2013年9月29日 (日)

250kg爆弾を模した敷島隊の碑

初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」五名の慰霊碑が
隊長の関行男大尉の出身地である、伊予西条市の楢本神社にある。
 
この衝撃的な慰霊碑は、五名がゼロ戦に抱いて飛び立った
250キログラムの爆弾そのまま模している。

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左側は戦艦「大和」の砲弾、右は「三笠」 
 
なお、境内には神風特攻隊記念館もある。
入場は300円。
 
私は以前、敷島隊の五機を整備した元整備兵の方に
お話を聞いたことがある。あわせて谷暢夫(たに のんぷ)一飛曹の
回想も少し書いた。
 
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」

伊予西条に慰霊碑があると聞いたので、以前から訪ねたいと
思っていたのが、ようやく、お参りができた。
 
関さんは、軍神として、またこのような形で顕彰され
関さん自身、それが嬉しいことなのかどうか、私には
知る術もないけれど、今日の日本のために命を奉げたことには
心から感謝します。
 
楢本神社
住所:愛媛県西条市大町1138
 
国道11号線から住宅街へほど500メートル入ったところにある。
慰霊碑と鳥居の前が駐車場。
隣が緑色の外装をした畳屋さん。

戦艦大和と宿毛湾

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戦艦大和が全速27ノット(時速50km/h)で試験航行した際の
有名な写真です。この写真は、昭和16年10月30日
宿毛湾沖の沖の島-鵜来島間で撮影されたものです。
 

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▲宇和海展望タワーより撮影。沖ノ島-鵜来島間を戦艦大和は全力で航行試験を
行った。手前が紫電改の着水した久良湾。
 
宿毛市の宇須々木海軍基地
大正10年に戦艦「長門」が寄港して以来、昭和17年頃まで
艦隊の停泊地として利用され、宇須々木は
休養の為の宿舎や病院、各施設がありました。
 
またワシントン軍縮会議で廃艦が決定した戦艦「土佐」はここ
宿毛湾沖に沈められています。
そして太平洋戦争末期には特攻艇「震洋」の基地にもなりました。
 
現在は弾薬庫、飛行艇の係留場(およびスロープ)、誘導灯、防空壕などが
僅かに残っています。
 

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▲スベリと呼ばれる飛行艇揚陸スロープ
 

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▲魚雷艇整備壕

伊方原子力発電所

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愛媛県、佐田半島の伊方原発です。
道の駅「観光物産センターきらら館」併設の四国電力広報施設に
展望台があり、望むことができます。
 
奥の筒状の建屋が一号機、手前の丸い建屋が二号機、
そして森林に隠れていますが、三号機があります。
 
広報施設は広くすこぶる綺麗で、
原発マネーの力を感じました。
 

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九軍神と三机湾

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九軍神の訓練が行われた三机湾
ここは愛媛県瀬戸町。佐田岬の伊方原発を過ぎて西へ10kmほど走ったところに
三机湾と呼ばれる静かな湾がある。 

三机湾は東洋の真珠湾と呼ばれ地形が真珠湾に似ていたことから、
特殊潜航艇「甲標的」で出撃した10名(内9名が戦死しのちに九軍神と呼ばれた)
の訓練が行われた場所である。
 

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須賀公園内にある「九軍神の碑」


慰霊碑の近くでバーベーキューをしていた中年男性のグループがいて
私たちが熱心に慰霊碑の写真を撮っていると
それまでは興味はなかったのだろうけど、近づいてきて

「へ~っ、真珠湾の攻撃訓練したのか」と頷いていた。

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こちらは何故か夜間戦闘機「極光」のプロペラらしいが
説明書きが読めない。
 
極光とはオーロラの意で「銀河」の夜間戦闘機型。
 
住所:愛媛県瀬戸町三机
須賀公園

2013年9月28日 (土)

敵機に体当たりした「彩雲」 ~三魂之塔

四国カルスト天狗高原より夕日を望む

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経緯

昭和20年3月19日 午前7時45分頃
第343海軍航空隊の三人乗り偵察機「彩雲」が 飛行中、
エンジントラブルから敵機に捕捉される。
 
離脱は不可能と判断した彩雲は、この上空で敵編隊に突入、体当たりを
敢行したものである。 搭乗員は機長、高田満少尉、操縦、遠藤稔上飛曹、
電信、影浦博上飛曹の三名で 全員が戦死。四散した機体の破片は三つの
峰に散らばったが 遺体は墜落する様子を目撃していた住民によって収容された。
 
現在も「彩雲」の主脚、片方が残されている。
「三魂之塔」と刻まれた慰霊碑であるが
その経緯などは一切記されていない為 、偶然訪れた者は、
何の慰霊碑かわからないだろう。
 
場所
高知県高岡郡津野町芳生野、
四国カルスト天狗高原、天狗荘から県道48号線を
およそ5.5km下ったヘアピンカーブの内側にある。
狭く急勾配の道の途中にあるので 訪れる際は注意が必要。
 
探していたらすっかり暗くなってしまった。
 

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2013年9月27日 (金)

今治造船西条工場

今治造船西条工場です。

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2013年9月26日 (木)

幸陽船渠(広島県三原市)

幸陽船渠のドッグです。国道185号線を呉線とともに
走ってゆくと、出現します。
 

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2013年8月26日 (月)

レッドビーチ(アンガウル島)

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アンガウル島、レッドビーチです。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙し、甚大なる損害を被りました。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのでしょうが
現在はパンの木など、多くの緑が茂り、海までせり出しています。

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※ブルービーチの戦いも参照
  
では、レッドビーチ近くに残る戦跡を見て回りましょう。
 

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 散兵壕と呼ばれる、塹壕が、当時のまま残っています。
兵隊さんが、シャベルで掘ったものです。
珊瑚岩は固く、これだけの深さを掘るには大変な苦労があったと
想像できます。土ではありません。岩です。
 

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これだけの深さがあります。
 

ペリリュー島、水戸山と千人壕

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▲水戸山と千人壕入口
 

◆水戸山陣地

水戸山に掘られたこの深く複雑巨大な壕は高度に要塞化されており
ビルの三階から四階建てに相当し文字通り一千名の兵力が潜んでいた。
そのため一度無力された陣地が何度も復活し、海兵隊を悩ませたほか
上方の洞窟口より地上の海兵隊に対し執拗な攻撃が加えられた。

◆トンネル工事のプロによる陣地構築
この洞窟陣地はガドブス飛行場建設で動員された炭鉱、土木建設関係者が

徴用された海軍軍属で編成された海軍第214設営隊と
トンネル構築のプロである海軍第三隧道隊が築いたもので
海軍の豊富な資材と海軍軍属の尽力に依るところが大きい。
床板を張り巡らせたほか、発電機、空調まで備え、
さらにこの水戸山の地下を貫いて南洋興発工場と連絡が可能であった。

陸軍は陣地構築において、海軍の協力を拒まれ、
人力による手作業に頼らざるを得なかった。
南部に構築された陸軍陣地との違いは歴然である。


◆混成部隊の戦いと統制の欠如
この陣地を有する北地区の守備を担うのは
独立歩兵346大隊で、兵員の大部分が海軍の航空要員や
土木従事の軍属であり、正規の陸軍兵士でないため戦闘能力と
統制が欠けていた。

それらをまとめる大隊長は予備役上がりの
引野通広少佐53歳であった。

◆水戸山陣地の玉砕

9月23日夕刻から戦車を伴い、浜街道を北進する
米軍に対し、引野大隊は地形を活かし反撃を試みるが
被害が続出。戦闘経験の浅い大隊は存分に
力を発揮できず、25日、中之台を南北から挟撃を受けた
大隊は大山付近に布陣する中川大佐との連絡系統を遮断された。

その後も洞窟陣地より抵抗を続けたが
10月2日、引野大隊長が戦死。北部守備隊はついに玉砕した。

米軍はその後も幾度となくこの巨大な水戸山陣地に対し掃討戦を行ったが
洞窟の全てを掌握し、最後の日本兵を倒したのは翌年2月のことであった。
 

◆戦闘経過

9月23日夕刻

米軍は浜街道を前進し
ガリキョク南方へ進出。
同地守備の独歩346大隊の前田中尉指揮する
第二中隊はツツジ、前田山陣地でこれを撃退。
前田山からの重火器の猛射を浴びせ阻止したが
米軍は戦車十数両と艦砲射撃支援のもとに
攻撃を再開

24日午後ツツジの一部が奪取された。
引野大隊長は予備隊を投入し浜街道沿いに逆襲を敢行し
陣地を奪回。夜襲を準備中敵に発見され集中射撃を受け
被害続出。

これに基づき、引野少佐は予定の計画に基づき
水戸山と中之台を確保することを決心した。

25日午後以降
米軍の新鋭一個連隊が進出し無線電信所を夕刻に奪取。
中之台を南北から挟撃。ついに北地区隊と中央山地に布陣する
第二連隊主力は遮断された。


9月26日、米軍は浜街道から水戸山西方を北進し
ガルコル桟橋付近まで切迫したが
これを待ち構えていた中村中尉指揮の第三中隊、
歩兵砲および砲兵中隊が反撃し敵を混乱に陥れたが
物量で押され
27日には水戸山の地下坑道陣地を除く大部分が
奪取され、10月2日頃、引野大隊長が戦死
北部守備隊は玉砕した。


◆ガイド
ノースドックで船をおりてすぐ、目の前に広がる山脈が水戸山です。
 
水戸山の麓に「千人壕」と呼ばれる長大な壕が残っています。

現在は、少しだけ中に入って見学することができます。 
(ただし、見学の際は必ずガイドとともに行動し、絶対に単独で
奥まで行かないでください。遭難の恐れがあります)

 
当時、ペリリュー島には燐を採掘する
南洋興発株式会社という民間会社がありました。
ペリリューの北部は南洋興発の拠点であり、南興村と呼ばれました。
この人たちは、トンネル掘削のエキスパートであり、故に長大な
地下要塞を築き上げ、ペリリュー島が
戦火に巻き込まれ、軍属として籠城することになりました。
 

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 ここでは引野通広(ひきのみちひろ)少佐
独立歩兵346大隊の指揮し、戦いました。
芸者久松の噂が生まれたところでもありますが
その真意はさておき、南部を守備した生粋の兵と
比較し、こちらは軍属を含む、臨時編成の混成部隊でしたので
引野少佐の指揮は極めて困難だったと推測されます。
 
引野少佐は予備役の期間が長く、直前まで内地で教練などを
務めていましたが戦局の悪化により、急遽最前線ペリリューへ
送り込まれました。このとき少佐は53歳。
 
引野少佐率いる混成346大隊は、南部より進攻する米軍を
果敢に食い止め続けるも
ついに10月2日、引野大隊長は戦死し、
米軍はペリリュー北部を制圧しました。
 
飯田義栄大隊長のおはなし

なお、最北端のガルコル波止場は
飯田大隊が逆上陸を敢行した地点です。
飯田大隊長は最後まで戦い抜き、中川大佐とともに玉砕しています。 
 
戦後(昭和44年)飯田義栄大隊長のお母様が慰霊に訪れ
「せがれのために、大勢の方が亡くなって申し訳ない」
と、涙しました。そのときの写真も残っています。

2013年8月24日 (土)

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕01

▲硫黄島の海軍陸戦隊司令部壕です。実に大きな壕です。
戦後、ずっと草木と土砂で埋もれており、姿を現したのはつい最近のことです。
硫黄島にはまだまだ未発見の壕が隠されています。
 
海軍陸戦隊といっても、硫黄島の各地に散らばって戦ったため
ご遺族に戦死した場所を示すことは非常に困難となっています。
 

海軍陸戦隊壕と陸軍混成第一旅団壕02

 ▲こちらは場所が変わって、陸軍さんの
混成第一旅団司令部壕です。
 
発見された壕の前には必ず、旗が立っています。
旗の色は壕内部の状況を示します。
 
白色、遺骨収集完了
黄色、捜索継続中
赤色、未着手
 
となっています。赤や黄色の旗の壕を見るたびに
ああ、早くお迎えにいかなければと、胸が痛みます。