2013年7月27日 (土)

「震電」のプロペラ

スカイ・クロラ | The Sky Crawlers [OP] [HD]
YouTube: スカイ・クロラ | The Sky Crawlers [OP] [HD]

Sanka

 
映画『スカイクロラ』
震電とそっくりの戦闘機が出ています。原作の小説を書いた作家、
森博嗣は工学博士でもあります。動画の26秒あたりのプロペラ
を吹き飛ばすメカニカルな描写に注目。
あまりフィクションの映画は見なかったのですが
とてもよくできているので、載せました。ティーチャーがP-51にも見える。

 
ここからは史実。 
局地戦闘機「震電」の特徴として 後方プロペラであるが
もっとも、これは緊急脱出の折 パイロットが巻き込まれる恐れが高い。
殊に「震電」は対B-29用戦闘機として 敵爆撃機の編隊に突っ込み、
集中砲火を受けるので 被弾後の、脱出という想定が高い確率でされる。
 
これについて、テストパイロットを務めた山本重久氏が
航空技術工廠、推進(プロペラ)部の技術大尉との間で大激論になったと
戦後回想している。
 
山本重久大尉
「集中砲火を受けて撃ち合うパイロットの身にもなって設計してください」
 
某技術大尉
「できないですねえ」
 
「プロペラ・ボス(プロペラ付け根以下の意)全体を破壊しなくても
プロペラブレード一枚を飛ばすことができたら、残り五枚はアンバランス
になり、瞬間的に全ブレードがスッ飛ぶであろう。それもできないのか」
 
「技術的に不可能だ」
 
「不可能を可能にするのが科学で、それをやるのが技術者だ」
 
「無茶を言うな」
 
「何が無茶だ。なぜやろうとしないのか」
 
「こいつ」
 
山本は憤慨し、自分よりずいぶん古参であろう技術大尉の横っ面を
いやというほどぶんなぐってしまった。※1
その後、プロペラを吹き飛ばす技術が開発され 試作が進められた。 
 
※1 『別冊丸15巻 終戦への道程~本土決戦記』82頁

那須烏山の地下戦車工場

栃木県那須烏山市の地下戦車工場跡は、手掘りの壕で
昭和19年末から20年にかけて実際に稼働した戦車部品の軍需工場跡。
現在は株式会社島崎酒造が酒蔵として所有している。
事前に予約すれば無料で洞窟内を見学できる。
 

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▲入口
 
洞窟内の温度は年内を通じて一定に保たれており、
夏は涼しく、冬はあたたかい。 

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ここはオーナーズボトルのコーナー。
預かりの期間は5年(10,500円)から最長20年(31,500円)
で、出産を機会に購入し、
20歳の誕生日を待つというプランが人気。
ボトルとともに家族の写真やメッセージが貼り付けてある。
 

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試飲もできる。ここで寝かせた熟成酒は烏山の名物。
お酒を販売する島崎酒造は烏山の市街地にあり、洞窟から
少し離れている。 
 
とにかく洞窟の広さと天井の高さ、そして全長には驚いた。
この壕は車体そのものではなく、部品の工場であったが
これだけの大きさがあれば戦車がそのまま入る。
 
昭和19年末から20年にかけて宇都宮十四師団
パラオで戦っているので、直接の関係はないが
終戦まで20台の戦車部品が製造された。
 
ガイドも親切丁寧に説明してくれた。

詳しくは株式会社島崎酒造

2013年7月24日 (水)

パラオってどんなところ?

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パラオ共和国ってどんなところ?
世界一美しい海があり
日本時代の名残を体験できる。
パラオ国旗の由来は?

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パラオ国民は優しく、親日的
細かいことを気にしないおおらかな性格。

◆パラオ旅行の注意点
 
良くも悪くも南洋気質。みんな
おおらかである故、細かいところにこだわりイライラする人は
楽しめないかも。のんびりいきましょう。
 
グアムやサイパンのように整備されておらず
自然をありのまま受け入れられる人でないと楽しめない。
停電もしょっちゅう。
 
インターネットがダイヤルアップなので、ものすごく遅い。
ほぼ、使えないと思った方が良い。
 
その他 概要・日本統治時代からの歴史

■パラオの年間平均気温は摂氏27度。常夏の島で、北緯5~7度付近、経緯は134度と
日本の真南に位置する為、時差は無し。現在は飛行機で片道4時間半。

人口は21000人ほどで、そのうち70%程度がパラオ人で、他にはフィリピン人が多い。
日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている。

首都はパラオ本島のマルキョクへ遷都したが
実質、経済の中心地はコロールにある。

■言語は主にパラオ語であるが、
第二公用語として英語も使われる。

■西欧列強の時代、1885年にスペインの植民地となる。米西戦争に敗れたスペインは
1899年パラオをドイツに売却。以降ドイツの植民地となった。第一次大戦でドイツが
敗れると、1914年から国際連盟により日本の委任統治領となる。一時は南洋一の繁栄を
極めたが、大東亜戦争が始まると戦火の渦中となり、激戦の末、1945年に米軍が占領し
47年、同国による統治が開始された。他国統治から解放され「パラオ共和国」として
独立に至ったのは1994年のことで、日系のクニオ・ナカムラ大統領が就任した。

■日本統治当時、南洋群島全体の島民5万人に対し、日本人は8万5千人。
パラオには島民向けの公学校が26校あり、40歳以下の者はおおむね日本語を理解できた。
ガラスマオ、ガスパン、アイライ、アイミリーキのほか、瑞穂、清水、朝日、大和といった
和名の村があった。昭和18年の内訳は以下の通り。

■日本統治時代の学校は日本人向けの小学校と、日本語を母国語としない人向けの公学校と分けられ
学校教育の普及が当時の政策の重要課題だった。

■公学校は1915年(大正4年)に最初の公学校が建設されて以来、パラオには合計6つの公学校(コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュー
アンガウル、ガラスマオの各学校)が建設された。公学校は3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成されており
「本科」で優秀な成績を収めた生徒の多くは「補習科」に進学できた。

1915年から1935年までの21年間の間に、2242人が「本科」を卒業し、654人が「補習科」を卒業した。
当時のパラオにおける就学率は93%(1931年)で、南洋群島全体の平均就学率57%と比べても圧倒的に高い就学率を誇った。
「本科」「補習科」ともに国語(日本語)の時間が多く、カリキュラムの中の約半分の時間が割り当てられた。算数や実用種目も重視された。

補習科の卒業生の中で特に優秀だった生徒の中には、「木工徒弟養成所」に進学する者もいた。木工徒弟養成所は1926年に設立された、建築技術を
習得するための男子校で、毎年30人ほどが全南洋群島から選抜されて入学した。そのため、同校の生徒は「エリート」と考えられており、同校は当初
建築過程の専門校であったが、後に土木科や機械科が設置され、総合的な職業訓練校となった。
日本統治時代の後半になると、内地に留学して高等教育を受けることのできたパラオ人も少数ながら存在した。

■日本人向けには、尋常小学校から旧制中学校(および高等女学校)までが設置された。

■現地住民に対する処遇
呪術(モデクゲイ)の排除。徹底した取り締まりを行った。

パラオ人の中には志願によって日本軍に貢献しようとする人々があらわれ、それらは1942年に「資源調査隊」として約60名。1943年には
「パラオ挺身隊」として約30名が集まり、主にニューギニアなどへ派遣された。戦争末期には、「斬込隊」が結成されたが、実戦には至らなかった。

 



岩本徹三

ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
 
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
 
岩本徹三の見た空 

岩本徹三

 
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。

身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
 
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
 
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
 
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。

岩本徹三機(零戦二一型)

▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体

神風特別攻撃隊を真っ向から批判
 
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
 
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
 
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
 
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
 
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
 
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と
高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
 
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
 
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
 
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
 
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
 
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
 
もう一度、飛行機に乗りたい
 
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
 
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
 
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
 
そのほかメモ

岩本「雷電」搭乗の評価
 
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
 
第一御楯隊と岩本徹三
 
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
 

岩本徹三機

関連記事
岩本徹三の戦後その2

赤松貞明中尉の戦後

岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース 



出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁 
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2013年7月23日 (火)

南硫黄島

南硫黄島

水平線に浮かぶ「南硫黄島」です▲
 
▼少し拡大します。

南硫黄島

硫黄島の南、およそ60km沖に浮かんでおり、晴れた日は硫黄島南海岸から
望むことができます。
標高が916メートルと高く、頂上付近は雲が
かかっていることが
ほとんどで、きれいに見えたら幸運といえます。
 
南硫黄島は古来より無人島で、固有種など
非常に貴重な動植物が棲息しています。

過去に数回だけ探検隊が訪れているほか、漂流して上陸した者などを
入れても、上陸の記録は
数えるほどしかなく、人間との関わりが
非常に少ない
謎の島となっています。
 

南硫黄島

 

南硫黄島

▲南硫黄島です。上陸は困難そう。とても人の住めるような
ところではなかったのでしょう。
 
硫黄列島は火山島で、
現在でも火山活動が激しい状況におかれており、
桟橋をつくってもすぐに隆起し、壊れてしまいます。
そのため物資は全て空輸に頼っています。
 
三兄弟である硫黄列島のうち、真ん中の硫黄島だけが
平坦で人間が住まいを構えるのに適していたのはもちろん
戦時中においては飛行場が三カ所もありました。
 
神様はどういうおつもりで、真ん中の硫黄島だけ平坦な島を
おつくりになったのでしょう。謎です。

北硫黄島

北硫黄島

硫黄島・天山より水平線に望む「北硫黄島」です。
およそ70km沖に浮かんでいますが
今日は天気が良いので目をこらすと見えます。 
 
▼少し拡大

北硫黄島

北硫黄島」は
明治時代に小笠原・母島より移住がはじまり
サトウキビの栽培などを生業とした島民が

最盛期には200人が住んで居ました。
 
昭和19年、戦争の悪化にともない
90人の住民が本土へ強制疎開となり

以後、不時着機の救助や船舶遭難の救助を目的とした
軍の警備隊が駐留します。
 
戦後、軍が撤収して以降、無人島となり現在に至ります。
標高792メートルの火山島です。

北硫黄島

 

2013年7月22日 (月)

アントニオ猪木の島「イノキアイランド」

パラオの美しい海にイノキアイランドという島が浮かんでいる。
その名の通り、アントニオ猪木氏がオーナーの島で、正式名称である。

▼イノキアイランド 

イノキアイランド(ロックアイランド)
 
◆アントニオ猪木は、パラオがまだ無名だった頃より

熱心に足を運んでおり、それが縁となってパラオ政府より
友好の証として、この島をプレゼントされた。
 
イノキアイランドは美しいビーチのある島だ。
正式には猪木氏は島の名誉オーナーという形になっていて
島は猪木氏以外の誰でも使うことができる。
そのため、多くのダイバー船が係留され、それぞれがお昼休みを
のんびり過ごしている。
 

猪木氏本人も、頻繁に、お忍びでパラオにやって来てはこの島を訪れており
かくいう私も、パラオでアントニオ猪木と遭遇したことがある。
そのときはプロレス団体の後輩を引き連れてコロールの街で飲んでいた。
 
▼対岸に浮かぶ右側の島がイノキアイランド 
  
イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(ロックアイランド)イノキアイランド(パラオ)

Photo

▲イノキアイランドの位置

2

▲拡大図


◆2013年(平成25年)7月の参議院選挙で
アントニオ猪木が日本維新の会、比例区で立候補し
見事トップ当選した。
 
パラオで島をプレゼントされた話もそうだが、
猪木氏は外交に素晴らしく長けているのではないかと思う。
何せ、あの北朝鮮でも国賓扱いだ。
アントニオ猪木氏には、今後議員として拉致問題の解決に期待したい。
 


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ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

ペリリュー上空でゼロ戦と対峙したリンドバーグ

◆1927年、初の大西洋横断単独飛行を達成したアメリカの英雄
チャールズ・A・リンドバーグの人生は必ずしも華やかなものではなかった。
 
1932年には当時1歳と8カ月だった最愛の長男を誘拐される事件が発生。
多額の身代金の支払いに応じたが、長男は殺害された状態で発見された。
その後ヨーロッパに移住したリンドバーグ夫妻は 第二次大戦不介入を唱える
孤立派にかつがれたことから ヒトラー支援と誤解され、苦しい立場となった。
 
リンドバーグが太平洋戦線に姿を現したのは1944年(昭和19年)夏のことである。
民間人のライセンスしか持たない彼が、なぜ戦闘機で空を飛ぶ運命となったのか。
 
Imgp7636_1▲パラオ・アンガウル島に残るF4Uコルセア戦闘機の残骸。リンドバーグの機体とは無関係。
 
F4u1_vmf213_on_uss_copahee_1943_2▲リンドバーグが搭乗したF4Uコルセア戦闘機(同型機)
 
リンドバーグ、テストパイロットとして戦場へ
 
◆リンドバーグはユナイテッド社の委託でテストパイロットをつとめており
同社が製作していたF4Uコルセア戦闘機の性能テストにあたるため、
南太平洋戦線に向かった。 その背景には政争から離れ、一飛行士として
戦いたいという願いを秘めていたと伝わっている。
 
1944年、4月にF4Uコルセア戦闘機でアメリカ本土を飛び立ったリンドバーグは
ハワイを経てガダルカナルへ到着。3週間の間、同機で連日のように
ラバウル攻撃を繰り返した。 日本の航空機は壊滅し空戦の機会はなかったが
対空砲火を受けた。このとき42歳。
 
1944年6月、リンドバーグは今度はP-38ライトニングを操縦し
ニューギニア・ホランジア基地に着陸した。
 
「P-38の実戦性能向上テストがしたい」
階級章の無いカーキ色の軍服を着用した彼は、その旨上官に申し出るのだが
当初、上官は、このテストパイロットを気にもとめず 正体を知って驚いたという。
とはいえ、正体がわかったところで17年前の大西洋横断の英雄に
期待が持たれることはなかった。
 
それからリンドバーグは精鋭戦闘機隊「Satan's Angel」の一員として
戦場の空を舞うこととなるのだが、二度目のP-38搭乗にもかかわらず
その技量は完璧で、撃墜も記録し、上官は驚きを隠せなかった。
 
020903o9999b059▲P-38ライトニング戦闘機
 
彼の活躍はニューギニア戦線では多くの兵士を高揚させたが
民間人であるリンドバーグが戦闘任務で飛ぶことは
まずいのではないかという噂が流れ始めたこともあり
その報せが本国まで届くことはなかった。 さらに、もし日本軍に撃墜でも
されたなら、 大戦果と報じられてしまうだろうし、処刑されるかもしれない。
 
そこで彼はオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官の元へ飛び
(旧知の仲だったらしい)直談判し、大ジェネラル閣下のお墨付きを得ることに
成功した。 彼秘伝のP-38の航続距離遠伸法が、マッカーサーをおおいに
喜ばせたと伝えられており それを伝授する代わりに「どこへ飛んでもいい」という
許可を得たのだった。
 
Imgp5714_1▲現在のパラオ・ペリリュー飛行場跡

パラオ・ペリリュー上空でゼロ戦と対峙するリンドバーグ
 
◆パラオ、ペリリュー上空で、はじめて日本の零戦と対峙するのは
8月1日のこと。 ペリリューで上陸戦の始まる一ヶ月半前ということになる。
彼の編隊はP-38、5機から成り、海上で2機の零式三座水上偵を追っていた。
この水偵は第30特設根拠地隊附属水上飛行機偵察隊と推測されるが
この2機を仕留めた直後であった。
 
ペリリュー飛行場より迎撃してきた第201海軍航空隊ゼロ戦の猛追を受け、
リンドバーグは被弾、機体から 白煙を吐いた。スロットルを全開にして
ゼロ戦から逃げるが、低空での性能は ゼロ戦が上で
振り切れない。
彼は最期を覚悟したが、運がよかった。 現れた味方のP-38がこの零戦を
追い払い、 撃墜を逃れた。危機一髪のところだった。
 
この後、8月13日にケニー将軍により飛行禁止が通達され
本国へ帰還するまでリンドバーグの戦いは続いた。
 
なお、サイパン・アスリート飛行場で鹵獲された、ペリリュー島邀撃でも
活躍した 第261海軍航空隊のゼロ戦【61-120号機】をテストパイロットも
リンドバーグがつとめている。
 
リンドバーグは戦後、来日し大阪万博にも姿を見せている。

2013年7月21日 (日)

神龍特別攻撃隊~晴嵐のパナマ運河攻撃

このひとつ前の記事で
第一御楯隊の零戦が国籍マークのみを残して
真っ黒に塗られたことを書きました。それで思い出したことがありました。
  
国籍マークを書き換えて米軍の星のマークに塗り替えた例がありました。
アメリカのマークをつけた飛行機で出撃するとは、
搭乗員の悔しさは堪えがたいものだったでしょう。少し紹介します。
 
 (第一御楯隊の場合は真っ黒に塗りつぶしたとはいえ国籍マークを
きちんと残しているので合法です)

Scan0053 
◆昭和20年7月、パナマ運河攻撃を意図して出撃した
潜水空母「伊400」搭載の特殊攻撃機「晴嵐」搭乗員
高橋一雄さんの手記が光人社から出ています。
『神龍特別攻撃隊~潜水空母搭載「晴嵐」搭乗員の手記』
この本は戦記ものの中でも屈指で、おすすめです。
 
潜水艦の中の生活、たとえば潜水艦の中ではネズミが棲みついていて
皆に親しまれ、ネズミがいることは非常に縁起がいいんだとか
(何故か?本の中に書いてあります)
なんといっても偵察機搭乗員としての、細かい描写は
実にに貴重かつ珍しいものです。
 
この手記の最後のほう、いよいよパナマ運河攻撃に際しての記述ですが
一部を引用します。以下引用。
 
「第六艦隊司令長官醍醐忠重中将の指示により諸君に金
三百円を渡す。明日より四日間、軍港内で特別休暇を許可するから
充分に鋭気を養ってくるように」
 
と、達せられた。当時私が少尉の本俸で、月百二十二円だから
三百円は相当な金額である。搭乗員一同で相談の結果、この世の別れだ
盛大に使ってしまおうと、衆議一決した。
 
7月17日、四日間の軍港内休暇が終って艦に帰ると、
格納筒から晴嵐を引き出し、日の丸を消して米軍と同じ
星のマークに描きかえている。誰の命令だと聞いても誰も知らない。
誰かの入れ知恵を司令が許可したのだろうが、これは国際法に違反するし
卑怯なやり方だ。敵戦闘機には絶対つかまらないと確信している
私は馬鹿らしく、情けない限り
 
しかし一少尉の私が上級者の決めたことに反論できず、
私の乗る一番機のプロペラスピンナーに、大きなハートに
一本の矢が突き刺さる絵を描き「一殺必中」と文字を付けて
それとなく反抗の意をしめした。
 
引用おわり
 
結果的にパナマ運河へ辿り着く前に終戦を迎えるのですが
このような逸話もあったのですね。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑-硫黄島摺鉢山山頂

硫黄島摺鉢山山頂に
「第一御楯隊」ならびに「第二御楯隊」の慰霊碑がある。
御楯(みたて)とは天皇陛下の盾、すなわち祖国の盾という意味である。
 
第一御楯隊は昭和19年11月27日に、
第二御楯隊は昭和20年2月21日に
出撃、大戦果をあげ散華した。

第一御楯隊、第二御楯隊の碑

 
第一御楯隊

第一御楯隊は第252海軍航空隊戦斗317の零式戦闘機12機
をもってサイパン島のアスリート飛行場に集結するB-29を
強襲、生還を前提とした攻撃隊であった。機体は識別用の国籍マーク
を除いて黒に塗られた。
 
この勇猛果敢な攻撃によりB-29炎上4、大破6の戦果をあげた。
強襲後はパガン島へ不時着、潜水艦で救出される作戦であったが
結果的に全機が失われた。
  
※なお、岩本徹三が第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと後に回想している。
 
零戦隊とは別に、戦果確認用に「彩雲」2機が、前日の26日には
先発隊として
海軍中攻機、海軍少尉搭乗の陸軍機、百式司偵が
出撃している。
このため、第一御楯隊の碑の左側面には
「陸軍重爆隊」右側面には「海軍中攻隊」と刻まれている。
彩雲一機は帰還した。
 
なお、山頂の慰霊碑とは別に
第一御楯隊が硫黄島からの出撃前夜に過ごしたトーチカが
自衛隊基地内に現在も残されている。
Photo

▲黒一色に塗られた第一御楯隊の零戦
 
第一御楯隊で散華した搭乗員は次の通り。

第一御楯隊
零戦11機、昭和19年11月27日
サイパン・アスリート飛行場強襲において散華

◆大村 謙次 中尉(静岡)
海兵72期・大正11年生・22歳

◆小野 康徳 飛曹長(香川)
甲飛3期・大正10年生・23歳

◆北川 磯高 上飛曹(福井)
甲飛13期・大正12年生・21歳

◆住田 広行 一飛曹(大阪)
甲飛11期・大正13年生・20歳

◆東 進 一飛曹(滋賀)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆加藤 正人 一飛曹(山形)
甲飛11期・大正11年生・22歳

◆司城 三成 二飛曹(大分)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆新堀 清次 飛長(東京)
特乙1期

◆上田 祐次 飛長(神奈川)
特乙1期

◆高橋 輝美 飛長(香川)
特乙1期・昭和2年生・17歳

◆明城 哲 飛長(京都)
特乙1期・大正15年生・18歳
 
第二御楯隊
 
第二御楯隊は昭和20年2月21日、第601海軍航空隊
天山、彗星、爆戦(爆装零戦)をもって編成された特別攻撃隊で
香取基地を出撃、八丈島で燃料補給後、硫黄島東南東海上の
米機動部隊に体当たり攻撃を敢行。航空母艦二隻に大損害を与えた。
搭乗員は次の通り。 

 
第二御楯隊
天山6機、彗星11機、爆戦6機、昭和20年2月21日
硫黄島周辺にて散華

◆村川 弘 大尉(新潟)
海兵70期・大正10年生・23歳

◆飯島 晃 中尉(長野)
海兵72期

◆桜庭 正雄 中尉(広島)
海兵72期・大正12年生・21歳

◆茨木 速 中尉(高知)
高等無線技術13期・大正12年生・21歳

◆佐川 保男 少尉(香川)
香川技13期・大正14年生・19歳

◆木下 茂 少尉(大阪)
関西大学13期・大正12年生・21歳

◆中村 吉太郎 少尉(石川)
中央大学13期・大正12年生・21歳

◆原田 嘉太男 飛曹長(鳥取)
甲飛2期・大正8年生・25歳

◆小島 三良 上飛曹(東京)
乙飛14期・大正12年生・21歳

◆石塚 元彦 上飛曹(山形)
甲飛9期・大正13年生・20歳

◆小石 政雄 上飛曹(神奈川)
甲飛9期・大正14年生・19歳

◆村井 明夫 上飛曹(大分)
甲飛9期

◆志村 雄作 上飛曹(山梨)
乙飛15期・大正13年生・20歳

◆岩田 俊雄 上飛曹(福井)
乙飛13期・大正13年生・20歳

◆青木 孝充 上飛曹(千葉)
丙飛10期・大正9年生・24歳

◆牧 光廣 上飛曹(広島)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆小松 武 上飛曹(高知)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆中村 伊十郎 上飛曹(千葉)
乙飛16期・大正13年生・20歳

◆窪田 高市 上飛曹(山梨)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小林 喜男 上飛曹(山形)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆幸松 政則 上飛曹(大分)
乙飛16期・大正14年生・19歳

◆小山 照夫 上飛曹(香川)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆戸倉 勝二 上飛曹(三重)
乙飛16期・大正15年生・18歳

◆下村 千代吉 上飛曹(鹿児島)
乙飛16期

◆森川 博 一飛曹(京都)
甲飛11期・大正14年生・19歳

◆三宅 重男 一飛曹(岡山)
甲飛11期

◆池田 芳一 一飛曹(和歌山)
丙飛10期・大正10年生・23歳

◆大久保 勲 一飛曹(茨城)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆田中 武夫 一飛曹(滋賀)
丙飛10期・大正11年生・22歳

◆原田 章雄 一飛曹(熊本)
丙飛17期・大正11年生・22歳

◆稗田 一幸 一飛曹(福岡)
丙飛13期・大正13年生・20歳

◆鈴木 辰蔵 一飛曹(東京)
乙飛17期・大正14年生・19歳

◆伊藤 正一 一飛曹(宮崎)
乙飛17期・大正12年生・21歳

◆清水 邦夫 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆叶 之人 二飛曹(北海道)
甲飛12期・昭和2年生・17歳

◆信太 廣蔵 二飛曹(秋田)
甲飛12期・大正14年生・19歳

◆川島 茂 二飛曹(長野)
甲飛12期・大正15年生・18歳

◆竹中 友男 二飛曹(兵庫)
乙飛16期・昭和2年生・17歳

◆長 与走 二飛曹(福岡)
丙飛11期・大正12年生・21歳

◆小山 良知 二飛曹(長野)
乙飛18期・昭和3年生・16歳

◆北爪 円三 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正11年生・22歳

◆和田 時次 二飛曹(群馬)
丙飛16期・大正13年生・20歳

◆岡田 金三 二飛曹(広島)
丙飛15期・大正10年生・23歳

◆水畑 辰雄 二飛曹(兵庫)
丙飛15期・大正13年生・20歳

◆川崎 直 飛長(宮崎)
特乙1期・大正14年生・19歳