2015年4月20日 (月)

吹上浜での拉致

吹上浜

 
時間を見つけては、文字に残しておきたい事が沢山あるが
「生きている人間を救出する」これは最優先事項だから特に
力を入れて書く。 
 
私の友人が北朝鮮に拉致されそうになったことがあると

話してくれたことがある。本当の話だ。
 
昭和50年代、場所は吹上浜。
吹上浜といっても海岸線が47kmあるので具体的な場所をいうならば
現在の吹上浜海浜公園近辺だったという。
 
当時、中学生だった彼は
友人と二人で吹上浜で行われる花火大会へ遊びに行った。
夏の夜空に打ち上がる花火を眺め楽しんでいると
人混みの中で明らかに違和感のある、男の二人組を目撃した。
 
花火の見物客はいずれも空を見上げているというのに
その二人組の視線は上空の花火を楽しむ様子もなく
橋の上からこちらをじっと見つめているというのだ。
不気味さと一抹の不安を感じながらも花火が終わって
自転車で帰路についたときだった。
 
会場から離れ、人気のない道に差し掛かった頃
後をつけてくる自動車がいることに気付いた。
自分たちが速度を落とすとあちらも落とす。引き離そうと
すれば間合いを詰めてくる。そうやって自転車を漕ぐ速度を幾度か変えたが
これが着かず離れずだったのでこの時点で明らかに追われていると
気付いたののだった。
 
「おい、やばいぞ」
二人には置かれている状況が全く理解できないが、
身に危険が及んでいることは明確だった。
逃げるために全力でペダルを踏んだ。
 
しかし到底自転車では逃げ切れない。
一本道の周りには身を隠す場所がなくとにかく全力で逃げた。
そしてようやく茂みある付近に差し掛かった時
二人はお互いに合図をすると同時に自転車を捨てて茂みに逃げ込んだ。
 
二人組もすぐに車を停車させ、後を追ってきた。
遠くまでは逃げられなかったので咄嗟に身を潜める他なかった。
追ってきた二人組は辺りを執拗に探し回っている。
このときの喋り声が日本語でないのがわかった。
しばらく探すと諦めたのか、舌打ちをして遠ざかっていったという。
 
この話はこれでおしまいだが
拉致犯に目を付けられ、未遂におわったということだろう。
後日、警察に事情を聴かれたが、事件が大きく取り上げられることは
無かったという。北朝鮮による一連の拉致は彼が大人になってから
知ることになる。拉致事件は
新潟が多いような印象があるがここ
鹿児島の吹上浜でも事件が確認されている。
 
当時、機転を利かせたことから無事逃げ切った彼は
「昔のことだから」と笑いながら話していたが
私は背筋の凍る思いがした。
こうして明るみに出ない事件が他にもあったのではないだろうか。
できる限るの真実を残したいのでここに記す。
 
 
私はブルーリボンを胸に付けている。あるとき
「何か拉致事件の運動に参加しているの?」
と尋ねられたことがあるが、何もない。つけているだけだ。
 
極端な言い方をすればつけるだけで何もしなくていい。
しかし国民の多くがこのバッジをつけたらどうだろう?
国民が一貫となって関心をもって拉致は許さないんだ。
絶対に生きて故郷の親のもとに返すんだという
気持ち表明すれば、
首相の発言力は強大なものとなり
解決に向けた後押しとなることは確かだ。
 
強いて言うならば上に記した通り、身近な人が未遂とはいえ拉致の被害に
遭っているからだ。
北朝鮮による拉致は決して他人事では無い。
 
被害者家族の横田夫妻はすっかり年をとった。
一刻も早く会わせてほしいと願っている。高齢になりながらも
全国の集会等に参加する横田夫妻の表情を見る度に
心を切り裂かれたような気持ちになる。
 
平成14年の小泉首相訪朝で金正日は拉致という国家犯罪をを正式に認めた。
それ以前に社民党の土井は「拉致は無い」と断言してしまった。
社民党は未だ言及どころか謝罪訂正が無い。現在与党の一部議員しか
ブルーリボンをつけていないが、拉致事件は
超党派で言及し、早急に
被害者救出にあたるべきだ。
拉致は北朝鮮による重大な国家犯罪であり
現在進行形による、一刻も早い解決が必要な人権侵害だ。
 
生きている人間を救出する。
これは最優先事項だ。
 
それには何より、多くの国民が関心を持つことが大切だと感じている。

2015年4月19日 (日)

ジェリーフィッシュレイクの危機

ジェリーフィッシュレイク

ジェリーフィッシュレイク

 
ジェリーフィッシュレイクはパラオの
世界遺産ロックアイランドのマカルカル島に存在する
汽水湖で
その極めて限られた自然条件から、発生した二種類のクラゲが
棲息している。ゴールデン・マスティギアスと、オーレリアムーン
ジェリーフィッシュであるが、いずれの
のクラゲは刺す力を持っていない。
 

ジェリーフィッシュレイク


深さ30メートルの湖のおよそ15メートル以下は猛毒が湧き出ているが
(無酸素層における硫化水素)水面を泳ぐぶんには害はない。湖は
地下三か所のトンネルで海と繋がり、塩分濃度を保っている。この猛毒域に
存在するトンネルのため、古代より生物が海と湖をと一切行き来すること
なく現在に至る。
クラゲは太陽を求めて湖内を回遊するので天候によって
群れの位置が異なる。
 
ジェリーフィッシュレイクと同様の条件でクラゲの生息する汽水湖が
ロックアイランド内に2ヶ所存在するが自然保護の名目から、観光客が
訪れることが可能なのはここのみである。
  

ジェリーフィッシュレイク

▲水面に浮かぶクラゲの群れが確認できる。画面上中央はシュノーケリングで
 観察を楽しむ観光客

 
ジェリーシッシュレイクの危機
ジェリーフィッシュレイクは
1982年にナショナルグラフィックという雑誌で紹介されて以来有名になり
1985年から一般的な観光地となった。
 
ジャリーフィッシュレイクを訪れるには
専用のパーミッド(許可証)が必要となる。
10年前は無料であったが2015年現在、多くの観光客が殺到している
ことから、100ドルを支払う必要がある。
ツアーに参加申し込みをすればツアー会社が用意してくれる。
 
特に近年は中国、韓国からの多くの観光客が訪れるようになり
湖の水質悪化が懸念されている。私がみたところ
ジャリーフィッシュへ向かう検問所前の桟橋には

桟橋が足りないくらいの観光客が、湖への順番待ちで
何十人~百人くらい並んでいる。その光景は

ゾッとする。数年前は多くても10数名程度であった。
 
クラゲは非常にもろいのでフィンで触れるだけでも死んでしまう。
これにパラオ側は危機感を募らせて値上げに踏み切ったのだろうが
観光客は増える一方であった。世界でここだけなのだから金を払っても
見たいという欲求であろう。しかし制限しないと貴重な生態系が

失われてしまう。対策は急務である。
 

ジェリーフィッシュレイク

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

パラオの伝説巨大シャコ貝

イノキアイランドとガルメアウス島との間にある
シュノーケリングポイントをクラムシティと称する。
 
ここには我々人間の時代を遥か凌駕する推定年齢100~200歳とも
いわれる直系1~2メートルの
巨大シャコ貝が棲んでおり、その貝が
閉じる迫力ある様子などをシュノーケリングで
観察することができる。
 

Koed0027

  
シャコガイはいくつか種類があるが、ダイビングやシュノーケリング中に
何度も目にとまる、水底で青い光を放つシャコ貝の姿は美しく

神秘的である。ストーリーボードにも描かれパラオでは最も身近な存在
ともいえる。神話に登場するほか、刺身で食しても美味である。
現地語でも同様に「サシミ」と呼ぶ。
  
パラオ神話ではパラオ諸島は巨大シャコ貝から誕生したウアブ
がアンガウルで育ち、子供の姿のままみるみるうちに巨大化し
それを恐れた島民が焼き殺してしまい、前進に炎を
ウアブはアンガウル以北に
倒れ込んだ。そのとき飛び散った体のあちこちがペリリューから
ロックアイランドの数々の島となり、上半身と頭は
バベルダオブ(パラオ本島)に姿を変えたと伝わっている。
 
ここに棲むあまりに巨大化し動けなくなったシャコ貝ははるか古代より
パラオの海を見守ってきたことであろう。ここクラムシティではそんな歴史
の一端に感じることができる。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

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以前、こちらで告知しました通り
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詳しくはこちらをご覧ください。

販売店様募集中です!

歌っていただきました

以前、こちらの記事「緑の島のお墓」
ボーカルを募集しておりましたが、こちらのブログの
読者の中川知宏様が
歌ってくださいましてご自身のア
カウントでアップロードされております。

よろしければご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=kP7l8Z9LfSE 
 
まだまだ歌っていただける方を募集中です!
希望者には音源をメールに添付してお送りしますので
ご連絡ください。

2015年3月30日 (月)

篠原弘道准尉 戦闘機パイロットデータベース

篠原弘道准尉

篠原 弘道(しのはら こうどう)准尉 
 
篠原弘道准尉 栃木県宇都宮市出身 大正二年8月15日生まれ
戦闘機搭乗員 帝国陸軍航空隊無双のトップエースである。 
 
無双のエース
篠原はノモンハンで勇猛果敢な空戦を展開し、一躍陸軍のエースとなった。
総撃墜数は58機。一日でソ連機、11機を撃墜した記録があり、ドイツ空軍の
エーリヒ・ハルトマンを除けば、世界でもこれを越える記録は現在まで存在しない。
また、太平洋戦争を含めても篠原を超えるスコアを記録したパイロットは
陸海軍ともに存在せず不動の記録となっている。
 
生い立ち~戦闘機搭乗員へ
栃木県の農家で生まれ育った篠原は下野中学校を卒業後、
昭和6年、陸軍に現役志願兵として入隊。騎兵27連隊に配属された
(篠原は馬が好きだった)のち昭和8年には航空兵に転科して
所沢飛行学校に入校。翌昭和9年に戦闘機操縦者となった。
昭和13年には叩き上げで准尉へ進級。初陣では既に6年の飛行経験が
あった。のちに「実際の空中戦よりも訓練のほうが遥かに辛かった」と述べて
いることからも、その強さがうかがえる。
 
「稲妻部隊」飛行第11戦隊へ
昭和14年5月、篠原はノモンハンにおいて飛行第11戦隊第一中隊に所属。
愛機、九七式戦闘機の垂直尾翼に白い稲妻を描き、稲妻部隊と称した。
 
初陣
5月27日、実戦経験こそなかったものの、既に6年の飛行経験のあった
篠原は初陣で早くもI-16、4機を撃墜した。それまで猛訓練に堪えてきた
篠原ははじめて敵機を撃墜したさいの感想を
「永いこと一生懸命の猛訓練も僅か5、6秒に備えるためだ」
と記している。しかし1機撃墜後、予想以上に敵を深追いし、気付けば
ハルハ河から数十キロ入った外蒙領上空に差し掛かっており
自分めがけて襲ってくる敵機は11機、しかし不思議と肝が据わり
思い切り迫り撃ちまくると2機、3機と火を噴いて落ちていった。
4機目は遁走にかかった。
 
基地へ帰還した篠原の機体風防には射抜かれた跡があり
これが頭を後ろにもたせていたら即死していた位置にあった。
 
曰くつきの敵機
5月28日の空戦ではLZ機を逆落としで撃墜、一度基地へ帰還したのち
再度出撃、今度はアブダラ湖上空で、I-15の編隊60機と会敵。
5機を撃墜した。この5機目が曰くつきで敵の司令官機であったのだが
50メートル後方まで迫っていた篠原機を引き離そうともがいたところ
操縦を誤って地上に激突した。篠原は大破した敵機の近くに着陸すると
プロペラと将校のピストルを戦利品として持って帰り、自身の
テントの一隅に無造作に立てかけた。
 
ソ連機大編隊100機以上に対し単機殴り込み
篠原の戦法はシンプルかつ果敢で、ソ連機大編隊100機以上に対し
単機殴り込みをかけ、追い散らし一機ずつ確実に撃墜するというものであった。
 
マスコミで大々的に報じられ、戦意高揚の立役者となる
篠原はその迫力ある空戦の模様を日記に書き残しており、その内容は
『国境大空中戦』と題して、新聞連載(昭和14年、大阪朝日新聞、昭和16年
には単行本化)されたほか、数々の新聞、ラジオ等のマスコミも大々的に
篠原の戦果を報じた。その結果
「東洋のリヒトホーフェン」、「ホロンバイルの荒鷲」、「世界の鬼篠原」「三羽烏」
など数々の呼び名が生み出され、篠原は一躍戦意高揚の立役者となった。
 
落ち行く敵機に「一抹の哀れさを感じるのは武士の情けでは」
当時、ノモンハンで戦う一部の搭乗員は
「ソ連機の搭乗員は飛行機の付属品、恐るるに足らず」などと揶揄嘲笑。
マスコミもこれを煽りに煽り、報じた。対する篠原の考えは
「落ちてゆく敵機を見ると一抹の哀れさを感じるのは武士の情けでは」
と敵兵に対する哀悼のコメントを残している。
 

ホロンバイル平原

▲戦域となった内蒙古・ホロンバイルの大平原
 
ホロンバイルの戦い
ホロンバイル平原におけるノモンハン航空戦はのちの
太平洋戦線とは全く異なった戦闘が展開された。
戦域はいずれも平原で飛行場設営の必要が無く
どこでも離着陸が可能であった。そのため便宜上、付近の地名を
とって飛行場ということにした。戦闘機が敵前に着陸し戦車を含む
地上の蒙古ソ連軍と白兵戦を展開するという場面もあった。
それを象徴するエピソードが残っている。 
 
奇跡の二重救出劇~渾身の戦友愛
7月25日、この日、野口戦隊長率いる飛行第十一戦隊は
ソ連軍I-16戦闘機40機と会敵。第一中隊の篠原も戦闘に加わり
30分の空戦の末、敵機を撃退したが、自らも燃料タンクに被弾し
機体は炎上。この様子を見ていた僚機は、煙を噴いて降下する
機体に一條の白い線が認められたことから「篠原准尉だ!」と
確信した。篠原は懸命に機体を操縦し不時着したが、そこは
敵陣只中であった。ソ連軍の機甲部隊のベーテー中型戦車11輌が
篠原へ迫り、武運尽きたかと思われた刹那、これを上空で見ていた
青柳豊曹長が勇敢にも急降下し篠原機の側へ着陸を強行。
救出に向かった。しかし青柳機は敵戦車の機銃を受けて炎上し
自身も腰に銃弾を受けてしまった。今度こそ最期と覚悟したところ
さらに二機の戦闘機が強行着陸した。岩瀬孝一曹長と鈴木栄作曹長で
ある。戦車との距離は250メートルを切り、頭上を銃弾がかすめてゆく中
駆け寄った岩瀬曹長は青柳曹長と篠原准尉の二人を機体の後部胴体に
収容すると、銃弾の中、三名を乗せた重い機は滑走しようやく舞い上がった。

 
上空の友軍機は篠原機と青柳機の鹵獲を阻止せんと射撃を行い
炎上破壊した。かくして機体を失ったものの
篠原は奇跡の生還を果たした。
 
地上と空中でのギャップ
闘志むき出しの戦法とは変わって、飛行機を降りた篠原は
戦友たちの中でも大人しい性格であった。
7月25日の戦闘で愛機を失った折、
「新しいやつを貰ってかえっていいじゃありませんか」という戦友に対し篠原は
「それもそうだが、古い女房に死別したようなもんですよ」と
たった一度、寂しげな顔を見せた。
 
確実な撃墜にこだわった篠原
篠原は撃墜する毎、機体に撃墜マークを描き込んでいたが
相次ぐ出撃に、描込みが追い付かないでいた。星の数が多いので
「ソ連機みたいになってしまったよ」と笑った。そして
「自分の記録に不確実は一機もない。自分の確認法は空中の場合は火災を
発してそのまま落下したものということにしている」と記している。
疑念を持つ将校も居たが、何より最も身近な戦友は皆、篠原の戦果を認めていた。

 
ある日、空戦から帰還し、戦果報告を受けた野口戦隊長は篠原の主張する
撃墜地点が空戦域とかけ離れていることに疑問を感じ、問いただしたところ
篠原は「証拠品を取ってきます」といってふたたび飛び立つと、しばらくして
から撃墜した敵機の破片とソ連兵の焼け焦げた長靴の一部を持ち帰って
くると「こいつであります!」と突きつけたと野口戦隊長は回想している。
 
最後の出撃・戦死
撃墜58機というスコアはわずか三ヶ月間に達成したものである。
連日の出撃と勇猛果敢な戦法、裏を返せば非常にリスクの高い
戦いを展開していた篠原である。疲労もあり、最後の出撃間際には
 
「少し目が悪くなって射撃練習がうまくいかん。第一線を退くかな」
と漏らしており、それでも飛び立った。篠原最後の出撃は
昭和14年8月27日、爆撃機護衛中に3機を撃墜したが
自らも燃料タンクに被弾し炎上、
モホレヒ湖付近に墜落、戦死した。
満26歳であった。戦死後准尉から少尉に特進。

篠原弘道

▲篠原の戦死を伝える記事。昭和14年8月朝日新聞
 

篠原の故郷を訪ねて
私は、篠原弘道の直近の甥が近所に住んでいるので会いに行った。
現在でも大きな農家だ。(篠原少尉の生家は現在も宇都宮市にある)
しかし、甥の話に
よれば篠原は生涯独身であったため直系の遺族は
存在せず
墓もないという。孤独である。もし妻や子があれば、運命もまた
違ったものになったのだろうか。陸軍のトップエースと雖も遺品は
ほとんど残っていない。
 
  
直近の甥によれば弘道は「こうどう」と読む
多くの書物やネットでは「ひろみち」と記されているが、誤りである。
 
近所の住民に尋ねると
「ああ、弘道(こうどう)さんね。あのノモンハンで何十機か落とした」
と少し知っていたが、残念ながら記憶は着実に風化しつつある。
 

▲篠原の活躍を大々的に伝える記事。昭和14年7月読売新聞。篠原はこの一ヶ月後に戦死
 
 

なお、海軍のエース赤松貞明より3つほど年下。
岩本徹三、坂井三郎はともに3つ年上。
 
篠原少尉を後世に伝える
ところで、SFアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト2199」に
篠原弘樹というキャラクターが戦闘機搭乗員役で登場する。
栃木県出身という設定。篠原弘道少尉をモデルにしたのだろうか
これは素直に嬉しい。ブラックタイガー隊の加藤もそうだけれども。
少しでも篠原が生きた証を残してくれたら嬉しい。
  
最後までご覧くださりありがとうございました。
記事は調査継続中につき順次加筆訂正を行います。
 
 
平成29年9月19日追記
宇都宮市内にお墓がありました。
篠原弘道さんのお墓です。
詳しいことは、整理して更新します。

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▲宇都宮市内某所にある篠原弘道准尉(少尉)のお墓
 

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ホロンバイルの荒鷲(入江徳郎)

日本陸軍戦闘機隊付エース列伝(酣燈社)

日本陸軍航空隊のエース(ヘンリーサカイダ)

蒼空戦線 太平洋日米航空決戦録(小林たけし)

陸海軍航空隊蒼天録(野原茂)

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参考・出典
篠原弘道少尉遺族への聞き取り調査ノート(篠原直人)
防衛省防衛研究所資料室 飛行第十一戦隊戦闘詳報
『日本陸軍戦闘機隊付エース列伝』(酣燈社)44頁

『日本陸軍航空隊のエース』(ヘンリーサカイダ)17頁
『陸海軍航空隊蒼天録』(野原茂)25頁
朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞(昭和十四年八月)
 
篠原准尉の日記が掲載された本
『ホロンバイルの荒鷲』(入江徳郎)昭和16年11月発行
 
篠原准尉が登場する作品
漫画『蒼空戦線 太平洋日米航空決戦録』(小林たけし)
 
ノモンハン航空戦陸軍飛行隊の活躍をもとに製作された曲
『空の勇士』昭和14年製作、翌15年にレコード5社から発売。
「恩賜の煙草をいただいて」の歌詞ではじまる戦時歌謡曲・または軍歌。
大槻一郎作詞、蔵野今春作曲
 
篠原弘樹として登場する作品(SF)
アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト2199』

2015年3月22日 (日)

最後の戦車兵 ルソンの戦い

「駅に着いたら電話をください。車で迎えに行きますから」
 
電話口でそう語るこの方、昨年の秋、あるきっかけで出会った。
御年94歳。戦争中は戦車の操縦士をしていたという。
「わし以外はみんな死んだ」
戦車兵としての自身の経験を淡々と語るが、
その内容は熾烈であった。
   
氏は戦車第二師団第十連隊所属し
操縦士を経て、のちに射撃の腕が特に優秀だったので師団の参謀長
から認められ、中隊長車の射撃手となった。九七式戦車に乗っていたという。
 
昭和20年1月、フィリピンルソン島において
マッカーサー率いる米軍と対峙。
連隊の戦車は全て米シャーマンによって壊滅したが
擱座した戦車から機関銃を外して白兵戦を展開し
終戦まで徹底抗戦したという。戦車連隊の戦友800名のうち生還
できたのが50名。そして同師団の11連隊の戦友は占守島へ赴き
ソビエト軍による本土進攻を阻止していた。
 
私はこの出会いを通じて記録を残すことにした。
とはいっても私は戦車についての知識がほとんどない。
「戦車のイロハを改めて学んできます」
ということで、またお会いする約束をした。
 
また続きを整理しながら書く。

2015年3月17日 (火)

ある飛行兵の話(パラオ人の証言)

De

 
戦争中はいつもひもじい思いをしていました。 
そんなある日、私たちはガラルドの畑へ行きました。
すると、私たちの畑小屋に人の気配を感じました。
近付くと、そこに居たのは日本の飛行兵でした。
飛行兵は小屋の下で柱に家族の写真を立てかけて
それを眺めながら座り込んでいました。
 
私はバナナを持ってきて
「兵隊さん、バナナをどうぞ」と言いました。 すると兵隊さんは
「いや、いいですよ。私はもうだめだ。 私が食べればあなたたちの分がなくなる」
そう言って断りました。
 
私は家に帰ってそのことを家族に話しました。 
すると、今度は兄が小屋へ行ってもう一度 食べるよう言いました。 
それでも兵隊さんは食べなかった。
 
次の日、小屋へ行ったらもう
その兵隊さんの姿は ありませんでした。
傷ついた体で長い道を
歩いていったのでしょうか。
その後はどうなったかわかりません。
 
------------  

 
これはマルキョク出身で当時ガラルドにいたパラオ人
ニーナさんの話です。ニーナさんは日本統治時代を知る女性です。
もちろん日本語ベラベラなので、私は日本語でたくさんお話しをしました。
日本時代のことを良いこと悪いこと、たくさんお話ししてくれました。
今回はその中からひとつ紹介しました。
 
画像はインタビュー動画から切り取ったものなので
少し暗いです。すみません。私はこうして日本統治時代を知る
多くの年配パラオ人にインタビューして公開していないものが
たくさんあります。

2015年3月15日 (日)

戦艦武蔵のパラオ離脱

戦艦武蔵が話題になっているので、私はパラオで武蔵を目撃した
という人物にインタビューしたことがあるので資料と照らし
合わせながら少し書く。(ぜんぶは書ききれない)
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、遠くから見ていた。かき分けた

海水がサンゴ礁に乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「でかくてたまげたね。アラカベサンの山よりでかかった」

 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため
パラオは騒然とした。
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。連合艦隊司令部はコロールの
陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の海軍司令部に置かれた。
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。
 
「我々勤労奉仕団に混じって、飛行場作るのを手伝ってくれた」
 
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ滑走路を完成させるに至った。
これが現在のパラオ国際空港である。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との報せを
受けた連合艦隊福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると
大慌てで武蔵以下艦隊を直ちにパラオ港外へ待避させることを下令。
 
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで
1分40秒かかる。これが全速航行時ならば 1.4キロも走って
しまう計算になる。
 
パラオ・コロール泊地から外洋に出るには唯一「西水道」
を経由せねばならない。最少幅110メートル、8.5キロに
及ぶ西水道は出口付近で直角に折れ、複雑かつ急速な潮流に
より通行を困難なものにした。満潮時の他は絶対に離脱不可能である。
 
「武蔵が西水道を抜けるとき、かき分けた海水がサンゴ礁に
乗り上げ、津波のように押し寄せた」
 
「武蔵が転進した後、コロールでは31日の夜、大型の飛行機の音が聞こえた。
確か2機だったと思う。(※記録では3機目が着水しているが)低いうなるような
音だった。

一旦、静まり返った後、夜明け前に離陸していった」
 
これは二式大艇のエンジン音だったと推定される。
のちの海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)である。

2015年3月14日 (土)

パラオの終戦

井上貞衛中将

▲昭和20年9月3日、アイライ沖に停泊中の護衛駆逐艦アミックで調印式を終えて
艦を去る井上中将。煙草を持っている。
 
◆パラオの終戦
パラオ死守を担う第十四師団長、井上貞衛中将は、ペリリュー島
アンガウル島の玉砕に続き、自らも死ぬ覚悟でバベルダオブ決戦に
備えていたが、昭和20年8月15日、パラオ地区集団にも日本敗戦の
報せがもたらされた。
 
◆停戦交渉
それから一週間後の8月23日、米軍はアイライ沖に停泊する
護衛駆逐艦「アミック」艦上にて、停戦降伏に関する交渉・会談に応じるよう
求めてきた。そこで第一回の米軍との停戦交渉を日本側は
14師団の作戦参謀中川大佐を主席に参謀部将校付の嶋谷勇中尉
中村美彦中尉、日系2世でハワイ出身の通訳、浜野充理泰
(浜野ジュリアス)少尉、書記として反町大七准尉、以上5名を選出し
アミックに送り込んだ。大発艇の故障により会談の開始時間は大幅に遅れ
しびれをきらせた米軍ファイク海軍大佐が途中まで迎えに来るという
事態が起きた。
 
日本側の使節団一行は大発艇に白旗を掲げ、アミックへ接舷すると
武器の不携帯を確認されたのち、アミック艦上へ運ばれた。
 
停戦交渉は参謀長室で行われた。机には丁重にもラッキーストライクが
カートンごと置かれていたが、誰一人手を付けることはなかった。
そしてこの時、米軍側はいきなり降伏文書を持ち出し、サインするよう
求めてきたが、中川大佐は憤然と拒否。
「まだ陛下の御指示もないのにサインなどできるか!」
突っぱねたので、米軍はあっさりと引っ込めた。
米軍側とて予備交渉であることを承知していただろうから
単なる嫌がらせではなかろうか。
 
第一回交渉は1時間弱で終わり、会談内容を
罫線用紙20~30枚分に記していた反町准尉は
頭にきて「アメリカの馬鹿野郎」とメモの最後に
書いて中川大佐に提出した。
 
◆降伏調印式
交渉はその後も数回続けられた。そして東京湾上の戦艦ミズーリと
同様にパラオでも昭和20年9月2日、護衛駆逐艦アミック艦上にて
正式な降伏文書への調印式が行われた。参加したメンバーは
第十四師団長でパラオ地区最高司令官の井上貞衛中将、多田督知参謀長
泉莢三郎後方参謀、副官の橋本津軽少佐、そして通訳は浜野充理泰であった。
 

井上貞衛中将と多田督知参謀長

▲降伏文書に署名する井上貞衛中将と隣は多田督知参謀長。
  
◆多田参謀長の終戦処理戦略
その後、パラオ本島(バベルダオブ)では武装解除が進められた。
調印式では14師団の多田参謀長が米軍に対し 
「パラオ本島への米軍の上陸は暫く待ってもらいたい。なにしろ
ヤクザの親分国定忠治の子孫や水戸天狗党の末裔といった
血気盛んな若者が4万もいるんだから」
と脅した。水戸連隊や高崎連隊をかけたジョークなのだろうか?
 
米軍が国定忠治や水戸天狗党が何たるかを理解していたとは
言い難い。それを加味しても、実際、バベルダオブに米軍が上陸してくれば、
敗戦を認めない14師団本隊が徹底抗戦を
行ったかもしれない。

  
そのうえで多田参謀長は
「その間、我々日本軍が責任を持って統轄をする」と米軍に誓った。
そして取り決め通り、米軍がバベルダオブに進駐することなく
コロールにとどまり武装解除が進められたのだった。

01

▲バベルダオブにおける武装解除の様子

武装解除は粛々と
戦車や速射砲、九九式歩兵銃など全てを集められ
米軍の監視のもと、海洋投棄された。
 
米軍は終始バベルダオブに進駐しないことで合意したため
一見、多田参謀長の判断は、正しいようにも思えるが、食糧供給が
行われず昭和21年まで及んだ復員中、餓死者が続出したことから
必ずしもベストとは言えない。
 
◆多くの命を救った勇敢なマーティン中尉
そんな中、勇敢な米兵のエピソードを紹介する。
終戦後の日米交渉はアルミズ水道(現在のKBブリッジ)を挟んで
コロール側を米軍、バベルダオブ側を日本軍の交渉窓口として
米軍は特に用のないかぎり
バベルダオブへの進入を禁止した。
 
このとき、米軍の将校が単身、ジープを駆ってバベルダオブのアイミリーキを
訪れた。この訪問に対し、当時南洋庁で戦後処理にあたっていた山野は
「如何なる用件でしょう。約束に反しているではありませんか」と驚いて尋ねた。
 
見れば米軍将校は丸腰である。将校
は次のように述べた。
「それは承知している。自分は食糧関係を担当するマーティン中尉だ。
終戦後、バベルダオブで
大変な飢餓状態なるとの報告を受け、寸刻を争って
対策を講じねばならぬと思い、約束を破って訪問した。最高責任者と話がしたい」
 
山野はマーティン中尉の勇敢さと厚意に深く感銘を受け
「すぐに南洋庁長官と会って頂きましょう」と答えると
長官のもとへ案内することとなった。ジャングルの中に入るとマーティン中尉は
「この辺りに陸海軍の兵隊はいるか」と尋ねるので山野は
「それは私にもわからないが、貴官は我々同胞の困窮を救うべく訪問された
のである。貴官の身辺は
私が命をかけて護りたい。どうか私の後ろをピッタリ
離れず歩いてもらいたい」と述べた。
 
このマーティン中尉の功績により、多くの将兵と民が餓死から
逃れることができた。
 
◆五十九連隊復員と陛下御忍びの行幸
多田参謀長の予想は思わぬ形で表れた。
復員の為、横須賀で下船した宇都宮五十九連隊であったが、
その姿を出迎えた横須賀市民や米軍を驚かせた。今までPW(捕虜)の服を
着た復員が多い中、五十九
連隊は、戦闘帽に階級章をつけたままの軍服を
着用し背嚢を背負い、ラッパ手を先頭に堂々と行進を始めたのである。
 
武装こそ解除されているものの、その姿は消滅したはずの帝国陸軍であった。
復員局の係官はすぐに階級章を外すよう促したが、
江口連隊長は
復員手続きが終わり解隊の命が下されぬ限り我々はあくまで軍隊で
あるとの信念をもって、これを拒否した。
 
営地では平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し堂々と
行進し士気の高揚をはかった。
 
これに対し、お忍びで陛下が行幸されたという逸話がある。
五十九連隊は陛下の命令を受けてようやく武装解除したのであった。
そして占領軍政下の厳しい報道管制でいっさい公表されなかった。
 
連隊は営庭に整列し、陛下をお迎えした。江口連隊長が官姓名を名乗った後
「臣八郎。不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、
あまたの陛下の赤子を失いたること・・・」
と涙ながらに報告分を上奏された。
 
陛下は最後に
「ご苦労でした」と御懇切なるねぎらいのお言葉を下された。
師団に対する昭和天皇の公式なお言葉は以下の通りである。
 
「パラオ集団ハ寔ニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ
善ク出来テ満足ニ思ウ」
 
こうしてパラオにおける十四師団の戦争はおわったのだった。