2013年3月21日 (木)

二連装25ミリ対空機関砲(海軍)

二連装25ミリ対空機関砲(海軍)
(三連装もあり)
 
もともとは艦船用で、対空射撃のほか水平射撃も可。
そのため硫黄島上陸戦で使われた。
 
戦艦大和にも搭載。シールドが装着されており
主砲防爆の為。
  
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2013年3月20日 (水)

硫黄島 遺骨収容

硫黄島 遺骨収集
 
 
 遺骨収容現場は砂漠地帯の岩山、えぐるような崖下の壕で頭上には艦砲
射撃の跡や弾痕が著しく、無数に残っている。埋もれた壕の入口のみ重機
で開削し、あとは全て手作業で掘り進める。天井の高さは百三十~百四十
センチ。私たちは中腰となり壕の中を駆け回り、土砂を次々リレーし排出
した。奥へ掘り進むほどに暑く、作業先端の温度は七十度ほどになる。握
りしめた砂は熱く、汗が流れ落ちる。硫黄島は地下要塞化されており、最
も長い壕は全長千八百メートルにも達する。過去に死亡事故も発生してお
り一度入ると方向感覚を失う。今回、私たちが作業を行う壕は二百メート
ルも無い上、縄梯子をかけるような高低差もないので、これでも至極楽な
方と言えよう。
 先端を掘り進む作業員はおよそ五分置きに交代となり、一旦外に出て水
分補給と体のクールダウンを行う。その都度、外の光が見えて、涼しい風
が吹き込んでくる。艦砲射撃も火炎放射も無い。そこで待っているのは心
地よい潮風だけだった。この岩山の高台からは黒い砂浜と監獄岩を望む。
 
                             銃剣は光り輝く
 
 私が英霊に後ろめたさを感じながら水をガブ飲みしている隣では搬出さ
れた土砂を別の係が丁寧にふるいにかけている。小さなお骨を見逃しては
なるものかと皆、目を皿のようにして小さなお骨を探している。同時に発
見された遺留品の数々が積まれている。真空状態にあったので、時間の経
過が遅い。飯盒、水筒、ガスマスクなどが最も多く血染めの軍服がある一
方、新品同様、店の棚に陳列されていても不思議はない綺麗に洗濯され畳
まれた毛布などもある。
 歩兵の化身とも言えよう、銃剣の鞘を抜くと、今なお最後の突撃に備え
るべくその先端は鋭く光り輝いていた。衛生兵の薬瓶、ステンレス製の鉗
子は錆びることなく、そのまま開くことができた。重機関銃は、弾を装填
すれば射撃が可能ではなかろうか。一切の劣化なく眠っていた。徹底抗戦
は終わらない。四十発ほど出てきた手榴弾は九七式、九九式が半々くらい
で混在し、いずれもピンが抜けていて不発のようである。兵隊さん、この
手榴弾をどんな思いで握りしめていたのだろう。壕内部は暗闇でよくわか
らなかったが、私が土砂を排出していると一緒に対戦車地雷がゴロンと出
てきたのには驚いた。
 基地司令の視察があった。壕の一番奥まで入って頂いたようだ。
次に紹介するのは司令の訓示である。
 
「昔の兵隊さんは、こんな暑い中で壕を掘って大変だったなと思うよりも
これだけの事が成し遂げられたんだ、是非そう考えてください」
今回の遺骨収集では合計七柱を収容した。

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B-29プロペラ(硫黄島)

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硫黄島に残るB-29のプロペラ。アメリカ軍は

「硫黄島は元の取れた島だ」といった表現をしばしば用いる。
 
 
本土空襲の為、サイパン、テニアン、グアムからB-29の大編隊が出撃する。
航続距離としてはギリギリであり、計算を誤ると燃料不足が生じたり
また日本の迎撃戦闘機による攻撃で被弾した機体は帰還が困難となる。
 
そこで奪い取った硫黄島に飛行場を整備し、不時着基地として大いに活用された。
硫黄島の地上戦で多くの犠牲を出した米軍であったが
硫黄島の奪取により、多くのパイロットの命が助かったのも事実なのだ。
合理的な考えではあるかもしれないが、命の価値を天秤にかけることは出来ない。
 
もうひとつの大きな利点として
硫黄島の奪取により、護衛戦闘機P-51の直掩が可能になった。
P-51は小さな戦闘機である。大戦中、最も優秀、最強だと謳われた
高性能戦闘機であるが、爆撃機のように多くの燃料が積めず
航続距離が短いためサイパンからの出撃は不可能だった。
 
しかし硫黄島からであれば行って帰ってくることが出来る。
それまで丸腰であったB-29は日本の迎撃戦闘機に攻撃され
墜落したこともあった。しかし護衛戦闘機P-51の登場により
これらの被害は激減した。これはP-51のエンジン。
 
 
 
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摺鉢山の星条旗

C-http://www.kabegamilink.com/act/0704/03300.html
 
アメリカの歴史教科書に必ず記されている項目三つある。
 
 
■先ずはパールハーバー。
(日本名・真珠湾攻撃またはハワイ作戦であるが)
米国にとっては、跡にも先にも経験の無い屈辱の日である。
昨今は、真珠湾攻撃と自爆テロとの区別もつかず報道が成され、また誤解され周知されつつある。
これは日本人としては非常に残念に由々しき自体と感じる。
 
■次に、広島、長崎への原爆投下である。
(彼らの言い分ではこれらが戦争の終結を早めたのである)
これは若い世代で冷静に議論を続けて行かねばならない問題である。
 
■そして、硫黄島だ。必ず硫黄島はどの教科書にも載っている。
多くの犠牲者を出した硫黄島の戦いはアメリカ人にとって特別なものである。
アメリカでも周知度は極めて高い。この写真はアーリントン国立墓地
のシンボルでもある、その名の通り「硫黄島の星条旗」のモニュメントだ。
ピューリッツァー賞を受賞したことでも有名だ。6人の米兵が
摺鉢山山頂に星条旗を掲げる様子である。
 
 
この星条旗を掲げた米兵6人のうち3人が戦死。
生きて祖国の土を踏めたのは残り3人だけだった。
 
 
これが現在の摺鉢山山頂。同じ場所。星条旗を立てた跡が残っている。
 
 
硫黄島 摺鉢山
 
 
硫黄島 摺鉢山
 
 
ここを訪れたアメリカの兵隊さんが記念に残していった識別票だ。
アメリカ人は硫黄島に皆、特別な思いを持っている。
日本人にも周知してもらいたい。
硫黄島 摺鉢山
 
 
硫黄島 摺鉢山

硫黄島を守備する自衛隊員

硫黄島
 
 
硫黄島
 
 
 ここが日本の最前線なのだと実感がわく。在島自衛隊員は表情こそ穏や
かだがいずれも肝の据わった兵ばかりだ。私はその精鋭某部隊を育成する
在島教官から、次のような話を聞いた。
 
「 精鋭部隊志願者の採用基準は体力や精神力ではない。それは次第に身に
付けるものであり、先ずは、お父さんやお母さんを大事にしていますか?
といった旨を尋ねる。家族を愛する気持ち、それは国を守ることに等しい」
栗林中将の思いを受け継いでいるようだった。

2013年3月16日 (土)

南洋フルーツいろいろ

パラオには美味しい果物、フルーツがたくさんございます。

 
中でもどこの庭にも生えていて一般的なのがパパイヤなんですが
少々クセがあるので、好みがわかれるところです。
甘味はとても高いです。成長が早いのも特徴。
収穫の際にはまだ青いうちに棒でつついて落とし、追熟させます。
スーパーマーケットでも手に入りますが・・・そこらじゅうにあるので
ローカルの方たちはあまり買わないと思います。
 
実が大きくなるように様子を見ながら間引きをします。
間引いた未熟な実は捨てず、千切りにしてサラダにします。
葉っぱも大きいので魚料理のさいにお皿として使ったりと
捨てるところがありません。
 
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そしてこちらがバナナ。
同じく青いうちに収穫して追熟させます。
黄色くなるのを待っていたら虫に食われてしまうからです。
 
「轟沈」という唄の節で
『可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れて』
という歌詞が有名ですね~。
 
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最後にコプラの実です。
蛮刀で割って、中身のジュースを飲みます。
ココナッツの甘い味がします。街のストアーでジュース類と同じく冷蔵庫の中に
陳列されており購入できます。
 
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最後に割って実を食べます。この白い部分が果肉です。
甘くカロリーが高く、昔は貴重な栄養源でした。
 
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スコール

南洋のスコールは凄まじいものがあります。

戦闘中にスコールが来ると両軍ともに一旦中止したと
ペリリューの戦記にも記されております。
写真では伝わりにくいのですが、実際に初めて経験すると驚くでしょう。
 
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2013年3月11日 (月)

石巻の桜

津波の1ヶ月半後、石巻と東松島へ復興支援の為、赴きました。
ここは石巻市内の小学校です。この場所も津波で冠水しましたが
それでも桜は開花し、綺麗だったので写真を撮りました。
奥に写っているのは陸上自衛隊の軽装甲機動車です。
 
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2013年3月10日 (日)

ペリリュー島の台風被害

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被害甚大です。二月中旬に渡航した仲間が写真を撮ってきてくれました。
島南端の平和記念公園の様子です。この場所のみ外洋に面しており
高潮による被害が甚大です。巨木すら根元からもぎ取られ流されていまっています。
さらに島内道路の各所が倒木により寸断された箇所が多く
慰霊碑の修理は厚生省の管轄ですが道路は管轄外です。
重機すら無いこの島ですから復旧のめどが立たない状況です。
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台風は島の東から接近し、北部の州事務所は30センチ冠水。ケイボーストアと
マユミインはキッチンと食堂の屋根が全て吹き飛ばされており、修復中です。
内陸部のジャングルも木々が倒れており歩行困難。
中山の東側は特にひどいものでした。
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島民は日本軍が築いた強固な洞窟へ避難していました。
今回幸いだったのはパラオにおいては人的被害が皆無だったことです。
(この台風はパラオからフィリピンへ進み、1800名以上の死者行方不明者が出ました)
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全てを外洋に囲まれたアンガウル島はさらに被害甚大
壊滅的との報告も入っています。

2013年3月 1日 (金)

硫黄島/蒼穹の旭日旗

硫黄島 硫黄島
硫黄島 硫黄島
 
窓から見えるのはエンジンカウルにマーキングされた

ステンシルくらいで景色は望めない。むき出しの配線や機器類。
私たちは吊り床のような輸送機の席に横並びで座っている。
フラップ作動による油圧音が鳴ると身体 が浮き上がる感覚を覚えた。
高度を下げているのだろう。

吹雪の入間基地を離陸してニ時間四十分、衝撃も感じないままに
輸送機は着陸したようだった。機体が停止するとリヤゲートが縦に開き
差し込 んだ光に目が眩む。

二月の硫黄島は内地の初夏を思わせる風と太陽が実に心地よく
蒼穹に掲げられた旭日旗が映える。輸送機から降りた私たちはエプロンを歩く。
陽炎立ち上る滑走路からの照り返しが眩しく、肌を差す。
半袖の制服を着た航空、海上各自衛隊員の出迎えを受けた。

飛行場からマイクロバスに乗り換えて島内道路を行くと遠くに摺鉢山を 望む。
当初、もっと殺風景なところだと想像していたが、その違いに驚いた。
火山島で半砂漠といえども、背は低いが木々が生い茂り
緑の美しい島という印象だった。

それにしても決して穏やかな雰囲気は無く、隆起し荒々しく切り立った
崖の先は、深々とした群青の海原が広がり、それは生まれて初めて見る
海の色だった。遮るものがない絶海の孤島は見渡す限りの水平線で
遥かに北硫黄島、南硫黄島を望む。