大分県宇佐市がこのたび開設した
「宇佐市平和資料館」で映画永遠の0(ゼロ)の撮影に使われた
ゼロ戦(レプリカ)が見学できます。
このゼロ戦は、映画の撮影が終了した後、宇佐市が1000万円で
購入し、ここに展示しているものです。
鉄板を貼り付けたレプリカなので、実物のゼロ戦と比べると
ずいぶんと重い質感がありました。
入場は無料。
宇佐市は旧海軍宇佐航空隊の掩体壕などが現在でも残り
戦跡を観光の目玉にして行く構えの様です。
展示のほとんどは映画のセットですが
桜花の風防ガラスなど、一部だけ貴重な資料もあります。
レプリカ機の尾翼番号(第721海軍航空隊)は神雷部隊のものです。
これは映画の撮影に使われたコクピットのセットです。
「岡田くんの汗が染みこんでいるから、ファンの女性は喜ぶんじゃ
ないでしょうかね!うへへへへ」と、市の担当者。
アホか!
でも、実際に座れるのは良いアイディアだと思います。もちろん座らせて
もらいました。「思ったより狭いでしょう」と言われましたが、
身長175センチの私の印象では、広くはないけど、狭くもない。
そんな感じでした。
こういった実際に体感できるセットはありがたいです。
隙間をぜんぶ埋めてあるんですね。
宇佐市平和資料館 アクセス
宇佐市大字閤440-5
火曜日定休(祝日の場合はその翌日)および年末年始12/9-1/3
9時~17時(入場は16時30分まで)
老若男女入場無料
ペリリュー島守備隊長中川大佐のお墓が
出身地である熊本県熊本市にあります。
熊本の市街地を見渡せる岡の上に
小さな墓碑群があり
その一角に中川大佐のお墓はあります。
また、この辺りは西南の役(西南戦争)で亡くなった著名な方の
お墓もあり、歴史を学ぶ方は一度、訪れておくのもよいかもしれません。
だいぶわかりにくい場所にあり、随分と迷いました。
近くに大型霊園があり、そちらと勘違いしがちです。
中川大佐の墓碑は、そちらの大型霊園とは別の場所にあり
霊園の名称等は特にありません。
お墓は地元の方が、定期的に清掃をしてくださっているようで
とても綺麗になっていました。
中川州男大佐(戦死後中将)墓所
アクセス
熊本県熊本市立田山貯水池付近
住所、墓所名は不明
立田貯水池入口に駐車し(車はここで行き止まり)奥へ歩くと
墓碑群が見えてくる。急な階段(を下りずに)手前を右へ折れ
20メートルほど歩くと、中川大佐の墓がある。
近くに小峰墓地があるが、こちらではないので間違えないようにする。
なお、小峰墓地は、原爆慰霊碑、先の大戦の慰霊碑ほか西南戦争の
戦没者が眠っている。
国家存亡の危機を迎えた明治の日本
十九世紀末、西欧諸国の植民地拡大競争は激しくなり
その矛先は世界各地に向けられた。 日本にとっての最大の脅威は
帝政ロシアだった。ロシアは冬でも凍らない港をと、南満州へ進出し、旅順に
軍港を築くとともに極東艦隊を派遣、黄海を手中に収めた。
ロシア海軍の進出は、いよいよ直接日本に向けられることとなった。
そして、まさにここ瀬戸内海は要衝であった。 いよいよ日本は国家存亡の
危機を迎え ここ小島に、芸予要塞の一端を構築する。
極めて保存状態の良い110年前の戦跡
明治35年(1902)に完成した要塞であったが
明治38年(1905)年、日本は旅順攻略ならびにバルチック艦隊を撃滅し
日露戦争に辛勝。 結果的に小島の要塞が役立つことはなかったが、
要塞に据え付けられていた28cm榴弾砲、2門が旅順攻略戦に
持ち出され、活躍した。現在も非常に保存状態がよく、100年以上前の
戦跡としては極めて稀である。
28cm榴弾砲
小島には6門が据え付けられたが
明治37年(1904)日露戦争の勃発により うち2門が旅順要塞の攻略に送られた。
この28cm榴弾砲は NHKドラマ「坂の上の雲」で撮影に用いられたセットで、
撮影終了後 松山市が譲り受け、しばらく松山城で展示されていたが
現在は今治市が譲り受け、ここ小島に渡った。▼
▲芸予要塞(げいよようさい)小島(おしま)へはフェリーで渡る。
フェリーは今治の波止場を出港すると、瀬戸内海に点在するいくつかの島を
巡り、ふたたび今治の波止場へ帰ってくる。
背景は今治造船
乗客は、我々のほかには釣り人が数人と、郵便屋さんが
乗っていた。郵便屋さんのフットワークはどこへ行っても軽い。
通勤電車のような感覚のこのフェリーにひょいっと乗り、あっという間に
島の港へ接岸すると、のんびり釣竿を背負った人たちを追い越して
幸先よく手紙を配って行く。
▲探照灯(サーチライト)跡。
戦跡巡りの権威である、S方氏の案内で小島芸予要塞を巡る。
島は周囲3キロほどなので、2時間もあれば全部見学できる。
島には画像のような周回歩道があり、潮の香りと風が心地よい。
釣り人が目立つ。
▲円形の基礎は砲台の跡
放射線を描いて着弾するので、海からは見えない構造。
要塞は役目を終えた後、爆撃演習の標的として
利用された。その際の爆撃で崩れた跡が残る。
若い人は皆、島を出て行ってしまったのか、民家には空き家が多い。
島の人口は30人。遠くに望む、近代的な来島海峡大橋。
▲弾薬庫
これは「ハンミョウ」という昆虫。いままで
図鑑でしか見た事がなく、珍しかったので撮った。
瀬戸内海の島々に生息しているようだ。
人が道を歩いていると、進行方向を促すように飛翔するので
別名「道教え」とも呼ばれる。
海を見ながら波止場へ戻る。
110年前の歴史を感じ、また自然も素晴らしく綺麗な島だった。
芸予要塞小島(げいよようさい・おしま)
アクセス
愛媛県今治市波止浜観光港より
小島行きフェリーで5分。
愛媛県愛南町の「紫電改」を見学しました。
一見した感想は「大きいな」と感じたことです。
ゼロ戦より一回り、大型で迫力があります。重戦闘機紫電改。
昭和20年、この紫電改もB-29やグラマン戦闘機と大空戦を
繰り広げていたのでしょう。思いを馳せました。紫電改を知っている方も
知らない方も一見の価値あり。
この紫電改は昭和53年11月に、久良湾に沈んでいるのが発見され
翌年引き揚げ作業が行われました。館内にはこの機体の搭乗員だったと
推測される第343海軍航空隊(剣)、六名についての展示があります。
▲紫電改が沈んでいた久良湾です。
南レク宇和海展望タワーより撮影。
※碇義朗著『紫電改の六機』によれば、着水時の状況、
座席の位置などから考えて小柄な、米田伸也上飛曹か、とくに可能性の高いのは
武藤金義少尉と推測されているが、確定的な証拠が無いかぎり、
状況推測だけで断定することは避けねばならないと記されている。
※また、当該機体を「撃墜した」と証言する元米海軍戦闘機搭乗員
アプルゲート(アップルゲート)氏の主張であるが、
紫電改で戦った戦友たちによれば
「武藤少尉がまともに空中戦を行って、負けるはずがない」
「もし、落とされたとするなら、流れ弾か機体トラブルによるものであろう」
との見解もある。
「紫電改展示館」見学は無料。紫電改を見学できるのは、日本ではここだけ。
紫電改関連グッズを豊富に取りそろえた土産物店があります。
▲松山基地を再現したジオラマです。
なお、松山空港周辺には343空の使った掩体壕が残っており
そちらも見てきました。第343海軍航空隊航空基地跡
▲紫電改展示館の屋外にはこのような遊具もあり
尾翼には343と刻まれています。それにしてもF-4に似ている。
▲これは見なかったことに・・・。
愛南町も素晴らしい目玉があるのですから、もっと町おこしに利用すれば
よいと思います。 まずは熟練ガイドの養成は必須。
アクセス
紫電改記念館(南レク内)
住所:愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1 馬瀬山頂公園内
関連記事
空母信濃に着艦した艦上戦闘機「紫電改」
今治造船の艤装工場です。
今治造船は国内トップを誇る造船会社で、ここ今治のほか
伊予西条と丸亀にも工場があります。
大型船を多数、建造しています。
船を造っています。
後ろの高架は来島海峡大橋です。ここから広島の尾道まで通じています。
そしてこちらは今治のローカルキャラクター
「バリィさん」です。
2011年、ゆるキャラグランプリにて、クマモンに敗れ2位に甘んじる
2012年、ゆるキャラグランプリにて、ついに優勝を獲得。
2013年、PRに十分な知名度を得たとして不出馬を表明。
身長150cm、体重150kg、胴回り150cm
性格はのんびりしているが、今治弁を話すせいで少しきついイメージがある。
今治名物の焼き鳥がモチーフで
頭に乗っているのは来島海峡大橋、
ハラマキは名産の今治タオルを表したもので、持っているのは船。
ゆるキャラが生まれた背景には、今治でなければならない理由がありました。
今治は名産品が多く、瀬戸内海に面しており、とても良いところです。
高知竜馬空港周辺の掩体壕を見たついで、西へ10km走り
桂浜から土佐湾を望みます。
四国は素晴らしいところでした。何と言っても
人柄が素晴らしい。お遍路さん文化があるのか
どこへ行ってもあたたかいおもてなしを
受けることができました。お遍路さんといえば
心に傷を負っている人も少なくない。そんな人たちを
あたたかく迎え入れてくれる精神は素晴らしいです。
ただ、唯一、残念だったことがあります。
香川のウドンを食べ損ねたことです。
わが栃木も世界遺産だと喜んでいるけれど、
きちんとお客さんをおもてなしできているのか疑問です。
どうもおごりがあるように感じます。四国を見習うべきです。
第343海軍航空隊(二代目・剣)の基地は愛媛県の松山市にあり
拠点を鹿児島の鹿屋、国分、長崎の大村に置いた。
松山基地は現在の松山空港である。
▲松山空港
▲掩体壕
掩体壕(飛行機を爆撃から守るコンクリートの建物)
ご主人の許可を頂いて写真を撮らせてもらった。
掩体壕が車庫として利用されている。
現在は、住宅地やコンビニとなっているが
当時はこの辺りまで飛行場の一部だったことがわかる。
紫電改や彩雲が格納されたのだろうか。
▲掩体壕
こちらは納屋として利用されている。
コンクリートの建物、しかも掩体壕ともなれば相当頑丈であるので
解体は容易ではない。
そういえば、以前、桜花の発射基地跡を
訪ねたときも、コンクリートのカタパルトの土台はそのまま残されていた。
※桜花の基地を建設する際、軍に土地を接収され、戦後は返還されたものの
土地の境界線が有耶無耶になり、コンクリートの解体作業を自治体へ要請するも
資金を出し渋っているそうだ)
こちらも掩体壕。分厚いコンクリートと
飛行機を収納していた形がはっきりわかる。