アンガウル島、レッドビーチです。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙し、甚大なる損害を被りました。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのでしょうが
現在はパンの木など、多くの緑が茂り、海までせり出しています。
※ブルービーチの戦いも参照
では、レッドビーチ近くに残る戦跡を見て回りましょう。
散兵壕と呼ばれる、塹壕が、当時のまま残っています。
兵隊さんが、シャベルで掘ったものです。
珊瑚岩は固く、これだけの深さを掘るには大変な苦労があったと
想像できます。土ではありません。岩です。
これだけの深さがあります。
◆水戸山陣地
水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は高度に要塞化されており
ビルの三階から四階建てに相当し文字通り一千名の兵力が潜んでいた。
そのため一度無力された陣地が何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか
上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し執拗な攻撃が加えられた。
◆トンネル工事のプロによる陣地構築
この洞窟陣地はガドブス飛行場建設で動員された炭鉱、土木建設関係者が
徴用された海軍軍属で編成された海軍第214設営隊と
トンネル構築のプロである海軍第三隧道隊が築いたもので
海軍の豊富な資材と海軍軍属の尽力に依るところが大きい。
床板を張り巡らせたほか、発電機、空調まで備え、
さらにこの水戸山の地下を貫いて南洋興発工場と連絡が可能であった。
陸軍は陣地構築において、海軍の協力を拒まれ、
人力による手作業に頼らざるを得なかった。
南部に構築された陸軍陣地との違いは歴然である。
◆混成部隊の戦いと統制の欠如
この陣地を有する北地区の守備を担うのは
独立歩兵346大隊で、兵員の大部分が海軍の航空要員や
土木従事の軍属であり、正規の陸軍兵士でないため戦闘能力と
統制が欠けていた。
それらをまとめる大隊長は予備役上がりの
引野通広少佐53歳であった。
◆水戸山陣地の玉砕
9月23日夕刻から戦車を伴い、浜街道を北進する
米軍に対し、引野大隊は地形を活かし反撃を試みるが
被害が続出。戦闘経験の浅い大隊は存分に
力を発揮できず、25日、中之台を南北から挟撃を受けた
大隊は大山付近に布陣する中川大佐との連絡系統を遮断された。
その後も洞窟陣地より抵抗を続けたが
10月2日、引野大隊長が戦死。北部守備隊はついに玉砕した。
米軍はその後も幾度となくこの巨大な水戸山陣地に対し掃討戦を行ったが
洞窟の全てを掌握し、最後の日本兵を倒したのは翌年2月のことであった。
◆戦闘経過
9月23日夕刻
米軍は浜街道を前進し
ガリキョク南方へ進出。
同地守備の独歩346大隊の前田中尉指揮する
第二中隊はツツジ、前田山陣地でこれを撃退。
前田山からの重火器の猛射を浴びせ阻止したが
米軍は戦車十数両と艦砲射撃支援のもとに
攻撃を再開
24日午後ツツジの一部が奪取された。
引野大隊長は予備隊を投入し浜街道沿いに逆襲を敢行し
陣地を奪回。夜襲を準備中敵に発見され集中射撃を受け
被害続出。
これに基づき、引野少佐は予定の計画に基づき
水戸山と中之台を確保することを決心した。
25日午後以降
米軍の新鋭一個連隊が進出し無線電信所を夕刻に奪取。
中之台を南北から挟撃。ついに北地区隊と中央山地に布陣する
第二連隊主力は遮断された。
9月26日、米軍は浜街道から水戸山西方を北進し
ガルコル桟橋付近まで切迫したが
これを待ち構えていた中村中尉指揮の第三中隊、
歩兵砲および砲兵中隊が反撃し敵を混乱に陥れたが
物量で押され
27日には水戸山の地下坑道陣地を除く大部分が
奪取され、10月2日頃、引野大隊長が戦死
北部守備隊は玉砕した。
◆ガイド
ノースドックで船をおりてすぐ、目の前に広がる山脈が水戸山です。
水戸山の麓に「千人壕」と呼ばれる長大な壕が残っています。
現在は、少しだけ中に入って見学することができます。
(ただし、見学の際は必ずガイドとともに行動し、絶対に単独で
奥まで行かないでください。遭難の恐れがあります)
当時、ペリリュー島には燐を採掘する
南洋興発株式会社という民間会社がありました。
ペリリューの北部は南洋興発の拠点であり、南興村と呼ばれました。
この人たちは、トンネル掘削のエキスパートであり、故に長大な
地下要塞を築き上げ、ペリリュー島が
戦火に巻き込まれ、軍属として籠城することになりました。
ここでは引野通広(ひきのみちひろ)少佐が
独立歩兵346大隊の指揮し、戦いました。
芸者久松の噂が生まれたところでもありますが
その真意はさておき、南部を守備した生粋の兵と
比較し、こちらは軍属を含む、臨時編成の混成部隊でしたので
引野少佐の指揮は極めて困難だったと推測されます。
引野少佐は予備役の期間が長く、直前まで内地で教練などを
務めていましたが戦局の悪化により、急遽最前線ペリリューへ
送り込まれました。このとき少佐は53歳。
引野少佐率いる混成346大隊は、南部より進攻する米軍を
果敢に食い止め続けるも
ついに10月2日、引野大隊長は戦死し、
米軍はペリリュー北部を制圧しました。
飯田義栄大隊長のおはなし
なお、最北端のガルコル波止場は
飯田大隊が逆上陸を敢行した地点です。
飯田大隊長は最後まで戦い抜き、中川大佐とともに玉砕しています。
戦後(昭和44年)飯田義栄大隊長のお母様が慰霊に訪れ
「せがれのために、大勢の方が亡くなって申し訳ない」
と、涙しました。そのときの写真も残っています。
日光市猪倉山泉福寺での送り盆でした。
黄昏時、ろうそくのともしびです。
ご住職のお話しによると、黄昏時(たそがれどき)というのは
この世とあの世の繋がる時間帯で、
この世の夜が、あの世の昼になるのだそうです。
あの世というものは、衣も逆に着るし、この世に居る我々からしたら
それは、おかしいと思うかもしれないけど、あの世では
何ら、変なことではないのです。だから元来、お葬式というのは
夜に行っていた。夜に死者を送り出せば、ちょうど、あの世の朝に
到着するからです。それを昼に変えてしまったのは
我々、この世の者の都合なんだとか。その名残がお通夜という
形になった。
あの世とこの世も遠いようで、意外と近い。
あの世は、すぐそこにある。ただ目に見えないだけ。
我々の考え方次第で見えてくる。
そう考えれば、すべての生き物や自然、つまり森羅万象の見かたが
かわってくる。そうなのです。亡くなった大切な人も
すぐ近くにいる。そしてあなたを見守っていることでしょう。
今年も終戦の日を迎え、政府主催の全国戦没者追悼式に
出席して参りました。
全ての戦没者に対し、追悼の意を表します。
さて、安倍首相の追悼の辞の中で「アジア諸国への謝罪」の文句が無かった
旨を朝日新聞は社説で批判、また韓国メディアでもこれを
大きく報じています。
この式典は、純粋に先の大戦で、尊い命を犠牲にされた方を追悼するものですが
どうも方向性が逸脱しているような気がします。
歴史認識はさておき、これだけは間違っている!と私が思うのは
日本の報道の在り方です。国際社会の信頼というけれど、 韓国メディアが
騒いだことばかりを、日本でも同じ内容をニュースにして
流しているだけじゃあないですか。日本のテレビ屋さんは、全て韓国基準
なのでしょうか。ニュース原稿は韓国で作っているのですか。
同じ日に参拝してきました。靖国神社です。
これも、今年は大きなデモがあり、さぞ神社は恐ろしかったように
報道されていましたが、実際行ってみたら全然違います。
神社の境内はそういった活動はいっさい出来ないことに
なっているので、中は静かで、戦没者を弔う方がほとんどでした。
大事な身内、あるいは戦友を亡くして、ここに来れば会えると信じている
のですから、ここに集うのは自然と言えます。どなたも亡くなった人を
それぞれに思い出し、静かに手を合わせていました。
イギリス空軍の戦闘機
スーパーマリン社の「スピットファイア」です。
中身がわからない食玩シリーズを買ったら、偶然これが出ました。
綺麗な飛行機です。
説明書きにはMk.Vb、ジェームズ・ランキンの機体がモデルと
記載されています。尾翼に描かれているのはフランス国旗ではなく
ユニオンジャックの三色を表したものです。
日本海軍のゼロ戦は、昭和17年4月、セイロン島沖海戦で
このスピットファイアと対峙しています。
スピットファイアは2万3千機が生産され、
1950年代まで活躍しました。この中には朝鮮戦争まで含まれます。
私はもともと飛行機や戦闘機が好きで、単純にそれは
メカとして、かっこよかったからです。当初はプラモデルのパッケージを
吟味して、純粋にかっこいいと感じたものを購入していました。
しかし戦闘機は美しいとは言へ、戦争に使われるものですから
次第にその背景を調べるようになりまして、現在に至ります。
最近の子供さんは、液晶画面の中ばかりに夢中で
あまりこういう形のあるものを好まないのかもしれませんが、
手に取れるというのは、実に良いことだと思います。
特に、ヒコーキの姿形は、その用途、国柄が非常によく反映されます。
このスピットファイアはイギリスらしい美しい飛行機です。