硫黄島 M4シャーマン戦車
硫黄島の集団埋葬地付近に残る
米軍M4シャーマン戦車です。
もともとひっくり返っていたのですが
海上自衛隊さんがクレーンを持ってきて起こしてくれたそうです。
このM4タンク、よく見ると、改造されており
分厚いコンクリートが装着されています。熾烈な攻撃に備えるため
だったのでしょう。ペリリュー島にはノーマルのM4戦車がありますが
この硫黄島バージョンは改造されてまったく別の戦車にも見えます。
硫黄島の集団埋葬地付近に残る
米軍M4シャーマン戦車です。
もともとひっくり返っていたのですが
海上自衛隊さんがクレーンを持ってきて起こしてくれたそうです。
このM4タンク、よく見ると、改造されており
分厚いコンクリートが装着されています。熾烈な攻撃に備えるため
だったのでしょう。ペリリュー島にはノーマルのM4戦車がありますが
この硫黄島バージョンは改造されてまったく別の戦車にも見えます。
◆最近、お借りした本です。最後の海軍大将
井上成美(いのうえしげよし)伝記です。
私が小さい頃、戦記好きの友達に
「この人は長生きして新幹線にも乗っているんだよ」と教わったのが
井上成美を知ったきっかけで、私の中でも戦後もっとも長生きした人
という印象があります。
映画「聯合艦隊司令長官山本五十六」では
井上役を柳葉敏郎が演じていました。
よく合っていたと思います。
井上さんは教育センスの塊ですので、海軍兵学校の校長として
明日の日本のため、多くの優秀な若者を育て上げました。
最近購入した本が他にもあります。
◆古書店で購入した雑誌『今日の話題』です。
実戦を経験された陸海軍パイロットや将校さんが直接
書きつづったもので、これほど新鮮なものはありません。
作家が書いた戦記ものはどうしても二次的になりますが
この本は取材をスッ飛ばして、本人が直接書いていますので
こんなに戦場に近い本はないでしょう。
◆最後にムック『世界の傑作機 強風、紫電、紫電改』です。
松山の343空や紫電改ってどうして戦記好きの間では
あんなに人気なのでしょう。
以前、元海軍パイロットの方が仰っていたのを思い出しました。
「源田大佐は老練のパイロット、強い戦闘機、無線機、
み~んな持って行っちゃったんだから
強いのは当たり前だ。持って行かれたほうは惨めだ」
確かに、そのような側面もあったのでしょうね。
紫電改が欲しかったけれども、ゼロ戦で戦った部隊も多かった。
人気の紫電改のみを扱ったムックは他にもあったのですが
せっかくなので、「強風」から大元をたどってみることにしました。
ムックなので写真がたくさん載っていてながめているだけでも楽しいです。
◆ワイルドパイナップル
硫黄島の硫黄が丘付近に自生するワイルドパイナップルです。
ワイルドというのは野生種という意味です。
硫黄島は世界遺産となった小笠原諸島の一部です。
内地では見ることのできない多くの動植物にめぐまれており
それらを見つけることも楽しみであります。
◆サソリ
硫黄島といえば、サソリです。サソリは
航空自衛隊硫黄島基地のシンボルマークにもなって
いますが、元島民の方によると、昔はいなかったそうです。
おそらく米軍とともにやってきて野生化してしまったのでしょう。
硫黄島に生息しているのはキョウトウサソリ科マダラサソリという
外来種のサソリです。
硫黄島の売店ではこのサソリを捕えて、樹脂に閉じ込めたものが
「サソリキーホルダー」として売られています。
◆オオムカデ
それから硫黄島の名物といえばオオムカデです。
超大型のムカデです。用心しないと建物の中にも侵入してきます。
叩き潰すと、死骸に仲間がワラワラと集まってくるという不気味な
性質があります。(共食いのためとみられる)
叩き潰したら、遠くにブン投げるか、もしくはトイレに流すようにと
指導がありました。
◆ナンヨウチビアシナガバチ(准尉蜂)
ハラの模様が准尉の階級章に似ていることから。
叩き上げの兵隊の如く、しぶとく強い
ブンブンたくさん群がってきて危険な蜂です。
◆アカカミアリ
どこにでもいるアリ。かまれると痛い。
◆大和の姉妹艦にして
帝国海軍最後の超巨大空母「信濃」
先のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅したと思われたが
帝国海軍は不滅であった。
昭和19年11月11日、 東京湾に突然現れた超巨大航空母艦、
その名を「信濃」といった。 戦艦大和、武蔵に続き、三番艦として計画、
起工したはずの信濃は 戦局の変化に伴い、横須賀の海軍工廠で
造船過程の途中 航空母艦へ改造された、当時としては世界最大の
超大型空母である。何せ、土台が「大和」そのものであるから
その巨大さは計り知れない。
この頃になると国家総力戦を極め、信濃建造の裏側にも、軍需工場で
信濃の部品製造に働く 「女子挺身隊」と呼ばれた女学生の存在と犠牲が
あったことを忘れてはならない。
艦上戦闘機「紫電改」
11月11、12日
完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが「艦上戦闘機紫電改(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、のちの航
空自衛隊 ジェット戦闘機パイロットとなる人である。 同期には
南太平洋の韋駄天、重松康弘大尉がいる。
紫電改着艦テストの11日には、零戦や天山などの従来機の着艦テストが
終了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、とにかく、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
◆紫電改、信濃に着艦 「ゼロ戦よりやさしいと思った」
山本の紫電改ははじめにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行ったのち
いよいよ本番、
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である」
「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって
三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」
「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。
零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。しかし信濃艦長
阿部大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
◆虎の子「流星」、「彩雲」
信濃には、この紫電改のほか、最新鋭の「流星」、「彩雲」が搭載される予定で
いずれも同日、信濃に着艦テストを完了している。
◆桜花とともに轟沈
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁
◆昭和45年11月25日
三島 由紀夫は森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を訪れ、
面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。
バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す
演説をした直後に割腹自決した。
楯の会事件とか三島事件などといわれる事件であるが
このとき、三島、森田の切腹、介錯に用いられたのが
名刀「関孫六三本杉」である。
この関孫六三本杉は船坂弘からの贈り物で 次のような経緯がある。
◆昭和41年12月
アンガウル玉砕戦の生還者である船坂弘が、英霊の代弁者として
心血を注いだ『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』が書きあがり
出版する際、共に剣道の有段者であり、以前より親交があった
三島由紀夫より、同書に序文が寄稿された。
「何かお礼に差し上げたい」と申し出た船坂に対し
三島は「関孫六三本杉」を強く所望したという。
事件後、舩坂が警察署へ赴き 二人を介錯した関孫六を確認している。
◆昭和45年12月20日発売の 『朝日ソノラマ』
この中に事件現場を撮影した写真が掲載されている。
三島と森田の頭部が並べて置かれている衝撃的な写真だった。
また、演説内容をすべて収録したソノシートも附属している。
YouTube: スカイ・クロラ | The Sky Crawlers [OP] [HD]
映画『スカイクロラ』
震電とそっくりの戦闘機が出ています。原作の小説を書いた作家、
森博嗣は工学博士でもあります。動画の26秒あたりのプロペラ
を吹き飛ばすメカニカルな描写に注目。
あまりフィクションの映画は見なかったのですが
とてもよくできているので、載せました。ティーチャーがP-51にも見える。
ここからは史実。
局地戦闘機「震電」の特徴として 後方プロペラであるが
もっとも、これは緊急脱出の折 パイロットが巻き込まれる恐れが高い。
殊に「震電」は対B-29用戦闘機として 敵爆撃機の編隊に突っ込み、
集中砲火を受けるので 被弾後の、脱出という想定が高い確率でされる。
これについて、テストパイロットを務めた山本重久氏が
航空技術工廠、推進(プロペラ)部の技術大尉との間で大激論になったと
戦後回想している。
山本重久大尉
「集中砲火を受けて撃ち合うパイロットの身にもなって設計してください」
某技術大尉
「できないですねえ」
「プロペラ・ボス(プロペラ付け根以下の意)全体を破壊しなくても
プロペラブレード一枚を飛ばすことができたら、残り五枚はアンバランス
になり、瞬間的に全ブレードがスッ飛ぶであろう。それもできないのか」
「技術的に不可能だ」
「不可能を可能にするのが科学で、それをやるのが技術者だ」
「無茶を言うな」
「何が無茶だ。なぜやろうとしないのか」
「こいつ」
山本は憤慨し、自分よりずいぶん古参であろう技術大尉の横っ面を
いやというほどぶんなぐってしまった。※1
その後、プロペラを吹き飛ばす技術が開発され 試作が進められた。
※1 『別冊丸15巻 終戦への道程~本土決戦記』82頁
栃木県那須烏山市の地下戦車工場跡は、手掘りの壕で
昭和19年末から20年にかけて実際に稼働した戦車部品の軍需工場跡。
現在は株式会社島崎酒造が酒蔵として所有している。
事前に予約すれば無料で洞窟内を見学できる。
▲入口
洞窟内の温度は年内を通じて一定に保たれており、
夏は涼しく、冬はあたたかい。
ここはオーナーズボトルのコーナー。
預かりの期間は5年(10,500円)から最長20年(31,500円)
で、出産を機会に購入し、20歳の誕生日を待つというプランが人気。
ボトルとともに家族の写真やメッセージが貼り付けてある。
試飲もできる。ここで寝かせた熟成酒は烏山の名物。
お酒を販売する島崎酒造は烏山の市街地にあり、洞窟から
少し離れている。
とにかく洞窟の広さと天井の高さ、そして全長には驚いた。
この壕は車体そのものではなく、部品の工場であったが
これだけの大きさがあれば戦車がそのまま入る。
昭和19年末から20年にかけて宇都宮十四師団は
パラオで戦っているので、直接の関係はないが
終戦まで20台の戦車部品が製造された。
ガイドも親切丁寧に説明してくれた。
詳しくは株式会社島崎酒造へ
パラオ共和国ってどんなところ?
世界一美しい海があり
日本時代の名残を体験できる。
パラオ国旗の由来は?
パラオ国民は優しく、親日的
細かいことを気にしないおおらかな性格。
◆パラオ旅行の注意点
良くも悪くも南洋気質。みんな
おおらかである故、細かいところにこだわりイライラする人は
楽しめないかも。のんびりいきましょう。
グアムやサイパンのように整備されておらず
自然をありのまま受け入れられる人でないと楽しめない。
停電もしょっちゅう。
インターネットがダイヤルアップなので、ものすごく遅い。
ほぼ、使えないと思った方が良い。
その他 概要・日本統治時代からの歴史
■パラオの年間平均気温は摂氏27度。常夏の島で、北緯5~7度付近、経緯は134度と
日本の真南に位置する為、時差は無し。現在は飛行機で片道4時間半。
人口は21000人ほどで、そのうち70%程度がパラオ人で、他にはフィリピン人が多い。
日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている。
首都はパラオ本島のマルキョクへ遷都したが
実質、経済の中心地はコロールにある。
■言語は主にパラオ語であるが、
第二公用語として英語も使われる。
■西欧列強の時代、1885年にスペインの植民地となる。米西戦争に敗れたスペインは
1899年パラオをドイツに売却。以降ドイツの植民地となった。第一次大戦でドイツが
敗れると、1914年から国際連盟により日本の委任統治領となる。一時は南洋一の繁栄を
極めたが、大東亜戦争が始まると戦火の渦中となり、激戦の末、1945年に米軍が占領し
47年、同国による統治が開始された。他国統治から解放され「パラオ共和国」として
独立に至ったのは1994年のことで、日系のクニオ・ナカムラ大統領が就任した。
■日本統治当時、南洋群島全体の島民5万人に対し、日本人は8万5千人。
パラオには島民向けの公学校が26校あり、40歳以下の者はおおむね日本語を理解できた。
ガラスマオ、ガスパン、アイライ、アイミリーキのほか、瑞穂、清水、朝日、大和といった
和名の村があった。昭和18年の内訳は以下の通り。
■日本統治時代の学校は日本人向けの小学校と、日本語を母国語としない人向けの公学校と分けられ
学校教育の普及が当時の政策の重要課題だった。
■公学校は1915年(大正4年)に最初の公学校が建設されて以来、パラオには合計6つの公学校(コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュー
アンガウル、ガラスマオの各学校)が建設された。公学校は3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成されており
「本科」で優秀な成績を収めた生徒の多くは「補習科」に進学できた。
1915年から1935年までの21年間の間に、2242人が「本科」を卒業し、654人が「補習科」を卒業した。
当時のパラオにおける就学率は93%(1931年)で、南洋群島全体の平均就学率57%と比べても圧倒的に高い就学率を誇った。
「本科」「補習科」ともに国語(日本語)の時間が多く、カリキュラムの中の約半分の時間が割り当てられた。算数や実用種目も重視された。
補習科の卒業生の中で特に優秀だった生徒の中には、「木工徒弟養成所」に進学する者もいた。木工徒弟養成所は1926年に設立された、建築技術を
習得するための男子校で、毎年30人ほどが全南洋群島から選抜されて入学した。そのため、同校の生徒は「エリート」と考えられており、同校は当初
建築過程の専門校であったが、後に土木科や機械科が設置され、総合的な職業訓練校となった。
日本統治時代の後半になると、内地に留学して高等教育を受けることのできたパラオ人も少数ながら存在した。
■日本人向けには、尋常小学校から旧制中学校(および高等女学校)までが設置された。
■現地住民に対する処遇
呪術(モデクゲイ)の排除。徹底した取り締まりを行った。
パラオ人の中には志願によって日本軍に貢献しようとする人々があらわれ、それらは1942年に「資源調査隊」として約60名。1943年には
「パラオ挺身隊」として約30名が集まり、主にニューギニアなどへ派遣された。戦争末期には、「斬込隊」が結成されたが、実戦には至らなかった。
ある大学生が
「僕は背が小さいんだ」と悩みを うちあけてくれたことがある。
彼は身長が150センチ前半と、確かに平均身長からしたら小柄だ。
だけど男はなりじゃない。 己の内側に秘めたるソウルを、
静かに燃やす男はかっこいい。
そこで、私は彼に岩本徹三の話をした。
岩本徹三の見た空
◆岩本徹三(いわもとてつぞう)は「虎徹」と称された
日本海軍の戦闘機パイロットである。
身長は現存する写真から分析して150センチ前後と推定されており
キリっとした、面持ちで、長身の、いかにも戦闘機乗りといった猛者が強い中、
それに反して 小柄で優しい表情の岩本は、一見すると戦闘機乗りとは
思わなかった者もいたようだ。 ただ、この小柄な体型は戦闘機のパイロットとして
適していることに間違いない。
岩本は一説によればパイロットの中で、もっとも多くの敵を撃墜されたと
いわれている。
※日本海軍はエースという概念を設けず(敵を何機やっつけたという個人成果は
記録しない) この辺りのことははっきりしないし、そもそも誰もが日本のために
戦ったと思えば、 はっきりさせる必要もないのかもしれない。
同じ零戦パイロットの原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
兎角、劣性の下、敵戦闘機との戦いや B-29に単機で戦いを挑んだりと、
彼の武勇伝は尽きることがない。 戦闘の詳細に関してはたくさんの本が
出ているし、ここ以外の インターネット上でも知ることができるので今日は
割愛し ここでは岩本徹三の人柄や振る舞いについて少し触れたいと思う。
▲岩本徹三の零戦。昭和17年、空母瑞鶴で珊瑚海海戦時の機体
神風特別攻撃隊を真っ向から批判
◆若いパイロットは爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む。
老練のパイロットはそれを掩護し戦果を見届けた後に 生還しなけらば
ならなかった。 岩本は、何度もそういった経験をしている。
岩本は自らの手記で特攻を次のように痛烈に批判している。
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身、生きる道あってこそ 兵の士気は上がる。表向きは作ったような
元気を装っているが、影では泣いている」
「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、
敵を一機でも多く叩き落としていくのが 任務じゃないか。一度きりの体当たりで
死んでたまるか。俺は否だ。」
「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」
「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない
上層部の やぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」
◆正義感の強い岩本はおかしいと思ったら上官の命令に背くこと少なくなかった
次のような逸話も残っている。
昭和19年10月フィリピンにおいて、岩本らが空戦用に空輸したゼロ戦9機を
全く関係のない201海軍航空隊参謀から「そのゼロ戦を特攻用にただちに
よこせ」と高圧的な命令があり、横取りされそうになったところ、機転を利かせ、
部下とともにダグラス輸送機に乗って「馬鹿な参謀よサヨーナラだ」 と言い残し
内地へ去ってしまった。※1
◆昭和20年3月末、天一号作戦が発令され 沖縄では米軍の上陸が間近と
なった頃、鹿児島では桜が満開の頃。
「花と言えば鹿児島の女学生が毎日、飛行機の手入れにきてくれていた」
と、このときの出来事を印象深く回想している。※2
戦後
◆昭和22年、見合い結婚をする。 夫人は、岩本と出会う前 戦時中の
ニュース映画で岩本を見ており 「まさかこの人と結婚することになるとは
想像しなかった」と記している。 しかし、GHQによる公職追放で戦犯こそ
逃れたものの、職を失っていた岩本は 結婚三日後にして、北海道開拓に
出発することとなる。 「5年働けば自分の土地になるから」と、意気込みを
見せていたが 病臥した岩本は一年半で帰郷。 その後、地上の生活に
馴染めず、職を転々とし 苦労したようであった。
しかしこの頃、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせていた。
相変わらず 曲がったことの嫌いな性格は変わらず、意見を聞かず
失敗することも多かったが 人の嫌がることを進んでやる人であった。
隣家で結核患者が病死した際、 感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況を
みかねて、一人淡々と遺体を葬ったとの逸話も残っている。
また、2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、
子供のおもちゃは自分で作っていた。 トタン、ブリキを買ってきては、
自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。
自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
もう一度、飛行機に乗りたい
◆岩本はふたたび病に倒れ、闘病生活を送った。
盲腸炎を腸炎と誤診され、腹部を手術されること三回
さらに空戦で受けた傷が痛むと言いだし、背中を手術すること 四、五回。
それも麻酔をかけずに最後は脇の下30センチも切開して 肋骨を二本も
取るという手術を行う それでも、元気になったらもう一度飛行機に
のりたいと語っていた。
昭和30年5月20日、妻と五歳と七歳の子供を残し、この世を去る。
38歳だった。死因は敗血症。医師がもう一度切って病名を確かめたいと
申し出たが、母が死んでまで切るなどさせたくないと断っている。
次男は後に航空自衛隊に入隊した。 ※3
そのほかメモ
岩本「雷電」搭乗の評価
◆昭和和19年6月 岩本は岩国の332空で初めて雷電を操縦し、零戦と比較し
次のような感想を述べている。
「スピードは確かに出るが重い飛行機で、特に運動性能が悪く たいしたもの
ではないなと思った。大型機を攻撃するのなら 今の零戦より良いかもしれないが、
敵の戦闘機相手では零戦に劣る」
第一御楯隊と岩本徹三
◆第一御楯隊 岩本は第一御楯隊、大村謙次中尉の教官を務めており
短期間訓練にもかかわらず大きな戦果を与えたと評価している。
※第一御楯隊は真っ黒に塗られたゼロ戦で編成され サイパン・アスリート
飛行場に待機するB-29を銃撃し、 その後、パガン島へ不時着。潜水艦へ
収容される作戦で 生還を前提としたが、結果的に全員が戦死した。
詳しくは、硫黄島の戦跡・第一観御楯を参照。
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篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース
出典 岩本徹三著『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』
※1、267頁
※2、同289頁
※3、同318-320頁