2016年10月24日 (月)

1/48 B-29完成

B-29の1/48スケール

プラモ製作日記。1/48スケールB-29完成しました。
ゼロ戦との大きさの違いを理解してもらう為に
イベントなどで展示しようと考えてます。
本土空襲では、これが200機も攻めてきたのですから、
大変なことだと思います。
 
もし、作ってみようという方がいらっしゃましたら
こんなにでっかくなります。ご参考ください。
 
製作中の写真はこちらです。

2016年10月16日 (日)

1/48のB-29を作ろう

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アメリカ・レベル(モノグラム)製、
1/48スケールのB-29を組み立て中であります。1/48スケールは
このレベル製のみなので非常に得難い品物であります。
 
完成の暁には
同じスケールの飛燕やゼロ戦とセットにしてジオラマを製作し、
講演会やイベント等で展示予定です。
その大きさと、大空中戦の模様を理解してもらうためです。
 
キットの感想ですが
インターネットの模型製作ブログやAmazonのレビューでは
「部品の合わせが悪く苦戦」とか書かれていますが、
個人的にはそんなことはありませんでした。
もちろん国産のハセガヤやタミヤと比べたら劣りますが、
初期のファインモールド(1/48彗星)などと比べると非常に良好と
感じました。あくまで個人的な感想です。
 
長期間、在庫されていた製品なら変形している
可能性が大きいですので、個体差があると思います。
ネットオークションでは高値がついていましたが、再生産・輸入されたようで
模型店で普通に普通に購入できます。私も定価で買い求めました。
 
マスキングは窓が大きいので楽でした。
数が多いので時間はかかります。
コクピットの内部もしっかり再現されていますが、閉じてしまうと
内部はほとんど見えません。なんだか勿体ない。
カットモデルにしたらいいかもしれません。
 

追記/完成しました。
 

B-29の1/48



2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

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零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年7月13日 (水)

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48「彗星」ファインモールド製です。
機番号311-212は空母大鳳の彗星艦爆隊で
平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの
機体です。
ll-212と表記する説もありますが、写真が残っていないので
どちらだったか解明されていません。この彗星の敢闘を目撃した
藤本さん(インタビューした内容の一部)の話をまとめます。

  
◆魚雷に対し自爆した彗星
時は昭和19年6月19日、
マリアナ沖海戦、一航戦は、零戦、彗星、天山による
編隊を組み、米機動部隊へ向け進撃を開始つつあった。
そのとき、米潜水艦より発射された魚雷が二本、大鳳に向かう。
 
「私の600メートルくらい前、彗星艦爆が一機、横切ったんですよ。
彗星が編隊を離れて、250kg爆弾を抱いたまま魚雷に向けて
ザバーンと、雷跡に突っ込んで行きました」
 
瑞鶴零戦隊の藤本速雄氏の証言によれば、この彗星は大鳳から発艦した

彗星艦爆隊長、平原政雄大尉の二番機だったという。
 
資料によれば、この平原大尉の二番機は、
小松幸男飛曹長(甲7)と国次萬吉上飛曹(乙11)の機体だった。
 
彗星は大鳳を守るため、魚雷へ自爆を敢行したと云われるが、実のところ、
雷跡の存在(あるいは敵潜水艦の位置)を大鳳へ知らせる為に
咄嗟に取った行動で、急降下によってスピードがつきすぎた為、
そのまま海面へ衝突してしまったのではないか?
とも藤本氏は推測している。小松上飛曹、国次上飛曹ペアは
戦死したので現在となっては謎である。

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年6月12日 (日)

模型製作

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療養中ということにして久々に本気で模型製作。
 
1/48のゼロ戦丙型であります。
鳴尾の332空仕様。機番号は推定であります。
雷電隊が100番台を付与されているのに対し、零夜戦隊は
40番台。332空では雷電とゼロ戦の丙型が同じく局戦と位置付けられ
B-29の邀撃を行いました。機番号の付与は零夜戦と昼間用の零戦は
別ではないかと考えまして今回は120番台としました。
 
完成品はひどいものですが(笑)観賞用でなく
講演会などで説明用程度には使えるだろうと思います。

2016年6月11日 (土)

Z旗翻るマリアナの空へ

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撮影・加工しました。
瑞鶴の飛行甲板より出撃する零戦52型です。
他のバージョンも製作中です。

2016年5月22日 (日)

扇風機を改造してみた

零戦扇風機

当ブログの画像をまとめサイトへ転載することは禁止しております。
利用料金を請求させて頂きます。
 
最近、特にまとめサイト等で文章を転載したり
画像を無断で掲載されるケースが多くなってきました。
まとめサイトで行われている行為は引用でなく、転載と見なします。 
 
第一条第六項
まとめサイト・二次配布・商用・アフィリエイト等の目的で転載が確認された
場合は、80,000円をお支払い頂きます。(削除の有無にかかわらず)
 
当サイトを訪問し、画像を無断転載された場合は
規約に同意されたものと見なします。
 
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浴室の脱衣所の扇風機が古くなっていたので再塗装。

元々は白だったのですが経年劣化でかなり黄ばんでいました。
ちなみに20年もの。
思いつきで零戦カラーにしてみました。
 
サーフェイサーも吹かずにやっつけ仕事です。モーターの開口部を
マスキングしてエアブラシでおおまかに塗って、細かいところは筆塗り。
余っていたデカールを適当に貼って完成。
 
浴室は家族以外誰も来ないし、まあこんなモンでいいかなと、
しかしながら空は飛べません。

2016年5月12日 (木)

疾風ミニポスター

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Photo 
航空祭で配布予定のB5サイズのミニポスター(資料)です。
裏側は資料となっております。とはいっても疾風の戦記でなく
生産側の視点が主となっています。

 
戦中、宇都宮では疾風の製造工場がありました。
疾風の製造工場で必死に働く
16,7歳の女学生の話など
当時の証言をもとに記載しました。
大東亜決戦機、それはまさに国民の
総力が注ぎ込まれ
前線に送り出された、飛行機でありました。
 
少女が重労働に従事し、最前線では同じく16,7の少年が特攻へ行く、
これは悲劇ではありますが、同時に、
本当に日本の為に頑張ってくれてありがとうございますと、
そういった気持ちを周知したいと願うものであります。

2016年5月 9日 (月)

零戦六四型

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

幻の零戦64型です。
終戦間際に三機のみ製造されたモデルで、試作機を54型丙、
量産型を64型と称します。
ゼロ戦の最終型のひとつで
 
三菱「金星」エンジンの搭載に伴い、大型化したエンジンカウルと
プロペラ・スピナー、上部のエアインテークが特徴です。
エンジンは彗星三三型と同じとの説があります。
 
「もう格闘性能は時代遅れだ!」「モアパワーだ!」ということで
出力と一撃離脱に特化。剛性を強化したモデルです。
 
ゼロ戦の優美なフォルムが失われている反面、
いかにも改造機といった造りになっており
好みが分かれるところです。
 
胴体内機銃を撤廃。
零戦52型丙と同じくロケット弾搭載用レール、
左右両翼下に増槽を搭載可、胴体下に爆装可とし
昭和20年、横須賀と青森県の三沢にありましたがGHQの進駐に伴い
破壊されてしまいました、幻の機体です。
 

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
 
零戦64型/五四型丙 
【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零戦の雑学-型式一覧へ戻る
 
21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 
64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2016年2月13日 (土)

Me262 Lorin ラムジェット搭載機

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

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洗練するドイツ製ジェット戦闘機
Me262 Lorin ラムジェット機は、1945年

オイゲン・ザンガー博士によってデザインされた
ドイツ空軍、Me262のアップデートモデル。
本機は世界発のジェット戦闘機であるMe262のjumo004エンジン
に加え、翼上に直径1.15m、全長5.9mのローリンラムジェットを搭載した
4発機である。
 
スタンダード機であるMe262が高度6000における
最高速度が870km/hだったのに対し
Lorin ラムジェット搭載機は1万メートル迄
僅か6分(Me262は26分)で上昇し1070km/hの最高速度
が可能な設計であったが、ドイツの敗戦とともに幻の怪鳥となった。
  
日本製ジェットエンジンの黎明
その頃(1945年/昭和20年)、日本では、ドイツ本国から
ジェットエンジンの設計図と部品を持ち帰るべく
出港した潜水艦の到着を待ちわびていたが
いずれも撃沈され、最後まで日本に到着することはなかった。
 
そのため、中島飛行機小泉製作所(群馬県)では
100パーセント純国産のジェットエンジン「ネ-20」を開発していた。
このジェットエンジンを搭載した新型機を海軍では「橘花」
陸軍では「火龍」と称し、橘花は、終戦の数日前
木更津飛行場で初飛行に成功していた。
 

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2016年2月 3日 (水)

1/144空母ジオラマ「飛龍」

1/144空母ジオラマ「飛龍」

▲1/144飛龍(ミッドウェイ海戦)が完成しました。 
170センチ×36センチの巨大な紙にインクジェットで印刷し
甲板の質感を出すため、マットラミネートでコーティングしました。
最後にコツコツ集めた食玩のゼロ戦(1/144ウイングクラブと
ウイングキットコレクションシリーズ)を固定して完成です。
 


▲プリントアウトする前のイラストはこちらです。
  

1/144空母ジオラマ「飛龍」

九九艦爆も並べてみましたが、真珠湾時の塗装であることと
数が多すぎてゼロ戦の滑走距離が足りないので
今回は二種類のみとしました。
  
甲板の半分も並べると目が回ります。
数が多ければいいというものでもないと
解りました。直掩中ということにして
ゼロ戦隊のみでもバランスよかったかな?と思います。

 
今後はイベント等で機会あれば展示しようと思います。
 
 

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1/144「飛龍」試験販売中!
http://www.amazon.co.jp/dp/B01BN7S1SQ

2015年9月26日 (土)

さらば空中戦艦富嶽

富嶽 爆撃機

◆富嶽計画概要
  
富嶽(ふがく)は中島飛行機が開発を行った超大型重爆・戦略爆撃機で
またの名を空中戦艦「富嶽」と呼称した。富嶽を用いた富嶽計画は
中島飛行機創設者であり、大所長の中島知久平が考案、推し進めた唯一の
必勝戦策であった。
 
中島知久平は英米と真っ向勝負を挑んでも、勝ち目がない事を
戦前より繰り返し唱えており、
戦艦の建造競争は今すぐ
やめるべきだと主張。
 
いずれ必ずやアメリカの超重爆が日本本土に来襲し
焦土と化すであろう、それより先に、我が国が戦力の主力を航空機に据え
アメリカ本土の工業地帯の中枢を叩き、
撃滅。決戦を挑むことにより
早期講和を引き出すことが絶対条件と
捉えていた。
 
日本を離陸した富嶽は太平洋を無着陸で横断し、アメリカ本土を爆撃。
そのまま大西洋を横断しドイツ占領下のフランスへ着陸。給油後、日本へ
帰還する計画で
地球を東回りに一周することになる。
 
◆中島知久平の必勝戦策

昭和13年、中島知久平はどうしても戦争をやるなら、勝つためには
これしかないと、九十八
頁に及ぶ必勝戦策を書き綴った。
 
必勝戦策の第一章「大型飛行機出現による国防の危機」と題した
中島知久平は最も危惧すべき点として
「アメリカの開発中の超重爆が必ずや日本本土を焦土と化す」
と主張。B-29による本土爆撃をもっとも早くから予期した。
それであるから、それ以前に日本の超重爆が
米国中枢の工業地帯を
叩こうという作戦である。
いくら迎撃用の戦闘機を開発しても無駄で
あるから、その前に
全ての資材、国民の総力を結集し富嶽の製造に充てる
べきであると書かれている。
 
富嶽
 
◆富嶽空中艦隊でアメリカ本土を爆撃せよ
富嶽の発進基地はアメリカ本土に一番近い占守島として整備を進める。
時速200km/hのジェット気流に乗った富嶽は北太平洋を無着陸で
悠々飛行しアメリカ本土を爆撃。爆撃目標はアメリカ工業力中枢
ピッツバーグ重工業地帯である。敵の生産力の中枢を叩き潰す。
さらにニューヨーク、ワシントンを爆撃し戦意消失を図る。
アメリカ本土爆撃後はそのまま大西洋を横断しドイツ占領下の
フランスへ着陸。給油後、地球を東回りで一周し日本へ帰還する
 
空中艦隊には機関銃400挺を装備した護衛の掃射機も考案された。
他に20本の魚雷を積んだ雷撃機、兵員200名を乗せて運ぶ輸送機
タイプがあった。
マリアナへ出撃した別働隊はB-29に対し
空中砲撃戦を展開。
たちどころに撃破する。魚雷20本を抱いた
富嶽雷撃隊は
アメリカ機動部隊を捕捉。これを撃滅する。
 
◆アメリカ本土へ兵員を空輸・勝利せよ
 
こうして富嶽を500機1000機とアメリカ本土爆撃に投入し
最後は富嶽で大量の兵員を空輸し勝利する。
 

富嶽

▲左から「富嶽」、「一式陸攻」、「ゼロ戦」、比較。

 
◆富嶽の仕様
(カッコ内はB-29との比較)
 
翼長65メートル、胴体45メートル
(B-29の1.5倍から2倍の大きさ)
 
三点静止角度9度、主翼面積350平方メートル
最大翼弦9メートル、上反角3.5度
縦横比1対0.5、取付角6度
水平尾翼面積60平方メートル、垂直尾翼面積40平方メートル
胴体内燃料タンク容量4万2720リットル
翼面荷重457キログラム/平方メートル
馬力荷重5.3キログラム/馬力
自重67.03トン、爆弾積載量20トン(B-29/10トン)
全備重量160,000kg
 
上昇限度15,000m(B-29/10250m)
最高速度700km/h(B-29/550km/h)
航続距離18,000km(B-29/5,300km)
航続距離は機体の仕様から割り出すと16,000kmと短いが
成層圏のジェット気流を利用すれば20-30%伸びると考えられた。
 
エンジン
5000馬力を6発(B-29/2400馬力4発)
ダブルBH(陸軍名称ハ-219)空冷星形18気筒2500馬力を
前後に並べる。
すなわち富嶽は6発機であるがエンジンは
エンジンナセルに2基ずつ収め、計12基搭載と同様。
 
プロペラ
住友製直径4.8メートル6枚翅、あるいは4枚翅の二重反転プロペラ
 
富嶽は当初、最後の切り札という意味合いで「Z機」のコードネームを
付与されていたが
のちに富嶽と命名される。
 
◆中島知久平とは
中島知久平は明治17年生まれ
群馬県新田郡尾島町出身(現在の太田市)
中島飛行機の創設者である。
 
豪農の長男として生まれ育った知久平少年は後継ぎの最有力であった。
知久平少年は何度も中学進学を懇願したが、父は許さなかった。
その間にも知久平少年は友達から中学の教科書を借りては読み
漢字も習いに通っていた。しかし英語だけは
独学ではどうにもならない
ことに限界を感じていた。
 
どうしても勉強がしたい知久平少年はついに決心。ある夜、書置きを残して
密かに家出をしてしまう。
利根川の土手を沿って東京へ出て行くのだった。
 
「ぼくはどうしても勉強してりっぱな人になりたいのです。
そのために東京に行きます。ぼくのことは死んだと思って
あきらめて、探さないでください。ぼくがいなくなれば
お父さんもお母さんも手不足でこまるとおもいますが
弟たちがすぐに役に立つようになるのですから当分のあいだ
がまんをしてください。
また、悪いこととはおもいながらも、学資がいりますので
神棚にあがっているお金をもって行きます。さぞおこまりに
なるとはおもいますが、しばらく貸してください。一生懸命勉強して
はやくえらい人になり、何倍にしてもかならず返します。
勝手なことをして申しわけありません。どうぞ親不孝の罪を
おゆるしねがいます」
 
生まれて初めて東京に出た知久平少年は同郷の正田満の家を訪ねた。
正田は知久平の隣家で満は徴兵で東京の
第一師団歩兵第三連隊
(通称麻布三連隊)に入隊し
古参の軍曹になっていた。知久平少年の
熱意に圧倒された満は
「よし、お前の居所は誰にも知らせない。陸軍士官学校へ入ったら俺が
おやじに詫びてやるから、安心して勉強しろ」
と神田の下宿屋を紹介した。
以来、知久平少年は勉強机は石油缶で代用し、風呂は一ヶ月に一度。
床屋は三ヶ月に一度、
夏はふんどしひとつで過ごし、勉強した。
全ての時間を勉強に費やすため、一切アルバイトをやらず、
ケチケチ作戦で凌ぎぎった。下宿に布団はなく石油缶にもたれて
いつの間にか眠っている、そんな毎日だった。
 
満はそんな知久平少年を見かね、援助してやることに決めたが
下士官で安い給料だったので、好きなタバコも酒もやめて
できるだけ知久平少年と苦労をわかちあった。
 
陸軍士官学校へ入りたいという希望には知久平少年なりの
考えがあった。当時、ロシアが旅順と大連を租借して着々と東洋に
対する侵略の手を伸ばしていた。
ロシアからの脅威から日本を守るため、
身を捧げ
陸軍士官になるのが一番だと考えたのだ。
 
知久平少年は約一年半で中学卒業と同様の資格が得られる
専検に合格した。この頃になると、父に居所がバレてしまっていたが
その志を父は許していた。しかし父の希望で陸軍をやめて海軍に入るよう
説得される。海軍のトップエリートといえば海軍兵学校か海軍機関学校だが
知久平少年の望みは兵学校だった。
機関学校へ入った経緯について
知久平の甥によると
海軍機関学校の試験が11月頃で、兵学校は翌年春
だったので
機関学校は小手調べのつもりで受験し合格した。
父に相談したら「高望みをするものではない」といわれて兵学校受験を
諦めたと伝えられている。
 
海軍機関学校へ入学した中島知久平は、その4日前
ライト兄弟の初飛行を聞き「自分の将来はこれだ」と決めた。
海軍機関学校を恩賜の銀時計組(トップスリー)で卒業すると
直ちに飛行機を専攻しアメリカへ出張。日本人で3番目の操縦の
ライセンスを取得した。
 
帰国後、国産飛行船で1時間40分の滞空記録を樹立。
さらに海軍工廠で国産一号機を作り海軍の飛行機製造の第一人者となった。
また、世界最初の雷撃機を考案。これが将来の主力兵器だと断言。
戦艦金剛一隻で飛行機三千機が作れた時代に
貧しい日本が英米と戦艦の建造競争をすべきでない
と飛行機国防論を提出した。このとき海軍大尉。
 
◆海軍を辞め中島飛行機を設立
 
大正6年6月
飛行機国防論が無視されると、さっさと海軍を辞め
自分で飛行機を作るために中島飛行機を設立。
 
さっさと辞め、とは言っても海軍退官にあたって
中島知久平は「辞職の辞」と題して長文のあいさつ文を印刷して方々に
配布して回った。それは辞職届と呼ぶより
自らの
主張した「飛行機国防論」そのものであった。
 
「当時の超弩級戦艦『金剛』一隻の資材を分配し航空戦力に
充てるべきである。
欧米と戦艦同士の真っ向勝負すべきでない。
そして航空機には魚雷を携行すれば、その威力たるや
金剛より優れる」といった内容であった。
 
このとき、中島知久平の最も良き理解者であった
大西瀧治郎(当時は大尉)も中島の立ち上げる飛行機会社
に入るつもりでいたが、海軍に却下され始末書を書かされている。
そのかわり大西は資金集めに走り、海軍に残っては航空主兵論
戦艦無用論を繰り返し唱えた。
 
中島知久平は自らプロペラ一本一本を手で削る苦労を経て
陸海軍に純国産の主力機を納入する飛行機会社へ成長した。
民間会社である中島飛行機が三菱や住友などの大財閥を超える
大企業へ成長したことは
特筆すべき点である。
 
中島は故郷の群馬県尾島町へ戻り
両親の為に総檜造りの大屋敷を建設する。中島知久平邸は
ステンドグラスやシャンデリアなど細部にわたり豪華な装飾が施され、
部屋から見渡せる広い前庭や来客を迎える重厚な車寄せなど、
宮殿建築としての特徴が随所にみられ、近代和風建築を代表する
建造物として太田市の重要文化財に指定され、現在も見学可能である。
(現在の名称は太田市中島知久平邸地域交流センター)
 
◆富嶽計画の推進 
 
中島知久平という人物と中島飛行機の創設を簡単に記したところで
話を富嶽に戻そう。昭和17年
ミッドウェイでの敗退をいち早く知ったのが、
他ならぬ中島知久平であった。
このとき
東京・日比谷の市政会館に事務所を構え無線を傍受していた
中島は
民間人でありながら、軍部の関係者より情報に詳しかった。
 
ラジオからは挑発的な文言が流れる。
 
「勇敢な合衆国海軍はパールハーバーで騙し討ちをした
ジャップの空母四隻を沈めました。赤城、加賀、飛龍、蒼龍だと思われます。
アメリカはヨークタウン一隻を失っただけです。これで日本は当面
攻勢に出てこれないでしょう。山本五十六はハラキリをするのでは
ないでしょうか。今度は我々がバッターボックスに入る番だと
ニミッツ提督は
言っています。」
 
「なんだこれは!?大本営発表と全然違うじゃないか!」
 
「米国はどんな犠牲を払ってでもサイパングアムを取りにくる。しかし
それを阻止する機動部隊はない。
戦前、渡洋爆撃を禁止しろ、
渡洋爆撃は非人道的だと残虐性を主張してきた
ルーズベルトがB-29を
使って我が国を焦土と化す。
かくなる上は、対抗手段を取らざる得ない
やむにやまれず、
戦争とはそういうものだ」
 
そう言って自ら製本した必勝戦策を携え
次々と各界の要人を歴訪して回った。
一番最初に訪問したのは前首相の近衛侯爵であった。
 
必勝戦策に他ならぬ関心を示したのが、軍令部参謀で海軍大佐の
高松宮だった。
中島知久平の日記によると次のように書かれている。
 
「高松宮出殿下よりお召しあり。御殿にてZ機について詳細言上す。
なお、政治、戦争、社会問題について御下問あり。意見言上す。
有難き激励のお言葉あり。
恐懼退出す。また富嶽の進行につき
中間言上すべきことを
申し上げ、御嘉納ありたり」
 
もう上手に負ける事を考えるしかないと
言っていた高松宮は有利な講和のきっかけとして
期待していたのかもしれない。
 
中島は粘り強く説得を続けて回った。
「Z飛行機の決定の遅延一日が国家の運命に重大なる
結果を招来することは、論議の余地を存しない
ところであります。何卒、ご勇断の程を願うてやまざる
次第であります」
 
昭和18年秋
一番の難関は総理大臣で陸軍大臣兼軍需大臣、間もなく
参謀総長も兼任する東條
英機大将を説得することだった。
中島知久平は東條に対し「Z機以外に必勝の策があるのか」と詰め寄ると
東條は遂に
「敗戦思想は許されないが、必勝戦策とあればいいでしょう。
やってみなさい」と製作が決定した。
 
しかしこのとき既に日本は劣勢に転じていた。
 
昭和19年のはじめ、ようやく「富嶽委員会」が
東京の明治生命ビルの6階に設置された。中島委員長をはじめ
陸海軍の代表委員が集められ、
最高機密のため中島事務所とだけ
記された。
そしてこのときはじめてZ機名称が正式に「富嶽」と名付けられた。
一方、ピッツバーグ工業地帯では月産100機を目標にB-29の量産に
入っていた。
  
 
中島知久平は全国各地から若く優秀な一等技師を
群馬県小泉製作所内にある太田クラブに呼び集めた。
世にいう太田クラブ缶詰事件である。
 
当時、小泉製作所では零戦、銀河、月光、天山、彩雲、連山、橘花など
を製作しており、連日、工場から送られる銀河の爆音のもと
各技師達は3か月缶詰となって富嶽の設計に尽力した。
 

Imgp9936

 
次に記すのが富嶽設計メンバーである。
コメントも記す。
 
●吉田孝雄/小泉製作所所長
ゼロ戦、銀河など月産400機の
量産システムを構築した。
 
●反町忠男/試作工場長
戦後富士重工太田北工場長
 
「まあ、作ることは前に連山とか深山とかありましたから
大きな飛行機でも作る立場からは心配はしてません。
いっぺんに作るってことは致しませんから。
羽は羽でも分けるわけですね。前と後ろを繋ぐと方法があるんです。
大所長(中島知久平)は力強かったですね。とにかく設計陣は総力を
あげてこれをやれということですから、みんな感激しました。」
 
●小山悌/技師長
隼の設計メンバーとして名高い中島飛行機の至宝。
 
●太田稔/技師/脚油圧担当
ノモンハンで有名を馳せた九七式戦闘機を作った。
戦後富士重工顧問
 
「車輪は直径が一間以上、幅が50センチ。車輪が浮きますと
パイロットの操作なしに
油圧と空気圧を使いまして自動的に片側の車輪を
放りだすという構造にしたわけです。上昇が軽くなります。片側1トン
ずつで
約2トン軽くなります。離陸のときの重量がだいたい約150トンで
着陸するときは爆撃を済ませて燃料も使い果たしていますから60数トンと
半分以下になりますから充分安全に着陸機能を果たせる。
こういうわけです」
 
●松村健一/技師
通称マツケンとして名声を馳せた天才的設計者。
戦前既にB-29と同じサイズの深山を作り、目下四発攻撃機
「連山」を開発中であった。
 
●西村節郎/技師/エンジン艤装担当
決戦機と期待された四式戦闘機疾風を手掛けた。
戦後秋田県能代市長
 
「出来る出来ないではなくて、そううい事ををやらにゃいかんのやと。
やるとなったらそれ一筋。中島知久平さんていう方はそういう方でした。」
 
●小谷武夫/技師/エンジン設計部長
誉エンジンの開発者。
 
●田中清史/技師/エンジン設計担当
戦後東京プラント社長
 
「落ち着いて実験をやって発動機の形式を決める余裕はなかった。
それでその当時は一応はものにしておりました空冷星形発動機を
基礎型にとりまして、なんとかこれなら、という案が2、3出たんです」
 
●水谷総太郎/エンジン実験課長
戦後富士重工取締役
 
「このエンジンの模型を見まして、まとめるのが大変だと思いました。
問題はエンジンの冷却です」
 
●新山春雄/技師/艤装担当
戦後日産自動車顧問
 
「アメリカがB-29の生産を始めたと知久平さんの耳に入った
ものですから、このままじゃ日本は必ず爆撃される。もう全部の仕事を
やめて、知恵と材料を集めて
富嶽を作るんだと」
 
●渋谷巌/技師/主翼構造担当
戦後富士重工常務取締役
 
「富嶽は飛び上がると翼の先端が1.3メートルたわむんです。全備で
旋回すると5.4メートルもたわみます。構造材料も
当時はそれほど
剛性の高いものはありませんでしたので、
結局は非常にやわらかい
非常におおきな翼になったんです。
超々ジュラルミンを波板にしまして
外皮を貼ってくんです。
そういう剛性を持たせた翼を作ろうと」
 
●宮坂晋/技師/製図担当
連山、深山の飛行試験に立ち会う
戦後富士重工勤務
 
「当時、飛行機の製造は陸軍と海軍に別れていたものですから
陸軍、海軍からそれぞれ40名ずつ小泉製作所の三階に集められて
始められたんです」
 
●内藤子生/技師/空気力学担当
戦後東海大学教授・航空宇宙学
 
「富嶽は翼の大きさに比べて目方が非常に重いわけです
その比率は今日のジェット機と同じくらいの比率なんです。
こういうことを急速にやるには技師を集めて太田のクラブに
缶詰にしてやるのが一番敏速にやれるだろうということで」
 
●中村勝治/技師
戦後スバル自動車顧問
 
「中島さんて非常にデータ、情報を集めておられて、
当時日本でも第一人者でした。もしかしたら軍部より米国の情報
集めてたんじゃないかと思うんです。それらを分析した結果、
今のままではとてもダメだと。勝つ為にはこうしなきゃいけないと」
 
◆重なる難題と迫るアメリカの本土爆撃 
 
富嶽計画は昭和20年6月までに400機完成を
目指して進められた。機体のデザインは何とか完成し
問題だった冷却も、アイディアが考案された。最大の課題は排気タービンで
あったが
実験が継続されていた。成層圏を飛行するにあたり、当初は
気密服を着用し
気密部屋は作らない。従って食事、排尿の問題は
未解決とされていたが、もう少し進んだ段階になると気密室特別委員会が
結成され気密室の研究が進められた。
 
中島知久平はある日、富嶽計画に懐疑的だった役員に
「中島飛行機は金儲けのやめにあるのではない!軍のわからずやどもが
なんと言おうが国家が重大な危機に
直面している今やそれを傍観すること
ができるか!
これを打開すべく最も役に立つ飛行機を作って奉公せね
ばならぬのだ」
と説得。
 
工員たちには
「戦争が終われば富嶽は世界一周の遊覧飛行機になるんだよ」
と言って聞かせた。
 
そんな中、軍需相が命じていた「川西案による富嶽」の存在を中島知久平が
知り「競争している場合ではない、全く必勝戦策が理解されていない!」と
批判した。
 
◆大西滝治郎中将が富嶽計画の中止を伝える
 
大西滝治郎中将が中島を訪ね、
富嶽計画が中止されることを伝えた。
思えば開戦より遥かに前の昭和13年から戦略爆撃機の開発による
必勝戦策を説いて回ったにもかかわらず、昭和19年まで無視され続けた。
富嶽計画がもっと早くから着目されれば日本も焦土にならずに
済んだのかもしれない。
 
中島知久平最大の理解者である大西滝治郎が
成功法であった「富嶽」計画の中止を伝え、
特攻作戦を始めたとされるのは、
なんとも言い難い悲運であった。
 
各技師は元の工場へ戻された。いつ完成するかわからない飛行機よりも
いま出来上がる飛行機が一機でも欲しい。軍需相は中島飛行機を接収して
軍の直轄とするとともに攻撃機「剣」の生産を開始した。
 
10年、20年先の計画を立てられぬ軍部の石頭が、
日本の不幸はそこにあった。その致命的な欠陥を軍部は大和魂で
埋めようと多くの若い命が散った。
 
◆戦後
 
戦後はGHQにより財閥、および民間であっても
飛行機の製造の一切が禁止され、中島飛行機は解体した。
富嶽に関するもので残っているのは
三面図と富嶽製作日記と必勝戦策だけである。
中島知久平はA級戦犯指定を受けたが後に解除されている。
 
◆富嶽の残したもの
 
富嶽計画は中止となったが
その技術は今日の技術大国日本に脈々と受け継がれている。
戦後の日本の成長は、こうした技術者たちの努力の賜物であり
富嶽は姿を変え不死鳥のように蘇ったといえよう。
 
中島知久平は、晩年、親しい側近に次のようにもらしていたという。
 
「今の政治家の中には一年先はおろか、明日の事すら考えて
いないのがいる。政治家たるものは少なくとも五年先
十年先くらいのことを考えていないといかんな」
  

富嶽

  
出展
『さらば空中戦艦富嶽』碇義朗
『巨人中島知久平』渡部一英
NNN系列テレビ番組1979年
『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』
 

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2015年4月26日 (日)

X-47ペガサス 無人ステルス機

X-47ペガサス

 
X-47ペガサスはアメリカ・ノースロップグラマン社が
海軍での運用を目的に
開発中の無人ステルス機である。
2013年に既に原子力空母からのカタパルト発進に成功し
運用次第では偵察機にも爆撃機にも成り得る。
 
※画像上はグアム上空を飛行中のX-47(想像図)

 
そして2015年4月
日本の首相官邸がドローンで騒いでいる頃、同じ日に
米軍は爆撃機仕様X-47Bの空中給油に成功した
(Xは試験機、Bは爆撃機を表す)
 

X-47ペガサス

X-47ペガサス

 
パイロット不要の無人機は戦死の確率がゼロなので軍事作戦における
革命的ともいえる大幅な合理化を達成している。どこの国でもいえることだが
戦闘機一機を購入する額よりも、パイロット一名を一人前にするために
何倍もの莫大な金額と時間を要する。よって撃墜や事故等による
パイロット一名の損失は甚大なる打撃となる上、国民感情に影響を与える。
捕虜となる心配もない、この無人機のオペレーターは、ビデオゲームのように
戦地から遠く離れた地上でステルス機を操作し、地上を爆撃すると
定時退社で家に帰ってシャワーを浴び家族にも会うことができる。
 

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

Photo

X_2

Photo_2 
十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

Photo_3

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

03_2

なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

04_2

搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

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零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

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▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
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零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

D

2015年1月28日 (水)

ゼロ戦のカラーリング・塗装表(中島と三菱の違い)

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 
 
機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の塗装について
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは

暗緑色が胴体の斜めに入っているのが中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
 
日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。

あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 
零戦の日の丸 

 
画像使用についてのお願い

215221型と52型の違いについてはこちら





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2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷採石場跡(大谷資料館)01

大谷採石場跡(大谷資料館)02

大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジンと機体が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

大谷採石場跡(大谷資料館)06

大谷採石場跡(大谷資料館)07

 

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ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

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大谷採石場跡(大谷資料館)16

大谷採石場跡(大谷資料館)17

▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。
  
------------------------------

 
【大谷地下空間に存在した戦闘機「疾風」工場と秘密基地計画】
(個別ページへ)

昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
 
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。

  
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
 
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
 
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
 
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。

04_2 
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)

  
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
 
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
 
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
 
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
 
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
 

01 
▲地下工場で製造された疾風の胴体
 
◆城山地下工場概要

城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
 
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。

当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。

なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
 
◆地下工場の総員と勤務体制
 
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
 

02 
▲地下工場で製造された疾風の主翼
  

◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
 

05 
▲岡本西小学校北端の滑走路より離陸する「疾風」(想像図)

 
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
 
出典

米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
 
US. National Archives and Records Administration