2013年6月18日 (火)

海軍パイロットデータベース

尾崎伸也(大尉) 水上戦闘機出身。零戦戦搭乗員

343空飛行隊長。完成直後のアイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
へ移動しパラオ諸島全体の防空任務にあたる。
※昭和38年にグアムで発見され、浜松広報館に展示中の零戦(43-188号機)は
この尾崎大尉の機体と推測される。 
 
板谷 茂(少佐)戦闘機搭乗員
海兵57期。真珠湾攻撃では第一波制空隊総指揮官。
昭和19年6月、第51航空戦隊、第203海軍航空隊で北海道各地の基地
を渡り千島列島の警備にあたる。
7月24日、飛行中事故死。
 
岩城芳雄 (一飛曹)空母翔鶴航空隊戦闘機隊
甲種予科練2期。真珠湾制空隊。
ミッドウェイ海戦ではプロペラと翼タンクに13mm三発被弾も
小攻4(内共同2)、大攻3(内共同2)を撃墜。
赤城を失ったのち、空母飛龍に着艦。
昭和17年8月24日
翔鶴戦闘機隊(指揮官新郷英城大尉)
14小隊、分隊長、指宿正信大尉
2番機として母艦翔鶴の直掩にあたり交戦
自爆戦死
 

江馬友一(飛曹長)ベテランゼロ戦搭乗員。

最後は敵編隊第四波を休みなしで迎え撃って帰らなかった。
操練22期。第254海軍航空隊ほか
 
羽生十一郎 (三等飛行兵曹)
操練43期、零式戦闘機搭乗員
昭和16年12月、真珠湾攻撃に於いて赤城制空隊として出撃。
ポートダーウィン爆撃制空隊、コロンボ制空に参加。
ミッドウェー海戦。4時20分、第三直掩隊として発艦。
交戦後、行方不明。同日付戦死と認定。
 
長嶺公元(大尉)海兵68期、彗星偵察員。
千早少佐とともに強行偵察の功労者。
第121海軍航空隊(通称雉)第一分隊長ほか
 
永元俊幸(大尉)海兵69期、彗星操縦員。
零戦隊を率いてマリアナ沖へ出撃。未帰還。平成12年
第121海軍航空隊(通称雉)第二分隊長ほか
ペリリュー派遣隊
 
新郷英城(中佐)-のち航空自衛隊空将
海兵59期、ゼロ戦搭乗員-のち航空自衛隊ジャット戦闘機パイロット。航空自衛隊トップ
空母翔鶴飛行隊長として活躍。ヘンダーソン飛行場攻撃で
被弾不時着。一命をとりとめる。
戦後は航空自衛隊に入隊。ジェット戦闘機パイロット。
空将-航空総隊司令部幕僚長。

2013年6月17日 (月)

海軍航空隊一覧

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パラオのペリリュー、ガドブス、アイライ各飛行場から出撃した航空隊史および
ペリリュー島で玉砕した海軍部隊を記載
■偵察隊

第121海軍航空隊(雉)

■水上飛行機隊

第30根拠地隊附飛行隊

 
■戦闘機隊
第201海軍航空隊

第265海軍航空隊(雷/狼)
第321海軍航空隊
 
■艦爆・艦攻隊
第513海軍航空隊
第521海軍航空隊(千歳空)
第523海軍航空隊(美幌空)
 
■陸攻隊
第732海軍航空隊
第751海軍航空隊
第752海軍航空隊
第761海軍航空隊(龍)
 
■飛行艇(派遣隊 第11、12偵察隊)
第851海軍航空隊
 
海軍陸戦隊
特設第33、35、38機関砲隊
第3通信隊(一部)
西カロリン航空隊ペリリュー本隊
第3隧道隊
第21魚雷調整班
第30建設部(一部)
第30工作部(一部)
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第214設営隊
南西方面海軍空技廠(一部)
 
順次更新

カミカゼと自爆テロの区別がつかない残念な欧米人

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一般的に反日と言われたフィリピンの真実がこの本にはある。
 
ダニエル・H・ディソン氏の熱意が込められたこの本は
ダニエル氏が幼少期、日本兵とともに過ごした
思い出がたくさんつまっている。
 
ダニエル氏は
フィリピン人でありながら、日本人以上に日本を理解している。
フィリピンを愛するが故に、戦争の客観的真実を残し、良い部分のみを活用し
フィリピンの真の独立と明るい将来を切望している。
 
フィリピンは歴史上三つの国に侵略された。
スペイン、アメリカ、日本、そして再度アメリカである。
故に、これといったアイデンティティや文化が無いとダニエル氏は悲しむ。
 
さらに、カミカゼと自爆テロの区別がつかない欧米人やマスコミの多いこと,
国を守るため散ったカミカゼこそ、フィリピン人の見習うべき精神であり
ラスト・サムライであると本書で語る。

2013年6月13日 (木)

桜花カタパルト ロケット特攻機という悲しい歴史

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千葉県南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」の
カタパルト跡があります。
 
「カタパルト」というのは打ち上げ発射台のことです。
ロケット特攻機「桜花」はその名の通り、パイロットが搭乗し、
打ち上げられた機体は、
燃料尽きるまで飛び、敵艦に突っ込み、
二度と帰ってきません。
 
画面奥に向けて発射される造りで、完成間際で終戦を迎えた為
実際に使われることはありませんでしたが、本気でこのような
計画があったことがうかがい知れます。
 
発射台から射出された桜花は、ジェット推進により、200kmの
航続距離があり、
房総半島沖の敵機動部隊に肉弾となって
突入、自爆します。

 

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▲桜花の模型を合成し再現してみました。
戦時中は画面奥の木は伐採され、
開けていたのでしょう。
見据える先は太平洋です。
  

当時を記憶する地元の神職の女性(77)にお話を聞くことができました。
終戦間際(8月)突然、大勢の人たちがやってきて工事が始まりました。
カタパルトの直下に神社があり、立ち退きを命じられたということです。
「神様に立ち退きを命じるなんて、もうこの戦争はダメだね」
と当時を回想されていました。

 

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▲カタパルト直下にある神社は立ち退き、現在は小さな祠(ほこら)として
地元の方が綺麗に守っています。
 
カタパルト建設と並行して進められたのが壕を用いた格納庫の建設で、
掘削、発破作業とか
危険な仕事は朝鮮労働者が従事しました。
無理な工事がたたり事故も多く、現場からむしろがかかったご遺体が
運び出されるのを
何度か見てしまったとも仰っていました。
 
土地や財産は全て軍に接収され、土地の境界線に関しては
戦後の混乱もあり
現在でも所有権が有耶無耶のままだそうです。
畑の真ん中に作られたカタパルトもそのままです。

 

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▲コンクリートの土台のみ残っています。
ここにレールが敷設される予定でした。

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▲少し離れた山中にレールも残っています。

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▲横から撮影しました。画面中央、緑の土手の上にカタパルトが
敷設されています。

 

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▲桜花一一型の模型です。ゼロ戦と同じスケールです。

靖国神社の遊就館の売店で購入できます。


「桜花」四三型とは
このカタパルトで運用される予定だった
「桜花」四三型、乙について記す。
同機は桜花の初期型である一一型(一式陸攻に吊り下げて
敵艦隊の近くまで接近し、発進させるタイプ。実際に使用)
の改良型で、重量は1.15トン。一一型のおよそ二倍。しかし爆薬は
三分の二しか積めず、800キロだった。主翼の面積を
広げてグライダー的要素を強くした。
 
機体は名古屋市の愛知航空機および九州、大分の第十二航空技術廠で
生産され、エンジンは「橘花」と同じ20型ターボジェットを採用した。
 
カタパルトは巡洋艦用「呉式二号」の5倍の長さがあって
ここ南房総のほか、比叡山にも設ける予定があった。
なお、横須賀の武山では発射テストに成功している。
 
第725海軍航空隊は、昭和20年7月に開隊された
桜花部隊である。搭乗員を浦戸、三保空の甲飛14期生で
編成し、5機を1グループとして長野県の野辺山農場にて
まずグライダー訓練を行い、その後、練習機で操縦技術を
養ったが、実戦に至る前に終戦を迎えた。
 
※桜花四三型の出典
『別冊「丸」 太平洋戦争証言シリーズ15 終戦への道程』446頁

 「桜花」パイロット生き残りの証言

当時、桜花のパイロットで、出撃直前に終戦を迎えたため

生き残った鈴木英男さんのお話しはこちらに掲載しました。

2013年6月11日 (火)

KYなディズニー女

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東京北区で旧日本軍の不発弾が発見され
JRが一時運休となり9万人に影響が出た。
運休の旨は以前より何度も告知されていたが
テレビインタビューに応じる女性のレジャー客は
「え~っこれからディズニーランドへ行くので困ります」
とコメント。

またビジネスマン風の男性も
「知りませんでした。不便ですよね」
などとコメント。

残念なこの人たちは
電車が動いて当たり前だと思っている。命がけで処理を行う
自衛隊員の前でも同じことが言えたら凄い。

あなた方が快適に利用している新幹線の生みの親は
悲劇のロケット特攻機「桜花」の設計技師三木忠直である。
本土上空に進入せしB-29を睨み
据えらていた高射砲の姿も、今はもう、みんな忘れてしまった。

ところが、就職活動のために上京した男子学生は
「知ってました知ってました。早めに出てきたんでどうにか間に合いそう
ですね」
と淡々と答えた。

また、ある年配男性は大宮止まりの新幹線を
「昔を思う出すようで懐かしいねぇ」
と穏やかな表情だった。(昔、東京へ乗り入れる前は大宮止まりだったから)

同じく年配男性は
「スカイツリーへ行こうと思ったんだけど、大宮止まりなので
鉄道博物館を見学していこうと思う」
と、いずれにしても楽しそうだった。

今回の不発弾発見に絡み、現代人の
それぞれ多様な表情を見た。

2013年5月31日 (金)

コロールの芸者通り

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コロールのメインストリートからはずれた、WCTC側一本目の裏通りは
かつて「芸者通り」と呼ばれた、南洋一の大繁華街で
道の両脇には遊郭が並んでいたのでした。
 
将校さんの遊び場として、また兵卒も(人によってですが。まったくそんな遊びはなかったという方もいますので) 
出征前の最後のひとときを過ごしたと言われております。
 
パラオは物資も比較的潤沢にあり、当時としては豊かたほうでした。
ただそれは昭和十九年三月三十日までの話です。
同日からのパラオ大空襲でそのほとんどが灰と化しました。
 
少しばかり残る、当時の面影を探りながら歩いてみることにしましょう。
 
高いビルがパレイシアホテルです。(この国で一番高い建物です)
現在は閑散として民家や小さなストアー、アンガウルの州オフィスなどがある程度です。
メインストリートと違って人通りが少ないので
夜間は歩かないようにしてください。
 
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当時、コロールで一番か二番目に大きかった遊郭「鶴之屋」。
現在は一般の民家です。コンクリの基礎と建物はそのままですが
ピンク色に塗られたのはもちろん戦後。
 
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もう少し奥まで行ってみましょう。
「鶴之屋」の門柱です。現在は一般の民家です。
 
奥まで見たかったのですが、住人がいなかったので
声もかけられず、あまりウロウロして怪しまれてもたまらんので
この辺で失礼します。
 
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さて、芸者通りに戻ってしばらく歩くと、これも日本時代の建物です。
「活動写真館」です。活動写真というのは映画のことです。つまり映画館。
当時コロールには活動写真館が二ヵ所もありました。
 
活動写真という言葉、日本ではすっかり使わなくなりましたが
パラオ語では映画のことを「カツドー」と言います。
本当ですってば!
 
現在、コロールに映画館はありません。レンタルDVD屋さんならありますけど。
 
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芸者通りの散策終了。接続するTドッグで心地よい潮風を浴びます。
奥に見えるのはレンタカー屋さんとガソリンスタンド、
ウエストプラザホテル・バイ・ザ・シーです。
 
※West Plaza by the Sea パラオでは中堅クラスのビジネスホテル。
一切、飾りっ気はありませんが、帰って寝るだけという方なら、綺麗で安価なのでおすすめ。




2013年5月27日 (月)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式

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本日、高円宮妃殿下ご臨席のもと、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において
拝礼式が行われ、私も参列致しました。

普段は閉じられている納骨堂が開かれ、硫黄島をはじめ、樺太、マ

ーシャル諸島、

モンゴル、ミャンマー、パラオ、東部ニューギニア、ビスマーク、ソロモン諸島、
マリアナ諸島、旧ソ連地域から帰還した無名戦士のご遺骨が納められました。

安部晋三首相をはじめ各閣僚、カザフスタン、モンゴル、インドネシア、パラオ、
パプアニューギニア、フィリピン、ロシア、アメリカの各国大使が献花を行いました。
政党では自民、民主、維新の会、みんな、社民、生活、みどりの風、新党改革の
それぞれ代表者が献花しました。※共産党は欠席。


2013年5月23日 (木)

原爆投下は「天罰」 韓国紙が表明

原爆投下は「天罰」だそうだ。韓国紙が表明した。

絶対に間違っている。神がそんなひどいことするか!神が
何の罪もない無抵抗な善良な市民を長崎広島合わせて三十八万人も

殺すか!
無知な韓国紙記者よ、原爆を落としたのは人間だ。それを「戦争」

と呼ぶ。
日本人は何故、抗議しないんだ?何故ニュースにならないんだ?

なにが世界平和だ!なにが博愛だ!日本人は
どいつもこいつもどうして穏やかでいられるんだ?
僕は人間だから、こんなこと言われたら怒りの感情を抑えられない

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130522/kor13052222170008-n1.htm

2013年5月19日 (日)

95歳のおばあちゃんと鬼怒岬

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戦史の調査で知り合った
95歳のおばあちゃんの話をします。

彼女の夫は陸軍少尉でアンガウル玉砕戦で戦死しました。
20代で未亡人となった彼女は、再婚す

ることもなく
この年まで畑仕事一筋で子供を育て、生きてきました。

最近は「早く夫が迎えに来ないかな」
といった言葉が絶えず、私も
なんと言葉をかけて良いのかわからずに、過ごしていました。

将校さんでしたのでお家からは機密書類が多く出てきました。
「自分が持っているより多くの方の役に立てれば」との申し出で
私は、それらを防衛省に寄贈する手続きを取りました。

先日、ようやく防衛省での受領が完了し
彼女のもとに感謝状が届きました。

写真は少尉が亡くなったと推測される砂浜です。戦争当時は
陸上にあったトーチカ(コンクリートの防御陣地のこと)も
長年の波の影響で、砂浜へ徐々に押し出されています。

遺骨は帰ってきていません。

私が撮ってきたこんな写真ですが、おばあちゃんは
夫の化身のように大切にしてくださっています。

とても悲しいけれど、深い愛の絆があるのだなと
感じました。
 

 
追記
この出会いから2年後の
2014年夏、おばあちゃんは亡くなりました。

2013年5月 2日 (木)

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島
 
先日の硫黄島派遣で19歳の大学生と一緒になりました。
彼が記した硫黄島訪問の回想記に心打たれたので、本人の許可をもらい
ここに掲載させてもらいました。
 
純粋の一言に尽きます。硫黄島から戻り、すぐに記したこともあり
一切の飾り気を排して、素直な気持ちが表れており
さらに付け加えるならば、彼ら戦争を知らない世代はもちろんのこと
各々世代に対し、反戦の大切さ、それは単純なものでない故、
議論の余地を与えてくれている、素晴らしいメッセージだと感じました。
紹介します。次の通りです。 
 
 
『 硫黄島遺骨収集記 19歳大学生の回想 』
 
 
昨日、正確にいえば一昨日は硫黄島で日米合同の追悼式がありましたね。
丁度一ヶ月程前。 2月5〜14日に硫黄島遺骨帰還事業に参加させていただきました
そんな折、遺族の方々が合同追悼式について、なんで親を殺した奴らと笑って
追悼式しなきゃいけないんだって言っていたことを思い出しました。
何年たっても人の気持ちは難しいですよね。 向こうも必死でこっちも必死で生きるために
はたまた愛する家族を守るために殺し合ってたんですよね... 俺には難しいです。
今の平和ボケでは考えられない。

硫黄島には戦争で亡くなられた英霊たちがまだまだたくさんのいらっしゃいます。
彼らは望まずしてこの地に連れてこられ、辛いおもいをし、家族や愛する人に
会いたいという気持ちを胸に亡くなられた。 硫黄島では、今回の隊では壕の中を堀り
そんな英霊たちのご遺骨を探しだして、本土に帰還させるという作業をしました。
壕の中は風の通らないような場所では灼熱で60度以上にもなるところがあったり、
縄梯子で降りないといけない場所があったり、すごい劣悪な環境。こんな中で
少ない水で硬い地盤を堀り壕を作っていたのかと想像すると、考えられないほど
辛かったんだろうと、硫黄島では戦の前に亡くなられた方々が多かったといいますからね。
硫黄島には限られないのですが。

そんな中で作業して、何柱かご遺骨を見つけて持ち帰ることができて、本当によかったです。

今回の隊は特別な隊で、この一年で探し出したご遺骨を本土に持ち帰り、千鳥ヶ淵にて
引き渡し式を行うという役割も含まれていました。 ご遺骨を抱えて輸送機に乗り
入間基地に戻り、そこからバスで移動。 基地の中ではバスの通り道にご遺骨に向けて敬礼する
列ができていました。それを見た時のえもいわれぬ身体のかっーと熱くなる感覚、涙も溢れだして。
その時、彼らの死は無駄ではなかったんだと、意味があったのだと、確信しました。
彼らが死を望んだわけでもありませんが 、いま私たちが平和に暮らしているのは
直接的ではないかもしれないけど彼らのおかげなんだと、自分のたちは彼らの屍の上を
歩いているのだと。 しっかり一歩一歩踏みしめて歩かなければいけないなと。感じました。

遺骨の引き渡し式では、自分も殆どの学生は号泣。
現地の追悼式でははずかしながらないていたのは私くらいでしたが

この時に、戦争を知らない自分達の世代でもこんな気持ちになるんだなって、
戦争は絶対してはならないと言うことを受け継いでいかねばとつよく、つよく感じました。
戦時中硫黄島は米国にとって国民を戦争に向かわせるためのプロパガンダとして利用されました。
これからは硫黄島は反戦へのプロパガンダになって欲しい。して行きたい。

遺族の方々には自分達みたいな学生がきて俺は頑張ったつもりだけれど、煙たがれたかもしれません。
戦争で親族をなくしたわけではない自分達ですからね。
でも英霊のために働けて本当によかった。 考え方がまたかわる10日間でした。

硫黄島に行かせてくださってありがとうございました!

いまでも各地でご遺骨の帰還事業が行われていることを
みなさんにも周知しておいていただきたいです。

最後に、自分は相変わらずダメダメでした。 そんな自分にもよくしてくださって、
硫黄島では楽しくもすごさせていただきました。 いい人ばかりで、、、

硫黄島で出会えたみなさんに本当に感謝してます。

またどこかでお会いしたいです!

本当にありがとうございました! あ、つたない文書ですみませんでした!