の搭載を待っていた。搭載予定の艦載機は
艦上攻撃機「流星、」艦上偵察機「彩雲」、艦上戦闘機「烈風」 と
トリオでの運用が計画中であったが「烈風」開発の遅れに伴い、代わって
局地戦闘機の紫電改を艦上戦闘機へ改造し運用することと決定した。
 
この機体は紫電改三一型甲(別称、試製紫電改二)と呼ばれ
空母信濃へ着艦テストが行われたが、信濃も撃沈され、艦戦紫電改は
実戦配備に至ることなく終戦を迎えた。
 
一方のA7M2烈風も東南海地震とB-29による爆撃のため三菱の生産拠点は
壊滅、実戦に間に合わず、烈風改に至っては試作機の製作すら及ばず終戦。
三菱重工が誇る戦闘機製造の歴史はここに幕を閉じたのであった。
 
烈風(改) MITSUBISHI A7M3-J
全幅14.00m 全長11.96m 全高4.24m 翼面積31.197㎡
自重 3,955kg 全備重量 5,675kg 翼面荷重181.4kg/㎡
発動機 三菱ハ四二/一一型 MK9A 過給器付 2130馬力(高度6800米時)
巡航速度416km/h 最高速度682.2km/h 航続距離2,288km
兵装30mm機関砲4門+斜め銃
 

Photo

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2015年1月 7日 (水)

震電

震電02

震電03

震電04

【震電諸表】J7W1
局地戦闘機震電 全幅11.114m 全長9.76m 全高3.92m
主翼面積20.5㎡ 自重3,525kg 全備重量4,950kg 翼面荷重210kg/㎡
離昇出力2030馬力 最高速度750km/h 巡航速度444km/h
VDM式定速6翅プロペラ 30mm機銃×4

Photo_4

震電局地戦闘機 J7W1
「震電」(しんでん)は海軍航空技術廠が主導し
九州飛行機が開発を担当した日本海軍の局地戦闘機である。
 
インターセプター(迎撃機)の重要性を認めた海軍は
昭和19年、前例のない重戦闘機の開発に着手した。
 
開発の計画・推進役は空技廠の鶴野正敬博士(技術少佐)で
十八試局地戦闘機「震電」と呼称されたこの戦闘機は
最大速度405ノット(750km/h)と30ミリ機銃4挺の搭載が求められた。
 
この時、最新鋭であった零戦五二型は564km/hで20ミリ2挺であるから
その数値がいかに困難なものであったか理解できる。最高傑作の
レシプロ戦闘機と称されるP-51でも昭和20年に最高速度は704km/h。
 
エンジンは三菱「ハ四三」四二型(MK9D改)を搭載し
公称出力1660馬力、離昇2030馬力を発する。
 
機体デザインは独自のエンテ翼・前翼式(後方にエンジンとプロペラ)に
よって重武装を前方に集中できるメリットがあったほかエンジンが防弾の
役割を担うので、被弾しても搭乗員の命を守ることが可能であった。
 
ただし、緊急脱出時にパイロットが巻き込まれる恐れが非常に高い。
殊に震電は対B-29用戦闘機として敵爆撃機の編隊に突っ込み、
集中砲火を受けるので、一撃離脱したものの被弾後の脱出が想定される。
これについて、テストパイロットを務めた山本重久大尉(この人は紫電改で
空母信濃にも着艦成功している)が空技廠の推進(プロペラ)部の
技術大尉との間で大激論になったと戦後回想している。
 
山本重久大尉 
「集中砲火を受けて撃ち合うパイロットの身にもなって
設計してください」
 
某技術大尉 「できないですねえ」
 
「プロペラ・ボス(プロペラ付け根以下の意)全体を破壊しなくてもプロペラブレード
一枚を飛ばすことができたら、残り五枚はアンバランス
になり、瞬間的に全ブレードが
スッ飛ぶであろう。それもできないのか」

  
「技術的に不可能だ」
 
「不可能を可能にするのが科学で、それをやるのが技術者だ」 
 
「無茶を言うな」
 
「何が無茶だ。なぜやろうとしないのか」
 
「こいつ」
 
山本は憤慨し、自分よりずいぶん古参であろう技術大尉の横っ面を
いやというほどぶんなぐってしまった。 
その後、プロペラを吹き飛ばす技術が開発され 試作が進められた。  
 
震電の翼には22ミリの防漏ゴムを施し
風防ガラス前方は70ミリの防弾仕様となった。
 
この仕様からも震電は汎用性や格闘性能を無視し、対爆撃機用
重戦闘機として誕生し、歩みを始めたといって間違いない。本土領空に
侵入せし敵爆撃機(のちのB-29)に対し、緊急発進、その大馬力を活用して
一気に上昇し、直上より強力な火力を浴びせるものだった。
 
震電プロトタイプ(試験機)の完成・初飛行は昭和20年8月6日
広島へ原爆投下の日だった。九州飛行機、雑餉隈(ざっしょのくま)
製作所から蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運ばれ、
試験飛行を実施。8月8日と合わせて45分間、飛行した。
この飛行の様子は動画フィルムに撮影されており、現在も
市販のDVDなどで見ることができる。
 
エンジンが故障し、製造元である三菱重工に連絡をとっている
間に終戦を迎えた。

震電05

Imgp1318

Imgp1215_2

Imgp1217

Imgp1246

Photo

Imgp1219

Imgp1251_2

Imgp1249

Photo_2

Imgp1223

Imgp1244

Imgp1316

Photo_4

Imgp1267

Imgp1270

Imgp1271

Photo_5 
震電はプロペラが後ろに位置する「エンテ翼」と呼ばれる機体です。
九州飛行機が機体デザインを担当し、エンジンは三菱製を搭載しました。
30ミリ火砲と上昇力を備え、B-29邀撃用戦闘機としての活躍が期待されて
いました。
昭和20年、8月、福岡県、雑餉隈(ざっしょのくま)で製造され
近くの陸軍席田飛行場(現・福岡空港)から離陸に成功しましたが、
実戦配備される前に終戦を迎えました。
この機体も史実通り、
雑餉隈仕様を再現して頂きました。

 
SF映画やアニメ、空想戦記で多く登場するため

女性や、幅広い年代に認知度が高く、人気の飛行機であります。
 

※周りのジオラマ素材は篠原が製作したものです。室内撮影のため、背景の青空は
エアブラシで描いたものです。

その独特な形状から震電は人気が高く、架空戦記やSFなど
多くの漫画などに昇華した形で描かれている。
 
震電Tシャツ販売中
  

震電Tシャツ震電Tシャツ02

スカイ・イクリプス

Photo

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年12月19日 (金)

指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

「まさかあのとき、親父が死んだとは思わなかったんだ。スイッチひとつで
簡単に脱出できると言っていたから・・・事故の報せは聞いていたが
まあ、親父のことだから大丈夫だろうと思って、家に帰ったら記者が大勢
押しかけていて、それで事の重大さを悟ったんだ」 

  
薩摩の武人・戦闘機パイロット指宿正信

最後まで空に生きた人であった。
昭和三十二年一月九日(1957年)航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機が
訓練飛行中、天竜川河口沖合に墜落。操縦士の指宿正信(いぶすきまさのぶ)
二佐が 殉職した。
 
指宿二佐は日本で初めてのジェット戦闘機操縦士の一人で、また先の大戦では
真珠湾攻撃から終戦までゼロ戦搭乗員として技量抜群で生き抜いた人物だった。
 
残念ながら指宿氏に関する記録はほとんど残っていない。 僅かな資料をもとに
調査を進めると指宿氏は海兵六十五期、鹿児島県南さつま市 (旧加世田市)出身
であることがわかった。戦後も第一線で戦闘機乗りを続け国に身を奉げて散った
武人の生き様を、僅かでも残すべきと考えここに記す。
 
指宿正信は南薩摩・加世田の出身であり海軍兵学校六十五期、 海軍兵学校を
主席で卒業、恩賜の短剣組であった。
弟、指宿成信少尉は海軍叩き上げの戦闘機パイロットで
兄弟揃って紫電改に搭乗し、のちに本土防空戦を戦うことになる。
(昭和20年、兄、指宿正信少佐は横須賀航空隊で飛行隊長として紫電改に搭乗。
弟、指宿成信少尉は第343海軍航空隊で紫電改に搭乗)
 
 

真珠湾攻撃
昭和16年12月、指宿大尉は真珠湾攻撃で空母赤城所属のゼロ戦隊分隊長を
務め、僚機の岩城芳雄一飛曹、羽生十一郎一飛曹とともに第一次制空攻撃隊に
参加。 ヒッカム飛行場を制圧し、敵戦闘機の迎撃を抑えた。
 
スピットファイヤと対峙
インド洋ではセイロン島・コロンボ空戦に参加。 英軍スピットファイアと交戦し4機
を撃墜した。このうち一機のスピットは不時着に成功し、敵パイロットはコクピット
より這い出したが、これを認めた指宿は 風防を開け手を振って上空を通過。
とどめをささなかったというエピソードが残っている。
 
ミッドウェーの敢闘
昭和17年5月のミッドウェー海戦では赤城の上空護衛を任務とし、合計8回に
渡り発艦を繰り返し 被弾し乍も敵機と果敢に交戦。TBD-1デヴァステイター1機、
SBDドーントレス1機、B-26マローダー2機(推定)を共同撃墜し、赤城防衛に尽く
したが、赤城は沈没、 指宿は海上に不時着、数時間の漂流の末、救助されたが
真珠湾以来、半年間に渡って僚機を務めた戦友、羽生一飛曹は行方不明となり
ついに帰らなかった。
 
翔鶴と南太平洋海戦
昭和18年8月、空母翔鶴乗り組みとなった指宿は、新郷英城大尉指揮のもと
南太平洋海戦を戦う。この間 幾度となく空の要塞、B-17フライングフォートレスを
迎え撃ったが そのほとんどは雲間に逃した。岩城一飛曹と協力し遂にB-17を
撃破したときは 岩城自らも被弾、火災となり鎮火できずにいた。帰還不可能と
悟った岩城は 指宿へ向かってニッコリ笑って敬礼すると自爆、南溟に散った。
 
指宿自身もその後の戦闘で被弾したが不時着、救助され生き延びていた。
 
第二六一海軍航空隊(虎)とマリアナ沖海戦
昭和18年末~昭和19年6月 玉井浅一中佐に協力して若き航空要員(甲種10期
の17~18歳が多かった)で、第二六三海軍航空隊(豹部隊)結成ならびに
指宿自身は二六一海軍航空隊(虎部隊)の錬成にあたり絶対国防権防衛を担う。
 
これらの航空隊は大宮島・サイパン島・天寧(テニアン)島・パラオ ペリリュー島を
転々とし空戦を重ねたが、消耗激しく 最後はマリアナ沖海戦で部下のほとんどを
失った。 指宿とその部下はサイパン島で運命を左右されることになる。
 
サイパン上陸戦を控え、生き残りの貴重な航空隊員は 潜水艦と輸送機にて順次
サイパンを脱出しフィリピンへ向かう。 これに特に優先順位等なかったと思われる。
脱出は僅かな差であった。 指宿は無事脱出しフィリピン、マバラカットへ。しかし
無念は261空の司令、上田猛虎中佐(海兵52期)や海軍の至宝ともいわれた
東山市郎中尉さえも いずれも戦闘機の操縦においては天才的技量を持ちながら、
サイパン島に取り残され地上戦に巻き込まれ手榴弾を持って戦い、玉砕した。
 
第二〇一海軍航空隊・特攻隊を志願・却下される
昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされる。
敷島隊の編成にあたり、指宿が特攻隊を 「辞退した」と書かれている戦記が多いが
これは事実と反する。
 
かれの脳裏に過るのは先に散った多くの若い部下の顔であった。決して忘れは
しない ニッコリ笑って敬礼し、煙を吐きながら編隊から離れていった、そして二度と
帰らなかった戦友のことを。 俺も必ず後に行くぞと誓った。
 
指宿は副長の玉井浅一中佐に自ら敷島隊の一番機として突っ込むと熱望したが
却下されてしまう。 代わりに白羽の矢が立ったのが関大尉であった。
 
「関が行くなら俺も行く!俺を一番にやってくれ!」
なおも食い下がる指宿の言葉に対し、玉井は告げた。
「貴様は真珠湾以来のつわもの。これからは指導する立場にあるので
作戦に参加させる事は出来ない。死なれては困る」
 
敷島隊の一番機を真っ先に志願したのは他でもない 指宿自身であった。
 
関もまた可愛い部下であった。 指宿は戦後、幾度となく関の墓参りに
愛媛を訪れている。
 
紫電改を駆り本土防空戦を展開
内地へ戻り横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、紫電改を駆り
B-29やP-51を邀撃。この頃既に階級は少佐となっていたが指宿は常に現役で
あった。そして生きて終戦を迎えた。
 
戦後、故郷鹿児島へ戻った指宿は子供たちを集め 自らの体験を語っている。
「こうして死にぞこない、おめおめと生きている」
と 寂しそうに言ったという。
 
航空自衛隊戦後初のジェット戦闘機F-86Fパイロット
最後まで空に生きた人であった。 指宿は航空自衛隊の黎明期を支える存在と
なった。 渡米。戦後初のジェット戦闘機F-86Fのパイロットとなった彼は全国各地で
教官として次世代を担う新人搭乗員の指導に明け暮れた。
 
事故~市街地を避けて海へ
昭和32年1月9日、突然の報せだった。指宿は浜松航空団F86Fで飛行指導中、
事故に遭う。不運な事故であった。 先頭を飛行する教官、指宿の機体が太陽と
重なり、後ろを飛行中だった訓練生の目を眩ませたのだ。
 
訓練機が指宿機に追突する形となり、二機は空中衝突、訓練生はその場で落下傘
降下し無事。機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため 人的被害は無かった。
一方、指宿の眼下には浜松の市街地が広がっていた。 指宿は民家への被害を
避けるため最後まで操縦桿を離さず、機体をコントロールし海上への離脱を図った。
  
「遠州灘まで引っ張る!」
それが指宿最後の言葉となった。 指宿は海上でベイルアウト(緊急脱出)の
レバーを引いたが 高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突。殉職した。
 
最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした指宿正信、42年の生涯であった。 
 
薩摩の武人が残した礎
「戦後は特攻を関大尉に命じて自分は逃げたんだと、長い間、誤解されて
卑怯者扱いをされて、辛かったろうな。これじゃあんまりだ」 
 
指宿氏のご遺族は語る。

 
ブルーインパルスの一番機が白い煙を引きながら大空へと吸い込まれて行く。
間違いなく、指宿が残した武人の志は今日日本の礎となって
現在も受け継がれている。
 
 
最後までご覧くださりありがとうございました。
 
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ


関連記事
赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース

 
※記事は加筆訂正をする場合があります。
出展:261海軍戦闘行動調書
取材・調査:篠原直人
 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年12月10日 (水)

富安俊助中尉とエンタープライズ

◆実在した「永遠の0」宮部久蔵のモデル

映画『永遠の0』最後のシーンを見た私は即座に
これは実在した富安俊助中尉のエピソードとそっくりだ!
富安中尉をモデルにしたのではないか?そう確信した。
 
以下、ネタバレを含む。映画『永遠の0』ラストシーンで
宮部久蔵は特攻隊として爆弾を抱いて敵空母へ突入する。
遂に横っ腹に突入するという寸前、90度急上昇し、敵空母の直上から
機体を真っ逆さまにして甲板へ突っ込むという壮絶なものであった。
 
ここまでは『永遠の0』の内容であり、フィクションである。
-------- 
 
◆以下、ノンフィクション
以下はノンフィクション。富安俊助という実在した零戦搭乗員の物語である。
富安俊助中尉は私が運営を務める第二師団の戦友会でお世話になっている
元第二師団第二連隊の陸軍大尉、水足氏(陸士56期)のポン友(親友)であり
家も向かいだったということで、思い出話をよく聞いていた。
そのエピソードを紹介する。
 
  
◆富安 俊助(とみやす しゅんすけ)
大正十一年、長崎県に生まれ、まもなく東京へ引っ越した。幼少期

は「メバチ」のあだ名で呼ばれた。早稲田大学に進学、大学では柔道
部に所属した他、全てのスポーツに長けており、また音楽を愛した。
在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほどであった。
 
水足氏によれば「富安は兎に角、運動神経が抜群で、中学の鉄棒で
大車輪を何度もやっていた」という光景をよく覚えているそうだ。
 
昭和十七年九月、早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得卒業後

満州鉄道に就職したが、僅か一年後の昭和十八年九月、学徒出陣を受
け海軍へ入隊。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊へ配属され
僅かばかりの期間、訓練に励んだ。
 
◆鹿屋進出
昭和二〇年 四月二十二日
出撃を控え海軍鹿屋航空基地に移動。
 
◆神風特別攻撃隊「第六筑波隊」出撃
同年 五月十四日 午前五時三〇分
第六筑波隊の爆装零戦隊十五機は、五〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋飛行場を
飛び立った。滑走路の端一杯まで滑走して、ようやく機体が浮い
たという。
途中、一機がエンジントラブルで引き換えし十四機となっ
たが、同じく鹿屋を
発進した第十一建武隊第八七生隊第六神剣隊
の爆戦十二機と合流し、
合計二十六機となって南方の米機動部隊を目
指した。これを察知した機
動部隊はただちに迎撃隊を発進させた。特攻隊のうち
十九機が迎撃戦闘
機により撃墜され、六機が対空砲火によって突入前
に撃墜された。

◆富安機の突入
午前六時五十六分
戦友の犠牲のもと、ただひとり生き残った富安俊助中尉は、対空砲火
を避けて一旦雲に身を隠した。そして時折雲間から顔を出してはエン
タープライズの位置を確認しつつあった。一方のエンタープライズは
20分前からレーダーで富安機を捉えていたが、雲に隠れた富安機に
効果的反撃ができずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けた
瞬間、富安機は満を持して急降下突撃を敢行。エンタープライズは集
中砲火を浴びせたが、横滑りを駆使する富安機に致命弾を与えられぬ
まま、ついに懐への進入を許した。
 
そのまま横っ腹に突っ込むかと思
われた刹那、富安機は五〇〇キロ爆弾
を抱いたまま、一気に引き起こ
し、艦の真上へ上昇した。雲間から射した
日光を浴びてゼロ戦の腹が
輝いていた。富安機は一八〇度左旋回すると
揚力を抑えた背面飛行
のまま、艦直上より前部エレベーターに突入した。
突入時の衝撃によ
り前部エレベーターは上空およそ一二〇メートルまで
吹き上げられた
エンタープライズは大破し、沈没こそまぬがれたが、航空機の
運用は
不可能となり、戦線離脱を余儀なくされた。
 

富安俊助 
▲エンタープライズ直上より背面飛行のまま突入を敢行せし富安俊助中尉機
 

◆艦上で富安中尉を称える式典が行われる
エンタープライズ艦上ではこの攻撃で死亡した空母クルーの水葬を
行ったのち、別の式典が行われた。これは敵であった富安中尉を称え
る名誉式典で、同式典により富安中尉の遺体は米水兵と同様に手厚く
水葬された。
 
米本土へ回航されたエンタープライズは入渠修理のまま終戦を迎える。
修理完了後は兵員引揚船として僅かに運用されたが空母としての
戦線復帰は果たせぬまま除籍。「ビッグE」栄光の歴史に幕を閉じた。

富安俊助の突入後
▲富安機突入の瞬間。上空120mまで吹き上げられたエレベーターが確認できる。
戦艦ワシントンより撮影。
 

富安俊助の突入後のエレベーター 
▲突入直後のエンタープライズ甲板。消火活動を行うクルー。
 

◆犠牲となった特攻隊員
この攻撃で犠牲となった特攻隊員全員をここに記す。

以下昭和二十年五月十四日海軍鹿屋基地出撃。
機種はいずれも爆戦(爆装零式戦闘機)である。
氏名、出撃時の階級、出身都道府県、出身大学もしくは
予科練期別、生年の順。

  
第六筑波隊

富安 俊助  中 尉 東京 早稲田大 大正十一年生まれ

大木 偉央  少 尉 埼玉 宇都宮高農 大正十二年

大喜田久男 少 尉 徳島 日本大学 大正十年

小山 精一  少 尉 東京 中央大学 大正十年

黒崎英之朗 少 尉 福岡 慶応義大 大正十二年

時岡 鶴夫  少 尉 兵庫 京都帝大 大正十一年

藤田 暢明  少 尉 徳島 東京農大 大正十二年

中村 恒二  少 尉 茨城 早稲田大 大正十一年

高山 重三 少 尉  愛知 同志社大 大正十二年

荒木 弘   少 尉  愛知 東洋大学 大正九年

本田 耕一 少 尉 兵庫 法政大学 大正十一年

西野 実   少 尉  石川 拓殖大学 大正十一年

折口 明   少 尉  長崎 専修大学 大正十一年

桑野 実  少 尉  京都 慶応義大 大正十二年
 

第十一建武隊

楠本二三夫 中 尉 長 崎 久留米高工 大正十三年生まれ

日裏啓次郎 中 尉 東 京 法政大学  大正十年

花田 尚孝 一飛曹 北海道 飛練十二期 昭和二年

古田 稔  一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年

鎌田 教一 一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年


第八七生隊

藤田 卓郎 中 尉 愛 媛 拓殖大学 大正九年

橋本 貞好 一飛曹 富 山 乙飛十八 大正十五年

荒木 一英 二飛曹 新 潟 特乙三期 大正十五年


第六神剣隊

牧野 カイ 少 尉 石 川 明治大学 大正十二年

川野 忠邦 上飛曹 宮 崎 甲飛十期 大正十二年

淡路 義二 二飛曹 群 馬 乙飛十八 大正十四年

斉藤 幸雄 二飛曹 宮 城 乙飛十八 大正十四年
  

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

富安俊助機

宮部久蔵機宮部久蔵機

 

関連記事
赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース
指宿正信大尉 空に生きた武人

 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

Photo_11


1

Photo Photo_2

Photo_3 Photo_4

Photo_5 Photo_6

Photo_7

Photo_8

10

11

12

Photo_9

Photo_10 

 
 
『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年8月 8日 (金)

林喜重大尉の紫電改~折口を守った神様

Imgp4833

 
折口の浜に眠る林喜重大尉の紫電改
鹿児島県阿久根市折口浜の浅瀬に一機の紫電改が眠っています。
第343海軍航空隊、林喜重大尉の機体です 。
 
林大尉最後の戦い~B-29へ捨て身の攻撃
昭和20年、4月24日、B29の編隊が阿久根を空襲。
余勢をかって、ここ折口まで 爆弾を投下しました。
現在、折口駅がありますが ちょうど線路を挟んで南にあたる
阿久根側は焼けたのですが 折口側は無事だったのです。
 
折口だけが焼けなかった理由
B-29が折口の爆撃進路に入ったとき
一機の紫電改が突っ込んできました。343空、林大尉の機体でした。
林大尉はB-29直上より、一撃攻撃を加えると、さらに反復して執拗に
食いつきました。 これにひるんだB-29は爆弾を全て捨てると、
遁走にかかりました。
 
林大尉の紫電改も被弾し、満身創痍でしたが
B-29に最後の一撃を加えると、ついにB-29は煙を吐きました。
おかげで折口の町はは焼けなかった。
 
「だから、わしらは林大尉は神様だと思っている」
住民はそう語り、そのとき林大尉が放った薬莢を
大切に持っていました。
 
増槽タンクが落ちなかった
林機は増槽タンクが故障により切り離せず、つけたまま戦ったそうです。
空戦後、大尉は沖へ不時着を試みましたが増槽タンクが抵抗となり
着水と同時に おおきく前のめりに突っ込み、頭がい骨骨折により
戦死しました。 この慰霊碑は林大尉を荼毘に付した場所に建てられています。
 
この話は鹿児島在住の私の友人が折口で取材して まとめた話です。
ある日、戦史研究者がやってきて、この話をしたそうです。
そして、特に許可した覚えはありませんが、この話ほぼそのままの形で
雑誌「丸」に掲載されました。 器の大きい友人は「まあ、よか」ということに
して、特に何も言いませんでした。
 

Imgp4829 

林大尉の慰霊碑へ
野球場のフェンス奥へ入っていきます。
 

Imgp4825

見えてきました、地元の有志が清掃してくれていて
綺麗です。
 

Imgp4823

D

Imgp4817

Imgp4822

 
林喜重大尉(戦死後少佐)碑文
 

松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか
 
▼再現作画(推測)

Photo

Photo_2




2014年7月10日 (木)

震電

要望があり震電Tシャツを商品化しました。
既にアマゾンで販売中です。
震電好きな方の熱烈なアイデアで実現しました。
 

B

B_2

B_3

「震電」販売ページへ(ブルー)
「震電」販売ページへ(ブラック)

「震電」販売ページへ(ネイビー)

震電は大戦末期に九州飛行機が開発した
日本海軍の迎撃戦闘機(インターセプター)です。
主にB-29の迎撃を任務として運用が検討されました。
 
しかし、その登場が遅すぎました。革新的な高高度性能と
火力を備えていましたが、
初飛行は昭和20年8月3日のことで
実戦配備に至ることなく終戦を迎えました。
 
映画「スカイクロラ」によく似た機体が登場しますね。
 
商品化の要望がありましたらお寄せください!
  


 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


最後までご覧くださりありがとうございました。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

 
 
関連記事
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉
雷電戦闘機隊


零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年1月12日 (日)

岩本徹三の戦後2

以前、書きました岩本徹三の記事
貴重なコメントを頂きましたので
紹介させて下さい。(勝手にすみません)
 
以下、旅好きなおっさん様のコメントより

-------------------

ちょっと岩本さんの故郷、島根県益田市に
旅してきました(生まれは樺太です)
 
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場を
ちょこっとのぞいたりしてきました。工場は戦後を忍ばせる
古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと
勤めていたのかと思うと少し悲しかった。
 
地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという
情報があり 電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に
墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を
見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 
 
----------
 
以上です。
旅好きなおっさん様、貴重なコメントをどうもありがとうございます。
私も近くを通った折にはお墓参りしたいと考えています。

2013年9月29日 (日)

250kg爆弾を模した敷島隊の碑

初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」五名の慰霊碑が
隊長の関行男大尉の出身地である、伊予西条市の楢本神社にある。
 
この衝撃的な慰霊碑は、五名がゼロ戦に抱いて飛び立った
250キログラムの爆弾そのまま模している。

Imgp5454

Imgp5458

Imgp5432

Imgp5463_3

Imgp5433

Imgp1773

左側は戦艦「大和」の砲弾、右は「三笠」 
 
なお、境内には神風特攻隊記念館もある。
入場は300円。
 
私は以前、敷島隊の五機を整備した元整備兵の方に
お話を聞いたことがある。あわせて谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹の
回想も少し書いた。
 
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

伊予西条に慰霊碑があると聞いたので、以前から訪ねたいと
思っていたのが、ようやく、お参りができた。
 
関さんは、軍神として、またこのような形で顕彰され
関さん自身、それが嬉しいことなのかどうか、私には
知る術もないけれど、今日の日本のために命を奉げたことには
心から感謝します。
 
楢本神社
住所:愛媛県西条市大町1138
 
国道11号線から住宅街へほど500メートル入ったところにある。
慰霊碑と鳥居の前が駐車場。
隣が緑色の外装をした畳屋さん。

2013年9月28日 (土)

敵機に体当たりした「彩雲」 ~三魂之塔

四国カルスト天狗高原より夕日を望む

Imgp2401

 
経緯

昭和20年3月19日 午前7時45分頃
第343海軍航空隊の三人乗り偵察機「彩雲」が 飛行中、
エンジントラブルから敵機に捕捉される。
 
離脱は不可能と判断した彩雲は、この上空で敵編隊に突入、体当たりを
敢行したものである。 搭乗員は機長、高田満少尉、操縦、遠藤稔上飛曹、
電信、影浦博上飛曹の三名で 全員が戦死。四散した機体の破片は三つの
峰に散らばったが 遺体は墜落する様子を目撃していた住民によって収容された。
 
現在も「彩雲」の主脚、片方が残されている。
「三魂之塔」と刻まれた慰霊碑であるが
その経緯などは一切記されていない為 、偶然訪れた者は、
何の慰霊碑かわからないだろう。
 
場所
高知県高岡郡津野町芳生野、
四国カルスト天狗高原、天狗荘から県道48号線を
およそ5.5km下ったヘアピンカーブの内側にある。
狭く急勾配の道の途中にあるので 訪れる際は注意が必要。
 
探していたらすっかり暗くなってしまった。
 

Imgp2402 

2013年8月22日 (木)

粒針 靖弘(上飛曹)海軍パイロットベース

粒針 靖弘 上飛曹
(のち菅原靖弘)
 
甲飛8期
 
20歳で第261海軍航空隊所属 零式戦闘機搭乗員。
昭和19年、4/18サイパン邀撃戦、4/22大宮島(グアム)へ空中転進の後
4/23大宮島上空邀撃戦に参加、5/27サイパン空中転進
 
あ号作戦に参加。最後はサイパン上空で敵陣へ落下傘降下。
捕えられるも、261空で生還した数少ない搭乗員の一人。
 
戦後、航空自衛隊ジェット戦闘機パイロットを経て
民間機フェリーパイロットとして世界各国を飛び回りYS-11を操縦。
アフリカの大統領機の機長も務めた。

2013年7月30日 (火)

紫電改と信濃

◆大和の姉妹艦にして
帝国海軍最後の超巨大空母「信濃」

 
先のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅したと思われたが
帝国海軍は不滅であった。
 
昭和19年11月11日、 東京湾に突然現れた超巨大航空母艦、
その名を「信濃」といった。 戦艦大和、武蔵に続き、三番艦として計画、
起工したはずの信濃は 戦局の変化に伴い、横須賀の海軍工廠で
造船過程の途中 航空母艦へ改造された、当時としては世界最大の
超大型空母である。何せ、土台が「大和」そのものであるから
その巨大さは計り知れない。
 
この頃になると国家総力戦を極め、信濃建造の裏側にも、軍需工場で
信濃の部品製造に働く 「女子挺身隊」と呼ばれた女学生の存在と犠牲が
あったことを忘れてはならない。

信濃に着艦した紫電改

艦上戦闘機「紫電改」
11月11、12日
完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。
その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが
「艦上戦闘機紫電改(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、のちの航
空自衛隊 ジェット戦闘機パイロットとなる人である。 同期には
南太平洋の韋駄天、重松康弘大尉がいる。
 
紫電改着艦テストの11日には、零戦や天山などの従来機の着艦テストが
終了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、とにかく、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
 
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
 
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
 
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
 
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
 
紫電改、信濃に着艦 「ゼロ戦よりやさしいと思った」
山本の紫電改ははじめにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行ったのち
いよいよ本番、
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
 
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である」
 
「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって
三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」
 
「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。
零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
 
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。
しかし信濃艦長
阿部大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を
出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
 
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
 
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
 
◆虎の子「流星」、「彩雲」
信濃には、この紫電改のほか、最新鋭の「流星」、「彩雲」が搭載される予定で
いずれも同日、信濃に着艦テストを完了している。

◆桜花とともに轟沈 
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
 
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月24日 (水)

岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

関連記事
岩本徹三の戦後その2

赤松貞明中尉の戦後

岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース 



出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月22日 (月)

ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年7月21日 (日)

神龍特別攻撃隊~晴嵐のパナマ運河攻撃

このひとつ前の記事で
第一御楯隊の零戦が国籍マークのみを残して
真っ黒に塗られたことを書きました。それで思い出したことがありました。
  
国籍マークを書き換えて米軍の星のマークに塗り替えた例がありました。
アメリカのマークをつけた飛行機で出撃するとは、
搭乗員の悔しさは堪えがたいものだったでしょう。少し紹介します。
 
 (第一御楯隊の場合は真っ黒に塗りつぶしたとはいえ国籍マークを
きちんと残しているので合法です)

Scan0053 
◆昭和20年7月、パナマ運河攻撃を意図して出撃した
潜水空母「伊400」搭載の特殊攻撃機「晴嵐」搭乗員
高橋一雄さんの手記が光人社から出ています。
『神龍特別攻撃隊~潜水空母搭載「晴嵐」搭乗員の手記』
この本は戦記ものの中でも屈指で、おすすめです。
 
潜水艦の中の生活、たとえば潜水艦の中ではネズミが棲みついていて
皆に親しまれ、ネズミがいることは非常に縁起がいいんだとか
(何故か?本の中に書いてあります)
なんといっても偵察機搭乗員としての、細かい描写は
実にに貴重かつ珍しいものです。
 
この手記の最後のほう、いよいよパナマ運河攻撃に際しての記述ですが
一部を引用します。以下引用。
 
「第六艦隊司令長官醍醐忠重中将の指示により諸君に金
三百円を渡す。明日より四日間、軍港内で特別休暇を許可するから
充分に鋭気を養ってくるように」
 
と、達せられた。当時私が少尉の本俸で、月百二十二円だから
三百円は相当な金額である。搭乗員一同で相談の結果、この世の別れだ
盛大に使ってしまおうと、衆議一決した。
 
7月17日、四日間の軍港内休暇が終って艦に帰ると、
格納筒から晴嵐を引き出し、日の丸を消して米軍と同じ
星のマークに描きかえている。誰の命令だと聞いても誰も知らない。
誰かの入れ知恵を司令が許可したのだろうが、これは国際法に違反するし
卑怯なやり方だ。敵戦闘機には絶対つかまらないと確信している
私は馬鹿らしく、情けない限り
 
しかし一少尉の私が上級者の決めたことに反論できず、
私の乗る一番機のプロペラスピンナーに、大きなハートに
一本の矢が突き刺さる絵を描き「一殺必中」と文字を付けて
それとなく反抗の意をしめした。
 
引用おわり
 
結果的にパナマ運河へ辿り着く前に終戦を迎えるのですが
このような逸話もあったのですね。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島摺鉢山山頂に
「第一御楯隊」ならびに「第二御楯隊」の慰霊碑がある。
御楯(みたて)とは天皇陛下の盾、すなわち祖国の盾という意味である。
 
第一御楯隊は昭和19年11月27日に、
第二御楯隊は昭和20年2月21日に
出撃、大戦果をあげ散華した。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑

 
第一御楯隊

第一御楯隊は第252海軍航空隊戦斗317の零式戦闘機12機
をもってサイパン島のアスリート飛行場に集結するB-29を
強襲、生還を前提とした攻撃隊であった。機体は識別用の国籍マーク
を除いて黒に塗られた。
 
この勇猛果敢な攻撃によりB-29炎上4、大破6の戦果をあげた。
強襲後はパガン島へ不時着、潜水艦で救出される作戦であったが
結果的に全機が失われた。
  
※なお、岩本徹三が第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと後に回想している。
 
零戦隊とは別に、戦果確認用に「彩雲」2機が、前日の26日には
先発隊として
海軍中攻機、海軍少尉搭乗の陸軍機、百式司偵が
出撃している。
このため、第一御楯隊の碑の左側面には
「陸軍重爆隊」右側面には「海軍中攻隊」と刻まれている。
彩雲一機は帰還した。
 
なお、山頂の慰霊碑とは別に
第一御楯隊が硫黄島からの出撃前夜に過ごしたトーチカが
自衛隊基地内に現在も残されている。
Photo

▲黒一色に塗られた第一御楯隊の零戦
 
第一御楯隊で散華した搭乗員は次の通り。

第一御楯隊
零戦11機、昭和19年11月27日
サイパン・アスリート飛行場強襲において散華

◆大村 謙次 中尉(静岡)
海兵72期・大正11年生・22歳

◆小野 康徳 飛曹長(香川)
甲飛3期・大正10年生・23歳

◆北川 磯高 上飛曹(福井)
甲飛13期・大正12年生・21歳

◆住田 広行 一飛曹(大阪)
甲飛11期・大正13年生・20歳

◆東 進 一飛曹(滋賀)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆加藤 正人 一飛曹(山形)
甲飛11期・大正11年生・22歳

◆司城 三成 二飛曹(大分)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆新堀 清次 飛長(東京)
特乙1期

◆上田 祐次 飛長(神奈川)
特乙1期

◆高橋 輝美 飛長(香川)
特乙1期・昭和2年生・17歳

◆明城 哲 飛長(京都)
特乙1期・大正15年生・18歳
 
第二御楯隊
 
第二御楯隊は昭和20年2月21日、第601海軍航空隊
天山、彗星、爆戦(爆装零戦)をもって編成された特別攻撃隊で
香取基地を出撃、八丈島で燃料補給後、硫黄島東南東海上の
米機動部隊に体当たり攻撃を敢行。航空母艦二隻に大損害を与えた。
搭乗員は次の通り。 

 
第二御楯隊
天山6機、彗星11機、爆戦6機、昭和20年2月21日
硫黄島周辺にて散華

◆村川 弘 大尉(新潟)
海兵70期・大正10年生・23歳

◆飯島 晃 中尉(長野)
海兵72期

◆桜庭 正雄 中尉(広島)
海兵72期・大正12年生・21歳

◆茨木 速 中尉(高知)
高等無線技術13期・大正12年生・21歳

◆佐川 保男 少尉(香川)
香川技13期・大正14年生・19歳

◆木下 茂 少尉(大阪)
関西大学13期・大正12年生・21歳

◆中村 吉太郎 少尉(石川)
中央大学13期・大正12年生・21歳

◆原田 嘉太男 飛曹長(鳥取)
甲飛2期・大正8年生・25歳

◆小島 三良 上飛曹(東京)
乙飛14期・大正12年生・21歳

◆石塚 元彦 上飛曹(山形)
甲飛9期・大正13年生・20歳

◆小石 政雄 上飛曹(神奈川)
甲飛9期・大正14年生・19歳

◆村井 明夫 上飛曹(大分)
甲飛9期

◆志村 雄作 上飛曹(山梨)
乙飛15期・大正13年生・20歳

◆岩田 俊雄 上飛曹(福井)
乙飛13期・大正13年生・20歳

◆青木 孝充 上飛曹(千葉)
丙飛10期・大正9年生・24歳

◆牧 光廣 上飛曹(広島)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆小松 武 上飛曹(高知)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆中村 伊十郎 上飛曹(千葉)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆窪田 高市 上飛曹(山梨)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小林 喜男 上飛曹(山形)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆幸松 政則 上飛曹(大分)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小山 照夫 上飛曹(香川)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆戸倉 勝二 上飛曹(三重)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆下村 千代吉 上飛曹(鹿児島)
乙飛16期

◆森川 博 一飛曹(京都)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆三宅 重男 一飛曹(岡山)
甲飛11期

◆池田 芳一 一飛曹(和歌山)
丙飛10期・大正10年生・23歳

◆大久保 勲 一飛曹(茨城)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆田中 武夫 一飛曹(滋賀)
丙飛10期・大正11年生・22歳

◆原田 章雄 一飛曹(熊本)
丙飛17期・大正11年生・22歳

◆稗田 一幸 一飛曹(福岡)
丙飛13期・大正13年生・20歳

◆鈴木 辰蔵 一飛曹(東京)
乙飛17期・大正14年生・19歳

◆伊藤 正一 一飛曹(宮崎)
乙飛17期・大正12年生・21歳

◆清水 邦夫 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆叶 之人 二飛曹(北海道)
甲飛12期・昭和2年生・17歳

◆信太 廣蔵 二飛曹(秋田)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆川島 茂 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正15年生・18歳

◆竹中 友男 二飛曹(兵庫)
乙飛16期・昭和2年生・17歳

◆長 与走 二飛曹(福岡)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆小山 良知 二飛曹(長野)
乙飛18期・昭和3年生・16歳

◆北爪 円三 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正11年生・22歳

◆和田 時次 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆岡田 金三 二飛曹(広島)
丙飛15期・大正10年生・23歳

◆水畑 辰雄 二飛曹(兵庫)
丙飛15期・大正13年生・20歳

◆川崎 直 飛長(宮崎)
特乙1期・大正14年生・19歳

 

 

2013年6月28日 (金)

第261海軍航空隊

2


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第261海軍航空隊(第二六一海軍航空隊)
通称『虎』
 
第261海軍航空隊、通称『虎』は昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。
昭和19年、韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、名の通り
迫り来る米機動部隊に第263海軍航空隊『豹』とともに、マリアナ防衛の
双頭を成し、鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスには中堅以上か真珠湾以来の猛者を迎え編成、
列機は17~18歳の搭乗員が占めた。 パラオ大空襲邀撃戦では
ペリリューより発進、グラマンF6F戦闘機、150機以上を
僅か28機で迎え撃ち、敢闘。 大宮島上空ではB-24への体当たり撃墜を
行ったほか爆装し、艦船への攻撃をかけるなど、勇猛果敢な部隊として知られる。
 
マリアナ沖海戦(あ号作戦)でも76機以上の爆撃機、戦闘機を 撃墜したが、
米機動部隊との歴然たる戦力差の前に未帰還機は増え、7月に解体、
残った搭乗員の一部は フィリピンの201空に編入されたが、
上田司令をはじめ サイパンに残った者は地上戦を展開、最後の突撃を
敢行し玉砕した。
 
機材は零式戦闘機五二型。
 
なおPLANES OF FAME(プレーン・オブ・フェイム)航空博物館所有
(平成25年、所沢航空記念公園に里帰り展示)
零式艦上戦闘機五二型『61-120』号機は
第261海軍航空隊所属機で、サイパンで鹵獲された機体である。(下)
 
Imgp4976_2

 
昭和18年6月1日、鹿児島で開隊された261空は
定数72機 実働機零戦五二型45機とし
19年2月、第一航空艦隊マリアナ進出とともに
アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)に進出。
 
格闘戦、急降下、機銃掃射、三号空中爆発焼夷弾の
投下演習、訓練を 繰り返し、 3月から7月にかけて 同飛行場を拠点に、
ペリリュー、パラオ大空襲邀撃戦、サイパン邀撃戦 メレヨン、
大宮島(グアム)空戦、 あ号作戦(マリアナ沖海戦)で敢闘した。
 
同年7月、マリアナ沖海戦で稼働機が消耗し僅かとなった261空は解隊。
この時点で残された搭乗員の一部は陸攻機でフィリピンへ脱出し
以降、201空に編入されたが 上田猛虎司令をはじめとする多くの
搭乗員は地上に残り サイパン守備隊に編入、最後の突撃を敢行、玉砕した。
また、潜水艦に乗り込み脱出した搭乗員は撃沈され戦死した。
 
共同作戦部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
テニアン、大宮島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第261海軍航空隊編成
および搭乗員
 
司令、上田猛虎中佐(海兵52期)
飛行隊長、指宿正信大尉(海兵65期)
分隊長、伴健一大尉、岡佐古昌人中尉、東山市郎中尉
田中民穂飛曹長ほか
 
機関長、小橋実大尉
主計長、藤原治計大尉
 
医務隊 軍医長、岡本新一軍医大尉(昭和11年、昭士会)
分隊長、石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年、たて、よこ組)
分隊士、井手次郎軍医中尉(昭和18年10月、青島組)
分隊士、北川徹明歯科中尉(昭和17年、九月、元山組)
看護長、川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)
下士官兵、35名(佐世保鎮守府所属)

第261海軍航空隊所属搭乗員一覧
 
岡佐古 昌人中尉
(海兵70)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
鈴木 信男二飛曹
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへあ号作戦に参加6/19未帰還
 
二本森 憲二上飛曹
(操45)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
岩田 増雄二飛曹
(乙15)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
古賀 他四郎一飛曹
(乙11)■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
長谷 登太郎飛長
■3/19サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ 東山 市郎中尉■3/20サイパン飛行艇狩
■3/30ペリリューへ■サイパン地上戦玉砕
 
杠 勇男飛長
■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ
 
井竜 憲一二飛曹
(乙15)■3/20サイパン飛行艇狩■3/30ペリリューへ3/31未帰還
 
林 重則二飛曹
(乙14)■3/20サイパン飛行艇狩■6/19未帰還
 
興津 健市飛長
■3/20サイパン飛行艇狩3/30ペリリューへ
 
伴 健一大尉(海兵69)■3/21サイパン飛行艇狩■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■5/29大宮島空中哨戒■戦斗306へ
8月10日グアムにおいて戦死
 
小関 静飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■あ号作戦参加
 
河野 茂上飛曹
(操55)■3/21サイパン飛行艇狩■201空編入
 
片岡 敏郎二飛曹
(乙15)■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/17未帰還
 
黒川 昌輝少尉
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/24あ号作戦において未帰還
 
岡村 恒三郎飛長
■3/21サイパン飛行艇狩■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■201空へ
 
鮎川 喜七郎中尉
(海兵70)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒
■4/11メレヨン上空哨戒■4/13「松江丸」直掩■4/16、2機で、PB2Y×2機以上邀撃
空中戦で戦死
 
気谷 順次飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■あ号作戦参加
 
田中 民穂飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/9メレヨン上空哨戒■4/11メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒4/17上空哨戒■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
■戦後全日空機長
 
浅川 峯男上飛兵
■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
 
木村 ?雄飛曹長
■3/22サイパン飛行艇狩■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/14「松江丸」直掩■4/18メレヨン空戦
 
久保 典義飛長
(丙11)■3/22サイパン飛行艇狩■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進
■昭和20年3/19松山において戦死
 
指宿 正信大尉
(海兵65)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■4/18サイパン邀撃戦
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■201空-横須賀空
■戦後航空自衛隊F86Fパイロット、昭和32年殉職
  
大塚 明一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
児島 猛二飛曹
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃未帰還
 
吉岡 康飛長■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
閏野 護二飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
貝原 良兼上飛兵
(特丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
藤川 史雄二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
土屋 喜輔上飛兵
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
永井 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■7/8戦死
 
吉田 久光上飛兵
(丙11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
平成24年、バベルダオブ島にて機体が発見される 
 
中山 正次二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
浜田 勇二飛曹
(特丙12)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
林  茂一飛曹
(操55)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
大谷 敏男二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
宮崎 保飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/17未帰還
 
渋谷 正雄少尉
(予11)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
高坂 三郎一飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦未帰還
 
中尾 隆美飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
岡田 盛樹飛長
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
紀田 四郎二飛曹
■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦
 
佐藤 直人上飛曹
(甲8)■3/30ペリリューへ■3/31パラオ大空襲邀撃戦■6/19未帰還
 
山本 隆造上飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
本武 敏治上飛兵
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■4/22大宮島へ
■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
瀬津 賢三一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進
 
俵谷 法邦二飛曹
(乙15)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
内山 隆雄一飛曹
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
 
近藤 三津男上飛兵
(特丙11)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進
■5/27サイパン空中転進■6/19未帰還
 
伏見 清一飛曹
(乙14)■4/8空中転進■4/10メレヨン上空哨戒■4/12メレヨン上空哨戒
■4/15メレヨン上空哨戒■4/18メレヨン空戦4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
駒走 俊雄飛長
■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■5/27サイパン空中転進
■昭和20年7月31日,戦斗701,大村において戦死
 
石川 要太郎一飛曹
(甲8)■4/8空中転進■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■6/11未帰還
 
塚部 義己上飛兵
(特丙11)■4/18メレヨン空戦■4/10サイパン転進■あ号作戦参加■5/27サイパン
空中転進■9/12比島にて戦死
 
斉藤 善次上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
堤 貞四郎上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦において
敵機体当たり撃破,不時着■6/24戦斗361、硫黄島にて戦死
 
小柳津 益次一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23大宮島邀撃戦
あ号作戦参加
 
内田 隆夫飛長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中
転進■6/19未帰還
 
佐藤 庄司飛長
(丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4月戦死
 
坂本 健次郎上飛兵■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦
■6/19未帰還
 
梶原 靖夫一飛曹
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦、敵機体当たり
撃破、未帰還
 
西田 勝次上飛兵
(特丙11)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリン
諸島において戦死
 
粒針 靖弘上飛曹
(甲8)■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加
■5/27サイパン空中転進■生還。戦後航空自衛隊パイロットを経てYS-11フェリーパイロット
アフリカ大統領機機長を務める。

 
菊池 政男飛曹長
■4/18サイパン邀撃戦■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11南洋群島において戦死
 
永沼 重雄二飛曹
■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/11未帰還
 
中島 三郎上飛兵■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■あ号作戦参加■6/11未帰還
 
内山 忠行一飛曹甲8■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■6/12未帰還
 
中林 正三郎二飛曹■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■5/27サイパン空中転進
 
阿部 順市飛長
(特丙)11■4/22大宮島へ■4/23大宮島邀撃戦■4/23西カロリンにて未帰還
 
野村 淳飛長
■6/11未帰還
 
石橋 仁志一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
鈴木 節一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
武藤 忠雄一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
原田 保久一飛曹
(甲10)■7/7サイパン地上戦玉砕
 
田中 仁飛長
■6/12未帰還
 
二木 正美上飛曹
■あ号作戦参加■201空編入■19年9月12日比島において戦死
 
岡村 好夫二飛曹
■あ号作戦参加 寺島 大一飛曹■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
菊池 政治飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
安藤 武吉飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
立壁 邦雄二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
坂元 盛彦一飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
中村 正三郎二飛曹
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
杉本 正勝飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
金原 菊馬飛長
■あ号作戦参加■6月11もしくは12未帰還
 
小田 喜一飛曹長
(操18)■あ号作戦参加■5/27サイパン空中転進■5/28大宮島空中哨戒
生還
 
山本 豊治一飛曹
(甲10)■6/9サイパン戦死
 
竹内 薫一飛曹
(甲10)■7/7サイパン戦死
 
魚住 勝一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
堀田 芳夫
(予11)■7/15サイパン戦死
 
岡田 忠雄一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
鈴木 千秋一飛曹
(甲10)■6/11サイパン戦死
 
高橋 定義一飛曹
(甲10)■5/11サイパン戦死
 
小西 間佳
(特丙11)■3/11東太平洋戦死
 
光野 正一飛曹
甲10■6/11サイパン戦死

山本 久二雄
(特丙11)19年1月19日サイパン殉職
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

第263海軍航空隊

Photo


第一航空艦隊-第六十一航空戦隊

第263海軍航空隊(第二六三海軍航空隊)
通称『豹(ヒョウ)』
 
第263海軍航空隊、通称『豹(ヒョウ)』は
昭和19年に活躍したゼロ戦戦闘機部隊。 韋駄天かつ勇猛果敢な部隊であり、
名の通り 迫り来る米機動部隊に、第261海軍航空隊『虎』とともに
マリアナ防衛の双頭を成し 鋭い牙をむき恐れられた。
 
分隊長クラスに中堅以上、もしくは熟練搭乗員、
列機は17~18歳(甲種10期)の搭乗員が占めた。
 
昭和18年10月に元山で開隊された第263海軍航空隊は
定数72機をもって編成。司令官に玉井浅一中佐が選任された。
 
11月に元山での訓練を終えると、翌昭和19年2月、先発隊は香取基地を
発ち、硫黄島を経由後、21日にテニアンに到着した。
テニアンは飛行場、掩体、防備は不完全であり、
 
到着直後の2月23日、米機動部隊、戦爆連合の大編隊が来襲。
263空は当初、艦爆隊の直掩隊として進出した部隊であったが
この空襲により、急遽邀撃戦を展開。この日の空戦で輪島由雄中尉以下
11機が自爆および未帰還となり、地上の6機も破壊された。
 
そこで、飛行隊長の重松康弘大尉以下生存者は輸送機で内地へ
代替機の受領に飛んだ。 2月末から3月中旬頃、補充後は艦戦49機となり
ふたたびマリアナ、大宮島(グアム)第一飛行場へ進出した。
 
3月30日、パラオ大空襲の応援要請を受け、261空とともにペリリュー
駆けつけたがこの日は会敵せず、一旦ペリリューに着陸する。
翌31日、朝からふたたび米機動部隊の来襲を受け、邀撃発進。
 
261空とともにグラマンF6F戦闘機150機以上を相手に敢闘したが
18機出撃中、15機が未帰還となった。地上の3機も大破炎上し、
生存者は輸送機でサイパンへ転進した。
 
5月25日、ビアク作戦参加のため、残存主力28機を玉井司令が率いて
ペリリュー、ついでワシレへ進出。
 
5月15日、大宮島へ30機が復帰、この間残留隊は11日のグアム上空戦で
4機が未帰還。15日から18日、サイパン沖の艦船攻撃では20機が未帰還となった。
 
5月19日、あ号作戦で戦力のほとんどを失う。
 
7月8日、重松大尉以下、残存6機がペリリューへ空中転進の途中
グラマンに奇襲され、重松大尉を含む5機が未帰還。 たった1機のみ
ペリリューに到着した。この1機は杉田庄一で、のちに松山の二代目
343空で戦うこととなる。
 
グアムに残留した部隊はその後も少数で攻撃を繰り返したがついに稼働機は
ゼロとなり解隊、搭乗員は陸攻で脱出。ペリリューの残留8機はダバオへ転進
201空へ編入された。
 
263空時代から生き残った中瀬清久一飛曹も特攻第一号『若桜隊』として
敵艦に体当たり、散華した。
 
共同作戦部隊
 
第261海軍航空隊(虎)
サイパン島を拠点に戦った戦闘機隊
 
第121海軍航空隊(雉)
彩雲、彗星を用いた強行偵察部隊
 
第263海軍航空隊(豹)
編成および搭乗員
 
司令、玉井浅一中佐(海兵52期)
飛行隊長、重松康弘大尉(海兵66期)
分隊長、武藤陳彦大尉、輪島由雄中尉、吉川芳博中尉ほか
 
第263海軍航空隊戦没者
 
■2/23テニアン邀撃11機未帰還
吉川 芳博(中尉) 海兵70期
輪島 由雄(中尉) 操練18期
大久保 富正(一飛曹)甲種7期
岡田 良三(一飛曹) 甲種7期
川崎 熊男(二飛曹) 乙種15期
門脇 克悦(上飛兵) 丙種12期
品田 安蔵(上飛兵) 丙種12期
 
■3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
武藤 陳彦(大尉) 海兵70期
島田 義人(予備少尉) 予備学生11期
西本 彰吉(上飛曹) 乙種10期
栗田 勝司(上飛曹) 甲種6期
菊池 武一(飛曹長) 甲種1期
長瀬 正郎(飛曹長) 甲種1期
芳野 定俊(一飛曹)
田渕 武夫(一飛曹) 甲種8期
植田 正治(二飛曹) 乙種15期
矢鍋 幸男(上飛兵)
小野 敏春(上飛兵) 特丙11期
横池 武治(上飛兵) 丙種12期
下瀬  卓(上飛丙) 丙種12期
神田 秀雄(上飛兵) 丙種12期
進藤 勝治(上飛兵) 丙種12期
 

野口 健太 乙種15期,12/23,南洋群島
坂口 貢 丙種12期,1/19佐多沖
青木 晃(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
高木 哲郎(一飛曹) 甲種10期,3/4,パガン
飯沼 一郎 甲種8期,4/24,サイパン
安藤 清秋(一飛曹) 甲種10期,4/26,大宮島
本田 健一郎(大尉) 海兵69期,5/7,大宮島
梶川 勝造(予備少尉) 予備学生11期,5/7大宮島
田中 三一郎(飛曹長) 操練43期,5/7大宮島
楠森 可(一飛曹) 甲種10期,6/6大宮島
石田 明正(一飛曹) 甲種10期,6/8,小笠原諸島父島
次郎丸 隆(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
福島 統(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮久 昭義(一飛曹) 甲種10期,6/11,大宮島
宮尾 芳雄 丙種12期,6/18,南洋群島
蕪木 幾二(上飛曹) 丙種4期,6/18,マリアナ沖
青木 腋雄(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
金木 雄一(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
永谷 尚(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
真家 和夫(一飛曹) 甲種10期,6/24,大宮島
重松 康弘(大尉) 海兵66期,7/8,ヤップ
富田 隆治(一飛曹) 甲種10期,7/21,ヤップ
井上 聖一郎(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
秋山 日出一(一飛曹) 甲種10期,8/10,大宮島
青山 一朗(一飛曹) 甲種10期,9/12,セブ
丸山 茂樹(一飛曹) 甲種10期,10/15,クラーク※201航空隊へ編入
城所 竜男(一飛曹) 甲種10期,10/17,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
中瀬 清久(一飛曹) 甲種10期,10/25,レイテ湾 ※201航空隊へ編入
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2013年6月20日 (木)

浜松広報館の零戦と尾崎伸也大尉

Dsc02567
 

航空自衛隊浜松広報館に零戦五二型(43-188号機)が展示されている。

この機体の歴史をさかのぼると、昭和38年、グアム島で発見され
日本へ返還輸送、復元されたものだ。
 
誰が乗っていたのだろうか?
展示機の説明書きにはこれといった記載が無い。
ただ書物によると、尾崎伸也(大尉)の搭乗機と推測される。
尾崎大尉は水上戦闘機出身の零戦搭乗員で
 
昭和19年5月25日、343空は、ビアク作戦発動とともにパラオ(ペリリュー基地)へ進出、
6月6日にはアイライ基地(現在のパラオ国際空港)へ拠点を移した。
 
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、敵戦闘機2機と交戦となり
1機を撃墜、もう一機に追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させたが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
それがこの機体だ。多くの観光客が訪れるが、かつて太平洋の空を席巻し
護国に命を奉げた尾崎大尉をはじめ、大空のサムライに思いを馳せる者は少ない。
 
Dsc02600
 
▲復元前、グアム島で発見された尾崎機 
 
この際なので
航空自衛隊浜松広報館(エアパーク)について触れておく。浜松は航空自衛隊発足の地で
航空自衛隊浜松広報館は、航空自衛隊に理解を深めてもらうための施設であり
巨大な格納庫には、歴代の多くの機体が展示されている。
飛行機好きにはよだれもののパークだ。
 
Dsc02614 Dsc02610
 
老若男女、入場無料だ。
 
※民主党による2010年度の予算編成で、目の敵にされ、約一年間
入場料をとっていたが、ふたたび無料化が実現した。現在は無料である。
 
エントランス前には、退役した初代ブルーインパルスF-86Fが迎える。
 
Dsc02573 Dsc02559
 
Dsc02554 Dsc02553
 
国産ステルス戦闘機の「心神」と政府専用機の椅子。
あまり知られていないが、政府専用機は航空自衛隊直轄の機体である。
 
この写真を友人に見せたところ 
「ふ~ん、なんかあほらしい」とコメントしていた。
でも、訪れる観光客は総理大臣の椅子に座って、みな満足そうな様子である。
確かに座り心地は良い。 
 
Dsc02580
 
三菱F-2戦闘機のプロトタイプであるXF-2。
 
Dsc02587_2
 
三菱F-1戦闘機。
 
Dsc02594_2
 
建物の隣は航空自衛隊浜松基地で、広大な滑走路を望む。
戦闘機の離着陸が見られる。なお、3階にある図書膣の資料は膨大で時間を忘れる。
 
20177135_1813290685_107large 20177135_1813290677_194large
 
なんといってもここの特徴は、実際の戦闘機のコクピットに座れるという点。
操縦桿を動かしたり、ラダーペダルを踏んだりできる。
F-1やブルーインパルスのT-2などにも搭乗できる。
 
本物の戦闘機に座れるのは日本ではここだけ!
おみやげショップも完備し、飛行機好きなら絶対に損はさせない
すばらしい施設である。

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2013年6月18日 (火)

海軍パイロットデータベース

尾崎伸也(大尉) 水上戦闘機出身。零戦戦搭乗員

343空飛行隊長。完成直後のアイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
へ移動しパラオ諸島全体の防空任務にあたる。
※昭和38年にグアムで発見され、浜松広報館に展示中の零戦(43-188号機)は
この尾崎大尉の機体と推測される。 
 
板谷 茂(少佐)戦闘機搭乗員
海兵57期。真珠湾攻撃では第一波制空隊総指揮官。
昭和19年6月、第51航空戦隊、第203海軍航空隊で北海道各地の基地
を渡り千島列島の警備にあたる。
7月24日、飛行中事故死。
 
岩城芳雄 (一飛曹)空母翔鶴航空隊戦闘機隊
甲種予科練2期。真珠湾制空隊。
ミッドウェイ海戦ではプロペラと翼タンクに13mm三発被弾も
小攻4(内共同2)、大攻3(内共同2)を撃墜。
赤城を失ったのち、空母飛龍に着艦。
昭和17年8月24日
翔鶴戦闘機隊(指揮官新郷英城大尉)
14小隊、分隊長、指宿正信大尉
2番機として母艦翔鶴の直掩にあたり交戦
自爆戦死
 

江馬友一(飛曹長)ベテランゼロ戦搭乗員。

最後は敵編隊第四波を休みなしで迎え撃って帰らなかった。
操練22期。第254海軍航空隊ほか
 
羽生十一郎 (三等飛行兵曹)
操練43期、零式戦闘機搭乗員
昭和16年12月、真珠湾攻撃に於いて赤城制空隊として出撃。
ポートダーウィン爆撃制空隊、コロンボ制空に参加。
ミッドウェー海戦。4時20分、第三直掩隊として発艦。
交戦後、行方不明。同日付戦死と認定。
 
長嶺公元(大尉)海兵68期、彗星偵察員。
千早少佐とともに強行偵察の功労者。
第121海軍航空隊(通称雉)第一分隊長ほか
 
永元俊幸(大尉)海兵69期、彗星操縦員。
零戦隊を率いてマリアナ沖へ出撃。未帰還。平成12年
第121海軍航空隊(通称雉)第二分隊長ほか
ペリリュー派遣隊
 
新郷英城(中佐)-のち航空自衛隊空将
海兵59期、ゼロ戦搭乗員-のち航空自衛隊ジャット戦闘機パイロット。航空自衛隊トップ
空母翔鶴飛行隊長として活躍。ヘンダーソン飛行場攻撃で
被弾不時着。一命をとりとめる。
戦後は航空自衛隊に入隊。ジェット戦闘機パイロット。
空将-航空総隊司令部幕僚長。

2013年6月17日 (月)

海軍航空隊一覧

Photo_3
パラオのペリリュー、ガドブス、アイライ各飛行場から出撃した航空隊史および
ペリリュー島で玉砕した海軍部隊を記載
■偵察隊

第121海軍航空隊(雉)

■水上飛行機隊

第30根拠地隊附飛行隊

 
■戦闘機隊
第201海軍航空隊

第265海軍航空隊(雷/狼)
第321海軍航空隊
 
■艦爆・艦攻隊
第513海軍航空隊
第521海軍航空隊(千歳空)
第523海軍航空隊(美幌空)
 
■陸攻隊
第732海軍航空隊
第751海軍航空隊
第752海軍航空隊
第761海軍航空隊(龍)
 
■飛行艇(派遣隊 第11、12偵察隊)
第851海軍航空隊
 
海軍陸戦隊
特設第33、35、38機関砲隊
第3通信隊(一部)
西カロリン航空隊ペリリュー本隊
第3隧道隊
第21魚雷調整班
第30建設部(一部)
第30工作部(一部)
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第214設営隊
南西方面海軍空技廠(一部)
 
順次更新

2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

03

 
さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

04

 
到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

05

07

 

機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

08_2

 
私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

09

10

 
第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

11

12

13

14

15

16

 
10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

17

  
遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

18


※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

092 - コピー_1_1
ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

20100206 685_1
006 - コピー_1
私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

017 - コピー_1
オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

027_1
054_1
051 - コピー_1
横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

マングローブの森_1
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

モクマオウ_1
101 - コピー_1
これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

107_1
133_1
これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

145 - コピー_1
クレーター_1
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 6日 (木)

最後に飛び立った滑走路へ(ペリリュー飛行場)

さて、テレビでは放送しませんでしたが
パラオではご遺族をペリリュー島の戦跡にも案内致しました。
その中でも是非ともお連れしたかったのがこちらです。

IMGP5714_3



「久光おじさんが最後に飛び立った場所でお参りして行こう」

ペリリュー基地の滑走路です。大部分がジャングルに帰しましたが
現在も滑走路一本が辛うじて残っています。
ご遺族の方々はここでも手を合わせいました。

帰国してから、ご遺骨の行方を調べる日々です。ご遺骨は不時着地点の近くに
一度仮埋葬された後、掘り起こされて、身元不明のままガスパンの慰霊碑に
移されました。島民によるとエプソン大統領の時代、日本と結ばれた
遺骨帰還事業で身元不明のまま日本へ帰ったということです。

現地で調査しましたが、当時の記録が残っておらず、受け取った側つまり
日本の厚生省頼みとなりました。現在、ご遺族とともに調査を進めております。
援護局の職員さんがテレビをご覧になっていたらしく、話もうまく進み
とても丁寧に対応してくださっています。

以下は私の現在の推測と今後の展望ですが、身元不明のまま最終的には
千鳥ヶ淵へ行き着いたのではないかと考えております。

ご遺族の気持ちとしては最終的に埋葬された場所へお参りすることなのです。
今回のパラオ旅行の前にも、お墓にお骨が無いので、代わりにせめて
ゼロ戦の小さな部品か現場の石ころだけでも持って帰りたいという
お申し出がありましたが、これはパラオの法に触れてしまいますので
断腸の思いでお断りしなければなりませんでした。
IMGP6293_1

2012年8月31日 (金)

敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

6a0120a4fad5df970b0176178894af970_2

 
◆敷島隊の五機を整備
 
昭和十九年 十月十八日 フィリピン、ルソン島クラーク飛行場
暁闇の中、中野はたったひとり、五機並んだ零式戦闘機の暖機運転に
取り掛かっていた。彼は零戦のプロペラに手をかけるとゆっくりと回してゆく。
十数回も回せば次第に滑らかになりエナーシャ(スターター)を鳴らして
操縦席に飛び乗ると 右足にエナー車の引き手を繋いだまま、さらに回し
続けながら操縦桿を引いた。
 
「コンタクト!」
 
始動の合図を呼称しスイッチを入れるとエンジンが轟きプロペラが回転した。
これを微速にして油圧の安定を確認すると、隣の飛行機に移る。
次は谷一飛曹の機体である。
 
谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹はサイパンで初めて顔を合わせて以来、
寝起きを共にした搭乗員だ。下級の整備兵だった中野にも親しく接してくれる
優しい人だった。彼の操縦する零戦の後席に乗せてもらった思い出もある。
ここフィリピン戦線でも愛機の整備は中野が担っていた。
 
中野が初めて空襲を経験したのはサイパンに派遣された折でその頃は
恐怖のあまり蛸壺の中で念仏を唱えていたが、それも数を重ねると随分
大胆不敵となった。パラオのペリリュー、フィリピンと転戦し、この頃は
空襲警報が鳴ると「ああ、また敵さんが来たか」といった具合で慣れたもの。
 
「まわせー!」
  
空襲警報が発令されるとエンジンを急ぎ回し、搭乗員へ引き渡すと
蛸壺に飛び込んだ。 「操縦員から地上を見たとき、動くものが目立って特に
狙われる 空襲に遭ったら無闇に逃げてはダメだ。その場で寝てろ。じっとして
いるんだ」 谷の話を思い起こせば、常に冷静に努めることができた。
 
搭乗員達は空中待避ならびに邀撃態勢を取るが、敵の奇襲となれば
飛び上がる 順番など入り乱れて我先に離陸して、殊に経験の浅い搭乗員は
慌てて舞い 上がったところを敵機に撃たれた。一方、老練の兵は滑走路端まで
移動してから離陸しジャングルをかすめてしばらく低空で飛んだ後に
勢いを付けて敵機に襲い掛かる。 度重なる空襲でひどくやられた。
 
今ここクラークに健在なのは虎の子の零戦二十一型、五機であった。
 
「コンタクト!」
 
中野が五機目のエンジンが回すと、東の空が白み始めていた。
レイテの決戦が迫っている。
 
◆突然の帰国命令、谷との別れ

「中野は明朝内地から来る一式陸攻に乗って帰国せよ」
突然の異動命令だった。一切の口外無用、 整備兵として極めて重要な任務が
内地で待っているとだけ告げられた。
 
「明朝、内地から陸攻が迎えに来る。給油を済ませたらすぐに離陸するから
今夜中に帰国の準備をしておくように」
 
突然の別れにあわただしく荷物をまとめていると 谷を含む四人がやってきて
餞別とホマレ(煙草)を差し出した。 命令といえども、ここで戦友と共に最後まで
戦うと、潔く腹をくくったものだが、 まさか死に損ない、一人内地へ引き揚げねば
ならぬ後ろめたさといったら、 悔しさが込み上げた。 翌19日の朝、内地へ戻る
中野を皆が笑顔で見送った。
 
「谷さん、さようなら。ご武運を」
 
陸攻は飛び立った。
日を同じくして、201航空隊本部へ交互するように現れた将官こそ
大西瀧治郎海軍中将であり、この夜、後年の歴史に残る異例の航空作戦が
立案されることとなる。
 
◆三菱で試験機の開発に携わる
 
内地へ戻った中野は明治航空隊の監督官に任命され
日々、三菱から納入される航空機の試験に立ち会った。
 
「谷さんは今頃レイテで敵を撃ち落としているだろうか」
 
11月末にはペリリュー島守備隊が玉砕し、翌3月末には硫黄島が陥落した。
硫黄島を占領した米軍は瞬く間に飛行場を整備し、B-29が護衛のP-51と共に
飛来し本土の無差別爆撃を繰り返すようになった。 日本の戦局は悪化の一途を
辿っていたが それでも中野は三菱から次々納入される機体の試験立ち会う
とともに 新型機の開発に携わっていた。
作業に追われ開戦から四度目の夏が訪れた。
 
◆秋水の整備と飛行試験に立ち会う
 
昭和二十年七月七日
海軍横須賀航空隊追浜飛行場
 
初夏の青い空が滑走路の果てるまで広がっていた。
中野は新型機を木製の台坐とともに格納庫から押し出し滑走路へと移動させた。
褐色の機体が初めて日の光を浴びた瞬間だった。
ロケット戦闘機「秋水」の初飛行試験である。
 
秋水は三菱が独自に開発した日本史上初のロケット戦闘機だった。
実戦配備が成されれば、離陸後3分半で高度1万メートルに達し
B-29に 一撃を加え、燃料の尽きたところで重滑空機となって帰投コースに入る。
 
当初、14時に予定されていた発進はエンジンがかからず再整備のため
遅れていた。 テストパイロットは海軍大尉犬塚豊彦で 滑空機「秋草」での
滑空試験を重ね、それが概ね成功したので いよいよこの日、ロケット
エンジンを搭載しての初飛行となった。 準備された飛行服は
超高高度飛行を考慮し 冬用飛行服の内側や襟に銀狐の毛皮を縫いつけた
特別なもので 犬塚はそれを身にまとったまま整備完了をじっと待っていた。
 
初夏の地上での暑さは想像を絶するものであったが、犬塚から整備の遅れを
責める言葉は一切なかった。周りの者は飛行の翌日延期を進言したが、
かれは これを断り整備完了を待ち続けた。 16時、整備が完了し、
犬塚が全面褐色の秋水戦闘機に乗り込むと 発火を防ぐための放水が
行われ、エンジン始動の準備があわただしく行われた。
 
持田勇吉設計課長が彼の誠意ある対応に感謝し 握手を求めると、
かれは少し微笑みながらその手を握った。
 
「大尉殿、少しでもおかしく感じたら、まっすぐ海へ向かって不時着水して
下さい。沖に待機している船の艇指揮は七十期と七十一期だから心配は
要りません!この機が沈んでも次が用意してありますから大丈夫です」
 
同期の絆は兄弟以上に強い。どんなに無理をしてでも救助してくれるはずだ。
 
◆中野の手から離れ飛び立つ秋水
 
エンジンが始動すると虎の尾と呼ばれる縞模様の排気炎が現れ、
陽炎となって 背景を歪めてゆく。
 
16時55分、機体は滑走を開始した。廣瀬大尉が左翼を、
中野が右翼を支えた、その手からは振動が伝わってくる。
10メートルほど 走ったところで機体は中野の手から離れて行った。
機体はしばらく滑走路を這ったが、220メートルで遂に地面を離れ
車輪が切り離されると、機体は澄み渡った青い空へ吸い込まれていった。
その急上昇の勢いたるや、天地をひっくり返して空へ落下するの勢いであった。
地上で見守っていた者達から一斉に歓声が上がった。
 
試験飛行成功かと思われた瞬間、高度350メートル程のところで
パンパンという異音を発して黒煙を排出するとともにエンジンが停止して
しまった。余力で、なおも150メートル上昇を続けた後、犬塚はエンジンの
再始動を試みたが失敗に終わった。 「少しでもおかしく感じたら、まっすぐ
不時着水して下さい」 離陸前の言葉が思い出されたが、犬塚は海へ
向かわず操縦桿を傾け滑走路への 着陸を試みた。虎の子の機体を
無傷で持ち帰ろうと考えたのである。 燃料の投棄が開始されたが、
これがなかなか進まず高度は徐々に 下がっていった。
 
犬塚は、爆発を懸念し大勢の見学者が居る滑走路への 着陸を避け、
再度旋回、隣接した埋立地への不時着を目指したが、倉庫を 飛び越そうと
機首を上げた瞬間失速し倉庫に接触、鷹取川の水面を反跳
飛行場西端で大破して止まった。
 
◆犬塚大尉の死
 
意識のあった犬塚は救助され、ただちに防空壕内の病室へ運ばれたが
頭蓋低骨折の為、その深夜に息を引き取った。 試験飛行の失敗原因は
本来満載すべき燃料を過小積載した為 急速上昇した際にタンク内の燃料が
傾きエンジンへ供給されず停止したものと 結論付けられた。
 
◆身を隠した戦後
 
秋水の開発は事故後も続けられたが、試験飛行が行われたのは
これ一度きりであった。この他に陸軍仕様のキ-200が千葉県柏飛行場で
試験飛行に備えていたが、飛び立つ機会を待たず終戦となり
残っていた試験機は進駐軍の鹵獲を恐れて直ちに解体された。
 
「中野整曹、貴様は秋水に関わったからじきに進駐軍がやってきて
逮捕される恐れがある。行方不明扱いにしておくから今すぐ逃げろ」
 
中野は先ず部下を故郷へ帰し、自らも行方を暗ませた。
それから空白の50年間を過ごすことになる。
 
◆敷島隊五人との再会
 
戦友会が中野の身元を辿って連絡してきたのは平成となってからのこと。
いま空白の50年間を少しずつではあるが取り戻しつつある。

中野、姓を改め河辺は戦友の誘いで戦地を巡る慰霊の旅をはじめた。
平成17年にフィリピンを訪ねた折である。ダニエル・H・ディソン氏の尽力で
マバラカット飛行場の脇に建てられた折「敷島隊五人の勇士」の碑の
除幕式に立ち会うこととなった。その名に見覚えがあった。
 
「関行男大尉、中野磐雄一飛曹、谷暢夫(のんぷ)一飛曹、 永峰肇飛長、
大黒繁男上飛、初めてカミカゼが飛び立った飛行場」
 
「・・・この零戦五機はわしが整備しとったやつじゃ」
 
このとき河辺は初めてその事実を知った。あの零戦が爆弾を抱えて
母艦に体当たりする運命を秘めていたとは当時、思いもしなかった。
 
10月18日に河辺が整備した機体は直後、マバラカットに派遣された。 19日夜、
大西が立案したとされる特攻作戦は、20日に関大尉を 指揮官とする
神風特別攻撃隊「敷島隊」として結成され、爆装し マバラカットを離陸した。
索敵のミスから会敵せず、またトラブルで 出撃帰還を繰り返したが、
25日に至っては敷島隊の五機、全員が母艦に 突入、散華した。
谷一飛曹はこの敷島隊三番機であった。
 
以下は谷の遺書である。

「何一つ親孝行できなかった私も最初で最後の親孝行をします。
ご両親の長命を切に祈ります」
 
谷 暢夫 享年20。
 
-------------------
ここまで話をしてくれたのは愛知県に在住の
河辺勇さん93歳。(旧姓中野)秋水離陸の際、その右翼を支え見送った
中野上整曹、その人である。今でも谷一飛曹や犬塚大尉など、
パイロットの顔が 忘れられないと言う。私は敷島隊について続けて尋ねた。
 
「戦闘機として整備したのですか」
 
「内地へ帰ってから映画館でニュースを見たんじゃが、間違いなく
あのゼロ戦はわしが整備しとった。関大尉や谷さんがレイテに出撃した
ということだけは知っとったんじゃが、まさか爆弾を抱えとることまでは・・・
それは戦後知ったんじゃ」
 
河辺氏は玄関まで見送ってくれた。一番よく目立つところに敷島隊の五人と
三菱重工により復元された秋水の写真がかけてある。
 
「こう、零戦で谷さんの後ろに座っとってな・・・わたしは空を見とった」
 
私は丁重に礼を述べてその場を辞した。 玄関を出た住宅街の路地では
子供たちが元気に駆け回っている。 見上げると関大尉や谷さん、
犬塚大尉が飛んでいたあの日と同じ どこまでも続く青い夏の空だった。
 
関連記事
赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース
指宿正信大尉 空に生きた武人

2012年8月13日 (月)

誇り高きサムライここに眠る パラオの零戦

Imgp6243

Imgp3402

 
パイロットの調査
ここはパラオ本島中部(現在のアルモノグイ州)
翼を横たえて眠る零式戦闘機、その経緯は長らく不明であったが
ここに記す出来事から68年を数えた今、ようやく概要が明らかとなった。
 
機体は第261海軍航空隊所属 吉田久光(上等飛行兵)と判明した。
長崎県現在の島原市出身、19歳。
 
1944年(昭和19年)3月31日のパラオ大空襲で米機動部隊の艦載機F6Fが
150機以上が来襲。 第261海軍航空隊(通称虎)指宿正信大尉指揮する戦闘
機隊の 零式戦闘機28機がペリリュー基地より邀撃。 この日の編成で、第一中
隊三小隊四番機として出撃したのが吉田上飛兵で、吉田機は空戦により未帰還
となっている。
 
不時着を目撃した住民の証言
島民の証言を照合すると、機体は被弾した後、旋回しながら降下、不時着した。
三名の島民と日本軍人、朝鮮人軍属(いずれも人数不明)が現場に急行したが
機体は間もなく、爆発炎上した。 操縦席から搭乗員を救出し、手当を試みたが、
重度の全身火傷と外傷により 間もなく息を引き取った。
 
遺体は島民の手により機体近辺に埋葬された。
島民は戦後もこの出来事を忘れず
「ヨシダの遺骨を日本へ帰してやりたい」と言っていたことから
篠原が調査に着手、平成24年8月、不時着から68年を経てようやく
概要が判明、遺族による迎えが実現した。
 
261空は原隊を鹿児島に置く、サイパン基地進出中の航空隊。
3月30日パラオ空襲を受け(パラオ近海へ展開中の米機動部隊へ攻撃の
522空彗星隊12機の護衛を261空の戦闘機隊55機が担った)パラオ上空へ
向うも 会敵せず、ペリリュー基地へ着陸。翌31日、再度の空襲によりペリリュー
からの 迎撃に至るこの空中戦により同部隊28名のうち准士官以上2名、下士
官兵18名 合計20名の搭乗員が自爆または未帰還となった。
 
戦地から姪宛てに手紙を書いている。これは一部である。

吉田久光上飛兵、戦地から姪宛ての便り
(但し、旧字を現代文字に改めた。文中の二十一歳は数え年)
 
-----------

前略 スミエ、達者で何よりだ。俺も相変わらずだ。安心してくれ。
この間、母の写真が届いた。欲を言えばお前たちのも貰いたかった。
家に帰って母の老いたる姿で淋しくなった。だけど元気だけは人に
敗けられないようだった。姉さん達が近所に居られる。
非常に心強く わしも心配していない。

敵米国の反攻も猛烈だ。今年こそ決戦の秋。 このとき、飛行兵として
初陣する。
叔父の喜びを察してくれ。 四月に帰郷した所以もわかるだろう。


花は桜木戦闘機乗りは 若い命も欲しみやらぬ
花はつぼみのニ十才で散るも 何の、国の為、君の為
と言う歌がある。
 
俺も今年二十一才(満19)になった。 欲しい命は遠くに過ぎた。
お前たちが待つのはニュースだけだ。 帰郷の際、姉さんの子供たちが
紀興やサチエに至るまで「叔父さん叔父さん」と 送ってきた姿を思い
浮かべて感無量だ。この可愛い弟や妹を 立派に育ててくれ。
 
一番俺の心細いのは、兄さんが体が弱い事だ。俺が帰ったとき
休んで居られたが、お前から体に気を付けられるように充分すすめてくれ。
兄が病気などされると内も困るけど横道も困るからね。
 
俺のことは何もかも忘れてくれ。
 
自由の効かぬお前であるけど、戦地より親助兄さんが帰るまで
老いたる母の面倒を見てやってくれ。 駅にて頼んだ通りだ。頼むぞ。
だけど母には話してくれるな。 ますます寒くなる折柄、お体を大切に。
 
敬具 スミエ様へ 叔父より
 
----------

Imgp1210_1

  
昭和18年の年末、吉田上飛は一度帰郷している。
皮の飛行服に飛行帽姿で突然玄関に現れたので驚いたと
友人は回想する。 そしてこのように言い残している。
 
「敵が三機くらい、束になってかかってきても全て撃墜してみせる自信がある
先ず一番機を落とせばいいのだ」
 
大晦日の晩には母が久光のために年越しそばを作った。
しかし、どこを探しても久光が見当たらない。
彼は別れの挨拶をすることなく 黙って静かに消えたのだった。
それが家族や友人に見せた最後の姿となった。
 
三か月後の昭和19年3月31日、パラオ上空において散華した。
どんなに技量が優れていようとも 歴然たる戦力差は到底埋められるもの
ではない。 私たちは忘れてはならない。 護国に身を奉げた彼らは誇り高き
サムライであった。

Photo 
吉田久光飛長
 

2011年8月25日 (木)

歴史に埋もれたエースパイロット「江馬友一」 その実力は岩本徹三を凌ぐ

日本の最たるスコアの撃墜王といえば、岩本徹三さんが有名です。

 

しかし、もっと凄いパイロットがいたのです。

歴史に埋もれてしまったエース「江馬友一」さんです。

 

撃墜数というものは、偵察機や爆撃機、戦闘機でも旧式のF4Fワイルドキャットなど全て含み

ゼロ戦が最も活躍したときに記録されたものが多いでしょう。

しかし、新鋭機のF6Fヘルキャットが戦線に登場するようになってから、ゼロ戦も

苦戦の連続で、劣勢に追い込まれていきました。

 

圧倒的性能の差から、ゼロ戦がF6Fを撃墜するのは至難でありました。

しかし、江馬友一さんは、劣勢をものともせず、F6Fを一度に2機も撃墜した記録がありました。

もちろん岩本徹三さんだって屈指のエースに間違いありませんが

そういった意味で、単純にエースパイロットはスコア(数)だけでは語れないのです。

江馬友一さんは、温厚な人柄で、生涯、自身の撃墜数を自慢するようなことはありませんでした。

一説によると、岩本徹三の撃墜数を上回っていたとか。

たぶん、江馬さんは、こうしたことを書かれるのはお好きでないと思います。

ですが、坂井三郎さんや岩本徹三さん意外にも、歴史に埋もれてしまった、

凄いエースパイロットがたくさんいたことをわかってほしいのです。

24193482_1285335326_174large

 

江馬友一さんの戦いの記録はこの本に詳しく記されています。

久山忍著『蒼空の航跡』です。

この本、戦記ものにしては、とてもわかりやすく小学生でも読めるのではないでしょうか。

ですから、大人の方でも、戦記ものの入門に最適です。

ゼロ戦パイロットの今泉氏(特攻隊の生き残りとも言えます)の証言を作家の久山氏がまとめたものです。

飛行機操縦のいろはから、航空作戦の基本、戦地での過ごし方やパイロット視点での当時の心境など

その都度わかりやすく解説しながら書かれています。坂井三郎や岩本徹三よりも凄い、けれど死んでしまった

名も無きエースパイロットが数多く登場します。

こういう人たちが死なずに生き残ってくれたら、どんな日本になったんだろうなぁと思いを馳せています。

2010年6月29日 (火)

田中 民穂(飛曹長) パイロットデータベース

田中民穂飛曹長
 
乙種11期
大正12年長崎県出身。 

昭和18年、第261海軍航空隊に編入
東山市郎中尉の分隊に所属しサイパン・アスリート飛行場に進出。
パラオ大空襲邀撃戦に出撃したと記されているが、
261空戦闘行動調書の出撃名簿に記録は無く、不明瞭。

 
メレヨン島、大宮島(グアム)上空で幾度も敵機と交戦
261空で最後まで生き残った奇跡の搭乗員。
 
米軍上陸当日のサイパン島をゼロ戦で脱出、ついでに爆装し
小陸地点を爆撃した。メレヨン、パラオを経てセブに到着。 
以降201空へ編入、神風特攻隊の直衛を行う。
 
20年1月、内地へ帰還し252空、次いで203空に移って
防空、特攻隊の直衛にあたった。
 
被撃墜落下傘降下が三回。
必ず生きて帰った。
 
戦後は全日空機長を務めた。
故人。