2013年7月21日 (日)

硫黄島・栗林壕(兵団司令部壕)

硫黄島・栗林中将壕(兵団司令部壕) 
◆栗林忠道中将の壕です。

正式には兵団司令部壕、通称栗林壕と呼びます。
上陸戦が始まると、栗林中将はこの中で作戦の指揮を執りました。
 
2013年4月、安部晋三総理大臣が遺骨収容の現場視察に訪れた
折、この栗林壕にも入って説明を受けました。
私は今回は壕に入らず、入口で拝礼したのみでした。
(中を明るくするには発電機を持ってきて動かさねばなりません)
 
硫黄島・栗林壕中将(兵団司令部壕) 
硫黄島・栗林中将壕(兵団司令部壕) 
硫黄島・栗林中将壕(兵団司令部壕)
 
◆私は、疎開前に栗林中将を見たという元島民の方のお話を伺いました。
次のような証言でした。
 
私は自分の家の離れを栗林中将に貸しており、当初はそれが誰であるか
わからなかったが、毎日にように、部下と思われる将校が訪れては
「〇〇中尉であります!ただいま着任致しました!」
などと、着任挨拶があった。中将はそれを籐椅子に座って聞いており
ああ、相当な偉い人なんだなと思った。
 
栗林中将は優しそうな表情の親父さんだった。
 

上陸戦が始まる前に、島民は内地、あるいは父島などに疎開をさせられた。
いずれは、戦争が終わって帰ってこられると思っていた。

 

北硫黄島、および硫黄島は戦争が始まる以前は平和な
島だったのですが、帰還は実現せず現在に至ります。

2013年7月19日 (金)

硫黄島 海軍医務科壕と白旗を掲げた軍医

硫黄島の海軍医務科壕です。
 

つまりは負傷兵のための病院です。
内部の壁面には菩薩様が掘り込まれており

お焼香の跡や、お供え物などがありました。
 
衛生隊や兵隊さんの遺留品も残されており
当時の凄惨な光景が想像できます。
 
硫黄島 海軍医務科壕 
まず、驚くのが壕の広さです。硫黄島の地盤は固く
壕といえば、腰を折って中腰で進めればまだ広いほうと言えます。
ところが、この海軍医務科壕は別格でした。
 
英霊に一礼をしてから内部へ入らせてもらうと
身長175センチの私でも立ったまま奥まで進むことができ
横幅も十分にあり、地面は平坦にならされていました。
現代の技術と機械を使って造られたトンネルと錯覚するほどですが
もちろん、戦争当時、ツルハシで掘ったものです。
 
硫黄島 海軍医務科壕 
この壕では次のような逸話があります。
 
◆米軍に包囲された守備隊の兵隊さんにはそれぞれ
自決用の手榴弾が配られました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という
当時の戦陣訓は最も有名です。 
日本軍は捕虜となることを禁止しておりました。
※厳密に記すのであれば、少々、ニュアンスが違って
単純に禁止ではなく、捕虜になることは、最大の恥だ、といった概念です。
ただ、私がよくお話しする玉砕戦の生還者の方が
「日本軍は捕虜になることは禁止されていた」と何度も何度も
過去を思い出して仰っているので、ここでは禁止と記すことにします。

そんな風潮で、戦後、次のように公言した軍医中尉がいました。  

 
「私は堂々白旗を掲げて、米軍に投降した」 
 
彼は医者だから、生きるために治療をする。
しかし、せっかく生き延びた兵隊を、手榴弾自決で死なせることが
あまりにも忍びなく悲しかった。その旨を述べ、勇気を持って
白旗を掲げたと
伝わっています。
 
投降して壕から出ようとしたとき
後ろから仲間に撃たれる可能性もあったでしょう。
汚名を覚悟で負傷兵を救った軍医さんのお話しです。
 

 
ポトス 
▲でかい!壕の前に自生する超巨大ポトスの葉です。
 
それから、
作家の笹幸恵先生の著書『女ひとり玉砕の島を行く』
の表紙写真はこの壕の前で撮影されたそうです。

2013年7月17日 (水)

硫黄島より帰還

硫黄島

硫黄島より帰還しました。
今回の壕は垂直坑道で、切羽の温度は摂氏70度、湿度100%でした。
6分おきに先頭交代をしながら土砂を掘り、排出する作業を続けました。
70度と書くのは簡単ですが、意識もうろうとする猛烈な環境です
酸欠で頭も痛くなってきます。

ところで、
旧軍が壕掘りに用いたスコップが何本も発掘され、
当時のまま、錆びずに残っていました。

これがあまりにも使い勝手が良く、頑丈なので、
(柄が短く、先端は丸くなっており狭い壕の中でも使いやすい)
我々も使わせてもらいました。実に感慨深いものがあります。

2013年7月 9日 (火)

硫黄島へ出発

C-130

硫黄島へ向けて出発します。
 
小笠原沖の台風が心配ですが、雨は降ってくれたほうがいい。

2013年7月 7日 (日)

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(別名丹下灯台)跡に登りました。
アンガウル灯台は日本時代の建築物です。
実に美しい白亜の灯台で、青空に映え、 往来する船にとって
不可欠な存在でありました。
 
Imgp7598▲アンガウル灯台(丹下灯台)倒壊して逆さまになっている。
 
故に、真っ先に狙われたのもこの灯台です。
アメリカの艦隊による艦砲射撃で 根本から折れて倒れ、
そのままになっています。 私が座っている辺りが根本なのですが
よく見ると灯台の窓が確認でます。また、写真ではわかりにくいのですが、
谷底は深く、逆さまになった灯台の高さに驚きました。
 
灯台への道程。
周回道路を逸れて、脇道へ入ります。
石段が残されています。ここをのぼって行きます。
(この石段が当時のものかどうかは不明) 石段の向こう側には
日本軍の兵器の残骸やビール瓶 各種弾薬の薬莢などなど、
多くの遺物が残っていました。
 
Imgp7601_1▲灯台へ向かう途中石段をのぼる
 
この辺りは当時、南洋最古の「アンガウル大神宮」という
立派な御宮様が鎮座し、住民の暮らしと海の安全を
守っていました。神社としてはコロールの南洋神社より古いものです。
当時は人口が2500以上もいたのですから 神社も自然と必要となったのでしょう。
※私有地なので、立ち入る際は必ず許可が必要。
 
現在大神宮は、ほぼジャングルに帰し、倒壊した石灯籠のみが残ります。
なお戦後に建設された「新・アンガウル神社」なら周回道路沿いにあり
いつでも参拝できます。
  
Imgp7203_1▲戦後場所を移して新しく建て直された「新アンガウル神社」
 
ジャングルの草木を慎重にかきわけて行くと
灯台の土台(の一部)が残っていました。
 
Imgp7569_1▲灯台の土台の一部。さらに上を目指す。
 
このハシゴ、足をかけても大丈夫だろうか?
ボロっと踏み抜いたら怖いので安全そうな足場を探りつつ、
さらに登って行きます。
 
最上部まで到着。薄暗いジャングルを突き抜けて
一気に広い空が広がりました。西港から巴岬、磯浜までよく見渡せます。
サンゴ礁の浅瀬と外洋の境目が地図のように望め
とても気分がよかったです。また、蒸し暑いジャングルを抜けて
ここまで来ると風が実に心地よく、 沖からやってきた波が、遥か眼下の
岩にぶつかって砕け轟きます。
 
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Imgp7582_1
Imgp7576_1
Imgp7579_1▲アンガウル灯台跡。現在の最頂部。 
 
アンガウル島の最高地点は標高60メートルの「大平山」であり、遮る
ものはありません。ジャングルが開けていた当時は360度の展望
だったことでしょう。 10km北にはペリリュー島も浮かんでいます。
昭和19年9月15日、ペリリュー島で上陸戦が始まりました。 海は
アメリカの艦隊で埋め尽くされ アンガウル島の守備隊はその様子を
こうして見ていたのでしょう。 そして二日後の
9月17日、アンガウル島でも上陸戦が開始されました。
 
今はアメリカの艦隊も無い平穏な海です。
海の無い野州(栃木県)出身の兵隊さんも、こうして はるか南の孤島まで
来て海を見ていたのでしょうね。 そして二度と帰れなかったのでしょう。
 
玉砕戦となり、水も渇き果てた死の淵で ふるさと栃木の、澄んだ雪解け水を
思い浮かべて その中に泳ぐメダカを見つけて
「ああ、こんな水の中にメダカが さぞや冷たかろう」 と、手でその水をすくう
仕草をしながら、口にはこぶ。 そんな幻想を見ながら、多くの兵隊さんが
死んでいったそうです。 ジャングルにはまだご遺骨が眠っています。
 
下るほうが難しく大変です。ふたたびジャングルへ 慎重におりて無事に帰りました。

2013年7月 6日 (土)

硫黄島行きの準備

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硫黄島行きの準備をしております。
まずは耳栓。輸送機は旅客機と違って音が大きいので
搭乗のさいは必需品です。
 
日焼け止め。紫外線がとても強く
皮膚に毒です。下手をすると一日で火傷のようになってしまいます。
絶対に必要。
 
硫黄島にはサソリやムカデが棲んで居ます。
特にムカデが不気味で、潰してしまうと、
死骸に仲間が集まってくる奇妙な習性があります。
そしてデカイんです。
 
軍手、場所にもよるのですが、特に
熱い壕内ですと、手袋を二枚重ねにしないと熱くて作業ができません。
壕内の温度が70度に達することもあります。
 
粉塵がすごいので、マスクは絶対に必要です。
 
そして忘れちゃならないのが
英霊に奉げるお神酒。これも準備を致しましたところです。

2013年7月 4日 (木)

ブルービーチの激闘 島武中尉の戦い

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◆島中尉と紅蓮疾風隊
島武中尉(陸士55)は陸軍士官学校出の大男で
彼の率いる 第三中隊は、またの名を「紅蓮疾風隊」と称した。
 
島中隊は日々の訓練で島の周回道路を大行進するが
その様子を眺めていたアンガウル島の女性は皆、
彼に惚れて しまった。
 
島中尉の第三中隊は、かねてより特定の陣地を持たない
遊撃隊であった。 その為、アンガウル戦においての役割は
真っ先に熾烈な敵上陸地点の中へと飛び込むことだった。
 
▼島中尉が大行進したアンガウルの街道。沼尾少尉が玉砕した巴岬も近い  
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◆ブルービーチの激闘
昭和19年、9月17日
アンガウル島で上陸戦が始まる。民間人の多くが疎開した直後だった。

米軍との戦力差は歴然だった。 
戦艦1、重巡2、軽巡2、駆逐艦5以上による艦砲射撃および
航空機のべ1600機による銃爆撃に加え、ポール・J・ミュウラー少将
指揮するアメリカ陸軍第81師団(通称ワイルドキャッツ)一個師団
およそ二万一千名が上陸を開始した。
※1
 
最初に上陸用舟艇が姿を現したのはアンガウル島西の沖で
これを巴岬で見張っていた沼尾才次郎少尉(栃木県日光市出身)が
伝書鳩にて、大隊本部へ 「敵の上陸地点は西港なり」 と連絡。
ただちに島中隊が急行した。※2
 
島武中尉指揮の第三(反撃)中隊は165名。
星野善次郎少尉指揮の工兵第一小隊51名が配属されていた。
 
ところが敵の上陸用舟艇は、洋上に静止したまま 一向に上陸してこない。
これが陽動作戦だと気付いたのは正午頃であった。
島中隊はただちに反転して東港へ上陸中の米軍撃滅に向かうが
米上陸部隊はすでに上陸を開始。同日夕方までに 上陸二地点の
海岸線、それぞれ1000-1500メートルにわたって確保。 東北港
(レッドビーチ)地区では800メートル近く南部へ進出していた。
 
◆米上陸部隊の壊滅
島中隊が上陸を易々と許すはずがなかった。
東港(ブルービーチ)の上陸部隊は島中隊の猛烈な夜襲を受け
明け方の5時過ぎ、一旦海岸近くまで押し戻されてしまった。
押し戻されたのは歩兵321連隊第1大隊B中隊で、死傷者が続出。
大隊長をはじめ、大隊幕僚までが負傷し後送。
壊滅したB中隊は連隊予備のG中隊との交代を余儀なくされた。※1
 
その後、米軍はたちどころに中型戦車と水陸両用戦車十数両を動員、
さらに艦載機の銃爆撃も加えて島中隊を猛攻。
島中隊長は戦死し、中隊も10時頃まで抵抗したがついに玉砕した。

ここまでの抗戦が成せたのは
大陸より転戦せし精強五十九連隊の猛者と
島中尉の指揮ならではの戦い方があったに他ならない。
  

▼それぞれが対峙した東港。現在ブルービーチと呼ばれる場所である。
かつて血で染まったとは思えないほど美しく綺麗な砂浜である。
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▼満潮時
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▼米軍の敷設した物資陸揚げ用レールが残っている。

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▼ブルービーチに生えるパンの木のとまるシロアジサシ。
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※1、月刊沖縄社『徹底抗戦~ペリリュー・アンガウルの玉砕』 112-113頁
※2、船坂弘著『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』 33頁

2013年6月30日 (日)

後藤丑雄少佐 - アンガウル島のラストコマンダー

アンガウル島へ行こう
記事より~後藤丑雄少佐とアンガウルの落日



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ここはアンガウル島。ジャングルの周回道路を歩いてゆくと
開けたところに慰霊碑群があり※1
その一画に後藤丑雄少佐の墓がある。
 
20100206_838▲下野観音などの慰霊碑群(旧)
 
20100206_842▲米軍建立した後藤丑雄少佐の墓

 
◆後藤少佐と五十九連隊の最期
アンガウル島の守備隊長である後藤少佐は
明治42年生まれの35歳、 信濃の国、長野県の出身であった。
 
後藤少佐は昭和19年10月19日
最後に残った、重軽傷者含む100名の部下を集め、次のように訓令を述べた。
 
「本日の夕刻を待って、個別に敵の包囲を突破し、成功した組は
ふたたび島の中央・南星寮東側に終結する。そこから遊撃戦闘によって
敵の飛行場建設を妨害する
  
・・・君たちはよく闘った。各自の武運長久を心から祈る」 ※2
 
同日夜、後藤守備隊長以下、残存の五十九連隊総勢は
最後の斬り込みを敢行し、
ここにアンガウル守備隊は玉砕、
組織的戦闘は終結した。

 
なお、後藤大隊長の最期は次のようにも記されている。

「今夜12時を期して米軍に斬り込みを敢行する。全員玉砕を覚悟で
帝国軍人に恥じない行動を取るように」

 
そして最後に
 
「靖国神社で会おう。長い間の勇戦ごくろうであった」
 
と述べた。※3

◆後藤守備隊長の自刃

そして後藤大隊長が先頭で出撃、途中米軍の陣地を通過中に負傷。
「ここは日本の玄関だから遠からずして米軍が来るであろう。その時まで
頑張ってこの戦闘の戦訓、苦戦を伝えてくれ」
そう言い残し、自刃。皆、涙を流した。
 
思えば9月17日に始まった上陸戦は 後藤少佐指揮の徹底抗戦により
一ヶ月以上、米軍を苦しめた。米陸軍81師団の兵力、二万名
(戦車50輌含む)に対し兵站部隊など全てを
合わせても、わずか
1200名編成の五十九連隊が33日間も抵抗した記録は
類なきもので、
長きにわたる抵抗といえば、隣のペリリュー島(中川大佐指揮)が
有名であるが、兵力の比率からすればアンガウルの戦闘がはるかに
上回っている。

 
◆アメリカ軍が後藤少佐を手厚く埋葬する
アンガウル島をようやく制圧した米軍は 後藤少佐の
遺体を確認し、手厚く埋葬した。

※ペリリュー島の中川大佐と村井参謀も同様に、戦闘終結後 米軍の手により手厚く埋葬された。
二人の墓標は隣同士で その写真が米軍カメラマンによって撮影されている。
 
米軍によると、当初はこの戦死したコマンダーの身元がわからず一旦
「無名戦士の墓」としたが、のちに「守備隊長後藤少佐の墓」と 改められた。
   
Imgp4934◆後藤丑雄(ごとう うしお)少佐(准47)
第十四師団五十九連隊(宇都宮)第一大隊長
アンガウル島守備隊長
明治42年2月16日生まれ、長野県出身
昭和19年10月19日玉砕、享年35
戦死後二階級特進、大佐。

◆人物・人柄 
「有難う、お蔭様で」という温和な口調で実に人を引き付ける
徳の持ち主であった。

気品の保持と武徳の涵養(かんよう)、切磋琢磨に重きを置いた。
温厚な人柄であったが、パラオへ向かう途中、輸送船上で
召集に遅れた将校(隊長)に対し 
「将校が時間に遅れるとは何事である」
と意外にも大声一喝する場面もあった。
 
兎角、教育の機会を大切にし
部下思いの人であった。酒の席では得意の逆立ち踊り
南洋踊りらしきものも披露した。※4
 
上陸戦前、後藤少佐率いる第一大隊を残して
アイライへ転進する第三大隊。これに対して少佐は
「安島は引き受けました。なにとぞご安心ください」
と述べたという。
 
話は現代に戻る。
私はたったひとり、静かなアンガウル島のジャングルの小道を歩くとき、
風の音と共に、彼らの最後の突撃の絶叫か、英霊の声が
耳にこだまする錯覚を幾度も経験した。
 
※1、2012年の台風によって慰霊碑は壊滅し、再建中。 
※2、船坂弘『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』192頁より
※3、『栄光の五九連隊』252頁
※4、同253頁

Imgp7200アンガウル島のガシュマルの木

2013年6月29日 (土)

【ペリリュー島】ハネムーンビーチの台風被害

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20100206_527_2

 
ハネムーンビーチ(米海兵隊作戦名パープルビーチ)
台風で砂浜が流されてしまったようです。
現在被害状況を確認中です。

ハネムーンビーチの概要はこちら
 

1944__2_2

2013年6月28日 (金)

パラオ大空襲

パラオ大空襲
1944年(昭和19年)3月30日-31日
 
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パラオ大空襲は昭和19年3月30日から31にかけた
米機動部隊大編隊による大空襲。この空襲により
コロール市街地、パラオ軍港、艦船は甚大な被害を受け
また迎撃した海軍航空機と多くの搭乗員を失った。
 
一日目は合計十一波攻撃
のべ456機の艦載機が来襲、二日目は150機以上がコロールを銃爆撃し
街は焦土と化した。この邀撃戦により日本海軍戦闘機隊は敢闘するも
多くの航空機と搭乗員を失った。 なお、空襲前日、連合艦隊旗艦で
虎の子「武蔵」を含め艦船はパラオ港外へ退避し
司令長官の古賀峯一も空襲の合間を縫って飛行艇でダバオへ逃れることとなる。
(途中、低気圧に巻き込まれ行方不明となった)
 
パラオでは戦跡としてこのパラオ大空襲の傷跡を見ることができる。
 
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▲パラオ本島、アルモノグイの丘陵地帯に眠る零式戦闘機。
3月31日、パラオ大空襲邀撃戦において被弾不時着した
第261海軍航空隊所属の吉田久光機と判明した。

 
戦闘概要
 
■米機動部隊が攻めてくる
 
昭和19年2月、トラックを空襲により無力化された
日本海軍と連合艦隊司令部はパラオに拠点を後退させた。
3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る米機動部隊西進の報せがあり
東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには「数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を
三隊となって西進中」という報せがもたらされた。
 
3月28日早朝、南雲中部太平洋方面艦隊は「カロリン方面第一警戒配備」を下令。
増援部隊の要請を行い、各地航空戦力をペリリューに集結させた。
 
■連合艦隊司令部のコロール上陸
「武蔵」を逃がせ!空襲前夜
 
29日
10時46分、ペリリュー発進の索敵機より
パラオ南東380浬に米機動部隊の西進が確認された。
 
このとき連合艦隊旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他、附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港コロール泊地に投錨中であった。
古賀大将は「明朝、空襲の公算大なり」と布告、14時、武蔵を降り、
連合艦隊司令部を コロールに上陸させ指揮をとることとなる。
 
一方、虎の子の「武蔵」は大急ぎでパラオ港外へ逃れる。
パラオ港外へは狭い西水道を通過しなければならず、巨大な武蔵が
座礁せずに退避できたのは、まさに神業であった。無事、外洋に出た武蔵で
あったが、待ち構えていた米潜水艦の雷撃により、小破。
損傷は軽微であり、速力を落とさず内地へ帰還する。
 
■敵艦隊への先制攻撃失敗 
 
30日黎明(れいめい)
ペリリューの海軍航空部隊は陸攻機を用いて
米機動部隊に黎明(明け方)攻撃をかけるべく準備したが
午前3時00分、第761海軍航空隊の一、二番機が過重により離陸に失敗。
椰子林に突っ込んで炎上してしまった。
 
それどころか、先にやってきたのは米軍機だった。 テニアンから増援された
陸攻機も12機が銃撃を受け炎上、 順次発進を準備していた艦爆隊も
この奇襲により発進できずに終わった。
 
■敵大編隊!空襲警報発令
戦闘機隊、邀撃発進
 
5時30分、基地見張りから空襲警報発令。
これを受け、第201海軍航空隊のゼロ戦20機、第501海軍航空隊から
戦闘機5機を含む12機が邀撃に発進。 空襲の合間を縫って第121海軍航空隊(雉)
1機ほかが索敵に発進し、ペリリュー沖合の米機動部隊を発見した。
 
■米大編隊11波攻撃
456機による大空襲
 
米機動部隊の艦載機は第11次攻撃まで実施し朝6時から夕方まで、のべ
456機でパラオを襲った。 201空のゼロ戦は、邀撃した20機中、自爆未帰還9機、
大破9機、不時着2機と 消耗は甚大であった。501空は12機内、自爆未帰還が5機、
炎上7機 九九艦爆9機が焼失した。
 
※空戦戦没者後記載
 
そのほか在ペリリューおよびマリアナの陸攻隊は
機動部隊に対し強襲を仕掛けるが米記録によれば戦果はなかった。 (後述)
  
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005_1_2 
▲ロックアイランドに沈む零式戦闘機(水深3メートル) 素潜りで撮影
(搭乗員名不明)  

 
■マリアナの戦闘機隊へ増援要請
 
30日午前、空襲の報せを受け、サイパン、アスリート飛行場展開中の
第261海軍航空隊(虎指宿正信大尉指揮 ゼロ戦32機と、グアム展開の
第263海軍航空隊(豹) 重松康弘大尉指揮 ゼロ戦25機 が合流し
パラオへ向け発進した。
 
なお、この際、敵艦隊に一矢を報いるべく
第523海軍航空隊の彗星強襲隊を12機を伴ったが
263空の戦闘機隊がグアム離陸の遅れにより(後述) 彗星隊とバラバラとなり、
同隊は護衛なくグラマン戦闘機の奇襲を受け 9機が未帰還となり、ペリリュー
到着したのは3機のみであった。
 
261空と263空の連合零戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、
さらに1機は ヤップに不時着(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明)
両隊はこの日は敵と遭遇せず、19時、ペリリュー基地へ到着した。
なお、着陸時爆弾孔により8機が破損した。
 
07_1 
▲現在のペリリュー飛行場。かつては東洋一の航空基地であり
多くの海軍機が離発着した。
 

08_1
▲ペリリュー飛行場脇のタロイモ畑に残る零式戦闘機

■翌31日も度重なる大空襲
邀撃戦闘機隊の敢闘
 
6時20分頃、空襲警報が発令され
前日到着していた261空のゼロ戦28機、263空のゼロ戦15機が邀撃に発進した。
 
グラマン150機以上が来襲。
14時頃、艦載機の空襲は終わり 261空はグラマンF6Fを18機(うち不確実3機)を
撃墜したが未帰還20機、 重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機
(未帰還機を含め28機)の損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが
未帰還15機、炎上2機、大破1機の損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
※空戦戦没者後記載
 
この空襲により、コロール市街地および パラオ港湾施設、艦船、陸上部隊、航空隊は
甚大な損害を受けた。 (後述)
 
■飛行艇で逃げる長官
 
31日
19時、まだ空襲の炎が揺れる中、 大型飛行艇2機がアラカベサン飛行艇基地
着水した。 古賀長官と幕僚および連合艦隊司令部ダバオへ逃がすため
準備された機体である。
 
同機はサイパンから急遽派遣されたの第802海軍航空隊所属の
二式大艇であった。※また、ダバオに待機中の第851海軍航空隊所属の
二式大艇1機もパラオへ向け離水準備を行っていた。

21時30分、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。
二式大艇の機長は燃料補給を強く要請したが、参謀二人が

「その必要は無い。出発急げ」

と譲らなかったため、大急ぎで 離水準備が行われた。
21時35分、一番機に古賀長官、二番機に福留参謀長ら幕僚を乗せた
二式大艇はパラオ・アラカベサン水上基地を離陸した。
 
これが「海軍乙事件」である。二機はダバオへの飛行中、低気圧に
巻き込まれる。 古賀長官座乗の一番機は行方不明、
福留参謀長座乗の二番機は不時着水し 参謀長は命を繋いだものの、
フィリピンに上陸後、現地ゲリラに捕えられ 機密文書を奪われる運命となった。
 
福留参謀長の救出と機密文書の奪え返すため フィリピンの
陸軍一個大隊が動員される。福留は救出され戦後まで生きのびたが
最後までこの事件について語ることはなかった。
なお、古賀長官座乗の一番機は発見できず、のちに殉職とされた。
 
_1 

▲アラカベサン島に残る飛行艇基地跡のスロープ。飛行艇を
「スベリ」と呼ばれる斜面へ陸揚げし、整備した。当時は屋根付き格納庫があった。
 
064_1 
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▲米戦闘機の銃撃により沈んだ、第30根拠地隊附所属の零式三座水上偵察機と
天然の洞窟格納庫
(ハンガーケーブ)  カヤックツアーで見学可能
 
■海軍航空隊戦没者
 
■第201海軍航空隊(戦斗305飛行隊)
3/30、パラオ大空襲邀撃、20機出撃内9機未帰還
戦死者
 
林茂生中尉(海兵70),山下小四郎少尉(操17),鈴木新一上飛曹(操45)
國廣治雄上飛曹(甲6) 加藤定信一飛曹(甲8),深川隆義一飛曹(甲8)
和田正男一飛曹(甲8),服部一夫飛兵長(丙10) ほか一名
 
第261海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、28機出撃内20機未帰還
戦死者
 
岡佐古昌人中尉(海兵70),渋谷正雄少尉(学生11),二本森憲二上飛曹(操45)
大塚明一飛曹(甲8),井竜憲一二飛曹(乙15),古賀他四郎一飛曹(乙11)
高坂三郎一飛曹(甲8),林茂一飛曹(操55)児島猛二飛曹(丙11)
岩田増雄二飛曹(乙15),閏野護二飛曹(甲8),貝原良兼上飛兵(特丙11)
吉田久光上飛兵(丙11)
 
安否不明者
藤川史雄二飛曹,長谷登太郎飛長,中山正次二飛曹,杠勇男飛長,大谷敏男二飛曹
中尾隆美飛長,岡田盛樹飛長,紀田四郎二飛曹,興津健市飛長
 
第263海軍航空隊
3/31、パラオ大空襲邀撃、18機出撃内15機未帰還
戦死者
 
武藤陳彦大尉(海兵70),島田義人予備少尉(学生11),西本彰吉上飛曹(乙10)
栗田勝司上飛曹(甲6),菊池武一飛曹長(甲1),長瀬正郎飛曹長(甲1)
芳野定俊一飛曹( ) 田渕武夫一飛曹(甲8),植田正治二飛曹(乙15)
矢鍋幸男上飛兵( ),小野敏春上飛兵(特丙11) 横池武治上飛兵(丙12)
下瀬卓上飛兵(丙12),神田秀雄上飛兵(丙12),進藤勝治上飛兵(丙12)
以上
 
■第501海軍航空隊(戦斗351飛行隊)
戦死者
 
山口友次郎大尉(海兵69),ほか四名
 
以下戦闘詳細
1944年(昭和19年)3月中旬ごろ マーシャル諸島方面に数十隻から成る
米機動部隊西進の報せがあり 東カロリン、マリアナ方面の警戒を厳にしていたところ
 
3月27日、8日ごろには数十隻の機動部隊がウエワク北方200浬の海上を三隊となって
西進中という報せがもたらされた。 28日早朝、中部太平洋方面艦隊は
「カロリン方面第一警戒配備」を下令。 翌朝からのパラオ、メレヨン方面に対する空襲を
予測し、トラック、メレヨンを 基地とする索敵攻撃を指示するとともにマリアナ所在
航空兵力(陸攻)のペリリュー 増援を措置した。 当時、当該方面の海軍航空隊は
東カロリンおよそ180機 西カロリン(ペリリュー)約60機。 水上部隊は連合艦隊
旗艦「武蔵」ほか第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第十七駆逐隊
その他附属艦船と輸送船十数隻がパラオ港に停泊中であった。
 
■3月29日 空襲前日
【1046】頃、ペリリュー発進の索敵機よりパラオ南東380浬に米機動部隊の
西進が確認された。 連合艦隊は29日までの敵情により「機動部隊の攻撃は
30日に開始されるであろう」と判断したが 本攻撃が単なる機動空襲であるのか、
本格的攻略戦であるのか、判断は明らかでなかった。 連合艦隊は14時頃、司令部を
コロール陸上に移して作戦指揮をとるとともに 「武蔵」以下全艦隊を港外に退避させ、
また南西方面航空部隊および シンガポール方面の第三艦隊飛行機隊の比島、
西武ニューギニア方面集中準備を命じた。 パラオの第二十六航空戦隊は
29日米機動部隊に対し第一撃(薄暮攻撃)を加えた。
 
■3月30日
大空襲当日
【0300】 ペリリューより 761空、陸攻隊(接触3機、雷撃8機)過重により発進失敗。
1,2番機、椰子林に突入炎上、黎明攻撃出来ず。その他陸攻隊も発進前敵機動部隊の
奇襲を受け、艦爆隊の攻撃も 実施不可能となり、戦闘機は邀撃戦闘に転換。
26航戦の在ペリリュー兵力は46機を失った。 テニアンから増援の陸攻全機(12機)も
銃撃を受け炎上。
【0530】 基地見張りから警報 201空ゼロ戦20機、501空からは戦斗351飛行隊の
ゼロ戦5機含む 12機が発進、邀撃したが、逐次消耗。 この間、121空の艦偵1機、
751陸攻2機が索敵に発進。 (陸攻は0525)艦偵は0540敵機動部隊
「ペリリューノ210度40浬」と報告。 751空陸攻地上炎上5機 陸攻撃1機は発進後被弾、
ダバオに待避、他の一機は消息不明となる。
【0600-1730】 敵機動部隊による空襲 11次にわたり、のべ456機が来襲。
201空ゼロ戦、邀撃の20機中、自爆未帰還9機、大破9機、不時着2機 全機消耗。
戦果はF6Fを15機撃墜(内不確実3)TBF2機撃墜であった。 501空は12機内、
自爆未帰還5機、炎上7機、九九艦爆9機が焼失。 戦果は4機撃墜(内不確実2)であった。
【0910】テニアンより艦偵2機が索敵発進。
【0930】アスリートより261空32機(指宿隊)が発進 523空彗星隊12機が発進、グアムへ。
【1050】 261空、ゼロ戦隊グアムに到着(着陸時2機破損)直ちに燃料補給を行いこの間、
彗星は1時間待ち合わせた後、1220戦闘機隊の離陸を認め 進撃を開始。261戦闘機
30機、263戦闘機25機(重松隊)は1330集合。 遅れた理由は滑走路工事中のところへ
陸攻が突っ込み どけるのに時間を要した為。 彗星隊とは一時間の差があり、戦闘機隊
との合流はできなかった。 彗星隊は索敵中ペリリューの170度120浬においてグラマンの
奇襲をうけ 3機自爆、6機不時着未帰還、ペリリューに到着したのは3機で内1機は
着陸時破損、もう1機は漏洩燃料に着火焼失し、1機のみが残った。261空と263空の
ゼロ戦隊は1機がエンジン不調でグアムへ引き返し、さらに1機は ヤップに不時着
(さらに一機がペリリューに到着していないが状況不明) 索敵を実施したが会敵せず、
1900ペリリューに到着、着陸時爆弾孔により8機が破損 稼働機は全部で44機となった。
先行した艦偵は1801三群の米機動部隊発見を報告。 1機のみペリリュー到着。
もう一機は未帰還と推測される。 761空、陸攻隊の2機(1130)および横空の6機
(1215)がテニアンを発進。 内1機はエンジン不調となりペリリューへ向かったが
同地が炎上中のため ダバオへ不時着、他の一機は1925ペリリューの120度
125浬で雷撃、巡洋艦に命中 のちペリリューに帰着した。 755空の陸攻隊8機が
(接触2、雷撃6)が1230グアム発進。 1720、接触機が「空母2、戦艦2ソノ他十数隻
ヨリ成ル大部隊ヲ発見」と報じ 更に1850「空母ヲ含ム敵部隊見ユ」と報告したが二機
とも消息不明となった。 雷撃隊はペリリューの135度90浬の米機動部隊を1735発見
1835から単機ごとに 攻撃実施。巡洋艦一隻轟沈、戦艦一隻に魚雷一本命中、
その他一隻を炎上させたものと 認められたが、指揮官機以下3機未帰還となり、
3機がペリリュー、メレヨンに帰着した。 ※米記録によれば戦果なし
横空陸攻8機は1845米機動部隊を発見。1900攻撃開始。 大型船一隻炎上、
他の一隻に相当の損害を与えたものと認められたが 指揮官機が未帰還となり、
他はペリリューへ帰着した。 30日夜、ペリリューには別に横空陸攻10機、
523空彗星2機、121空艦偵1機が到着していた。
 
■3月31日
索敵機逐次発進
【0545】 761空、索敵機逐次発進。
【0550】空母を含む部隊をペリリューの61度100浬に発見した報告があったが
このとき攻撃兵力は523空の彗星1機のみで攻撃実施できなかった。
【0920】 第二索敵機は「ヤップ空襲ヲ受ク」と報じる。 第四索敵隊は
1000ヤップの150度80浬進行方向北の 米機動部隊を報告したが、第六索敵機
とともに未帰還となった。
【1220】および【1443】 761空陸攻2機は接触の為テニアンを発進。一直接触機は
1730 「ヤップノ205度163浬ニ於イテ空母ヲ基幹トスル大部隊進行方向西一八節」と報
【1320】および【1415】 横空陸攻は(接触2機、雷撃6機)テニアンを発進。
敵を発見せず4月1日 0040までにテニアンに帰着した(1機は未帰還) 一方、
グアムを基地とする755空も夜間攻撃を企図、一機が「1855空母ヲ含ム 敵部隊見ユ
空母2隻其ノ他ヤップヨリ20度160浬進行方向西」と報告
【1810】グアムを発進した755空(K701)接触機は「2110機動部隊ヲエウ島
(ウルシーの東8浬)ノ 320度145浬ニ発見」と打電、更に「敵ノ西ニ吊光照明弾ヲ
投下ス」と発信したがその後 消息を絶った。このほかに755空(K706)の雷撃隊も
攻撃に至らず引き返したものと 推定されたが一機は未帰還となった。 前日攻撃終了後
ペリリューに着陸した陸攻6機は (横空5機、761空1機)は未明テニアンに向け
出発したが 横空陸攻1機は敵戦闘機と交戦、自爆、その他2機は小破しテニアンに帰還した
 
■空襲、戦闘隊の邀撃
【0620】頃、空襲警報が発令され、前日到着していた 261空の甲戦28機および
263空の甲戦18機は邀撃に発進。 邀撃戦闘の状況は資料なく判然としないが
おおむね午前中には消耗したものと思われる。 この間、501空の彗星4機および
751空の陸攻4機がダバオからペリリューへ進出したが 彗星1機は着陸時破損、
1機は焼失した。
【1440】頃、艦載機の空襲はおわり 261空はF6Fを18機(うち不確実3)を撃墜
したが未帰還20機、重軽傷者4名、機材大破4機、炎上4機 (未帰還機を含め28機)の
損害を受けた。 263空はF6Fを5機撃墜したが未帰還15、炎上2機、大破1機の
損害を受け 一航艦戦闘機は全機を消耗した。
 
■空襲終了後の被害状況
第30根拠地隊戦闘概報によると 施設焼失73棟、倒壊7棟、半壊20棟、一部焼失1棟、
計101棟
 
人員被害、附属艦艇、地上部隊総計、
戦死70名、重症65名、軽傷93名、行方不明18名、計246名
 
艦船沈没18隻(77,144総トン)、座礁3隻(6,832総トン)
その他兵器弾薬食糧等焼失,西水道およびパラオ港内に機雷投下
 
参考 海軍乙事件(吉村昭) 出典 戦史叢書13巻中部太平洋陸軍作戦、P78-80
戦史叢書マリアナ沖海戦 P203-209 戦闘機隊戦没者名は、日本海軍戦闘機隊
改訂増補版、海軍戦闘機隊史 (零戦搭乗員会編)防衛省戦史室所蔵各
戦闘機隊戦闘行動調書より作成。