2015年5月 2日 (土)

パラオのジュゴンの伝説

ジュゴン

 
パラオに生息するジュゴン 

パラオはミクロネシア唯一のジュゴン(人魚)の生息地で
その数は200頭前後と推測されている。
 
パラオ全域の大堡礁の礁湖(ラグーン)内深所に生息し夜間、礁草の浅所へ
餌を食べにやってくる。 餌は海草のアジモ、アマモ類で、これを一日に
数十キログラムを食べなければならない。
 
ジュゴンは沖縄以南、東南アジア、オーストラリア沿岸、パラオに分布し
体長3メートル、体重400キロ、非常におとなしい性格で臆病なため
海上で遭遇できるケースは滅多になく ほとんどの場合、航空機より
目撃されている。目撃地点はマラカル港周辺、バベルダオブ島の
西岸ガラスマオが 多く、そのほかマラカル港外東やアルミス水道東、
カイシャル周辺でも 目撃例がある。
 
絶滅が危惧される存在に
飛行機による発見頭数は 1978年に34頭、79年に15頭、83年に17頭、
84年に58頭 91年に26頭と、減少傾向にあり絶滅が危惧されている。
※倉田洋二博士による調査
 
パラオの法律では捕獲は禁止である。 しかし古くからの伝統を受け継いで
いる部落では現在でも食用に捕獲している。 数年前、バベルダオブで
ジュゴンが捕えられたとの報告を受け 調査チームが現場に急行すると、
海岸には骨だけとなった ジュゴンが残されていた例もある。
 
そのほか神聖視し食用を禁じる部落も存在したり、神に供えてから処理
しないと災いが おこるとされる部落など、多様である。
 
捕獲には呼吸の為、浮上してきたところを 狙うか、餌場に網をかけて
待つ方法があるが 滅多に捕獲できない。非常に美味である。
 
人魚の悲しい伝説
神話にも登場するジュゴンに対するパラオ人の関心は極めて深くジュゴンの
第一頸椎(オレウル)はアンガウル・カイシャル を除く男子の酋長のみの着用が
許された神聖なアクセサリーである。 このようにパラオではジュゴンに多くの
伝説(人魚の悲しい伝説が有名)神話、タブーなどが存在し部落によって違いは
あれど、いずれも特別な存在として崇められている。
 

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

ジュゴン

2015年4月28日 (火)

パラオでジンベエザメを見られる確率

パラオでジンベエザメを見たい!というリクエストをするダイバーさんが
いるので、書いておくことにした。ジンベエザメ所望で旅行を
計画されている人の参考になれば幸いです。
 

ジンベエザメとパラオ

 
ジンベエザメはパラオも回遊しているが
結論からいうと、かなり難しい。自他ともに認めるサメマニアで
パラオも経験豊富な現地のダイビングガイドに尋ねたところ
「2000本近く潜って一度見られるくらいの確率じゃないかな?」
とのこと。
 
しかしジンベエザメがパラオを回遊していることは事実のようで
他のショップで同じことを尋ねたところ、運よく何度も目撃している
インストラクターが居た。それでも2、3年の滞在中での
話だったけれど。
 
「ジンベエザメと泳ぎたいならモルディブとか、オーストラリアへ行った方が
いいよ!パラオは豊富な種類の魚を楽しむところだから」
 
ということでした。もしジンベエと遭遇できたなら
かなりの幸運といえよう。
 
水族館のジンベエザメはいつでも見れるが、水槽の中だし窮屈そうだ。
もちろん私もパラオでジンベエザメを見たことはない。
一度、一緒に泳いでみたい。
 

2015年4月26日 (日)

X-47ペガサス 無人ステルス機

X-47ペガサス

 
X-47ペガサスはアメリカ・ノースロップグラマン社が
海軍での運用を目的に
開発中の無人ステルス機である。
2013年に既に原子力空母からのカタパルト発進に成功し
運用次第では偵察機にも爆撃機にも成り得る。
 
※画像上はグアム上空を飛行中のX-47(想像図)

 
そして2015年4月
日本の首相官邸がドローンで騒いでいる頃、同じ日に
米軍は爆撃機仕様X-47Bの空中給油に成功した
(Xは試験機、Bは爆撃機を表す)
 

X-47ペガサス

X-47ペガサス

 
パイロット不要の無人機は戦死の確率がゼロなので軍事作戦における
革命的ともいえる大幅な合理化を達成している。どこの国でもいえることだが
戦闘機一機を購入する額よりも、パイロット一名を一人前にするために
何倍もの莫大な金額と時間を要する。よって撃墜や事故等による
パイロット一名の損失は甚大なる打撃となる上、国民感情に影響を与える。
捕虜となる心配もない、この無人機のオペレーターは、ビデオゲームのように
戦地から遠く離れた地上でステルス機を操作し、地上を爆撃すると
定時退社で家に帰ってシャワーを浴び家族にも会うことができる。
 

2015年4月25日 (土)

アンガウル慰霊碑の現状

アンガウルの慰霊碑をアンガウル島の方々(パラオ人)が
ほぼ独力で直してくれました。今回、天皇陛下はペリリュー島を
訪問されましたが、アンガウル島の住民も慰霊碑もしっかり修復して
くれていました。
 
ペリリュー島の慰霊碑は厚労省の管轄なので日本政府が修復して
くれましたが、アンガウルは民間扱いされてしまい
日本国政府は
関与できないと断られてしまってます。一方で
栃木県知事の福田富一さんは
「アンガウルで叔父が戦死している」と言って
県民にアンガウルの戦いを周知
させるとともに10万円を私費で寄付してくれました。

   
今回の修復は

アンガウル島のパラオ人の独力で修復を成し遂げました。
重機もないのにあの大きな下野観音を、どうやって持ち上げたのか
わかりませんが、ふたたび綺麗な慰霊公園が完成しました。
本当にパラオ人の創意工夫と、底力にただただ、敬服と感謝です。 

こんなに尽力してくださっているのに日本人が無関心すぎて恥ずかしい。
 
また続報が入り次第写真付きで

掲載します。

2015年4月23日 (木)

パラオ・ペリリューの戦いにおける民間犠牲者について

パラオ・ペリリュー島の戦いにおいて民間人(パラオ人)の犠牲者は
いなかった(ゼロ)とネットを中心に美談として広がっているが、残念なことに
実際のところは死者が出ている。戦没者名簿には島民の名前が
記されている上、実際にペリリュー島から逃げず、戦争が終わるまで
隠れていたという証言も私は現地で聞いた。
 
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Photo▲ペリリュー北のガラカヨ(現在のカープ島)で米軍将校に救出されたパラオ人家族。
 米兵からキャンディーを受け取る様子(上)家族はこの後軍医の診察を受けた(下)
 昭和19年9月

 
しかし日本陸軍としては、当初から島民の命を救うべく強制疎開を最優先
事項として実施したのは事実である。日本陸軍は原則、民間人を戦闘に
巻き込まないのが鉄則であり、軍規である。そんな陸軍の
懸命な策あっても、疎開の船に乗り遅れたり、故郷を離れることを拒んだ
島民も存在した。そのため一人も漏らさず、というのは残念ながら
達成できずにいた。
 
そして皮肉にも疎開先であるパラオ本島(バベルダオブ島)で
米軍の銃爆撃を受け、命を落としたパラオ人も多かった。
これは天皇陛下もパラオ訪問時に言及されている。
 
「バベルダオブで米軍機の機銃掃射を受けて父が死んだ」などの
悲惨な戦争証言がパラオ人の間で根強く残っているが
これはもちろん、米兵による非戦闘員への虐殺行為であり、
重大な戦争犯罪として立件されるべきなのだが、裁かれることは無かった。
 
当時、 どれくらいの島民を疎開させる必要があったのだろうか。
昭和18年6月末の統計によると、当時
ペリリュー島の人口は日本人が160人、パラオ人が899人、朝鮮人1人
アンガウル島は日本人が1325人、パラオ人が754人、朝鮮人が539名
であった。
 
アンガウル島のほうが人口が多いのは良質な燐が採掘できたからで
ペリリューにも燐鉱はあったが、規模は小さかった。朝鮮人のほとんどは
燐鉱採掘の従事者である。
 
朝鮮人軍属の戦死
ペリリュー島においては、上陸戦が行われる前の昭和19年
トンネル掘削や飛行場整備のための朝鮮人軍属が動員されていた。
この朝鮮人軍属を臨時の歩兵として北部守備隊に編入し、ペリリュー
戦を展開したので、それで戦死した朝鮮人は民間人の死亡あたらないのか、
見解がわかれるところだ。朝鮮人は正規の日本兵と異なり
配属の指揮官によるところが大きいが、戦闘を強いられず
米軍に投降した例も多い。
 
パラオ人の戦死
ペリリュー島に限ればおよそ900名の民間人を
疎開させる必要があったが、これを拒んだり、疎開船に乗れず
島に残った者、数名が戦死した。アンガウル島はもっと多い。
最後一隻の疎開船が上陸戦までに間に合わず、犠牲と
なってしまった。

2015年4月22日 (水)

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

栃木県の最終処分場計画と尚仁沢湧水

 

栃木県塩谷町の放射性廃棄物最終処分場建設計画 
最初に述べておくが、この記事は建設の可否を論じるものでない。

現在おかれている政治側面と現地の状況を記しておくものだ。
進捗があり次第、追記する。 
 
全国屈指の水源地
ここは栃木県に塩谷郡に計画されている
放射性廃棄物の最終処分場予定地から近い
水源地、尚仁沢湧水(しょうじんざわゆうすい)
 

宇都宮からもおよそ30分と近く、私自身も疲れたときには
ここへリフレッシュをしにドライブに行くことがある。
この写真も一年前に撮影した。
何より水が綺麗でおいしいし、原生林の森が美しい。

宇都宮や矢板など、周辺の
このおいしい水を求めてポリタンクを何個も何個も
車に積んでやってくる。豆腐屋さん、飲食店関係者も多い。
 
水源地近くには水汲み場があって、基本的には持ち帰りはタダなのだが
最近、個人なのか業者なのかわからないが、多くの人が水を汲みに訪れ
マナーの悪さが問題視されている。
一人で何個も大きなポリタンクを持ってきて水の湧き出ている
ところを占領するものだから同じように水を求めてやってきた
者同士でトラブルになるのだ。

 
さらに水を積み過ぎて帰り道事故を起こす車が続出している。
カーブを曲がりきれなかったり、ブレーキがきかなくて大きな
事故になる。
 
水源地近くにはミネラルウォーターのボトリング工場があり、全国の

飲食店や食品工場などに出荷されている。
とにかく、それくらいここの水は全国でも屈指の名水である
ということだ。
 
原発から出た核のゴミ、つまり放射性物質の最終処分場計画は
地元自治体である塩谷郡塩屋町と矢板市が懸念を表明している。
矢板市は最近シャープの撤退が噂されているし、最大の危機ともいえる。
 
自民党系知事は容認の立場
平成27年4月の統一地方選挙で栃木県は県議会議員選挙と
市議会選挙が行われるが自民党系議員はいずれも容認の立場を表明している。
一方、無党派や民主党系議員などはこれに反対する構えで対抗、
有権者の支持を求める見通しだ。自民党系の栃木県知事、福田富一氏は
容認の立場を示している。福田知事の任期は2016年なので候補地を
めぐり次の選挙で争うことが予想される。
 
建設を推し進めたい与党と具体的代替案に欠ける野党
なお最終処分場という名称を国が長期保管場と改めると表明したが
言葉のトリックとしか思えないし、実質的には変わらないだろう。
 
国は水源地に影響はないとの見解を伝えて理解を求めているが
想定外の事態は十分に予想されるだろうし、原発事故から
我々が学んだことと言えば、何でも「想定外」の一言で
国の見解が信用できるものでないことは明らかだ。
 
与党は建設を推し進めているが、では反対する野党はどうか
具体的な代替のアイディアがないのもまた事実だ。
我々有権者は、単純な賛成反対に左右されてはならず

具体的アイディアを聞いて、それが論理的であるか
十分に精査して投票しなければならない。

 
基本的に自治体は国に勝てない
国の決定を自治体は覆すことができない。
沖縄の辺野古基地移設のように、知事が反対すれば工事は進まないが
基本的に資材の運搬許可を出さなかったりと、邪魔をして
工期を遅らせるのが精一杯だ。
 
問題の根本は処分場建設にあらず
反対する住民と地元の水に関わる業者は何より
収入源を絶たれることを危惧するのだろうが、それは国が保障すればよい。
問題の根本は「核のゴミをどうするか?」これに尽きる。
 
国の方針に白紙撤回はありえないだろう。
核のゴミはいずれかへ処分しなければならない。ツケが回ってきたのだ。
福島で処理しろといわれても福島の住民も困っている。
 
原発を停止しただけでは問題は解決しない。
福島、栃木の人たちはもちろん、全国のひとたちも大局的観点から
核の廃棄物をどうするのか、関心を持って考えてほしい。

2015年4月21日 (火)

配慮をお願いしたいこと

パラオ・アンガウル玉砕戦唯一の生存者であります
倉田先生が度重なる取材と撮影の連続ですっかり疲れ切ってしまいました。
 
この度の天皇皇后両陛下のパラオ訪問に際し、
「二度と無い機会だろうし、何より戦友の為になるなら」と全て
応じてきましたが、88歳、こたえたようです。
 
どこの局も独占取材をしたいというお気持ちは理解できますが
ご高齢なので、考慮して頂ければと思います。
何度も同じことを何度も聞かれ、半身不随の体で
現場を歩き回り撮影しました。
 
同じテレビ局や新聞社でも部署が違うと別々に取材の申し入れが来ます。
宮内庁担当記者、社会部担当記者、それも全国版、地方版との
連携が取れておらず、短時間で取材や撮影をするものですから
ご負担はたいへんなものです。
 
それでも続けてきたのはアンガウルに関心を寄せてもらうため、何より
「戦友のため」これに尽きます。
 
各報道関係の方も、横の連携を高めるなど、どうか配慮願いたいと思います。

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特別企画限定公開中

内貴直次さんの訃報

内貴直次さんがお亡くなりになりました。
  
平成27年4月9日午後2時頃、金沢で行われる戦友会に参加するため、
北陸新幹線で金沢へ向かっていた車内で倒れ、病院に搬送されましたが
死亡が確認されたそうです。
 
内貴さんは95歳。元陸軍少尉、西武ニューギニアから生還した方で
戦争中に片足を切断(しかも麻酔無しで)しているのですが、
最近、お会いしたときも、一日1000メートルの水泳を毎日
こなすのが日課で、趣味ではオートバイに乗るのが楽しいと仰っていました。
  
心よりご冥福をお祈りします。
 

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横山岳夫さんの訃報

元海軍大尉で戦闘機搭乗員の横山岳夫さんが亡くなりました。
先日、訃報を知ったところです。横山さんは97歳、3月5日に
ご自身で車の運転をされ、買い物へ行った際に、駐車場で倒れ

そのまま救急車で運ばれましたが、間もなく亡くなったそうです。
直前までお元気だったことから
肺塞栓症(エコノミークラス症候群)だったと聞いています。
 
私は横山さんと親交の深い方にお願いし、近日取材を行う予定でした。
週末にお会いする予定だったのですが、数日前に伺う予定を
お電話で確認しようとしたところ、一向にお出にならないので
おかしいなと、思っていたところ、先に記した通りです。

  
横山岳夫元少佐は海兵67期、水上戦闘機(二式水戦)出身で、のち
零式艦上戦闘機へ転向。201海軍航空隊でもっとも知られるエピソードといえば

指宿正信大尉とともに初の神風攻撃隊である「敷島隊」編成に関与された
といわれる方です。横山さんと指宿さんの名誉のために書いておきますと

これは201海軍航空隊副長の玉井浅一中佐の命令であり
お二人には特攻を制止できる権限はありませんでした。
 

指宿さんに関しては戦後航空自衛隊初のジェット戦闘機パイロットとなり
昭和32年に殉職されましたが、生前、このようなエピソードが
残っています(篠原調べ)
空に生きた武人~指宿正信の生涯

 
横山岳夫さんはその指宿大尉の戦友でもっともよく知っている
ということで
戦友としての思い出を伺う予定だったのですが、残念です。
 
貴重な歴史の証言者が亡くなられたことは誠に残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。