日光市猪倉山泉福寺での送り盆でした。
黄昏時、ろうそくのともしびです。
ご住職のお話しによると、黄昏時(たそがれどき)というのは
この世とあの世の繋がる時間帯で、
この世の夜が、あの世の昼になるのだそうです。
あの世というものは、衣も逆に着るし、この世に居る我々からしたら
それは、おかしいと思うかもしれないけど、あの世では
何ら、変なことではないのです。だから元来、お葬式というのは
夜に行っていた。夜に死者を送り出せば、ちょうど、あの世の朝に
到着するからです。それを昼に変えてしまったのは
我々、この世の者の都合なんだとか。その名残がお通夜という
形になった。
あの世とこの世も遠いようで、意外と近い。
あの世は、すぐそこにある。ただ目に見えないだけ。
我々の考え方次第で見えてくる。
そう考えれば、すべての生き物や自然、つまり森羅万象の見かたが
かわってくる。そうなのです。亡くなった大切な人も
すぐ近くにいる。そしてあなたを見守っていることでしょう。
今年も終戦の日を迎え、政府主催の全国戦没者追悼式に
出席して参りました。
全ての戦没者に対し、追悼の意を表します。
さて、安倍首相の追悼の辞の中で「アジア諸国への謝罪」の文句が無かった
旨を朝日新聞は社説で批判、また韓国メディアでもこれを
大きく報じています。
この式典は、純粋に先の大戦で、尊い命を犠牲にされた方を追悼するものですが
どうも方向性が逸脱しているような気がします。
歴史認識はさておき、これだけは間違っている!と私が思うのは
日本の報道の在り方です。国際社会の信頼というけれど、 韓国メディアが
騒いだことばかりを、日本でも同じ内容をニュースにして
流しているだけじゃあないですか。日本のテレビ屋さんは、全て韓国基準
なのでしょうか。ニュース原稿は韓国で作っているのですか。
同じ日に参拝してきました。靖国神社です。
これも、今年は大きなデモがあり、さぞ神社は恐ろしかったように
報道されていましたが、実際行ってみたら全然違います。
神社の境内はそういった活動はいっさい出来ないことに
なっているので、中は静かで、戦没者を弔う方がほとんどでした。
大事な身内、あるいは戦友を亡くして、ここに来れば会えると信じている
のですから、ここに集うのは自然と言えます。どなたも亡くなった人を
それぞれに思い出し、静かに手を合わせていました。
イギリス空軍の戦闘機
スーパーマリン社の「スピットファイア」です。
中身がわからない食玩シリーズを買ったら、偶然これが出ました。
綺麗な飛行機です。
説明書きにはMk.Vb、ジェームズ・ランキンの機体がモデルと
記載されています。尾翼に描かれているのはフランス国旗ではなく
ユニオンジャックの三色を表したものです。
日本海軍のゼロ戦は、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で
このスピットファイアと対峙しています。
スピットファイアは2万3千機が生産され、
1950年代まで活躍しました。この中には朝鮮戦争まで含まれます。
私はもともと飛行機や戦闘機が好きで、単純にそれは
メカとして、かっこよかったからです。当初はプラモデルのパッケージを
吟味して、純粋にかっこいいと感じたものを購入していました。
しかし戦闘機は美しいとは言へ、戦争に使われるものですから
次第にその背景を調べるようになりまして、現在に至ります。
最近の子供さんは、液晶画面の中ばかりに夢中で
あまりこういう形のあるものを好まないのかもしれませんが、
手に取れるというのは、実に良いことだと思います。
特に、ヒコーキの姿形は、その用途、国柄が非常によく反映されます。
このスピットファイアはイギリスらしい美しい飛行機です。
▲英王立空軍 スピットファイア
スピットファイアとは
英国王立空軍(ロイヤルエアフォース)の主力戦闘機。
正式名称はスーパーマリン・スピットファイア(Supermarine Spitfire)
イギリス・スーパーマリン社の開発設計による機体で
液冷ロールスロイス・マーリンエンジンを搭載し、馬力を得た。
のち、アメリカ軍のP-51にも同じエンジンを搭載(ライセンス生産の許可)し、
両機が最高の傑作機と呼ばれる所以ともなった。スピットファイアは地上基地
から発進する戦闘機で、空母での運用はできない。
▲スピットファイア・マークIX(左上)とスピットファイア T9(右上)
手前からホーカー・ハリケーン戦闘機とアブロ・ランカスター爆撃機、
スピットファイア(下画像)
日本の零戦と対決
日本海軍の零戦とは、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で初めて対峙し
このときは日本海軍の零戦が勝利した。日本機動部隊の戦闘機は
赤城、加賀などから発進した零戦二一型で、真珠湾作戦に参加した
熟練の搭乗員が占めていた。
翼のマーク
尾翼に描かれているのはフランス国旗では無くて
ユニオンジャックの三色を表したもので、フラッシュという名称。
翼も同様のシンボルが描かれており、(日本機でいえば
日の丸にあたるが)こちらはラウンデルと呼ばれる。
朝鮮戦争まで運用される
スピットファイアは2万3千機が生産され、 1950年代まで活躍した。
この中には朝鮮戦争まで含まれる。飛行機の姿形は、その用途、国柄が
非常によく反映される。 このスピットファイアも実にイギリスらしい美しい
飛行機である。
◆アンガウル島、大神宮海岸へやってきた。浜の名前は
画面左の森に、かつてアンガウル大神宮が鎮座したことから。
白亜の灯台は、艦砲射撃で倒され、今は見えない。
外洋に面しているので波は高く
米名はオレンジビーチと呼ばれる
アンガウル島の中でも特別、ここだけ砂浜の色が違う。
微生物の死骸が積もってこのような色になる故。
上陸戦が行われたのは、島の北側レッドビーチおよび
ブルービーチであり、この大神宮海岸での上陸はなかった。
ただし、米軍の物資揚陸用のレールなどが残っていて、
砂浜を歩く際は鉄の欠片に注意。それを除けば
いくら眺めていてもあきない、実に美しい砂浜である。
潮風が、あまりにも心地よいので、足を波に洗われながら
砂浜の端から端まで、何往復もしてしまった
この浜にしかいない、真っ赤なヤドカリと遭遇できればラッキーだ。
「サキシマオカヤドカリ」といって日本でも小笠原に棲息する
天然記念物だ。
ヤドカリを探しながら、とても
気分が良いので何時間でも居てしまう。
日本の飢餓を救ったアンガウル島の燐鉱
◆昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
▲今はジャングルに帰した、大コンベアー跡。
静かなアンガウル島にかつての大繁栄を見る
◆戦火に巻き込まれる以前(昭和18年)の
アンガウル島人口は2618人であった。
(内訳は日本人1325人 朝鮮人539人 パラオ人754人)※1
これはペリリュー島の1050人より多い。ペリリューには南洋興発
株式会社の採掘する燐鉱が在ったがアンガウルよりずっと
規模の小さいものであった。
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱
◆当時、西港にはオートコンベア(燐鉱積込用桟橋)があり
(鉄製・積み込み能力 250トン毎時、1トン起重機×2)
そのほか、港湾施設として船舶係留用ブイ四個、
アンガウル灯台(別名丹下灯台) と
東北港、東港にも桟橋があり舟艇の達着が容易であった。
▲リン積載場跡。
農作物の自給自足は、困難だったが※2
豊かな燐鉱産業の対価により、パラオ本島より食糧を輸送していた。
▲殉職社員の碑。日付に注目。
西港に面する集落はサイパン村と呼ばれ
現在のダウンタウンである。ここには 郵便局、警部補派出所
(税関事務を取り扱う)、アンガウル医院、国民学校、公学校、
郵便局所属の無線通信所、南星寮、そしてアンガウル大神宮が鎮座した。
◆燐鉱は上陸戦直前まで操業が続けられ
間も無く作業員と住民はパラオ本島へ強制疎開、
玉砕戦ののち、米軍監視のもと民間人が戻り、採掘が再開された。
▲アンガウルの小路を行く。沖にペリリュー島が見える。
▲現在のアンガウル港。
M4シャーマン戦車が波に打たれる。
▲アンガウル港
▲周回道路、ガジュマルの門。二本のガジュマルが道路脇から
生えて、中央で合体したもの。
▲ジャングルに眠るM4シャーマン戦車
※1、戦史叢書中部太平洋陸軍作戦 45頁、55頁
※2、ドイツ人の持ち込んだサルが野生化し大繁殖した結果、
農地を整備しても全て荒らされてしまった。現在も状況は同じである。