2015年3月14日 (土)

中川大佐と村井少将と伊藤海軍少将

村井権治郎少将、ペリリューへ
ペリリュー島守備隊の総司令官が陸軍の中川州男大佐であったのは

周知であるが、中川大佐より階級が上の村井権治郎少将
追ってペリリュー島へ派遣される。
 
通例であれば上級の村井少将が指揮権を掌握するが
ペリリュー島の戦いにおいては中川大佐が最高司令官として
戦うことを決定し、師団の方針とした。
 
これが疑問だと尋ねられることが多いので
村井少将がペリリュー島でどのような役割を担ったのか、
ここで述べたい。師団の方針は次のようなものだった。
 
「村井少将を戦術顧問としてペリリュー島へ派遣する。
指揮権は中川大佐が持ち、村井少将はあくまで中川大佐の
補佐・相談役に徹する」
 
中川大佐は国際派として知られ陸軍大学を出たばかりで、
その頭脳と有能さは陸軍でも屈指であった。
十四師団長の井上貞衛中将はこれをよく知っており
激戦が予想されるであろうペリリュー島へ
中川大佐を派遣することで最大の働きを期待したのだった。
 
中川大佐はゆくゆくは将官として活躍が望まれていたが
それ以前に南方への出征、ペリリューでの玉砕した。
 
要塞構築の専門家・村井少将 
片や、村井少将は要塞構築の専門家であったので
ペリリュー島の陣地構築において手腕を発揮した。
 
中川大佐はもとより司令官というよりも、参謀タイプであり
大佐がほとんど口を開かない寡黙な人物だったのに対し、
それよりだいぶ年配の村井少将は人情味あふれる明るい
性格であったと
伝わっている。二人でちょうとバランスが取れて
いたとも取れるが、
このあたりのやり取りは『天皇の島』に
詳しく書いてあるので
見てほしい。
 
海軍への牽制か?陸海軍の対立
特筆すべきは、村井少将が後から派遣されたという点である。
少将が要塞構築の専門家であるなら、なぜ最初から中川大佐と
共にペリリュー島に渡らなかったのだろう。
 
元来パラオ・ペリリュー島は海軍の島であるため
海軍の権限が非常に大きく、東洋一と称される
飛行場を有した。航空隊要員(整備兵)や
建設設営隊が多くを占め、陸戦部隊をほとんど持たなかった。
 
僅かに海軍の陸戦隊(根拠地隊)が高角砲等を備え守備を担っていたが
米軍パラオ進攻の公算大と判断した大本営は
ペリリュー島守備の必要性を急務とし、大陸から
陸軍部隊(14師団)を急遽、ペリリューへ派遣したのが昭和19年4月。
戦いの始まるわずか半年前であった。
 
海軍航空隊の壊滅と陸軍部隊の到着
3月31日のパラオ大空襲でペリリュー島の海軍航空隊は壊滅し
補充された航空隊も徐々に消耗。
マリアナ沖海戦後にはほとんど全滅し、
以後、フィリピン、本土決戦に備えて、戦線の後退、および航空機の
温存に伴いパラオ飛行場は事実上放棄された。
 
一方、ペリリュー島へ到着した陸軍はこの間、大山麓を中心に広がる
山岳地形を
利用し、大変な努力の末、500~700あまりにおよぶ
洞窟陣地から構成される複郭陣地を構築し決戦に備えた。
 
パラオ地区の最高司令官は誰か?
ペリリュー島を含むパラオ地区の最高司令官は
海軍第30根拠地隊司令の伊藤賢三海軍少将
ペリリュー島は西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵海軍大佐が最高階級であった。
 
(西カロリン航空隊が結成された頃には稼働する航空機は
ほとんど残っておらず、西カロリン航空隊という部隊名称は
ほとんど名目上といったところである)
 
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ
この時点でペリリュー島には
海軍大佐と陸軍大佐が一名ずつ。
 
そこで陸軍は村井少将のペリリュー派遣で、中川大佐の後ろ盾とし
海軍への発言力を強める狙いもあったと充分に考えられる。
陸軍は陣地構築のための資材を海軍に提供してもらえず苦労した。
陸軍兵士の回想によれば「何度も何度も海軍も頭を下げてお願いして
建設資材を提供してもらった」と記録されている。
 
陸軍と海軍壕の違い
陸軍の陣地と海軍の陣地を比べてみれば
現在でも違いがはっきりわかる。陸軍の陣地はツルハシなどつかった
手掘りで、
急ごしらえの壕だったのに対し、海軍はもとより立派な壕を
有していた。
 
代表的なところでいえば、水戸山陣地はもとより頑強な海軍壕で
南興村付近のトンネル構築のプロ(海軍軍属)が構築した陣地であった。
天井も高く敷板が敷いてあり、
発電機を備え、空調設備(エアコン)まで
あったという
証言もある。
 
陸軍は大山を中心とする複郭陣地で、すべて急造の天然洞窟を利用するか
手掘りした壕である。
戦術や兵隊の指揮など、関係する要因は他にも
あるので
一概には言えないが、それにしても海軍壕は早くに陥落し
陸軍壕は玉砕まで長く持ちこたえた。皮肉な結果となった。
 
村井少将と中川大佐の意見対立
籠城戦の継続に伴い、村井少将と中川大佐で
戦略意見の対立が目立つようになる。
 
中川大佐は一日でも長く戦って
米軍の進攻を阻止するという信念を持っていた。であるから
「各々の命は大切に」し、持久戦に徹せよと部下に命じた。
 
2014年、ペリリュー戦がフジテレビで地上波のドラマになった。
金曜プレステージ終戦記念スペシャルドラマ
『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』という題目だったが
  
この中川大佐の提唱した「命を大切に」という願いは本来であれば
戦略上の概念であったのだが、何故か現代風にねじ曲げられて
「個人個人の命はかけがえのない尊い大切なもの。生きて日本に帰ろう」
という価値観に塗り替えられて放送されてしまった。残念でならない。
 
ここで倫理上どっちが正しいか、という議論はさておき
まがりなりにもペリリュー戦の歴史をなぞったドラマであるなら
極めて不正確で誤った描写だと言いたい。少し脱線した。
 
玉砕を求める村井少将
これに対し、村井少将の立案した作戦は
飛行場付近の米軍陣地に突撃をかけ、玉砕するというものであった。
 
水が無いのである。
村井少将水筒のエピソードについて書く。
10月初頃、ペリリュー戦は中盤となり既に守備隊は籠城戦に移行。
『天皇の島』では村井少将と部下のやりとりを次のように描写している。
村井少将の人柄を感じるエピソードだ。以下『天皇の島』136頁より
 
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壕内は静かだった。敵のマイク放送も聞こえない。
村井少将は軍刀を抱きかかえ、岩壁にもたれて眼を閉じていた。
栗原曹長は拳銃の手入れをしていたが、そういえば
村井少将の拳銃の調子が悪く、修理するつもりだったのが
敵上陸にまぎれて忘れていたことを思い出した。
 
「閣下、閣下、拳銃の手入れを致しますから」
そっとひざをゆすると村井少将は「おう、おう」と
相変わらずのニコニコ顔で目を覚ましたが首を振った。

「いや、栗原、わしには拳銃はいらん。使うことも
ないじゃろ。それよりも喉が渇いた。水を一杯くれんか」
「水ですか」と、栗原曹長は当惑げに岩壁にたてかけた水筒を振り返った。
水には難儀をしていた。もともとペリリュー島には
水源地が少ない。
 
中央台地群で利用できるのは天山の西、
第二大隊第四中隊の
守備範囲で第四中隊長・川又広中尉の名をとった
「川又水源地」と
南征山の東にある池ぐらいのものであった。
だが、川又水源地は既に
敵中にあり、一文字壕から間近に見える
池も近付きにくい。夜、敵の照明弾、
サーチライトをぬって
水を汲みに行くのだが、ときに敵弾に倒れる。
 
「水汲みで死ぬのも立派な戦死だ」と中川大佐ははげましたが
やはり小銃片手に死ぬのと水筒を抱いて射殺されるのでは
兵の気迫は異なる。自然に水汲み志願者は減り、今では毎日訪れる
スコールを砲弾の薬莢に受け、あるいは
洞窟の岩壁にしたたり落ちる
わき水を水筒にためて
喉の渇きを凌いでいる状態だった。
 
「おう、こりゃあすまんことをいうた。あとでいい。あとで・・・」
栗原曹長の様子に村井少将は右手をあおぐようにふりながらそう言った。
しかし老齢の少将の望みである。洞穴内にぼんやりとうずくまり
あるいは横になっていた兵たちがあちらこちらで起き上がり水筒を振り
飯盒を鳴らして水を集め始めた。
 
「いいんだ。もういいんだ」
少将からみれば兵たちはわが息子にひとしい若さである。
その子供たちがとぼしい水を差しだす。少将は声をつまらせ、夢中で
「いい、いい、お前、飲め」と水筒を押し戻し
飯盒をおさえた。
 
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引用おわり
 
「最後に水が飲めるなら死んでもいい」
  
いずれにしても死ぬのだから、部下の兵士をこれ以上
もう苦しませたくないというのが村井少将の心持であろう。
これを拒否しなければならない中川大佐の心中
辛いものであったに違いない。
 
ペリリュー戦終結~ラストコマンダーは誰か? 
11月24日、中川大佐と村井少将は自決し
日本軍守備隊による組織的戦闘は終結。
米軍はのちにペリリュー島占領を宣言する。
 
ここで米軍は日本軍の最高指揮官の遺体を確認するのが
通例であるが、ペリリュー島を陥落させた米陸軍81師団は
当初、伊藤海軍中将をペリリュー島の最高指揮官と見込んでおり
遺体の捜索にあたったが、発見に至らず、のちに
中川大佐と村井少将が最高指揮官であることが
捕虜からもたらされた情報により判明、結論付けられた。
 
それもそのはずで伊藤賢三海軍中将は
コロール(あるいはバベルダオブ)から指揮を行っていたのである。
ペリリュー島で海軍応急陸戦隊を率いたのは西カロリン航空隊司令の
大谷龍蔵大佐で、玉砕している。
 
パラオ本島も玉砕の準備
誤解を招かないよう書いておく。
当然ながら、井上師団長をはじめ陸軍14師団主力と伊藤海軍中将も
ペリリュー島陥落の後は、コロール・パラオで決戦があるものと覚悟して
いたからパラオ本島の防備を
厳とし、死ぬ覚悟はできていた。
 
ペリリュー・アンガウルで大痛手を被った米軍は結果としてパラオ本島の
攻略を断念し
終戦まで兵糧攻めに徹することになるが、この間
バベルダオブとコロールは米軍の
執拗な空襲によって戦死者、
病死・餓死者が続出し、その合計は4800名以上となった。
(犠牲者の多くは昭和21年の復員中にも含まれる)
 

陸軍の井上師団長は昭和20年終戦後、米護衛駆逐艦「アミック」を
多田参謀長とともに訪れ、降伏文書に署名、その後は
グアム軍事法廷でいわゆるBC級戦犯の容疑者
とされ、死刑判決を受けた。(ただし判決は戦勝国による一方的な
もので必ずしも公正無私でないことを断っておく)
井上中将はのち終身刑に減刑、釈放され
復員したが、昭和36年10月、
病により死去した。
 
伊藤海軍中将は生きて終戦を迎えたようだが
その後の消息は不明である。

2015年3月11日 (水)

3.11 そのときパラオでは

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私は日本人としてパラオの方々に心からお礼を申し上げたいです。
2011年3月11日、東日本大震災当時、パラオに居りました。
 
コロールの街頭では子供たちが募金を呼び掛けてくれていました。
そして行きあうパラオ人の誰もが、私を日本人と知るなり
「あなたの家族は大丈夫か?」と尋ねてくれました。
 
官庁はもちろん、民間施設もほとんど全てがしばらくの間、
街中が半旗でした。

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私は計画停電が終了したころ、日本に帰ってきたので
その頃の苦労を知らず、地震の恐怖も体験していませんでした。
私の出来ることといえば、なんだろうと考えました。
そうだ、このブログを通じて伝えることだ。 
 
残念なことに、これらの善意はほとんど日本では報道されることは
ありませんでした。だからここで一人でも多くの日本人に
パラオ人の善意を伝えたいのです。
  
日本人の多くはパラオという国がどこにあるか知らない。
でもパラオ人は全員日本を知っている。パラオと日本は
最も大切な友人であり歴史上の盟友でもあるから。
 
パラオの人口は一万人強ですが、国民一人当たりに占める寄付金の金額は
世界屈指でした。100ドル札を躊躇なく募金箱に入れてくれるのです。
だから、日本政府は貴重なお金を無駄にしてはいけないと感じました。 
 
私の故郷は福島の隣、栃木です。
内陸故に津波被害はありませんでしたが、地震で死者が出ましたし
私の実家も一部が崩れました。
 
ですが、多くのパラオ人が声をかけてくださって
「家族は大丈夫か?」との言ってくださった。その心遣いに
本当に涙が出ました。改めて感謝申し上げます。
 
※この写真を撮ったのは3月25日です。

2015年3月 8日 (日)

アンガウル玉砕戦

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「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ。自分だけ死に損なって
戦友にどんな顔をしたらいいか・・・申し訳なくてね。」
 
パラオ・ペリリュー・アンガウルの玉砕戦で生還した
倉田洋二氏は語る。
 
倉田氏と私は、パラオが注目される以前から
個人的な付き合いをさせて頂いていたが、
今までは倉田氏本人に迷惑がかかると思い、ほとんど
書かなかった。しかし今年こそ出すべきと思って少しずつ思い出や
やってきたことを書いていこうと思う。倉田氏との
思い出は、とにかくたくさんありすぎて
書ききれないので、まずは概要だけ記す。

多くはビールを飲みながら倉田氏本人から私が直接聞いた話なので、
本には載っていない。取材とよべるものでもないので荒削りで申し訳ない。
 
倉田氏が徴兵後配属されたのはパラオ・アンガウル島。ペリリュー島の南
10kmに位置する島は、ペリリューと同様の激戦地で
後藤丑雄少佐率いる宇都宮五十九連隊歩兵一個大隊(第一大隊)と
兵站あわせておよそ1200名が守備、米一個師団を相手に
一ヶ月間もの間、抗戦を続け玉砕した。生還者は原則いないという概念で
考えてよいが、負傷、最後の突撃に参加できず、生き残った兵士は50名である。
 
倉田氏は昭和19年、パラオ・南洋庁勤務中に現地召集を受け
陸軍第14師団(照)五十九連隊第一大隊、日野中尉指揮する
砲兵隊に配属、同年9月17日の上陸戦でアンガウル島日野中隊は
47mm速射砲を構え、上陸進攻する米軍と対峙した。
 
「死ぬのは怖くなかったよ。とにかく一生懸命だったからね」
 
アンガウル島に上陸したのは米陸軍第81師団で、上陸後も
複郭陣地に籠城する守備隊に苦戦を強いられた。
 
狭い山道を先鋒部隊である米戦車群は一列で進撃するほかなく、
倉田氏所属の日野砲兵隊はその先頭車両に狙いを定め撃った。
先頭車両を擱座され、さらに後部の車両を撃破された米戦車隊と
随行歩兵は行き場を無くし大混乱に陥った。
 
「最初は互角の戦いができたよ。LVT(水陸両用戦車)は装甲が薄いから
簡単に破壊できた。M4戦車はそれよりかは少し頑丈だったけど
徹甲弾を打ち込んで撃破できた。むこうも身動きが取れないから
撃った弾はほとんど命中した。」
 

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▲倉田氏が実際に使っていたと推定される47ミリ速射砲。アンガウル島西港付近。
 

「だけど弾は限りあるから、なくなったらおしまいだ」
 
中隊は弾を撃ち尽くすと、速射砲を捨てて複郭陣地の奥深くへ
後退して徹底抗戦の構えを取った。険しい山岳地形を活用し、
狙撃、手榴弾で戦った。すでに中隊は散開し生き残った兵士で
最後の一兵まで戦う覚悟であった。
 
アンガウルの籠城戦では水の確保が最重要であり、
水を求めて青池(サロメ湖)まで決死隊で下らねばならない。
米軍との直接対峙では優位性を保ったが、この水汲みで戦死した者が
多かった。また生き残った兵士で夜間斬込隊を編成し、ほとんどは
生きて帰らなかった。
 
「ジャングルの中で一列になって進んだんだけど、上官が、
倉田、進まんか!進まんか!といってケツを叩くんだけれども
進まんかと言われても、前が進まないんだからしょうがないんだ」
 
10月中頃、倉田氏は迫撃砲を受け、半身不随の重症、
身動きが取れなくなった。後藤大隊長は
動けるもの(およそ150名)を集め、最後の訓示ののち
敵陣に最後の突撃をし、玉砕した。これでアンガウル島における
組織的戦闘は集結し、米軍による占領が宣言された。
 
関連記事
後藤大隊長の最期
 
倉田氏はその後、壕内で一ヶ月間身動きが取れず、
それでも生存者数名で陣地の死守を遂行しつつあった。
11月3日、米兵が戦利品を探しにやってきたところを
発見されたが、その米兵は生き残っていた日本兵に驚き
逃げ出した。
 
まもなく米兵は仲間を引き連れ掃討戦にやってきた。
戦友の高木上等兵が手榴弾戦の末、戦死した。
「下園、手榴弾をくれ!」
絶叫した高木上等兵の最後の言葉が今も忘れられないという。
 
正月を迎える。
すでにアンガウル戦終結から2jヶ月。
「いつか連合艦隊が援軍にくるから」と本気で信じていた。
パパイヤの根やヤモリ、米軍からかっぱらった食糧で食いつなぐも、
栄養失調になりつつあり餓死は時間の問題であった。
アンガウルからペリリューへ泳いで渡ることを決断。
共に居た沖縄の兵士が山原出身で泳げなかったため、
筏を作り、数名で夜の闇をついて脱出を試みたが
アンガウル海峡の潮の流れは速い。やがて力尽きて
西港付近へ流し戻された。
 
ふたたび複郭陣地に籠城し、米軍の食料を奪うべく
夜間出撃。その際、歩哨線のアンテナ(鉄条網)に引っかかり
沖縄兵士二名と中山二等兵が戦死した。
 
倉田氏もいよいよ最後と観念したが、撃たれなかった。
米兵が物珍しげに集まってきた。米軍MPの尋問を受け、
ペリリュー島捕虜収容所へ送られる。ここで船坂軍曹と再開する。
下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等とも再会。
「倉田!生きていたのか!」と
たいそう驚いたという。ペリリューからヤップ、ウルシー、
グアム、ハワイ、米本土ポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経て
ウィスコンシン、アイオワのクラリンダー口外のP.Wキャンプへ入る。
終戦の後の昭和20年11月、横浜港に入り浦賀の
銃砲学校で復員した。
 
そしていまふたたび戦友の御霊を守るべく
倉田氏はパラオ島で暮らしている。
 
私はパラオが注目されるずっと前に現地の
倉田氏の自宅へ訪ねていき、初めて会って話をした。
そして幾度となくお世話になり現在に至る。
 
徒然なるままにまた、かけることは書ける範囲で書く。
 
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アンガウル島へ行こう

2015年3月 7日 (土)

ルパータス少将とペリリューの戦い

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▲9月22日ペリリュー島西において第一海兵師団長ルパータス少将(右)と
第三水陸両用軍団長ガイガー少将(左)

◆ウイリアム・ヘンリー・ルパータス少将
Major general William H. Rupertus
 
1889年11月14日生まれ ワシントンDC出身。
1944年9月 アメリカ第一海兵師団師団長
ペリリュー戦当時55歳。
 
◆米第一海兵師団副師団長時代
中国駐留から始まった30年を超える海兵隊のキャリアを持つ
ルパータスは第一海兵師団の副師団長としてガダルカナルの作戦を経験。
1943年のニューブリテン島攻略作戦では師団を勝利に導いた。
 
前、第一海兵師団師団長で、のち海兵隊総司令官ヴァンデグリフト大将の
個人的な友人であり 精力的で高い能力を買われ、師団が太平洋に向かう
船上で第一海兵師団副師団長に抜擢。 ヴァンデグリフは弟分の彼を
いつの日か海兵隊の司令官に抜擢するつもりであろうと 噂されていた。
 
◆部下からの評価
ルパータスは気分屋で部下に対する態度をころころ変えることから
その能力に対しては懐疑的であったと伝わっている。この気分者気質は
中国駐留時代に猩紅熱で妻と娘を亡くしたトラウマに起因しているのでは
ないかと考える者もいたが、いずれにせよ、この時点で 部下からの信頼が
厚いと言えるものではなかった。
 
一部の者は陰で彼をRupe the Stupe(馬鹿なルパータス)とか
Rupe the Dupe(間抜けなルパータス)と呼び捨てていた。
また別のものは彼がソロモン諸島攻略で受賞した海軍十字勲章や
グロスター岬上陸作戦で受賞した 殊勲十字勲章がそれに値する
活躍をしたと思えないと考えていた。
 
◆米第一海兵師団長へ昇格・ペリリュー島攻略作戦へ
ヴァンデグリフト大将の後を継いで第一海兵師団師団長へ昇格した
ルパータスはペリリュー島攻略作戦(ステイルメイト2作戦の一部)
に命じられる。
 
ガダルカナルに近い演習地パヴヴ島でペリリュー島攻略の模擬演習の折
アムトラックから飛び降りた際足首を骨折。完治しないまま
ペリリュー島へ出撃することとなった。
 
◆ルイス・チェスティ・プラー大佐とルパータス
このときルパータスは
ルイス・チェスティ・プラー大佐(第一海兵連隊長)の
テントを訪れ
次のように告げた。
 
「ルイス、今度のペリリューは君のためにお膳立てしたようなものだよ
うまくやれば将軍だ。もう一個海軍十字勲章をもらってそれに准将の
階級章も一緒にな」
 
この言葉に対し一個連隊の兵士の命を預かるプラーは不安を募らせた。
プラーが海兵隊に入隊したのは彼の連隊のほとんどの部下が
生まれる前の
1918年で三度の海軍十字勲章の受賞歴があった。
積極的、活力があり歯に衣着せぬもの言う性格でかつ疑問の余地が
ないほど勇敢であった。
彼の足にはガダルカナルで負傷したさい
日本軍の
弾丸の破片が刺さったままだった。彼はいかなる場においても
絶対に引かない男であると皆が信じていた。
そのプラーにしてもルパータスの楽観主義には不安を感じていた。
 
プラーはペリリュー戦当時45歳。勇猛果敢そのもので連隊長でありながら
ホワイトビーチ(オレンジビーチの北)の最前線で戦った。
攻撃は最大の防御と呼べるべく海兵隊を象徴する男であった。
プラーといえば次のようなエピソードが有名である。
はじめて新鋭兵器の火炎放射器を見たプラーは
「それで?銃剣はどこに着けるんだ?」と真剣な表情で尋ねたという。
 
プラーの連隊は最も戦死者が多かった。
ホワイトビーチに上陸したプラー率いる第一連隊およそ3000名のうち
1748名が戦死した。
 
橋頭堡を確保し、内陸部に進攻したさい、各小隊長の生き残りをカウントするよう
命じ、その報告を耳にし、生存者の多さにプラーは
「ふざけるな!野外学習のピクニックの点呼じゃねえぞ!」
と憤ったという。
 
アメリカ軍といえば人命を尊重すると思われがちであるが
こういった指揮官と部隊もあったのである。
 
ペリリュー戦における上陸戦橋頭堡の確保はプラーと第一連隊の
功績が大きいが、その代償はあまりにも大きいものだった。
最初からその不安は数値で裏付けされており通常、安全に上陸作戦を
敢行するためには
防御側が1に対して攻撃側に3の兵力が必要であると
言われていた。

ペリリュー上陸戦時において第一海兵師団の作戦兵力は
17490名、加えて増援要員として10994名がいたので
総員は28484名であった。単純に比較すれば3対1で理想的である。
ただしこれは表面的なもので
この28484名のうち、実際の戦闘歩兵は
9000名であった。
残りは近代的上陸作戦を支援するための専門要員であった。
 

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▲ルパータス少将(左)とロウ・ウォルト中佐(右)ペリリュー島前線指揮所において

 
◆「Three days Maybe Two」(2日か3日で終わる)
ルパータスはDデイ(上陸戦)前、
「次の戦いでは若干の死傷者は出るだろう」
と素直に認めたうえで「しかしつぎの作戦は短期間で終わるのは間違いない。
すぐに終わる。大変な戦いだが、素早く終わる」「三日間、もしかしたら2日かも
しれない」
「ぜひ、ペリリュー島の日本軍最高司令官のサムライ軍刀を自分の
ところへ持ってきてくれ」と話をしめくくった。
 
この言葉に参謀は「あれは本当に根拠があって話したのではない。
檄を飛ばしたにすぎない」
と当時を回想している。しかしルパータスの
楽観的な見通しは瞬く間に
師団に広まってしまった。
「三日、たぶん二日間。大変だがすぐ終わる」
 
◆海兵隊のプライドが崩壊した日・ペリリュー
またペリリュー島で多くの犠牲者を出した背景には
これに加え様々な要因が重なる。
第一海兵師団は海兵隊史上もっとも古い伝統の精鋭部隊で
2000年代の現在においても中東などで戦っている。
この第一海兵師団、そして海兵隊史上でも唯一
師団が全滅した例がペリリューの戦いである。アメリカ海兵隊が
全滅したのはあとにも先にもこれ一度きりだ。
 
海兵隊の作戦は海兵隊のプライドで
他部隊の支援を求めない。これが多くの犠牲を払う結果となった。
 
◆陸軍81師団の支援要請を断る
このとき第一海兵師団の後方に控えていた米陸軍第81師団もまた
精鋭であった、第一次大戦でフランスでの戦闘に参加した歴史を持つが
第二次大戦での経験はなかった。しかし装備も訓練も十分であり今回の
戦闘にも十分対応できるものと考えられた。
 
師団長はポール・ミュラー少将、51歳で第一次大戦のフランスで戦い、
銀星証を二度授与されていた。
後にダグラスマッカーサーも彼を
「素晴らしい人材」と評価した。
 
その陸軍の精鋭81師団の任務はペリリューが完全に制圧されたのちの
アンガウルの上陸であった。当初海軍はアンガウルを先に攻略するよう
主張したが、同島を攻撃中に
ペリリューへ援軍を送られる恐れがあったため
計画は撤回された。
 
ルパータスは第81師団が上陸部隊として洋上待機するのではなく
単なる海兵隊の予備部隊として後方待機するという
事実をすりかえる形で実現されることになってしまった。そして
ペリリュー島が確実に掌握されるまで81師団はアンガウル島を
攻撃しない点についても合意された。(実際には2日後の9月17日に
アンガウル上陸を決断するのだが)
  
◆ロイ・ガイガー少将とルパータス少将
ルパータスはペリリュー攻略に際してロイ・ガイガー少将に協力を求めた。
第三水陸両用軍団長・ロイ・ガイガー少将は
攻略作戦のころには
年齢が60歳近く。ルパータスとは階級が同じであったものの
指揮権は実質ルパータスが掌握した。
ガイガーの専門は航空作戦であったが大規模な陸上戦闘における指揮
についても一定の経験を持っていた。屈強な体格と
決して笑顔を見せないその鋭い眼光と常に手放さない
葉巻から、まさに海兵隊の中の海兵隊として畏敬の念を集めていた。
 
グアム攻略作戦がピークを迎えていた8月15日まで
ガイガーは自分が第三水陸両用軍団の指揮を取るとは予想せず、
今回の作戦について
グアム島やサイパン島での戦闘経験とは全く
異なるものであると判断しており、ルパータスの楽観主義は場違いでは
ないかと考えていた。
ガイガーはルパータスの支持者ではなかったが
差し当たって口を挟むのは控えた。作戦は第三水陸両用軍団が了承し
海兵隊司令部と
正式作戦となった。  
 

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▲左からウォルト中佐、ルパータス少将、ガイガー少将。ペリリュー島前線指揮所において
 

◆予想しなかった持久戦
ガダルカナル、サイパン、テニアン、グアムの戦いでは
日本軍の万歳突撃を待つことによって米軍は勝利を収めたが
徹底した持久戦はペリリューがはじめてであり、ルパータスもまた
万歳突撃による戦闘の早期終結を予想していた。 
 
待ち受ける日本陸軍第14師団の
井上貞衛中将は中部太平洋地区に赴任する直前、参謀長の
多田督知大佐を伴って
東条英機首相兼軍需相を訪問。
パラオ諸島の防衛について話し合いその方法は単純明快
「最後の一兵まで戦う」というものだった。
 
そこで井上はもっとも有能な部下、中川州男大佐率いる水戸二連隊を
ペリリュー島に派遣し要塞構築の専門家である村井少将を顧問として送り込んだ。
一方、アンガウル島は飛行場がなかったのでペリリュー島ほど重要視されず
宇都宮五十九連隊一個連隊が駐留していたが
パラオ本島決戦に備え、このうち二個大隊を引き揚げさせ
後藤丑雄少佐の一個大隊を残して持久戦に徹せよと命じ
玉砕させた。もちろん、パラオ本島で指揮をとっていた井上中将自身も
パラオ本島決戦を見込んで自らも死ぬ覚悟であったが
実際にはペリリュー・アンガウルの両島玉砕で大損害を
被った米軍はパラオ本島の攻略を断念し、終戦まで
兵粮攻めに徹した。
 
こうしてルパータスの予想は裏切られ、ペリリュー・アンガウルが
凄惨な上陸戦と長期間に渡る泥沼の戦いに発展するのは周知の通りである。
  

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米軍側より見る ペリリュー島上陸戦

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オレンジビーチの死闘

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▲オレンジビーチで部下を弔うルパータス少将(画面やや左。ステッキを持つ人物)
このとき既に憔悴しきっていた。
 

◆憔悴するルパータス
ルパータスは消衰しきっていた。
師団参謀のハロルド・ディーキン中佐は、作戦中盤
ベッドに座り両手で頭を抱え込み絶望視しているルパータスを目撃した。
その姿にディーキン中佐は大きなショックを受けたという。
 
10月5日にハリスが師団司令部を訪ねたところ
ルパータスが泣いていた。
「ハリス、俺はもう限界だ。俺の最高の二個連隊が壊滅してしまった」
さらにルパータスは
「ハリス、俺は君に全ての権限を委譲するつもりだ。だが今は
ここだけの話にしておいてくれ」
と告げた。しかし最後までルパータスから指揮権が委譲されることはなく
のちに第一海兵師団が壊滅し陸軍81師団に作戦を引き継ぐまで
ルパータスは泥沼の中で激を飛ばし続けたという。
ルパータスは気丈を装いつつ、混乱と絶望の中にあった。
 
◆ルパータスのその後
ペリリュー撤退に伴い、第一海兵師団長の任を解かれたルパータスは
ペリリュー作戦功労勲章を授与しヴァンデクリフト大将から
海兵隊学校校長のポストを与えられたが、事実上の更迭に近い。

第一海兵師団長の後任にはペドロ・デル・ヴァレ少将が任命されたが 
師団の再建には時間を要した。そのため硫黄島の戦いには参加せず、
ペリリューに次ぐ戦場は沖縄となる。
 
ルパータスはペリリュー戦に関する記録を一切残さず
ペリリュー戦からわずか4ヶ月後の1945年3月26日
日本の降伏を待たずに心臓発作でこの世を去った。


◆最後に
米軍側からの視点でまとめたが
決してルパータスにペリリュー戦の責任を押し付けるものではない。
第一海兵師団の多くは20代前半の若者であった。ペリリューから
生還しても兵士の多くはPTSDに悩まされ、自殺する者も居た。
戦死した若き兵士には妻や恋人、両親や兄弟も居たであろう。
ルパータスは結果として多くを部下を死なせてしまったが、
日本軍の作戦転換、そして多くの不運が重なったことと、ペリリューでの
海兵隊の敗北には様々要因の重なりがあったのだ。
しかし乍らこれだけは決定的と呼べる敗因、それは驕りである。
 
ペリリュー島占領の対価は高いものとなった。
米第一海兵師団は最終的な死傷者数を6526名とした。
そのうちの戦死者は1252名であるが、これは戦場において
即死した兵士のカウントであり、病院船に運ばれて死亡した数は
戦死にカウントされない。一方、掃討戦を引き継いだ陸軍81師団の
死傷者は1393名であった。さらにこれとは別にアンガウル島の戦闘で
334名が戦死し843名が負傷した。
 
単純な比率で換算はできないが、
ペリリュー・アンガウルの戦いはノルマンディーや硫黄島より激しく
ひどい戦いと評価される。
 
硫黄島では米軍3個師団がおよそ18000名の日本軍守備隊を
追い詰めたのに対し、ペリリューでは米軍1個師団
が中川大佐指揮の日本兵およそ10000名との対峙、2ヶ月以上の抗戦、
 
さらにアンガウル島では後藤少佐指揮する守備隊1200名に対し
米軍一個師団が上陸し、一ヶ月徹底抗戦を行った。
 
日本軍は太平洋の防波堤となって一日でも長く本土進攻を
阻止したのであった。
 
346

2015年3月 5日 (木)

パラオ戦跡と戦史概要

2015年3月 4日 (水)

パラオ戦生還者を訪ねて

Imgp4036

Photo

先日はパラオ戦生還者で海軍主計兵の増田さん(91歳)に
インタビューに行ってきました。もともと料理人として
大きな店を構えていましたが、昭和18年、海軍に徴兵されました。
自前の包丁や研ぎ石など全て輸送船に持ち込み、南洋へ出征。
戦争末期には限られた現地調達のカタツムリやパパイヤの根など
を調理し多くの兵隊さんを餓死から救いました。昭和19年には
豊田副武連合艦隊司令長官より感状を授与されています。
『料理人兵士の戦場記録』と題して後ほど記事にします。
 
また何人かパラオ戦生還者の方にインタビューする予定ですので順次掲載します。

2015年3月 3日 (火)

パラオ地図(フリー素材配布中)

パラオ地図

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▲パラオ諸島

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▲ペリリュー島
 

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2015年3月 1日 (日)

ペ島の桜を讃える歌 (歌唱・御堂諦)

ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
YouTube: ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)

 
作詞:オキヤマ・トヨミ,ジョージ・シゲオ/作曲:トンミ・ウエンティ
歌:御堂 諦/ピアノ伴奏:久保 亜未
ペリリュー島」在住のパラオ人が日本人のために作ってくれた曲で
現在も歌い継がれています。
 
ペ島の桜を讃える歌
以前、こちらのサイトでボーカルを探していたのですが、
プロのナレーターの方が引き受けてくださり歌っていただきました。
歌唱は御堂諦さんです。素晴らしい歌声に感激しております。
ぜひお聴きください!私の企画がここまで大きくなるとは思いませんでした。
嬉しい限りです!
 
久保亜未さんによるピアノソロ(音源)はこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=0JKEuDxvNhQ
 
 
▼『緑の島のお墓』は引き続きボーカルを募集中です。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/01/post-65a6.html

https://www.youtube.com/watch?v=8Ey434yLfKk

2015年2月21日 (土)

国家運営の縮図

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写真は世界一田舎といわれるパラオの首都マルキョクにある
国会議事堂。
 
当時はドイツやアメリカへ留学する友人を羨んでいた。

自分は何故こんな場末へ来てしまったんだろうと後悔した。
今はその考えは逆転した。パラオでよかったと。
私はアポなしで大統領に会いに行ったこともある。
小国だからこそ国家の運営に関してほとんど全ての分野ついて
把握することが容易だったし、それは大国の縮図でもあったので
短時間で多くの事柄を学ぶには好都合だった。
アメリカ留学には真似できまいと思った。
 

パラオの人口は現在およそ2万と考えて良いが
そのうち純粋なパラオ人(主としてカナカ族)は
7割で、残り3割をフィリピン人、バングラディシュ人が
占める。パラオ人の年間収入が3万ドルにも満たない家庭でも
フィリピン人のメイドを雇っている。フィリピン人の賃金は安い。
 

パラオの国家財政はアメリカ、日本、台湾(中華民国)から多額の
援助で成り立ち国民の殆どはその金で暮らしている。
 

中国(中華人民共和国)とは仲が悪いので国交が無い。
一昨年、カヤンゲル環礁の北で中国船の密漁船と
銃撃戦をやって双方に死者が出た。
世界でも珍しい軍隊の無い国である。
ただし有事の際の軍備は米軍が担っている。
 

外国人の扱いについて書く。外国人は原則
帰化(パラオ国籍の取得)はできない。たとえば日本人が
パラオ人と結婚しても国籍は日本のままである。
 

現地でビジネスをしようと考えても、外国人が
不動産を所有することは認められていないので
土地や建物の名義人をパラオ人にする必要がある。
だから会社が大きくなってしまったところで
丸々乗っ取られてしまったり、名義を提供するといって
多額の詐欺に遭う事例が殊に多い。一応の
法治国家と雖も、賄賂文化も根強く残っている。
 

一方、労働者はどうか。
外国人の就労ビザは2年単位で発行されるが、これも条件が厳しい。
現地で就職先が決まって、その会社でうまくいけば良いのだが
もし途中で辞めてしまうと、向こう2年は他の会社では働けないという
制限つきだ。(実質、移籍ができない)2年間も無職で過ごさなければ
ならないのは無理に近い。だから大抵は帰国してしまう。
 

ここまで読んで
「すいぶん外国人に厳しいんだなぁ~。だから発展しないんだよ」と
安易に思う人は甘い。この対応は国家として至極当然といえる。
 

人口1万人強しかいないのだから
外国人に利権を与えてしまったら、国家そのものの
乗っ取りなど容易い。乗っ取りを企む第三国が
国策として外国人を送り続けたらパラオ乗っ取りは
赤子の手をひねるようなもので数年もかからないだろう。
 

冒頭にこれは大国の縮図でもあると書いた。だから日本も同じだ。
外国人差別は良くないが、日本は日本人のものであるから
国家主権は是が非でも守らなければならない。
日本もしっかり危機感を持ってほしいと思う。