パラオには美味しい果物、フルーツがたくさんございます。
ステンシルくらいで景色は望めない。むき出しの配線や機器類。
私たちは吊り床のような輸送機の席に横並びで座っている。
フラップ作動による油圧音が鳴ると身体 が浮き上がる感覚を覚えた。
高度を下げているのだろう。
吹雪の入間基地を離陸してニ時間四十分、衝撃も感じないままに
輸送機は着陸したようだった。機体が停止するとリヤゲートが縦に開き
差し込 んだ光に目が眩む。
二月の硫黄島は内地の初夏を思わせる風と太陽が実に心地よく
蒼穹に掲げられた旭日旗が映える。輸送機から降りた私たちはエプロンを歩く。
陽炎立ち上る滑走路からの照り返しが眩しく、肌を差す。
半袖の制服を着た航空、海上各自衛隊員の出迎えを受けた。
飛行場からマイクロバスに乗り換えて島内道路を行くと遠くに摺鉢山を 望む。
当初、もっと殺風景なところだと想像していたが、その違いに驚いた。
火山島で半砂漠といえども、背は低いが木々が生い茂り
緑の美しい島という印象だった。
それにしても決して穏やかな雰囲気は無く、隆起し荒々しく切り立った
崖の先は、深々とした群青の海原が広がり、それは生まれて初めて見る
海の色だった。遮るものがない絶海の孤島は見渡す限りの水平線で
遥かに北硫黄島、南硫黄島を望む。
その日も朝から青い空だった。
「兵隊さん、長い間お疲れ様でした さあ、ふるさとへ帰りましょう」
私はご遺骨を抱いてエプロンを歩く。陽炎立ち上る硫黄島基地滑走路では
在島隊員による「奉げ銃」そして音楽隊の「 海行かば 」で 内地へ帰還する英霊を見送る
儀式が行われた後、輸送機に搭乗、百十七御柱の英霊と共に故郷へ向けて硫黄島を後にした。
ご遺骨を抱いたまま数時間、やがて輸送機は曇天真冬の入間基地に着陸した。
ここで輸送機から大型バスに乗り換え千鳥ヶ淵墓苑へ向かう。
滑走路から隊門までの道を千二百人の自衛隊員が直立不動、敬礼して並び英霊の
帰還を迎えた。雲の晴れ間から富士山が見える。大型バスが交差点を曲がると
横断歩道の信号待ちをしている若者の姿に 今日の日本を垣間見た。
最前線の自衛隊基地の緊迫感と 英霊の悲しみ。ここは本当に
同じ日本なのだろうか。
アルマテン海軍砲台
安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)
呉海軍造兵廠~明治36年~15サンチ速射砲
旧朝日村西に位置するアルマデン海軍砲台は、西水道を望む
高台に設けられトーチカに格納された砲が当時のまま残されている。
西水道は、外洋とコロール環礁内を繋ぐ交通の要衝で
最少幅110メートル、全長8.5キロに及ぶ狭水路であった。
アルマテン海軍砲台は、この狭水路に進入する敵艦艇に対し照準し
迎え撃つ構えであったが、米軍はパラオ南端のアンガウルおよび
ペリリュー島攻略で大損害を受けパラオ本島の攻略を中止。
兵糧攻めに徹した結果、砲台が活躍する機会なく終戦を迎えた。
海軍はこのほか、マラカル、アイライ、コイグルの各地に砲台を
設置し敵艦艇の侵攻に備えた。
※トーチカ格納の一門以外は戦後此処へ運ばれたもので
原型をとどめたものが三門と、解体され砲身のみとなった
二門が茂みに残されている。