2013年11月 7日 (木)

八甲田山雪中行軍隊の足跡を辿る旅

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またやってきました。今度は夏に。
八甲田山 雪中行軍遭難資料館です。
まさにこの資料館の前の道(現在県道)を第五連隊が行軍して
八甲田山へ向かいました。
 

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▲冬と比べた写真です。


この先、田茂木野村があって、小峠、大峠と続きます。
幸畑の陸軍墓地には無料のボランティアガイドの方がいらっしゃり
こまかく説明して頂きました。
 

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▲幸畑陸軍墓地(資料館裏)夏の様子

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▲冬にも行ってきました。同じ場所です。
 
少し背の高い墓石は下士官、手前が兵卒のお墓です。
中央に並ぶのが将校のお墓で、見学者は自分だけだったのですが
丁寧に全て墓石の立ち止まって、一人一人の経緯を説明して頂きました。
ボランティアガイドの方の博識に驚くとともに
丁寧さに本当に感謝致します。
 
さて、行軍隊の遭難事件から今年で110年(平成24年現在)になります。
100年までは慰霊祭を催し遺族がお参りに来ていたのですが
それも真冬に墓石に積もった雪を掘り起こす困難さと
高齢化のため現在は行われておりません。
 
現在では陸上自衛隊が雪中訓練途中に立ち寄り清掃慰霊を行います。
ところで、山口少佐は物語では悪役になっていますが
映画が完成した折、実際の人柄と違うという指摘が随分あったようです。
しかしあくまでフィクションである旨を説明し決着させました。
さらに山口少佐の死因について、映画では病室で拳銃自殺していますが
病院に拳銃を携行することは出来ず、凍傷にかかった 左手で
こめかみを打ち抜くことはできなかったとも言われております。
 
日露戦争を控えて不祥事や揉め事を抹消したいという
軍部の思惑から 毒殺されたといった説もあり、真相は現在でも
不明のままです。 第五連隊の雪中行軍隊210名のうち199名が亡くなり
生き残った将兵も重度の凍傷を負って手足を切断の後遺症が残りました。
五体満足だったのは、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の三名のみでした。
一番元気だったのが倉石大尉でした。
東京でゴム長靴を買い求めた
倉石大尉でしたが、ゴム長は単に
当時ハイカラでお洒落なものだったようです。
これのおかげで 凍傷を防げたのは偶然でありました。
 
倉石大尉は黒溝台会戦で戦死しているので 雪中行軍遭難者の墓地とは
分けて右隣の敷地に墓石があり 階級も少佐に特進しています。
資料館を見学するとわかるのですが、雪山では僅かな距離なのに
方向を見失い 一日中彷徨した後、同じ場所に帰ってきてしまうんですね。
本当に雪山の恐ろしさを感じます。 今回は夏だったので、
行軍隊が辿った道を一通り見ることができました。
 

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▲冬の八甲田山

 

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▲ここが馬立場です。 仮死状態で発見された後藤伍長の象があります。


十和田湖まで足を延ばし 奥入瀬渓谷を走って参りました。

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▲冬の同じ場所

竜飛岬も行ってきました。 日本屈指の強風の町です。 

大きな風車の羽根。 竜飛岬から北海道を望む。
ボタンを押すと大音量で『津軽海峡冬景色』が流れます。
それから青函トンネル資料館です。 体験坑道ケーブルカーで
海底トンネルまで降りることができました。
扉の向こうは電車が走っています。

高台の碑は青函トンネル工事殉職者の慰霊碑です。

こちらは青函トンネル入口公園です。 ずいぶん手前にあるのですね。ここから潜って、出口は北海道です!

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往復1600kmの強行スケジュールでしたが
今回は夏なので 景色が存分に楽しめました。

厳冬の陸奥六県を巡る

前日夜の天気図では等圧線の間隔が狭く、ずいぶんと荒れているようでした。
積雪の為、東北道の一部が通行止めです。

しかし、この機会を逃すと次はいつになるかわかりません。
もし、降雪著しいようであれば青森まで行かず、手前で妥協して
観光するという判断で見切り発車しました。

宇都宮を午前三時に出発し、仙台を通過する午前6時頃
ヘッドライトを消灯、天候はまだ曇りで、雪の気配なく速度はそのまま
順調に進み、道程半分の古川を過ぎる頃、この先の除雪が完了し通行止め
解除されたとの情報がビーコンに入りました。

午前9時、一関から黒い雪雲が迫り、白いものが舞うようになり
これがいよいよ吹雪となって路面も真っ白になったのは
松尾八幡平を過ぎ、東北道最高地点の竜ヶ森トンネル前後。
フォグランプを点灯させると、ここからは速度を半分以下に落として
ノロノロ進みます。

ところが八戸道は入り、太平洋側へ出るとお日様がこんにちは!
路面も乾いた状態。距離は近くても場所や地形によって
全然違うのですね。驚きました。ふたたび速度を上げると
終点の三沢へ向かい11時に到着しました。ここまで8時間、
休憩無しで一気に走り切りました。

■三沢航空科学館
YS-11とゼロ戦を見学しました。

■六ヶ所村
六ヶ所村には原燃の再処理工場がありますが、併設された資料館を見学できるのです。
14時に到着、30分見学しました。プルサーマルや使用済み核燃料
の廃棄行程を再現した大規模な施設です。もちろん全て模型ですが
実物大に出来ており、工場見学のようなものです。
綺麗な女性がガイドしてくれて、すべて無料です。

■酸ヶ湯温泉
17時までに八甲田山麓にある酸ヶ湯温泉に到着しなければなりません。
六ヶ所~青森は除雪されており、快適に進むことができましたが
八甲田山に向かい標高が上がるにつれて急激に
積雪が増してきます。
ノロノロと走行し、日帰り入浴の
営業時間ギリギリで
酸ヶ湯温泉に到着しました。
ここにはひば千人風呂という体育館くらいの広さに大きな湯船の

混浴があって、木造の内湯はとても風情ある素晴らしい温泉でした。
山奥まで来た甲斐があった!
すっかり暗くなった雪山をノロノロと下り、この日は青森市街に宿泊します。

■八甲田山雪中行軍遭難資料館と第五連隊ゆかりの地
今回の一番の目的であった幸畑の八甲田山雪中行軍遭難資料館をじっくりと見学します。
朝9時からなので、ちょうどその時間に参りました。
自分以外、誰もいない。大きな立体地図があって遭難の経緯を
とてもわかりやすく検証することができました。行軍隊は1、2キロにも満たない地帯
をグルグル一日歩いた末、前日の露営地に戻ってきてしまうなど、冬山の恐ろしさを
実感しました。それから行軍隊が着ていたコートを試着することができます。(背嚢もセットであります)
もちろん着てみました。とても薄くて、ぜんぜんあたたかくない!
行軍隊の苦労を知り、涙が滲みます。

資料館の裏側が雪中行軍隊のお墓です。
しかし墓石は頭まで雪に埋もれており

手前で黙祷するだけでした。
また夏にきちんとした形で慰霊に訪れたい。

県道をこの先、もう数キロ山へ向かって進むと田茂木野村があります。
遺体安置所があったところで、現在はリンゴ園、小さな祠(ほこら)が残っています。

小峠から先は自動車冬季通行止めです。今回は装備が
薄い上、仲間もいないので
無理はしないで、ここで引き返します。
ただし馬立場付近は、迂回して行く
ことができるので、先に見てきました。
また夏に来たいと考えています。

■竜飛岬
竜飛岬へ向かいます。青森の市街地を出る前に、
国道4号線の終点を見てから
青森ベイブリッジを渡りました。
街を出ると津軽海峡線の貨物列車と並走しながら、陸奥湾岸道路を走ります。

外ヶ浜までは平坦で真っ直ぐな道の上雪もなく快適で、
そこから先は岬まで切り立った断崖の上を縫って行きます。
点在する漁村集落を通り過ぎ

竜飛岬は津軽海峡からの強風吹き荒れ、飛ばされそうな勢いでありました。
『津軽海峡冬景色』の石碑があり、赤い釦を押すと同曲が大音量で
流れます。大音量と噂には聞いていたので、少しは構えていたのですが
予想以上に大きな音だったので驚きました。誰もいなかったので思う存分
津軽海峡冬景色を歌いました。風に飛ばされそうになりながら。

北海道を望みます。はるばる自宅から陸路でやってきて今、眼前に
北海道が在る。繋がっていることを実感し感動が込み上げて参ります。

海底トンネル資料館を見学しました。この寒い時期、他に客はいなくて
受付の方が暇そうでした。

青函トンネル工事殉職者の慰霊碑に黙祷。

青函トンネル入り口公園に立ち寄ります。
ここが青函トンネルの入り口。列車はここから海底へ潜り出口は
北海道なのだと想像すると、また感動が込み上げて参ります。

岩木山を見上げながら広大な田園の津軽平野を走り
鰺ヶ沢から日本海へ抜けます。五能線と海岸を並走、
この辺りで名物犬わさおくんが軽トラックの荷台に乗って
走っているところを偶然に目撃しました。千畳敷を通過する頃
日本海に夕日が沈み、強風吹き荒れ春まだ遠い冬の日本海。
誰もいないが、そういった風情が好きです。

■不老不死温泉
黄金崎不老不死温泉へ到着。竜飛で30分間の見学時間を除くと7時間走りっぱなしでした。
ここはシングルのベッドルームがある温泉宿です。
しかし、宿の計らいでアップグレードしてくださり、同じ料金で広い和室に
通してくれました。嬉しいのですが一人では広すぎてなんだか落ち着かない。

ここで楽しみにしていた海沿いの混浴露天風呂に入りました。
吹きさらしで、とても寒いのですが眺めだけは最高です。
ここまで海に近い温泉は全国でも稀かもしれません。
北海道の知床にも似たような温泉がありましたが、それ以来かもしれません。

左手に白神山地の山々、右手に激しい波砕けて真白く泡立つ日本海に挟まれ進みます。
能代から内陸へ、田園地帯を抜け北秋田、大館を経由し十和田ICから帰路東北道へ。

■天童
しかし、そのまままっすぐは帰りません。8時間休憩無しで走り続け
村田JCから山形道へ折れ、天童を目指します。
天童はラフランス(洋ナシ)と将棋で有名な町です。
将棋が好きな方なら、駅前の将棋資料館や街頭の詰将棋、巨大駒のオブジェなど
実に楽しめるところです。とくに将棋資料館の摩訶大大将棋に驚かされたり
駒のひとつひとつ、芸術的書体を眺めていると、本当に美しく飽きず
街頭詰将棋の前に立っていると「それ、わかりますか?」と通りすがりの地元の方に
話しかけられたり、楽しいところでした。天童公園は桜の名所で、これが満開になる頃
甲冑を纏った駒たちを、やぐらの上のプロ棋士が動かし、対局を行う人間将棋が催されます。

公園には巨大な将棋盤とそれを上から見やすいように観覧席が設けてあり
春にまた訪れたいと思いました。

■帰路
16時30分に帰路に着きました。天童から自宅まで残すは260kmです。
ところが福島西-本宮12km2時間の震災復旧による工事渋滞。福島西で一旦高速を降り
一般道を迂回するものの、こちらも大混雑で抜け出すのに2時間半かかりました。
天童から休憩無しで走破し、23時に自宅へ到着しました。

■タダだったので
3月いっぱい東北の高速道路がタダだっていうのでツーリングを
強行しましたが、東北の春はまだ遠く、どこへ行ってもお客さんは少なかったという印象です。
お気に入りの演歌を流しながら冬のみちのくを旅するのも、これはこれであじわいあるものですが
被災地の観光活性化策としては中途半端すぎますし、一般のお客さんは雪道は敬遠するでしょう。
春からタダとはいかなくても割引など適用してくれたら良いと思うのですがどうでしょう。

■総走行距離1785km(内高速1134km一般道651km)
使った燃料188リットル
平均燃費9.4km-最後の渋滞と積雪がなければもっと伸びたはず。
乗車合計時間35時間半(一日あたり11時間半)

宇都宮 - 三沢 - 六ヶ所 - 酸ヶ湯温泉 - 青森
0300 1130 1400 1700 1900
1230 1430 1730

青森 - 八甲田 - 竜飛岬 - 不老不死温泉
0830 0900 1300 1830
1100 1330

不老不死温泉 - 白神山地 - 大館 - 十和田IC - 仙台 - 天童 - 福島西 - 本宮 - 宇都宮
0700 - - 1030 1300 1500 1830 2100 2300
- - 1630 - -

 

三日間で東北六県を走破しました。
総距離は1785kmです。(内高速1134km一般道651km)
使った燃料は188リットルで平均燃費9.4kmでした。
乗車時間は35時間で一日あたり11.6時間運転したことになります。
三沢~六ヶ所村~青森~八甲田~竜飛岬~白神山地~十和田~仙台~天童~福島の経路でした。

概要は以下の通りです。

■八甲田山
雪中行軍遭難資料館(幸畑陸軍墓地)見学・慰霊
その他、第五連隊ゆかりの地を訪れる。

■三沢航空科学館
特別展示のゼロ戦とYS-11の見学

■六ヶ所村
原燃PRセンター見学

■竜飛崎 (青森)
海底トンネル資料館見学
海底トンネル入口公園に立ち寄る

石碑の前で『津軽海峡冬景色』を唱歌。

対岸の北海道を見る。
(見るだけ)

■不老不死温泉、酸ヶ湯温泉に立ち寄る。
(いずれも混浴)

■天童将棋資料館の見学(山形)
天童の街探索、街頭の詰将棋を楽しむ。

写真は八甲田山麓にて。

2013年10月 5日 (土)

呉軍港と戦艦大和の街

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歴史の見える丘
呉海軍工廠の戦艦大和を建造したドックが現在でも残っている。
「大和のふるさと」と記された工場が大和を建造したドック跡で
戦後、埋めたてられたものの、現在も工場として利用されている。
  
西側一帯の工場群は日新製鋼呉製鉄所で、
当時は呉海軍工廠製鋼部であった。
 
※旧呉海軍工廠は戦後、石川島播磨重工業(IHI)呉工場となった後
現在はジャパン マリンユナイテッドが所有している。

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日本一、潜水艦を近くで見られる公園
「アレイからすこじま」は日本一潜水艦を近くで見られる公園。

道路を挟んだ反対側は当時からのレンガ造りの倉庫が並ぶ。
 
呉鎮守府
毎週土曜、日曜は護衛艦の一般公開を実施するほか

呉鎮守府(現、海上自衛隊呉地方総監部庁舎)の建物見学もできる。
 

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呉の街は今も昔も海軍さんの街だ。
佐世保や横須賀など、海軍さんの街を一通り見てきて
感じることだが、ここ呉が一番好きだ。
 
海沿いを散歩すれば潮風が心地よく、景観も
歴史的建造物が数多く、ちょっとした時間旅行
をしているようで楽しい。
 
呉軍港から引き継ぐ、大和も入渠した大ドックは
健在であり、空にそびえる大迫力のクレーンや工場群が
異世界のようであり、潜水艦がすぐ目の前に浮かんでいる。
 
ここ呉の特徴は、それらが市民生活と隣り合わせで
密着している点にある。
買い物帰りのおばちゃんが両手に
買い物袋をさげて歩いているし、
子供だって無邪気に遊んで
いるし、学校帰りの女子高生に、
ちゃんとヤンキー兄ちゃんだっている。
 
坂道が多く、迷うこともあるけど、丘の上から見える海は
とっても気分がいいし、
道は綺麗に整備されているので
窮屈に感じることはない。

 
とにかく、呉は街全体の雰囲気が明るく、居心地が良いのである。
何度訪れても飽きない。


 
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大和ミュージアムのガイドはパーフェクト

てつのくじら館が凄い

呉海軍墓地

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そのほか関連記事
 
戦艦武蔵ドックへ(三菱重工長崎造船所)
 

佐世保海軍工廠(佐世保重工業)


柱島と戦艦陸奥

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連合艦隊柱島泊地
ここは瀬戸内海。中央に見えるのが柱島(はしらじま)です。

連合艦隊の泊地があったところです。
 
波も静かで、民家も少なく、東に呉軍港、西に徳山の大燃料庫を備え
大艦艇の停泊に最も適していたことから 
長門とはじめとした連合艦隊の歴代旗艦が投錨し、作戦の立案から
前線部隊の指揮を行いました。
 
山本五十六は、ここ柱島に停泊中の長門艦上で真珠湾攻撃成功の
電文を受け取ったとされています。
 
あの戦艦大和も武蔵もここに投錨していたのです。
そして、ここから最後の出撃をし、二度と帰ってきませんでした。
 
※柱島自体には軍事施設はありません。島の沖合に
「旗艦ブイ」と呼ばれる艦を係留するためのブイがあり
呉への直通電話線が通じていました。
 
この写真は山口県周防大島から撮影したものです。
周防大島は柳井市と橋で繋がっており、自動車でも往来が容易です。
その周防大島の先端へ走るにつれて、柱島が見えてきます。
 
島は東西に長く、橋から先端までは自動車でも1時間かかりますが
とても景色の素晴らしいところで、穏やかな時間が流れています。
※頻繁にネズミ取りやってます!スピードは控えめに! 
 

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▲島へ渡る大島大橋
 
島の東端にあるのが「陸奥記念館」です。
 

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戦艦「陸奥」謎の爆沈
戦艦「陸奥」は昭和18年6月8日、正午すぎ

柱島の南、約2kmの海上に停泊中、原因不明の大爆発を
起こし、一瞬にして沈没。
 
この当時、陸奥の乗員は、1321名それに加え
艦務実習のため乗り合わせていた予科練習生と教官153名
合計1474名が在艦でした。
 
戦友、遺族による「陸奥会」の調査によればこの内、
生存者はわずかに100名(負傷者39名含む)で
(さらに、戦後まで生き残った陸奥の乗員は60名)
三好輝彦大佐(海兵43期)を含むほとんどの乗員が殉職したと
伝えられています。
 

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▲引き揚げられた陸奥の副砲、艦首、スクリューが展示されています
 

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▲慰霊碑の向こうに浮かぶ柱島と陸奥の眠る海
 
陸奥の眠る海
柱島の南側に連なる島は、手前から福良島、長島、続島の三島で

続島には焼き場が設けられ、連日漂着する遺体を収容、荼毘に付されました。
重油で海は黒く染まり、沈没から一年以上経過しても
岩に染みついた色は落ちず、辺りの漁場は壊滅し海草も貝も
全て死んでしまったのです。
 
長らく秘匿された沈没の事実
陸奥は国民に広く親しまれた戦艦で、その存在は日本の国そのものでした。

その陸奥が、戦わずして内地の海で原因不明の爆沈をしたことが、万が一
知れ渡れば、国民の失望と混乱を招くことは必至であり、海軍の名誉をも
大きく失墜させるので、海軍はこの事件の秘匿に徹底しました。
 
乗員の家族からは
「何度手紙を出しても返事が返ってこないのでおかしい」
といった問い合わせが相次ぎましたが、海軍の担当者は
胸が痛くなるのを覚えながらも、それらを全て黙殺し
手紙のすべてを焼却していたのです。 
 
「戦死であれば広報が来るはずだが、それもなく行方が一向にわからない」
そんな疑問を拭いきれない、ある予科練習生の父親は
「息子に何か事故でもあったのか」と、直接霞ヶ浦の航空隊を
訪ねたものの、「そんなことはない」と聞かされ家に帰ったのでした。
その嘘は、艦長の三好大佐の家族にさえも例外ではありませんでした。
 
「陸奥は健在である」 
 
そう振舞い続ける海軍でしたが、国民を
騙し続けることは既に苦しく、遺族にようやく知らされることと
なったのですが、それは事故から9ヶ月後の昭和19年3月で、広報には
「作戦中、西方海上に於いて殉職せり」と簡単に記されたに過ぎませんでした。
 

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沈没の原因

陸奥爆沈の謎は、現在でも完全に解明されていませんが
三式弾の自然発火説、爆雷誤爆、スパイ工作による説、あるいは
潜水艦の魚雷による攻撃など様々な原因が考えられたのですが
おおむね否定されてきました。

 
ある人物による放火説
乗員のいじめによる自殺、現在でも可能性が高いと考えられているのが、

特定の人物による放火説で、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、
容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから
この人物が火薬庫に侵入し、放火した可能性があり、
生き残ったある元乗員は

 
「爆沈した時、彼がやったのだと、直感しましたよ」

と述べているほか、別の乗員は

「間違いなく彼が放火ものだと確信していますが、この頃、彼が
生きているんじゃないかと思うようになってきましたよ」
 
とも証言しており、事実、容疑者である二等兵曹の船室をダイバーが
捜索したのですが、彼ひとりだけ、遺体が発見されることはなかったのです。
 
その二等兵曹は、公には戦死と発表されましたが、実際の安否は
現在も謎のままです。
 

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重油で黒く染まった海も今ではすっかり元の姿を取り戻しました。
そればかりでなく、海底40メートルに沈む陸奥が魚の隠れ家となり
以前より増して魚がよく獲れるようになったといいます。
 

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▲陸奥記念館屋外展示のPS-1飛行艇
 
陸奥記念館には引き揚げられた部品の一部や乗員の遺品、絶筆
資料などが多く展示されています。

海が美しく、とても静かなところです。
 
「陸奥記念館」アクセス
山口県大島郡周防大島町伊保田2111−3
なぎさパーク、なぎさ水族館併設
一般420円 小中学校210円
9:00~16:30開館、無休
館内撮影禁止
 

2013年10月 4日 (金)

回天基地(大津島)

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山口県周南市(旧徳山市)大津島の戦跡
人間魚雷「回天」基地を訪れた。
 
徳山港よりフェリー「新大津島」で40分、高速船「鼓海Ⅱ」で20分。
(画像はフェリー)どちらも料金は変わらず、およそ2時間おきに
交互に出ている。瀬戸内海の島々へ渡る航路は他にも多くあり、ここ
徳山港が拠点。新幹線の徳山駅からも歩いてすぐで、アクセスは良い。
車で行く場合は、朝一番の便か午前中の便であれば、波止場となりの
無料駐車場が空いている可能性が高い。満車の場合は離れた
有料駐車場を利用する。
 
波止場の券売機で「馬島行き」を求める。
大津島はもともとふたつの島が数百年前に繋がった
細長い島で、フェリーは「馬島」と「刈尾」、二ヵ所の波止場を巡るが
どちらも同じ大津島の波止場である。
 

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徳山の大プラント群を見ながら進む。
この辺りは屈指の工場夜景スポットで、地元のツアー会社が
工場夜景クルーズや、普段は立ち入ることのできない
工場内の夜間見学ツアーなどのプランを実施している。

なお、徳山は連合艦隊の燃料補給基地であり
東は柱島泊地と、呉軍港である。
 
フェリーに乗っているのは釣り人が数人。穏やかな瀬戸内海を進み
大津島馬島港へ到着。波止場には「回天の島」という大きな看板と慰霊碑。
回天発射基地跡と回天記念館は、波止場から歩いて5分ほど。
 

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遠くに回天発射基地が見えてきた。
 

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途中、断崖があるので、トンネルを抜けて発射基地へ向かう。
このトンネルは当時つくられたもので
回天はトロッコでこのトンネルを通り、発射基地へと運ばれた。
また、回天搭乗員もこのトンネルを通り訓練、また出撃した。
 
見学客は自分だけ。
釣竿を背負ったおじさんが何の歌かわからないけど鼻歌を歌いながら
トンネルのずっと先のほうを歩いて行くのがわかった。
 
これは空襲を監視するための横穴。

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長いトンネルを抜けて、回天発射基地へ到着。
 
同じように、回天搭乗員は、このトンネルをくぐったのか
と思うと、こんなに悲しいことは無い。
 
※注(発射訓練はここで行われたが、実際の出撃は沖合に停泊する母艦(潜水艦)
に一旦乗り込み、出撃。目的の戦域で切り離されて発進する)
 

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なんと、透き通った綺麗な海だろうか。
回天を海面へ降ろすためのクレーンの跡が残っている。
(白いフェンスの支柱のあたり、タコ足のような形をした部分)
 
大津島は通常魚雷の発射場として昭和14年に建設されたが
昭和19年9月から、人間魚雷「回天」の搭乗訓練および出撃基地となった。
 

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この縦穴から回天艇に乗り込む。
 
飛行機の特攻隊なら、機体トラブルで、あるいは
自分の意志で帰ってくることも可能であろう。
しかし、回天艇は一度、出て行けば、何があろうと
脱出は不可能で、二度と帰ってくることはできない。
 

次に

回天記念館へ向かう。
小中学校の敷地は回天搭乗員の宿舎などがあった。
現在も当時の壁や点火調整室などの建物が残る。
 

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回天記念館を見学する。記念館への道の両側には桜の木、そして
両側の石板には戦没者のお名前と出身地が刻まれている。
 

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館内は回天の資料と
回天搭乗員の遺影、遺書が展示されている。
 
見学者は他におらず、受付の年配男性が、たったひとりのために
入場切符を売ってくれて、中に入った。
 

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回天の内部セット。映画『出口のない海』で使われたもの
以前、この内部に入らせてもらったことがあるが(現在は見るだけ)
とても表現しきれない、閉塞感と絶望感があった。
 
外は潜望鏡で僅かに見えるだけ。
 
搭乗員はこれから突入すべき敵艦の予想進路と
速度を計算し、進む。仮に失敗しても
脱出はできず、再度計算し直し、突入しなければならない。
飛行機と違って、何があっても生きては帰れない。
絶対に命はないのである。 
 

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帰りのフェリーの時間を計算して波止場へ戻る時間となった。
 
記念館を出て、回天坂を下る。見学客は誰もいないのだけど、回転坂の
桜の落ち葉は綺麗に掃かれていて、ほうきをもった年配の女性が
「ありがとうございました」と言ってくれた。
 

三菱重工長崎造船所 (戦艦武蔵ドック)

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戦艦「武蔵」を建造したドックが現在でも残っている。
一号艦(大和)は呉海軍工廠で建造されたが
同型の二号艦(武蔵)は民間会社である三菱がここ長崎で建造した。
  
「今の話はだれにも言わないでおくれよ
おれが話したなんてことがわかるとまずいから」
 
そう言った老人の眼はおびえていた。
もう戦争は遠くの昔に終わっているというのに。
長崎の街はすり鉢の底のような形をしている。 四方を山々に囲まれ
海を見下ろせるところに、三菱重工長崎造船所がある。
 
第二号艦(戦艦武蔵)は秘匿に徹して建造が進められた。
 
建造中の目隠しとして、棕櫚(しゅろ:漁で使う縄)をドッグ上部より
スダレのようにたれ下げたが、それでも造船所を見下ろしたり建造中の
船について話題にあげたりした者はスパイの 疑いをかけられ、憲兵隊に
捕まり執拗な尋問を受けた。 いつしか、その存在は「お化け」と
噂されるようになった。
 
軍が買い占めた棕櫚の量は膨大であり、市場から棕櫚が消えた。
それもまた「お化け」の噂の一端となる。
 
長崎の住民は皆おびえていた。 史上異様と言える、その建造過程で
心血を注いだ三菱の技術者と工員、そして何も知らない、否、 決して
存在を口にしてはならなかった「お化け」の噂。
 
戦艦武蔵誕生の歴史がここにある。
 

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「女神橋」より望む長崎の街 

帝国海軍針尾送信所

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「ニイタカヤマノボレ」発信の塔
佐世保市の市街地を離れ、長崎へ向かって国道を南へ走ると
突然、大きな三本の塔が見えてくる。不気味とも神秘的ともとれる
とにかく、突然異世界に迷い込んだような印象の、この三本の塔は
およそ90年前に建設された「海軍針尾送信所」の跡である。

  
世界の歴史が動いた、真珠湾攻撃の日
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が、ここから発信されたと伝わる。
  
通信塔は、大正11年(1922)、旧海軍によって建設されたもので
塔の高さは136メートル、塔のまわりが38メートル、
間隔は300メートルあり上空から見ると正三角形に並んでいる。
写真では伝わりにくいが、突然、この塔が目の前に現れると驚く。
 

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国道202号線沿いの西海橋公園から望む通信塔。
無料駐車場、展望台あり。橋は通行無料。 
 
住所:長崎県佐世保市針尾東町
西海橋公園

佐世保海軍工廠

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旧佐世保海軍工廠
現在は佐世保船舶工業(SSK)改め佐世保重工業のドックで
大型タンカーなどの建造、海上自衛隊艦艇の建造、保守
アメリカ海軍の艦艇の保守を行っています。
 
「伊四〇二」、航空母艦「伊吹」誕生の佐世保海軍工廠
佐世保海軍工廠は、多くの駆逐艦、巡洋艦誕生の地であり、
「赤城」「加賀」の近代化改装もここ佐世保で行われました。
 
そのほか、大戦末期には晴嵐を搭載した潜水空母とも呼ばれる
伊四〇〇型潜水艦の「伊-四〇二」を建造、
航空母艦「伊吹」「大鷹」「笠置」の艤装もここ佐世保で行われました。
 
工廠内に残る赤レンガ
SSKの敷地からアメリカ海軍佐世保基地の敷地にかけて
当時の赤レンガの素敵な建物が残っています。道路から良く見えます。
 
私はアメリカさんの基地内にカメラを向けすぎてスパイと
疑われるのは面倒なので、撮影しませんでした。すみません。
 

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佐世保の護衛艦。
佐世保みなとIC入口近くに観光用駐車場があり
そこへ車をとめて、この海岸付近を散策できます。
画面左奥がSSKドック。

 

佐世保鎮守府

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旧海軍佐世保鎮守府
現在の海上自衛隊佐世保地方総監部です。
 
唯一、面影を残すものといえば門の前に立つ
佐世保鎮守府開庁当事に
植えられたという楠の木(くすのき)です。

セイルタワー(海上自衛隊佐世保史料館)

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海上自衛隊佐世保史料館(通称セイルタワー)です。
七階建てで、全てが展示フロアー。最初に
七階までエレベーターで上がって下りながら見学します。
 
航空機や艦船など、模型が多数
大ジオラマが魅力

ペリー来航から、日本海海戦、太平洋戦争まで
模型やジオラマなど、ビジュアルを重視したわかりやすい展示が魅力です。
展示品が多く、じっくり見学しようと思えば時間がかかる施設なのですが
これといった目玉はありません。
  

そのかわり航空機や艦船の模型が多用されており、例えば
東郷艦隊がまるごと、ジオラマになっていたり、海軍の名機が
飛行編隊を組んでいる様子など、大型のジオラマで再現されているので、
模型や艦船、飛行機などが好きな人は嬉しいかもしれません。

 
七階展望室からの展望
 
七階からの展望は、佐世保の街と、停泊中の海上自衛隊、
またアメリカ海軍の艦艇を一望できます。
 
セイルタワー(海上自衛隊佐世保史料館)アクセス
長崎県佐世保市上町114-2
開館は9:30~17:00(入館は16:30まで)
入館無料
毎月第3木曜日・12月28日~1月4日休館
無料駐車場あり
団体で訪れた場合はガイドが案内します。
 
一階に小さな土産物店あり