2015年2月12日 (木)

パラオ戦跡ガイドを発売します(追記)

ペリリュー戦跡ガイド01

ペリリュー戦跡ガイド02

ペリリュー戦跡ガイド03

ペリリュー戦跡ガイド04

ペリリュー戦跡ガイド05

 
パラオ戦跡ガイド刊行のお知らせ

パラオ戦跡(ペリリュー島・アンガウル島・バベルダオブ島等の戦跡を収録)
ガイド本を製作中です。今年の夏までに刊行します。
 
平成27年8月追記
発売しました!
 
いままでこのようなガイドブックはありませんでした。
(ほんの少し紹介されているものはあるのですが間違いが多く、
実用にたえうる代物ではありませんでした)
 
写真・イラスト、わかりやすい地図等を満載
イラスト、写真等のビジュアルを満載しわかりやすく、
また、島の詳細な地図を載せますので、これひとつあれば
現地の戦跡を巡れるように作り込んであります。
 
現在パラオでは戦跡が単なる見世物と化し、また戦跡ツアーのガイドも
付け焼刃な案内しかできずに、正確な情報が伝わっていないことを
由々しき事態と考えました。
 
詳しい戦闘経緯の解説
しかし、この本では、戦跡に付随する逸話を詳しく明記しています。
たとえばこの戦車がどのような戦いを繰り広げたのか、
あるいはトーチカに立て籠もって戦った若き士官の人物像など、
多くの証言や記録から得た情報をもとに、戦いの実態に迫ります。
 
パラオ玉砕戦 生還者による監修
監修役に各専門家とパラオのペリリュー島・アンガウル島玉砕戦の
元日本兵で生き残りの倉田洋二先生、またペリリュー島でも
生還者の方の協力をいただきました。
 

A4

A4f

A4d 
現在と当時の写真を掲載し戦闘の模様を想像し易くしました。
多くの時間とお金をかけて調べ尽くしたものです。

パラオの旅行ガイドブックは
『るるぶ』と『地球の歩き方』の二種類が刊行されていますが
その中でパラオ戦跡・戦争に関する扱いはほとんどなく
るるぶでは4分の1ページがペリリュー島の戦跡ツアーについて
触れてあるだけです。

この本は戦跡案内に特化したものですので、パラオ旅行、
ペリリュー島慰霊を検討中の方、
ぜひ、お求めください。発売日が決まり次第お知らせします。
画面は製作途中のものです。
 
平成27年8月追記
発売しました!

2015年2月11日 (水)

ペリリュー戦の生き残り

パラオ・ペリリュー戦の生き残りの方で
新たにお一人を探し当てました。
未だどこのメディアにも出ていないので

当サイトで初めての公開となります。
どんなお話が聞けるか、行ってきます。
 
一方で、アンガウル島の生き残りは
どんなに調査してもお一人しかご存命の方はおらず
その方とは5年くらい前からのお付き合いで
色々とお話を聞いて
情報収集に努めています。
 
最近は報道関係の方から
「生き残りの方を紹介してください」とよく電話やメールがきます。
ですが、玉砕戦の概念を理解していない記者の方が多いです。
パラオ、ペリリュー・アンガウルの戦いは玉砕戦ですので
原則、生き残りはいないものとお考えいただき、
捕虜という言葉を容易に使わないでほしいとお願いしています。
 
生き残ったというより、「死に損なった」という表現が近いです。
価値観が違い過ぎて現代を生きる我々には到底理解できない
悲しみを、どなたも持っています。
 
ある方は「自分だけ生き残って申し訳ない。靖国神社の戦友に顔向け
できなくて一度も行ったことがないんだ」と言います。
 

F4Uコルセア

2015年2月10日 (火)

硫黄島

硫黄島01

硫黄島04

01

 

02

硫黄島の風景(摺鉢山を望む)です。
 
まだまだ掲載していない戦跡や写真が多くあるのですが
仕事の合間に作業していると時間があっと言う間です。
 
これも以前、二、三年前に描きかけて放置状態だった硫黄島の地図です。
掲載できる部分は限られるのですが、グーグルマップと米国の戦跡ツアー
向けガイドブックを
参考に描きました。飛行場の位置を簡単に記してあります。
戦後70年の節目にもあたり、今一度、太平洋の防波堤となった
硫黄島将兵の功を日本人として心に刻んでおきたいものです。
 
硫黄島は殺風景なイメージがあるかもしれませんが
初めて訪問した際、緑が多く、群青色の海も相まって
美しい島という印象を受けました。
 
硫黄島は半砂漠でその割合は図で示した通りです。 
砂浜は黒く、海は一気に深くなっています。
栗林中将が最後に居た壕は島の北東部にあたります。

硫黄島地図

以下にもレポートと写真を掲載しましたのでご覧ください。

硫黄島/蒼穹の旭日旗

硫黄島 遺骨収容

摺鉢山の星条旗

硫黄島を守備する自衛隊員

硫黄島帰還報告・英霊に奉げ銃

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島 海軍医務科壕と白旗を掲げた軍医

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島・栗林壕(兵団司令部壕)

北硫黄島

南硫黄島

硫黄島へ行くには

 

2015年1月31日 (土)

雷電戦闘機の戦い

01

雷電(局地戦闘機)

▲雷電局地戦闘機/昭和20年 厚木飛行場・第302海軍航空隊
赤松中尉搭乗機(二一型)
 

局地戦闘機【雷電】一一型(J2M2)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分38秒
最高速度/596km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,348kg 全備重量/3,210kg 燃料搭載量/420L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/160kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×4 爆弾30kg×2
正式採用/昭和19年10月? 生産機数/155機
 

局地戦闘機【雷電】二一型(J2M3)諸表
発動機/三菱「火星」二三型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/6000m/5分50秒
最高速度/611km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱280機 高座海軍工廠50-80機
 

局地戦闘機【雷電】三三型(J2M5)諸表
発動機/三菱「火星」二六型甲 離昇出力/1,800馬力 上昇力/8000m/9分45秒
最高速度/614km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/-,---km
自重/2,539kg 全備重量/3,507kg 燃料搭載量/390L、水メタノール120L
全幅/10.800m 全長/9.695m 全高/3.875m
主翼面積/20.05㎡ 翼面荷重/175kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×4 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年--月 生産機数/30-40機

青木義博中尉の雷電
▲第352海軍航空隊青木義博中尉機

02

雷電とは 
局地戦闘機「雷電」は海軍がインターセプター(迎撃機)の必要性に
早くから着眼し、零戦に次いで開発が進められた戦闘機である。
設計開発は三菱重工。堀越二郎博士をリーダーとして
零戦とほとんど同じ研究チームで昭和15年頃から行われた。
開発には多くの困難が伴い、正式採用は昭和19年10月となった。
開発元である三菱重工による量産のほか、高座海軍工廠でもライセンス
生産を行い、総計400-500機が完成したといわれる。
昭和19年末より実戦配備された。
 
雷電は零戦とまったく性格の異なる戦闘機で
その大馬力をもって、高高度で侵入する敵爆撃機(のちのB-29等) 
を捕捉し、強力な火力を持って一撃離脱で撃墜するという
主旨で生まれたため、空戦には不向きとされた。
また航続距離も短いため、基地上空の防衛に徹するとされた。

03

雷電の評価
「雷電」は多くの殉職者を出した殺人機、欠陥機と呼ぶ者も多い。
元搭乗員に雷電について質問すると、開口一番に「あれは欠陥機じゃ!」
と述べるなど、その評判は決して良いとは言えない。
 
殉職事故
試験飛行の事故と欠陥の解明
昭和18年5月16日、正式採用前のテスト飛行で早くも事故が発生した。

帆足大尉の搭乗した2号機が離陸直後に墜落、大炎上し殉職。
20mほどの高度から突然機首下げ姿勢に移り、そのまま畑に墜落したという。
 
同年、鈴鹿飛行場で三菱の柴山操縦士が雷電10号機で離陸。
脚を入れた直後に操縦桿が強く前へ引かれ、またも機首下げ姿勢となった。
操縦桿を戻そうにもびくともせず、とっさに脚を下げてみると嘘のように
操縦桿は動いた。原因は9月に判明した。
尾輪のオレオ式緩衝装置が
曲がって、脚上げ時に右昇降舵を連結する
軸管に干渉しその圧迫で
操縦桿が下がったことが判明した。
尾輪支柱の湾曲と、支柱と昇降舵
連結管との隙間の少なさが問題であり
クリアランスを多く設けることで
解決した。
 
昭和19年8月2日
堤光臣上飛が厚木周辺の畑へ墜落。雷電一一型は
訓練中、水平試姿勢での背面キリモミに陥り裏がえしのまま
回転しながら高度を失ってゆき脱出不可能のまま地面へ激突した。
 
昭和19年12月15日
302空、入江大尉の雷電から「エンジン不調、降着する」との電話(無線)あり
飛行場へ滑り込んできた。脚が出ていないので赤旗を持った搭乗員たちが
降着地点へ走って行った。(赤旗とは脚が出ていないので着陸をやり直せの
合図。当時は脚を出し忘れたまま着陸する事故が多かったため、これを
専門に見張る地上員を配置した)
赤旗を見た雷電はエンジンを一杯かけて
着陸をやりなおすために
旋回をはじめたが、エンジンがとまったとみえて
スーッと相模原空の格納庫の向こうへ落ちていった。
 
これを目撃した、雷電隊のエース寺村中尉は
「なぜエンジン不調なら着陸をやり直さず、脚の出ていないまま

滑り込ませなかったのか。そうすれば完全に助かっていたのに。
エンジン不調で滑り込んでくる飛行機に赤旗を振って
やり直しを命じるやつがあるか」と憤った。
 
このほかに、昭和19年12月一ヶ月に4、5回、
新任搭乗員の事故が相次いだ。機体の不調を告げる電話連絡が
あったものの未帰還となったケースでは原因の究明もできず
単純に操縦技術未熟故の事故として片づけられてしまった。
 
その噂は瞬く間に広がり雷電は殺人機、あるいは欠陥機などと
呼ばれ、多くの搭乗員の忌み嫌う存在となった。
 
岩本徹三の雷電評価
「大型機を攻撃するなら良いが空戦では零戦に劣る」

昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、
零戦と比較し次のような感想を述べている。 
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかも
しれないが、敵の戦闘機相手では零戦に劣る」 
 
美濃部正大尉の雷電評価 
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」
彗星夜戦隊「芙蓉隊」で有名な美濃部大尉(のち少佐)は
20年5月に302空で零夜戦、月光の第二飛行機隊長を務めており
「俺は孫子の代まで雷電には乗せん!」と
雷電乗りに皮肉な大声を浴びせた。
 
 

04

羽切松雄中尉の雷電評価
「そうだ!雷電なら勝てる!」
横須賀海軍航空隊テストパイロットであった羽切松雄中尉は
当初、雷電を失敗作と考えていたが徐々にその必要性を
感じるように至った。以下は新兵器実戦記より引用しながら書く。
 
「雷電はとにかく零戦と違って若い搭乗員では乗り切れまいということを感じた
それ以降、雷電はあらゆる方向からけちをつけられ、この飛行機はダメだと
いう結論になった。
スピードは出るけれど航続距離が短い。全速で1時間半
だから、
これは空戦には向かない。(この回想は昭和18年頃と推測)
三菱は既に量産に入っていたが、雷電は海軍の飛行機としては
失敗作であると私たちは思っていた。
 
零戦 vs 雷電
しかしそのころ、前線ではすでに零戦は苦戦していた。
P-38が出ていたしF6Fも出ていた。そこで前線から盛んに
雷電と、雷電の出現を
待ちこがれていた。しかし我々は前線へ送っても
空戦がやれるかどうか首をひねった。
対零戦の空戦をやってみると
雷電には空戦フラップがついていても零戦とそれほど差がない。

確かに雷電は上昇力とスピードに秀でていたが
そのほかにはとりどころがなかった。やがて厚木に302空ができ
雷電隊が編成された。若い搭乗員の事故が絶えなかった。
これは決して雷電が悪いのではなく、雷電の性能が悪いのだと
私たちは言っていた。
雷電の空戦フラップは単機空戦をやりながらGを
かけてゆき
それが2G、3Gになるとひとりでに出てくるようになっていた。
翼面荷重を大きくするから旋回半径を小さくすることができたがお慰み程度
しかなかった。
 
ソロモン進出後、零戦に乗って毎日激しい空戦を繰り広げているうち
にふと雷電を思いだした。「そうだ!雷電なら勝てる!」
敵の戦闘機は零戦より遥かに優秀であって米軍機は一撃離脱が
確立されつつあった。
そのため零戦は多くが奇襲でやられ

敵機には追い付けない。どうにもならなかった。これに対応できるのは
雷電だと気付いた。
雷電の上昇力をもってすれば急激に高度を
とることができるので上から降ってこられることも少なくなり、逆にこちらから
降っていくチャンスも多くなる。
逃げる敵にも追いつける。敵は現在
単機空戦を避けるのであるから、空戦性能への物足らなさは
このさい問題にならない。それに雷電には20mm×4という
重武装がある。雷電の航続距離の短さも基地の上空戦では欠点とはならない。

 
いままでになかった重戦闘機「雷電」
以上が羽切松雄中尉の回想であるが、考察するに
零戦が手足を動かす如く、非常に乗りやすい飛行機だったため
ようやく飛べるようになったばかりの搭乗員では
雷電を乗りこなすのは難しかったのではないだろうか。
着陸時の視界は狭く、速度も速い。翼面荷重も高いので
零戦のように操縦も容易ではない。
 
戦後、雷電を鹵獲しテストした米軍によると離着陸時の視界が若干悪いと
されたが、それ以外は良好で、着陸時の速度もさして問題にならず
傑作機と称された。テスト時の測定基準が日米では若干ことなるものの
最高速度も671 km/hと大幅に増大し(高オクタン燃料によるものか)
P-51に匹敵するスピードが出ることを証明した。
 
日本と欧米では戦闘機の設計思想も違う。米P-51の着陸速度も
雷電と大差がなく、ごく通常ということだろう。少なからず
日本の搭乗員がそれまで(零戦)と全く違う重戦闘機、雷電に慣れていなかった
というところが要因のひとつとして少なからずあると感じる。
大戦末期では老練の搭乗員も少なく、事故も比例して多くなる。
  

05_2

雷電は傑作機だ

もっとも多くのB-29を撃墜
一方で、もっとも多くのB-29を撃墜したのは、零戦でなければ紫電改でも
ない。雷電である。
 
雷電の欠点も次々改善され、
高高度においても油温度は下がらなくなるし
高高度における機銃の不発もほとんどなくなった。さらに発動機のシールドを
完全にして雑音の防止に努め、空中線は折り返しその短さを補った。
滞空時間を長くするために、その巨大な胴体内に増槽をつけてしまった。
 
電話(無線)も良好で、地上からの受信はもちろんのこと
送信も感度良好であった。雷電のコールサインは雷で
「こちら雷十一番、空戦に入る、こちら雷十一番、空戦に入る」
と逐次地上と僚機への伝達を行った。
雷十一番とは、雷電隊一分隊一小隊一番機を示す。
高度3000メートルを越えると酸素マスクへ酸素が供給される。 
 
302海軍航空隊と雷電隊

第302海軍航空隊は内地空襲避け難しと感じられるようになった
昭和19年の春、横須賀航空隊において編成されてその後厚木飛行場へ
移った隊であった。
司令は小園大佐。飛行長は水上機出身の西畑中佐。
司令や飛行長のいる302空の司令部は横須賀にあり、厚木基地は
その派遣隊があり、飛行隊は全部
厚木にいた。厚木派遣隊長は
山田少佐であった。
 
302空は三飛行隊より成り
第一飛行隊は雷電2個分隊、零戦1個分隊
第二飛行隊は月光2個分隊、銀河1個分隊
第三飛行隊は彗星2個分隊、これに各整備分隊と
兵器整備分隊が付属されて編成されていた。

月光は初めから夜間戦闘機であるがほかの銀河、彗星、零戦は
ここで斜銃を取り付けて
夜間戦闘機として使用した。
厚木の夜間戦闘機隊は月光、彗星、銀河、彩雲、零戦の猛者で
雷電隊は航続距離が短く帝都上空の邀撃のみであったが
夜戦隊は名古屋まで邀撃可能だった。
雷電隊は滑走路の広い木更津基地も合わせて運用した。
302空の雷電は少なく、50機近くある中に完備状態で実戦に
使えるのは半数ほどにすぎなかった。
雷電隊編成は以下の通り。
 
雷電第一分隊長、寺村純郎中尉
雷電第二分隊長、赤松貞明中尉
 

05_3

高度一万メートルの景色
雷電隊のみが見た世界
 
雷電隊第一分隊長の寺村純郎中尉は次のように記している。
以下、東京空戦記より引用
 
一万メートル上空は静寂そのもので
さびしいさびしい世界である。

垂直の視界は良いので海岸線がはっきり見える。
眼下に相模湾の波打ち際が白い線となって見え
江の島や三浦半島が見え、遠くには九十九里の海岸
そして関東平野の緑、その周辺の山々、その山々の間に
一際そびえ立つ富士、さながら正確緻密に作られた箱庭
を見るようなものであった。

猛烈な西風が吹いているので機首を西に向けて
飛んでいるときのほうが多い。
飛んでいるのであるが、飛んでいる気持は少しも無い。
計器の速力は160節近く出ていても、付近には何もなく
地上の目標は一万メートルの遠くにある。
江の島上空一万米も小田原上空一万米も
地上を見る感じは大差がない。
空中にただ浮いている感じである。
特に旋回している間などは空中の一点で
飛行機の翼が静かに傾いて機首がゆっくり回っていく
ような感じしかしない。実に静かである。

さびしいさびしい世界である。
手も足も最小限度の動きしかしないで
じーっとしている。動けば寒さが身にしみこむ
とでもいうように段々風防のガラスが曇ってくる。
手で拭いても駄目である。こうして来るか来ないかわからない
B-29を待っている一時間は全く長いものであった。

引用おわり
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

06

◆坪井庸三中尉
唯一F-13(B-29の単機偵察型)を撃墜した雷電搭乗員
南方帰り、水戦出のベテランで単機侵入のB-29を撃墜した
唯一の搭乗員。
雷電でB-29、4機、F6Fを3機撃墜。
 
昭和19年12月3日
午後2時から一時間半にわたり数十機ずつ梯団になり、富士山の北方を
廻って帝都上空へ侵入せしB-29
約70機を捕捉し犬吠埼上空で
このうちの一機を撃墜。
 
昭和20年2月12日、
F-13を犬吠埼上空で撃墜
F-13はB-29の偵察機バージョンで単機高速で日本上空に侵入する。
爆撃任務と異なり、機体も軽く単機で逃げ回るため、これを捕捉して
撃墜に至るのは不可能といわれた。
(B-29爆撃編隊は一度爆撃コースに入ると進路変更しない)
  
2月16日、F6Fを2機、千葉県茨城県上空で撃墜
2月17日、F6Fを1機、千葉西方で撃墜。
 
4月1日、F-13と刺し違え戦死。
賑やかな昼食だった。わあわあ騒いでいるうちに
「雷電隊一コ小隊発動発進」の令
が来た。
「忙しいこっちゃ」と昼飯を食っていた
坪井大尉が飯を半分食ったまま
立ち上がって落下傘バンド
をつけはじめた。飯を食い終わっていた寺村が
「おい坪さん、俺がかわろうか、もう飯はおわったから」というと
手を振り振り「いいよいいよ」と言いながら出ていった。
それが坪井最後の姿となった。
 
坪井は単機のB-29を捕捉し得意の直上方より一撃し
B-29の後方をかわると同時に敵弾によって機は火を吐き、機と運命を
共にした。
指揮所には食べ残した昼飯が彼の帰りを待っていたが。

 
◆赤松貞明中尉
日本海軍のエース・雷電でP-51を撃墜

雷電隊第二分隊長
 
おおよそ350機を撃墜(うち
支那事変中243機、太平洋戦争ではおおよそ
百数十機)し
世界記録保持者と戦後も自負した海軍のエース。
零戦、雷電双方でP-51を撃墜した唯一の搭乗員である。
 
雷電でP-51を撃墜
赤松の自伝日本撃墜王によると空戦の模様は以下のとおりである。
終戦間際、
敵の大編隊が東京をあらしまわってゆうゆかえってゆくとき
赤松は送り狼で追いかけていった。城ケ島の真上を敵は真っ黒な編隊で
帰って行った。
味方は赤松を先頭に雷電5機。その後ろから零戦が5機
ついていった。
大編隊の殿を敵は必ず二機のP-51が交互に警戒してゆく。

赤松はこのうちの一機の後から隠れてつけていった。敵機の真後ろというのは
敵の廻る方へ廻るほうへととつけていって常に相手機の死角の中に入って
いることをいう。
真後ろと真下は敵から見えないのでその方向に隠れ隠れ
してつける。
そして頃はよしと思うころ有利な位置定めて突如P-51を射撃。
そのうち敵の燃料タンクから火を噴き、火だるまになって墜落していった。
 
もう一機のP-51が友軍のやられたのを見て垂直旋回で
廻り込んできて敢然と赤松機を攻撃。赤松はすでに全弾撃ち尽くしており
逃げるわけにいかないので(追いかけてくる)反対に敵機の方向に向かって
弾を撃たせ、そのうちに振りきって逃げた。
 
唯一、赤松は
「雷電は良い飛行機だ。ただもう少し燃料がつめたらな」と語っている。
 

関連記事
赤松中尉の戦後
 

◆寺村純郎中尉
雷電でB-29、F6Fを撃墜

海兵71期・302空雷電隊第一分隊長
昭和20年、2月10日銚子上空でB-29を撃墜。

寺村中尉の回想~東京空戦記より

実際の事をいうと雷電にのらねばならぬと決まったときは
少々うんざりした。今まで乗っていた零戦と比べ
雷電は悪評嘖々たるものがあった。

だが私たちがその雷電の離着陸訓練をはじめ
編隊飛行、特殊飛行、空戦訓練と進んでいった頃には
もう雷電は私たちにとって赤の他人ではなくなってしまう。
殺人機だということまで誇りになるのだ。

ドングリに翼をつけたような無様な恰好までが
ほほえましく感じられる。
猛牛が突進するように滑走路を走ってゆく姿も
まんざらすてたものではない。

寧ろ人の嫌がる雷電の搭乗員であることを
誇りにする気持ちであった。雷電の日本一を誇る
上昇力や速力、火力その他重武装を自慢にした。
敵機を一機おとすごとに桜のマークを描いた。
整備員たちは自分の受け持ちの飛行機の座席の前に
小さな神棚を作って武運を祀ってくれた。
座席の前の計器盤にはあちたこちらから
送られたマスコットがぶらさがっていた。
空襲の旅にそのマスコットと一緒に飛びたった。
 

07

8月15日の雷電隊出撃
寺村中尉は次のように回想する。
   
8月14日
「どうやら無条件降伏らしいんだ」
その言葉を初めて聞いた寺村は悲しみと憤りを覚えたという。
部長以上は一週間も前から司令から
その情報を知らされていたというのだ。
 
302空の夜戦隊が可動全機で銚子沖の敵機動部隊に薄暮攻撃を決行したのは
2、3日前。
無事に帰ってきたものはほとんどなく大きな犠牲を払った。
雷電隊も茂原から出撃する特攻隊の直掩に出るように命じられたのも
2、3日前だった。
特攻隊の援護では身を持って特攻機を守らねばならず※
寺村は今度こそ最後だと覚悟を決めていた。
 
※雷電は航続距離の短さから最後まで特攻機に使用されることはなかった。
しかし特攻隊の掩護といっても、特攻隊を見送って自分らだけは帰ることは
出来ない。敵機に体当たりするなど、概ね自分も死にに行くようなものである。
  
多くの搭乗員が終戦を控えながら、数日前に戦死した。
その舞台裏がこれである。寺村は
馬鹿にするなと怒鳴りたくなったという。
司令は徹底抗戦の構えを崩さず、全海軍部隊に降伏反対の電文を発進
するのだという。
 
寺村は無性に腹立たしく、寂しく酒をガブガブ飲んで酔いつぶれて寝てしまった。
 
15日
朝方、従兵が何度もおこしに来た。
 
「分隊長グラマンの空襲です!」

「なあに笑わせるな。今日日本が降伏しようというのに
なにが空襲だ、ほっとけほっとけ」
 
寺村はまたうつらうつらと眠りにはいった。
 
「分隊長、雷電発進です!」
 
「何、発進だ!ふざけるな!日本は負けたんだ!」
 
ふてくさって毛布の中に潜り込んでそしてまたうつらうつらと眠ろうとしていた。
そのとき雷電の爆音が響いた。
 
「しまった!」
 
かれは急いで飛行服を着て指揮所へとんで行ったが
すでに遅かった。雷電4機、零戦8機が離陸した後だった。
いままでどんなに飛行機が少ない日でも寺村は一番機として離陸できた。
そして最後の戦には乗り遅れてしまった。

 
このとき出撃した蔵本中尉は
「今日は絶対に生きて帰ってこない」
そう言って数少ない雷電を奪うようにして飛び立った。
まだ幼さの残る丸顔が印象的だった。
蔵本中尉はF6Fと空戦に入り不利な体勢から
これが最後の出撃と敢然とグラマンへ突撃した。
 
もうひとり、雷電で飛び立った
先任士官は寺村よりふたつ年下で
「早く雷電に乗せてくださいよ。そして分隊長の列機体にしてくださいよ。
分隊長を先に死なせませんよ」
そう言うのが口癖だった。零戦でP-51と戦い足に弾を受けて
びっこをひいていた。念願の雷電に搭乗し飛び立った。
 
そして二人とも帰らなかった。
これは8月15日の午前中のことである。
 
 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

Photo_13

Raiden_2

Photo_14

Photo_16

261_3

56799416_p0_2_2

Imgp1010_2

56782187_p0_2

Photo_17

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

Photo

X_2

Photo_2 
十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

Photo_3

11_2

Photo_4 
零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

Photo_5

零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

Photo_13

二式水上戦闘機(二式水戦)

Photo_15

二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

Photo_5

K

Photo_6 

零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

Photo_9

ゼロ戦(零戦)32型/三二型

Photo_11

零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

Photo_16

ゼロ戦(零戦)22型/二二型

Photo_18

零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

Photo_20

ゼロ戦(零戦)52型/五二型

Photo_22

零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

Photo_23

ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

Photo_27

零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

Photo_28

ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

Photo_30

零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

Photo_31

ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

Photo_33

零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

Photo_34

ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

Photo_36

零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

Photo_39

ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

Photo_41

零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

Photo_42

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

Photo_44

零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

03_2

なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

04_2

搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

07_2

ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

Photo_8

宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

Photo_19

航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
記事の内容に満足されましたらクリックをお願いします!
読者の方々のワンクリックによって当サイトをかろうじて消滅の危機から
救ってくださっています。

 
戦史 ブログランキングへ

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

D

ストア

アトリエ空のカケラ-Amazonストアはこちら
https://www.amazon.co.jp/s?me=A8276EKS9EUX5

  
直販ストア(準備中)

ギャラリー

2015年1月30日 (金)

バベルダオブ島地図

パラオ本島バベルダオブ島地図

▲地図をクリックすると拡大されます

パラオ地図 フリー素材(無料)配布中!

ペリリュー島地図

ペリリュー島地図

▲地図をクリックすると拡大されます
 
パラオ・ペリリュー地図 フリー素材(無料)配布中!

ペリリュー戦地図

▲地図をクリックすると拡大されます

パラオ・ペリリュー地図 フリー素材(無料)配布中!

ロックアイランド地図

ロックアイランド地図 
▲地図をクリックすると拡大されます

パラオ地図 フリー素材(無料)配布中!