▲英王立空軍 スピットファイア
スピットファイアとは
英国王立空軍(ロイヤルエアフォース)の主力戦闘機。
正式名称はスーパーマリン・スピットファイア(Supermarine Spitfire)
イギリス・スーパーマリン社の開発設計による機体で
液冷ロールスロイス・マーリンエンジンを搭載し、馬力を得た。
のち、アメリカ軍のP-51にも同じエンジンを搭載(ライセンス生産の許可)し、
両機が最高の傑作機と呼ばれる所以ともなった。スピットファイアは地上基地
から発進する戦闘機で、空母での運用はできない。
▲スピットファイア・マークIX(左上)とスピットファイア T9(右上)
手前からホーカー・ハリケーン戦闘機とアブロ・ランカスター爆撃機、
スピットファイア(下画像)
日本の零戦と対決
日本海軍の零戦とは、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で初めて対峙し
このときは日本海軍の零戦が勝利した。日本機動部隊の戦闘機は
赤城、加賀などから発進した零戦二一型で、真珠湾作戦に参加した
熟練の搭乗員が占めていた。
翼のマーク
尾翼に描かれているのはフランス国旗では無くて
ユニオンジャックの三色を表したもので、フラッシュという名称。
翼も同様のシンボルが描かれており、(日本機でいえば
日の丸にあたるが)こちらはラウンデルと呼ばれる。
朝鮮戦争まで運用される
スピットファイアは2万3千機が生産され、 1950年代まで活躍した。
この中には朝鮮戦争まで含まれる。飛行機の姿形は、その用途、国柄が
非常によく反映される。 このスピットファイアも実にイギリスらしい美しい
飛行機である。
◆アンガウル島、大神宮海岸へやってきた。浜の名前は
画面左の森に、かつてアンガウル大神宮が鎮座したことから。
白亜の灯台は、艦砲射撃で倒され、今は見えない。
外洋に面しているので波は高く
米名はオレンジビーチと呼ばれる
アンガウル島の中でも特別、ここだけ砂浜の色が違う。
微生物の死骸が積もってこのような色になる故。
上陸戦が行われたのは、島の北側レッドビーチおよび
ブルービーチであり、この大神宮海岸での上陸はなかった。
ただし、米軍の物資揚陸用のレールなどが残っていて、
砂浜を歩く際は鉄の欠片に注意。それを除けば
いくら眺めていてもあきない、実に美しい砂浜である。
潮風が、あまりにも心地よいので、足を波に洗われながら
砂浜の端から端まで、何往復もしてしまった
この浜にしかいない、真っ赤なヤドカリと遭遇できればラッキーだ。
「サキシマオカヤドカリ」といって日本でも小笠原に棲息する
天然記念物だ。
ヤドカリを探しながら、とても
気分が良いので何時間でも居てしまう。
日本の飢餓を救ったアンガウル島の燐鉱
◆昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
▲今はジャングルに帰した、大コンベアー跡。
静かなアンガウル島にかつての大繁栄を見る
◆戦火に巻き込まれる以前(昭和18年)の
アンガウル島人口は2618人であった。
(内訳は日本人1325人 朝鮮人539人 パラオ人754人)※1
これはペリリュー島の1050人より多い。ペリリューには南洋興発
株式会社の採掘する燐鉱が在ったがアンガウルよりずっと
規模の小さいものであった。
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱
◆当時、西港にはオートコンベア(燐鉱積込用桟橋)があり
(鉄製・積み込み能力 250トン毎時、1トン起重機×2)
そのほか、港湾施設として船舶係留用ブイ四個、
アンガウル灯台(別名丹下灯台) と
東北港、東港にも桟橋があり舟艇の達着が容易であった。
▲リン積載場跡。
農作物の自給自足は、困難だったが※2
豊かな燐鉱産業の対価により、パラオ本島より食糧を輸送していた。
▲殉職社員の碑。日付に注目。
西港に面する集落はサイパン村と呼ばれ
現在のダウンタウンである。ここには 郵便局、警部補派出所
(税関事務を取り扱う)、アンガウル医院、国民学校、公学校、
郵便局所属の無線通信所、南星寮、そしてアンガウル大神宮が鎮座した。
◆燐鉱は上陸戦直前まで操業が続けられ
間も無く作業員と住民はパラオ本島へ強制疎開、
玉砕戦ののち、米軍監視のもと民間人が戻り、採掘が再開された。
▲アンガウルの小路を行く。沖にペリリュー島が見える。
▲現在のアンガウル港。
M4シャーマン戦車が波に打たれる。
▲アンガウル港
▲周回道路、ガジュマルの門。二本のガジュマルが道路脇から
生えて、中央で合体したもの。
▲ジャングルに眠るM4シャーマン戦車
※1、戦史叢書中部太平洋陸軍作戦 45頁、55頁
※2、ドイツ人の持ち込んだサルが野生化し大繁殖した結果、
農地を整備しても全て荒らされてしまった。現在も状況は同じである。
硫黄島の集団埋葬地付近に残る
米軍M4シャーマン戦車です。
もともとひっくり返っていたのですが
海上自衛隊さんがクレーンを持ってきて起こしてくれたそうです。
このM4タンク、よく見ると、改造されており
分厚いコンクリートが装着されています。熾烈な攻撃に備えるため
だったのでしょう。ペリリュー島にはノーマルのM4戦車がありますが
この硫黄島バージョンは改造されてまったく別の戦車にも見えます。
◆最近、お借りした本です。最後の海軍大将
井上成美(いのうえしげよし)伝記です。
私が小さい頃、戦記好きの友達に
「この人は長生きして新幹線にも乗っているんだよ」と教わったのが
井上成美を知ったきっかけで、私の中でも戦後もっとも長生きした人
という印象があります。
映画「聯合艦隊司令長官山本五十六」では
井上役を柳葉敏郎が演じていました。
よく合っていたと思います。
井上さんは教育センスの塊ですので、海軍兵学校の校長として
明日の日本のため、多くの優秀な若者を育て上げました。
最近購入した本が他にもあります。
◆古書店で購入した雑誌『今日の話題』です。
実戦を経験された陸海軍パイロットや将校さんが直接
書きつづったもので、これほど新鮮なものはありません。
作家が書いた戦記ものはどうしても二次的になりますが
この本は取材をスッ飛ばして、本人が直接書いていますので
こんなに戦場に近い本はないでしょう。
◆最後にムック『世界の傑作機 強風、紫電、紫電改』です。
松山の343空や紫電改ってどうして戦記好きの間では
あんなに人気なのでしょう。
以前、元海軍パイロットの方が仰っていたのを思い出しました。
「源田大佐は老練のパイロット、強い戦闘機、無線機、
み~んな持って行っちゃったんだから
強いのは当たり前だ。持って行かれたほうは惨めだ」
確かに、そのような側面もあったのでしょうね。
紫電改が欲しかったけれども、ゼロ戦で戦った部隊も多かった。
人気の紫電改のみを扱ったムックは他にもあったのですが
せっかくなので、「強風」から大元をたどってみることにしました。
ムックなので写真がたくさん載っていてながめているだけでも楽しいです。
◆ワイルドパイナップル
硫黄島の硫黄が丘付近に自生するワイルドパイナップルです。
ワイルドというのは野生種という意味です。
硫黄島は世界遺産となった小笠原諸島の一部です。
内地では見ることのできない多くの動植物にめぐまれており
それらを見つけることも楽しみであります。
◆サソリ
硫黄島といえば、サソリです。サソリは
航空自衛隊硫黄島基地のシンボルマークにもなって
いますが、元島民の方によると、昔はいなかったそうです。
おそらく米軍とともにやってきて野生化してしまったのでしょう。
硫黄島に生息しているのはキョウトウサソリ科マダラサソリという
外来種のサソリです。
硫黄島の売店ではこのサソリを捕えて、樹脂に閉じ込めたものが
「サソリキーホルダー」として売られています。
◆オオムカデ
それから硫黄島の名物といえばオオムカデです。
超大型のムカデです。用心しないと建物の中にも侵入してきます。
叩き潰すと、死骸に仲間がワラワラと集まってくるという不気味な
性質があります。(共食いのためとみられる)
叩き潰したら、遠くにブン投げるか、もしくはトイレに流すようにと
指導がありました。
◆ナンヨウチビアシナガバチ(准尉蜂)
ハラの模様が准尉の階級章に似ていることから。
叩き上げの兵隊の如く、しぶとく強い
ブンブンたくさん群がってきて危険な蜂です。
◆アカカミアリ
どこにでもいるアリ。かまれると痛い。
◆大和の姉妹艦にして
帝国海軍最後の超巨大空母「信濃」
先のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅したと思われたが
帝国海軍は不滅であった。
昭和19年11月11日、 東京湾に突然現れた超巨大航空母艦、
その名を「信濃」といった。 戦艦大和、武蔵に続き、三番艦として計画、
起工したはずの信濃は 戦局の変化に伴い、横須賀の海軍工廠で
造船過程の途中 航空母艦へ改造された、当時としては世界最大の
超大型空母である。何せ、土台が「大和」そのものであるから
その巨大さは計り知れない。
この頃になると国家総力戦を極め、信濃建造の裏側にも、軍需工場で
信濃の部品製造に働く 「女子挺身隊」と呼ばれた女学生の存在と犠牲が
あったことを忘れてはならない。
艦上戦闘機「紫電改」
11月11、12日
完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが「艦上戦闘機紫電改(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、のちの航
空自衛隊 ジェット戦闘機パイロットとなる人である。 同期には
南太平洋の韋駄天、重松康弘大尉がいる。
紫電改着艦テストの11日には、零戦や天山などの従来機の着艦テストが
終了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、とにかく、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
◆紫電改、信濃に着艦 「ゼロ戦よりやさしいと思った」
山本の紫電改ははじめにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行ったのち
いよいよ本番、
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である」
「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって
三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」
「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。
零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。しかし信濃艦長
阿部大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
◆虎の子「流星」、「彩雲」
信濃には、この紫電改のほか、最新鋭の「流星」、「彩雲」が搭載される予定で
いずれも同日、信濃に着艦テストを完了している。
◆桜花とともに轟沈
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁


◆昭和45年11月25日
三島 由紀夫は森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を訪れ、
面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。
バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す
演説をした直後に割腹自決した。
楯の会事件とか三島事件などといわれる事件であるが
このとき、三島、森田の切腹、介錯に用いられたのが
名刀「関孫六三本杉」である。
この関孫六三本杉は船坂弘からの贈り物で 次のような経緯がある。
◆昭和41年12月
アンガウル玉砕戦の生還者である船坂弘が、英霊の代弁者として
心血を注いだ『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル』が書きあがり
出版する際、共に剣道の有段者であり、以前より親交があった
三島由紀夫より、同書に序文が寄稿された。
「何かお礼に差し上げたい」と申し出た船坂に対し
三島は「関孫六三本杉」を強く所望したという。
事件後、舩坂が警察署へ赴き 二人を介錯した関孫六を確認している。
◆昭和45年12月20日発売の 『朝日ソノラマ』
この中に事件現場を撮影した写真が掲載されている。
三島と森田の頭部が並べて置かれている衝撃的な写真だった。
また、演説内容をすべて収録したソノシートも附属している。