2013年5月27日 (月)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式

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本日、高円宮妃殿下ご臨席のもと、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において
拝礼式が行われ、私も参列致しました。

普段は閉じられている納骨堂が開かれ、硫黄島をはじめ、樺太、マ

ーシャル諸島、

モンゴル、ミャンマー、パラオ、東部ニューギニア、ビスマーク、ソロモン諸島、
マリアナ諸島、旧ソ連地域から帰還した無名戦士のご遺骨が納められました。

安部晋三首相をはじめ各閣僚、カザフスタン、モンゴル、インドネシア、パラオ、
パプアニューギニア、フィリピン、ロシア、アメリカの各国大使が献花を行いました。
政党では自民、民主、維新の会、みんな、社民、生活、みどりの風、新党改革の
それぞれ代表者が献花しました。※共産党は欠席。


2013年5月23日 (木)

原爆投下は「天罰」 韓国紙が表明

原爆投下は「天罰」だそうだ。韓国紙が表明した。

絶対に間違っている。神がそんなひどいことするか!神が
何の罪もない無抵抗な善良な市民を長崎広島合わせて三十八万人も

殺すか!
無知な韓国紙記者よ、原爆を落としたのは人間だ。それを「戦争」

と呼ぶ。
日本人は何故、抗議しないんだ?何故ニュースにならないんだ?

なにが世界平和だ!なにが博愛だ!日本人は
どいつもこいつもどうして穏やかでいられるんだ?
僕は人間だから、こんなこと言われたら怒りの感情を抑えられない

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130522/kor13052222170008-n1.htm

2013年5月19日 (日)

95歳のおばあちゃんと鬼怒岬

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戦史の調査で知り合った
95歳のおばあちゃんの話をします。

彼女の夫は陸軍少尉でアンガウル玉砕戦で戦死しました。
20代で未亡人となった彼女は、再婚す

ることもなく
この年まで畑仕事一筋で子供を育て、生きてきました。

最近は「早く夫が迎えに来ないかな」
といった言葉が絶えず、私も
なんと言葉をかけて良いのかわからずに、過ごしていました。

将校さんでしたのでお家からは機密書類が多く出てきました。
「自分が持っているより多くの方の役に立てれば」との申し出で
私は、それらを防衛省に寄贈する手続きを取りました。

先日、ようやく防衛省での受領が完了し
彼女のもとに感謝状が届きました。

写真は少尉が亡くなったと推測される砂浜です。戦争当時は
陸上にあったトーチカ(コンクリートの防御陣地のこと)も
長年の波の影響で、砂浜へ徐々に押し出されています。

遺骨は帰ってきていません。

私が撮ってきたこんな写真ですが、おばあちゃんは
夫の化身のように大切にしてくださっています。

とても悲しいけれど、深い愛の絆があるのだなと
感じました。
 

 
追記
この出会いから2年後の
2014年夏、おばあちゃんは亡くなりました。

2013年5月 2日 (木)

硫黄島遺骨収集記/19歳大学生の回想

硫黄島
 
先日の硫黄島派遣で19歳の大学生と一緒になりました。
彼が記した硫黄島訪問の回想記に心打たれたので、本人の許可をもらい
ここに掲載させてもらいました。
 
純粋の一言に尽きます。硫黄島から戻り、すぐに記したこともあり
一切の飾り気を排して、素直な気持ちが表れており
さらに付け加えるならば、彼ら戦争を知らない世代はもちろんのこと
各々世代に対し、反戦の大切さ、それは単純なものでない故、
議論の余地を与えてくれている、素晴らしいメッセージだと感じました。
紹介します。次の通りです。 
 
 
『 硫黄島遺骨収集記 19歳大学生の回想 』
 
 
昨日、正確にいえば一昨日は硫黄島で日米合同の追悼式がありましたね。
丁度一ヶ月程前。 2月5〜14日に硫黄島遺骨帰還事業に参加させていただきました
そんな折、遺族の方々が合同追悼式について、なんで親を殺した奴らと笑って
追悼式しなきゃいけないんだって言っていたことを思い出しました。
何年たっても人の気持ちは難しいですよね。 向こうも必死でこっちも必死で生きるために
はたまた愛する家族を守るために殺し合ってたんですよね... 俺には難しいです。
今の平和ボケでは考えられない。

硫黄島には戦争で亡くなられた英霊たちがまだまだたくさんのいらっしゃいます。
彼らは望まずしてこの地に連れてこられ、辛いおもいをし、家族や愛する人に
会いたいという気持ちを胸に亡くなられた。 硫黄島では、今回の隊では壕の中を堀り
そんな英霊たちのご遺骨を探しだして、本土に帰還させるという作業をしました。
壕の中は風の通らないような場所では灼熱で60度以上にもなるところがあったり、
縄梯子で降りないといけない場所があったり、すごい劣悪な環境。こんな中で
少ない水で硬い地盤を堀り壕を作っていたのかと想像すると、考えられないほど
辛かったんだろうと、硫黄島では戦の前に亡くなられた方々が多かったといいますからね。
硫黄島には限られないのですが。

そんな中で作業して、何柱かご遺骨を見つけて持ち帰ることができて、本当によかったです。

今回の隊は特別な隊で、この一年で探し出したご遺骨を本土に持ち帰り、千鳥ヶ淵にて
引き渡し式を行うという役割も含まれていました。 ご遺骨を抱えて輸送機に乗り
入間基地に戻り、そこからバスで移動。 基地の中ではバスの通り道にご遺骨に向けて敬礼する
列ができていました。それを見た時のえもいわれぬ身体のかっーと熱くなる感覚、涙も溢れだして。
その時、彼らの死は無駄ではなかったんだと、意味があったのだと、確信しました。
彼らが死を望んだわけでもありませんが 、いま私たちが平和に暮らしているのは
直接的ではないかもしれないけど彼らのおかげなんだと、自分のたちは彼らの屍の上を
歩いているのだと。 しっかり一歩一歩踏みしめて歩かなければいけないなと。感じました。

遺骨の引き渡し式では、自分も殆どの学生は号泣。
現地の追悼式でははずかしながらないていたのは私くらいでしたが

この時に、戦争を知らない自分達の世代でもこんな気持ちになるんだなって、
戦争は絶対してはならないと言うことを受け継いでいかねばとつよく、つよく感じました。
戦時中硫黄島は米国にとって国民を戦争に向かわせるためのプロパガンダとして利用されました。
これからは硫黄島は反戦へのプロパガンダになって欲しい。して行きたい。

遺族の方々には自分達みたいな学生がきて俺は頑張ったつもりだけれど、煙たがれたかもしれません。
戦争で親族をなくしたわけではない自分達ですからね。
でも英霊のために働けて本当によかった。 考え方がまたかわる10日間でした。

硫黄島に行かせてくださってありがとうございました!

いまでも各地でご遺骨の帰還事業が行われていることを
みなさんにも周知しておいていただきたいです。

最後に、自分は相変わらずダメダメでした。 そんな自分にもよくしてくださって、
硫黄島では楽しくもすごさせていただきました。 いい人ばかりで、、、

硫黄島で出会えたみなさんに本当に感謝してます。

またどこかでお会いしたいです!

本当にありがとうございました! あ、つたない文書ですみませんでした!

2013年4月16日 (火)

茨城県護国神社参拝

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本日は水戸市の茨城県護国神社へ参拝しました。
本殿では、慰霊祭が行われ「同期の桜」が演奏されていました。
 
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東日本大震災のさい、この大鳥居は倒壊せず健在でしたが
石の接合部に隙間が出来てしまいました。
土台も大きな亀裂が入りました。
 
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こちらはペリリュー島の慰霊碑です。
左右の石灯籠が倒壊し、転がりました。石段の一段目にその跡があります。
周囲の柱と柵も破壊されたため、応急的に物干し竿で補修しました。
 
 
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そのほかの慰霊碑なども大きなダメージを受けました。
よく見ると多くの修復跡に気付きます。

2013年4月 5日 (金)

大和ミュージアム

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呉市の大和ミュージアムへ行ってきました。
ここを訪れるのはかねてからの願いでした。
 
Imgp1117戦艦大和は呉のみなさんの誇りのようです。
ボランティアガイドの解説が素晴らしい!
私の場合は年配女性だったのですが
とにかく分かりやすく、しかも正確で
感銘を受けました。
「太平洋戦争、日本では大東亜戦争と言って
おりましたけれども」・・・と
先の大戦についての呼び方、これは難問で
ありますが、サラリと紹介してしまう。
これではどちらも文句のつけようがない!
 
 
 
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その言い回しに感服致しました。
さらに、展示品を細かく紹介して回るのですが
初心者にはわかりやすく、オタクでも
満足な内容でした。
そして、最後にこう仰ってガイドをしめくくったのです。
「大和沈めど、培ったその技術は沈まず
今日も健在なり」
 
 
 
 
 
そう。戦艦大和は確かに登場した頃には
時代にそぐわない兵器と化していました。
 
しかし、建造時術で培った技術は確実に今日に生きているのです。
私は嬉しくなりました。
 
■大和ミュージアムとはどういうところか 
決して、戦争を美化や正当化するところではありません。
けれど、自虐的でもない。戦艦大和の純粋なテクノノジー面の解説、そして
当時の時代背景を、戦艦大和を通じて中立公正な展示がなされています。
 
 
このミュージアムは「戦艦大和」の建造、すなわち戦艦大和こそ
我々日本人の血と汗と涙と、技術と、国民の底力の結集の象徴であり
我々日本人は、これだけの仕事を成し上げることが出来るのだ、と
教えてくれるところです。
 
 
大和の技術は今日も確たるものであり堂々と健在であった。
同じ日本人だ。先輩方が70年前にこれだけの仕事ができたなら
きっと若い僕たちも世界に誇れる、何かができる!
 
 
素晴らしいミュージアムでした。
 
 
 
■追記-大和を建造したドックが現在も残っています
 
大和を建造したドックが残っています。ミュージアムから見えます。
これもボランティアガイドさんが教えてくれました。
現在でも超大型船のドックです。どこだかわかりますか?
 
 
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ズームアップしてみましょう。「大和のふるさと」と銘板がありますね。
ここが大和を建造したドックです。 
 
 
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ここには珍しい零戦六二型が展示してあります。ガイドさんの説明によると
広島へ原爆投下の時、琵琶湖上空を飛んでいた機体だそうです。
 
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■戦艦長門の軍艦旗
 
ここには戦艦長門の軍艦旗が展示されています。
これには逸話があって、
「開運!なんでも鑑定団」という番組にこの旗が出品登場し
本物と判定され1000万円の値段がつきました。
 
これを見ていた出演者の石坂浩二がポケットマネーでその場で購入。
価値あるものを多くの方々にご覧頂きたいというご意向で
直後、大和ミュージアムへ寄付されました。なんという素敵なお金の使い方でしょう。
 
戦艦長門は大和が登場するまで連合艦隊の旗艦を務めたことでも有名です。
終戦まで健在でしたが、戦後米軍に接収され、ビキニ環礁での核実験の標的艦と
なりました。ビキニ環礁の核実験では数ある艦船の中でも最後まで耐えぬいて
他の艦船が轟沈するなか、二度目の爆発でようやく傾いた程度だったと記録に残っています。
その後、誰に見送られることもなく、三日後くらいにゆっくりと海面へと消えていったのでした。
 
ビキニという水着がありますが、あれは、そのビキニ核実験が命名の由来です。
核実験の爆発的魅力と大胆さから、その水着を連想させるといった理由で
デザイナーが考案し命名したと伝えられています。少々横道に逸れましたが
 
そんな貴重な戦艦長門の軍艦旗。
米軍に奪われる前に取っておいたんでしょうね。
 
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てつのくじら館が凄い

海上自衛隊呉史料館 / てつのくじら館が凄い!

広島県呉市、戦時中は連合艦隊の母港で
海軍の街として有名です。
JR呉駅を降りてすぐ、海上自衛隊系テーマパーク
「てつのくじら館」があります。海上自衛隊を退役した本物の潜水艦を
陸揚げし、展示しているのです。しかも入場は老若男女ともに無料!
潜水艦とはどんなものなのか?
潜水艦に興味がある方も、そうでない方も、一見の価値ありです!
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どーーーーん!!
さて、入口はどこだ?
この海上自衛隊の潜水艦「あきしお」は昭和58年に竣工、同60年に進水
昭和61年より就役。大海原へ潜航を開始しました。
 
平成16年に役割をまっとうし、退役。
クレーンで引き上げられ、呉駅前に展示される運びとなりました。
 
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やっと見つけた。ここが入口。潜水艦の横に
資料館建屋が併設されており、まずここから
見学するようです。
なんと、老若男女、入場は無料だ!
あ、さっきも言ったか。休日ともあって
ご年配から和やかな雰囲気の家族連れまで
大勢がお越しでした。
 
 
 
 
 
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入るや否や、いきなりどーーーん!
これは「機雷」です。
もちろん本物。
海にプカプカ浮かべて、敵の船や潜水艦に
触れると爆発するワナのような兵器です。
海上での地雷と考えてください。 
 
 
 
 
 
 
 
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機雷は戦争中、日米ともに用いたものですが
戦争が終わってもたくさん残っていたので
これを処理する作業が、現在でも続いています。
この海の危険を排除して綺麗にする作業を
「掃海」と言います。
日本海軍が自分で敷設した機雷はまだ構造が
わかっているし、単純なのでマシだったのですが
米軍が飛行機から投下した機雷が兎角多く
掃海は危険と困難を極めました。
 
 
 
 
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掃海はすべて日本の仕事でした。
我々の日本人が一生懸命、機雷を取り除いている
最中(当然、殉職者も大勢出ています)
アメリカは何をやっていたかと言うと
朝鮮半島で戦争をしていました。
「朝鮮戦争」です。
アメリカは昭和20年に日本を降伏させた直後
休む間もなく、朝鮮半島で共産勢力と対峙。 
 
 
 
 
 
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今度は占領した日本からB-29を飛ばし
朝鮮半島の各地を爆撃したのです。
この戦争は泥沼化し、総指揮官の
マッカーサーが次のような立案をしました。
「勝つためには20個の原爆投下が必要だ」
この強行姿勢を辞さなかったため
大統領から司令官を更迭されました。
結局、アメリカは共産勢力を押し返すことができず
朝鮮半島は分断され、北朝鮮と韓国にわかれて
しまったのです。
 
 
 
 
話しが少し逸れましたが、その間に、日本は一生懸命「掃海」に従事していました。
こちらを見学すると、そういった苦労が理解できます。自衛隊OBの方がガイドしてくれます。
 
いよいよ潜水艦の資料へ参ります。
 
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資料館を見学して、最も感じたことは
「狭い」「恐怖の閉塞感」です。
 
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こちらは寝台と洗面所。
潜水艦は一度航海に出ると
数か月この空間で過ごします。
海上自衛隊員の中でもとくに
忍耐と精神力が求められる任務です。
潜水艦乗りはエリートです。
 
 
 
 
 
 
 
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潜望鏡です。
自由に触ってよろしい。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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食事です。三食のほかに中間食というものが
あります。実質一日四食となります。
潜水艦の厨房は当然狭く、料理も限られている
し、簡単なものと思い込んでいたのですが
意外にも華麗なるメニューです。
でも少し考えれば、ずっと海の底でのお仕事。
食事は何よりの楽しみですからこれくらいは
当然ですよね。 
 
 
 
 
 
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資料館を一通り見学したので、
いよいよ潜水艦の中へ入って参りましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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せ、狭い。すれ違いにも一苦労だ。
こちらが三段寝台。
なぜ照明の色が違うのか?それは昼夜の区別をつけるためであります。
潜水艦は昼夜の感覚が鈍くなってしまうので、時間帯によって艦内の照明の
色を変えているのです。
白が昼間で、赤が夜間です。  
 
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椅子が一脚と寝台だけのある狭い部屋が艦長室です。 
艦長室は艦橋同様の計器類が揃っており、就寝中の
緊急事態に対応できるようになっております。  
 
 
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艦橋の操舵席。なんと!椅子に座って操艦できます!
舵が動きます。自衛隊OBのガイドの方が「取り舵いっぱい」とか「急速潜航」とか
指示してくれます。大人でもOKですよ。せっかく来たんですから恥ずかしがらずに
潜水艦を動かしてみましょう。
 
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潜望鏡も自由に触ってよろしい!
 
グルグル回しながら実際に外が見えます。 
 
 
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同じ場所です。夜間照明。
昼間だったり夜間だったり、ガイドの方が頻繁に変えてくれます。  
 
 
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以上で潜水艦探索おわり!潜水艦勤務は
本当に過酷なものだと実感がわきました。
 
海上自衛隊の潜水艦乗りの方々、日本の海を守ってくださり
ありがとうございます!
 
外に出て、青空と太陽がこんなにも気持ち良いものだったとは。

「君を忘れない」三沢航空科学館の零戦

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青森県の三沢航空科学館に展示の零戦(レプリカ)です。
映画『君を忘れない』の撮影に使われたものです。
 
映画をご覧になった方も多いと思います。
キャッチコピーは
『ヒコーキに乗れて、女の子にモテる。そんな青春のはずでした』
特攻隊に選ばれた若者の出撃までの様子を描いた作品で、零戦パイロットの役は
唐沢寿明、木村拓哉、反町隆史、松村邦洋、袴田吉彦、池内万作などが出演。
今では一流の俳優ですが、まだ世に出る前であり、ファンにとっては実に貴重な作品です。
 
キムタクは長髪だし、松村は太っているという、時代背景をきちんと
描こうとすれば、まず有り得ない設定です。キムタクは劇中で
海軍に入ってヒコーキに乗る動機が「髪を伸ばせて女にモテるから」と堂々
のたまうし、明るくコミカルで戦争映画としては実にくだけています。
 
若者に戦争映画を気軽に受け入れてもらいたくて作ったんでしょうけど、
それらを加味しても、くだけすぎている印象が払拭できません。
それでもこの映画で特攻隊に関心を持ってもらえるなら、何も知らないよりマシかなぁ・・・と
考えてしまいます。この映画に関心を持った若者は、これにとどまらず
さらに掘り進めて欲しいと願っています。
 
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Imgp0495■長髪はOKだったのか?
実際のところ、本当に海軍では長髪は許されて
いたのでしょうか?単純なアンサーならば
YESです。
海軍には陸軍のように頭を丸刈りにしろなどと
いう規則はありません。ただし、士官以上(少尉
以上)に限られていました。これは多少ローカル
ルールがあったようで士官と言っても、大尉以上
でないとダメだとか言われた部隊もあったようです。
 
特攻第一号で有名な関行男大尉は長髪で有名ですね。
 
 
しかし、現在の基準とは違うことを忘れてはなりません。当時は、軽く耳に髪がかかる
くらいで長髪と呼ばれました。だからキムタクはいくらなんでも極端です。
 
 
ところで、長髪といえば山本五十六の有名な逸話があります。
あるとき、山本五十六が新聞記者の質問に答えていたときの発言です。
「わしは面倒で五分刈りにしているが、パーマネントだっていいじゃないか。
坊主にしたってだらしないやつはだらしないよ。要するに坊主だろうとパーマネントだろうと
どちらでもいいじゃいか。とくに搭乗員は髪があったほうが怪我もしないからね」
メモを取っていた記者は驚きました。当時の風潮としてはあり得ない発言だったのでしょう
そして山本は堂々「記事に書くならどうぞご自由に」と言ってのけたのです。
 
 
■松村みたいなおデブくんでもゼロ戦に乗れたのか?
これにはふたつのアンサーが存在します。まず時代背景から。この場合の
アンサーは「有り得ない」となります。当時の食糧事情は悪化の一途を辿っていました。
確かにパイロットは優先的に食糧を分けてもらえまたし、飢えることは無かったでしょう。
それにしても、松村は太り過ぎです。戦闘機パイロットともなれば例外なく体力の優れた者です。
仮にあの体型だったとしても、日々の訓練を重ねるうちに絶対痩せるはずです。
そして、物理的な問題。そもそもゼロ戦に乗れるのか?
乗れます。乗ることはできますが、コクピットで身動きはとれないでしょう。
特攻機の零戦は爆装といって250キロの爆弾を吊り下げることが可能でしたし
外部燃料タンクを吊り下げる場合もありました。松村の体重が150キロだったとしても
離陸は理屈上可能です。
 
 
■飛行機乗りの志望動機が女の子にモテるため
飛行機に乗ると言う憧れは誰もがあったでしょう。憧れの飛行機に乗るためなら
その為なら、なんでもやる!といった方がほとんどです。だからこの動機は矛盾します。
第一にお国の為に死ぬ覚悟でしょう。
でも、ひとつだけ言わせてください。当時の彼らの日記などから
休暇の様子などをうかがい知ることが出来るのですが、休暇ともなれば
違いますよね。久しぶりに歩くシャバで女の子に心奪われる様子などが書いてあります。
そこだけは、今も昔もかわらないんです。普通の若者でした。 
 
 
映画は映画で楽しんでくださいね
 
三沢航空科学館には他にも魅力的な飛行機が数多く展示してあります。
機会あればぜひお立ち寄りください。

2013年3月31日 (日)

中島又雄海軍中尉 零戦による本土防空戦

近現代史研究会聴講会(第二十三回)
「零戦パイロットが語る本土防空戦」
http://www.panda1945.net/
 
参加し感想と印象に残ったことを少し記しておきます。
 
今回の講師、中島又雄先生は元海軍中尉
大正14年のお生まれで海兵73期。
井上成美が当時の海軍兵学校校長であり
霞ヶ浦航空隊では関行男が教官であった。
 
飛行学生過程を修了後の昭和20年6月、中尉任官
第三三二海軍航空隊の零戦搭乗員となり、初陣でB-29の迎撃となった。
鳴尾(現西宮市)は二式大艇や紫電改の製作で有名な
川西航空機の生産拠点であり、これを空襲から守ることが最重要任務であった。
 
■零戦と雷電、そして紫電改
 
大戦末期に登場し実戦配備された、いずれも本土防空を目的に作られた
二種類の局地戦闘機がある。新鋭機「雷電」そして古今ともに不動の人気を誇る
紫電改」であった。
 
第三三二航空隊には零戦のほか、この新鋭機「雷電」も備えていた。
新鋭機といえども、初めて搭乗したベテランのテストパイロットが殉職した
事柄(筆者注:昭和19年12月15日入江大尉の事故か?)も耳に入っており、
氏自身はもちろん、周囲でも不評で
「雷電だけは乗りたくなかった」と語っている。
 
※この件については
『雷電は本当に欠陥機であったのか?』と題してこちらで検証した。
 
一方、憧れたのが「紫電改」であった。一度だけ紫電改が
給油のために飛来した折に立ち会っており
搭乗員はニッコリ笑いながら「何機やった」と指で撃墜数を表すと
ふたたび大空へ消えて行ったという。
 
紫電改に乗りたかった。とてもうらやましかった。
 
中島氏はいずれの機体に搭乗することなく
零戦五二型丙型」で終戦まで戦い抜くことになるが
零戦はとても素直で扱い易く、良い飛行機であったと回想する。
 
■B-29邀撃
 
紀伊半島の潮岬にレーダー基地があって
これを捕捉すると空襲警報が発令される。
※1
 
関西地区上空まで十分な時間があったので邀撃に上がる。
B-29はこの頃(昭和20年6月)になると爆撃の精度を増すため
高度3000-5000メートルくらいの低空で侵入するように
なっていた。これにはずいぶんなめられたもんだなと憤りを感じた。
※2
 
高度を十分にあげて待ち構えることが可能だった。
空襲はたとえ百機単位になろうと、必ず九機編隊ずつで飛行するので
その九機編隊の一番機を狙うのが原則であった。
※3
 
攻撃の際は、敵機上空より操縦席を狙って急降下攻撃をかけるのだが
敵機を目標にして垂直降下する「前上方攻撃」および
敵機斜上より降下する「直上方攻撃」が有効かつ最も用いられた戦法であった。
 
攻撃の機会は一度きりで、一撃を加え離脱すると
次に続く9機編隊に再度一撃を加えるべく上昇、
これを数回、繰り返す。
※4
 
氏はこのときの様子を「恐怖感はなかった」と回想する。
まず、零戦の前方にはエンジンがある。これが防弾の役割となるし
仮にエンジンに被弾してプロペラが止まっても零戦は滑空して充分に不時着できるから
安心だ。
 
もしコクピットに直撃すれば、まぁ間違いなく即死であろう。
一瞬であの世へ行けるのだから気が楽であった。
 
ところで、防弾装備というのは、いま考えればその重要性に納得できるが
当時の心境としては、わざわざそんなものをつけるのは
サムライとして卑怯だし、恥だと感じていた。
 
とにかく上空では、我が戦闘機隊の奇襲により
あの巨大なB-29が翼を右に左に大きく振って
逃げ回る様子が凄まじかった。
 
■B-29とP-51
 
昭和20年6月20日
この日もB-29の邀撃に上がるも
硫黄島の陥落以降、護衛戦闘機P-51が随伴するようになり
邀撃は被害甚大、困難を増す。
 
地上基地より電話連絡※5
 
「カラスがヒバリを連れてきた」
 
カラスはB-29でヒバリはP-51の隠語である。
零戦隊は北方へ待避せよとの指示があり
歯がゆく悔しい思いをしつつ北方へ待避した。
 
 
 
 
※1)潮岬レーダー基地
これがおおいに役に立ったため
氏は戦後、このレーダー基地に努めていた技術者に
礼を述べに行ったという。
 
※2)B-29の高度、空戦について
敵機B-29はは1万メートル以上の超高高度を飛行しており
しかも機体の機密構造により、搭乗員はTシャツ一枚で
コーヒーを飲みながらゆうゆうとやってくる。
日本の戦闘機はそんな高いところまで届かないし、高射砲だって届かない。
迎撃は至極困難だったと一般的に伝えられている。
 
空襲初期は確かにそうであった。しかし
米は自軍機の安全より都市爆撃の戦果を優先したのである。
数を重ねるごと、爆撃精度を高めるため低空での侵入を敢行した。
 
迎撃戦闘機による戦果はもちろん、高射砲も命中しており
相当数のB-29が撃墜されている。
 
氏自身は零戦の限界高度、10700メートルまで上昇した経験もあるが
実戦は5000メートルくらいの零戦にとってはいちばん良いところ
(レスポンスを発揮できる)であった。
 
身体の負担について、1万メートルまで上昇したときは
さすがに少々きつかったが7000メートルくらいでは
何てことはなかった。それよりも恐ろしいのがブラックアウトで
操縦桿を引き続け、旋回、急上昇を繰り返すと身体にかかる
Gで、目の前が真っ暗になり意識もうろうとする。
ここいらで操縦桿を離せばフッと明るくなるのだが
無理をするとそのまま意識を失って墜落するので、最も注意を要した。
(現にそうやって死んでいった者が居た)
 
空戦の才能より、敵をはやく見つけたほうが
ずっと勝ち目があった。両目ともに視力は2.0で
落とさぬよう努力した。
 
上空でP-51と会敵、お互いにバンクを振って
翼を重ね合わせるように飛行すると
翼に日の丸が描かれているのが確認できた。友軍の
三式戦闘機「飛燕」だったという逸話もあった。
 
※3)九機編隊の一番機
一番機の爆撃手は最も優秀な者が選ばれる。
一番機の爆弾投下にならい、二番機三番機の投下が続くため
一番機を狙うのが原則かつ最も有効とされた。
 
翼に命中弾を与え、白煙を吹くのを確認した「やった!」と思ったが
あっという間に収束し飛び去ってしまった。B-29の消火設備は完璧であった。
3号爆弾を一度だけ用いたこともあったが命中せずに終わった。
 
※4)一撃離脱
ただし機体後方に火力が最も集中しているので
離脱の際が怖かった
 
※5)電話連絡
基地との連絡に無線が使えた。
ただし機体同士のやりとりは不可。

2013年3月23日 (土)

桜花と武士道

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私たちはヨーロッパ人とバラを愛でる心情をわかち合うことはできない。
バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラはその
甘美さの陰にとげを隠している。バラの花はいつとはなく散り果てるよりも
枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。しかもこの花には
あでやかな色合いや濃厚な香りがある。これらは全て日本の桜にはない特徴である。
 
私たち日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下に毒やとげを
隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる
用意がある。その色合いは決して華美とはいいがたく、その淡い香りには
飽きることがない。
 
中略 
 
草花の色彩や形状は外からしか見ることができない。それらはその種類の固有した性質
である。しかし草花の芳香には揮発性があり、あたかも生命の呼吸に似てかぐわしい。
そのためあらゆる宗教的な儀式においては乳香や没薬が重要な役割を演ずる。香りには
精神に働きかける何かがあるのだ。
 
太陽は東方から昇り、まず極東のこの列島に光を注ぐ。そしてサクラの芳香が朝の空気を
いきいきとさせる。このとき、このうるわしい息吹を胸一杯吸うことほど気分を清澄、爽快
にするものはないであろう。「旧約聖書」には創造主みずからが、燔祭の芳香を嗅いで
その心に新たな決意をかためられた「創世記(八-二二)」と記されている。
 
人々が小さな家々から外へ出て、その空気に触れるいざないにこたえたとしても何の不思議も
ないではないか。たとえ人々がしばらくの間、手足を休めて働くことを忘れたり、心の中の
苦しみや悲哀を忘れようとしたとて、それはとがめるに値しないであろう。
 
短い快楽のひとときが終れば、人々はあらたな力と満たされた思いをもって
日常の仕事に戻っていく。このようにサクラはひとつではなく、さまざまな理由から
わが日本国民の花となっているのである。
 
ではこのように美しく、かつはかなく風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを
放ちつつ、永遠に消え去ってしまうこの花が「大和魂」の典型なのだろうか。
日本の魂とはこのようにもろく滅び去ってしまう運命にあるのだろうか。
 
『武士道』(新渡戸稲造)より抜粋