2016年12月 7日 (水)

YS-11宇都宮へ定期点検飛行

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2016年12月7日、入間の飛行点検隊のYS-11が
3ヶ月に一度の定期試験で宇都宮へ飛来しました。
自宅の窓から撮影できる距離ですので撮影致しました。

無断転載が多すぎる

このサイトで公開している私のイラストや写真、文章を無断転載されまくって
なんだかもう悲しいやら情けないやらで、泣けてきます。
 
お金なんて取らないし、使うのは構わないけど、
一声、声をかけてくださいと言ってるだけなのに。
 

特に多いのがまとめサイトです。パクった側が
検索上位に表示され、私のオリジナルが埋もれるという有り様、
なんとかならないものか。
 
私は、多くの時間とお金と、たくさんの交渉を経て、
写真を撮っているんです!
 
例えば最も盗用の多い南の島の綺麗なビーチの写真!
旅行系まとめサイトにパクられまくりです。(ごく一例です!)
私はその写真を撮るためにお金を払って長時間飛行機に乗って、
レンタカーを手配して
天気が良い日を何日も待って、
慣れない英会話を駆使してその場所に到達して、涼しげな写真も
ファインダーを覗く側は必死で汗だくです。
 
パクるほうは右クリックで簡単に保存して、現地に行った事も無いのに
記事を書いて「いかがでしたか?」としめくくる!
 

イラストも然りです!
ひどいのになると、ヤフオクでグッズにして売っていたり。
大手まとめサイトがあまりにもひどいので、実は以前に
損害賠償を請求したこともあるんですけど、
「投稿者の責任でサイト運営者は関係ない」で一蹴されてしまいました。
 
そんなに嫌ならインターネットに画像なんかアップしなければいいゃん、と仰る
方が必ずおられますが、それは無茶苦茶な理論です。
盗まれるのが嫌なら品物を店頭に並べるなと言っているのと同じです。
 
繰り返しますが、お金なんて要りませんし、
「使います」と一言だけ言ってもらえればそれでいいんです!
  
あ~~~、言いたいことを言ってすっきりしました。
悔しいですし、もはや手におえない状態ですが、私もこれから
変わらず新しいものを生み出し続けるであろう。
 
この話はこれでおわり!

2016年12月 6日 (火)

再放送予定

無事、放送終了しました。
ご覧くださった方々、ありがとうございました。
再放送予定を追加致しました。
  
NHK Eテレ12月6日午後10時-10時45分放送
NHK Eテレ12月13日午後12時-12時45分放送
先人たちの底力 知恵泉
「ゼロ戦開発の光と影~世界に通用する技術を生むには~」
 
上記の番組内で使われるゼロ戦のイラストを描かせて頂きました。
45分間のドキュメント番組となっております。
万障お繰り合わせの上、ぜひご覧ください。

2016年12月 5日 (月)

西住みほ撮影

西住みほ,コスプレ

都内のコスプレ専用スタジオにて
杏樹ちゃんの撮影を仰せつかりました。今回は
アニメ映画「ガールズ&パンツァー」のみぽりんです。
教室や廃墟など、様々なシチュエーションで2000枚
くらい撮りました。キャラクターになりきるのに
ウィッグの色選びからカラコン、メイクのやり方が
非常に難しいようでした。これから背景にIV号戦車を
組み合わせていきます。

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いろは坂の深夜

いろは坂

日光いろは坂(下り)あ さ き ゆ め み し
 「ゆ」のコーナーで撮影しました。
   
みんカラ投稿企画!愛車と夜景のコラボ写真を投稿してください! 
以上の企画に応募しましたお写真でございます。

2016年12月 1日 (木)

1/18 エリートフォースの零戦21型

1/18 エリートフォースの零戦

1/18エリートフォースシリーズ(BBI社製 ELITE FORCE)の
零戦です。量産品で手に入る限り一番大きな
零戦の模型です。これ以上大きなものはありません。
大きさ比較のため杏樹ちゃんに持ってもらいました。 
 
暗緑色ですが、これは零戦21型です。
機体のカラーリングは虎110号機。
第261海軍航空隊(虎)での内地訓練仕様です。
帯の色は諸説ありますが、これは黄色と白のパターン。
 
製品は彩色済みなので、箱から出して組み立てるだけです。
脚出し、収納いずれか選択可能。またキャノピー(風防)も
開閉選択可。増槽も取り外し可。おまけにパイロットフィギュア付き。
 
物足りないという方には
ディティールアップのベースにもいいかもしれません。
ただ、大きいなりに、既に相当数のリベットが打たれています。
 
一般的なモデルが1/48、あるいは1/32。
昔バンダイから出ていたのが1/24でしたから
それよりもっともっと大きいです。

海上自衛隊もうひとつの黎明期 技術士官編

中島さんに教わったお話しで、ゼロ戦とはまた違う話ですので
番外編としてここに記します。海上自衛隊黎明期には
技術畑でもたいへんな苦労がありました。
旧海軍の技術士官がメーカーに入って現在の
メーカーの礎を築いたという記録でもあります。
 
以下、中島さんのお話し。
 
---------------------
 
昭和33年頃の話です。私が海上自衛隊に居った頃だったんですが、
あの頃は旧海軍の技術士官の方が、日本無線とか、東芝とか日立製作所とか
メーカーに就職しておられたんですよね。あの頃は技術者が少なかったんです。
 
各メーカーは防衛庁の仕事は儲からんから、やりたがらなかったんですよ。
検査がうるさいしとか言ってね。そういうことでね、我々防衛省側ですからね、
メーカーに「頼むからこれ作ってくれ」と、頭下げて
頼みよったですよ。
そういう時代が昭和30年代のはじめでしたね。
 
それで、メーカーには
旧海軍の技術士官の方がおられるから、
そこへ行って
お願いしますと頼み込んでね。だいぶお世話になりました。
で、そういう関係で、官民仲良く仕事をしようじゃないかという
ことで、会を作りました。
 
そういうことで会で旧海軍の先輩たちとお会いして
いろいろと教えを頂いて、旧海軍はこうだったとかね。
話をよくきいたりなんかもしましたからね。
  
当時、業界との付き合いは
今みたいに線を引いてやる形じゃなかったですから。
 
私が今でも一番憶えているのは、私はもともと海上自衛隊で
パイロット採用でしたが、
それからエレキの勉強して、整備に変わって
それからまた技術の部門にかわったんです。
 
昭和34年、六本木に着任したとき、旧海軍の技術士官の人が
課長だったんです。で、その課長から言われたことが
今でも印象に残っているんです。
 
「おい、お前今までオペレーターだったけれどね、
これから技術幹部になるんだからね、しっかり技術の勉強してくれ」
 
と。それから
言われたことが、旧海軍は海軍工廠ちゅうのを持ってた
わけです。物
を実際に自分たちでつくってたわけです。
だから海軍の技術士官は海軍工廠でも働いてたわけですけどね
行政だけじゃなくて、で実地をよく知っているし
実物がどうやって物ができてくるか知ってるわけですよ。
 
だけど現在の海上自衛隊には海軍工廠がないんだと。
だからね、
 
「メーカーを
海軍工廠だと思え」
 
と。これには僕もびっくりして。
みんなの前でですよ。
  
だから仲良くなれと。

例えば検査にいったときなんかにね、夕方5時になって帰ろうとしたらね、
「御夕食でもどうですか」と言われたらね、誘いに乗れと。
誘いに乗って、一緒に飯を食って、仲良くなってくれと。
友達付き合いをしっかりしてね、そうしないと仕事うまくいかんから。
 
メーカーでもどういう仕事をやっているのか知らんといかんからね。
技術幹部というものは。
昔はそういう勉強の場があったけど
今はないから。
で、会社と仲よくなれと。で最後に言ったのが今でも
忘れられない。ただ、コレ(小指)とコレ(¥マーク)はだめよと。
 
いくらでも飲めと。付き合って仲よくなれと。堂々と言われましたからね。
だから本当に会社から誘われたときは飲んでましたね。
 
当時、私飲めなかったんでね、会社の人も営業も技術の人も
俺をだしにして飲んでるなと(笑)
 
で、家に帰って夕食を食べるときは缶ビールの350のを一本
飲んで、あ、当時は350じゃない。小瓶ちゅうのがありましたかね。
それを一生懸命に飲んで練習したんですよ。
 
悪酔いしないように。そういう古きよき時代でしたね。
だから課長になったら、正月になったらメーカーの人も
ここに私の家に来るし、もちろん会員も2日の夜はここで
集まるようになってましたんで、70~80名
いれかわりたちかわり来て(笑)
 
お酒は買わなくていいんですよ。メーカーの人が
みんな持ってきてくれるから。だから料理だけ用意すれば
よかったんですよ。だからだいぶ世話になったんですよ。ワイフにも。
 
で、現役と会社の人でワイワイやってた。
それが出来た時代ですよね。今はそんなことやったら大問題ですけどね(笑)

2016年11月30日 (水)

10式戦車とIV号戦車Tシャツ新発売

新商品を製作しました。
 
今回は戦車です!10式戦車とIV号戦車!入荷済み
発売中です!小ロッドのため、数に限りがございます。
 
10式戦車Tシャツ販売ページへ
IV号戦車販売ページへ
 
商品化アイデアはほとんど皆様から頂戴したものです!
リクエストお待ちしております!

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2016年11月29日 (火)

青木中尉の雷電

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デジタルライブラリに新しく画像を追加しました。
青木中尉の雷電です。

2016年11月25日 (金)

撮影に行ってきました

女子高生

女子高生

 
この度はネットアイドルの
杏樹ちゃんのカメラマンを仰せつかり
スタジオで撮影してきました。
 
本人の許可を頂戴しまして
ほんの少しだけ掲載させて頂きます。
 
撮影お疲れ様でした!
今後ともよろしくお願い致します!

女子高生と車

女子高生と車

車を運転する女子高生 
P.S
車も使って撮影しました。というのも、杏樹ちゃんマニュアル車大好き。
モータースポーツファンで、夢は赤い跳ね馬(もちろんHパターンの
マニュアル)
に乗る事だそうです。
 
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こういう感じで様々な状況で撮影承っております。人物も頑張ります。
年齢問わずモデルさん募集中であります。

2016年11月24日 (木)

中島又雄中尉(零戦パイロット)B-29との戦い

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今回は零戦パイロットで元海軍中尉の中島又雄さんに
お話を伺いました。主にB-29との空戦の模様をお聞きして参りました。
以下、中島又雄さんへのインタビューです。
 

◆海軍兵学校~霞ヶ浦航空隊で飛行学生卒業
  
海軍兵学校のクラスメート73期というのは大まかに言うと全部で
900名なんですよ。その内、船が400名、飛行機が500名と
別れたんですよね。
戦死者は船が180名、飛行機160名かな。
あんまり変わらないんですね。
 
船は練習艦隊が昔はあったけれども
そのまま実戦配置ですよね。昭和19年3月に卒業して
戦死第一号が翌々月の5月ですよ。
 
それに比べると飛行機は、半年しか戦争してないんですよ。
私が実戦に出たのが昭和20年5月末からですけれどね。
飛行学生を卒業したのが昭和19年の3月なんです。
飛行機は全部で丸一年間。そのうち半年が赤とんぼ、あとの半年が
実用機のゼロ戦ということで、飛行機の卒業が終戦の年の3月なんです。
だから簡単に言うと船は一年半。飛行機は半年しか戦争してないんです。
 
そういうことで、私たちは赤とんぼを半年、ゼロ戦を半年やりますから一応、
操縦できるようになってます。
 
◆第332海軍航空隊着任~対超重爆戦に備える
 
第332海軍航空隊に行きましたら八木勝利中佐に
「お前たちは使い物にならん」
と言われまして
実戦には上げてもらえなかった。
 
司令から見れば練習航空隊から出たてですから。
終戦まであまり実戦に出してもらえなかったクラスメートも居ますね。
例えば厚木の航空隊には10名近く行ったんですけどね
実戦にあがってないですね。
先輩達や予科練出身者が居ますから。
私が着任した晩に司令にあいさつしたら
 
「お前たちは使い物にならんから岩国で再錬成だ」
といって岩国へ行きました。
 
2月28日に卒業して三月一日に中尉になって第332海軍航空隊に着任したと。
それですぐに岩国行ったんです。
 
岩国での再錬成は二ヶ月半ほどでした。
というのもですね、この零戦の実用機で筑波で
訓練したのはいわゆるこれなんですよ。ドッグファイト。
いまの言葉で言うとドッグファイトと言いますかね。
その訓練をやってたわけですよ。
 
零戦はそれがとても優秀な飛行機でしてね、
グラマンのF4Fと空戦をやるのだったら完全にこっちが強かったんですよ。
旋回半径が小さいんですね。渡りあうと旋回半径小さいからすぐ敵の後ろに
入れる。
そして後ろから攻撃できるからですね。
実際の訓練も筑波ではドッグファイトばっかりやっていたんですよ。
 
ところが、着任した鳴尾の第332海軍航空隊というのは
どういう航空隊かというと、局地戦闘機隊で大阪の防衛を担うものでした。
 
・・・ただし、それは表面上です。
大阪の防衛は伊丹に陸軍の三式戦闘機「飛燕」という
飛行機が300機ぐらいおりまして、上がるのはだいたい100機ぐらい。
空襲にきたときはあがって、陸軍は日本の内地を守るというような
任務でしたから。それがあがって大阪上空を守ると。
 
一方で、海軍というのはもともと海の上で戦う軍隊であるし
逆に内地で戦う場合は軍港の近くで軍港を守るというのが
局地戦闘機という表現をしますんですかね。
局地の防衛しかやれないわけですよね。
 
それじゃ鳴尾の第332海軍航空隊は何の為にあそこに
配置されていたかというと、昔は川西と言ってましたね。川西航空機。
今は新明和と
呼ばれるようになりましたが、
 
その川西航空機で紫電改という
一番新しい戦闘機を作ってまして、
その工場が鳴尾にあったんですよ。
だからその紫電改の工場を守るんだと、
おおっぴらには言わないけども、
お前たちの任務は鳴尾を守るんだという
事でしたね。

従って、鳴尾に飛来するB-29を追い払えばいいと。
爆弾を落とされないようにしろということで。だから相手がB-29ですから
ドッグファイトはできないわけですね。
全然戦法が違うわけですよ。
B29に対する攻撃戦法はいくつかありまして
主に、前上方攻撃、逆落とし直上方攻撃、後上方攻撃などです。
 
一番リスクが高いのは後方からの攻撃です。
後方から攻撃しますと、まずB-29の後部には20ミリが飛び出してます。
20ミリは一発でも当たったらひとたまりもない。それから上下の
13ミリもこちらに向くわけです。
後ろから攻撃するとB-29の機銃が一斉にこちらをむくわけです。
零戦との相対速度から割るとこちらからも当たるけれど向こうからも
当てやすいと。
  
※篠原補足
B-29の機銃は20ミリ×2(後方)13ミリ×8(正面×2、上方2、下方×2、後方×2)

 
ですからB-29に対して岩国で一番訓練したのは
逆落とし直上方です。B-29に接敵して、真上から背面飛行になって
逆落としで撃っていくと。そうするとB-29の機銃がありますけど
真上は向かず死角になるんですね。接敵するときは撃ってくるけど。
そういうわけで岩国では一生懸命この直上方訓練をやらされましたね。
 
今までは巴戦、アクロバットしかやってこなかったものですから、
戦法としては全然違うんだけど、アクロバットからみれば易しいんですよね。
直線飛行から降下に入るだけで。
 
ただ、間合いが難しい。どのタイミングで逆落としすると
ちょうど射撃距離になったときB-29の真上から撃てるか。
その訓練を一生懸命やったんですね。
その訓練を岩国で2ヶ月半くらい訓練して帰ってきました。
 
◆零戦52型丙、B-29との戦い
 
ところが、大阪にも戻ったらね、「それやるな」ちゅうことになっちゃった。
何故かと申しますと、先程申し上げたように
川西航空機を守るのが私たちの任務だから、直上方やったら
B-29は諦めて爆撃針路を崩さないわけですよね。
 
B-29のほうは、正面からゼロ戦が来ると怖いわけですよね。
前上方攻撃といって、高度差があったほうがこちらは楽ですから
上から接敵してB-29の機首を狙うわけです。するとB-29は
怖いから避けるでしょう。避けるということは爆弾の命中精度が落ちる訳です。
 
零戦52型丙の武装は20ミリ×2、13ミリ×3。
前方からの攻撃であれば
B-29の13ミリ×4で、こちらが遥かに勝り、優位感を持って戦えました。
戦闘の場面においては
敵に勝る武装を持っていれば恐怖心は起きません。
 
怖いのは待避のときです。一撃後、すれ違った後には
B-29に後ろを見せる形になります。B-29の20ミリ×2、13ミリ×4が
こちらを向くわけです。
相対速度400ノットで離れて行く計算ですが
このときだけは長い時間に感じました。
 
篠原
撃墜せず、ただ追い払えば良かったのですね。

 
ええ、そういうことです。
要するに鳴尾の川西航空機の工場がやられなきゃいいということで。
 
ですけど、結果的には川西航空機の工場は爆弾が落とされたんですよ。
それは雲上爆撃というか、レーダー爆撃で落とされましたね。
そのとき私は上がらなかったんですが、我々の隊は20機近く
上げたんですがね、500メートルくらいのところで
ものすごい厚い雲があったんですよね。だから結局雲突き破って
上にあがれずに雲の下をこうまわってて、それで爆撃されたと、
記憶がありますけれどね。
 
篠原
どういった戦法でB-29と戦ったのですか

  
B-29に接敵して、照準器の覗きながら800メートルで引き金を引いて
200メートルで引き金を離して待避。逃げるわけですね。真正面に行くと
ぶつかりますから。
 
零戦のOPL照準器というのは、ガラス版で下から映像を反射する仕組みに
なっています。
映像というのはリングですね。
 
まず地上で一生懸命、お稽古したのは、今で言うところのシミュレーターです。
当時はシミュレータとは言いませんでしたけど、その装置の仕組みは
B-29の模型をレールの上で走らせるわけです。距離感を掴むために
据え付けた照準器を覗きながら、レールの上を走るB-29に照準するわけです。
 
リングは同心円で5つぐらいありましたかね。
B-29の翼の大きさがそのリングの3番目か4番目に重なるくらいだったと思う
のですが、そのときが800メートルだからその瞬間に引き金引いて。
リングの一番外側にきたときに200メートルぐらいだから逃げんとぶつかると。
 
そういう訓練をOPL照準器でやっていたので、同じことを空中でやるわけ
ですけどね、
最初だけ照準器のリングで測定してましたが、
何回もやっていると、だいたいがカンで、このくらいが800、このくらいが
200と、
わかるようになります。
 
実戦ではもちろん、向こうから弾を撃ってくるわけですよ。
5発に一発、曳光弾と言って赤い煙を吐く弾でした。最初は白い煙に見えるけど、
近くでみると赤く見える。その曳光弾がまっすぐ飛んできて、自分に当たるような
感じがするわけですよね。でも、当たらずに目の前からヒューっと横に、避けて行く
そういう印象が残ってますね。
 
そういうことで、弾が飛んでくる。だけど、エンジンがありますからね。
エンジンが盾になって、身体には絶対当たらんという感じがしました。
防弾ガラスなんかなくても、常に安心感がありました。
 
ただ、頭をやられたらイチコロですからね。
その時はしょうがねえやという感じで、苦しまず一瞬であの世へ行ける
わけですから、恐怖心なんか全然起こらないですね。
で、B-29は多少逃げますからね。
 
「これは逃げやがる」と、追いかける一心で
怖さはあんまりなかったですなあ。

篠原
結局、実戦で逆落とし直上方攻撃は実施しなかったのですね

 
それは実戦では一度もやりませんでした。先程申し上げた通り、
「やるな」というので。何の為に二ヶ月以上も苦労したんだと思いましたけど。

篠原
巨大なB-29が回避行動を取るのはどのような様子でしたか

この程度ですよね。(B-29の限界バンク角度)
旋回して追いかけて行くとすぐに観念しますけどね。
B-29は編隊を組んでたからあんまり急激な逃げ方はしないんですよ。
 
ほぼ諦めでしょうね。日本の戦闘機が来るならしょうがないと。
B-29も最初は高度8000だったのが高度5000に下げて来てますからね。
5000ちゅうたら零戦の一番性能の良いところですけれどね。
もう、なめられたなちゅう感じでしたね。
 
篠原
3号爆弾を実戦でお使いになってますが、戦果はいかがでしたか
 
3号爆弾を私も一回だけ落としたことあるんですけど
あれは当たらなかったですなあ。上で、早く落とし過ぎたんですよね。

落としてから4秒ぐらいで爆発するようになっとるんです。
バーっと爆発したけど、B-29のちょっと前でしたね
報告では7機落とした奴おりますからね。ほとんど一個編隊。
下士官だったですけど。
それからはB-29も編隊を単縦陣になって、一列で大阪へ
来るようになりました。
 
篠原
B-29への攻撃は何回経験されたのですか
 
飛行記録を焼いちゃってますから正確な数は覚えてないんですが
5月、6月、7月の間の2ヶ月半ぐらい60日、4で割ると15。
だからB29の邀撃には。12、3回はあがってますね。
 
いっぺん上がるでしょう。上がると2時間以上飛びますからね。
B-29は200機ぐらい来てますから、9機編隊だとしたって22個編隊以上
ありますからね。それを次々に攻撃する。3日おきぐらいに上がりました
からね。だからかなり上がってますよね。いっぺん上がったときには
少なくとも10回くらい攻撃してますからね。
 
何度も攻撃して複雑な運動になると、だんだん高度が落ちるんですよ。
そうしたら今度は前下方攻撃ですね。最初は前上方から、前下方、
最後の編隊になると
地上から電話で「これが最後の編隊だ」と言って
きますからね。
  
それを京都の方へ追っかけていくと伊勢湾へ逃げて帰っていきましたね。
B-29は京都の上に行ったって爆弾を落とさないわけですよ。
余裕があるなと、正直そう思った。京都に一発も落としてませんからね。
アメリカは余裕をもった戦争しているなと、当時から思ってました。
 
篠原
B-29邀撃の合間に潮岬へ哨戒飛行されたお話を少しお伺いします
 
潮岬の哨戒は三回くらいは行ってますかなあ。
B-29が来ない日は哨戒に上がっておりました。
 
哨戒は、のんびりでね。航空糧食といって居眠り防止のチョコレートとか
抹茶のお菓子をもらいから、それを食べながら。本当に飛んでいると
眠くなるくらいです。
何もなくて帰ってくると。
 
それで一回だけB-24にお会いしましたけどね。
あれはもう完全に水平直線飛行で逃げているB-24を
攻撃を繰り返すわけですけれど。
 
篠原
零戦でも急降下引き上げ時にブラックアウトが起こるそうですが
  
はい、急降下をやって。ギューっと操縦桿を引いて引き上げるわけですね。
目が真っ暗になります。その時はバっと緩めるんです。
空戦の時もそうですよね。空戦でスピードが出てる時に
 
操縦桿をグっと引くと、ブラックアウトという感覚が出てきますよね。
そう感じたらすぐ緩めんといけません。失神したら終わりですからね。
緩めると、スっと明るくなりますな。
 
でも300ノット近くにならないとブラックアウトに
ならないんじゃないですかなあ。主に急降下のときですね。
垂直旋回でのブラックアウトはまずないですね。250ノットくらいなら大丈夫
です。300ノットで急降下、引き起こして、暗くなって、
こりゃいかんと思って緩めると収まる、そういった感じです。
 
篠原
零戦52型丙は防備も強化されていた飛行機だったそうですが
卑怯だと感じて防弾装備を取り外してしまったとか
 
ええ、零戦の52丙というような言い方もしてましたけどね
防弾ガラスを取り付けられたんです。四角い5センチくらいの厚みの
ガラスを。風防の前と後ろにひとつずつ。同じぐらいの大きさだったと思います。
要するに前や真後ろから弾が来て、頭がやられないようにと。
頭やられたら終わりですからね。そういうわけで途中で取り着けようとしたん
ですけど、多少は見栄もあったのかもしれません。
 
「こんな防御装置なんか要らん!命なんか惜しくない!外せ!」
整備員に言って外させました。本当はあったら命が助かるかも
しれんのですが、
そんな卑怯な防弾ガラスと思ってましたから。
 
事実ね、防弾ガラス越しだと前が見えにくいんですよ。防弾ガラスが
5センチも間に入ると光りが屈折するわけでしょう。
真正面がよく見えない
という感じがするからね。
あんなバカなもの、見えにくいからはずせといって。
 
見えにくいというよりも、防弾なんか要らん!ということですよ。
邪魔だっちゅって。はっはっは(笑)
 
それに防弾ガラスのぶん重量が増すから飛行機の性能にすぐ影響するわけ
ですからね。
そりゃいま考えられないけれど、当時はそういう精神状態でした
からね。
我々は。教育環境というか小さいころからの気持ちの積み重なり
じゃないですかね。卑怯なことはしちゃいかんと。
 
いま考えると、おかしいですし軍の組織として考えればいけないことですよね。
せっかく命を助けてくれる、パイロットが消耗しないために考えて着けてくれた
んだと言われても・・・当時はそんなことお構いなしでしたな。
 
篠原
飛行機のトラブルはなかったですか
 
そうですね。私が乗った零戦で具合が悪くて下りたということはありませんね。
多少は油漏れとかで機体が汚れた事は
ありましたけど致命的なトラブルは
ありませんでした。
 
それにゼロ戦は軽い飛行機だったからエンジン止まってもどこにでも
不時着できるという安心感がありました。
非常に操縦し易いし、
安定しているちゅうかね。
  
篠原
零戦で高度1万メートルまで上昇されたそうですが、いかがでしたか
 
エンジンはフルで、プロペラピッチは特別調整した覚えはありませんね。
上昇角はほんの少しですよ。少しずつ。少しずつね。少しでも姿勢
傾ければ落ちますからね。
 
酸素は一定以上の高度でマスクから出てくるのですが全開にしていました。
1万メートルに到達して電話で「只今10500メートルこれから降下する」と
言ったら、それだけで息が切れて。瀬戸内海が地図と同じように箱庭のよう
に見えました。
 
篠原
士官以上とか飛行隊長は専用の飛行機があったのですか
 
専用機はありませんでした。割り当ての機番号書いてあればその機番号に
乗るだけで、
これはもう隊長機とか、そういうのはありません。
 
少なくとも私の隊ではそういう事はありませんでした。
私の隊なんかで考えると専用機は考えられないことですな。
汎用の飛行機で、古い型と新しい型はあったと思いますけれど
そういう区別はつけられていなかった気がしますね。
 
当時、飛べる飛行機の機番号書いて、搭乗割をバーっと
何も考えずに駆け込みますからね。
これはあの隊長の飛行機だとかは聞いたことはありません。
どれでもいい、みんな52型でしたけれどどれでもみんな
同じように良い飛行機だというような感じでしたな。

篠原
第332海軍航空隊の零戦の日の丸には白いフチはあったんですか。
 
なかったっと思います。淵なしでそのまま日の丸が
描いてあったと思います。
 
篠原
紫電改についての印象は如何ですか
 
一度、第343海軍航空隊の紫電改が燃料補給に降りてきたことが
ありましてね、そのパイロットが予備学生出身のパイロットだったん
ですが、いま四国で邀撃にあがって3機グラマンを落としてきたと、
指をこう三本やってね、自慢そうに話していたのが記憶に残ってます。
だから我々から見れば紫電改っちゅうのは憧れの飛行機でした。
目の前で作ってましたしね。
 
零戦が本当に良い飛行機でしたから後が続かなくてね
もうちょっと早くに紫電改を作っておればね。
 
篠原
雷電の印象は如何ですか
 
あれだけは乗りたくなかったですね。殺人機と言われましてね、
マグロに羽根をはやしたような格好で、
ずんぐりむっくりで。
エンジンは消防車みたいな音がして。
操縦席に座ったら視界も悪い。
それで一応、操縦のマニュアルを
もらったんですがね。
 
「貴様らも、いよいろ雷電に乗せるぞ!」と言われていたんですが
最後まで乗らずに零戦でした。
 
篠原
関行男大尉が霞ヶ浦で教官だったのですね
 
ちょうど関さんにフィアンセが出来た時代が私どもが霞ヶ浦におるときの
教官でしてね。フィアンセが面会にきよったですよ。
 
それで我々学生が「おい!あれ関さんのあれだぞ!」といって見てました。
それで結婚してすぐですからね。敷島隊の特攻は。
 
教官は海兵70期で10何人くらいいらっしゃいましたけどね。
関さんも我々から見れば普通の人でしたよ。
亡くなった軍神に対して申し訳ないけども。
 
印象的だったのは言葉遣いでした。関さんは
「てめえたちはなんじゃい!」というような怒り方をするんですよ。
「てれんこてれんこしやがって!」とかね。よく覚えてますよ。
 
普通は「貴様たちはなんだ!」というような怒り方をするんですが
どちらかというと関さんはヤクザ言葉でしたね。
 
※篠原補足
当時、霞ヶ浦航空隊の教官は
海兵70期が主力で関行大尉、市川大尉(戦後海自)
余田大尉(戦後八戸沖で殉職・当時石井)など。

 
◆8月16日の特攻隊編成
 
篠原
昭和20年8月16日に特攻隊を編成してというお話しですけれども
海兵出身の方が先頭で
 
我々は海軍兵学校出身のプライドを持ってましたからね。
俺たちは本当のの軍人だと。予備学生出身の方は
大学行って勉強していたけれど、戦争のことは勉強していないでしょう。
それで我々が率先して行くのは当然だというような考えでね。
 
永遠のゼロなんか見ますとね、投票箱みたいの置いて
希望を書いて部屋を出るとき出せと言ったとか。
我々から見たらバカなことをやってるなと思ったけど
事実そんな事あったんかなと思ったんですが、我々の時なんかは
そんな書いている暇なんか無いんですよね。16日の夕方、総員集合と
言われて集まって、

「明朝を期して特攻隊をやるから特攻隊を編成する!飛行士、やれ!」
 
と。それからいちいち希望なんか聞いていないわけですよ(笑)
「わかりました、やりましょう」ちゅうて
 
それで士官名簿で海軍兵学校出身の者を上から順に書いて。
ただ、予備士官が途中に入っていたからそれを外すわけですね。
外したんです。我々先任がおったけれども、予備学生出身と兵学校出身は
名簿を見ればはっきりしてますからね。
 
それは私と同じ中尉でも13期の予備学生がいっぱいいましたけれど、
私達より早く中尉になってる人がおるんですよ。13期も二種類ありましてね、
大学出身の13期と
高等専門学校出身の13期がいるんですよ。
高等専門学校出身は少尉でした。
 
我々、海軍兵学校出身の中尉、それから大学出の人は中尉と
一部に大尉が居ましたね。だからあれはどうしてなのか、
大学から召集したときの時期の違いがちょっとあたったので
差が出たんだと思います。で、予備学生はずして我々をぜんぶ入れて。
足りない分を予備学生を入れた訳です。
 
だから幹部だけで間に合ったから。特攻隊の出撃名簿に
下士官はひとりもいなかったんです。
 
その命令を出した後も私は残務整理がありましたから、指揮所に
残っていましたら
予科練出身の下士官5名程が私のところへやってきて
 
「何故、士官だけ特攻へ行けて我々予科練出身者は出撃名簿に入れないのか」
と詰め寄られました。
 
私はそれは最初は嬉しかったですね。
嬉しかったっちゅう意味は、戦争終わったんだから普通はね、ああ、これで
命助かったなーと思うでしょう。
だから戦争終わってから特攻に行くなんて
考えられないことだけどもね、
 
下士官が来て、なんで士官だけ行って俺たちを行かせないんだと言ってね。
終戦後の特攻に希望してきましたからね。涙流しながら来たんですよ。
 
鳴尾には150機くらいの零戦が残ってました。8月16日にはその内の
40機くらいが飛べるようになっていたから
40機の特攻隊を編成したわけです。
 
「飛行機はいっぱいある。我々が40機で特攻に行っても、あと110機
残ってるから、
整備すれば10機でも20機でもまた次の日飛べるように
なるから
諦めんでいい。後に続いて来い」
 
そう言ってなだめたんですけどね。
それでも一人だけは最後まで、
「分隊士!分隊士の座席の後ろに積んでいってくれ」と。
そういうのがおったですね。嬉しかったですねえ。
 
篠原
中島さんご自身は中尉で士官ですからご自身は16日に特攻に行かれて
部下である下士官は助かれば嬉しいというお気持ちだったのですね
 
ええ、普通なら下士官は助かるでしょう。予備学生も私たちが勝手に
指名したわけですが
「なんだ」と不満に思われた方もいらっしゃると
思うけれども、
それはさすがに士官ですから何も文句は言っては
きませんでした。
 
文句というか、逆に行かせろと言ってきたのは、さきほどの特攻の選抜から
漏れた下士官が言ってきただけですよ。だからやっぱり、みんなの
心理状態がそういう状態だったんですね。
 
我々海軍兵学校出身者の軍人はアメリカが占領して進駐してきたら
どうせ殺されると思ってたですよ。
 
だから死に場所が与えられたからありがたいと思ってましたよ。
みんな指名されたから喜んでいるくらいですよ。正直言ってそうです。
下士官もまだ18歳ぐらいじゃないですかねえ。
やっぱり私は嬉しかったですよ。
こういう人たちまで若いのにみんなそう言ってくれるかと思って。
 
そしてあんまりに、俺は明日特攻で死ぬんかというそういう切実な
気持ちは無かったですなあ。正直言って。
普通の邀撃にあがるのとおなじぐらいの気持ちでいましたね。
特攻を命じられて不満を漏らすものは一人も居ませんでした。
 
篠原
当時は、戦死した後は靖国神社にまつってくれるから安心だと
感じていらっしゃっていたのですね
 
戦死した後の事は・・・
当時は戦死者の家族に対してはものすごく尊敬を払ってましたし
そういう人たちの遺族が苦労しているという話は全然聞きませんでした。
 
戦死者の遺族に対する手当てが具体的にはどういうものだか
知りませんでしたけど、自分が死んだらちゃんと国が家族の
面倒見てくれるはずだと思ってるから安心でした。
 
遺族年金なんかも出るでしょう。そんな言葉は当時は
知らなかったけれど、そういうのが出て安心だと思う
から、後の事は心配は全然しませんでしたね。
 
「俺はこれで死ぬかもしれない。一人息子の俺が死んだら
両親は寂しくなるが、戦没者の遺族として国が面倒を見てくれるし
神として靖国神社に祭られるのだから心配ない」
 
何の憂慮もありませんでした。
 
つづく
 
証言者プロフィール
◆中島又雄さん(元海軍中尉)
海軍兵学校73黄卒業。霞ヶ浦航空隊(第42期飛行学生)を経て
第332海軍航空隊着任。岩国で対重爆撃機邀撃の為の再錬成ののち
零戦52型、52型丙に搭乗し
対B-29本土防空戦を行う。
戦後は海上自衛隊勤務。海将。
  
  
※画像の零戦はイメージであり、中島又雄中尉搭乗の零戦とは関係ありません

2016年11月17日 (木)

パラオ本島(バベルダオブ島)の零戦52型甲

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオの零戦

パラオ本島(バベルダオブ島)沿岸に眠る零戦52型甲です。
地元の方には昔から知られていましたが、最近になって
公になってきたようです。 
 
写真は撮影されたM様承諾のもとお借りしています。
 
この零戦は零戦52型甲で三菱製であります。
零戦52型と比べると武装と防備が強化されたモデルとなっています。

02_10

戦域の部隊配備状況から推測すると、
第201海軍航空隊、第261海軍航空隊第263海軍航空隊
第265海軍航空隊などがあげられますが、 私は
アイライを拠点にしたパラオ局地戦闘機隊の
第343海軍航空隊(初代隼)が確立として高いのではないかと
考えています。

2016年11月15日 (火)

1/700の神業

Imgp3449

秋葉原のボークスに展示されている1/700の日向と大鳳が
素晴らしいんです。店内は原則撮影禁止なのですが、
この作品に限り
撮影OKとのことで、写真に収めてきました。
細かすぎてピントが合いません。マクロレンズがほしい。

1

Imgp3450

2 
船の全長はどちらも、25センチぐらいです!!!
 
本当に人間技か?小人さんが作っているんじゃないかというほどの
出来栄え。
下は大鳳です。 

Imgp3446

1_2

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そしてこちらは、艦船模型用の航空機を使った
1/700の零戦ジオラマ!
 
翼の横幅は17ミリです!

ひえええええ!! 

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以上、1/700の神業でした。
実際にご覧になりたい方は秋葉原ラジオ会館のボークスへ。

2016年11月10日 (木)

くろがね四起 ジャングルに眠る

くろがね四起(九五式小型乗用車)

バベルダオブ島のジャングルを探索中
伝説の名車「くろがね四起」を発見しました。
フロントグリルとガーニッシュの形が特徴的です。

 
くろがね四起(正式名称:九五式小型乗用車)は
東急くろがね工業(現在の日産工機)が開発し
昭和11年~19年まで製造された純国産の四輪駆動車(4WD)でありました。
エンジンは1.2リッターから1.4リッターで33馬力(3300回転時)でした。
(80年後の現代における最新の軽自動車が0.6リッターで64馬力です)
 
くろがね四起は昭和19年までに4000台が製造されたとの記録が
残っています。大量生産の技術が乏しかった日本です。
自動車の生産台数としては少ない数でありますが
オートバイの陸王と並んで最も有名な自動車です。
  
帝国陸軍で正式採用されたくろがね四起は
各地で活躍しました。
ここバベルダオブでも自動車部隊がありましたし
伝令や将校の移動などにおいて活躍したものと考えられます。
 

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Imgp2109_2

Photo

こちらはタミヤ模型の軍用カラーなので一見地味にも見えますが
広く民間にも使われていたなら、ポルシェやフォルクスワーゲンなどと
並ぶ、とてもお洒落でかっこいい車だったに違いありません。
 
くろがね四起は、その役目を全うして、ジャングルの中、静かに眠っていました。
世界の覇者であった大日本帝国時代の名残です。

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九四式六輪自動貨車(九四式トラック)

▲そして、こちらはいすずの九四式六輪自動貨車。通称九四式トラック。
このあたりには自動車がたくさん残されています。
  

Imgp2112

Imgp2103

Imgp2102 
▲この車種だけがわかりませんでした。
フロント(ボンネット?)の溝が特徴的です。

2016年11月 7日 (月)

完売の見込みです

お陰様で
拙著『パラオ戦跡を歩く』の在庫が残り僅かとなってきました。
今すぐに売り切れることはないでしょう。しかしこのペースで試算致しますと 
半年程度での完売が予想されます。
諸々の事情により、第二版の予定は今のところございませんので
何卒ご容赦願います。

2016年11月 1日 (火)

九五式軽戦車(バベルダオブ島)

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Photo 
バベルダオブ島の九五式戦車を見に行ってきました。
 
この九五式戦車は昨年、ババルダオブ島のシャングル奥地で
発見されたばかりです。全部で六両以上が確認できました。

11月24日に編成された郡司三好大尉の師団直轄戦車隊と
推定されます。
 
郡司戦車隊は、ペリリューで玉砕した天野戦車隊の補充部隊として

編成され、そのままバベルダオブ島で終戦を迎えました。 
 
武装解除の際、米軍への引き渡しを拒み
隠密裏に土に埋めたものと思われます。

砲塔は失われていますが、内部の様子は当時のまま
保存されていました。周囲にはこの戦車のほかに
軍用車両が数多く眠っておりました。
 

当時の第十四師団編成表がこちらです。

Imgp2095 

弾倉が確認できます。発掘してから雨ざらしなので
水がたまっています。

Imgp2100 
こちらも水たまりのように見えますが、同じ戦車の天蓋です。
 
パラオで撮った写真は
たくさんあるので少しずつアップしています。

西住みほ&IV号戦車

ガルパン(西住みほ)コスプレ

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ガールズ&パンツァーのデジラマを作製しました。
あんこうチームのIV号戦車&西住みほです。 
 
スペシャルサンクス
模型製作/春乃みどり
モデル/杏樹
 

IV号戦車 フリー素材画像(シルエット)

IV号戦車フリー素材画像(シルエット)

IV号戦車フリー素材画像(シルエット)

IV号戦車(PanzerIV)のフリー素材イラスト(シルエット)完成しました。
PNG形式でのダウンロードは上の画像をクリックして保存して下さい。
アウトラインデータをご希望の方はお問い合わせください。
 
ご利用の関してのお願い
必ずご覧ください↑

2016年10月24日 (月)

1/48 B-29完成

B-29の1/48スケール

プラモ製作日記。1/48スケールB-29完成しました。
ゼロ戦との大きさの違いを理解してもらう為に
イベントなどで展示しようと考えてます。
本土空襲では、これが200機も攻めてきたのですから、
大変なことだと思います。
 
もし、作ってみようという方がいらっしゃましたら
こんなにでっかくなります。ご参考ください。
 
製作中の写真はこちらです。

2016年10月22日 (土)

航空幕僚副長を表敬

Imgp3071

航空自衛隊市ヶ谷基地にて、
航空幕僚副長の丸茂空将と、広報室長の植森一佐を表敬しました。
 
隣の女性はピアニストの久保亜未先生です。
今回は先生が編曲に尽力された
「飛燕戦闘機隊々歌」の楽譜を
閣下にお渡ししました。閣下には特段の御厚意を賜り、
「飛燕戦闘機隊々歌」を航空自衛隊音楽隊で
再編曲・録音して頂く運びとなりました。
 
飛燕戦闘隊々歌は飛燕が高度一万メートルを飛翔する姿を表現した
明るく力強いメロディーが特徴であります。
 
戦後、「飛燕」の飛行第244戦隊出身者は、航空自衛隊
第一航空団初代飛行隊長小林照彦をはじめ、6名以上が
航空自衛隊で活躍。その黎明期を支えました。ゆえに
当楽曲は航空自衛隊とは極めて縁が深ものであります。
 
譜面、歌詞の再現および保存は、飛燕のパイロットであり
元・航空幕僚長の竹田五郎氏の協力のもとで行いました。
この活動は飛燕で敢闘した方々の武勇顕彰と、散華された方々を
偲ぶものであります。

2016年10月19日 (水)

小埜隆大尉殿の訃報

取材途中だった小埜隆大尉殿が本日亡くなりました。
先月、お会いしたときはとてもお元気そうだったのですが
突然の訃報に言葉がありませんでした。

 
小埜大尉殿は戦後も陸将で活躍され、ラストサムライとも称された方でした。

取材の途中でまだまだお聞きしたいことが沢山あったのですが、
残念です。いずれも対象は超高齢者です。その都度、次の機会はないものと
覚悟はしているつもりですが、それでもこたえるものがあります。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げるとともに
今日日本の礎を築いてくださったことに心より
感謝申し上げます。

2016年10月18日 (火)

益子焼見物

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Photo

益子へ陶磁器見物へ行ってきました。
  
記念にコーヒーカップとソーサのセットを買い求めてきました。
この美しさでも数千円と、お手頃な価格。露店では
一枚100円から作品が大量に並べられております。
 
益子は陶磁器の店が数多く並び、町全体が美術館のようです。
美術好きな方なら一日中楽しむことができます。
近年ではモダンな作品も多く、どれを見ても楽しいです。
ぜひぜひ、おすすめです。

2016年10月17日 (月)

UH-60J

UH-60J

UH-60J

 
UH-60JAを製作しました。
フリー素材イラスト・アイコンとして利用できます。 
 
ご利用の前に必ずお読みください 
 
PNG形式でのダウンロードはこちら▼

UH-60Jフリーイラスト・素材アイコン




2016年10月16日 (日)

1/48のB-29を作ろう

Imgp2990

アメリカ・レベル(モノグラム)製、
1/48スケールのB-29を組み立て中であります。1/48スケールは
このレベル製のみなので非常に得難い品物であります。
 
完成の暁には
同じスケールの飛燕やゼロ戦とセットにしてジオラマを製作し、
講演会やイベント等で展示予定です。
その大きさと、大空中戦の模様を理解してもらうためです。
 
キットの感想ですが
インターネットの模型製作ブログやAmazonのレビューでは
「部品の合わせが悪く苦戦」とか書かれていますが、
個人的にはそんなことはありませんでした。
もちろん国産のハセガヤやタミヤと比べたら劣りますが、
初期のファインモールド(1/48彗星)などと比べると非常に良好と
感じました。あくまで個人的な感想です。
 
長期間、在庫されていた製品なら変形している
可能性が大きいですので、個体差があると思います。
ネットオークションでは高値がついていましたが、再生産・輸入されたようで
模型店で普通に普通に購入できます。私も定価で買い求めました。
 
マスキングは窓が大きいので楽でした。
数が多いので時間はかかります。
コクピットの内部もしっかり再現されていますが、閉じてしまうと
内部はほとんど見えません。なんだか勿体ない。
カットモデルにしたらいいかもしれません。
 

追記/完成しました。
 

B-29の1/48



2016年10月13日 (木)

10式戦車 90式戦車 74式戦車 フリー素材画像アイコン・イラスト

10式戦車シルエットフリー素材アイコン

90式戦車シルエットフリー素材アイコン

Photo

PNG形式用ダウンロード▼

10式戦車フリー素材画像アイコン・イラスト

▲10式戦車

90式戦車フリー素材アイコン

▲90式戦車

74式戦車フリー素材シルエットアイコン

▲74式戦車

 
10式戦車、74式戦車のフリー素材アイコンを作成しました。
非商用に限りダウンロードして利用できます。
 
利用の前に必ずこちらをお読みください。
 
商用・アウトラインデータ(AIファイル)での販売もできますので
お問い合わせください。価格表はこちら
  
写真もあります。2016年富士総合火力演習にて撮影 
74式戦車

2016年10月10日 (月)

F-35A

Photo

来年度、航空自衛隊に配備される予定のF35Aを描いています。
 
今年はヘリコプターや戦車など、たくさんの自衛隊装備品を
描く予定であります。

2016年10月 9日 (日)

映画をやります(2)


YouTube: 映画『追憶』予告編

今まで公開できなかったのですが、公開間近となりましたので
お知らせできます。
 
映画『追憶』

 
製作:奥山和由 監督:小栗謙一 語り:美輪明宏 ピアノ:小林研一郎
原作:升本喜年「愛の手紙」~ペリリュー島玉砕~中川州男の生涯
(熊本日日新聞社刊)

出演:土田喜代一(元ペリリュー島守備隊)ほか
  
私は予告編に名前が出ていますが、こちらの映画で
地図の作画を担当させて頂きました。
 
いよいよ11月5日公開となります。ぜひご覧ください。



2016年10月 8日 (土)

曾我蕭白リスペクト

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ハードディスクを整理していたら
過去に個人的に描いた色々な絵が出てきました。
 
品質はともかく、
せっかくアウトラインもあることだし、必要な方がいれば

使ってもらおう、ということで少しずつ公開しています。
 
こちらは世界に誇る日本の宝、いろいろ盛り合わせ。
恐れ多くも大御所をアレンジ。個別の
アウトラインデータが欲しい方は連絡ください。

 
★スペシャルサンクス★
牛久の大仏様、七重の塔(架空)、富嶽三十六景神奈川沖浪裏(葛飾北斎)
雲竜図(曾我蕭白)、新幹線E5系&E6系、スカイツリー、旭日旗、富士山

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

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零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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Photo

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年10月 6日 (木)

映画をやります

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ペリリュー島の戦いを描いた映画
『追憶』が来月公開されます。
 
こちらの映画で一部デザインを
担当させて
頂きました。
 
よろしければ映画館でご覧ください。
 
どんなデザインを担当したかは
ぜひエンドロールまで見てください(笑)
 
『追憶』公式サイトはこちら

F-2戦闘機 アイコン フリー素材

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3

Photo 
航空自衛隊のF-2支援戦闘機の素材ができました。
非営利に限り、無料でご利用になれます。
 
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 
必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

2016年10月 4日 (火)

彗星と航空戦艦日向

彗星と航空戦艦日向

今日の特撮は彗星と航空戦艦日向です。
 
航空戦艦「伊勢」「日向」の二隻は後方の主砲を
撤去し、空いたスペースを航空甲板に改造することで
航空機の搭載を可能としました。
 
ここから「彗星」をカタパルト射出するのですが、彗星は着水ができないので
機体を放棄してパイロットのみ脱出して収容するか、陸上基地へ着陸させる
計画でした。実際には実行されず、飛行甲板へ改造したところで

終戦を迎えました。
 
飛行機と艦船を別々に撮影し、合成しました。
 
2枚の写真を合成する場合、光りの向きを揃えると自然な写真になります。
一番手っ取り早いのは同じ場所、同じ時間に、同じ角度で撮影することです。

2016年10月 3日 (月)

九七式重爆

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Photo

先日、靖国神社へ参りました折、偶然、
九七式重爆のパイロットだったという方にお目にかかりました。
なんという運命の巡り合わせ。
 
「ワシは九七重爆ちゅう、海軍でいうところの中攻じゃな。
あれに乗っておった。占守島に飛行場があって、アリューシャン方面へ飛んで、
その後は特攻隊の教官もしたよ」
 
「ぜひ、また今度詳しい話を」というお約束をして別れましたが、

取材を急がねばなりません。

雷電 伊藤進中尉機

雷電 伊藤進中尉機

雷電のパイロット、工藤稔さんにインタビューさせて頂いた際、
お借りしたお写真です。
分隊長の伊藤進中尉機と工藤稔さん。
「撃墜マークをたくさん描いた分隊長機で撮ったほうが迫力があると思って」
とのお話し。厚木海軍航空隊でのショット。ヨD-152号機です。

初公開かな。雷電の細かい部分まではっきり解る貴重な写真です。 
  
こうしてみると大きな飛行機ですね。
インタビュー内容は現在執筆中です。

2016年10月 2日 (日)

21型と52型

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後ほど、赤城の航空甲板バージョンも撮影します。
お待ちください。

20XX年 応急夜戦滑走路

A4

自衛隊関連の特撮も製作しています。
来年はF-2と一〇式戦車をグッズをラインナップに加える予定で
これは参考用の精密模型であります。平日の昼間っから
戦車や戦闘機の模型を手に、ニヤニヤしておりますが
決して遊んでいるわけではないので勘弁してやってください。

2016年9月30日 (金)

九九艦爆江草隆繁少佐機の画像を追加

九九式艦上爆撃機 江草隆繁少佐機01

九九式艦上爆撃機江草隆繁少佐機02

Copyright Raimundo79 / Shutterstock.com
マーチフィールド航空博物館2016年3月17日撮影

 
九九艦爆江草隆繁少佐機の画像を購入しライブラリに追加しました。

江草隊長機は陸海軍の中でも派手なペイントを施した事で有名です。
 
もちろんこれは物の九九艦爆でなく、 
例によって、映画の撮影用に作られた米国のBT13を改造し
再現されたレプリカです。米国本土でこうした名機を再現してくださるのは
大変嬉しい事です。我が国でもできれば良いのですが、難しいでしょうね。
 
詳細はこちらです。
江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

2016年9月28日 (水)

興津の海と鵜原八坂神社

鵜原海水浴場

できれば秘密の場所にしておきたい海がある。
 
鴨川から勝浦に至る、国道は
海岸線を行く車は大方、バイパスを通ってしまうが
廃墟となった行川アイランドから海側の旧道へ入れば
知る人も少ない、そこが興津の海だ。
 
興津には三つの神秘的海岸がある。
この三つの海岸は
西側から興津・守谷・鵜原と呼ばれ
いずれも白砂青松の海岸として名も高い。
 

リアス式海岸をいくつもの古いトンネルが貫いており、
迷路のような複雑な地形を縫うようにしてそれぞれの
海岸へ下りる事ができる。
 
西の興津海岸は興津漁港と海浜公園に隣接した
海岸で、沖合の堤防の関係で波が静かで浅く、小さなお子さんにも
安心で人気の海水浴場。
上総興津駅は小さな駅だが、シーズン中のみ特急列車が停車する。
電車を降りて、浮き輪がぶら下がった風情ある商店の軒先などを抜けて行くと、
青い海が広がってくる。
 
中央の守谷海岸は、沖に浮かぶ渡島と
島に建立された赤い鳥居が特徴の海岸で、三つの海岸の中では最も広い。
平成四年には天皇陛下がご臨席になり
第十二回全国豊かな海づくり大会が開催された。 

鵜原海水浴場

鵜原海水浴場

鵜原海水浴場

東に位置するのが鵜原海岸で、近辺は趣ある民宿街で、
九十九折の小路を波の音が聞こえる方向へ進めば、鵜原海岸が見えてくる。

鵜原海岸には鵜原八坂神社の白く荘厳なる大鳥居があり
海に向かって参道が伸びている。
 
鵜原海岸の東は

鵜原理想郷と呼ばる景勝地で、リアス式海岸の造形美と
エメラルド色の水面が相まって、天国のような景色を拝むことが出来る。

2016年9月20日 (火)

ファラリョン・デ・パハロス島

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グアムへ向かう飛行機の窓から見えるのは
ファラリョン・デ・パハロス島です。
 
マリアナ諸島最北端に位置する無人島で火山活動が活発。
噴煙を上げる様子が見えます。
古のカロリン島民がこの火山を灯台として利用していたという
伝承が残る島であります。絶海の孤島は

海の広さを実感するともに古代の人々が小さな船で
いかにして大冒険を成し遂げてきたか、想像が膨らみます。
 
経度としては日本の沖ノ鳥島より北にあります。
こうして見ると、日本の領海は実に広い。

A4

2016年9月19日 (月)

パラオのお葬式

アンガウル島に渡ったら、ちょうどお葬式の準備にぶつかってしまい
島民の方々は忙しい最中でした。そんな中、島民の方々には
本当にお世話になりました。
 
パラオのお葬式は、日本のお葬式とはだいぶ違います。
日本の場合ですと、ご不幸があると
夜中でも電話がかかってきて
翌日か翌々日にお通夜、告別式と、慌ただしく済まされてしまいます。
 
パラオの場合、準備期間が長いのが一番の特徴です。
ご不幸があってから、お葬式まで
短くても数週間から長い場合は2ヶ月もかかります。
この間、街中にお葬式の宣伝ポスターなどを貼ったり
遠方の親戚(グアムなど)に連絡して仕事を休む段取りをします。
もちろん豪華な料理やお酒の用意もします。
 
この間、ご遺体は病院の冷蔵室で保管されています。
 
なぜ、こんなにも準備期間をとるのか、それは
一人でも多くの参列者を集めるためで、すなわちお香典の額を
少しでも増やしたいという思いからです。パラオでは
お香典の習慣と金額が兎角、重視されています。
 
お香典は受け取るや否や早速開封され、
その場で発表されます。ラジオでも大々的に放送されます。
高額なお香典を出した方は評判が上がります。

良いとか悪いとか、言いたいのではなくて、そういう文化なのです。
 
お葬式では大音量で音楽を流し、お酒や料理が
振舞われます。はじめて目にした方は
それがお葬式だとは気付かないと思います。
 
パラオは女系社会ですので、
結婚の際は男性側が女性のお家へ多くの贈り物を
する習慣があります。とにかく結婚するとなると
男性側の負担は大きく、それをお葬式のお香典で取り返そう、
という考えもあります。
故人が生前の借金をお香典で返済した
という話も聞きます。

2016年9月18日 (日)

中国の影響著しいパラオ

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パラオ・コロールの街がチャイナタウンのようです。(平成28年9月中旬に撮影)
街も殺到する中国人観光客であふれ、パラオ特産の
シーフード(特に蟹)も全て中国系レストランが
買い占めてしまうため、価格が高騰し品薄状態になっています。
 
どこへ行っても中国人のお客さんが多い!
 
バベルダオブ島には次々中国資本によるコテージが
建設されています。
 
また、バベルダオブにはこれまた中国資本がゴルフ場を建設予定で、
パラオに大きな変革の波が押し寄せてきています。
 
パラオと中華人民共和国は国交がありません。パラオは
台湾(中華民国)を国家と認め、親密な関係を築いてきました。
 
数年前、中国の密漁船とパラオ沿岸警備隊による
銃撃戦により双方に死者が出ており、関係は
冷え込んでいましたが、経済的な結びつきは
増加の一途です。
 
パラオは外国人の土地の所有は認められていませんが
地主や地方政治家に多額の金額を提示し土地の供与で
開発を推進しています。

 
これに危機感を持って接するパラオ人も多いのですが
お金に目がくらんで前が見えなくなっているパラオ人も
多いのも然りです。
 
純粋なパラオ人の人口は一万人。世界の規模から
考えれば、経済的面から乗っ取ってしまうのは簡単なのです。

あるパラオ人は言いました。
「大きな建築物が見たいなら、日本でもアメリカでも行けば良い。
ここはパラオ。ありのままの大自然が一番の観光資源だと、
全然わかってない。みんなお金大好き。だから私、ゴルフ場建設と
徹底的に戦います」
 
美しい海と緑さえあれば、観光客のわがままに
媚びる必要は無いのです。パラオ本来の良さがどんどん失われている。

パラオ人はどうか目を覚ましてほしいと思います。

2016年9月16日 (金)

パラオ遺骨収集 第二次調査派遣隊

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パラオ第二次調査派遣隊は、
水戸二連隊ペリリュー島慰霊会が主体となり
平成28年9月5日から14日迄の10日間
の日程を消化し無事帰国しました。
 
今回はペリリュー島・アンガウル島の両島へ分散して会員が
派遣されました。ペリリュー島は本隊4名で、厚生労働省職員が3名
随行、このほか現地の通訳1名、パラオ共和国文化省芸術文化局の職員1名。 
アンガウル島は本隊2名、通訳1名、厚生労働省職員なし、
文化省芸術文化局の職員1名の合計四名でした。
 
私はアンガウル隊でした。アンガウルは29年振りの遺骨収集となりました。
 
なお、水戸二連隊ペリリュー島慰霊会では
こうした遺骨帰還事業に参加頂ける方を募集しております。
もちろん旅費は日本国政府が負担します。
 
今後、遺骨収集の事業は新法人に移行しますが、
実際に派遣されるのは、それぞれの戦域でノウハウを持つ
戦友遺族会会員がメインとなるでしょう。
  
派遣先は、先ずは硫黄島となります。硫黄島で経験を積まれた方を
選抜し、外地(パラオ)へ派遣しております。
 
日本国を代表して行くので、気合が入ります。
今回は、島北西部の複郭陣地における
遺骨調査を実施しました。

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複郭陣地へのアクセスは、ジャングル内の道路を通行可能にする
ところから始まります。頻繁に現れる倒木を一本一本切断し
道を通行可能にしていきます。島民の方々の協力が必要です。
 

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青池側からのアクセスは特に困難を極めました。
台風に伴う倒木によって、日当たりがよくなったジャングルは
草が急激に成長し、茂みが深く深くなる為です。これらを蛮刀で
伐採して進むのですが、1分間で2、3メートル前身するのが
やっとの状態です。

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ガジュマルの根を切断して先へ先へ進む様子です。
ジャングルの踏破は、経験したものにしか理解できない
難しさがあります。地図上では僅かな距離も、時間がかかる上、
真っ直ぐ進むことすらままならない。こうした地形は
迂回するうちに方向がわからなくなります。GPSとコンパスを
確認しながら進みます。

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不発弾を踏まないように注意して進みます。
艦砲射撃で不発だった、巡洋艦クラスの砲弾。
こういった物が数多くあります。 

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地表骨は落ち葉が蓄積し発見は不可能なので、
岩場の窪みなどを重点的に捜索します。
 
ジャングルではアカムシと呼ばれるダニが棲んでおり、
これが地面から靴をつたって這い上がってきて主に足を刺します。
実はこれが一番厄介なやつです。
 
経験上、このアカムシにはある程度の潜伏期間があり、刺された直後は
なんともないものの、数日経過してから猛烈な痒みが発症し、
体質にもよりますが2週間ほど、痒みが残り、跡も消えません。
 
蚊のように目に見えるものでないので、
虫よけスプレーが必須ですが、それでも刺されます。
雨だったり、湿地帯で足を濡らしたりすると刺される確率が
さらに高くなります。
 
パラオではマラリアは確認されていませんが、デング熱があるので
注意は必要です。特に免疫が弱くなっているときは
リスクが大きくなります。
 

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青池からの進入が難しかったので、今度は反対側(海側)からの
進入を試みます。二荒山の麓から、山へ入っていきます。

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ここから入っていけそうということで
割合、高低差の少ない個所を選びます。

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先程のような茂みは少ないものの、
隆起珊瑚岩が剃刀のようにシャープです。
叩くとカンカンと高い音がする。
 
数年前、足を踏み外して、この隆起珊瑚岩に刺さり、
頸動脈を切って大出血した方がいるという事故の報告も
聞いています。血が全然止まらず、傷跡は消えません。
足を踏み外さないよう特に慎重に進みます。
 

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二荒山の陣地近く。
登ったり降りたりしながら複郭陣地内部へ。
 
地表骨は少ないので、
洞窟を探します。洞窟であれば、骨はそのまま残っている
可能性が高いので、今回の目標は先ず、洞窟を見つけることでした。

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左で駄目なら戻って右へ進みます。山岳部は三次元の大迷路で、
ルートを選ぶセンスがあるとのこと。
この辺り、パラオ人の現地ガイドはさすがであります。  

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隆起珊瑚岩は内陸部へ進むにつれて尖った部分が風化し
丸くなってきます。とはいえ油断は禁物であります。

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多くの場所にクレバス(大穴や亀裂)があります。
深さは数メートルから十数メートルにも及び、これを茂みが覆い
隠していることもありますので、よく見て足場を確認します。

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ガジュマルを足場に岩場を上り下りします。
 

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ようやく開けた場所に出ました。
ここが複郭陣地内部です。遺留品が多く、戦闘した形跡があります。
玉砕地点も近く。
大小の洞窟も発見し、中を捜索します。

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ここが二荒山鍾乳洞か?
大きな洞窟は何か所かあったのですが、
どれが二荒山鍾乳洞か、特定はできませんでした。
 
二荒山鍾乳洞とは、パラオ人の民間人が身をひそめていた洞窟で
最後の玉砕前、そのパラオ人たちが日本軍守備隊に
 
「我々も戦わせてほしい」と
願い出たという逸話が残っている事で有名です。
主にインターネットなどでは
ペリリュー島での出来事として語られていますが、それは誤りで
もともとは、ここアンガウルであったお話しです。
そして残念ながら、パラオ人の犠牲者もペリリュー島、
アンガウル島ともに出ています。
 

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ジャングルから出てきました。
これは米軍が建てた「解放記念碑」
 
残忍な日本軍によって戦争に巻き込まれ、
虐げられたパラオ人が、正義の米軍によって救出された、
という場所を記念するものであります。
 
正義とは、長い歴史の中で常に戦勝国によってのみ
作られ、語られてきました。
 
真実はどうだったかというと、
戦後、ペリリュー島、アンガウル島にも
米軍が進駐。アメリカ領土となります。ところが、アンガウルの島民議会では
「日本時代のほうが良かった。日本の統治に戻してもらおう」
という決議が下された事実があります。
 

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アンガウル滑走路を走って宿泊地に戻ります。
 
今回は多くの遺骨を発見したほか、
個体性のあるご遺骨として頭蓋骨も見つかりました。
今後の帰還事業に繋げたいと考えております。
ご遺骨の写真掲載は控えますが、日本へ帰ることを
願って、七十年以上も我々を待っていた戦没者の姿は
涙なしには語れません。
 
拙い文章で恐縮です。南方における遺骨収集がどんなものか
写真だけでも内容が伝われば幸いです。

2016年9月 1日 (木)

紫電改パイロットのお孫さんにお目にかかる

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大阪で第343海軍航空隊の搭乗員のお孫さんにお会いしてきました。

おじいさんは紫電改のパイロットで、中尉さんだったそうです。
ご本人は十数年前に亡くなっているのですが、このお孫さん(三十代)は
小さいころから、おじいちゃんに戦争の話をよく聞かせてもらったそうで、
実に細かいところまで覚えてくださっていて
大変興味深く聞かせて頂きました。
 
特に特攻直掩の話は、
「直掩隊で引き返すとき、特攻機のコクピットを直視できなかった」
など、感極まるものがあり、
よくぞ、覚えていてくれた!という印象であります。
※特攻直掩は343以前の航空隊かもしれません
 
上官にも嫌われるのを覚悟で積極的具申を行い、
たいへん部下に慕われたそうです。
終戦直後には自決しようとする部下を必死で制止し
「若い自分たちが日本を立て直すんだ」ということを真剣に解かれたそうです。
 
こうした話が若い世代に伝わっていくことを期待しています。
その他にも、軍隊ならではの笑い話なども多くありました。
パイロットといっても様々で、
おじいさんはざっくばらんな方だったようです。
 
本当は機体に撃墜マークを描きたかったが、紫電改が共有機だったのと
海軍の慣例に基づいて、控えていた・・・などなど、
たくさんのお話を伺ってきました。
 
またお会いして続きを伺いたいと思います。

2016年8月29日 (月)

竹田五郎さんのお話「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)

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Q、篠原
竹田さんがお乗りになった戦闘機は

九七戦、一式戦(隼)、二式単戦(鍾馗)、三式戦(飛燕)、
最後は五式戦、いうことでよろしいでしょうか。四式戦(疾風)以外全部ですね。
 
A、竹田五郎氏
そうですね。九七戦から始まって、一式戦、二式単戦、三式戦、五式戦と
乗って、四式戦だけなかった。
 
Q、一式戦(隼)が旋回性能で二式単戦(鍾馗)が一撃離脱で
 

まあ、旋回性能というのは一式(隼)のほうが良いでしょうね。
何せ軽いですからね。小回りがききましたな。さらに、その前の
九七戦はもう本当に自由自在で、軽快な飛行機でした。
スピードは二式単戦(鍾馗)は重たいから突っ込みがあるし、
速度も出ます。着陸の速度も10キロかそこら多かったと思います。
なんとなく重たいという感じはします。
一式戦(隼)の操縦者が二式単戦(鍾馗)に乗り換えると
ちょっと苦労したと思いますね。
だけど飛行機は飛行機。そんなに変わったことはない。
 
Q、隼と鍾馗の開発者、糸川英夫博士は一式戦(隼)を短剣
二式単戦(鍾馗)を
長槍として、ペアとして運用を考えていたそうですが、
それぞれ、特徴をいかして戦法を変えたりはされましたか。
 

それは特に考えたことは無いですね。
同じように飛びました。ただ、一式戦のほうが小回りきくでしょうな。
 
Q、三式戦(飛燕)は如何でしたか。
 

三式戦(飛燕)は水冷ですからね。ちょっと使い方が違う。
だけど操縦そのものは変わらないですからね。
機首が長いですから、離陸の時ちょっと前が見えないだとか
違いはありますが、だけど飛行機は飛行機。
 
ただ水冷と空冷となれば、水冷のほうが事故は多かったでしょうな。
特に南方では三式戦(飛燕)は事故が多かったですね。
水漏れ、油漏れっていうのがありました。
 
Q、五式戦は如何ですか。
 

五式戦はよかったですね。五式戦がもう少し早く出ておれば、
だいぶ高高度戦闘にはよかったと思います。
やっぱり八千メートル以上になると、二式戦も三式戦もダメで、
四式戦は多少は良いかもしれないけど八千
メートル以上になると難しくなる。
 
八千メートル以上になると編隊が組みにくかったですなあ。
八千から八千五百メートル位ですよ。まだやれるのは。
一万メートルになる頃にはバラバラです。
 
編隊組んで最初はついてきてるけれど、映画に出てくるような
一万メートルで9機編隊なんてやったことない。
2機でくっついて
動けるのが精一杯でしょうな。
ちょっと旋回すれば失速するというような
状況ですからね。
一人でフラフラ飛んでいるような状態です。
B-29はゆうゆうと飛んでいる。
 
Q、飛行第244戦隊の飛燕でB-29を邀撃されたお話しをお伺いします。
 

もう攻撃と言ってもね、後ろから攻撃なんて八千~九千メートルでは
出来ないですな。というのは九千メートルで攻撃しようと思ったら一万メートル
で待っとかにゃならない。一万ではもうフラフラですよ。ただ、よっぽど良い時に
運よくB-29の前に居れば攻撃出来るでしょうけどね。
 
こちらが一万で、むこうが九千くらいなら、まだやりやすいですね。
B-29が離れたところにおれば、もう旋回しているうちに落ちていきますから、
前方攻撃は難しいですけれどね。ただ、大型機の編隊は簡単には回りませんから
高度さえあれば落とせるんですよ。
 
確か小林照彦戦隊長が体当たりしたというのは、
B-29の高度が九千五百メートル位。小林戦隊長の飛燕が一万五百メートル
から
攻撃かけて、失速状態の突っ込みですからね。最後は舵が利かないですよ。
 
Q、昭和19年11月1日に東京にはじめてB-29が偵察に来ました。
そのとき、最初に上がったのが竹田さんでしたね。
 

あのときは一面青空でした。キラーンと光るB-29の機影に、
見事な飛行機雲ですよ。
 
私だけでなく、各飛行隊あがったけれど
あんまり傍まで寄ったのは無いです。仰ぎ見ただけです。
B-29とは高度差五百メートル以上はあったでしょうね。
後を追いかけるったって、旋回がフラフラしてますから
追い付けない。あの飛行機を攻撃した者は誰もおらんでしょう。
見たものも少ないでしょう。
 
Q、竹田さんご自身がB-29攻撃された模様を教えてください。
 

それは何回もありますけれど、私はお恥ずかしいけれど
戦隊の中で撃墜王と言われるような事はそんなにやっておりません。
私が撃墜したB-29は1機だけです。撃破したのは2機。
 
そのときは単機です。上がってゆくスピード、飛行機のちょっとした
馬力の差(僚機)で
旋回させるとついていけなくなる。もうバラバラです。
 
Q、その撃墜した一機はどんな状況だったのですか
  

これはもう、相手が海の方に帰っていくやつを。もしかしたら
既に撃破されていたかもわかりません。
高度五千くらいだったですかな。
追いかけて行って、撃墜しました。
 
Q、B-29のどの辺りを狙うのですか
 
A、
胴体の真ん中狙うと、エンジン四つありますからな、結果的には
それのどっかに
当たったんでしょう。
 
時速250キロから300キロ同士くらいでこう、ぶつかる。
とにかくB-29が5機6機、7機編隊になりますとなあ
雨あられですよ。飛行機から撃ってくる弾を見たときは
翼端からこうパパッと避けて行く。夏みかんをパパッとさくみたいな、
それが距離近付くと
火の玉のような、よく絵に描いてありますが。
 
B-29の火砲は
前だけでも少なくとも4門はこちらを向いている。
それが9機編隊だと36門向いている訳です。こっちは2門位ですからね。
そういう状況ですから
一瞬の間ですからね。
 
私の飛行隊は非常に戦果をあげてますけれど、
飛行隊毎の待機位置が決まっていて
うちの部隊は富士山の北の大月上空が待機場所だった。はじめはね。
 
次の部隊が荻窪上空。
 
最後の部隊が宮城(きゅうじょう)直掩隊でした。
 
Q、B-29、2機の撃破をされていますが、それはどういう状況ですか
 

編隊組んで、前方法で攻撃しました。ほとんど前方から。
そしたら煙吹いて。そのまま追い続ける暇ないですから。
次の編隊が来ますから。
 
Q、被弾して不時着された時のお話をお聞きします。
 
不時着は何回もしましたよ。田んぼとかなんかにね。
落下傘降下もしました。
 
それから私は、夜間邀撃で友軍の高射砲に当たった。
夜間の高高度邀撃は手も足も出ないというのが本音ですね。
ただし夜間はB-29も低空ですからね。三千メートルくらいで空襲に来る。
 
それに照空灯(サーチライト)がつけば、という条件が揃えば
攻撃できます。照空灯がつかなければ真っ暗で見えないですから。
運の良い人は照空灯がなくても月夜の晩で
突っ込んで行ってね、月の光で落としたんですけれどね。
一度の攻撃で二機落としたのが居りました。
 
私の場合は、B-29を追いかけている時にバっとエンジンの回転が
変わったんですな。高射砲が飛燕のエンジンを貫いたんでしょう。
B-29には当たらんで私に。
 
あるいは
その晩、海軍の飛行機も上がってましたから、それの弾
かもわかりません。
自分の機体に当たったから、松戸の飛行場の
上空まで来て
「高射やめ」と無線で言った。それで松戸の飛行場に
不時着しました。
 
Q、戦友の思い出を聞かせて頂けますか
 
A 
四宮徹中尉は私が中隊長だった頃の先任将校でベットは隣。
よく一緒に飲みに行って、遺言状だとか家族に宛てた手紙だとかを
預かっているんです。この人は本当にB-29に体当たりで翼(ヨク)の
この辺り(日の丸の辺り)から切って突っ込んでいきました。
その飛行機をみんな間違いなく見ていました。
最後は特攻隊でした。
 
それから、この板垣政雄君(軍曹・震天制空隊)というのは落下傘降下して。
 
体当たりしようとしてB-29の上に乗っかったのが中野。
体当たりは二回やったかな。
 
生野(生野文介大尉・そよかぜ隊)は体当たりしてない。
生野は飛行隊長で特攻隊員じゃないですから。
彼は夜間飛行でだいぶ落としてますけれども。
友軍高射砲に撃墜されたようなものでしたよ。
 

うちの飛行隊で一番落としたのは7機落としたのが居りますよ。
要するに、良い時期に良い位置で、発見が早い事が必要なんですね。
自分が一万メートルの高度をとっていれば何とかなるでしょう。
特攻隊員でない者で、体当たりしたのは小林戦隊長だけです。
 
Q、それが五式戦だったら随分戦えましたか?
 

随分はないですね。「いくらか」ですね。
五式戦でB-29の邀撃したことはないけども、たぶん、よかったろうと思います。
性能はよかったから。五式戦で邀撃は一回かな。ほぼ知覧におって
攻撃任務に使いましたから。
 
Q、戦闘機とも空戦して撃破されていますね。
 

五式戦で相手したのは艦載機ですね。グラマンF6FとF4U。
私が撃破したのは、F6Fかな。昭和20年7月です。
最後までは見ておりませんが、あの様子なら海の中に落ちたとは思うんです。
 
その時、弾が出なかったんです。
試射した時はちゃんと出たんですけれど
いざ攻撃したら故障なんです。それでも最初、10発ぐらい撃って
F6Fを撃破した。F6Fは白い煙を噴いていきました。
 
F6Fの後ろの位置(斜め上後方)につけていたので、
あれは当たらん筈はないです。
ただ、弾が出なかった。
それで残念だったけど、引き上げる時に、
今度は私の方に敵機の
弾が当たって。それが五式戦の
風防の枠に当たっていた。
  
 
 
つづく
 
平成28年7月インタビュー
 
証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

2016年8月28日 (日)

笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊

紫電改

篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
 
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
 
Q、一番大きいのは馬力ですか。

A、そうですねえ。全然違いますね。
 
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
 

紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
 
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
 
A 
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。

紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。

Q、紫電改はよかったですか
 

ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
 
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
 
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
 
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
 
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
 
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
 

そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
 
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
 

紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
 
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
  
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
 

あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
 
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
 
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
 
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
 

一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
 
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
 
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
 
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
 
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
 
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
 
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
 
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
 
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
 
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
 
「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
 

そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
 
Q、真っ先に見つけるんですね

A 
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
 
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
 
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
 

そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
 
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
  
特攻についてのお話し
 
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
 

うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
 
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
 
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
 
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
 
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
 
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
 
Q、参謀というのは
 
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
 
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
 
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
 

そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
 
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
 
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
 
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
 
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
 
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
 
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
 
 
~笠井さん、戦友に会いに行く~ 
 

だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
 
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
 
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
 
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
 
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」

私は必ず言いますけれどね。
 
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
343海軍航空隊 全パイロッデータベース

笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊

篠原Q、第263海軍航空隊(豹部隊)についてお伺いします。
 
A、笠井智一さん
あの頃はペリリューにおりました。
ペリリューは割合大きな飛行場だったんですよ。
それが随分空襲で叩かれるようになって戦死者も増えました。
これではいかんというのでガドブスへ移動したんですよね。
 
Q、263(フタロクサン・通称豹部隊)では
笠井さんと、杉田さん、他にはどなたが 生き残りましたか。
 

日光安治上飛曹(甲飛10期・のち343紫電改部隊へ)
井上武二飛曹(東京)、久留米出身で 263の先任搭乗員しとった、
一木利之さんていう方、 ほとんどおりませんね。※1
 
Q、263(豹部隊)は甲飛の10期が多いですね。
 

そうです。263空には大方40名足らず甲飛の10期が居りました。
それはね、昭和18年の11月20日に徳島での延長教育が終わって、
203空へ転勤したんですけどね 徳島で延長教育をやっとる中で
甲飛10期は300人ぐらいおったんですよ。
そん中でね、第一級選抜が37、8人で一番最初に卒業ということになって、
その一番最初に卒業した奴が263空へ配属になったんですよ。
だから集合写真でも写真見たら誰かだいたいわかりますよ。
 
Q、263の同期の方は同じ年の方が多いのですか。
おおむね17歳くらいですよね。
 

そうです。だいたいね、一番古い奴が大正13年生まれ、
一番多かったのが大正14年生まれで、私たちは15年生まれ ですから。
しかし、あの時分は年齢なんか全然関係なかったですからね。
 
Q、分隊長の輪島由雄中尉はかなり古い方ですよね。
 

ああ、これはもう、そらあんた操練の18期かなあ。
 
Q、34歳ですね。
 

そうそうそうそう。輪島中尉、 あら、もう実直な大人しい人でね、
この人は支那事変から乗っとるからね。 もう一人、生き残った人で
松山出身の 磯崎千利さんという人が、30歳位やったですよ。
この人は輪島さんより二期後輩で。 戦後、病気で亡くなられたんですよね。
 
Q、輪島中尉もベテランですけれど戦死されましたね。
 

そうやなあ。 あれがあんた、2月22日かな。輪島中尉が戦死したのが。
 
Qテニアンの邀撃戦で、輪島中尉を含む11機が未帰還です。
 

そうそう。テニアンの邀撃戦。
あのとき充分に戦闘態勢を整えていとったらそんなに負けへん。
ところが着陸寸前に襲われたとか。 戦闘態勢が全然悪かったからね。
それで亡くなった。

輪島中尉はね、機銃無しで敵を2、3機落とした。
敵機を追いかけて。(激突させて)そういう話も残っとるんですよ。
そんな話を知った人はおらんでしょうなあ。
 
Q、3月31日にパラオ大空襲があって随分損害が出ましたけれど
 

そのときは私はグアムにおった。 そして私達も戦闘に
参加さしてくれと、言うて 玉井司令にお願いに行ったんだけども
お前たちはまだグラマンと空中戦出来る技量やない、と。
お前たちがそんなところへ空戦に行ったら片っ端からみな落とされてしまう。
もっと訓練して、そいでやれと。 いうことで戦闘に参加させてもらえなかった。
 
ほいで3月31日にペリリューで263空の基幹搭乗員や古い連中が
殆ど戦死したから、これからは10期のお前たちが空戦できるか
どうかわからんけれども空戦に参加せい、言われてペリリューへ送られた。
 
Q共同した第261海軍航空隊(虎)第343海軍航空隊(隼)
ついてお聞きします
  

その時分に中部太平洋の主戦力は普通の戦闘機隊で、
261空と263空と265空と三飛行隊あって、
そいで、局地戦闘機隊で343空と、341空と二つの航空隊があった。
 
戦闘機隊は頭文字が2なんですよね。 それで局地戦闘機隊が3なんですよね。
だから343ですからね、紫電の局地戦闘機隊だったんですよね。
343(隼)で甲の10期。だから、徳島を、二次、三次に卒業した奴が
343(隼)の搭乗員でね。 僕らは263ですからレイセンね。※2
 
それからあとは艦爆隊が4、艦攻隊が5でしたかな。 中攻隊が7でしたかな。
そいから水上機は9で。 こういう航空隊番号でみな、仕分けされとったんですよね。
 
昭和19年の3月22日にサイパンとテニアンが敵の機動部隊に
木端微塵にやられてですよ、 261(虎部隊)がサイパンに基地で、
私たちはグアムが基地でね。 サイパンからグアムまでレイセンで
40分ぐらい飛んだんでしょうかね。 普段の訓練なんかは一緒に
なりませんけれども、しかし 総合訓練でね、サイパンの虎と
グアムの263(豹)と、 一緒になって訓練した経験はあるんですよ。
 
あの時分はね、まだそんなに切羽詰った戦争の感じは
無かったと思うんですが、そのとき空襲に来よって 私の同期で、
九州出身で初代の343空の隼部隊の隊員がおったんですが
あれがペリリューで司令のとこへ行って
「司令、レイセンに爆弾をワイヤーで固定してくれ」と。
「わしはそれで敵の船へ体当たりへ行くから」言うた奴が居りましてね、
それが特攻のはじまりになったみたいなんやな。
 
Q、関大尉の前ですか
 

うん、関大尉のずっと前。
 
Q、行ったんですか
 
いや、その時は司令が許可せなんだな。
しかし最後はフィリピンで特攻で死にました。
 
あの人はもう死んだかなあ261でね、甲の8期で なんちゅうひとやったか。
サイパンで敵が上陸したときにね まだ日本の兵隊がおると思って
不時着して 生き残ったのがおるんですよ。
 
Q,粒針さんですか。戦後は航空自衛隊で その後民間機で。


そうそう。粒針さん。 甲の8期だとぼくらより2つぐらい年上ですわ。
2つ3つ上ですわ。261の生き残りですね。
 
Q、その後、201空へ統合されますね。


玉井浅一さんいう人が居りましてね、
その時期にはもう第一航空艦隊(一航艦)の各飛行隊は消耗して
飛行隊としての機能が出来なくなった。 それでぜんぶ解散して201空に
統合されたんです。
 
あれは昭和19年の6月頃でしたかな。皆201空に統合されて、
そいで311(サンヒトヒト)飛行隊と301(サンマルイチ)飛行隊と
305と306と、こんだけの飛行隊ができましてね。 しかし内地から
補給に来る人も居りましたが、もう顔も知らんし 同期生か、
そんなんもう全然わからん人も居りましたけどね。 私はそこで306飛行隊に
編入されたんですよ。
 
Q、異例なエピソードがあったとか


あの時分に搭乗員はみな、丸刈りじゃないといかんかったですよ。
それが、201空では、搭乗員は不時着したときに毛があったほうが
怪我せんから 頭伸ばしてもええぞーと。お達しが出ましてね。
そんなお達しの出た部隊はおそらく他に無かったと思います。
 
Q、それは下士官でもですか?


そうそう。下士官でも。それがね、変な話やけども、
そんな油(整髪料)も何も無いわけですよ。無いから
飛行機用の機械に使う油を。あれをガーって頭にかけてね(笑)
 
Q,指宿兄弟のエピソードを教えてください
19年の11月にフィリピンから内地に帰って横須賀へ降りたときに、
指宿正信少佐(兄)と、 もうひとり古い人が二人で出迎えてくれてね
指宿さんが、「おお、お前263か」 「そうです」いうたら
「おー、よう帰ってきたなあ」いうてね。
 
そして、弟の指宿成信さんが少尉で甲の2期でしたかな。
343空で戦闘301でしたな。
 
Q、指宿成信少尉(弟)は生き残って戦後は?
 

病死されたよね。昭和25、6年じゃないでしょうかね。
だから兄貴の指宿少佐よりも先に死んじゃって。
 
Q、お兄さんは昭和32年に殉職されましたね。
 

わたしはあの時に新聞記事見て、びっくりしたんですよ。
あの指宿大尉が事故で亡くなった?とね。その新聞記事がどっかに
残っとるはずなんですがね。 F86Fで亡くなったんでしたな。
編隊飛行中に空中接触で亡くなられたいう話は聞いとるんです。
私は航空自衛隊で殉職された先輩たちの記録を 皆もっとるんです。
誰が、いついつ、どこで亡くなったいうね。
甲飛の10期のよく知った奴が築城かどっかでね。
これも事故で殉職したんですよ。
 
Q、航空自衛隊創設時のお話を聞かせてください。
 

航空自衛隊のジェット戦闘機の部隊ができるというときに
源田実さんから、私に電話がかかってきたんですよ。
「お前、来い」と。いうて。
そいで、よっしゃ、いったろ、とは思っとったんだけれども
願書を送ったら、私が試験を受ける資格が無かった。
その当時は、戦時中に準士官以上。それか大学出以上でなければ
受験資格はないという事やったんで。 それで私は源田さんにすぐに
「私は受験の資格がないから受験しませんと」伝えたら
「えー、そうか」いうて、源田さん驚いていたけどな。
 
それから二年後ぐらいに、予科練出でも航空自衛隊の
ジェット戦闘機の部隊に行けると決まりが変わりましてね。
 
(2)へ続く
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
※1、杉田庄一、日光安治は343空で戦死。
※2、笠井氏は零戦を一貫して「レイセン」と称した。

2016年8月27日 (土)

74式戦車 富士総合火力演習見学

74式戦車

74式戦車

富士総合火力演習の見学に行ってきました。
戦車の発射音は雷鳴の如く、空気の壁が衝撃波となって
ぶつかってきます。映像だけではわからない体験でした。
 
今年も陸海空による離島奪還のシミュレーションが行われました。
もし、尖閣が奪われたら実際にこの通りのオペレーションが
下令されるのでしょうか。

 
日頃より当ブログを応援してくださっているA様から、超貴重品の
チケットを頂戴しまして、行くことができました。
A様、このたびは本当にありがとうございました。

2016年8月25日 (木)

エヴァ500系新幹線

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新大阪からEVA500系「こだま」号に乗り換え岡山へやってきました。
車内は夏休み最後のちびっ子でいっぱい。我々大きいお友達は自粛します。
 
運行スケジュール上は「こだま号」なので、
たまたま乗り合わせたお客さんは面食らっていました。
 
新大阪~博多間を一日一往復しております。
運行スケジュールは専用サイトからご覧になれます。
http://www.500type-eva.jp/entry/timetable.html

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2016年8月23日 (火)

零戦パイロットが語る空母「翔鶴」への着艦・発艦方法

「翔鶴」「隼鷹」で、航空母艦の零戦パイロットを経験された
増山保雄氏(元海軍大尉。大正10年生まれの95歳)に
航空母艦への着艦・発艦手順についてインタビューした一部を紹介します。
 
増山氏は「隼鷹」でろ号作戦に、「翔鶴」でマリアナ沖海戦に参加された
零戦パイロットのお一人です。マリアナ沖海戦では
翔鶴の上空直掩を行いましたが翔鶴は沈没。救助され生還しました。
 
お話しくださった全容は
『帝国陸海軍航空戦史』(仮)に収録予定です。
 

零戦パイロットが語る航空母艦「翔鶴」への着艦・発艦方法
YouTube: 零戦パイロットが語る航空母艦「翔鶴」への着艦・発艦方法

2016年8月20日 (土)

ついに発売になりました

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ついに発売になりました。
『語りつぐ戦争 とちぎ戦後70年』
 
お近くの書店の目立つところに置いてあります。
私の記事は合計4ページにわたって載せて頂きました。
本の内容は、実際に出征された方の戦争証言をメインに、銃後の暮らし、
そして現代で語り継ぐ活動に携わる方の思いを集めたものです。
 
第21回平和・協同ジャーナリスト基金賞」奨励賞受賞。
日本全国で大変評価された企画です。